二度生まれる獣
第三十一話〜第三十五話
【第三十一話】
陰気な空気が鼻につく。
暗い玄関で靴を脱いで、そのまま目の前にある階段に足をかけた。
「里子」
居間の扉が横滑りにひらいて、疲れた顔の女が顔を出した。
「帰ったならただいまぐらい―――」
「ただいま」
切り返すように言えば、彼女は顔をゆがめた。
何が不満なの。あなたのいう通りにしたじゃない。
不満そうな顔をするくせに、何も言わない。
無言の沈黙で責めているつもりなんだろうか。
あなたはいつもそうだ。
無言の圧力で、傷ついたそぶりで、わたしをねじ伏せてきた。
困った顔をすれば、私がいつも従順になると思っている。
「夕飯は……」
「いらない」
「あなた最近全然」
追いすがる言葉は、無視した。
悲壮な顔をすれば、全て願望が叶うとでも思っているの。
「里子!」
昔のわたしなら多分、その金切り声に身を竦めていただろう。
振り返って、ごめんなさいとひれ伏すのだろう。
今はただ、かわいそうだと思う。
かわいそうな人。
すすり泣く気配が徐々に階下に遠ざかった。
一体どれだけ、そんなふうにわたしが、見えない場所で泣いたか知りもしないで。
世界一不幸な顔をするなんて。
なんて独り善がりの涙だろう。
「キショイんだよ、オマエ」
全力で投げつけられた声だった。
階段を上りつめたところだった。
手前の部屋のドアが開いて、怒鳴りつける勢いだった。
この、弓矢のように直球の言葉にも何度傷つけられたことだろう。
自分よりも後に生まれた血の繋がった生きものの視線や言葉に、いつも怯えていた。
いつでも剥き身の刃のようだ。その言葉がどれだけの殺傷能力を持っているのか、まったく気付いていない。
無知の凶暴さ。
視線を流すように、相手を見る。
一回り以上大きな体をおそろしいと思っていた。
「オマエ、どっかおかしいんじゃねぇの。病院行ったら」
ブス、根暗。ハズカシーんだよ。キショイ。どれだけ浴びせ掛けられたか分からない言葉の毒。
どうしてこんなにこの人は恐ろしいのかと。ずっと身を縮めて聞いているだけだった。
けれどそれも、ただの防御壁なのでしょう。有刺鉄線と同じだ。
傷つけられる前に牽制する。
かわいそうに。
「何笑ってんだよ、てめぇっ」
気色ばんで、弟が怒鳴った。
以前は雷よりも怖かったその声も、なんだか取り乱していて、可笑しい。
だって、可笑しいじゃない。
「わめいているだけじゃないの」
笑ってしまう。
「ただ人を傷つければいいと思ってるんでしょ。不恰好だわ」
「何ッ―――」
「そうでもしなきゃ、自分を守っていられないの? 無様ね。卑小だわ」
「キショイんだよオマエ! いきなり態度デカくなって! オフクロにも酷いこというし! 何なんだよ、バケモノみたいな目ぇして!」
いつも、吠えるにしてはボキャブラリーがすくない。必死に怒鳴っているのが、滑稽ですらあった。
この人はきっと、わたしが何をしても気に入らないんだろう。
窓際で本を読んでいると、暗いと怒る。
恰好がダサいと罵倒する。
学校で声をかけると、構うなと怒鳴る。
いじめられてるの恰好悪いから、なんとかしろよ。そういわれたのは中学の頃だったろうか。
わたしの何もかもが、おそらく気に入らないのだ。
学校の空気があまりにもよどんでいて、うまく呼吸が出来ないからと学校を休むと。
登校拒否なんてしてんなよ。呆れたように吐き棄てる。
どうしてあの空気がわからないのかと思っていたけれど。
分かるはずもなかったのだろう。
「そうよ、ばけものだもの」
弟の言葉を肯定すると、彼はぎくりと身を強張らせた。
わたしはあなたたちとは違う。
違う生きものなのだもの。
幽霊に出くわしたような顔をして立ちすくむ弟の、部屋の前を通り過ぎた。
今、この世界を埋め尽くしているのが人だとして、わたしがそれ以外の生きものなら、それはばけものと定義されても仕方がない。
