二度生まれる
第六話〜第十話

【第六話】

「廣澤先生は、とても君のことを心配しているんだと思う」
 学園の門を出る頃には、すっかりとあたりは夕焼けに染められている。
 英さんが静かに切り出すのに、耳を傾けた。
「それは、私もわかっているつもりです」
 親友の娘、という以上にあたたかく接してくれていると思う。
「そうだよね、余計なこと言ってごめん」
 こんな話をするつもりじゃなかったんだけど、と英さんが苦笑した。
「思いつめないで貰いたいな、と思って」
 風は涼しく、もう秋の気配だった。
 英さんの、色素の薄い茶の髪を撫でて、通り過ぎる。
 どういうことだろう?
「廣澤先生は貴方にああ言っていたし、僕も話を聞いてやってほしいって言われたけど、貴方がもし現状をそんなに負担と思っていないなら、無理に考え込んだり、何か話さなくちゃって、変な義務感を持たないでほしいと思ってるんだ」
 十字路で、信号にひっかかった。
 通り過ぎる車の流れを見て、英さんが話す。
「廣澤先生は、僕に貴方の相談役になってもらいたいみたいだけど、そういうのは違うと思うから、先に言っておく。貴方が本当に、自分の内側にどうしようもないものを、処理しきれないものを持っていて、それを貴方が誰かに話したいと思ったなら、いつでも聞く。そういう時なら確かに、他の人よりかは話が分かると思うし」
 盲人用信号の、どことなく憂鬱な童謡が、ぷつりと途切れた。
 車の流れが一瞬止んで、目の前の信号が青に切り替わった。
「でも今、もし貴方が全然無理をしていないなら。自分の中でしっかりと片がついた問題なのなら、無理に何かを話す必要は絶対に無い。だから、僕のほうからは、根津さんには何も聞かないつもりだから。こういう話を僕からするのは、今日だけにするから」
 横断歩道に踏み出す背中に、少し遅れてついてゆく。
「全然気にしていない事柄でも、無理に考え込むと歪みになるよ。それに、片がついている問題なんだったら、掘り返すように聞かれるのは嫌なものだしね。今回高等部に出入りするようになったのも、別口の用事があるからなんだ」
「別口の」
 気がついたら鸚鵡返しにしていた。
「副業がね、あって」
 ようやく英さんが顔をこちらに向けた。
「そうだな、兵頭さんの家と同じような仕事をしているんだ」
「霊媒、ということですか」
 さして驚きもせずに、さらに問を重ねた。
 そう、と簡単に英さんも頷く。
 そういう種類の人間が存在するということは、私にとっては当たり前のことだったから、別に驚かない。
 公務員がいて、医者がいて、弁護士がいて、―――霊媒師がいる。
 けれども、一般の尺度から測ったら、きっとイレギュラーでおかしいことなのだろうな、とも思う。
「高等部の、東側。屋上に続く階段が封鎖されてるのって、知ってるよね」
 そう言えば、数ヶ月前から東側の棟の屋上へ通じる階段が封鎖されている。
「あそこ、封鎖されているんじゃなくて、開かないんだ。だから、鍵をかけているのもカモフラージュだし。それについて調べるために、校内に出入りしていてもおかしくない環境がほしくて、廣澤先生に頼んだんだ」
「なにかおかしいんですか」
 老朽化が進んでいるから、という理由で閉鎖されたような気がする。
 元々西棟に比べれば東棟は古い建物だったので、さして疑問にも思わなかったのだが、そう言えばあの屋上で自殺を図った生徒がいるいないという噂がしばらく流れていた気もする。
「少しだけ。まだ本当に"そっち"の領分なのか、それとも本当に老朽化か何かで開かないのか分からない。そんなに大きな被害が出ているわけでもないから、とりあえず調べるだけなんだけど。だから、別に貴方を監視するために先生の助手をするわけじゃないから、安心して」
 思ってもいないところに話が進んで、私は思わずまばたきを忘れてしまった。
 そんなこと、全く考えてもいなかった。
 そう告げると、英さんがなんとなく居心地の悪そうな顔をする。
 はじめて見る顔だった。
 いつも落ち着いていて涼やかな顔をしているから、なんとなく温度を感じられなかったのだけれど。
「なんだか、考え過ぎてたみたいだな」
 軽く自嘲して、ごめんね、と謝られた。


