二度生まれる獣
第二十一話〜第二十五話
【第二十一話】
ガラスの砕けるような、鋭い音に我に返る。
顔のすぐ傍にあった壁に、何処からともなく飛んできた花瓶がぶつかって、こなごなに砕けた。
まばたきをすると、室内にいた。扉を背に立っていた。
広い室内は、全体的に青い色で統一されていて、天蓋付のベッドや高価そうな家具で埋め尽くされている。
「返してっ……!」
ベッドを挟んだ向こう側から、金切り声が響いてきた。高い女の人の声だ。
たった今聞いた。
ふかふかと足の沈む毛の長い絨毯を踏んで、ベッドの向こう側へ近づく。
夕方なのだろうか。照明が灯されていない室内は、薄暗い。
「どこにやったのよ、返して!」
ベッドの傍ら、小さな子どもがぺったりと座り込んでいる。
髪を振り乱した女性が、その子どもの上に覆い被さっていた。
急に鼓動が速くなった。呼吸が浅く、せわしなくなる。胸が苦しくなった。
「あなたが隠したんでしょう」
女の人の顔は、長い髪が覆い隠しているのに、何故かその表情が手に取るように分かった。
瞳一杯に涙を湛えて、無理矢理に口元をゆがめて笑っている。
思わず私は胸元を押さえた。この苦しさは、きっと、引きずられているのだ。
英さんの気持ちに。
「私の要を返して頂戴」
声を震わせて、すっかりとくたびれたその女のひとは、幼い英さんににじり寄る。
ぎゅうっと締め付けられたように胸が軋んだ。一杯に目を見開いて反射的に後ろ手にあとずさる。
「ねぇ……ッ!」
あとずさる子どもに、苛立った声を上げる。
両肩に手をかけて、激しく前後に揺すった。
「あなたは誰なの!? 要を返してっ……!」
はらはら、はらはら。顔色の悪い頬を大粒の涙が伝っては小さな体に落ちた。
爪が食い込むぐらいに肩を掴まれながら、今にも溢れ出しそうなほどに瞳に涙を溜めながら、それでも英さんは泣き出さなかった。
「何とか言ったらどうなのよ、ねぇ!」
英さんは涙を溢れさせないように目に力をこめた。
ぱん、と乾いた音を立てて、ふたりが背にしていた窓ガラスが、一瞬て全てくだけて、降り注いだ。
雹のようにガラスの破片が降り注ぐ。けれどもふたりの周りにだけは、まるで見えない壁があったかのようにひとかけらも落ちていない。
愕然と顔を持ち上げて、女の人は一瞬で硝子を全て失った窓を見た。
「……によ」
喘ぐようにつぶやいた。
「なんなのよ、こんな力使ってっ! 言いたいことがあるなら言いなさいよ!」
半狂乱のようになって、彼女は子どもを床に押し倒した。
「私は人の子どもを産んだのよ、小さくて弱くて、私がいないと何も出来ないの。こんなっ……ばけものを産んだりしてないわ!」
―――たとえどんな力を持っていても、愛しているっていったくせに。
罵られている子どもは、まるで何も感じていないかのように、無表情に徹していた。
―――味方だって言ったくせに。
なまなましい、吐き出すような子どもの声が頭の中に聞こえている。
仰向けに倒れた子の、大きな瞳の目じりからこめかみに、涙が落ちた。
―――やさしいときが、いちばんこわい。
返事をまちがったら、すぐに機嫌が悪くなってしまう。
なにが当たりでなにが間違いかわからない。
だから怖い。
おかあさん、と呼ぼうとしても声が出なくて、ただ泣かないように口唇を噛んだ。
この夢の中には、あまりに痛切に英さんの痛みが漂っていて、思わず涙ぐんだ。
(ぼくがくるしめているんだから)
(ぼくはなかないようにしなきゃ)
「ねぇ、要。だいすきよ」
背後から声が聞こえた。あまやかな、優しい声音。
振り返ると、そこは別の部屋だった。
薄い緑で統一された部屋は、良い香がした。
壁紙から、カーテンからベッドカバーまで、柔らかい緑だった。
先程の部屋と同じように、高価そうな家具がちりばめられている。違うのは、大きな鏡台があることぐらいだ。
鏡台の上には、飴色の薬瓶がいくつも乗っていた。
すぐ傍に、ふたりはいた。
仰向けに倒れた子どもの上に、女の人がのしかかっている。
何かが一瞬鋭く光ったと思ったら、女の人の右手にはカッターが握られていた。
呆然と、子どもはまばたきもせずに母親を見上げていた。
「ごめんね、私が悪いのね。ごめんなさい、あなたをこんなふうに産んでしまって」
乱れた髪が零れ落ちて、英さんの顔の上に影を作る。
はた、と顔色の悪い肌を伝った雫が、人形のように黙り込んだ子どもの頬に落ちた。
「だから、あなたなんか、産まなきゃよかった」
赤い口元が歪むようにつりあがっているのが、見えないはずなのに見えた。
「一人にはしないから、だいじょうぶよ」
