二度生まれる
第三十六話〜最終話

【第三十六話】

「どうして、平気なの」
 泣きつかれて、掠れた声が傍で聞こえた。
 吹きすさんだ風は徐々に収まって、フェンスの軋みもとまり。
 雨脚も少しずつ弱まった。
「笑われるのは嫌なの」
 くぐもった声が聞こえる。膝を抱えたままで、まだ尾上さんは小さく震えていた。
「幼稚園で、おひさまを緑に塗ったときも、小学校のテストで三匹のこぶたの弟はひどいって書いたときも、おかしいって。バツを貰って帰ると、お母さんが怒るの。どうして、ひとと同じに出来ないの。駄目な子ねって」
 小さくしゃくりあげる気配と、かすかな震えが、腕に伝わってくる。
「うまくいかないの。皆と同じでいようとするのに、うまくできないの頑張ったのに。笑われたくなくて、お母さんが困るのも嫌で。頑張ったのに、ちがう、って言われて。くるしかった」
 触れ合った部分から、鼓動の音がしみてくる。さっきまでは早鐘のようだったのに、少しずつ落ち着いてきて、心地よかった。
「どうして、平気なの? 平気でいられるの?」

 平気?
 私。平気だっただろうか。

―――倭、お願いね。

 母のやさしくて、寂しそうな声。
 うん。大丈夫、平気。私、平気だから。
(ちがう)
 心配されたくなかったから、強がったのだ。


 平気じゃ、なかったのかもしれない。
 ずっと、私は母との指切りを守っていたのかも、しれない。

 母の墓石の前で、かわいそうなぐらいに憔悴している父を見て、握った手に力をこめた。
 優しくて、繊細なお父さん。彼と過ごす、残された時間だけは、かなしい思いをさせないように。
 心配させないように。
 私は凛と顔を上げていた。
 いずれ繋いだ手を離すときがくる。そのときまでは。
 笑っていたい。笑っていてほしかった。


「平気じゃ、ない」
 唇が、勝手に動いた。
 頭の制御を外れて、勝手に言葉が溢れて、どうしようもなくなって、急に泣きそうになった。

 鮮やかに蘇る情景は、家にひとつしかない和室。
 私は唐突に、本当に唐突に、思い出した。
 あの日の―――父を喰った日のことを。
 覚えていないと、忘れてしまったと、ずっと思っていたのに。
「平気じゃ、なかった」
 忘れたと、思い込んでいたのは。思い出したら辛いからだ。
 平気だ、平気だ。辛くない。
 必死に化け物と、自分に言い聞かせてきたのは、そうでもしなければ立っていられないほど寂しかったから。

 あの日、父は、泣いていたのだ。


            *


 畳の網目、つぼの置かれた床の間の表面の、ぬめるような漆の光沢。
 向かい合わせて座った父と、しばらく黙ったままで向かい合った。
 もうずっと言い聞かされてきたから、覚悟は出来ていた。
 彼と別れる日がくるのだと思った。
 互いに納得していたから、今更湿っぽい話は何もしなかった。
 ただ、雨の中、母の墓石の前で握り合わせた手の温度だけを思い出していた。
 俯いて、顔を見ないようにして。落ち着いているふりをして、指先が小さく震えていた。

 倭、と。
 少し上ずった声に名前を呼ばれて、驚いて顔を上げた。上げてしまった。
 どうして泣くの。私は、大丈夫―――。
 取り繕おうとする言葉を途中で遮られた。
 きつく。

 抱き締められたのだ。

 小さな手を、軋むぐらいに握り返されたように。
 痛いぐらいに。

―――倭。ごめんな。

 この体を掻き抱く腕が、落ちてくる言葉が震えていた。

―――ひとりにして、ごめんな。

 私は体の両側に腕をたらしたままで、呆然としていた。
 嗚咽がどこからか聞こえてきた。
 私の咽喉だった。

―――倭。
 上ずった声に名前を呼ばれて、息も出来ないぐらいに抱きすくめられて、何かがくずれた。
 いやだ。
 泣きじゃくる子どものような声が咽喉から出て。
 気付いたら頬を涙が落ちていた。
 強張った腕を持ち上げて、父の背に、縋りついた。


