二度生まれる
第十一話〜第十五話

【第十一話】

 事務まで行ってくる。
 そう言い残して、廣澤先生は研究室を出た。
 私は手持ち無沙汰になって、本棚に近づいた。
 ブラインドの隙間から強い西日が落ちてくる。まだらな模様を床に描いた。
 あれから。
 尾上さんという人に出会ってから、驚くほど早く時が過ぎている。
 もう五日、だろうか? 上手く思い出せない。
 今週末の特別授業に使う資料をまとめる手伝いをしたあとに、食事にでも行こうかと、先生に声をかけられた。
 そう言えば今日は、父の月命日だった。

 差す夕日が、左腕にひかりを落とす。
 ふと腕を見て、急に、あの日のことを思い出した。




 あの日。

 我に返ったら、薄い闇につつまれていた。
 いつの間にこれほど暗くなっていたのだろう?
 日はすっかりと落ちてしまっていた。
 ぼんやりと自分の席に座っていた。机の上には鞄を投げ出したままだ。
 どのくらいこうしていたのだろう? 壁にかけてある時計を見ると6時近かった。

 帰らなきゃ。
 思わず口に出した。
 家に、帰らないと。
 玄関の、暖かな橙のひかりとか。抱き締めた朝樹の体の温度とか。
 思い出すのに。
 立ち上がれない。
 鞄の上に置いた指先も、動かせなかった。


『私たち、きっと助け合っていけると思うのよ』


 何とか椅子を引いて立ち上がる。
 まとわりつくような声が、蘇った。
 掴まれた左腕には、まだ感触が残っている。くっきり、指の形に。

『くるしみを分け与えられると思うの。私のことも、きっと根津さんなら分かってくれるって信じてるから』

 踏み出した足元。床がまるでこんにゃくのようにやわらかい。
 錯覚なのだろうけれど、ふらついてしまった。


 辛いでしょう、苦しいでしょう。
 詰め寄られる、瞬きをしない瞳の黒。


 "辛いわよね"?


 横滑りの扉を開いたところで、世界が急に揺れた。
 扉の枠に、重みを預けた。
 じっとりと、内側から汗が滲み出す。立ちくらみだ。


 今まで一度も辛いと思ったことなんて。
 なかったのに。

 その日は、どうやって家に帰ったのかも覚えていない。
 朝樹の部屋に顔を出したのかも、夕食を食べたのかも、覚えていなかった。
 気がついたら次の日の朝。



 その日を境に、周囲でよく尾上さんを見かけるようになった。
 視線を感じるように。
 思い返すと何故か、夕日がおちている左腕が、粟立つ。

 当然のことと思っていたから、驚いているのだろう。
 辛いとか。
 苦しいとか思ったことはなかった。

―――辛いわよね?

 決め付けるような語調が耳元でくりかえす。
 別の声が言う。
 仕方ない。これは誰のせいでもなく、決められたことだから。
 そういうふうに、生まれただけ。
 分かっている。だから辛くなんて、ないのだ。
 大丈夫。


 大丈夫のはずなのに、気がつけば口元を手の甲で押さえてしまっている。
 ここ数日、時折波のようにやってくる嘔吐感だ。
 体内の鼓動が、強く、脈打つ。体中に孤を描くように広がる。
 風邪かもしれない。きっとそうだ。
 口元を押さえて、深く呼吸をする。何度も。そうしていれば大体落ち着いてくる。
 目を閉じる。夕日の色を見ないようにする。


「倭、これをホチキスで止め―――」
 扉が開く音を、背で聞いた。
 自分でも驚くぐらいに体が跳ねた。
 見られてはいけないものを見られたような。焦燥感と、おびえ。
 おさまりかけていた鼓動が、早まった。
「どうした? お前真っ青じゃないか」
 プリントの束を抱えたままで、廣澤先生が近づいてくる。
 その姿が歪んで、ぶれて、ぼやけた。
 ぬっと伸びた先生の右手が、私の左腕を。
 あの日のように。
 掴んだ。


