二度生まれる
第十六話〜第二十話

【第十六話】

 障子のぱりっとした白。
 ありふれた一軒家に、たったひとつだけある和室だ。
 畳の網目とか、つぼの置かれた床の間の表面の、ぬめるような漆の光沢とか。
 そんなものばかりを覚えている。
 青々とした畳のおもてに、転がっている人の体。

 そこにあるのは喰い尽くされた残骸。
 もはや生き物ではない。
 サバンナの渇いた風に、ひらいた腹の内の臓物を晒して、ハイエナを待つ塊と同じだ。
 無防備な栄養素。
 力の入らない体を見下ろしているところから、記憶は始まる。

 普段は使われていなかったその和室の障子の、桟にうっすらと積もっている埃が光るのとか。
 庭の花に蝶が戯れているのとか。
 そんなことばかり、細かいことばかり覚えているのだけれど。


 父の死に顔だけは、どうしても思い出せずにいる。



 生き残れたのは、朝樹がいたからだ。
 数ヶ月に一度、朝樹の夢にもぐる。そこで得られる栄養素で、何とか飢えずに生きてきた。
 私は朝樹に、寄生している。
 朝樹は穢れなく、優しく、つよい。
 縋りついて、生かされる。
 脆弱でどうしようもない、飼い馴らされた獣だ。
 血肉を切り分けられて、どうぞと差し出されている。

 朝樹の、小さくて華奢なその体を精一杯体を張って守りたいと思う。
 けれどもそれは、餌を守ろうとする本能なのかもしれない。
 果てしなくどこまでも醜くて、だらしがない。
 狩りの仕方も、肉を噛み砕く牙も、野を駆ける屈強な足も失って、ただ。
 貪欲な生への執着だけ棄てられずに、慈愛をくれる少年の手を絡めとって離さないのだ。
 怠惰な寄生虫。


 親を喰い殺す夢を、繰りかえし見る。
 それは絶えず己がどういう生き物なのかを突きつけられるということだ。
「だってそれは、本当のことでしょう」
 幻想でも妄想でもなくて。
 私たちは親を喰い殺すように、生まれたときから決められているのだもの。
「根津さんは、怖くなかったの」
 英さんも、申し訳程度に淹れたコーヒーには手をつけない。
 静かに、問い掛けた。
「覚悟していました」
 言い含められてきた。ずっと。だから、そのときがきたのだと―――。
「怖くなかったの」
 英さんが繰り返した。
「いいえ」
 きっぱりと否定をした。
 そのときの感情なんてもう、覚えていない。
 母が亡くなったときに、その墓前の前でふたりで約束をしたのだ。
 握り合わせた手に力をこめて。
 この手が離れるときがくるのなら、そのときまではしっかりと繋いでいよう。
 笑顔で離せるようにしよう。
 私たちは互いに理解をして、納得してこの手を離した。
 離した右手に、人を蝕む力を残して、父はようやく開放された。
 何も辛いことなんてない。

 何も告げられずに、唐突に手を離されたのなら、それは辛い。
 それはきっと裏切りだ。
 かわいそうだと、思った。
 置いてきぼりにされたのなら、それはかなしい。
 人だと思って生きてきたのなら、それはとてつもなくひどい裏切りだ。
 かわいそうに。


「夢喰いって、ひととそんなに違うのかな」
 え?
 テーブルの上に置かれたマグカップの、揺らがぬ黒い海から顔を上げる。
「僕には、夢喰いっていう生き物が化け物だとは、とても思えないんだけど。ひとと、そんなに違うのかな?」
 何を言っているの。異次元の言葉のように、意味が飲み込めない。
「僕は今の仕事の都合上、一般的にばけものと呼ばれるものと色々関わってきたけど、そのどれとも違うと思う。君はそんなに、ひとと違うのかな?」
 これは、何の話だろう。
「その力は、厄介な疾患みたいなものではないのかな」
 ちがう、と。声にならずに唇の内側で消えた。

 厄介な疾患だなんて、そんなもの。
 この体の内側だけでは済まないのに。
 傍にいる人を強引に餌にするのに。
 そんなものが疾患だなんて言えない。

「君は、人と同じ時間軸を、同じように生きてゆける」
 生まれてから、今まで、そしてこれからも。
 人の道を外れずに生きてゆくことができる。
 それはあやかしなのか、と。
 その目が言っているように見える。


 ざわり、と。
 肌の表面が粟立った。急に。
「根津さん……?」
「ちがいます!」
 条件反射のように叫んで、勢いよく立ち上がっていた。
 膝が低いテーブルにぶつかって、マグカップの内側で黒い海が激しく波立って、テーブルに溢れた。
「人なんかじゃ、ない。そんなのじゃないです!」