「要!」
 住宅街をしばらく歩くうち、唐突に後ろから声がかかった。
 呼び止める声に、英さんが振り返る。
「やっぱり。お前、こんなところで何してんのよ? 珍しいな。引っ越してから全然会わなかったのに」
 英さんと同年代ぐらいだろうか。ワイシャツにネクタイ姿。カバンとダークグレイのスーツの上着を小脇に抱えた男の人が駆け寄ってくる。
「勝利。こんな時間に何してるんだよ、仕事は?」
「今日は出張帰りで直帰なのです」
 黒髪は、普段はしっかりと整えてあるのだろうが、今は大分ほつれてしまっていた。
 笑うと、どことなく少年っぽい。
 その瞳が、不意にこちらを向いた。
 私と英さんを何度か見比べて、急に同情したような顔つきになる。
 空いているほうの手で、英さんの肩をぽん、と叩いた。
「何お前、女子高生に手ェ出してんの? しかも、後輩に」
「そんなに殴られたいんだ?」
 真顔で英さんが切り返す。勝利、と呼ばれた人は、冗談通じないな相変わらず、とぼやいた。
「大学の恩師の知り合いなんだよ。根津さん。―――根津さん、こっちは中学からの知り合いで、神田勝利」
「よろしく。根津……ええと」
「倭、です」
「倭ちゃんね。神田勝利。要とは中学の頃からの大親友だから。酷ェな要。親友って紹介してくれないんだ!? 俺の愛はこうしていっつも一方通行なのねしくしく」
 大袈裟に泣き真似なんかをしてみせる。その勢いにのまれて、一瞬黙り込んでしまった。
 今まで周囲にいないタイプだったので、びっくりした。
「ってかお前さ、家ここらへんじゃないじゃん。メシは?」
「いや、まだだけど」
 大袈裟な泣きまねを一瞬で引っ込めさせて、神田さんは英さんに向き直る。
「よし、決まりだ。ついてきたまえ」
「え、ちょっと待てよ!」
 勝手に決めて、神田さんが英さんの腕を強引に引いた。
「倭ちゃん倭ちゃん」
 英さんを引きずるようにしながら悪戯っぽい顔で神田さんがこちらを振り返る。
 いつのまにか、「倭ちゃん」で呼び方が定着してしまったようだ。
「倭ちゃんも嫌じゃなかったらおいでよ」
「ちょっと勝利、勝手に……」
「いいじゃんか、硬いこと言うなって。本当に、迷惑じゃなかったらおいでよ。オゴリにするから。蕎麦は好き?」
 勢いに押し流されて、素直に頷いてしまった。
 きらいじゃないし。
 すると神田さんが、子どものように笑って、私の肩を叩いた。
「決まり」
 視界の端のほうで、英さんが諦めたように溜息を落としていた。
 


【第七話】

 なし崩しに連れていかれたのは、修恵学園から徒歩で十五分ほどの、駅前に広がる商店街の一角。
 「一竜」と。看板の掲げられた、典型的な佇まいの蕎麦屋だった。
 神田さんは、店の入り口を躊躇いもなくがらりと開くと、「ただいま」と大声で言い放った。
 カウンターの内側から、「店から入ってくるんじゃないって言ってるだろ!」という怒鳴り声が返ってくる。
 やがて奥から、恰幅のいい、割烹着に三角巾の女のひとが現れた。
「今日は客なんだからいいだろ。硬いこと言うなよ」
「あらぁ、要くん! 久しぶりじゃないの!」
 店のおかみさんらしいその人は、大股に近づいてくると、英さんの肩をばしりと叩いた。
 お久しぶりです、と英さんが苦笑がちに言った。
「こちらは?」
 おかみさんは、私のほうを一瞥してから、神田さんをうかがう。
「要のお知り合いで、俺らの後輩。根津倭ちゃん」
 私は、慌てて頭を下げる。
 そう、と頷いて女の人が笑った。おおらかな笑顔だった。
「天蕎麦三つね」
 言い残して、神田さんは店の奥のほうへ入ってゆく。
「さっさと着替えてきて手伝いな! 要くんたち、好きなところに座っていいから」
 かくして、私と英さんは、お夕飯として天蕎麦をご馳走になることになった、ようだ。

 店の奥まったところにあるテーブル席につくなり、英さんが。
「ごめんね」
 と謝った。
「悪い奴じゃないんだけど、少し強引だから」
 溜息と共に零す英さんは、心底申し訳なさそうな顔をしていた。
 大丈夫です、と言った。
「少しびっくりしただけ」
 あんな、突風のような人が周囲にいなかったので。
 面食らってしまっただけで、不快ではなかった。
 良かった、と英さんが心底安堵したように呟いた。