左手。剥き出しのカッターを持っていないほうで、そのひとは幼い子どもの頬を撫でた。
「私も一緒だから平気よ」
ね、と言い聞かせて、そのひとは綺麗に微笑した。
とすん、と何事もないかのように右手を振り下ろす。
左耳の下が、急に熱くなった。思わず左手で押さえた。
焼けるような熱さのあとで、じわじわと痛みが体に染みてきた。
左耳の下の、傷。
液体が流れ落ちる感触まで、なまなましく。首を伝わった。
「愛しているから、一緒に死にましょう」
顔のすぐ傍に突き刺したカッターを持ち上げて、微笑する。
白銀の刃を赤い色が染めていた。
小さな口唇が、かすかに動いた。声は出さずに、動きだけ。
いたい、と。
小首を傾げて、仕方なさそうに女のひとは笑った。
大丈夫よ。
左手で頬を撫でながらもう一度。
持ち上げたカッターは、薄い左胸の上。
照明を跳ね返して、ぬめる赤。
うつくしい微笑と、頬に添えられた手のぬくもり。
小さな口唇が、動いた。
いや、だ。
(しにたくない)
視界を埋め尽くすような、栗色の髪と。
血の気の薄れた顔色、頬を伝う涙。
じんじんと疼くように痛む左耳下の、傷口。
鉄の匂い。
全てが混ざり合って、一瞬後。
爆発した。
迸る閃光に世界は焼き尽くされ、鈍い衝撃音が続いた。
光が薄れた頃、眼前には赤い壁があった。
部屋中の壁紙は、薄い緑に統一されていたはずなのに。
蜘蛛の巣のように壁に散った筋。黒に近い赤。
細く壁を伝って、床に落ちている、血液。
壁際に、だらしなく四肢を投げ出すように倒れている、女の人。
英さんが仰向けに転がっているそこから、壁までは随分と距離がある。
そこまで弾き飛ばされたというのだろうか?
向かって左側に張り付いていた扉が開いて、中年の女の人が顔を出した。
奥様、と呼びかけ、壁に出来た奇妙な蜘蛛の巣を発見し、床を見て。
絶叫した。
おくさま、おくさま、とうわ言のように繰り返しながら、ぐったりと床に倒れた女の人に駆け寄った。
床に転がったままだった小さな体が、起き上がろうとする。
「だめ」
口を突いて言葉が落ちた。
足が動いた。
上手く動かない体を動かすようにして、状態を起こす。
見たら、駄目。
気がついたら駆け寄っていた、後ろから頭を抱きこもうとした。
けれど腕は。
あんまりなほど簡単にすり抜けて。
英さんは前を、見ていた。まばたききもせず。
壁を伝う細い流れと、床に横たわる母の体と、その腹部。
深々と、カッターが突き刺さったその姿を。
【第二十二話】
小さな背中が、深夜の廊下を歩いている。
先程よりは、少し大きくなった。12,3ぐらいの年頃だろうか。
足音を飲み込む絨毯の上を歩いて、広くて人気のない城の中を明かりもなしに歩いている。
廊下の左側には扉があって、反対側は等間隔に窓が並んでいる。窓の外はひたすらに黒い。
突き当りにも、ひとつ扉があった。白い手を伸ばして、少年はノブを回す。
細く開いて、部屋のうちを覗き込んだ。
「殴りたいわけじゃない」
扉の中から男の声が聞こえてきた。
隙間から見える部屋の内側で、椅子が向かい合っている。
両方とも男の人だった。
片側に座った人は、顔を両手で抱えるようにして、うな垂れている。
「要を―――息子を傷つけようと思ったことは、一度もない。だが私は息子の力を眼前に示されるたびに、怖くて仕方がなくなる」
向かい合わせたもう一人の男が大仰に頷いて見せた。眼鏡の奥の瞳に同情を滲ませて、細めた。
「何故突然あんな力を持った子どもが生まれてきたのか。何かの呪いのようにも思える」
「そう忌避されては、息子さんがかわいそうです、英さん」
重たそうに頭をもたげる相手の肩を、眼鏡の人が優しく擦る。
「賢者はいつも、はじめは理解されぬものです。きっと息子さんに宿った力も、呪いなどではないはずです。奥様のことは―――残念なことですが。奥様は誰よりも息子さんのことを大事に思ってらしたんです。我々が彼を理解してあげなければなりません。彼の力、きっと生かす場所があるはずです」
英さん、と呼ばれた男の人―――おそらくはお父さんなのだろうと思う―――が、頭を重たそうに持ち上げた。
「神の子なのかもしれません」
眼鏡姿のひとは、椅子から下りると、重そうに椅子に沈む英氏の前にしゃがみこんで、顔を覗き込んだ。
「選ばれて、与えられたのかもしれませんよ。救済のために」
目の前の少年は、そこで扉を閉めた。
一度閉ざした扉を、小さな手が再び開く。
その先は、長椅子が等間隔に並んだ礼拝堂の中だった。
扉を開け放って、少年はその先に踏み入れる。
一本、椅子と椅子の間を突っ切るような赤い絨毯を踏んで歩く。
私は慌ててその背を追った。
「たすけてください」