 どうして叫んでいるのか。
 分からなかった。
 別の誰かが体の中にいて、勝手に喋っているみたいだ。
 理解できない。どうしてこんな、訳のわからないものをもてあましている。
「人はっ」


――― 一馬さんずっと、悩んで憎んでたみたいだから。夢喰いの力
―――大丈夫よ、ちゃんと分かってる。貴方がたとえ、どんなばけものでも。


 赦されるはずなんて、ない。
 縋りついた人の手足を、焦らすように食い千切りながら、さも、正しいような顔をして。
 ひとだなんて。


―――倭、私たちはこうして生まれてしまった、化け物なんだよ。



「人は他人の夢なんか、食べたりしません!」
 この体の内側の別の誰かが、聞いたこともない声で叫んだ。
 ソファーの端に置いてあった鞄を、右手が掴む。

 さようなら、と言ったつもりだったけれど。
 上手く言えたのか分からない。

 気がついたら、修恵学園の敷地を出て、すぐの信号に引っかかったところだった。
 いつ瞬間移動したのだろう、と思った。
 けれど、肌がじっとりと汗ばんで、息が乱れていた。
 先生の研究室からここまで、走ってきたというのだろうか。
 手の甲を口唇に押し当てて、こみ上げてくるものを無理矢理に押さえ込んだ。
 吐き気のような、嗚咽のような。
 何度かこみ上げるそれを押さえ込んだら、滲んだ涙が一筋、零れて落ちた。



【第十七話】

―――もしもし。
 夜にごめん。寝てたんじゃない?
 ……嘘。寝起きの声してる。僕をごまかせると思ってるの。
 ああ、別にそんな話をしようと思って電話したわけじゃないんだ。
 この間少しだけ話したよね、根津さんのこと。
 もしかしてあれから、都佳沙や雅さんから何か聞いた?
 え? うん、少しね、ちょっと。愚痴聞いてもらおうと思って。

 少しだけ、落ち込んでるんだ。
 都佳沙に釘さされたばかりなのにさ。
 僕も、必要以上に干渉はしないって、答えてさ、本当に初めはそのつもりだったのに。
 自分でもよく分からないうちに、口を出してしまってる。

 他人事だって思えない、って言ったら、奢ってるかな?
 なんだか、色々と思い出してしまって。
 人とは違う、特殊な力のこととか、親を殺した殺さないって言うこととか。
 しょうがないって、悟ったような目とか。
 無理して押し込んで、無機質のような目をしているのとか。
 根津さんが辛そうって言うより、本当は、僕が見てて、つらい。
 鏡を目の前に置かれている気になる。

 無理してるんじゃないかって、それって穿ってると思う?
 色眼鏡で見てるのかな?
 そういうの、一番したくなかったんだけど。
 解決してる問題を掘り返すと、ゆがみになるって。僕も分かってるのに。
 逆に僕がそれをやってしまってる気がする。
 楽にしてあげたいとか、それって、奢りだよね。
 楽になりたいのって、僕のほうなんじゃないかって。
 根津さんを代償みたいにして、身代わりにして、昔のことをなかったことにしたいんじゃないかって。
 急に、気がついて。


 ………………
 ……………………


 ……もう自分の中で、全部解決してると思ってた。
 昔のように不安定になることなんてないし、それなりにしっかりしてきたとか、自負もあったし。
 五年、あの家で暮らしたときとは違うって、思うんだけど。
 もしかしたら、あの頃の思い出したくないものとか全部、何か箱に詰めて隅に追いやって、見ないようにしてきたのかも。
 昔よりは自分のこと、上手く制御できるようにはなったと思うし、周りの人にはすごく恵まれてる。
 でも何か、置いてきてるような、気は、ずっとしてた。

 愕然としたんだ。今日。
 ばけものじゃないとか、人と同じ時間軸で生きていけるんだとか。
 本当は……………………。
 …………本当は、あの頃の僕が欲しがってたことなんじゃないかって。

 ……馬鹿だな。誰が泣いてるって?



 …………あのさ。
 昔、言ってたことがあったよね。
 僕を迎えにきたときに、「我儘だ」って。
 いつだったかな。
 それって、こういうことなのかなって、急に思って。
 根津さんを身代わりにして、僕が何か楽になろうと思ってるなら、酷いことだよね。
 でも僕は、あの広い庭から連れ出してくれたことに、すごく、すごく感謝してるし。
 辛いときにすぐ近くに温度があったことは、嬉しいことだったし。
 どっちが正しいんだか、よく分からない。


 本当は何も、解決なんてしてないのかな。
 繕うのばっかり上手くなっていった気がする。
 ずっと前からおんなじ夢ばっかり、ずっと見てるって、言ったことあったよね。
 最近、頻繁に繰り返してみるようになったのって、それかな。