 やわらかい、と。不意に思った。
 修恵学園の中、廣澤先生の研究室。そこで見たときよりも、英さんの表情がやわらかいような、きがした。
 二十六、と聞いていたけれど、今はそれよりも少し若く見えた。

「お待ちどうサマ」
 目の前に、どんぶりの乗った盆が、丁寧に置かれた。ふわりと目の前を湯気が掠める。
「レディーファーストで、倭ちゃんからどうぞ」
 真上から覗き込んだどんぶりには、主よろしく大きな海老が横たわっている。
 いつのまにかTシャツ姿に着替えた神田さんが、すぐ横に立っていた。
 いただきます。
 どうぞ。
 おかみさんに良く似たあたたかい笑い方をして、神田さんはカウンターに引き返す。
 一言二言、カウンターの内側にいるおかみさんと言い合いをしてから、残りふたつの盆を持って戻ってきた。
「ってかお前さ」
 私の隣の椅子を引いて腰掛けるなり、神田さんが口を切る。
 向かい側で、箸を割りかけていた英さんが、その声に顔を上げる。
「今なにしてんの。最近音沙汰ナシじゃん。ハクジョーモノ」
「そうだっけ?」
 ぴしり、と音を立てて箸を割りながら、英さんが首を傾げる。
「この前飲んだのは半年前! そのあとは音信不通だバカモノ」
 そうか、そうだったっけ。ひとり納得したように英さんが頷いたので、神田さんはがくりと肩を落とす。
「そうだったっけ、じゃない! 全く、まだ都佳沙っちの方がやさしいぞ!」
 苛々を箸にぶつけるかのごとく乱暴にそれを割りながら神田さんが吐き出した。
 私はひとり、天ぷら蕎麦に向かいながら内輪の話を聞いている。
 少し濃い味で、とても美味しい。
「都佳沙?」
 神田さんが口にした名前らしき響きに反応して、聞き返す声。
「そ。時々店に顔出してくれんの。都佳沙っちにお前のこと訊いても『多分元気なんじゃないかな?』って言われるし。もー、冷たい男だわっ!」
「ごめん、今あんまりこっちにいないからさ」
 ようやく、少し申し訳なさそうな顔をして、英さんが謝った。
「まぁ、いいけどさ。いろんなことが一遍に出来るほど器用じゃないのは知ってるし。俺もなんだかんだ、忙しくしてるし。―――こっちにいないってことは、なに? シロガネから回してもらってる仕事?」

 ふと、無意識に手が止まった。
 無造作に放り出された単語を耳が敏感に拾う。
 シロガネ―――銀。
 それは、霊媒一門のあの銀のことだろうか。
 一時、狭い業界を騒然とさせたという成瀬の一件。九年前。
 その成瀬とつながりのある名家、銀。


―――成瀬の今の当主と一緒に暮らしてたんだ。
 廣澤先生の言葉が、何故か急に蘇った。
 体の左側で、鼓動が早くなる。


「それもあるけど、民俗学関係の調べものもあって、東北とかに行ってるから」
「ふぅん? 大学に残らなかったんだよな? てっきりそのまま修恵に残って研究続けるんだと思ったのに」
「半分残ってるみたいなものだよ。先生の手伝いも随分してるし」
「そっか。まぁ、便りがないのはよい便りって言うしな。今度の飲みはお前もちな」
 決定、と押し付けるように言って、悪戯小僧のように神田さんが笑った。
「ところでさ」
 ゆらゆらと湯気をあげる湯飲みを、上から掌で包むように持ち上げる、神田さんの手。
 ほうじ茶を一口飲み込んでから、切り出した話の続きを。
「今、一馬さんて、どうしてんの?」
 聞き覚えもないなの筈なのに。
 どうしてなのか、指先がふるえた。
 緊張した。