右から、ぬっと手が伸びた。少年の右腕にからみつく。
少年は構わずに前へ進んだ。
「このこのあしを、なおしてください」
左側から、今度は枯れ枝のような腕が足を掴む。
振り返らずに、その腕を引きずるようにして、少年はまだ、前へ進む。
前へ進むうち、無数の腕が小さな体にまとわりついた。その全てを引きずりながら、ゆっくりと少年は前の祭壇へ歩み寄った。
祭壇のすぐ傍に、例の眼鏡姿の男の人が立っていた。
眼鏡の奥で瞳を細めて、見ている。
全ての重みを抱えて、少年は祭壇にたどり着く。
両腕が千切れそうに重かった。
この重みはおそらく、英さんが感じている重みだ。
「要様」
眼鏡の男の人が、その名を呼んだ。
ぶら下がる重量を抱えたまま、英さんが顔を上げた。
「こちらへ」
右の掌をこちらに向けて、眼鏡の人が微笑した。
どん、と一度胸の内側で鼓動が跳ねる。迷いのなかった足元が躊躇った。
あの掌が、たまらなく怖い。
鼓動が徐々に早まってゆく。
―――あの手は、こわい。
伸ばされている手が、たまらなく怖くなった。
あれに触れたらいけない。そんな気がする。
「さぁ」
眼鏡の奥の瞳が微笑する。
怯える足を動かして、小さな背は祭壇に近づいた。
伸ばされた手が、少年の顔を覆った。
ざわっと肌が粟立ち、冷たいものが体の中に流れ込んでくる。
少年の手足に絡まりついた無数の腕が、どろりと硫酸をかけたように溶け落ちはじめた。
椅子が、柱が、ステンドグラスが、祭壇が、立て続けに溶けてゆく。
壁が崩れ、窓が破れ、外は闇だった。
息苦しくなって、思わず両手で首を押さえる。
締め上げられるような痛みだった。
「お前が、栞を殺したんだ。母親を―――」
ぎりぎり、気道を狭められる圧力。前後も上下もない漆黒の闇の中にぼんやりと、二つの人影が浮かび上がる。
少年は一人立ち尽くして、その二つの人影を見つめていた。
床に仰向けに転がって、いるひとつの影も、英さんだった。十ぐらいの子ども。
それに乗り上げているのは、父親、だろうか。
頬がこけていて、視点が落ち着かない。
小さな体に乗り上げて、英氏はその首を締め上げていた。
くるしい、という呟きが言葉にはならずに消える。
すぐ傍にいる、十二くらいの英さんはじっと、その情景を見詰めている。顔色ひとつも変えずに。
私はどんどん、息苦しくなる。
やめて、と叫ぼうと思ったのに声が出なかった。
死んでしまう。
すると唐突に、首を締め上げる指先の力が弱まって、英氏が小さな体の上に崩れ落ちた。
噛み殺した嗚咽が小さく、響く。
やがてそれも、とろとろと、溶けた。
ざ、ざん。
漣の音が聞こえて、ひたひたと足元を濡らす波のつめたさ。
「秘密、だよ」
今度は右手側に別の影が現れた。
寄せては返す波。夜の濃紺の海を見据えたままで、少年がいる。
「僕、殺したんだ、お母さんのこと―――」
「要」
語尾にかぶさるように、背中に女の人の声。
体中が、痺れるような柔らかいぬくもりに包まれた。
「やっと見つけたわ。何処に隠れていたの」
お母さんの声、だった。優しくて、切羽詰った響きはなくて、ただあたたかい。
波の音はいつしか止んでいて、振り返ると三つぐらいの子どもを綺麗な人が抱き上げていた。
「新しい家庭教師が―――」
「見てこれ、英くんのことなんだって」
「えー……。キモチワルイ」
今度は上から。声。
四方から。闇の中から。
様々な声が飛交ってくる。
その中央で一人、小さな英さんは立ち尽くしている。
「英要っ、お前っ!」
背後から怒鳴り声が聞こえて思わず振り返ると。
修恵の制服姿の少年が立っていた。
黒い髪が所々に跳ねて、全力疾走をしてきたのか息を切らしている。
肩が大きく上下していた。
神田さん、だ。
中学生ぐらいに、若い。
「お前俺と、……に、れよ」
視線を逸らして、ぼそぼそと呟く言葉はこちらまでは伝わらない。
やがて、決意したかのように顔を上げて、真っ直ぐにこちらを見据えた。
「俺と、友達になれ」
ざああっと、内側から突き上げるような熱さに、思わず口元を覆った。
泣きそうで。
この溢れそうな熱さはきっと、よろこびだ。
英さんがずっと抱えて持ってきた、記憶だ。
「迎えに来たんだ」
落ち着いた男の声。
様々な雑音は全て消えた。
無音。静謐。
「一緒に行かないか」
背にかかるあたたかい声と、そこにいるだろう人の気配に振り返ることが出来なかった。
鼓動が早鐘のように鳴る。
こんなにも胸が締め上げられたのは初めてだ。
せつなくて、痛々しい。それなのに嬉しくて、どうしたらいいかわからない。
様々なものが混ざって声にならない。
流れ込んでくる感情は、混沌としていた。