―――私、貴方がどんないきものでも。


 ぶつん。
 スイッチが切れるように、意識が飛んだ。


―――私は分かってあげるから。貴方がばけものでも。


            *


「―――ト、ヤマト」
 あどけない声が名を呼ぶ。
 目蓋の裏で光を感じる。うっすらと目を開いた。
 すぐ上から、横から首を突っ込む形で覗き込まれていた。
「朝、樹」
 僅かに涙を溜めた瞳で、朝樹がこちらを見下ろしている。
 小さな手が私の肩を必死に揺すっていた。
「よかった、目が覚めた」
「……起き上がってて、平気なの」
「バカっ!」
 朝樹の心配をすると、叱られた。怒鳴りつけられた。
「ヤマトが学校で倒れたって、廣澤先生が連れてきてくれて。すっごく心配したんだから」
 ベッドの上で上体を起こすと、自室だった。
 十二、という年にしてはかなり小柄な体が縋りついてくるのを、受け止める。
 小さくしゃくりあげる震えが、なまなましく伝わってきた。
「ごめんね」
 背を擦ると、頷く気配。
「なんでも話してくれるって、いったのに」
 しっかりと強く抱きついてから、朝樹が僅かに体を離した。
 顔が青白く血の気がなかった。負担をかけてしまっただろうか。
「最近のヤマト、おかしいよ。どうしたの」
 かなしそうに、朝樹が眉を顰めた。
 痛みを我慢するような顔だった。
 口を開きかけて、すぐに閉じた。上手く言葉にならない。
 確かにここ数日、朝樹への秘密が増えた。
 尾上さんのことは、何度話そうとしても、咽喉に詰まってでてこない。
「大丈夫」
 作り笑顔を見せたのは、初めてかもしれない。
 痛みを堪えるような顔は、和らいだりしない。
 澄んだその瞳は、何もかもを見通しているのかもしれないけれど。