【第八話】

「今、一馬さんて、どうしてんの?」
 思い出したように神田さんが、訊いた。
 英さんは、当たり前のことのように、ああと相槌をうってから。
「相変わらず、あのまんま。でも今は少し忙しいみたい。実家の仕事を手伝ってるみたいだし」
「実家? 一馬さんの実家って、何やってんの? 表側では」
「株とか投資とか、そういう関係だとか聞いたけど、良く知らない」
 聞いたことないし、と付け加えて、英さんも湯飲みに手を伸ばす。
 へえぇ。とすぐ隣で至極感心したような声があがった。
「らしいなー。上手そう、なんか、そういうの。勘良さそう」
「僕は嫌だよ。あんなのに大きなお金動かして欲しくないよ。本当に勘だけでやってるみたいで」
 不快そうに顔をしかめて、英さんが湯飲みを置く。
「でもさぁ、一馬さんが普通に会社勤めとかしてるほうが俺には想像できないね」
 ごちそうさま、と顔の前で両手を合わせて、神田さんが言うと、それはそうだけどさ、と向かい側はさらに不本意そうな顔をする。
「だって、実はすげぇ金持ちなんだろ、"成瀬"の家って」
 そういう感じするもん、育ち良さそう。と付け加える神田さんの向かい側。
 薄い茶の瞳がこちらを見た。
 多分、英さんは見逃さなかったと思う。耳に飛び込んできた苗字に、思わず私が息を飲んでしまったこと。
 場の異変に気がついたのか、隣からも視線が向けられる。神田さんは口を「あ」の字に開いてから、悪い悪いと頭を掻いて詫びた。
「内輪話ばっかして、つまんないよな。ごめん」
 咄嗟に首を横に振って、否定をしめした。
 別につまらなかったわけではなくて。
 むしろ、内容はわからなくても、素早いキャッチボールのような会話は聞いていて楽しかった。
 固まってしまったのは「成瀬」という名のせいだ。
 夢喰いの家の名の、せいだ。


「ああ、そうだ。私立って先生変わらないよな? ジンちゃん元気にしてる? 世界史の」
 神田さんが話題を変える。
 どうやら気を遣わせてしまったらしい。急に申し訳なくなってしまう。
 どうしてその苗字に、息を飲んでしまったのか。自分でも良くは分からない。
 怒鳴り声が煩いジンちゃんなんだけどさー。
「真堂先生だったら、担任ですけど」
「ええっ!? うわ、マジで。俺らも高二高三て、担任だったんだ。へぇ、偶然」
 そう言えば、真堂先生も英さんのことは教え子だと言っていたし、随分と親しげに話していた。
 このふたりが修恵の制服を着ているところがなんとなく想像できて、面白かった。
「ジンちゃんも年取ったんだろうなぁ。あれから、ええと、……八年!? うわ、ヤダわ。俺たちも年取るわけだよ」
 具体的な数字を口にして、年数を実感したのか、神田さんがしょんぼりと肩を落とした。
「今日会ってきたけど、あんまり変わってなかったよ。やっぱり少し白髪は増えてたけど」
 どんぶりの上に箸を置いて、英さんが言った。ごちそうさま、と付け加える。
「要、会ったんだ? 俺も久々に会いてぇなー。って、高等部に何しに行ったのよ」

 英さんは、かいつまんで特別授業のことや東棟屋上へ続く階段の話をした。
 随所に相槌を打ちながら聞いていた神田さんは、話が終わると。
「先生〜? 要ちゃんが?」
 にやにやと口元に笑みを浮かべてからかうように言う。
「だから、助手だって言っただろ。別に僕が教えるわけじゃないってば」
 いい加減疲れたというように溜息を落とす。
 やっぱり。
 なんだか研究室で見たときと雰囲気が違っている、と思った。
 落ち着き払っていて、何事にも動じなさそうな。人形めいた雰囲気は今はどこにもなかった。

「がんばれ! 頑張って女子高生にもみくちゃにされてこい」
 あぁ羨ましいなー、青春の園。神田さんは、心にもないというのがあからさまに見えている口調で、正面から腕を伸ばして英さんの肩を叩いた。
 むすっとした顔で、英さんが正面を睨んだ。
 子どものようなやりとりだと思った。
 男の人というのは、いつまでもこんな感じなのだろうか?
 口元が思わず緩んで笑っていることに、私は少し遅れて気がついた。
 いつのまにか笑っていた。
 少しだけ冷静になって、なんだか気恥ずかしくもなって、店内を見回す。
 壁にかけられた時計に目が行った。
 八時を回ったところだった。
 兵頭の家には何も連絡していない。
「あの!」
 和やかに談笑している場をぶち壊すように、慌てて立ち上がった。
 驚いたような二対の瞳が、こちらに向けられた。
「あの、私そろそろ、帰ります。家に何も連絡してきていないので」
「ああ、そっか」
 椅子を引いて、神田さんが立ち上がった。
「なんか無理に引き止めたみたいでごめんな。大丈夫? 途中まで送ろうか」
「平気です。まだそんなに遅くないし、見覚えがある道なので。今日はどうもありがとうございました」
「とんでもない。こっちが引きずってきたみたいなもんだしさ。これを機に常連さんになってくれたら嬉しいんだけど」
 とりあえず、店の外まで送るよ、と神田さんが言った。