言葉にならない。
(どうしよう)
混乱して、息がうまく出来なくなる。
(どうしてここにいるの)
(どうしてこんなふうに、手を伸べてくれるの)
(ばけものじゃないの)
どうして一緒にいてくれるの。
そればかり。心の中で繰り返して。
唐突に頬を熱いものが伝って落ちた。
背にある気配。
そこにいる人を、私は知っているような気がした。
気配に振り向けずに、立ち尽くす。
そこに広がっている情景を、見てはいけない気がした。
私は、英さんの記憶を、盗み見している。
大事で、容易く笑い話に出来ない部分を、強引に。
そんなのって、ひどい。
振り向かずに見ないようにしても、流れ込んでくる感情だけは押さえられなかった。
高揚していて、混乱していて、それなのにとてつもなく嬉しい。
その熱をもてあます。
私は瞳を閉ざして、その熱をやり過ごす。
ふっと背後で気配が消えて、徐々に熱が冷えた頃。
瞳を持ち上げたら、周囲は闇ではなかった。
ひたすらの、穢れを知らない純白。痛々しいぐらいの白に取り囲まれていて。
目の前にひとつ、扉だけがあった。
【第二十三話】
扉のおもても白かった。
何もかもが寒々しいぐらいに白い。
ただ、鈍い銀に輝いているものがあった。
扉についたノブと、それに絡まりつく無数の鎖。
がっちりとノブに絡まりついて、足元に流れていた。
寒くて、夏服から剥き出しの腕を思わず擦った。
「ここまできたんだ?」
扉の向こう側から、あどけない声がした。
「ずっと、私に話し掛けていたのは、あなたですか」
堅固に閉ざされた扉の向こうに語りかけた。
「別に話し掛けていたわけじゃない。君には聞こえていたと思うけれど」
子どもの頃の英さんの声に、とても似ている。けれど、少し硬くて冷たかった。
「ここまで来るとは思わなかったな。カズマでも、全部見ていないのに」
扉一枚を隔てて、声は少しくぐもって聞こえる。
「あんなに何もかも見えたのは、きっと君が近いところに立っているからだろうね」
「あなたは、誰ですか?」
英さんではないの?
問い掛けると、沈黙が応えた。
「……人と話すのも久しぶりだから、名前もわからなくなってるよ」
戸惑ったような、自嘲まじりの声。
「要の一部だと、思うよ。ただ少し、自立した意志を持ってるんだ。俺は。もう多分、要には必要ないのに、未練がましく生き残っている」
どういうことだろう。
よく分からなくて、困った。
「要が君に構うのは、お節介の押し付けじゃない。どうしても君に、自分のことを重ねてしまうんだ」
今まで見て、少しは分かると思うけれど。
その声が、言った。
「傷口を、ずっと見ないふりをしてる。見えているのに。視野に入っているのに、見えていないふりをしてる。ずっとね。だから要はここにはこない。過去の思い出を封印した場所だからね」
堅固な鎖は、自分でかけたものなのだ。
「傷口は、絶対になくなったりしない。痛みや疼きは薄れても、感じ方が変わっても、零にはならない。でも、要は零にしなければと思ってる。そうしなければ乗り越えたことにならないと、思っている。だからその分、爛れて膿んだ痛みや熱は、ここに溜まる。君の見た夢は、その全てだ」
何度も何度も繰り返し、あの夢を見ているのだろうか。
それは、あまりにも痛い。
「あの日から止まっている部分が、ずっとここにはある」
時の流れはなく、ひたすらに静かな白。
音も全てシャットアウトされた、完全な密室だ。
寒々しい。
「正義を気取って君と接しているんじゃないってことは、分かって。どうしようもないんだ」
声は、見守る、優しい響きだった。
「喰ってしまっていいよ。ただ繰り返す悪夢だから。君に食べられて少し、薄まればいいのに」
そして少しでも、軽くなればいいのに。
声が、寂しそうに呟く。
しゃらしゃら、と。
鎖が流れる音がする。
床を這う鎖がゆっくりと、薄れはじめた。
下方から、扉の輪郭が崩れてゆく。
「もう行った方がいい。それからもう、俺とは会わないほうが健全だね。俺はもう、ここから出ないことに決めたから」
半ばほどまで、扉は薄れていた。
"夢"が崩れ始めているのは、意識が覚醒しようとしているからだろうか。
「ああ、名前。思い出した」
私の体さえ、少しずつ霞み始めた頃、彼が言った。
「ヒカリ」
その名を聞いたのを最後に、私は夢から、追い出された。
目蓋の裏に、白だけが焼きついた。
*
冷たい風が横から吹いて、髪が乱れた。
薄暗かったはずの空はすっかりと濃紺に塗りつぶされていて、剥き出しの肌は冷えていた。
フェンスに背を預けて、座り込んでいた。
どのくらいの間、潜っていたのだろう?
