二度生まれる
第二十六話〜第三十話

【第二十六話】

「お久しぶりです、銀です」
 凛と通るその声まで涼やかに聞こえる。
「銀、都佳沙くんだったね。銀のご長男の」
「覚えていて貰えて嬉しいです。先生も要と会う約束を?」
「おや、そうなのか? 要も来るのか」
「ええ、仕事の話で少し」
 銀という名。聞き覚えのあるどころの話ではない。
 妙に緊張してしまった。
 この国の、霊媒を生業にする家の頂点に立つ家。それが銀だ。
 名前だけはとにかく有名で強大。けれども、その中枢にいる人物と会うのは初めてだった。
 自然と鼓動が速くなっていることに、遅れて気がついた。

「根津、倭さん?」
 突然名前を呼ばれる。
 気がついたら、澄んだ視線がこちらを向いていた。
「はじめまして」
 黒目がちな瞳が私の目を見ていた。瞳の色を。
 挨拶を返すことも出来ずに、会釈だけした。
 このひとは、私がどういう生き物か、知っている人だ。

「ただいまー」
 視線を外せなくて困っているところに、威勢のいい声が飛び込んできた。
 おお、勝利ちゃん久しぶり、という声があちこちから起こる。
「またお前はっ! 帰ってくるなら裏から入れって言ってるじゃないの!」
 カウンターの内側から、おかみさんが怒鳴った。
「うるさいなー、息子がたまに帰ってきてるんだから、硬いこと言うんじゃないの」
 皺が増えるよ、皺が、とけらけら笑いながら近づいてくる足音に、ようやく私は振り返った。
「あれ、倭ちゃん。廣澤先生まで。都佳沙が呼んだの?」
「まさか。今ここで偶然会っただけだよ」
 至極平静に、銀さんが答えた。
「へぇ? 偶然かぁ」
「勝利、奥の座敷に行きな」
 カウンター前ですっかりと立ち話をしているところに、おかみさんの怒鳴り声が飛んできた。
「は? 座敷使っていいの?」
 左手でネクタイを緩めながら、神田さんが母親を見る。
「これから要くんも来るんだろ。ここで騒がれたって困るんだから、さっさと引き上げる」
 ほら! と急かされて、何故か私と廣澤先生まで、奥にある座敷に押し込まれてしまった。
「いいのかね、俺らがここにいても」
 廣澤先生も遠慮気味にしていたけれど。
「いいじゃないっすか、別に隠し事があるわけじゃなし。知り合いなのに先生たちだけ店に放置しとくのもなんだか嫌な感じでしょ」
 あっけらかんと神田さんが言って、結局同席することになってしまった。