―――きっと私、貴方のこと誰よりも。

 これはきっと、私ひとりの問題なのだ。

「ただ少し、風邪っぽいだけだから、気にしないで。ベッドに戻ったほうがいい」
 相変わらずしかめっ面をしていたけれど、朝樹はそれ以上何も訊かなかった。


―――分かってあげられる。拒まないで。

 誰に理解されなくても、私は平気だ。
 もう、解決していることなのだ。



【第十二話】


「ひさしぶり」
 頭上から声が降ってきて、要は本から顔を上げた。
 少し前まではほぼ毎日のように顔を合わせていたというのに、最近はとんと会わなくなった相手だった。
 本に栞を挟んで鞄に仕舞いこむ。
「最近全然連絡がないから、どうしてるんだろうと思っていたところだよ」
 要の向かい側に腰を下ろした同年代の男は、黒のライダースーツを纏っていた。
 繊細に線が細く、肌は白い。黒檀のような黒い髪が顔に零れかかっている。
 切れ長の瞳もまた黒い。身のこなしにそつがなく、隙もない。
 言葉にあまり抑揚はないが、流れるように穏やかだった。
「久しぶり。バイク? 仕事だった?」
「いや、気晴らしにね。何分最近は肩がこることが多くて」
 銀 都佳沙(しろがね つかさ)はそう言って、涼やかに苦笑した。
 名家銀一門の、宗家の嫡男。
 ゆくゆくは一族を束ねる長になることを定められている男だった。
 都佳沙とは、以前同居していた成瀬の当主のつながりで知り合った。
 同い年でふたりとも修恵に通っていたということもあり、気の置けない付き合いをしている。
 けれども最近はお互い、研究だ仕事だと時間が合わなくなり、必然的に会う回数は激減した。
 会う回数が減ったところで、互いの間に隙間が生じる要素は、何一つなかったけれども。
「相変わらず仕事は忙しいんだ?」
 銀宗家の人間。しかも嫡男となれば、おそらく引く手数多だろう。
 高校時代からも何かと多忙だった彼のこと、生業を本職としたからには、相当忙しいのかもしれない。
「実地の仕事よりも、裏方の雑務の方が多くて、辟易しているよ」
 この友人の凄いところは、人前では疲れている顔を見せないところだと、要は思う。
「ところで、父さんが頼んだっていう修恵のことなんだけど、何か分かった?」
 コーヒーを頼むと、都佳沙は改めて要に向き直った。
 うん、と一度頷いてから、要は間を置いた。
「実際のところ、あんまり良くは分からないんだ。色々混ざっている気がして」
「混ざっている、か。何らかの負の因子がはたらいていることは、要から見て間違いはなさそうなんだ?」
「それは多分間違いないと思ってるけど、どれが本物の原因なのか、掴みかねている感じ」
「そういうときは、全てが原因の場合もある」
 都佳沙はテーブルに運び込まれたコーヒーを、そのままで口元に運んだ。
「え?」
「蝶の羽根のひとふるえが遠く離れた土地で竜巻を起こすこともある。些細な契機(きっかけ)も様々な要因が積み重なれば大きな事件に発展する。色々なものが絡まっていると思うのなら、無理に一を探すよりも全を疑ってかかったほうがきっと早いよ」
 淡々と流れる都佳沙の言葉を、要は黙って聞いていた。
 カップを持ち上げたままの手が止まってしまっていた。
 言葉が途切れたところでようやく瞬きをする。
「そう、か」
 鱗がぼろりと落ちるというのは、きっとこんな感じなのかもしれない。
「そうだね、気がつかなかった」
 急に恥ずかしくなった。随分と視野の狭い考え方をしていたような気がする。
 間を置くように、要はようやくコーヒーを口元に運んだ。
「要はいつも一生懸命だからね」
 子どもをなだめるように言われてしまうと、尚更立つ瀬がない。
「役に立つかどうかは分からないけど、今回の一件に関係がありそうな資料を預かってきたから、目を通しておくといいよ」
 気恥ずかしげに黙りこむ要の前に、都佳沙は茶封筒を差し出した。
「ありがとう。始さんから?」
 差し出されるままに受け取って、封筒の中を覗き込む。
 白い紙の束が綺麗に整えられておさまっていた。
「父さんもお祖父様も、暇があるなら顔を出せって」
 笑顔で都佳沙が応じた。
 始とは、銀の現当主であり、都佳沙の父の名だ。
 普段から並々ならぬ世話を受けているのだが、最近は忙しさにかまけてすっかり顔を合わせないでいる。
 だが実は、銀の本家というあまりにも厳粛な日本屋敷は、緊張するのだ。未だに。
「近いうちに顔出すよ」
「しっかりと伝えておくからね」
 この友人に建前など通じない。要は苦笑した。
「ああそれから要」
 ふと、都佳沙が真摯な目をした。
 要は口元から苦笑を消して、居ずまいを正す。
 どうやら他愛のない世間話ではないようだ。
「根津の夢喰いと会っているって?」
 都佳沙がどこから話を持ってくるのか、色々とシュミレートしていた要だが、もっとも予想外のところから話は飛んできた。
 返事も出来ずに、ぽかんと都佳沙の顔を見つめてしまう。
「え?」
 少しの間を置いて、ようやく聞き返した。
「真堂先生からこのあいだ聞いたんだ。親戚の集まりがあってね。ああ、別に責めているわけじゃないから安心して」
 こちらの顔が強張っていたのか、都佳沙は少し和やかな顔を作った。

 真堂迅は、銀の遠縁に当たるらしい。
 特殊な生業を持つ家だけに、学生生活にも支障が出がちな銀の家は、代々修恵学園に通うのが仕来りのようになっている。
 事実、高校時代も副業として霊媒の仕事を請け負っていた都佳沙は、やはり普通の生徒よりも休みがちではあった。
 修恵学園側も、その事情については理解しているらしく、過ごしやすいのだろう。
 その裏側には、寄付だのなんだのという大人の事情もあるようだが。

「迅先生は、根津さんの家のこと知ってるんだ?」
「そうみたいだね。ただし、彼女の前ではそういう態度を出したことはないみたいだけど」
 そういう人だ。
 大雑把に見えて配慮はある。
「要は銀や成瀬の家と付き合いはあるけれど、厳密に縁戚ではないから、僕たちは君の行動にそこまで干渉するつもりはないよ。要はちゃんと分かっていると思うし、ただの口煩いお小言だと思ってくれればいい」
 空にしたコーヒーカップをテーブルの隅に寄せながら、都佳沙が珍しく言い訳のように前置きをする。
「必要以上の干渉は、あまり良くないと思う。たとえそれが完璧な善意であっても。特に夢喰いはとてもデリケートな問題だから」
 要はただ一度だけ、頷いた。
 夢喰い。その問題の重さ複雑さは、自分で身を持って知っているはずだった。
 伊達に五年、その闇を抱える男と暮らしたわけではない。
「別に、自分から力になってあげようとか自惚れて、世話を焼いているわけじゃないんだ」
 要は掻い摘んで、根津倭という少女と顔を合わせた経緯を都佳沙に説明した。