 父さんのこととか、お母さん、の、こととか。
 よく考えたら、あんまり深く考えたことって、なかったかもしれない。
 だから今も、あの庭の夢を見るんだ。



 カズマ、あのさ。
 ……………………。
 ……やっぱり、いいや。
 え? いいってば。
 しつこいなぁ、怒るよ。


 ……。
 僕って、どんな子だったのかな。
 前に進むことに一生懸命すぎて、なんだか、よく思い出せなくて。
 この年になってこんなふうに泣き付くのって、本当子供みたいだよね。
 まだ、変わってないのかな、あのときから。


 カズマがもし、僕のことを何かの代償に使ってたんだとしても。
 僕はあの頃、どうしようもない感情の捌け口として散々暴れたし、ひどいことも言ったし。
 僕は十分それで楽に、なった。
 今を逃したら言えなくなっちゃいそうだから、今言っておく。

 いいや、今日はごめん。愚痴は終わりにする。
 自分でもう少し考えてみるから。変な話してごめん。
 全部ケリがついたら、また連絡する。
 最近忙しいみたいだしね。珍しく。
 全部ケリがついたら、神奈川の、実家を見に行きたいんだ。
 もしそのとき時間が空いてたら―――。
 ……うん。


 ありがとう。


 じゃあ、もう切るよ。
 起こしてごめん。
 おやすみ。



【第十八話】

 修恵学園の歴史は、それなりに古い。
 在学していたのは中三から大学院までの十年あまり。
 かなりの長い期間に思えるけれど、この学校の歴史からすればごく一部なのだということを、改めて知らしめられる。
 手元には、先日都佳沙から手渡された資料の束がある。
 何度か改築されて、いつもうつくしい廊下を歩きながら、頁を繰った。
 A4ぐらいの紙に、同じ大きさの文字が、無機質に整然と並んでいる。

 都佳沙に手渡されたのは、修恵学園内で起こった死亡事件のリストだ。
 ちらほらと事故という表記があるだけで、十数枚にわたるリストの大半を占めるのは、自殺だった。
 在学中にそのような事故事件が起こった覚えは、ない。
 それなのに、この学園では数十枚の紙を埋め尽くすほど、人が死んでいる。
 もっとも、そのリストは高等部だけではなく、小中高大ひとまとめにしたものなのだが、それにしても予想以上の量だった。

 見ていると気が滅入る。
 それでも何か手がかりになるものがあるのかと思えば、一応目を通さないわけにはいかないだろう。
 生徒の氏名と、略歴、自殺に至った経緯などが簡単にまとめられている。
 一日で全てに目を通すことがとても出来なくて、分割して目を通すことにしていた。

(それにしても何で昨日あんな電話なんか)
 最後の一頁に目を通し終えて、要は繰ったページを元に整えた。
 昨日の夜なにを思ったのか、以前一緒に暮らしていた男に衝動的に電話をかけてしまったのだった。
 自分の内側で、整理の出来ない感情ばかりが渦巻いていて、結局のところは愚痴という名前の感情整理。
 それに奴を使ってしまっただけなのだけれど。
 とんでもなく素の、弱っている傷口を見せてしまったような気がして、通話を切った瞬間から後悔した。
 あの人にはあまり、弱味を見せたくないのが本音だ。何故か意地を張ってしまう。

 それほどまでに、何かをもてあましていたということなのか。

 東棟の五階、屋上へ通じる階段がある区画。今は、立ち入り禁止のロープが張られている。
 校舎側から階段へ通じる短い廊下は、あまり日が当たらずいつも暗い。
 薄い闇に包まれている部分の手前で、少しだけ立ち止まった。
 元々技術室やら音楽室やら美術室やらが密集するこの区画には、人の気配というものが普段からない。
 廊下の隅に設置されている流し場の、並んだ銀色の蛇口から、たつたつと雫の落ちる音がとても大きく聞こえていた。


 愚痴という名の感情整理。
 それで見えてきたものは、闇だ。
 今まで、無意識に隅に寄せていた箱。
 厳重に封印を施してあった、黒い箱。
 かなしく、つらく、苦しいことを全部詰め込んであった。
 楽になりたくて電話をしたはずなのに、気がついたらその箱を自分からこじ開けて、直視していた。
 逃れようもなく、目が眩むような光を当てて。そうなってしまったらもう目は逸らせない。
 楽になりたかったはずなのに。
 今まで漠然とのしかかってくるだけだった重みの、具体的なかたちを知ってしまった。

 でも、何かに泣きつくのは違う気がする。
 これは胸のうちの問題だ。
 誰にどんな言葉をかけてもらったところで、最後には自分で消化するしかない。
 きっといずれは、向き合わなくてはいけない問題なのだろうし。
 時期がきただけなのだろう。
 そう思うことにした。