あなたたちと同じような生き方は出来ない。
あまりにも、滑稽すぎる。
鈍感ないきものたち。
この世がどれだけよどんでいるかも気付かないで。
自室の扉を手前に引いて、体を滑り込ませる。
照明をつけずに、ベッドに腰掛けた。
顔の前に右の掌をかざす。
掌の輪郭が青く光りはじめ、やがて、中央にぼんやりと青い火が浮かんだ。
ほら。
手の内でゆらりゆらりと揺れる焔の、青白さ。
わたしはもう、人ではない。
【第三十二話】
屋上へと続く扉が再び開かなくなっている。
その報告を受けたのは、文化祭の数日前のことだ。
岡崎咲子に憑いた自殺した少女の怨念で、全てが祓えたと思っていたのは、甘かったのだろうか。
そればかりではなく、問題の東棟では突然窓ガラスが割れたり、物が倒れたりという現象が頻発しているらしい。
事態は悪化しているようだ。
(とは言っても)
現場は実はもう、何度となく見ているのだった。
空気がよどんでいるのは分かるが、具体的な原因がわからない。
様々なものが絡み合っているような。
文化祭では、東棟にも人を入れる。
その前にもう一度見ておいてくれないか、と真堂に頼み込まれて職員室を出た。
授業は既に終わっていて、文化祭を控えた校舎はどことなくイレギュラーな熱気に包まれていた。
懐かしいと、思った。
(東棟、か)
思い返せば、在学中からあまり好きな場所ではなかったことを思い出す。
選択授業で週に一二度使うだけだから、あまり苦にはならなかったけれど。
美術室や音楽室が点在するその空間は、どことなく陰気だ。
得体の知れない感覚は、うまく処理できないから嫌いだ。
こういうときになぜだかやめたはずの煙草を吸いたくなるのは、おそらく元同居人の癖のせいだ。
同じ道を辿るのも嫌なので、その欲求に気が付かないふりをする。
「英さん」
職員室がある西棟から、東棟へと続く渡り廊下で、声をかけられた。
聞き覚えのない声で、鋭かった。
振り向いた先に、小柄な女子生徒がいた。
肩のあたりまで伸ばした髪に、細身の体。目だけが強かった。
こちらを射竦めるような強い力だった。
「英要さん」
少女は、フルネームで名前を繰り返した。
まばたきもせずにこちらを見据える目を、要は何も言わずに見つめ返す。
少女の黒い瞳は、ふかい。
一歩足を踏み入れたら、体全てを飲み込まれてしまうような、底なしの沼に似ている。
「君は?」
静かに要が名を問うと、少女は頤を持ち上げる。
すぅっと目を細めると、汚物を見るような顔をした。
「あんなに、言ったのに。どうして掻きまわすの」
緩慢に一度、少女がまばたいた。
「ひとごろし」
*
光景を目の当たりにしたのは、おそらく偶然なのだろう。
数日後に控えた文化祭の準備で、文化委員会は上を下への騒ぎだった。
東棟にある美術部の展示場。委員会から手渡された資料を片手に、確認に訪れていた。
いつもは煩雑に机や椅子やキャンバスが広がっている美術室は、部員の手ですっかりと片付けられ、がらんとしていた。
必要最低限の分を残して、机や椅子は撤去されている。
これからここに衝立などを作ったりして、絵を飾る。
受付は前側のドアの外で、順路に従って絵を見た後は、後ろ側の扉から出るようにセッティングする。
(こんなものかな)
ぐるりと室内を見回してから、後ろ側の扉に向かう。
(ここから外にでて―――)
「君は一体何がしたいんだ?」
横滑りの、どこの校舎にもよくあるような扉に手をかけたところで。
扉の向こう側から唐突に声が聞こえた。
足音が、少しとおくから近づいてくる。
ひとつではなかった。
扉に手をかけたまま、動けなくなってしまった。
聞き慣れた声だったから。
「あなただってわたしと同類のくせに」
淡々とした抑揚のない女の声に、私は思わず口元を覆う。悲鳴をあげそうだった。
どうして?