「先生が根津さんを心配しているのも分かるけど、必要以上にこちらから干渉をかけることはしないつもり。触れられたくない場所触れられるつらさは、僕だって覚えがないわけじゃない」
 要はふと、左耳の下に触れた細い指の感触をなまなましく思い出した。
 思わずそこに左手を当ててしまう。
 杞憂だったね、と都佳沙が苦笑した。
「小言みたいなことを言ってごめん。つい、ね」
 癖なんだ、と言って都佳沙は話を打ち切った。

「ところで、女子高生に気に入られてるんだって?」
 これもまた、予想外のところからの攻撃だった。
 冷めかけたコーヒーに、要は思わず噎せた。
「……それはどこからの情報? 迅先生から?」
「いいや、勝利から」
 くすくすと楽しそうに笑う都佳沙に、要は悪友への制裁を心の中で誓った。
「要は根が善人だから、厄介ごとに巻き込まれないか心配しているんだよ、僕も勝利も」
 心配しているというには、軽い語調だった。からかわれている気がする。

「最近全然会わないけど、一馬さんはどうしているのかな?」
 やや憮然と押し黙る要に、都佳沙は話題を変えた。
「少し以前よりは忙しそうにしてるけど、相変わらずだよ」
「成瀬の本家に随分と出入りしてるみたいだね」
「時々顔出したりすると、パソコンの前なんかに座ってるからびっくりする」
 全く、らしくない。都佳沙も都佳沙で、それは確かに驚くかもね、と同意を示した。
「あ、そういえば雅さんは?」
 久しぶりに顔を合わせると、必然的にお互いやその周りの状況報告会になる。
 付き合いの深い、都佳沙の叔父。カメラマンである彼とも、最近顔を合わせなくなった。
「あの人も相変わらず、親馬鹿でとても困ってる」
 溜息混じりに都佳沙が答えるのに、要は思わず笑った。

「これから何か特別に用事がないなら、ご飯でも食べに行こうか」
 話が途切れた頃合を見計らって、都佳沙が切り出した。
 そうだね、と応じて、要は手渡された書類を手に立ち上がった。



【第十三話】

 目の奥が、重くて痛い。
 ぼんやりと、世界に霞がかかっているような気がする。
 周囲の音は少し遠巻きで、リアルには染みてこない。
 透明な膜が私を包んでいるようだ。
 私と世界とを隔絶している。

 睡眠が足りていないせいだ。それは分かっている。
 分かっているのに、眠れない。
 とてつもなく眠いはずなのに、目がずっと、冴えているのだ。
 眠れなくなって、どのぐらいが過ぎたのか。数えるのもやめた。
 今日も足は、慣れた道を兵頭の家に向かって辿る。
 修恵の敷地を出て、なだらかな坂を下り、住宅街を抜け、十五分もすれば兵頭の家にたどり着く。
 そのはずなのに、気付けばいつのまにか駅前の商店街のあたりまで来ていた。
 家に帰りたくないと、そんなことを思ったのは初めてだ。
 特別嫌なことが待っているわけではない。
 ただ、ひとりになる時間が欲しかった。
 いたわりや慰めや、気遣いと離れた場所に。
 気遣いなどされなくても、平気なのに。
 周囲の環境は過敏で、そして過保護に思えた。

 どうして、みんな優しくしようとするのだろう。
 ただのけだものになんか。
 優しくなんてされなくても、構わないのに。
 ただ片隅で、捨て置かれて生きているだけがいい。


―――おはよう、根津さん。おはよう。


 毎朝嬉しそうに挨拶をくれる尾上さんの目は、身内の気安さに満ちていた。
 "私は貴方を分かっている"。
 そんな目を、していた。
 どことなく優越の色をしている。
 他の人間とは違うという、明らかな優越だった。
 貴方がもし、私と同じ生き物だというのなら。
 どうしてそんな勝ち誇った顔をするのだろう。
 私たちは、選ばれた優秀な生き物などでは決してない。
 ただのばけものだ。