「根津さん」
 店を出て、もう一度頭を下げたところで、英さんが呼んだ。
「気をつけてね。また機会があったら学校で」
 言葉では返さずに、会釈だけして踵を返した。
 店から零れる明かりが、兵頭の玄関のように暖かかった。
 じゃあね倭ちゃん、と神田さんが笑った。


            *


 商店街を抜けてしばらくすると、途端に住宅街に踏み入れる。
 喧騒が嘘のように、とっぷりと日の暮れた住宅街はしずかだった。
 駅へ通じている道なので、何度か通ったことはある。おそらくこのまま突っ切れば、慣れた道に戻れるだろう。

「―――今からですか?」
 右手側から声が聞こえてきた。
 ふとそちらに視線だけを流すと、月極駐車場という文字が目に飛び込んで来る。
 こぢんまりとした、車が八台停められれば十分だろうとうスペース。
 その隣には、不動産業者の入った事務所のような建物があった。
 駐車場には、黒い車が一台停まっていた。声はその車の傍らから聞こえてくる。
「あー…、分かった、分かりました三石さん。これから戻ります」
 車に施錠を終えて、携帯電話を片手にこちらに向かってくる影がある。黒かった。
 私は歩調を緩めずに通り過ぎようとする。普段は気にならないはずなのに、何故か相手が気になった。
 髪はしっとりと、濡れたように黒い。なにやら渋っているらしい電話の相手をなだめすかして、ようやく通話を切ったところのようだった。
 ふと、その黒い人影が顔を持ち上げる。
 目が合ってしまった。
 すぐに逸らそうとして出来なかった。
 それは、そのスーツ姿の男の人の、容姿云々が目に留まったというわけではなくて。
 相手もおそらく同じことに気がついて、こちらを見ていた。
 私は立ち止まってしまった。
 何故か分からないけれど、磁力のようなものを感じた。
 S極とN極。

 無言のにらみ合いはけれども、無機質な呼び出し音にかき消された。
 その人の携帯電話が再び鳴り出したのだった。
 我に返ったかのようにその男の人は、折りたたんでしまおうとしていた携帯電話を再び耳に当てて、こちらに軽く、会釈だけをした。
 ようやく金縛りが融けて、私は形だけの会釈を返すと、足早に歩き出した。
 浅い呼吸が聞こえると思ったら、自分の呼吸だった。
 いつのまにか小走りに駆け出している。
 鼓動が早くなった。


 絡んだ視線の先の。
 目の色。
 こんなに暗くても分かった。
 あの人の目は、深い青、だったのだ。
 


【第九話】

 ヤマト、なんだか最近おかしいよ、と。
 顔を合わせた瞬間朝樹に言われてしまった。
 何かあったの、と食い下がる朝樹をベッドに押し戻すようにして、家を出てきた。
 今日は土曜日で、特別授業がある日だ。


 夢喰いと呼ばれる特殊な種族は、容姿はほとんどヒトと変わらない。
 ただ共通している部分は、瞳が深い青の色をしているということだけだ。
 同じ色の瞳をしている人と遭遇してから、二週間ほどが過ぎようとしていた。
 格別どんな変化があったわけではないのに、妙にざわついている。
 夢喰い同士は近づいてはならない、という掟がある。
 内側に飼っているこの力は、引きあい、時には弾きあいながら、共食いをするものだから、と。
 夢喰いは力を失えば死ぬのだ。共食いが起きた場合は喰われたほうが死ぬ。

 九年前、閉塞的な夢喰いの業界を揺るがしたのは、共食い未遂事件が起きたという報せだった。
 中心となったのは、成瀬と櫛引という家。
 狭く、閉ざされた業界に、その噂は光の速さで響き渡ったという。
 私は当時はまだ十にも満たない子どもだったので、その頃のことは良く分からない。
 共食いは、数多く設定されている夢喰いの禁忌の中でも最大の禁忌だ。
 メカニズムも上手く解明されていないが、所詮は化け物でけだもの。
 力が強まれば強まるほど、人と同じように生きてゆくことが難しくなるのだという。