「それなのになんで、自分ばっかり正しいような顔をするの」
「そんなつもりはないよ」
「うそ」
冷たい声が即座に切り返した。
足音が、美術室の前を通り過ぎてゆく。
ここから先になんて、何もないのに。
あるのは階段ぐらいだ。屋上へ続く―――。
完全に人の気配が通り過ぎて、足音も聞こえなくなってから、ドアを開いた。
横に滑る軽やかな音が、なぜかとてつもなく大きく響いて、息を飲む。
廊下には、もう人影はなかった。
足音が向かった先は、確かに屋上へ続く階段がある方向だった。
未だ立ち入り禁止は解かれていないはず。
どうして、英さんと尾上さんが話をしていたんだろう?
どうして屋上なんかに。
―――あの人殺しの男の……。
憎しみを込めたような尾上さんの声が蘇った。
少しだけ逡巡してから、持ってきた資料を美術室の中に置き去りにする。
足音の消えた方向に歩き出した。
【第三十三話】
ひとごろし、と相対した少女が言った。
害虫を蔑む目をしていた。
倭から受け取ったコピーの束を思い出した。
最後の一枚。
大きな字で縦に。
「ひとごろし」と。
「君なのか?」
探りを入れるつもりで、わざと主語もなく問う。
尾上里子は何も言わずに歩を進めてきて、要のすぐ傍を通り過ぎる。
東棟の方へ歩き出した。
「忘れていたんじゃない」
歩を進めながら、声を投げてくる。緩まない足取りに従うように、要はその背を追った。
「自分がどういう生きものなのか、あなた忘れているのよ」
肩で風を切る勢いで、里子は東棟の階段を上る。
「どうして普通の人間のふりをするのよ」
人気のない廊下には、声がよく響いた。
「ふり?」
「変な力を持っているのに、人だなんて虫がいい話じゃないの」
「君はそれを見たわけじゃないだろう」
「殺したんでしょう」
踊り場で急に振り返って、強い言葉で里子は決めつけた。
「母親」
数段下方にいる要を見下すように、顎を逸らす。
言い返さずに、要は黙った。
どこから知ったのだろうか。そこまでは新聞は勿論、週刊誌も踏み込んではいなかったはずだ。
憶測として載せていたところもないわけではないが、それを鵜呑みにしたんだとしたらあまりに短絡的過ぎる。
要が黙り込んだことに気をよくしたのか、口の端だけを少し持ち上げる。
紅もさしていないのに、やけに唇が赤かった。
気圧されたわけではなかった。ただ、様子を探ろうと思っていた。
何かがおかしい。決定的に何かが違っている。
「あんたなんて大嫌いよ」
憎憎しげに吐き出して、里子は再び階段を上り始める。
目的地なら、もう分かっていた。ここまで来たならば、あそこしかないのだろう。
「蔑まれて、つまはじきにされるのは、いっつも人間が持っていない力のせいでしょう。なのにどうしていつまでも媚びを売るように"そっち側"にいるの」
「そっちとかこっちとか、分けることに意味はない。結局同じ領域で生きている人間だろう」
「アッハハハハハ! やめてよ」
心底おかしい冗談を聞いたように、里子が声をあげて笑う。
「どこまで優等生みたいなこと言うの。散々みじめに貶されて傷つけられてきたくせに、まだ分からないの」
理解の遅い子どもを憐れむ顔で、上から里子は要を見下ろした。
階段の、最後の一段を上りきる。
そのまま、左手に伸びた廊下を歩き始めた。
「君は一体何をしたいんだ」
躊躇いのない足取りを追いながら、その背に問うた。
答えはない。
「あなただって私と同類のくせに、それなのになんで自分だけ正しいような顔をするの」
化学実験室と美術室の並びを通り過ぎ、突き当りを曲がれば屋上へ続く階段がある。
やはり、そこへ向かっているのか。
「そんなつもりはないよ」
「うそ」
一刀両断するように、斬り捨てられた。角を折れる。