「あれ、倭ちゃん?」
 ばっさりと、突然。周囲を包む膜が裂けた。
 その向こう側から飛び込んできた、声。
 振り返ると、スーツ姿の人が立っている。
「神田、さん」
 英さんの親友だという、神田勝利というひと。
「やっぱり。見覚えあると思った」
 犬のように無邪気な顔で、神田さんが笑った。
「家ってここらへんなの? ってか、どうしたの」
 身を屈めるようにして、神田さんが私の顔を覗き込んだ。
「真っ青じゃん」
 私は思わず一歩退いた。そんなに、眉間に皺を寄せて心配されるぐらいに顔色が悪いのだろうか。
 ただちょっと、昨日眠れなくて、と言った。
 それは事実だった。ただ眠れないのは、昨日だけではないのだけれど。
「そっか、やっぱり眠れなかったりするんだ?」
 妙に納得したような顔で神田さんが頷いて見せた。
「やっぱり自分にはそういう力、使えないのかぁ」
 さりげなく零す言葉に、私は愕然とした。
「あ、ごめん!」
 よほど強張った顔をしていたのか、神田さんが慌てて詫びた。
「そういうの、言われたくなかったなら、ごめん」
「英さんから、聞いたんですか?」
 思わず咎めるような口調になっていた。
「ただ目の色、見覚えあったから、そうだと思っただけで。要の名誉にかけて言うけど、あいつは何も言ってない」
 そういうことに関しては、あいつは口堅いよ。俺が口を滑らすのが多いだけ。
 もう一度神田さんはごめんね、と言った。
 私も頷き返す。
 その拍子に足元がよろめいた。
「本当に大丈夫? 少し休んだほうがいいんじゃない?」
「でも」
「じゃあ、こうしようか。俺はこれからお茶にしようと思ってたところ。ひとりだと寂しいから、優しい倭ちゃんはそれに付き合ってくれるってので、どう」
 俺のために一肌脱ぐつもりで。
 ね、と押されて。
 ただ頷いてしまった。


            *


 聞き上手というのか。
 神田さんはこちらの話を引き出すのが上手な人だった。
「へぇ、要ちゃんも大変だねぇ、モテモテちゃんじゃん」
 要ってどうしてるの、先生してるの? と興味津々の様子で訊かれ。
 促されるままにとつとつと話した。
「でもあいつ、愛想はあんまり良くないでしょ」
 コーヒーにミルクだけを注いで、神田さんが言う。

 そういえば英さんは、冷たそうで苦手、と言われていたっけ。
「人見知りだからねぇ、要は。冷静沈着とか、全然。本当はもっとのほほんしてるの」
 のほほん?
「そう。それに毒舌がひどい。絶対零度」
 私は思わず首を傾げてしまう。神田さんが話す英さんの印象と、知っている姿が重ならない。
「気を許した相手には本当ひどいよ。特に一馬さんとかもう、餌食」
 容赦ないんだから本当。
 そうやって神田さんは笑うのだけれど、私には想像が出来なかった。
「一馬、さん」
 零れた名前を繰り返してみた。
「ああ、要が昔一緒に暮らしてた人ね。成瀬一馬」
「成瀬の」
 夢喰い。

 ふと、初めて神田さんに会った夜にめぐり合わせた青い瞳を、思い出した。

「でも俺ね、ちょっと心配してるんだけどさ」
 神田さんの声がまた、私を現実に引きずり戻した。
 焼きついて離れない同じ色の瞳のことは、少し放っておくことにする。
「要。あいつしっかりして見えてるけど、根がお人好しで善人だから。この間共通の友達とも話したんだけど。気付かないうちに思いつめるから、ストレスになってなきゃいいんだけど。今、修恵の屋上について調べてるんでしょ、あいつ」
 スーツの内ポケットから、煙草のパッケージを引きずり出しかけて、ふとやめる。
 いいですよ、と言ったけれど、いいのやめとく、と煙草を仕舞いこんだ。
「いろんなこと一遍に出来る奴じゃないからねぇ。週一とはいえ、講師の掛け持ちが負担になってなきゃいいんだけど。あの顔じゃ女子高生の相手も大変だろうに」
「きず……」
 思わず口から出て、驚いた。
 傷? と神田さんが訊き返す。
 ふと、思い出したのだ。この間の出来事。
「英さんの、左の耳の、下」
 古い傷がある。
 今までニコニコしていた神田さんがふと、素の顔になった。
 表情を消して、真顔に。
「その傷がどうかしたの」
 真剣な表情に、ごまかしは通用しない。
 私は先日の出来事を、岡崎咲子のことを、何故かしどろもどろに説明する。

 話し終わる頃にはすっかりと、神田さんの表情が強張っている。
 張り詰めた空気に、私が責め苛まれている気がした。
 たっぷりと数分黙り込んでから、神田さんはひとつ大きく、深呼吸をした。
「俺の勝手なお願いだけどさ、倭ちゃん。そのことについてはそっとしといてやって」
 もう元の笑顔だった。
 けれども私は何故か、申し訳なくなる。
「古傷だから。俺も触れないし。触っていいもんじゃないし。一馬さんも多分そうしてた。逆に要もそうしてたと思うし」
「傷?」
「俺もよく知らないけど、一馬さんずっと、悩んで憎んでたみたいだから。夢喰いの力」