あたりに視線を回らせば、少し離れたところにまだ岡崎さんが倒れていた。
小さく咳き込む音が、傍で聞こえた。
私は何故か、その気配に大袈裟に身を竦めてしまった。
体を重たそうに持ち上げて、私のすぐ傍のフェンスに背を預けてもたれかかる。
少し長めの髪が顔を覆うように乱れ落ちていて、夜の闇に浮かんだ顔は青白かった。
「英、さん」
大丈夫ですか、と聞きたかったのに、上手く声がかけられなかった。
「ごめんなさい」
口をついて零れたのは、詫びの言葉だった。
私、見るつもりじゃなかった。
あなたの夢に潜るつもりも、内側を覗くつもりも、なかったのに。
でもこれじゃ、盗み見と同じだ。
汚くて、卑怯だ。
だるそうに頭をもたげて、英さんがこちらに顔を向けた。
「あの夢、か」
掠れた声が落ちた。それだけ。
余計に申し訳なくなってしまって、私はうな垂れる。
あまりにも卑小で、情けない生き物に思えた。
他人の夢に潜るというのは、こういうことなのだ。
普段は庇って、見せないようにしている内側に、容赦なく侵入することなのだ。
「ごめんね、平気だった?」
「え……?」
「根津さんが、不快になったんじゃないかと思って」
顔を持ち上げて、視線を合わせた。
不快になんて。
ただ申し訳ない。
誰にだって晒せる部分じゃない。
不快になるなら、あなただ。
問答無用で侵入した獣を厭うのは、あなたのほうだ。
どうして私に謝るんですか。
「今は大分落ち着いたけど、変な、超能力じみた力を持ってるんだ。多分、生まれたときからね。そのせいで、色々あった」
右手を持ち上げて、かざす動作をした。
「何度も、繰り返して同じ夢を見てる。きっと根津さんが見たのも、同じものだと思うよ。あれからもう十三年経って、平気な顔してるけど、もしかしたら僕は」
一度言葉を切って、英さんはゆっくりと立ち上がった。
「僕はまだあのひろい庭から一歩も出ていないのかもしれない」
軽く服の埃を払う動作をしてから、英さんは岡崎さんに近づいた。
私は座り込んだまま、それを見ていた。
岡崎さん、大丈夫?
穏やかに声をかけながら、岡崎さんの体を抱き起こした。
「……ん」
眉を顰めて、岡崎さんは僅かに身じろぐ。
それを見て、英さんが安堵の吐息を漏らした。
「すっかり暗くなっちゃったね。平気?」
こちらを振り返って、問い掛ける。
突然話を振られて、驚いてしまった。
言葉では返せずに頷いた。なんだか言葉が不自由になってしまったみたいだ。
上手くでてこない。
「僕は、岡崎さんのこと送っていくことにするけど、根津さん……」
「大丈夫です」
勢いよく、立ち上がった。
そうしたら、足が少しだけ震えていた。
「一人で、帰れます。大丈夫です」
周囲が暗くて、よかった。
震えてしまっていることなんて、気付かれたくなかった。
「そう。―――ごめんね、今日は。ありがとう」
一度だけ頷いて、もう一度詫びた。
一言で、どっと突き上げるように何かが沸きあがって、胸が苦しくなって。
泣きそうになった。
その顔を見られたくなくて、深く頭を下げた。
謝るなら、私だ。
喚きそうになって、唇を噛んだ。
「さようなら」
それだけを言うのも精一杯で、あとは逃げるように屋上の扉のノブを掴んだ。
刺すように、冷たかった。
扉を後ろ手に閉めたところで、足から力が抜けてしまって。
ひとりで立っていられなくて、扉に背を預けた。
手の甲で口唇を押さえて。でも堪えきれない嗚咽が少しだけ落ちた。
すっかり冷えた頬に、はらりと、どうしようもない涙が落ちていった。
【第二十四話】
私と朝樹は、彼が生まれたときから傍にいて、何もかも知っていた。
隠し事など何もなかった。
父を喰い殺したあとは、私はずっと朝樹に依存していて。
他人の夢になど一度も潜ったことがなかった。
だから知らなかったのかもしれない。
夢喰いという生き物が、どれほどひどい生き物なのか。
無防備な人のやわらかい内側に勝手に強引に踏み込んで、踏み荒らす。
庇った傷口を容赦なく暴く。
相手を強引に力でねじ伏せるのは、陵辱や侵略となにが違うのだろう。