「おばさんがこっちだって……」
 程なく、閉められた障子を開く気配と、聞き覚えのある声。
「先生……。根津さんも」
 障子を開けて顔を覗かせた英さんは、座敷の面子に驚いたようだった。
「おう。成り行きでな」
 他に説明の仕様もなく、廣澤先生がそれだけ言った。
 相変わらず不思議そうな顔はしていたけれど、それ以上詮索はせずに、英さんは「そうですか」と頷いた。
 英さんの気配に、私は俄かに緊張した。屋上での一件以来、面と向かって顔を合わせるのは初めてだったから。
「っていうか、何で勝利がいるの」
「ひでぇ、冷たい男だなお前は本当に。都佳沙っちと電話して情報を入手したから、親睦を深めようとわざわざ実家に帰ってきたって言うのに」
 既に瓶ビールの栓に栓抜きを宛がっている神田さんが、むぅとむくれて見せた。
 どうやら神田さんは最初から参加する予定だったわけではないらしい。
「要は勝利に会えて照れくさいだけだと思うよ」
 さらりと。あまりに簡単に放り出された言葉に、英さんと神田さんが同時に固まる。
 発言者は涼しげに笑顔だった。
 咳払いをひとつ落として、英さんが廣澤先生の隣に腰を下ろす。
「なんだよ要ちゃん、今更恥ずかしがることなんてないのに」
 にやにやと笑みを作って、神田さんが追い討ちをかけた。
 据わった目で、英さんが真向かいの神田さんを睨む。
「ってか、都佳沙っち珍しくスーツじゃない? どっか出掛けてたの」
 それ以上突付きまわしたら危ないと察知したのか、神田さんは話題をずらした。
「ああ、お見合い」
 間髪おかずに、簡潔な答えが返ってきた。
「へぇ、お見合い。……ええっ!?」
 さらりと流そうとして、ようやくことの重大さに気付いたらしく、神田さんが声を荒げた。
「見合い!?」
 大袈裟なほどに驚く神田さんに、銀さんがわずかに首をかしげる。
「都佳沙っちまだ二十五じゃん!」
「でも、僕は父が二十二のときの子どもだからね」
 大して動じた様子もなく、淡々と銀さんは言葉を継いだ。
「"またなの"?」
 神田さんとは別の意味で驚いた様子で、英さんが相手の顔を覗き込んだ。
「ああ、やっぱり銀ぐらいの家になるとそういうものがまだあるのか」
 先生は先生で、感心している始末だ。
「なんだ、そんなに珍しい?」
 周囲の反応に逆に驚いた様子で、銀さんが問い返す。
「珍しいよ! なんだよそれはっ! えー、怖ぇ、金持ちって怖ぇー……」
 信じられん、とうめいて神田さんが頭を抱えた。
「毎回毎回なんだかんだで断るくせに」
「諸々の面子とか体面とかもあるから端から断るわけにもいかないんだよ。それに、どこにどんな出会いが転がってるかも分からないしね」
「本気でそう思ってる?」
「疑り深いところは変わらないね、要は」
 つかみ所のない人だ。少々強引なぐらいの神田さんですら、さらりとかわしてしまう。
 どんなときでも自分のペースを崩さない人だ。
「あーあ、俺、真っ当に生きよう。こいつらに感化はされないようにしよう」
 しばらく撃沈していた神田さんが、その一言でようやく復活した。むくりと伏せていた頭を持ち上げる。
「根津さん、大丈夫?」
 丁度真向かいに座っていた銀さんが、苦笑混じりにこちらを見た。
「ごめんね勝手に盛り上がって」
 謝られて初めて、私がぼんやりとことの成り行きを傍観していたことに気がついた。
 咄嗟に言葉が出てこなくて、首を横に振って否定の意を示した。
 元々三人で会うはずだったのだし、そこにお邪魔しているのは私のほうなのだ。
「なんだよー、都佳沙が爆弾投げ込むからだろ!」
「別に爆弾なんかじゃないよ。勝利が驚きすぎなだけで」
「驚くよそりゃあ!」
 またすぐに、じゃれあいのような会話が始まってしまう。
 微笑ましくて、思わず小さく吹き出した。
 気が置けないっていうのは、こういう雰囲気を言うのだろうか。
 横目で英さんを伺うと、仕方ない、という顔で苦笑していた。
「英さん」
 気がついたら、咽喉からぽろりと声が落ちていた。
 首をめぐらせて、英さんがこちらを見た。
「あの、岡崎さんが、英さんに、謝っておいてって」
 少し驚いたように、英さんが目を瞠る。
 そのあと、表情を和らげて、笑った。
「岡崎さん、元気そう?」
「はい」
「……よかった。気になってたんだ」
 安堵したように息をつく動作に、私の中のわだかまりも少しだけ、溶けたような気がした。
 今日は、会えてよかったかもしれない。

 少しだけ、部屋に沈黙が流れて。もしかしたら私が会話の流れを切ったのかと、不安になっているところに。
 携帯の呼び出し音が鳴った。クラシックな、ベルの音で。
 失礼、と断りを入れて、銀さんが携帯電話を取り出す。
 ディスプレイで相手を確認するときだけ、僅かに眉を顰めた。
「もしもし、どうしたの」
 電話の向こう側からは、どうやら男の人らしき声がぼそぼそと漏れてくる。
「そんなに急ぐ用事なの? 今は一竜だけど。迎えに来る? 本気? ……分かった」
 かちりと携帯を折りたたんで、銀さんは腰をあげる。
「ごめん、要。結局肝心な話は出来なかったけど、それは日を改めて」
「用事?」
「父から呼び出しだ。強制送還されるみたいだよ。逃れられないみたいだ」
 苦笑気味に上着を羽織ると、銀さんは座敷の障子に手をかけた。
「廣澤先生、慌しくて申し訳ないです。根津さんも、また会える機会があれば」
 最後まで一定のペースは崩さずに、銀さんは微笑した。
「忙しいのは分かるけど、ちゃんと飯は食えよ」
 神田さんが、父親のようなことを言った。
「だから時々一竜に来てるじゃないか」
「都佳沙っちは口が上手すぎ」
 そうでもないよ、と肩をすくめると、銀さんの手の中で、携帯電話が一コール分だけ鳴って、切れた。
「全く、早いなあのひとは」
 初めて呆れたように溜息を落として、銀さんは英さんの手にさりげなく紙幣を一枚滑り込ませて、入り口の方へ歩き出した。
「外まで送りますか」
 神田さんが腰をあげるので、なんだかなし崩しにぞろぞろと、お見送りに出ることになってしまった。