 夢喰いの家が、霊媒師の家と親しく付き合うには、ふたつの理由があるという。
 ひとつ。夢喰いと、それと契約した霊媒師の家には呪いという呪いが効かなくなる。魔よけのような意味合い。
 ひとつ。夢喰いがもし自我を失い更なる化け物に堕ちた時には、契約を交わしたものが始末する。つまり監視の意味合い。
 このふたつの契約内容は、話として聞かされているだけで、私には実感がない。
 兵頭の家も裏稼業として未だ霊媒の仕事を続けてはいても、呪う呪われるといったものとはほとんど無縁になってしまっている。
 私は自分から他の夢喰いに会おうとは思わない。
 だから、共食いが起きて、私が私ですらなくなり、兵頭の小父さんや朝樹に始末―――殺されることも、想像が出来ない。
 けれどももし、誰かが私を夢喰いだという理由で始末をしようとするのなら、従うべきかとも思う。
 妖(あやかし)が人の傍で暮らしてきた時代から、現代はあまりにもかけ離れてしまった。
 悠久の歴史のなか、異質なものはいつだって排除されてきた。
 もはやきっとこの血は、時の流れに沿わないものなのだ。
 いずれは滅ぶだろう。



「だから、世間一般に鬼だとか狐憑きだとか言われるものは、流れ着いた異国人だったり、今では随分と研究の進んだ精神障害を持っていたりした人物だったんじゃないかと言われているわけだ」
 階段状の大教室は、静まり返っていた。
 座席の埋まり方は半分といったところ。それでも当初の見解よりは埋まったほうだろう。
 一番後ろの、扉に近い場所に座って、ぼんやりと下方の教壇に立つ廣澤先生を見た。
 最前列には、何を目当てにしてきたものかすぐ分かるような女子高生が目立つ。
 今日のテーマは「異人」。イジンと書いて「まろうど」と読むのだそうだ。
 鬼やら狐憑きやら。そう呼ばれ、迫害され、人里を去った人々の話だ。

 教壇の傍に椅子を置いて、足を組む形で座っている人を見た。配られた資料をめくっている。
 大学、大学院を卒業してなお、民俗学の研究をしているという人だった。
 何故なのだろう、と思う。
 鬼や、妖怪と呼ばれるものの存在は、ある程度学術で説明が出来る。
 けれども、それで説明の出来ないものは、"いる"のだ。
 ここにもいる。
 英さんはそれと相対しているはずだった。身近に、今。
 それなのに何故学術や論理などで説明をつけようとする学問を。
 選んだのか。


 終業五分前、チャイムが鳴るよりも早く廣澤先生は、机の上の資料を束ねて、とんと音を立ててととのえた。
「じゃあ、今回はこの辺で」
 話すべきことが終わったら、早々に切り上げるのが彼のスタイルであるらしい。
 ふう、という溜息があちこちから漏れたと思うと、急に教室は騒がしくなった。
「センセー! ちょっとあたし、質問が!」
 教室を出てゆこうとする廣澤先生に、追いすがる集団があった。
 クラスメイトだった。岡崎咲子と、彼女と仲良くしている数人。
 廣澤先生はその一団を見て苦笑すると、英さんの方に向き直って僅かに顎をしゃくってみせた。
 遠目からでも英さんが困ったような顔をするのが見える。

 私は荷物をまとめて席を立った。
 教室の後ろ側、すぐ傍にある扉から外へ出ようと思ったところで。
「倭!」
 下方から先生の声が呼んだ。
「手伝って欲しいことがあるから、時間があるなら研究室に」
 急に、私は逃げたい衝動に駆られた。
 ここ数日、自分でも様子がおかしいことは自覚している。
 もしかして、兵頭の誰かから連絡が行って、先生は心配しているのかもしれなかった。
 けれども、ここで踵を返してしまうと余計心配をかけてしまうだろう。
 どうやらドアを半分開いたままで私を待っているらしい。私はゆるやかな階段を下りるようにして、下に向かった。
 広い教室に、もうほとんど人はいなかった。
 がらんと空虚になったその場所に、可愛らしい女の声が幾つか響く。

「要先生ってぇ」
 英さんを取り囲むクラスメイトたちの傍を通り抜けて、扉の向こうで待つ先生に追いつこうとする。
 先週。第一回目の特別授業から、彼女たちは積極的に質問に赴いていて、例の東棟屋上に続く階段の調査で高等部に来ている彼を見つけても、積極的に声をかけていた。
 特に岡崎咲子は積極的で、少々強引ですらあった。
 いつのまにか「要先生」という呼び方は、周囲の人間にまで浸透してしまっている。
「あ。センセー、これどうしたんですかぁ?」
 ふと、咲子の手が伸びる。
 無遠慮に、英さんの左耳の下に触れた。
「なんだか、傷? みたい」
 その次の一瞬を、私は見逃してしまったので詳しくは分からない。
 けれども、小さな女の悲鳴で、思わずそちらを振り返ってしまった。
 僅かによろめくようにして、咲子があとずさっていた。
 咲子の手を、どうやら振り払ったらしい、ということは分かった。
「……ごめん!」
 紙のように白い顔をして、慌てて英さんが詫びた。
「岡崎さん、大丈夫? ごめんね」
 少し身を屈めて、怯えるような咲子の顔を覗き込む。
「古い傷なんだけど、時々引き攣れたりするから、庇う癖がついちゃって。咄嗟に。ごめん」
「あ、そうなんですか。だいじょぶです、あたしも、ごめんなさい」
 少し落ち着いた様子で、咲子もぺこりと頭を下げた。
 ごめんね、と英さんがもう一度謝った。
 左耳の下には、確かに古い傷痕があった。何かナイフで切った痕のようだった。
 随分と古いものに見えたけれど、まだ痛んだりするのだろうか、とふと思う。
 体にそんな傷がないので良く分からないけれど、しっかり塞がっているように見えた。