私はこれからも、朝樹や、その周囲の人々や、もしかしたら赤の他人。
私を取り巻いてくれる人々の、覆い隠した居場所を覗き見するように生きていくのだろうか。
屋上での一軒から、数日が過ぎていた。
あれから一度、特別授業が行われたけれど、どうしても行けなかった。
校内で英さんの姿を見つけてしまうと、反射的に身を隠してしまう。
あの日、覗き見てしまった英さんの過去に嫌悪感を感じたわけではない。
そんなことは、決してない。
嫌悪しているなら、この内側だ。
思い出すだけで叫び出しそうになる。こんなに怖くなったのは、はじめてだ。
夢を喰うということ。
他人の意識に依存して生きるということに。
「咲子ー、あんたこないだの特別授業どうしたの。来なかったじゃないー」
放課後、別のクラスの女子が大声と共に教室の扉を開いた。
岡崎さんは自分の席で、メールを作成中だった。
「ああ、用事できちゃったから。それにもういいの」
相変わらず携帯電話のディスプレイを見つめたままで、岡崎さんは簡単に答えた。
「はぁ? ナニソレ。あんたが一番熱入れてたんじゃん!」
短いスカートを翻して、岡崎さんの友達が彼女の机にかじりついた。
「あぁー、それは色々あるからまた話すってばー」
ぱくんと携帯を折りたたんで、岡崎さんが立ち上がった。
「じゃあ、今日どっか行く?」
「駄目! 今日はパス。用事あるから」
屋上の一件から、岡崎さんは二日ほど学校を休み、それからあとは以前と全く変わらない様子だった。
それこそ、何もなかったかのように。
英さんが、現れる前と同じ。
まるであれほど熱を上げていたのが夢か幻であったかのように、岡崎さんは落ち着いてしまった。
あの日の出来事も覚えているのかいないのか分からないし、勿論こちらから聞くことも出来ない。
一体、あれは何だったのだろう。
「倭ちゃん」
意識が別の場所を彷徨っているところで、唐突に声をかけられた。
驚いて、思わず腰を浮かしてしまう。
「岡崎さん……」
「あのね、少しだけ話があるんだけど、時間平気?」
上目遣いにこちらを伺うようにして、岡崎さんが言った。
*
「なんかね、あたし、取り憑かれてたんだって」
教室の窓から外を見下ろしながら、岡崎さんが切り出した。
「あの日のことね、全然覚えてないんだ。要先生に送ってもらって、色々聞いたんだけど。倭ちゃんにも迷惑かけたんだってね、ごめんね」
「私は何も……」
していないから。
告げると、岡崎さんは困ったように笑って、「ありがとう」とだけ言った。
「……あたし、何してんだろうって思ったんだ。なんか変に意地張ってたみたい。かっこいいなーって思ってたのは本当。今もそうだけど、何であんなに意地になってたんだろって」
冷めちゃったって思うのも寂しいし、取り憑かれてたせいにするのも情けないけどさ。
呟いて、小さな溜息を落とす。
僅かな沈黙の間、鴉の鳴き声だけが聞こえた。
「要先生、一言も言わなかったけどさ。あたし、首絞めた感触だけはなんとなく覚えてるんだよね。自分でしたことなのに、信じられない。それでもちゃんと親身に話聞いてくれちゃって、この人なんてお人好しなのかなって思ってさ。……申し訳なくなっちゃって。だから、特別授業も行ってないの」
岡崎さんが俯くと、長い睫毛が影を落とす。
憂えた表情などほとんど見たことがないから、余計かわいそうに思えた。
「倭ちゃんさ、今度要先生に会ったらさ、謝っといてくれない? あたしなんか、顔合わせづらくって」
お願い、と岡崎さんは顔の前で両手を合わせた。
必死に拝む素振りをするものだから、押し切られる形で頷いてしまう。
「ホントに? アリガトー!」
ぱぁっと、華やかな顔で岡崎さんが笑った。
やっぱり、そういう表情の方が似合う。
安堵した直後に、自分も顔を合わせづらくて避けていることを思い出したけれど、口には出せなかった。
「岡崎さん、体とかはもう大丈夫なの?」
「うん、ヘーキ。体だけは丈夫だから。って、そうだ。言おう言おうって思ってたんだけどさ」
なんだろう?