 戸を開くと、店の前に一台の車が停まっている。
 艶のある、漆黒の車だった。
 店の戸が開いたのに反応するように、助手席の扉が勢いよく開いた。
「つかさちゃん!」
 ぱっと飛び出した小さな人影が、弾丸のように銀さんに駆け寄ってきて、その腰にまとわりついた。
「おむかえにきたの!」
 薄い青の、可愛らしいワンピースを着た五歳ほどの少女だった。
「梨々、突然飛び出すなっていつも言ってるだろ」
 車の中から、呆れ果てたような男の人の声。
「はぁい、ごめんなさい」
 銀さんの左手と自分の右手をしっかりと繋いで、愛らしい少女は素直に謝った。
「本当に、いつもしょうがないね、梨々は」
 苦笑気味に、銀さんはその小さな体を抱き上げた。
「だって、つかさちゃんにあうの、ひさしぶりなんだもの」
 抱き上げられて、少女はとても上機嫌な様子だった。
「あ、かなめおにいちゃん、こんばんは!」
 視界の端に英さんを発見して、女の子がぱあっと顔を輝かせる。
「久しぶりだね、梨々子ちゃん」
「あれ、都佳沙っち、この子」
「ああ、勝利ははじめてだったっけ、従妹の梨々子」
「はじめまして、しろがねりりこ、です」
 丁寧に挨拶して、梨々子ちゃんは小さく頭を下げる。
「ああ、梨々子嬢! お噂はかねがね。ってか、雅さん久しぶり!」
 ぐりぐりと梨々子ちゃんの頭をなでてから、神田さんが開かれた車の窓を覗き込んだ。
「何、神田お前スーツなんか着ちゃって。すっかり社会人だな」
 車の中から、落ち着いた声が答えた。
「ってか都佳沙、別れを惜しむのはいいんだけどな、俺が兄貴に叱られるから、そろそろ乗れ」
「分かったよ。全く、何をそんなに急いでいるんだか」
 銀さんは、梨々子ちゃんを抱いたままで助手席に滑り込んだ。
「慌しくて本当にすみません」
 助手席の窓を開いて、銀さんが詫びた。ぴょこっと横から梨々子ちゃんが顔を出す。
「梨々、お前は後ろ」
「ヤ! つかさちゃんといっしょがいいの!」
「全く、騒がしいんだからな……根津さん」
 不意に名前を呼ばれて、私はまばたきを忘れて銀さんの顔を見た。
「気になっていることがあるなら、吐き出してしまうのも僕は手だと思うよ」
 私が、返事の言葉を捜すよりも早く、車のウインドウが閉まった。
 何度か緩慢にまばたきをしている間に、漆黒の車のテールランプは、すっかりと遠ざかっていってしまった。





【第二十七話】

 平穏で揺らぎのない日々が続いていた。
 学園祭が徐々に近づくにつれて、人々は浮き足立ちはじめている。
 それは何も生徒だけではなく、中高大を巻き込んだ学園最大のイベントとなれば、どこもかしこも落ち着かない。
 年中、あまり活動のない文化委員会は、実はこのイベントのために存在しているといっても、決して過言ではないだろう。

 委員会の会議は、文化祭当日の受け付けの担当割り振りを決定したところで終わった。
 人気がなくて、がらんとした教室にもどる。
 放課後の学校は、異世界だ。生徒で満ちているときはあれほどまでに明るい場所だというのに、人気がなくなるとあまりにも空虚だ。
 熱気と気配だけが残っているような感じがして、不気味ですらある。
 朝と夕では、どうしてこんなにも空気が違うのか。
(早く帰ろう)
 教室を横切って、窓際の自分に宛がわれた机まで戻って。
 手前で足を止めた。
 机の上に、茶封筒が乗っていた。
 A4程の大きさだろうか? クリーム色に近い、明るい茶。
 委員会に出かけるときまでは、影も形もなかったはずなのに。
 少し離れたところからみても、随分と厚みがあるようだ。口はこちらに向いて開いていた。
 近づいて、封筒を持ち上げる。手ごたえからすると、やはり紙の束だろうか。
 開かれたままの口から中を覗くと、やはり、紙が二センチほどの厚みでおさまっている。
 手を差し込んで、あまり質のよくない手触りのその束を引きずり出した。
 新聞のコピーのようだ。あまり印刷がよくないようで、写真のあたりは黒くつぶれてしまっている。
『ガス爆発か!? 深夜に突然の爆発』
 黒く塗りつぶされた写真の上、見出しの文字がまず目に飛び込んできた。
 さらにその上、新聞の日付を見る。十三年前の、九月だった。

『昨夜11時20分頃、神奈川県××市郊外にある新興宗教団体の総本部で、爆発があった』
 本文は、そう始まっている。
 突然の爆発で、団体代表である英秀一郎氏(40)の自宅部分の三階部分が突然爆発した。
 原因は現在究明中だが、ガス爆発の要因は特に考えられないとのことも記されていた。