 それに、咲子の手を振り払ったときの英さんの顔は―――。

 それでね、先生。
 めげずに咲子は話を続ける。
 ヤマト、と扉の向こう側から顔だけを出して廣澤先生が呼んだ。
 すっかりと、自分がただの野次馬になってしまっていることに気がついた。
 短く返事を返してから、慌てて扉のほうへ向かった。


 違和感が残った。

 咲子の手を振り払ったときの英さんの顔は。
 痛がっているというよりもむしろ、ひどく怯えているように見えた気がしたのだけれど。



【第十話】

「あたし、本気で頑張る」
 廊下の掃除当番を終えて教室に戻る。扉を開けたところで、うきうきとした女の声が聞こえてきた。
 がらんと人気のない教室。教卓の傍で、ファンデーションのコンパクトを覗き込んでいるのは、岡崎咲子だった。
「え、うそ? 本気でって?」
 同じように、手鏡を覗きながらマスカラを片手にしていた青木美穂が、咲子を横から覗き込んだ。
「えー、要先生」
「えぇ!? ちょっと、まじで!? そんなにいいかなぁ、確かに顔はいいけどさぁ。なんか冷たそうで苦手だなぁあたし」
「ばか、そういうとこがいいんじゃん。あの冷静沈着なとこって、絶対あたし、フェイクだと思うんだよね」
 チューブ型のグロスのキャップを開きながら、咲子が言う。
「なんか隠し持ってる感じがするの」
 人差し指で、オレンジ色のグロスを口唇に馴染ませる。
 光を艶やかに反射するその口唇の、口角が僅かに上がった。
「絶対なんか、傷とか、持ってそう。この間の特別授業の時だってさ、過敏反応だったじゃん? あの傷、なんかあるのよ。たぶん」
 ぱくんとコンパクトを折りたたむ音が聞こえた。
「ええ? なんかやばい理由とかだったらどうすんのー?」
「育ちは絶対に悪くないんじゃない? 見てて分かるし。それになんか、傷とか影持ってる人にあたし弱いんだー。なんか支えてあげたくなるっていうか。癒してあげたいっていうかさー」
 どこか得意げに、咲子はとうとうと話した。
「ああ、そうだ、倭ちゃん!」
 やわらかい茶色の髪を翻して、唐突に咲子が振り返った。
 授業中とは違って、これからどこかに遊びに行くだろう彼女の顔立ちははっきりとくっきりと目を引くような化粧が施されていた。
 私は、帰り支度のために教科書をまとめているところだった。
 何故こちらを振り返ったのか分からずに、困惑する。
「倭ちゃん、何かしらない? 要先生のこと」
 体を半分捻った形でこちらを振り返り、華やかに笑う咲子はやはり綺麗だった。
 けれどもどこかその華やかさが、毒々しい蝶々のように見えた。

 傷とか影とか。
 容易く支えるとか癒すとか。
 そんなふうにできるものなの。
 あんなふうに容易く、触れていいものなのか。

 ついこの間まで顔を合わせたこともなかったから、何も知らない、と私は答えた。
 きっと誕生日や血液型や身長や、そういうプロフィールなら、咲子のほうがよく知っているだろう。
 そうなんだーアリガトー、と。華やかに笑って咲子は席を立った。
 ぎぎぃと、耳障りに鳴る、椅子を引く音がいくつも重なる。

 ピアスこないだ落としちゃってさ、新しいの見にいきたいんだけど。
 あー、いいなぁ。あたしももう一個増やそうかな!