 悩む?
 憎む?
 それは、意味のない悩みに思えた。
 どうしようもないこと。
 だって、悩んだところでどうにもならない。

 しようのないことだもの。
 そういう生き物に生まれてしまったのに。


 皆どうして、人と同じ扱いをするの。



「でも俺はその力に、昔助けられたんだけど」
 助けられたと、神田さんは、そう言った。



【第十四話】

 人の世に、影のように巣食って、心の闇を這うように。
 おこぼれを貰うように生きていくものでしょう。
 どうして苦しまなければならないの。


 社会性を繕う別の生き物が、体の中に住んでいることを知る。
 どんなにぼんやりと考え事をしていても、それなりに、日々繰り返される日常生活をこなせるものなのだ。体は。
 笑顔や相槌を。
 何事もないかのように、全に溶け込んでいられる。
 けれど疲れる。繕う必要がなくなった放課後などには、特に。
 何を取り繕っているんだろう。
 多分、今まで考えたことがないことばかりを考えているから、疲れているのだろうな。
 そう思うことにした。


―――中学の頃、色々あって、眠ったまま起きれなくなったことがあって。


 昨日、喫茶店で聞いた神田さんの話を、もう何度も繰りかえし考えている。

『別に病気とかじゃなくて、体はすごく健康だったんだけど。一週間ぐらい、かな?』
 もしかしたら、あの時一馬さんに助けてもらえなかったら、ずっと眠ったままだったかも。
 それは、助けたのではない。
 咽喉元まで出かかった言葉は、押し戻した。
 結果的に神田さんを助けたことにはなっても、それは。
 それは食事だ。
 卑しくてまがまがしい、本能のなせる技だ。
 結果的に貴方を夢の中から引きずりあげたのだとしても、その代償に喰らったものもある。

『人を食うっていうことが、どれだけ負担なのかは俺には分からないけど、それでさ、助けられてる人間もいるんだよ』
 返事は出来なかった。
 やめて、と遮る気にもなれなかった。
 どうしてただの食事を正当化して、それに意味を求めようとするの。
 誰かを救うだなんて、そんなのは嘘だ。ただの後付けの慰めなど意味がない。

 私は、化け物にもなりきれず、人でもない。
 そんなこと今更改めて考えることになるなんて思ってもみなかった。
 何故胃のあたりが重くて、気持ち悪くなるのだろう。
 あまり考えたくなかった。

 まるで、可哀想な人間のように扱わないで。
 人間のように扱われると、困る。
 慣れていないから。


 文化委員会は、九月に入ると急に忙しくなる。
 十月に行われる修恵学園全体規模の学園祭への準備のためだ。
 そのせいか、最近放課後に委員会のために残っていることが多くなった。
 人気のない、がらんとした教室は、以前までは決して嫌いではなかったはずなのに、今は少し憂鬱だ。
 ひとりになりたいと思っているくせに、空虚が嫌だなんて、どうかしている。
 我儘にもほどがある。



「倭ちゃん」
 教室の扉を開く音と共に、どことなく喜々とした声が飛び込んできた。
「やっぱり。文化委員会があるって聞いてたから、残ってると思ってた」
 肩の上あたりに黒髪を揺らして、生き生きと目を輝かせているのは、尾上里子だった。
 以前、彼女の顔に張り付いていた眼鏡はいつのまにかなくなっている。
 倭ちゃん、と名前で呼ばれるようになったのは、いつ頃からだろうか。
 顔が真っ直ぐに、上がっている。手の形に
 初めて会った日は、こちらの様子を伺うような上目遣いだったのに。
 ここ最近は、自信に満ち溢れたように、顔を上げている。
「尾上さん……」
「もう! 里子でいいってば!」
 小走りにこちらに近づいてくる彼女の表情は、生き生きと笑顔だった。
「なんだか顔色が悪いみたい、力が落ちているんじゃない? オーラが弱まってる」
 きりりと厳しい顔をして、さも重大なことのように尾上さんが言う。
 ぬぅっと伸びた手が、私の左肩にかかった。
 体が、強張った。思わず。
「大変だとは思うけれど、私たち、生き残らないと」
 あからさまに強く、肩を握られる。
 また、だ。
 手の形に痕が残るような、そんな錯覚。
 下から、こちらの顔を覗き込まれた。
 まばたきの少ない黒目がちの瞳から、また目を離せなくなる。
「私、きっと貴方のこと守ってあげられると思うわ。そのための力だと、私気がついたの。でも私、四六時中倭ちゃんと一緒にいられないから、これ」
 ようやく、左肩から手がはがれた。
 その右手を、尾上さんはブレザーのポケットに押し込む。
 何かを弄るような間だった。