 指先から徐々に熱が失われてゆく。
 頁を繰った。
 特にホチキスでまとめられているわけでもないので、ばらばらにならないように読み終えた分は机の上に置いた。
『戦慄! 神の庭で起こった惨劇!』
 大きく見開きになったその一枚は、おそらく週刊誌のコピーだろう。
 今度はいくらかコピーの濃度が薄く、写真もちゃんと見て取れる。
 がっちりと閉ざされた門の外側から、古城のような洋館を写したものだった。
 『キリスト教を母体にしたゴート教会の本部』と、写真の下には説明が入っている。

『"神の子"っていうのがね、いたんですよ』
 内部事情をよく知る関係者、とくくられた人のインタビューが載っていた。
『すごく可愛らしい子。でもね、へんな力があって、怪我とか病気とかを治してしまうって評判でした。確かに病気や怪我をしている人が快方に向かったっていう話は聞いたことあるけど、気功? とかそういうものなんでしょうか。それでも信者のひとは神様みたいにその子のこと崇めてましたよ。でも反面、気味悪がってた人もたくさんいましたけど』
 小さな体に縋る、たくさんの手を思い出した。
 背筋を見えない手で撫でられたような、寒気がこみ上げる。

 大量のコピーは、ほとんどが週刊誌の記事だった。
 見覚えのある建物の写真も多く、やはりあの夢は、英さんの記憶に忠実だったのだと分かる。
 ガス爆発とは思えないのに突然爆発したという事実を検証したものから、英秀一郎氏の経歴を調べたもの。
 果ては、英氏の妻の謎の死から、十三歳の息子の夢遊病らしき症状まで書き連ねられていた。

 見るべきではないのかもしれない。
 あきらかに、好奇の視点から書かれた文章であることは、文面を見るだけで分かる。
 それを読むということは、私も好奇の目をもつ野次馬のひとりになるのではないだろうか。
 そうは思っているのに。
 目は文章を追っている。
 英さんの記憶だけでは理解できていなかった部分がなんとなく補われているということは否定できなかった。
 私も、野次馬だ。ただの。

『当時、神の子と呼ばれる少年(13)の家庭教師をしていた青年の家』
 そう説明された写真は、閑静な住宅街にある一軒屋だった。
 建てられて、おそらくそんなに経っていないだろうきれいな家。
 小さな門があって、玄関まで数段の段差のある、白い壁の二階建て。
 表札は、上手く写らないように写してある。

 私は結局、そのコピーの束を、全て読んだ。
 子どもへの虐待のことや、母親の死のことが、屋敷に勤めていたという匿名のインタビューから、昔の知人という人の話で書き連ねられていた。
 虐待が子どもに及ぼした影響だとか、どこそこの大学の教授という人の発言。
 生まれたときからほぼ、その屋敷から出されたことのなかった少年の経歴。
 最後の一枚を繰ったところで、私は思わず、息を止めた。


 人殺し


 大きな文字で、縦に。堅苦しく印刷された文字がそれだけ並んでいた。


            *


 学園から最寄の駅。そこから都心寄りに二駅ほど移動した場所は、駅前こそ栄えているものの、少し奥の道に入るとすぐに静かな住宅街になる。
 廣澤先生から書き写してもらった住所を頼りに、駅から徒歩で十分ほどの場所にあるマンションにたどり着いた。

 要の住所? そんなこと聞いてどうするんだ?
 ちょっと、と言葉を濁すことしか出来なかった。
 だって、自分でも分からなかったのだし。
 英さんに会ってどうしようと言うのか。エレベーターで3階に向かっている今も、分からない。

―――気になっていることがあるのなら、吐き出してしまうのも手だと思うよ。

 数日前、一竜で顔を合わせた銀さんの、涼しげな声を思い出した。
 あのひとは、何でも分かってしまうのだろうか。何もかもを見透かされたような気がした。

 話を聞いてもらいたいと、実は、思っていた。
 今までは一度も夢喰いについて疑問に思ったことはなかったのに、英さんに潜ったあの日から、何かが変わってきた。
 まずはしっかりと謝りたかった。なぁなぁで今まで過ごしてきたけれど、勝手に記憶を盗み見たという罪悪感は、まだ胸のうちにある。
 他人の記憶の内側に入り込むという行為は、いつのまにか私の心を蝕んでいた。
 ちりちりと、痛む。
 化け物だから夢魔のようなものだから、仕方がないと思おうとしても。
 今までのように割り切れはしなかった。
 それから―――尾上里子という人のこと。
 今まではただの悩み相談になってしまうような気がして、そこまで相手に負担をかけたくなくて、考えないようにしてきたけれど。
 鞄の中に押し込んできた茶封筒を思い出す。
 この封筒を机の上に置いたのが尾上さんなのかどうかは分からない。
 でも、数日前、教室で咲子に掴みかかったときに、尾上さんは言った。
 あの人殺しの男のせいだ、と。
 それは、英さんのことではないのだろうか。
 尾上さんの敵意は、英さんに向いているような、気がした。
 何故なのだろう。