 腰のあたりに張られたロープをくぐり抜けて、日の差さない区画に足を踏み入れる。
 背後では、たつ、たつと水の落ちる音が続いている。
 普段ならば鳴り続ける音が気持ち悪くて仕方がないのに、今は無音の方が嫌だった。
 薄闇に包まれた突き当りには、頑丈な南京錠で閉ざされた扉がある。
 開くと必要以上に大きな音で軋むそれは、以前はクリーム色だったのだろうが、今はさび付いて黄土色のように変色している。
 老朽化のために閉鎖した、という言葉もなかなか信憑性がある。
 要は、ポケットを探って、手渡されている南京錠の鍵を探り出した。
 南京錠を外したところで扉は開きはしない。
 どうしてこの扉が施錠もしていないのに開かないのか。
 今はその調査が先だ。

 小さな鍵を探り出して、改めて黄土色の鉄の扉に向き直って、要は愕然とした。
 観音開きの扉。その取っ手についていた南京錠が、どこにもない。
 慌てて床に視線を落とす。
 それは、無造作に廊下の隅に転がっていた。鍵をこじ開けた気配はなく、ごく自然に、開いていた。
 まさか。
 予感がした。
 右側の取っ手に手をかける。氷のように冷たい。
 手前に引くと、ぎぃ、と。煩く軋んだ。
 軋んで、ゆっくりと手前に、ひらく。

 何度も開かないことを確かめたはずの扉なのに。

 あまりにもあっけない。
 開かれた隙間から、生ぬるい風が押し寄せてきた。
 湿気のような、肌にまとわりつく気配だった。

 ぎぎぎぎぃぃ。
 この世のものではない獣の鳴き声のようにも聞こえる軋み。
 ひとりがすり抜けられるぐらいまでに扉を開いて、体を滑り込ませた。
 ぬるい風が、肌にからみつく。
 目の前にはコンクリートの階段があった。
 濃い灰色で、その表面や壁には所々に黒ずんだ染みがある。
 日も差さぬこんな場所なら、本当ならひんやりと涼しいのではないだろうか。
 ゆるく吹き付ける熱風は、あまりにも不自然だった。

 扉から手を離すと、背後で煩い軋みと共に扉が閉まる。
 躊躇うつもりはなかった。目の前に聳え立つ階段と、その先にある一枚のドア。
 踏みしめるように階段を上り、突き当たりのドアのノブに手をかけた。
 まわす。
 確かな手ごたえがあった。施錠はされていないらしい。
 ノブを回したままで、向こう側に扉を押した。
 こちら側はあまり軋むことなく、すんなりと屋上への道を開いた。
 少し色を失い、これから闇に呑まれる空。風になびいて散り散りになる雲がまず、見えた。
 空から視点を屋上へと下ろす。
 屋上の縁には、鉄柵と緑色のフェンスが設置されている。フェンスの向こう側に鉄柵があるということは、フェンスは後から取り付けられたものかもしれない。
 ぬるい風は吹きつづけている。
 右手側。少し離れたところに人影があった。
 フェンスに指を絡めているようだが、細かいことまでは見えない位置。
 少し強めの風に、短いスカートが翻っていた。
 すとんと結いもせずに落とした長い髪は、乱暴な風に嬲られている。それを構わずに、"彼女"はフェンス越しに地上を見ていた。
 見覚えは、あった。
 ありすぎるぐらいに。