「もう二年もクラスメートじゃん、咲子でいいよ。あたし倭ちゃんって呼んでるし。ヤじゃなかったらだけど」
いつも、はきはきとよどみなく話すイメージがあるから、どことなく言いよどむ雰囲気に、こちらが戸惑ってしまった。
「咲子、ちゃん」
促されるままにとりあえず呼んでみて、そのあとなんだか恥ずかしくなってしまった。
基本的に私は、人のことを名前で呼ぶのがなんだか苦手だ。
なんだか彼女も少し照れくさそうに笑った。
「でさ、倭ちゃんさ、本当はどうなの」
「え?」
「要先生と。なんか親しそーじゃない」
からかうような笑みを浮かべて、岡崎さんが私の腕を突付く。
「なんかあるんじゃないの? 誰にも言わないからー」
「な、何もないってば」
「ほんとに? あやしー! なんかあったら教えてよ! あたしこう見えても口カタい―――」
ぴしゃん、と。
和やかな雰囲気を裂くように教室の扉が開け放たれた。
音に反応して、そちらに首をめぐらせるよりも早く。
足音高く近づいてきた気配が、どっと岡崎さんを突き飛ばした。
「何すんのよっ!」
突き飛ばされた肩を押さえて、岡崎さんが噛み付くように怒鳴った。
「こんな人に付き合ったら駄目よ、倭ちゃん」
傍らに立った小柄な人影を、見た。
「尾上さん……」
「なんなのよアンタ。いきなりなにすんのよ。どっかおかしいんじゃないの!?」
尾上里子は、きつく岡崎さんを睨んだ。
「あんたみたいな馬鹿な女と関わりたくなんてないんだよッ!」
急に火がついたかのように荒々しく、尾上さんが怒鳴った。
岡崎さんはきつく眉を顰めて突然現れた相手を睨み返す。
「たしかにあんまり頭いいわけじゃないけど、何でそんなことアンタに言われなきゃいけないのよ」
「ちゃらちゃらしちゃって、馬鹿みたい。男のことしか頭にないんじゃないの」
「尾上さん、やめて!」
傍にある尾上さんの腕を強く引いた。
こちらを振り返った尾上さんは、何故か愕然とした顔をしていた。
「どうして庇うの」
信じられない、と顔に書いてある。
訳が分からなくなった。
「庇っているわけじゃない。あんまり、理不尽でしょう」
私にも全く、少しも偏見がないとは言わない。
外見で簡単に相手を判断してしまう部分もあるかもしれない。
それにしたって。
よく知らない相手を罵倒する理由にはならない。
そんな言い方、ひどい。
「あいつのせいなんでしょ!」
こちらに向き直って、強引に、尾上さんは私の両肩を掴んだ。
握りつぶすぐらいの握力に、肩に爪が食い込んだ。
あいつ?
「お前ら、下校時間過ぎてんじゃねぇか! なにしてんだ!」
開け放たれたままの扉から、勢いのいい声が飛び込んできた。
糸のように張り詰めていた空気が、その言葉で一気に崩れた。
「ジンちゃん、いいところに! ちょっと聞いてよ、こいつ―――」
担任の真堂迅に、岡崎さんが小走りに駆け寄った。
尾上さんを指差して、憮然と説明をはじめようとしたところで。
「全部あの、あの人殺しの男のせいだッ!」
金属をも思わせるような声で怒鳴って、尾上さんは掴んでいた私の肩を突き飛ばすように離す。
呆然と立ち尽くす人々を取り残して、教室を飛び出していった。
【第二十五話】
九州の土産があるから取りに来いと、廣澤先生から電話を貰ったのは、翌週の月曜日だった。
全く波のない日々が続いていて、今まで立て続けに起きた物事が、とてつもなく遠いことのように思える。
平凡な日常に戻ったとは言っても、何も変わらなかったわけではない。
英さんや、彼を取り巻く人々と知り合ったこと。岡崎咲子のこと。尾上里子という人のこと。
夢喰いのこと。
荒れた波は落ち着いたように思えても、確実に全ては元の形ではなくなっていた。
「なんかさ、A組の友達に聞いたんだけど、突然変わったらしーよ」
昼休みの教室は騒がしかった。
伸ばして脱色した髪の毛先をぼんやりと見つめながら、咲子が言った。枝毛を探している動作だった。
「え?」
日直用の日誌から顔を上げて、私は咲子を見る。私の前の席に、横向きで座っている。
「オガミサトコ」
抑揚もなく、その名だけを答える。咲子の視点は相変わらず毛先にあった。
「今まではすっごく大人しい子だったんだって。気が弱いっていうか、オドオドしてるっていうか。メガネかけてたみたいだし。ずっと席で本読んでるかんじの」
尾上里子。
ある日突然私の前に現れた人物。
私には、彼女が一体何を考えているのか、何を望んでいるのか、分からない。
「妙に自信たっぷりになったっていうか。周りを馬鹿にするようになったって。友達も気味悪がってて」
ようやく毛先から視線を引き剥がして、咲子はブラウスのポケットからリップクリームを取り出した。