 そんなことを悶々と考えているうちに、いつのまにかこのマンションまでやってきてしまったのだった。
 312号室、と特徴のある癖字で先生は書いた。
 エレベーターを降りると、両側に道が伸びている。先生は右手の突き当りを左に曲がった先、と言っていた気がする。
 一人住まいの人が多いのか、夕方のマンションにあまり人の気配はしなかった。
 右手の突き当りまで行くと左手にだけ廊下が続いている。そこを折れて、私は足を止めた。
 手前からみっつ向こうの扉の下に、チラシのような紙が数枚、ばらばらに散らばっていた。
 息を飲んだ。
 すぐ傍にある部屋は310号室。紙が散らばっているあたりは、312号室、英さんの部屋だ。
 しばらくまばたきもできずに、灰色の床に広がる紙を見ていた。
 知らず知らずのうちに、呼吸が速くなっていた。
 まさか。
 ゆっくりと、踏み出した。

 一歩、二歩、あとは足早に。
 床に散らばっている紙の傍まで近づいて、しゃがみこんだ。
「なに、これ」
 英と表札のかけられた扉の前にしゃがみこんで、思わず喘いだ。
 扉にあいた新聞受けのような場所に、私の鞄の中に入っているような茶の封筒が突っ込まれていて、紙の束が半ば覗いている。
 床に散らばったのは、その一部なのだろう。
 ぐぅと、腹のあたりから言いようのない不快感がこみ上げて、口元を覆った。
 吐いてしまいそう。気持ち悪い。
 一枚だけ、床に散らばった紙を拾い上げた。
 見覚えがある。私の机に置かれていたものと、おそらく同じコピーだ。
 突然視界が曇って、自分でびっくりした。
 なんでこんな。
 目の表面を覆った涙は見る間に目じりで膨れて、一筋落ちた。
 苦しいのか悲しいのか怒っているのか悔しいのか、全然分からなかった。
 ただ息苦しくて気持ち悪くて、どうしようもない。

 どうしてこんな。

 扉の前にしゃがみこんだままで、何度か深呼吸をした。
 すっかりと昂ぶってしまった感情を、何とか落ち着かせないと。
 まるで隠れているかのように身を縮めて何度目かの深呼吸をしたときだった。
「根津さん?」
 声が、聞こえた。




【第二十八話】

「根津さん?」
 背中に刺さった声に、呼吸を忘れた。体が石のように硬くなる。
「どうしたの、こんなところで」
 右肩に、控えめに手が置かれた。
 ふと、右側から影が落ちてくる。すぐ傍にしゃがみこむ人の気配を感じた。
「大丈夫?」
 覗き込まれる視線を感じても、そちらを向くことが出来ない。
 顔を見られたくなかった。そんな生ぬるい抵抗をして見せたところで、泣いていることなんてすぐにばれてしまうだろうけれど。
 縮めている私の体の傍から、床に向かって腕が伸びた。散らばった紙の、一枚を拾い上げる。
「英さん……!」
 鋭く呼んでしまった。
 見ないで欲しかった。
 明確にむけられた悪意の、かたちを。
 拾い上げた紙面をしばらくじっと見つめてから、その人は残りの紙も拾い集める。
 さらに、郵便受けに乱暴に突っ込まれている封筒を発見して、小さく嘆息した。
「どうしたの、根津さん」
 静かに立ち上がって、郵便受けの封筒を引きずり出す。拾い上げた紙の束をそれに仕舞いこんでから、英さんがもう一度聞いた。
「修恵からここまで、結構遠いよね?」
「先生から、住所を聞いて……」
 それは、理由の説明にはなっていない。上手く説明する言葉を、私は持っていなかった。
 どうして? それは自分に問いたかった。どうしてここに来たのか。
 少し喋ったら、体の強張りが解けた。ようやく、がちがちに強張った体を引きずるように、立ち上がる。
「なんだか根津さんには、いつも迷惑ばっかりかけてしまうね」
 自嘲気味に、英さんは少しだけ笑った。
「どうしてそんなに……」
 平然としているんですか。
 私はこの有様を見て、嘔吐感すら覚えたというのに。
 英さんは、ポケットから鍵を取り出すと、ドアに飲み込ませる。
「この間から少し、こういうことが続いててね、慣れちゃったんだ」
 軽く封筒を持ち上げて見せて、そんなことを言う。
「続いてるって……!」
 語調が荒くなってしまった。苛立ちがあからさまに声に混ざる。
 続いている? こういうことが?
 それなら何で尚更、平然としていられるの。
「動揺したら、相手の思う壺だよ」
 強く、きっぱりと英さんが言った。
「とはいえ、気持ちいいものではないけどね」
 おそらく悲壮な顔をしている私をなだめるように、穏やかにそう付け加えた。
 窘められてしまったような気がして、自然と俯いてしまう。
 確かに、そのとおりだろうけれど。
「根津さん」
 優しく、呼ばれた。
「お茶ぐらいなら出せるけど、上がっていく? せっかくここまで来たんだし。男のひとり住まいが嫌なら、どこか外に出るのでもいいけど」
 鞄がずしりと、重くなったような気がした。
 内側に押し込んだ、同じ封筒。
 少しだけ躊躇った。私は何をしに来たんだっけ? よくわからない。けれど。
「……お邪魔しても、いいですか」
 どうぞ、と穏やかに応じる声の後、ドアが開かれた。