「岡崎さん……?」
 一歩踏み出して、要は声をかけた。
 ぱたりと静かに扉が閉まった。
 風に攫われてしまって、その声がしっかりと届いたかどうかはあやしいものだが、場の異変に気がついたように、岡崎咲子は扉のほうを振り返った。
 花のように可愛らしく、微笑して見せた。
「やっぱり。最近ここに出入りしてたんだね、要先生」
 化粧が施されているのか、元々はっきりとした目鼻立ちが強調されている。
 口唇がやけに赤い。
「どうやって入ったのかな。元々ここは立ち入り禁止だし、施錠されていただろう?」
 まるで本職の教諭のように、少し咎めるような語調で言えば、咲子はきょとんと首を傾げて見せた。
「鍵なんてかかってなかったけど?」
 とぼけているようには見えなかった。
 じゃあ誰があの南京錠を外したのだろう?
 それに、あの扉は原因不明で開かなかったのではなかったか。
「先生、最近よくここらへんに出入りしてるよね? だから気になって、来ちゃったの」
 悪びれもせずに咲子は笑った。
「今は立ち入り禁止だろう」
「要先生、本当の先生みたいなこと言わないでよ」
 フェンスに絡めていた指をほどいて、咲子はゆっくりと乱れた髪を掻きあげた。
「あたし、先生のこと知りたいの」
 口元は艶然と微笑んでいるはずなのに、視線は鋭かった。
「……。もういいから、帰ったほうがいいよ。下校時刻もとっくに過ぎてるんだし」
 僕も帰るから、と半分踵を返すと。
「だからそんなふうに」
 後ろから強引に右腕を掴まれた。
「頭カタイ先生みたいなこと言わないでって、言ってるのに」
 ワイシャツ越しに、腕に爪が食い込んだ。
「岡崎さん!」
 強く振り払おうとしても、振り払えなかった。
「要先生だって、気付いてるんでしょ」
 腕を握る力を少し緩めて、爪の食い込んでいた当たりをゆるく撫でる。
「人をからかうのもいい加減に……!」
「からかってないわよ。好きなの」
 あまりに無造作に、その言葉は投げ出された。
 唐突に、重みもなく。
「好きなの。だから傍にいたいし、色々知りたいの」
 右腕を強く後ろに引かれて、振り向かせられた。
 強引に引きずり込もうとする手の力。
 土足でこちら側に侵入を試みるような、強い瞳。
 戸惑いは、徐々に不快感と苛立ちに摩り替わっていった。
 一瞬だけ、取り乱して。それから冷静になった。
「岡崎さんは何も、僕のことを知らないだろ。僕だってそうだ」
 それなのにどうして好きだと言うの。
「知らないから知りたいんじゃない」
 じれったそうに、咲子が要を睨んだ。
「悪いけど―――」
 応じるつもりはない、と。
 答えようとして出来なかった。
 咲子の左手が要の右手を掴み上げて、自分の胸に引き寄せた。
「……したくないの?」
 自分の胸に男の手を引き寄せて、咲子は挑むような目をしていた。
 足元から髪の先へ抜けたどうしようもない嫌悪感に、とうとう要は乱暴に腕を払った。
「あんまり男を、馬鹿にしないほうがいい」
 きっぱりと言い捨てて、要は咲子から顔をそむけた。
 一度は閉ざされた扉のノブに手をかけた、その刹那に。
 また後ろから腕を引かれた。
 先程とは比べ物にならないぐらいの、つよさで。
 よろめいた体を、今度は突き飛ばされて、背中から緑のフェンスにぶち当たった。
「いい加減にしろっ……!」
「"裏切り者"ォッ!!」
 思わず荒げた声すらも、かき消すような絶叫だった。
 どん、と華奢なはずの女子高生の腕に、フェンスに押し付けられた。
 相対した咲子は、普段とはまるで別人のような、引きつった形相で、そこにいる。
「岡崎さ……」
「約束、したくせにっ……!」
 ぎりぎりと、掴んだ要の肩に爪を立てて、咲子は搾り出すように言った。


「"あたしと一緒に死んでくれるって、言ったくせに"っ……!」



【第十九話】

 謝らなければ。
 目が覚めたときから、ずっとそう思っていた。
 どうして昨日はあんなふうに取り乱してしまったのだろうか。

―――人は他人の夢なんか、食べたりしません!

 どうかしていた。
 今となってはどうして怒鳴ってしまったのかも分からないのだ。

 文化委員会の関係で、職員室の前を通ったとき、開け放たれたままになっていた扉から中をうかがうと。
 真堂先生の机が見えた。その傍に立っている細身の男の人も。
 小さな鍵を預けられているようだった。
 もしかしたら東棟の、屋上へ通じる扉を調べているのだろうか?
 それなら今、東棟へ行けば会えるだろうか?
 謝りたかった。
 きっと彼はただ、私を心配しただけなのだ。


 靴音がやけによく響く。
 廊下に人影はなかった。
 元々東棟の五階には、ふつうの教室はないのだ。
 音楽や美術、選択授業で使う教室とその準備室が並ぶばかりで、常に閑散としている。
 たつ。
 どこかの蛇口がゆるんでいるのか、水が落ちる音が聞こえた。
 たつ。
 忘れた頃に、もう一滴。
 左手側に扉が並び、右手は全面窓だった。
 橙色に包み込まれ始めた空に、鴉が一羽わたってゆくのが見えた。
 あまりにも静かだ。
 真っ直ぐに伸びる廊下を突き当りまで歩く。突き当りのそばは、美術室だ。
 美術室の扉と向かい合わせるように、水飲み場が設置されていて、等間隔に落ちる雫の音は、そこから生み出されているようだった。
 一番手前の蛇口から、ゆるゆるとふくらんだ雫が、やがて限界まで膨張して。
 たつ。
 と、落ちる。
 なんとなく、耳障りな気がして、蛇口に手をかけてきつく締めた。
 音が止んだ。

 突き当たり。左手を見ると、短い廊下がある。
 そこには窓もなく、うすぐらい。
 一本のロープが腰の高さぐらいに渡されていて、中央に「立ち入り禁止」のプレートがぶら下がって、たわんでいる。
 からり、と音を立てて、そのプレートが僅かに揺れた。
 風に撫でられているように。