「もっと早く気付くべきだったんだわ。劣ってるわけじゃないってことに」
突き当たり、再び南京錠で施錠された扉の前で、里子が立ち止まる。
「こういう力があることが―――」
がちん、と。音を立てて南京錠が外れた。
勿論手など触れていない。
勝手に、外れた。
「悪でもなんでもないってことにね」
金属質の音を立てて南京錠が床に転がり落ちる。肩越しに要を振り返って、里子は少しだけ笑う。
「わたしたちは数が少ないからどうしても虐げられる。だから誤解するのよ。人間に容赦されて、憐れまれて、"ゆるされて"生きていかなきゃいけないってね。人間のまねをして」
里子の細い指先が、観音開きの扉を掴んで、手前に引いた。
耳障りな軋みを立てて、扉が開く。
「人間って、どうしようもないでしょう」
空いた隙間から体を滑り込ませて、里子はさらに上へゆく。
篭ってよどんだ、どこか肌に張り付く空気を越えて、屋上への扉に手をかけた。
「何かと引き比べて、自分よりも劣ったものを罵倒しなきゃ、自分を守っていられないの。それぐらいもろいのよ。だから、少しでも異端のものは容赦なく攻撃する。わたしたちが何とか人間のように生きていこうとしたって、彼らは全然容赦しないわ。血眼でわたしたちのことを見抜いて、そこを徹底的に抉るのよ。そうして自分を守るの。そのための餌にされるんだわ」
開かれた扉のむこうの、青い空がひたすら眩しかった。
四角く区切り、切り取られた空に、雲がいくつも。
「どうして後ろめたさを感じて、縮こまって隠れていないといけないのよ。わたしたちが劣っているわけじゃ、決してないのに。絶対多数に対して少数だから? 馬鹿みたいじゃない」
里子のあとを追って階段を上り詰め、屋上に出た。
少女は既に、屋上の風にスカートを翻すようにして、屋上の中央あたりにたってこちらを見据えていた。
「許しを乞う必要なんてどこにもないのよ。認めてもらいたいとか、分かってもらいたいとか、好かれたいとか、そんなのどうしようもないことだったのよ。だって、別の生きものなんだもの。理解しあえなくて当然よ」
もっと早く気付けばよかった、と里子が肩を竦めた。
「どうしてまわりの人間が皆、わたしをばけものを見るような目で見るんだろうと思ってたけど、間違いじゃなかったの。自分以外の、わけの分からないものが怖かったのよ。でもわたしは自分のことを知らなかったから、とってもかなしかった」
気付いたの。
わたしと人は違うって。
人には見えないものが見えて、人とは違う力があって。
それでも人だと思っていたけれど。
違うのだって。
人間はあまりにも卑小で可哀相だ。
大多数と溶け合えなければ不安で気が狂ってしまうような。
馴れ合う温度がなければ不安で泣いてしまうような。
そんな小さな生きものに媚びをうったり許される必要なんてどこにもなかった。
ひとりで立っていられるのだもの。
「僕も君も、ただのひとだ」
朗々と続く演説を切るように、強く、要が言った。
「他の人とは少し違う。それでも、ひとだよ。他の何でもない」
「いい加減にしてよォッ!」
突然爆発したかのように、里子が怒鳴った。
「ふざけないでよいつまでそんなこと言ってるつもりなんだよ、無様なんだよオマエッ!」
みるみるうちに、里子の瞳が水気を増す。
飽和して零れ落ちそうなほど、瞳の表面に、涙の膜。
「ひとじゃないから罵られるんだ、つまはじきにされるんだろ! 汚いとか、殴られるんじゃないかっ!」
どう、と。生ぬるい風が面に吹き付けた。要は目を細める。
「親にまで憐れまれて、兄弟から罵倒されてそんなの、ひとにする仕打ちじゃないだろ!」
「特殊な力を持っていることは優越なのか?」
燃え盛る火に、大量の冷水がかけられたように。