             *


「もしかしたら根津さんにも、"こういうもの"が届いた?」
 問い掛けは唐突だった。
 頭から冷水を浴びせられたかのように、胸のうちが冷えた。何もかもを見透かされたような気がして、怖い。
 私の顔があきらかに強張ったのを、英さんはおそらく見逃さなかった。
「やっぱりそうなんだ」
 沈黙を肯定と取って、英さんが僅かに目を伏せた。

 あまりものは多くない。
 こざっぱりと片付いた、キッチンと続きになっているダイニング。
 部屋の中央あたりに低いテーブルが置かれていて、向かい合わせに座っていた。テーブルの上には、先ほどの封筒が乗っている。
「散々回りにばらすって宣言されていたから、もしかしたらって思ったんだけど」
「脅されていたんですか」
 全くそんな素振りは見せなかった。思わず聞けば、英さんは小さく肩を竦めて見せただけだ。
「今の状況で、根津さんがここに来る要因はそのぐらいしか考えられないからね。何か、こういうものを押し付けられて、気になって来たんだと僕は思ったんだけど」
「同じ封筒が、教室の机の上に」
 白状した。ここまできたらもう隠しても仕方がない。
 僅かに目を瞠って、そう、と英さんは頷く。少しだけ間を置いてから。
「……読んだ?」
 息が止まった。
 ぐっさりと、心臓を貫かれたような衝撃だった。急にいたたまれなくなった。なんだかとても自分が卑小ないきものに思える。
「責めているわけじゃないよ。誰だって、そんなふうにされたら読むよ。僕だってきっとそうする。ただ、根津さんに迷惑をかけたなら申し訳ないと思って。顔色も悪いし」
 迷惑、と。
 英さんはいつもそうだ。私の方を気遣うのだ。
 私が強引に夢にもぐりこんだ時だって、そうだった。
 私を責めなかった。
「辛くないんですか……?」
「……辛いよ」
 驚いた。あまりにあっけなく、彼は認めた。
「根津さんも見たような夢を、随分と長い間繰り返して見続けてるのは、僕が全然過去を乗り越えられていない証拠だと思うよ。正直、疎ましく思うこともある。でも、全てなくなってしまえばいいとは思ってないんだ」
 テーブルの上に置いた両手の先で絡めた指、英さんはそこに視線を落とす。
「僕は全部、抱えていくべきだと思っているし、何よりあの頃がなかったら、今はきっとこうしていないだろうしね。いろいろな人にも、きっと出会っていなかったと思うよ。多分、根津さんにもね。だから、僕は過去は否定しない」
 とは言っても、と。英さんは封筒に視線を流した。
「突きつけられて、平然としていられるほどではないから、やっぱり辛いは辛いよ」
 苦笑する。

「私、潜るつもりじゃなかったんです」
 急に訪れた沈黙に、とうとう私は切り出した。
 そうだずっと、謝ろうと思っていた。
 封筒から顔を上げて、英さんが真っ直ぐにこちらを見た。
「あんなふうに、見るつもりじゃなかった」
「うん」
「あんなに夢に潜ったのを後悔したのは、はじめてです。でも、それは英さんの夢自体に後悔したんじゃなくて……」
 この気持ちを上手く説明するのは難しい。自分でも把握しきれていないのに、他人に説明するのは。
「あんなふうに引きずられてしまうことを、知らなかったわけじゃないんです。でも、あんなに抵抗できないものだなんて分からなかった。勝手に人に潜ってしまって、無防備な部分を覗き見る自分が、なんだか」
 上手く説明できているんだろうか。いろいろなところに話が飛んでしまっている気がする。
 思いつくままに喋った。
「なんだかとても、そんな自分が、許せなくなって」