 薄暗い向こう側に、僅かに錆びた観音開きの扉が見えた。
 たわんだロープをくぐって、光ささぬ廊下に足を踏み入れる。
 数歩歩くとすぐに扉に突き当たる。廊下の隅に、開かれた南京錠が転がっていた。
 英さんが、開いたのだろうか?
 なんとなく違う気がする。
 あの人なら、あんな場所に無造作に転がしておかない気がする。
 右の取っ手に手をかけた。
 確か、施錠もしていないのに開かない、という扉だったはずだけれど。
 僅かに力をこめて手前に引く。重い、けれども。
 ぎぃ、と軋んで扉は開いた。
 生ぬるい風が、頬をなでていった。


            *


 尋常な力ではなかった。
 押さえ込まれた肩に容赦なく、長く伸ばしてマニキュアでコーティングされた爪が刺さって、痛い。
「嘘つきっ」
 険しい顔つきで、咲子が怒鳴った。
「一緒に死のうって、ゆったじゃないっ」
 ぎぃっとこちらを睨む瞳が、見る間にうるむ。目元があからんだ。
「誰、だ」
 岡崎咲子では、ない。
 押さえつけられ、圧迫される肺。上手く酸素が与えられないままで、要はうめいた。
「あたしばっかり、どうして突き落としたりしたの」
 両肩を鷲掴みにされ、強く揺さぶられた。背のフェンスに強く叩きつけられた。
 体とフェンスとがぶつかり合って、耳障りな衝突音をあげる。息が止まった。
「せ、んせぇっ」
 嗚咽に千切れそうな声で、少女が叫んだ。
 先生?
 胸のあたりに、少女の頭が落ちてきた。額を擦りつけるようにする。
「ずっと、寂しかったんだからあたしずっと……」
 肩を掴んでいた細い指先が、はなれた。それで、少女は顔を覆う。
 額を要の体に押し付けて、咲子の姿をしたものは、しばらく肩を震わせて泣いていた。
 足りなかった酸素を補うように、深く呼吸する。
 これで相手が少し落ち着いてくれればいい。
 おそらくこの屋上から飛び降りた少女なのだろう。どうやって説得したものか。
「……で、よ。いっしょに」
 低いつぶやきが、俯いた少女の口から零れ落ちた。
「先生も、一緒に、死んでよ」
 顔を覆っていた手が、ゆらりと持ち上がった。
「あたしのこと、殺したんだからっ」
 細く白い指先が、躊躇いなく要の首に絡まった。
「先生も一緒に、死ねよォッ!」
 搾り出したような絶叫とともに、指先に力が篭った。
 ぎりぎりと気道を狭めて、呼吸を奪う。


―――あなたなんて、産まなきゃよかった。


 左胸の内側で、心臓が大きく跳ねた。
「やめ……」
 首に絡まる細い手。その手首を掴んで引き離そうとした。
 うまくゆかない。


―――お前が殺したんだ。母親を。


 考えるな。今はそんな場合じゃないのに。
 首に絡む指先の感触。それだけで、封印していた箱の蓋が、開く。
 目をそむけ、考えないようにしてきた。
 さも乗り越えた顔をして。
 もしかしたらこの首に絡んでいるのは、岡崎咲子のものではないかもしれない。
 あの日のままに、もしかしたら。


 父の。



―――愛しているから、一緒に死にましょう。

 顔ももう思い出せない、母の声ばかり繰り返す。
 耳の下、決して消えることのない古傷が、急に熱を持った。

 振り上げられた刃物の、照明を跳ね返すかがやき。
 この体に、追いすがるように絡みつくいくつもの腕。

 空虚で無音の、白ばかりの部屋―――。


 脳がまるで心臓に変わったかのように、内側から鼓動が響く。頭が割れそうにいたい。
 必死に目を開いていようとするのに、視界が霞む。
 首を締め上げる力は緩まずに徐々に強くなった。
 制止するために少女の腕を掴んだ自分の手にも、力が入らなって、ずるりと落ちた。

 きつく瞑った目蓋の内側に一瞬だけ映し出されたのは。
 赤く染まった壁、だった。


            *


 がっしゃん、と。
 ものすごい音がした。
 屋上へ通じる灰色の階段の、中程までで思わず立ち止まる。
 一枚、目の前に見えている鉄の扉の向こう側からだった。
 小走りに階段を駆け上がって、ドアノブを引っつかんで向こう側に押し開いた。
 嫌な予感がした。
「英さん!?」
 扉を開くと同時に呼ばわった。
 ひょう、と強い風が吹き抜けて、黒髪が視界の邪魔をした。
 右手側のフェンスに人影がある。
「岡崎さんっ!」
 見覚えのあるクラスメートの名を叫んで、駆け寄った。