 声高な会話が続いて、やがて扉の開閉の音。遠巻きな雑踏だけを残して、教室は静まり返った。
 手がいつのまにか止まってしまっていた。
 机の中から引きずり出した教科書をまとめたままで、止まっていた。
 何をしているんだろう。我に返って、教科書を鞄の中に詰め込む。
 最近の私はやっぱり変だ。



「根津さん」
 教材を全て仕舞い終えて、鞄の蓋を閉める。
 声がかかったのはそんなタイミングだった。
 今まで教室は無人だった。それなのにいつのまにか、後ろ側の扉が開いている。
 開いた隙間に、人影があった。
 廊下の向こう側から強い夕日が差していて、人影は逆光に塗りつぶされてしまっている。
 影はスカートを穿いていた。
 目を凝らして見た。見覚えが、ないような気がする。
「根津倭さん」
 今度はフルネームを呼んで、人影は教室の中に入ってきた。後ろ手に扉を閉めた。
 逆光が薄れて、ようやく輪郭がはっきりした。
 小柄だった。150センチ前半だろうか。
 華奢で、肌は白かった。肩につくかつかないかのところで黒髪が揺れている。
 フレームのない眼鏡をしている。どことなく上目遣いにこちらを見た。
「私、A組の尾上里子っていうの。根津さん、話を聞いてもらいたいの」
 こちらの顔色をうかがうような上目遣いだった。
「あのね、きっと私根津さんだったら分かってくれると思うの。絶対、分かってくれると思うのよ」
 返事も出来ずに、私はただ自分の机の傍に佇んでいる。
 彼女は徐々に間合いを詰めるように近づいてきた。
 機嫌を伺うようだった瞳が、徐々に爛とひかりを帯びて真っ直ぐに私を見据える。

「根津さん私ね、人とちがうの」

 いつのまにか、尾上さん―――と名乗った人はすぐ傍まできていた。
 すこし私の方が身長が高い。その差を埋めるように、背伸びをして、身を乗り出す。
「私ね、色々なものの声が聞こえるの。人の声とか、それだけじゃないの、ものの声とか色々」
 まばたきを忘れた人のように、ひと時も目を逸らさずに、眼鏡の奥からこちらを睨み据えてくる。
「それにね私最近、色々なものが見えるようになったのよ。オーラとか、そういうものとか。この間は帰り道突然壁から出てきた手に足をつかまれたのよ。引きずり込まれるかと思った」
 堰を切ったかのように、どうどうと言葉が溢れ出してくる。
 のまれて、溺れそうになる。
「ねぇ根津さん、貴方のオーラがとても気になったの」
 ぬっと伸びてきた手が、私の左腕を掴む。思わず半歩後ろにあとずさってしまった。
「怯えなくてもいいわ。私は貴方のこと分かるから。否定しないから、受け容れるから大丈夫。かくさないで」
 爛と、ひかりを湛える目はまるで睨み据えるかのようにこちらを見ているのに。
 尾上さんの口元だけは、僅かに緩んでいた。
「私色々な文献を調べてみたの、自分のことが知りたくって。それで分かったの。ねぇ、根津さん」
 左腕を握る、尾上さんの腕の力がぎりりと増した。きっと、腕に手の型がつく。あかく。


「親を犠牲にするのって、辛いわよね?」


 彼女の顔から、表情が消えた。
 私は、もう少しで飛び出しそうになった悲鳴を、何とか咽喉の奥に押し戻す。
 目を瞠ることだけは我慢できなかった。私のその表情を見て、尾上さんはようやく左腕を掴む手の、力を緩める。
 いたわるような顔をした。
「大丈夫、隠さなくても大丈夫だから。私のお母さんも、私のこの力のせいで入院しているの。だから私貴方の苦しみのこと、わかってあげられると思うわ」
 私たち、きっと同じなのよ、と。
 尾上さんが言った。


 同じ? 一体何が?


「ねぇ、何か辛いことがあったら相談して。力になるから。私、貴方のこと、受け容れるから」
 強い力で、つながれている。
 無言の圧力で、振り払えなかった。
 瞬きをしない、眼鏡の奥の大きな黒い瞳は、まるで吸い込まれそうなほどに強い。
 下方から身を乗り出すように覗き込まれて、私もまばたきができなかった。
 目が逸らせない。
「本当に、青い目なのね。近づかないと分からないけれど。調べたとおりだわ。やっぱり」
 あからさまに息を飲んでしまった。
 ざあっと背筋に冷たい水をぶちまけられたかのように、悪寒が。
 思わずもう一歩あとずさった。
 大丈夫よ、と少し語気を荒げて、尾上さんが左腕を引く。
「大丈夫よ、ちゃんと分かってる。分かってるから。根津さん―――」
 あまりにも穏やかな顔で、尾上さんは微笑して、そして。



「貴方、『夢喰い』なんでしょう?」







【続く】