 逃げ出したいと。
 急に思った。

「この石」
 尾上さんがブレザーのポケットから引きずり出したのは、鎖のついた黒みを帯びた石、だった。
「おまもりに、持っていて欲しいの」
 尾上さんの黒の瞳は、熱を帯びていた。
 浮かされているような。
 何も言えずに、ただ息を飲む。
「ねぇ、大丈夫よ。これから何が起こるか分からないから―――」
 一歩下がると、向こうが一歩。前へ。
 咽喉元まで、悲鳴がこみ上げて、それを何度も飲み下す。
 この得体の知れない恐怖は、一体なんだ。
「倭ちゃ―――」
「まだ残ってたの」
 がらりと、教室の前側の扉が開かれて、人影がこちらを覗き込んだ。
「今日は管理システムがどうとかで、機械警備が早まるから、そろそろ下校したほうがいいよ」
 端正な表情が、心配そうにこちらをのぞきこんでいた。
 どうやら呼吸を忘れていたらしい。詰めていた息を吐き出すと、大袈裟な深呼吸になった。
 すぐ傍で、小さな舌打ちが落ちた。
 尾上さんの、爛と輝く瞳は、真っ直ぐに現れたスーツ姿の人を見据えていた。
 いや、睨んで、いた。
「私、あのひと、大っ嫌い」
 私にようやく聞こえるような声で、尾上さんが吐き出した。
「またね、倭ちゃん」
 今まで顔中に滲んでいた嫌悪の表情を一瞬で消して、尾上さんは私に向かって微笑みかけた。
 勝ち誇ったような色を瞳に湛えて、黒髪を翻して踵を返した。


―――あのひとには、気をつけて。


 最後に囁くように、尾上さんは私に言った。
 足早に、靴音を響かせて、尾上さんは教室を出て行った。
 ぴしゃりと大袈裟な音を立てて扉が閉まった。
「根津さん? どうかした?」
 呆然と立ち尽くして、尾上さんの背中を見送っていた私に、声がかかる。
「英、さん」
「機械警備がもうすぐ始まる。早く校舎を出たほうがいい」
 明らかに異質だったに違いない。私と、尾上さんの相対していた様子は。
 けれども英さんはそれ以上深く詮索はせずに、踵を返そうとする。
「英さん!」
 思わず少し強い口調で、呼び止めた。
「?」
 半ばほど振り返って、英さんは眉をひそめる。
「訊きたいことが、あるんです」
 こんなことを聞いて、どうするつもりなのだろう。
 私とは関係がない。
 接触も出来ない。
 それなのに。
 自分から知りたいと思ったのは、初めてだ。

「聞きたいこと?」
「成瀬の」
 口に出した瞬間、英さんが僅かに目を瞠った。
「成瀬の夢喰いって、どんなひとですか」

 この力を厭い、人のように生きている人のことを。
 知りたいと思ったのは初めてだ。



【第十五話】

 閉ざされた研究室の扉を、スペアの鍵で英さんが開いた。
 高等部の校舎は、機械警備の調整か何かで、今日は夕方の五時には完璧に閉ざされた。
「いいんですか、勝手に入って」
「先生は先週から九州だよ。僕はスペアキーを貰ってるから、構わないと思うよ」
 扉を開いて、英さんが促す。
 促されるまま、親しんだ研究室に踏み入れた。
 主がいないこの部屋は、普段とは雰囲気が違っていた。
 ブラインドはすっかりと下りていて、少しほこりっぽい。
「それに」
 英さんの指が、壁を辿って照明のスイッチを押した。
 ぱりっと、少し乳白色の混じった蛍光灯が、室内を照らした。
「外で話す話でもないだろうしね」
 確かに、邪魔が入らないほうがいいと思った。
「コーヒーでいい?」
 慣れた動作で、英さんは戸棚へ歩み寄る。
 私はぼんやり、書棚の前に取り残される。
「……突然、どうしたの」
 ポットが、沸騰の湯気を上げる。
 ふたり分のマグカップとスプーンとを用意しながら、言い出しにくそうに英さんが口を開いた。
「この間までは全然、興味も示さなかったのに」
 何も言えなかった。
 上手くいえない。言葉にならなかった。
「いや、いいよ。聞かないから。気にしないで」
 ごめんなさい。
「どうして謝るの。言いたくないことなら、無理に話す必要はないじゃない」