里子の勢いが唐突にしぼんだ。
「蔑まれて罵られることは全部、その力のせいなのか?」
きょとんとして、里子がまばたいた。
はらりと、頬に涙が落ちる。
「力のせいにして逃げるなよ。君の方がよっぽどかわいそうだ」
「うるさい、うるさい黙れ、黙れっ!」
「―――!?」
見えない圧力が、首にかかる。
圧縮するように、締め上げた。
「人間に、こんなこと出来ないだろ。これでもわたしのことを人間だって言うの」
「これ、は」
ぎりぎりと気道を狭める圧力に抗って、要は何とか声を絞り出した。
「これは君の、力なんかじゃ、ない」
【第三十四話】
南京錠が、廊下の端に落ちていた。あの日のように。
扉が少しだけ開いている。誘うように。
内容までは聞き取れないけれど、会話が先程から聞こえていた。
音を立てないように、さらに扉を手前に引いた。努力も空しく、古い扉は大きな軋みを立てたけれど。
目の前に開けた階段。その狭い空間には、いつもぬるい風が吹いていた。
肌に張り付くような、重い風。
数段階段を上ったところで、屋上へ続くもうひとつの扉が耳障りな音を立てて揺れた。
向こう側から思いっきり叩きつけたような音だった。
「死ね! 死んじまえ!」
悲鳴のような金切り声が扉を一枚隔てた向こうから聞こえてくる。
我儘を叱られて泣き叫ぶ、幼い子どもの声に似ている。
残りの数段を駆け上って、屋上へ続く扉を向こう側に押し開こうとする。
少し押したところで、鈍い衝撃と共に扉がそれ以上開かなくなった。
僅かな隙間から首を差し込んで、扉の開放を妨げている何かを見て。
思わず息を飲んだ。
「英さ―――」
扉のすぐ傍に、人の体が転がっていた。
うつぶせに投げ出した体を、ゆっくりと起こす。うな垂れた首が、コンクリートにつきそうな近さだ。
扉が押し返されて、腹のあたりにノブが当たった。吹き付ける熱波に、扉が自ずと閉まろうとする。
結いもせずに伸ばしたままの髪が、ばらばらと視界を遮って、前はよく見えなかった。
「君って本当にどうして」
ようやく立ち上がった英さんがすぐ傍で、自分の首を右手で擦りながら、私を少しだけ振り返る。
「タイミングがいいんだか悪いんだか。……少なくとも今は、来ないほうが良かったよ」
呆れと諦めと困惑とを一遍に混ぜ込んだような声で、呟いた。
「倭ちゃん」
耳元で泣くような音を立てる風がふと、ゆるんで。
散々視界を邪魔していた髪の毛が、ばさばさに乱れて肩に流れ落ちた。
その向こう側に、彼女が立っている。
扉を押し返す圧力が消えた。鉄の扉をさらに向こう側に押しやって、屋上に踏み入れる。
目のまわりを赤くして、こちらを見ていた。頬に涙が伝ったあとがある。
「倭ちゃんなら分かってくれるって、思っていたのに」
涙で潤った瞳は鏡のようだった。
きらきらと、光を跳ね返して輝いていた。
影、が。
尾上さんの足元から蛇のように湧き出してきた。
黒い帯のような。無数の腕。
小柄な体を絡め取るように、まとわりつく。
「分かるでしょう、夢喰いなんだもの」
せつなそうに目を細めると、新しい涙が目じりから落ちる。
「どうしてわたしばっかりつまはじきにされるのかって思ってた。指を指されて、笑われて、酷い言葉を吐きかけられるのかって」
数多の黒い腕が腕に絡みつき、足にまとわりつき、徐々に尾上さんの体を覆い尽くす。
「しょうがないのよ。わたしが、ばけものだから」
掲げるように、尾上さんが右腕を持ち上げる。顔のすぐ傍まで持ち上げた掌が、ぼんやりと光を帯びて、やがてその中央に青い炎が灯った。
腕にも、掌にも、指の一本一本にも、絡まる黒い影。
「苦しみを分け合えるって思ったの、倭ちゃん、あなたとなら」
「やめろ! 本当に呑まれるぞ!」