 岡崎さんが英さんの首を、両手できつく締めていた。
 間に割って入って、引き離そうとした。
 岡崎さんはまるで私など見えていないかのように、涙で濡らした瞳で英さんを見つめている。
 英さんは、両腕をだらりと落として、きつく目を閉ざしていて、動かない。
「岡崎さん、やめてっ……!」
 岡崎さんの肩にとりすがって、何とか引き剥がそうとする。
 同じ年頃の女の子の力なのだろうか? びくともしない。

 右手を、見た。
 何の変哲もない、生まれてから今まで付き合ってきたこの手。
 父を喰い殺したその日から、この右手には特別な力が備わっているはずだ。
 一度も使ったことはないけれど。

 人を眠りに引きずり込む力。

「ごめんなさい」
 断って、岡崎さんの額に、右手を押し当てた。
 目も眩むような光が走ったような気がした。
 一瞬の間を置いて、英さんの首に絡んでいた細い指先から、力が抜ける。
 ずるりと、地面に崩れ落ちた。
 灰色のコンクリートに、色素の明るい髪がざらりと広がった。

 フェンスに全身の重みをあずけて、英さんがその場に座り込む。そのまま横にぐらりと倒れた。
「英さん……」
 少し揺すってみようとして、肩に手を置いた。
 刹那、掌の内側が焼けるように熱くなった。

(嘘)
 体の中身を全て持ってゆかれる。
 こんな強力な"引力"、感じたことがない。
(のまれる―――)
 周囲を、目も眩むような白い光が包み込んで、意識はそこで途切れた。




【第二十話】

 体を飲み込むようなまぶしいひかり。
 それが落ち着いた頃、体のすぐ傍をつよい風が抜けていった。
 さわさわ、ざわ、と。足元と上空で草が揺れる音。
 森の中にいた。
 見渡す限り、緑が広がる場所に、いつの間にか立っていた。
 樹が、まるで高さを競うように茂り、方々に枝を投げ出している。さらさら、と音を立てるような木漏れ日が落ちていた。
 少し伸びた足元の草が、くるぶしのあたりをくすぐった。
 見渡す限りが緑に埋め尽くされている。そのはるか向こうに、ヨーロッパの田舎にあるような城が、見えている。
 外壁は濃い灰色で、煉瓦を積み上げたような形をしていた。
 日の光がまぶしい。正午ぐらいだろうか。

 一体ここは、どこなのだろう。

 とりあえず、城に向かって歩き出しながら、ふとそんなことを思った。
 夢の中の世界なのだし、実際に存在する場所ではないのかもしれない。
 けれども、あまりにリアルすぎた。
 草の感触や建物の古びた雰囲気も、ありのままに思える。
 さくさくと草を踏むうちに、やがて喧騒が聞こえてきた。
 男女の声が入り乱れて、四方で飛び交っている。
 ここか、むこうかもしれない。
 何かを探している声だった。

 体のすぐ横を、不意に小さな影が駆け抜けた。慌てて目でそちらを追う。
 ふわふわと、裾が翻る。白だ。
 入院している病人が纏うような、ゆったりとしたワンピースのような服。足首あたりまであるそれを翻して、十程の子どもが体の脇を駆け抜けていった。
 燦々と注ぐ日のひかりを跳ね返して、少年の栗色の髪が艶やかに輝いた。
「……英さん?」
 一瞬だけ垣間見えたその横顔は、英さん、のように見えた。
 鮮やかな白をひらめかせて、少年は弾丸のように城に向かって走ってゆく。
 さくさく、と踏まれた草の悲鳴がここまで聞こえるような気がした。
 ゆっくりと、足を踏み出して。
 すぐに小走りになった。見失ってはいけないような気がした。

 森を抜けると、城のほかは見渡す限りに何も無い場所にいた。
 思わず足を止めて、ぐるりと四方を見回す。
 森の近くとは違い、草はちゃんと刈られていて、くるぶしにまとわりつくことはない。
 城の入り口から一本伸びた舗装された道。それはどこまでも遠くまで伸びているように見えた。
 その道の傍にひとつだけ、緑ではない色がある。白。だ。

 礼拝堂?

 きちんとした礼拝堂を見たことがないので、はっきりとは分からない。
 それでも、テレビなどで見る、教会の礼拝堂のように見えた。
 果てしなく広がる緑の中に、一本の道と、城と礼拝堂。
 ここは、一体なんなのだろう?