 死な、ないで……。


 ひとりで、置いていかないで。
 さみしい。
 どこにも行かないで、ずっとここにいて。
 繋いだ手の温度とか、抱きすくめてくれる鈍い痛みとか。
 離したくなんかない。

―――愛してるよ、倭。

 縋りつくように抱きついた体から、少しずつ力が失われてゆく。
 いやだ。
 我を忘れて、泣きじゃくった。いやだ、やめて。
 こんなのひどい。
 誰か、誰か助けて。
 私なんてどうなってもいいから、助けて。
 おかあさん、と。
 重みを任せてもたれかかってくる父の体を抱きとめて、叫んだ。
 おかあさん、助けて。
 助けて―――。


 平気だなんて、嘘。
 本当はいつも寂しかったの。
 困らせたくなくて、笑っていてほしくて、ずっと嘘ついていたの。
 自分にも。
 平気だって、言い聞かせなきゃ、いつも叫んでしまいそうだった。


 重みを支えきれずに、父の体が畳みに転がる。
 私は呆然とその顔を見下ろした。
 輝いているのは、涙の通ったあとだ。


 あの日父は、私の体をきつく抱いて。
 泣いていた。


 思い出した。




【第三十七話】

 雨は、いつのまにか上がっていた。
 目がちりちりと、小さな針で刺されているように痛かった。
 雲の切れ間から零れ落ちてくる細い光を、コンクリートに出来た水溜りが跳ね返し、きらきらと輝いた。
 腕の中に抱き込んでいた尾上さんの体が傾いで、地面に崩れ落ちた。
「尾上さん……!」
 糸が切れた人形のように濡れたコンクリートに崩れる小柄な体を、横から伸びた腕が抱き起こした。
「……大丈夫。ただ気を失っているだけみたいだ」
 規則正しい呼吸を確かめてから、英さんが安堵の吐息と共に漏らした。

 ぺったりと私は床に座り込んだままでいた。
 体に力が全く入らなかった。
 雨は止んでいるはずなのに、頬を幾筋も雫が伝って落ちる。
 止められなかった。
 必死に嗚咽を噛み殺そうとするのに、堪えきれなくて、小さく体が震えた。
「一緒に、いたかった、のに」
 誰の声? こんなに掠れた、上ずった声なんて聞いたことない。
「本当はずっと、一緒に……」
 生きていきたかった。
 もっともらしい理由をつけて、割り切ったふりでもしないと、辛すぎた。
 気が狂いそうなぐらいに怖かった、のだ。
「全然、平気じゃ、なかっ……」
 覚悟はしていても、その日がくることがとても怖かった。
 繋いだ手を、離したくなかった。


 ふと、伸びてきた手が私の肩に周り、力をこめて引き寄せた。
「誰も」
 濡れたワイシャツに、額が触れた。どこからか滴って落ちてくる雫が、頬や腕に落ちる。
「誰も別れたくて、別れる人なんて、いないよ」
 触れ合った場所から声が生む振動が伝わるほどに近く、温度がある。
 体の強張りを解いて、英さんの肩に頭をもたげた。
 ずぶ濡れで、生ぬるい温度にまた、泣きたくなる。


 大事で、どうしようもないほど大事で愛しい温度も。どんなに強くきつく手を握り合わせていても。
 無理矢理、指先を解かれてしまう。
 私たちはどうしてこんなに、かなしいのだろう。
 ばけものだから?
 違う。
 さびしい獣。
 傍らの、愛しい人々から、何かを奪わずには生きられない、雑食の獣だからだ。
 はじめから心に空いている、どうしようもない穴があり。
 抱える虚無を埋めたくて、たくさんのものを強請る。
 与えられなければ、喰らいつく。噛み千切る。
 血を流させる。
 凍えそうで、抱き締める。掻き抱く。掻き毟る。

 ひとりでは誰もさびしくて、生きてゆけない獣。
 私がさびしいのは、夢喰いだからではない。
 人という、どうしようもなく凶暴でもろい生きものだからだ。


 泣き止まない背を、穏やかに擦る手がある。
 この温度もいずれは、手離さなければいけない日が、きっとくる。
 その日が少しでも遠ければいい。
 そんなことを、少しずつ遠のく意識の片隅で、思った。