 夢を喰うことは、必要なことだ。少なくとも夢喰いにとっては死活問題だ。
 そういう生き物で、仕方がないことだと、ずっとそう思ってきた。
 けれど、生まれた揺らぎはおさまらず、徐々に膨張している。
 引きずりこまれる、あの引力には抗えない。自分の意志とは切り離された本能の凶暴さ。
 貪欲に餌(え)を求める自らの内側の獣(けだもの)に、恐怖を覚えはじめていた。
 いくら化け物だと自分をなだめても、人の柔らかさを食い物にするのは酷すぎる。

「惨いよね」
 静かに、英さんが口を開いた。
「夢喰いってどうしてそんなに皆、やさしいのかな」
 うっすらと涙で膜がかかったような視界で、私は英さんを見た。
 よくは見えなかったけれど、苦笑しているように見えた。
「やさしいひとにそんな業を背負わせるなんて、惨いよ」




【第二十九話】

 呪いと、言われている。
 人と妖(あやかし)と、異種の禁忌の交わりが生む、呪いなのだと。
 人でなく、妖ほども強くなく、人に依存しなければ生きてゆけないという弱々しい生きもの。
 生きてゆくのに伴う苦しみは、禁忌を犯したが故の呪いと、言い伝えられている。
 そしてその呪いは、血が絶えるまで続く。

「夢喰い本人は厭うけど、その力が時々誰かを救うのは本当だよ。実際僕はそうだ」
 駅へ向かう道すがら、英さんが口を開いた。
 くやしいから、面と向かっては言わないけどね、と軽口のように付け加えた。
 私の机の上に置かれていた封筒は、彼のマンションに置いてきた。どこまで調べられるかは分からないけれど、少し調べてみたいと言われたからだ。
 すっかりと日は暮れてしまっていて、空は漆黒だ。
 住宅街にいるうちは人も街頭もまばらだったのに、駅に近づくに連れてぐっと明るくなる。
「本当にどうしようもない奴なんだけどね。楽天家で細かいことはあんまり気にしないし、駄目なところをあげたらきりがないんだけど。……人に優しい」
 説明に主語はなかった。けれど、誰のことなのかは知れた。
 五年、共に暮らしたという人のことだ。
「本当は僕なんかより、あいつの方が話は分かるんだろうけど、だからって会わせてあげるっていうわけにも、いかないしね」
 夢喰い同士は、親しく付き合えぬ定めだ。
 体のうちに巣食う本能が、より強大なものになることを求めて共食いをするせいだと、言われている。
 だから、苦しみを分かつことは出来ない。ひとりで悶え苦しむことを定められている。
 それもきっと呪いだ。

「親を食い殺すときの夢を見るって、前に、言ってましたよね」
 成瀬の夢喰いは今も、その夢を見るのだと、前に英さんが言っていた。
「うん」
「私、父の死に顔を覚えていないんです。そのときの記憶だけ、すっぽり消えてしまっていて。父の死を覚悟はしていたけれど、なんだかそれだけは、とても寂しいです」
 あんなに大切だったのに。
 今思い返せば、一年前のことだというのに、この力を継ぐ頃の記憶はとても曖昧だ。
「それは、寂しいね」
 私はただ頷いた。
「覚えていたかった、です」
 もし、その記憶がやがて悪夢になる日が来たとしても。
 覚えていたかった。
「僕も、母親の顔はあんまり良く覚えていない」
 静かに、つけくわえるように英さんが言った。
「僕もできることなら、しっかりと覚えていたかったな」
 夢の中の、英さんのお母さんの顔を思い出そうとしてもうまくできなかった。
 人は、生きてゆくために自らの記憶に様々な加工を加える。無意識のうちに。
 あの夢が加工の結果というのなら、それはかなしい。
「なくなればいいと思ったことはありますか」
 内側に、もって生まれてしまった力のこととかを、そんなふうに。
 肉を削ぐように切り落とせたら、とか。
「何度だって」
 つぶやいて、英さんが少しだけ笑った。
「根津さんは、どう」
 きりかえされた。
 切り離せたらいいとか思うのか。
 私は?
 黙ってしまった。
 少し前までなら、即答できたはずじゃないか。
 そんなの、今更言っても仕方ないじゃない。そんなふうに割り切れていたはずなのに。
 ばっさりとそんなふうに、斬り捨てられないものが、内側に確かに生まれている。
 そもそも割り切れていたのだろうか。本当に?
 見ないように。
 見ないように見ないように。
 退けていた?