―――古傷だから。俺も触れないし。触っていいもんじゃないし。


 神田さんの言葉を思い出した。
 互いの領域は、侵さないのだ。触れられたくない、闇は。

「それで、根津さんは」
 二つのマグカップを持って、英さんは目線でソファーを促した。
「あの馬鹿について何が知りたいのかな」
 冗談めかして、英さんが笑って言った。
「馬鹿……」
「本当にもう、馬鹿以外、言い表す言葉が見つからないよ。ダメなところばっかりでね。どうしようもないんだ」
 どうしようもないと言いながら、英さんは柔らかい顔をしている。
 ようやく私は英さんと向かい合わせて座った。
「九年前……櫛引との、共食い未遂があったと、聞きました」
「やっぱりそんなに有名な話なの、それは」
「前代未聞、だったみたいです」
 当時は私はまだ十にも満たなかったから、リアリティはないけれど。

「夢喰いや霊媒師の業界でどれだけ大きな問題だったのかは知らないけれど、ただ、化け物になろうとした男と、人でいようとした男がいただけ。ただそれだけのことだよ」
「ひとで、いる……」
 成瀬と櫛引。
 そしてその裏である銀と呉という家までをも巻き込んだ一件を、英さんは掻い摘んで話した。
 伝え聞いた話としては、それこそ耳にタコができるくらいに聞きなれたことなのだけれど、当事者としてその只中にいた人の話を聞くのは、勿論初めてだった。
 事のあらましは、互いに了解していることとして、割愛した。
 つまりは、弱い力しか持たずに生まれた櫛引が、より強い力を求めて、その結果成瀬の力を喰おうとした。そういうことだ。

「櫛引は、自分が中途半端な力しか持ってないことが許せなかったんだろうと思う。だからもっと強い力を得て完璧な化け物になろうとしていた。夢喰いって、力が強まると夢魔になってしまうんだってね。自我を失ってしまう場合があるって聞いたよ」
 それは本当のことのようだ。何度も刷り込みのように聞かされてきた。
 本当に、危うい生き物。
 飽和量ぎりぎりの、境界の一歩だけ手前。もしもこれ以上僅かでも力を注がれたら、自我を失い、妖になる。
 そこに、今まで生きてきた人格は、居なくなってしまうのだといわれている。
 生まれ変わるのだ。
「逆に、成瀬は自分の力をとても疎んでいて、いつも、多分今も、人に戻りたいと思っている―――と思う」
 とても頼りなさそうに、最後に付け加えた。
 面と向かって聞いたことはないから。
 言い訳のように、そう言った。

「根津さんは、力をどうやって継ぐのか、知らされていた?」
 急に話の矛先がこちらに向いて、咄嗟に反応できなかった。
 言葉の意味がすぐには呑めなくて、多分、困った顔をした。
 その沈黙を、英さんは別の意味に取ったのか、黙った。
 この人もだ。
 この人もまた、過敏で、過保護な人なのだ。
 腫れ物に触るように言葉を選ばなくても。
 私は私で居ることに、そんなに傷ついてはいないのに。
「知っていました」
 妙な苛立ちを感じて、少し強く、言った。
「父からずっと、聞いていたから」
 そう、と静かに英さんが頷いた。
 この人も、知っているのだろう。おそらく。
 夢喰いが血を繋ぎ、子を為すということの意味。
 生き続けてゆくために繰り返す連鎖。
 あやかしの、本能だ。

「成瀬の夢喰いは、力を継ぐそのときまで、力の連鎖がどういうものなのか知らなかったらしくて」

 原罪として。
 抱いて生まれてくる。
 血を分けた生き物から、力を奪い取りながら生き長らえてゆく。
 力を得ること、それは―――。

「あの男はあんまり自分の話をしないけど、今でもまだ」

 喰い潰す、こと。

「今でもまだ、親を殺す夢を見るって、言うよ」








【続く】