            *


 目覚めたら、いつのまにか兵頭の家の、自分のベッドに寝ていた。
 隣に、朝樹の小さな体があった。
 いつのまにか寝巻きになっていて、今までのことは全て夢だったのかもしれないと、少しだけ思ったけれど。
 髪がまだ濡れていて、夢ではなかったことを知る。
 いつの間に帰ってきたのだろう?
 ベッドの上で上体を起こすと、隣で寝ていた朝樹が身じろぎをする。
「ヤマト……?」
 目を擦りながら、小さな体を起こした。
「ごめんね、起こして」
「いいんだ」
 まだ眠そうな顔をしているくせに、恰好つけるように朝樹が言った。
「私、どうしたの」
 どうしてここにいるのだろう。
「学校で倒れたって、英さんて、男の人が連れてきてくれた」
「そう……」
 やっぱりあのあと、気を失ったのだ。
 なんだか、物凄く脆弱な生きもののような気がして、情けない。
「全部、終わったから大丈夫だって、言ってた。伝えておいてくれって」
 大きな瞳でこちらを見上げて、朝樹が言う。
 誰からの言伝かなんて、主語がなくても分かった。
 大丈夫だったのだろうか? びしょぬれだったけれど。

「心配した」
 私の左肩に頭をもたげて、細い腕をこちらに絡めて、やさしく言う。
「ヤマト、くるしそうだったから。なにも言ってくれないんだもん」
 怒ってるんだよ、ぼくは。大人びた口調で、つけくわえた。
 ごめんね。
 朝樹の髪に指先を絡めて、梳くように撫でた。
「全部、話すから。聞いてくれる?」
 髪を梳くと、撫でられた猫のように目を閉じる。

 この数週間に起こった出来事を、朝樹に説明しようとして、一体何から話したらいいものか分からなくて、戸惑った。
 目を閉じたままで、朝樹がくすくすと笑った。
「何でもいいよ」
 思いつくままに、しゃべったらいいよ。
 全部、聞くから。教えてよ。
 ヤマトは真面目だから、ちゃんと話をまとめようとするんだもん。
 大丈夫だよ。

 十二の子に穏やかに諭されている自分が、なんだか情けなくておかしくなって、笑ってしまった。
 そうだね。
 むずかしく考えなくてもいいのかもしれない。
 何も。

「あのね……」




【第三十八話】

―――根津 倭様

 本当は、会って謝るべきなのかもしれないけれど、とてもその勇気が出ませんでした。
 ゆるしてください。
 あなたや、英さんにどれぐらいの事をしたのか、私はまだ図りきれていません。
 ただ、わたしはとてつもなく孤独で、くるしかった。
 わたしひとりだけ、世界中から弾かれて、意味もなく苦しめられているんだと思っていた。
 自分が蔑まれていることを認めたくなくて、責任をどこかに押しやりたかった。

 あなたや英さんのことは、そのとき出入りしていた出版社のつながりから知りました。
 その人とは数度会っただけで、連絡先も知りません。
 ただ、夢喰いのことや、英さんのことをよく知っていたみたいです。
 私がこんなことを言うのもおかしいかもしれないけれど、気をつけてください。

 私はあなたのことが、憎かったのかもしれません。
 特殊な力を持っているのに、普通と同じように暮らしている。
 羨ましくて、妬ましかったのだと思います。
 あなたや英さんのような力があれば、私がつまはじきにされている理由になるとも思った。
 あなたが平然としていたから、尚更悔しかった。
 やっぱり、バケモノと自分は違うのかと思った。

 でもあの日、あなたに抱きすくめられて、その腕が震えているのとか、嗚咽を堪えているのとか、そういうものをなまなましく感じて、分かった。
 平気なんかじゃ、なかったんだね。
 ごめんなさい。


 学校は、辞めることにしました。
 自分で決めました。
 これから先のことは何も決まっていないし、親もびっくりしているみたいだけれど。
 とにかく何か、変えてみたいと思っています。
 ありがとう。
 あなたが引き止めてくれなかったら、私は多分あのまま、飛び降りていた。

 今はまだ申し訳なくて、顔も合わせられないけれど。
 いつか、もっと自分のことを許したり愛したりできるようになったら、謝りに行こうと思います。
 だから今は、手紙でゆるしてください。
 会えてよかった。
 私も、自分と向き合ってみようと思います。
 色々迷惑かけてごめんなさい。ありがとう。