「あいつ、なんで倭ちゃんにかまうの」
キャップを外したリップクリームを口元に運びながら、咲子がようやくこちらに顔を向けた。
(私が夢喰いだから)
口には出さずに、そう思った。
自分には変な力があって特別なのだと、尾上さんは言う。
私も夢喰いだから、特別なのだと言う。
同じだと。
ばけもの、と自分を呼ぶのに、まるで選ばれた勇者のような顔をする。
どうして。
特別は優越と、イコールで繋がるものではない。
「そぉだよね、わかんないよね、そんなの」
黙りこんだ私に、明るく咲子が言った。
返答に困っていると思われたらしい。
「小学生みたいじゃない。友達を自分の"もちもの"みたいに思って、誰かに取られんのがヤなの。自分の一部を持ってかれるみたいで」
あたしだってそういうの、あったけどさ、昔は。
咲子が苦笑するのと、予鈴がなり始めるのは同時だった。
「ああっ! 次英語じゃん! やっば、予習ぜんっぜんやってない!」
次の時間割を思い出して、咲子が席から腰を浮かす。
「ヤならヤだってさ、言っちゃいなよね。スナオにさ」
足早に立ち去る途中で、思い出したかのようにこちらを振り返って、咲子が言った。
なんか、倭ちゃんそーゆーのニガテそうだから、大変だろうけど。
言い残して、咲子は教室の反対側へ戻っていった。
私、嫌なんだろうか。
天気の欄に「くもり」と書いたきり、まだ白いままの学級日誌を見下ろして、自問する。
嫌悪しているのだろうか。尾上さんのことを。
分からなくなって、考えるのをやめた。
*
研究室の扉をノックしてから、とあることに気がついて急に緊張した。
英さんがいるかもしれない。
はいはい、と内側から応じる声に、突然逃げ出したくなった。
自己嫌悪と罪悪感はまだ薄まってはいなかった。
申し訳なくて、顔を合わせられない。
「なんだ倭、どうしたんだ」
反応がないことに焦れたのか、向こう側から扉が開いた。
不思議そうな顔をして、先生が扉を大きく開く。入ってくればよかったのに。
研究室には誰もいなかった。
「俺が九州に行ってる間になんだかごたごたしていたみたいだな」
屋上での一件を、どうやら廣澤先生は知っているらしい。
先生に会ったら、何か話そうと思っていた。悶々と内側に溜まっているものを。
それはたとえば、屋上での出来事や英さんの夢に潜ったこと、尾上さんのこと。
そして夢を喰うということ。
けれど、いざ先生を前にしたら、何も言えなくなってしまった。
混沌としていて、まとめられない。
「……英さん、どうしてますか」
ようやく、それだけを訊いた。
「まぁ、数日は大人しくしてたみたいだけど、今はすっかり元通りだ。元気にしてるよ」
研究室の奥に据えられた冷蔵庫から長方形の箱を取り出して、先生は私に向き直った。
ほら、と手渡された包装された箱がどうやらお土産らしい。
包装紙の表面には大きく「讃岐うどん」と書かれている。
「先生、九州に行ったんじゃないんですか」
讃岐といえば四国だったような気がする。
「遍路を調べたくなって、四国にも寄った」
堂々と宣言する。
それじゃあ、九州のお土産って言わないと思う。
随分私が不服そうな顔をしていたのか、先生はやがてバツが悪そうに頭を掻いた。
「腹が減ったなぁ」
気まずい沈黙を何とかごまかそうとするように、先生が呟いて。
そのごまかし方があんまりにも大人げなく、先生らしくて、笑ってしまった。
「お前も付き合え、倭」
決めるが早いか、先生はさっさとジャケットを着こみ、私を研究室から追い出した。
「ここ……」
引きずられるようにして連れてこられたのは、典型的な店構えの蕎麦屋だった。
入り口にかかった暖簾には、「一竜」と書かれている。
「なんだ、知ってるのか」
「英さんが……」
というよりも、神田さんに連れてきてもらったのだけれど。
そうか、と頷いて、先生は暖簾をくぐって入り口を開いた。
テーブルは大分埋まっていた。カウンターの内側で忙しそうに立ち回っていた割烹着姿のおかみさんがふと顔を上げて。
「あらァ、先生。今日は要くんと一緒じゃないんですか」
威勢のいい声が飛んできた。
いやぁ、ご無沙汰してますと、慣れた調子で先生が挨拶を返していると、カウンターに座っていた人が体を捻るようにして振り返った。
少し長めの黒い前髪が白い肌にかかっている。切れ長の瞳はとても涼しげで、その人がいるだけで空気が締まるような気がする。
「廣澤先生じゃないですか」
あまり音を立てずに椅子を引いて、その人が立ち上がった。
「ああ、君は確か……」
「お久しぶりです、銀です」
涼やかに微笑して、そのひとは名乗った。
【続く】