鋭く怒鳴る英さんの声が聞こえないかのように、尾上さんは一歩、こちらに足を踏み出した。
「わたしたちは間違ってここに生まれてきてしまったのよ。孤高の獣(けだもの)なの」
「孤、高……?」
「そうよ。人間て、低俗で醜くてどうしようもないって、わかるでしょ? 別の生きものなのよ、そいつらとは」
「醜いのは、こっちのほうじゃないの?」
孤高の獣なんて、恰好いいものじゃない。
蔑まれても仕方がない。
尾上さんはわずかに目を瞠って、こちらを見た。
「人を食い物に生きていくのに、孤高だなんて」
私にはとても言えない。そんなこと。
「私は、人に生かしてもらってるんだもの」
依存して、もたれかかる。
脆弱ないきものだ。
「人がいないと、生きてゆけないんだもの。孤高なんかじゃない。害虫と一緒だよ」
ひとりでは、立っていることも出来ないんだ。
様々な手に支えてもらわなきゃ、歩くことも。
「もうやめないか」
棒のように立ち尽くす尾上さんに、英さんが言った。
落ち着いているけれど、強い声で。
「君は憑かれているだけだ。その力は元々、君のものじゃない」
ぽかんと、呆けたような顔をして、尾上さんが私たちふたりを見比べる。
「嘘」
「嘘じゃない。これ以上続けたら、君の意識は飲み込まれて、消されてしまう」
「嘘! でたらめ言わないでよ!」
尾上さんの足が、よろめくように一歩、後ろに下がった。
「そんなの、おかしいじゃない。それならなんで、なんでわたしばっかり……」
蠢く無数の黒い腕が、後ろ側から尾上さんを抱きとめるように絡まりつく。
縛り上げるように、まとわりつく。
「なんで、わたしばっかり傷つけられるのよ。おかしいじゃないっ……!」
火傷するような熱波が、正面から叩きつけられた。
背後で物凄い音を立てて扉が閉まる。
フェンスが今にも壊れそうなほどに軋んだ音を立てて揺れた。
【第三十五話】
だって、特別じゃないなら。
どうして受け容れられないの。
特別で、異物でないのなら。
どうして溶け合えないの。
拒まれるの。
認めてもらえないの。
バケモノじゃなきゃ。
ばけものじゃなきゃいけないのに。
そうじゃなきゃ。
惨めなのはわたしじゃない。
ただ笑いものにされているだけなんて。
同じ生きものに見下されているだなんて。
認めたくない。
誰か、おまえは人間じゃないから拒まれるんだって言ってよ。
わたしが人間だとしたら、ただかわいそうなだけじゃないの。
惨めなだけじゃないの。
そんなの。
*
「ずるいじゃないのよォッ!」
よろめいた足取りで後ずさって、尾上さんは金切り声を上げた。
「あんたたちだけ、ずるいじゃない!」
頬を撫でる風が熱をはらんで、痛い。
台風の只中にいるかのように、髪も服も、四方八方にはためいた。
黒い腕が、尾上さんの体を包み込むように後から後からうまれてくる。
まるでコンクリートの中に引きずり込もうとするように。
「どうしてあんたたちにだけ、逃げ道があるのよ、ひどい―――!」
給水塔が仕舞い込まれている小さな小屋。その小屋の壁に背中からぶつかって、尾上さんはそのままずるずると座り込んだ。
「……の、くせに」
糸の切られた操り人形のようにぐったりと四肢を投げ出して、とても重たそうにうな垂れた尾上さんの口から言葉が落ちる。
風の音やフェンスの軋みがうるさくて、よく聞こえない。
「あんたたち、ふたりとも、……しの、くせに」
きつく握り締めた右の拳を、自棄になったかのようにコンクリートに叩きつけた。
「人殺し、人殺しのくせにあんたたち、どうしてそんな、平気そうにっ!」
勢いよく頭を持ち上げて、涙で濡れた瞳で尾上さんはこちらを睨みつける。
「ふざけないでよ! ばけもの! 人殺し! なんであんたたちにあってわたしにないの!? ひどい、ひどい!」