 尾上里子


            *


 学園祭が終わって、数日後。
 まだ不思議な熱気が残っている日に、その手紙は届いた。
 白い封書に入っていたのは、三つ折りにされた縦書きの便箋だった。

 屋上での一件が終わってから、気が緩んだのか私は風邪をひいて二日ほど寝込んだ。
 再び学校へ出たのは学園祭の前日で、文化委員の仕事に忙殺されていて、周囲を見る暇はなかったけれど。
 気付いたら、尾上さんの姿はなかった。
 もしかしたら体調でも崩しているのだろうか、と。
 心配している矢先にその手紙は届いた。


 廣澤先生の研究室で、もう何度も読み返したその手紙を眺める。
 読み返すたびに、安堵と寂しさとがうまれてくる。
 もっと、色々な話が出来たらよかった。

 廣澤先生には、叱られた。
 お前はどうして何も言わないんだ。要、お前も。
 あんなに怒られたのは初めてだった。
 それでも先生は、最後にうなだれている私の頭を乱暴に撫でて。
 何もなくてよかった。
 ぶっきらぼうにそう呟いた。
 嬉しかった。


「それぞれは本当に、小さな力しか持っていないものばっかりだったみたいだよ」
 応接セットになっている向かい合わせのソファー。
 私の向かい側に腰を下ろして、英さんが口を切った。
「小さなものも、重なり合えば巨大になる。きっかけさえあれば」
 尾上さんは何かあるとよく屋上で時間を過ごしていたらしい。
 彼女の寂しさに、様々なものが同調したのだろうか。
「根津さんは、もう大丈夫?」
「え?」
「風邪ひいてたみたいだけど」
 膝に乗せた手紙から顔を上げると、英さんの穏やかな顔がある。
「力が抜けたみたいです。すぐ、熱も下がりました」
 力が抜けた。様々なところに突っ張っていた力が。
 肩に入っていた余計な力とか。いつのまにか、なくなってしまった。
 困っているのは、少し涙もろくなったことだろうか。
「そう。よかった」
 優しく笑うので、私も釣られて笑った。
 お互いに、言うことがなくて、少しだけ黙った。
 あの日以来、顔を合わせるのは初めてで、一体何を話していいのか分からなかった。

「ありがとう、ございました、あの日」
 思い出したかのようにお礼を言った。
 思い返してみれば、迷惑ばかりかけた気がする。
 みっともないところばかり見せた気がする。
「僕は何もしてないよ。むしろ根津さんに助けられてばっかりだった」
 なんだか情けないよね、と英さんは小さく苦笑した。
「そんなことない」
 そんなことは、ないよ。
「私、きっとあのままだったら、何も気付かないままで、ずっと過ごしていたと、思うんです」
 うまく言葉になるだろうか。
 伝わるだろうか。
 漠然としたこの気持ちを言葉に直すのはむずかしい。
 それでも、言わなきゃいけないような、伝えなきゃいけないような。
 いや、私が、"伝えたくて"。
 必死に言葉を探す。

 英さんは何も言わずに、急かさず促さずに、聞いていた。
 手の内に握った手紙を見るように、俯いた。

「気付かないまま、押し込んでいたらきっと、辛くなかったと思います。何も感じないようにして鈍感でいられたら、辛いともかなしいとも、絶対に思わなかった」
 石のように、何も発信せず受け取らず、転がっているだけでいようとした。
「怖かった、です。本当は。英さんと会うの。話したりするの、はじめは怖かった。何で怖かったのかも、分からなかったけど」
 見ないようにしているところに、強引に目を向けさせられるような気がしていたのだ。
 掻きまわされているような。
 逃げ道をふさがれるような、そんな怖さだった。
「でも、よかったと思ってます。父のこと、思い出せたから」
 覚えていないと思っていたあの日の出来事や、腕のぬくもりと鈍い痛み。
 言葉や、涙を。
「僕はね、根津さん」
 静かに、英さんは切り出した。
「君を無駄に苦しめたんじゃないかと、後悔してる」
 俯かせた顔を持ち上げる。
 憂えた茶の瞳と、目が合った。
「無理矢理に現実と向き合わされる辛さは、僕も分からないわけじゃない。いつか君が、自分を縛っていた鎖から解放されるべきだったのだとしても、今がその時期だったのか、僕には判断できない。君にひどいことをしたんじゃないかって」
「そんなことないです」
 きっぱりと、言った。
「これでよかったんです。私、後悔していません」
「……これだから、僕はいつも、気をまわしすぎだって怒られる」
 英さんは、深々と溜息をひとつ落とした。
「ごめんね。変なことばかり言って」
「いいんです」
 あなたが私にしてくれたことは、何一つ無駄ではない。
 興味本位や偽善ではなくて。
 真摯な気持ちだったから。だからいいんです。