「"要様"」
 叱りつけるような男の声が聞こえてきた。城の入り口。巨大な扉がある傍に、人だかり。
 要、様?
 草を踏んで、そちらのほうへ近づいた。
 先程の少年が、大人たちに取り囲まれている。男のひとりが、少年の腕を掴んだ。
「どちらに行かれていたんです」
 口調はとても丁寧だが、あからさまに責めている。
 片腕をしっかりと掴まれたまま、少年はうな垂れて、何も言わない。
「もうすぐ"お祈り"の時間なのですから、勝手にいなくならないでください」
 ようやく、少年は俯いたままで小さく、「ハイ」と返事をした。
 おいのり。
 なんだろう?
 やがて人だかりが崩れてゆく。男に手を引かれて、少年は礼拝堂のほうへ歩き出す。
 引きずられる、家畜のような足取りだ。重い荷を乗せられた、痩せ細った驢馬のような。
 処刑場へゆく罪人のような。

 礼拝堂の扉が自ずと内側に開かれた。
 男と少年がその口に飲まれてゆく。
 私はいつのまにか、扉の正面に立っていた。
 開かれた扉の内は、闇だった。
 何か白いものが蠢いていると思ったら、それは無数の人の腕だった。
 男と少年を飲み込んで、扉は叩きつけるような勢いで、閉まった。

 風が通り過ぎた。
 さらさら、さら。
 草が花弁のように舞い飛んだ。


「何処へ行くのっ!」
 突然怒鳴りつけられた。細い女の声だった。
 たかくて、どことなく金属じみた声。
 体の左手側だった。そちらに顔を向けると、綺麗な女の人が立っている。
 薄茶の髪が長くて、肌がとても白い。
 シンプルな白いワンピースを着ていた。
 胸元を握り締めるような腕がとても細い。折れそうなぐらいに細い。

 きれいなひと。
 漠然とそれは分かるのに、上手く相手の顔を言い表すことが出来ない。
 まるで不定形。。
 こうだ、と思ったのに、次の瞬間には形を変えているような。
 判然としない。

 女の人は目をうるませて、私の肩越し、向こう側を見ていた。
 泣くのを必死に堪えているように見える。
「何処にも行っちゃ駄目よ」
 小走りに、女の人は私に近づいてきて、そして、"私の体を通り抜けた"。
 向こう側へ。
 冷たいものが通過した感覚だけがあって、私は思わず振り返る。
 真っ直ぐ一本に城から続いていた道が途切れていた。
 道が途切れた先に、巨大な門がある。
 黒々とした頑丈な格子を組み合わせた門の手前に、おさない子どもがいた。
 まだ五歳ぐらいに見える。
 驚きに目を見開いて、子どもは駆け寄る女の人を見ていた。
「何処にも行かないで、要」
 少年の前に倒れこむようにして、女の人はその小さな体を掻き抱いた。
 大層愛らしい、人形のように端整な顔立ちの少年は、何故か困ったような顔で縋る女の人を見下ろしている。
「どうしていつも私を置いていくの。私の傍にだけいてくれればいいの。ママを置いていかないで」
 幼子の顔の輪郭を確かめるように、両手で頬を包み込んで、その女の人は哀願した。

(英さんの、お母さん……)

「ずっと傍にいてくれるでしょ、要。大丈夫、ママは貴方のことちゃぁんと分かってるから。ママは貴方の味方だから。貴方がどんな力を持っていても、ちゃぁんと、愛してるから」

―――私、根津さんのこと、分かってるから。
 不意に蘇ったのは、尾上さんの、呑まれそうな黒い瞳。
 貴方がどんな化け物でも、分かっていると、言った。
 女の人の口ぶりは、まるでそれと同じように聞こえる。
 世界中の何もかもが、顔を背けてしまうような生き物なのだと、聞こえる。

「何処にも行かないわよね?」
 繊細な指先で顔を包み込んで、ゆっくりと撫でた。
 少年は、猫のような丸い瞳で何度か瞬きをしてから、恐々と首を前に倒す。
 かくん、と音がしそうな頷き方で。
「だいすきよ、要」
 華のように顔をほころばせて、女の人は小さな体を腕に抱きこむ。
 やがて少し戸惑いがちに、子どもは小さな腕を母親の首に絡めた。

―――あんなふうに言い聞かせないと。
 頭の内側に、急に声が響いた。
 少年の声のようだ。
 母親の腕に抱かれている子どもよりは、幾分か大人びた声音。
―――愛しているかどうかも、分からなくなってしまっていたんだ。あのひとは。
 彼女は、同じ色合いの髪を持つ小さな子に、頬を寄せる。

―――でもあのひとはとても優しくて、慈愛に満ちたひとだったから、自分がお腹を痛めて産んだ子供を愛せないなんて、ありえないことで、そんな自分を認めたくなくて。
 だから何度もああやって、言葉にする。
 きつく抱き締める。くちづける。
 自分に知らしめる。
 愛している愛している。
 愛していると。

―――子どもは鋭敏に、その気配を察知する。だから要は、怯えてる。

「貴方は誰」
 声に出して問うた。

―――また、あいつが来たのかと思ったのに、違うんだ。

 独り言のようなつぶやきだけが落ちて、周囲の緑が急に融けた。









【続く】