ひどい、と繰り返して尾上さんは両手をがむしゃらに地面に叩きつける。
頬を打つ激しい風に、うまく目も開けていられない。
尾上さん、と名前を呼んだつもりだったけれど、自分の耳にすら声は届かなかった。
黒い帯が、座り込む尾上さんのまわりで渦巻いて、小柄な体に吸い込まれるように消えてゆく。
顎を逸らすようにして、尾上さんは空を仰いだ。
重々しい鼠色の空から、糸のような雫が落ちてくる。
細く、頭や剥き出しの腕に注ぎ、やがて大粒の雨になる。
ばちばちと火花のような音を立てて、コンクリートが白くけむるぐらいにまで。
冷たくて、痛い。
発砲音のような乾いた音が響いた。
左手側のフェンスが、鋏でぱちんと切ったかのように簡単に、裂けた。
無惨な裂け口をさらけだして、吹き荒れる風にぎぎぃとゆれる。
フェンスのほかには柵も何もないそこは、空への入り口のようにぽっかりと口を開いている。
容赦のない雨に、打たせるままに顔を向けていた尾上さんが、緩慢に裂けたフェンスを見た。
ぼんやりとフェンスとフェンスの隙間を見つめて、僅かに唇を動かす。
雨音と風にかき消されて、声までは届かない。
ゆらりとふらつきながら、尾上さんが立ち上がった。
まばたきを忘れたような瞳は、虚無ばかりを湛えている。
よろめきながら、一歩。
歌でも口ずさむように唇を動かしながら、また一歩。
尾上さんの足が、裂けたフェンスの方へ向かう。
「危ない…」
「尾上さんっ―――!!」
絶叫を、他人事のように聞いた。
自分の声に聞こえなかった。
足元で激しく水の跳ねる音。
気付いたら、水を跳ね散らかすように、尾上さんに駆け寄っていた。
後ろから、羽交い絞めにするように抱きついた。
「……れ、た」
弱々しい力で、少しだけ抵抗する。
尚も前に進もうとする体を、強く抱いて引き止めた。
こちらの腕を振り払おうと体を捩って、よろめいて、そのまま地べたにずるずると座り込む。
重みを支えきれずに、私もそこに座り込んだ。
「……のに」
膝を抱えて、体を縮めて、小さく震えている。
「がんばった、のに。みんなと、おんなじにしなきゃって、がんばったのに、もうつかれた」
しゃくりあげる震えが、触れた肌から伝わる。濡れた肌は、すっかりと冷えていた。
「誰にも心配、かけたくなかっ……」
叱られた子どものように体を縮めて、嗚咽を必死に噛み殺す。
心配をかけたくなかった。
大丈夫だから、と。
私のことは心配しないで。
ひとりで立って、歩けるから。
―――倭、お父さんのことお願いね。
痩せ細った母の顔を、思い出した。
私が五つの時に、母は病で逝った。病弱で繊細だけれど、芯の強いひとだった。
あたたかい腕に抱かれたときに、とろとろと眠くなるようなぬくもり。
まだ覚えている。
―――お父さん、寂しがりやだから、しっかり倭がついててあげてね。
私の髪に指を絡めるようにして、優しく撫でながら、痩けた頬で微笑む。
かわいそうなぐらい痩せてしまったお母さん。
とても寂しそうな顔をするから、私は強がったのだった。
幼心に、母を喪う恐ろしさはぼんやりとした恐怖として棲んでいたけれど。
かなしい顔をしてほしくなかったのだ。
だいじょうぶよ、おかあさん。
わたし、だいじょうぶだから。
しっかりするから。
おとうさんと、がんばるから。
人前では泣かなかった。
本当は寂しくて仕方がなかったのに。
大丈夫。
母の傍にいるときは笑顔だった。
そうしなきゃ、お母さんが困る。
私が泣いたら、困らせる。
私も、誰にも心配をかけたくなかった。
この内側に飼っている、どうしようもない獣のせいで、誰かが困ったり傷ついたり泣いたりするのは。
嫌。
絶対に、嫌だった。
【続く】