「君は僕なんかよりよっぽど、強いひとだね」
 なんだか惨めになってきた、と英さんが肩を竦めた。

 携帯電話の着信音が鳴り響いたのは、そのときだった。
 ごめんね、と断ってから英さんが携帯電話を取り出した。
 もしもし、何?
 何気なしに、腕時計を見た。
 時計は五時を回っていた。
 あ、と声を出してしまった。
「ごめんなさい、私帰ります」
 小声でそうとだけ告げて、鞄を持ち上げて踵を返した。
 片手を挙げて、英さんが応じた。

 今日は絶対にオムライス作って。
 朝樹にそう約束を取り付けられているのだった。




【最終話】

 校舎のあちこちに、解体された屋台の残骸や、ベニヤ板が転がっている。
 運動部の掛け声や、どこからか合唱部の歌声が聞こえてくる。
 遅い、と怒られるのは目に見えていた。
 できるだけ急がなければ。

 緑の多い、校門まで続く一本道を、足早に歩いた。
 やけに頑丈で大きな学園の門が、徐々に近づいてくる。
 さすがに五時を回ると、校門の周りに人気は少なかった。
 その校門の右手側。大きな柱に、人影がある。
 黒のスーツ姿の、男の人だった。
 右耳に携帯電話を押し当てていた。
 柱にもたれて、どこか俯き加減でいる。

 私は思わず、立ち止まっていた。
 じんわりと、体の内側から汗が滲んでくる感覚と、速い鼓動。
 呼吸が忙しなかった。


 通話を終えて、その人が携帯電話を折りたたむ。
 伏せていた顔を持ち上げて、ふと、こちらを見た。
 濡れたような黒髪の、端整な顔立ちの男の人。
 私は、思わず取り落としそうになった鞄を、しっかりと掴む。掌が、汗で滑りそうになる。
 向けられた瞳の色。
 深い青。
 前に、会った人だ。
 一竜から帰る途中の住宅街。
 狭い駐車場で見かけた人だ。

 携帯電話をポケットにしまいこむと、その人は柱から体を起こした。
 五メートルほど、間をおいたままで向かい合う。
「こんにちは」
 穏やかな、夜の海のような声で、その人が言った。
 私は何も言えずに、ただまばたきを繰り返した。
 彼が誰なのか、多分もう私は、分かっている。
 緊張に体を強張らせているのを見て、その人は少しだけ笑った。

「何してるんだよ!」
 背中から、声が飛んできた。
「来てる、なら来てるって、早く言えよ!」
 慌てた、取り乱した声だった。走ってきたのか、息が切れている。
 振り返ると、英さんがいた。
「驚かせてやろうと思って」
 涼しげに、男の人が答えた。
 何か言おうとして口を開いた英さんが、結局言葉を探しあぐねて黙る。
「どうせ今日は修恵にいるだろうと思って、迎えに来たんじゃないか。散歩がてらだよ。少しは外に出ないとね」
「何今更なこと言ってるんだよ。そんなふうに思いついたかのように外に出たってもう無駄じゃないか。それにどうせ車なんだろう」
 足早に、英さんが私に追いついた。
 ごめんね、根津さんと心底申し訳なさそうに謝った。
「最近は全然連絡をくれないからこっちから声をかけたんだろ。つれないな。この間の電話から全然……」
「ちょっと!」
 慌てたように、英さんが相手の言葉を途中で遮った。
「その話はあとでゆっくりするから、今は黙ってて」
 据わった目で相手を睨みつけて、低めた声で英さんが脅した。
 脅しも応えていない様子で、その人は小さく笑った。
「根津さん、あの馬鹿のことは気にしなくていいから。急いでるんじゃない?」
 疲れきった溜息を落として、英さんがこちらを気遣った。
 時計を見ると、五時半を回ろうとしている。
 遅い、と怒る朝樹のふくれっつらが見えるような気がした。
「馬鹿だなんて、相変わらずひどいな要は」
 眉を顰めて、とてもかなしそうな顔を、その人がする。
「馬鹿に馬鹿って言って、何が悪いのか教えてくれる?」
 かなしそうな顔を見て、英さんはさらに青筋の数を増やした。