 父親の死に顔が思い出せない。

 思い出しても平気な記憶なら、どうして思い出せないの。
 どうして記憶に加工をしたのだろう。
 母の墓石の前で握り合わせた手の温度なら、今もなまなましいのに。
 たった一年前のこと。

 黙ったままで歩みを続けていたら、いつのまにか駅前のロータリーにたどり着いていた。
「もうここで、大丈夫です」
「根津さん」
 改まったように、名前を呼ばれた。
 真摯な目をしている。
 雑踏が傍を抜けてゆく。
「僕は、あの手紙の主に、君に近づかないようにと言われた」
「え……」
「君は、なにか厄介な大きなものに、巻き込まれているんじゃないの」
「わかりません」
 即答したのは、自棄になったわけではない。本当に分からなかった。
 困惑に眉をひそめていると、英さんが先に顔の緊張をといた。
「ごめん。脅すつもりじゃなかったんだ。言おうかどうかも少し迷ったんだけど、君に例の資料の束とかが届けられなたら、知っておいて貰ったほうがいいと思って」
「……はい」
「手に負えないと思ったら、誰かを頼ってもいいと思う。僕も基本的に人に頼るのは好きじゃないけど、しょうがないときもあるから。特にこんなふうに向けられる悪意は、気がつかないうちにものすごい重圧になっていることもあるから」
「それなら私より……」
 貴方は平気なんですか。
 明確な悪意が向けられているのは、私よりも貴方だ。
 見えないうちに、重圧になっていたりしないのですか。
「僕にはとりあえず、捌け口みたいなものがあるからね」
 肩を竦める形で、彼が言った。
「それに、名前も顔も明かさない相手なんて、気持ちは悪いけどよく考えたらあまり脅威にはならないよ。僕の周りには、僕の過去の全部を知っていて、それでも見限らずに近くにいてくれる人がありがたいことにたくさんいて。だから、大丈夫」
 気味の悪さだけ克服すれば、大丈夫だと、彼は言った。
 今まで何度かこんなことがあったけど、そのたびに傍の誰もが見限らずにいてくれたから、怖くはないよ。
 凛と、揺らがない一本の芯があるように言い切る言葉は、つよい。
「成瀬さん、とか?」
 ふと、思いついて名前を口にしてみた。
 英さんは、豆鉄砲を食らった鳩のような顔をした。滅多に見られない顔だった。
 少し苦そうな顔をしたあとに、やがて諦めたように笑った。
 そうだね、と肯定する。
「あいつだけは本当にいつも、呆れるぐらいに見限らないよ。お人よしで、困る」
 言葉ではそう言うけれど、困っている顔ではなかった。
 うれしそう。なんだか分からないけれど、そう思った。
「私にも、大事な人がいます」
 張り詰めていた空気が解けたような気がして、穏やかな気持ちで、言えた。
「だから、私も大丈夫です」
 訪ねてきて、よかったかもしれない。
 胃を苦しめていた嘔吐感のようなものは、いつのまにかなくなってしまっていた。
「今日は、突然ごめんなさい」
「気をつけてね」
 他愛のない挨拶を交わして、わかれた。




【第三十話】


 どうしてわたしばかり責められるのだろう。
 少しでも他と色が違うものは、すぐにうとまれる。
 どうして、剥き身の肌ではいられないのか。
 余所の顔色を見てカメレオンに変化する。
 ただ生きているだけなのに保護色が必要なんて。

―――どうしてできないのッ!
 母の。
―――きもちわりぃんだって、オマエ。
 弟の。
―――……。
 黙りこむ父の背。


 だってきもちわるい。
 嘲笑ばかりが溢れている。
 全ての目が品定めをしている。
 一挙一動まですべて、笑われている
 笑われている。
 そんなきたないところでくらすなんて。
 あんなみにくいところで生活なんて。
 ものを食べるなんて。
 呼吸するなんて。
 耐えられない。

 どうしてあなたたちはそうやって、よどんだ空気を吸って生きていられるの。
 咽喉が焼け爛れて、水もうまく飲めないぐらいなのに。
 きれいなものなんて、何もない。
 あんたたちは皆、みにくい。
 きたない。
 きれいな皮を被っていたとしても、みにくい。

 おまえたちが人という生きものなら、わたしは人ではない。
 私は紛れ込んでしまった可哀想な異分子。
 違う生命体。

 みんなけだものだ。
 みんなひとごろしだ。
 平気で致死量の毒を吐く。
 人がばけものでないというなら、わたしがばけものでいい。

 ひとごろし。
 ひとごろし。
 みんないなくなってしまえ。

 空気がこんなによどんでいるのに、どうして気付かない?
 こんな世界では、生きていけない。
 これが人の住む世界だというのならば。


 わたしは人を棄てる。







【続く】