 気がついたら、小さく吹きだしていた。
 なんだか、子供同士の喧嘩みたい。
 容赦なく言い合いをしているのに、空気がとても柔らかい。
 視界の端で、英さんが苦い顔をしていた。
「じゃあ、帰ります」
 これ以上待たせたら、朝樹が機嫌を直してくれなくなってしまう。
「本当にごめんね、気をつけて」
 少し苦味を残したままで笑って、英さんが言った。
 さようなら、小さく会釈をして、歩き出した。


 校門に向かって歩き出すと、俄かに心臓がうるさくなり始めた。
 真っ直ぐ前だけを見て、その人と、擦れ違う。
 聞きたいことや、話したいことならたくさんある。
 同じ瞳の色を持つ人に。
 でもきっと、近づいてはいけないのだ。
 痛みを、分け合うことが出来ないのも、きっと呪いだから。

「根津さん」
 擦れ違う、その一瞬に、呼び止められた。
 びくん、と大袈裟に震えてしまった。
 ゆっくりと、顔をそちらに向けると。
 同じ色の瞳と目が合った。
 飲まれそうなほどに深い、藍の色。
「俺もあなたも大丈夫だから」
 穏やかな声で。
「だから、頑張って」

 唐突に泣きそうになって、私は唇を噛んだ。
 涙の膜が瞳の表面を覆って、相手の顔がぼやけた。
 はい、と。頷くだけで精一杯だった。
 深く、頭を下げて、そのまま擦れ違った。
 背中に視線を感じたけれど、振り向きはしなかった。
 私たちの道は、決して交わらない。


            *


 点滅する歩行者用の信号。
 横断歩道を小走りに通過する。
 途中でスーパーに寄って卵を買った。
 時計はもう六時を指している。


 土曜日は先生と一緒に、父の墓参りに行く約束をした。
 日曜日は咲子に引きずられて買い物に連れて行かれる予定だ。

 来週からはまた、いつもと同じような学校生活がはじまる。
 私は、人と同じ時間軸を、同じように生きてゆける。
 他愛のない日々が傍にあることは、幸せだ。

 きっとこれからも、この内側に息づく獣に苦しむんだろう。
 傷つけたり、傷つけられたりを繰り返し、生きてゆく。
 父の涙を思い出すと、今も泣きそうになる。
 けれどその腕の力やぬくもりが、間近に感じられるから、大丈夫。


 まるで、生まれ変わったかのようだ。


 小さな幸せや、もろい心や、大事な人々の思いを。
 きっと大事にして生きてゆける。
 大丈夫だ、私も。
 きっとあなたも。


 兵頭の家からは、今日もあたたかい橙の光が零れてきていた。
 飛び込むように駆け込んで、玄関を開いた。
「遅いっ!」
 挨拶をするよりも先に、幼い怒鳴り声に叱られる。
「もうっ、早く帰ってきてって、いったのに!」
 仁王立ちで、朝樹が立ちはだかっていた。
「待ってたんだからね!」
 むくれるその顔は、想像していたものと全く同じで、思わず笑ってしまった。
「何笑ってるのさ、怒ってるんだから!」
「ごめんね」
 何かのねじが外れたかのように、笑いが止まらなくなってしまった。
 小さな朝樹の体を抱き締めて、しばらく笑っていた。
「お帰り。ヤマト」
 強く、抱き返された。
 優しい体温。
 大事だと、思った。
 手放す日が、とてつもなく遠ければいい。

 柔らかい髪に頬をすり寄せて、ようやく、言った。
「ただいま」







【完】