二度生まれる獣
第一話〜第伍話
【第一話】
ばけものだと、知っている。
もうずっと昔から、気付いていた。
教え込まれていた。
父に。
お前は、私を殺すものなのだと。
共喰いをする、そんな生き物なのだ、と。
物心がついたときから、私の手をしっかりと握り、やさしく。
お前は俺を食い殺して生き続けてゆく。
だがそれがさだめで、理なのだ。
俺たちはこんなふうに今まで生き残ってきた。
だから誰も悪いわけではない。
ただ、生まれながらに俺たちはばけものだった。
ただそれだけのことだ。
だから私はばけものだ。
ここでこうして、有名私立学園の高等部の2年C組の、窓際の席でぼんやりと、人と同じ生き方をしているけれど。
私はただのばけものだ。
"想い"を喰らって生きてゆく。
「倭さぁ」
突然眼前に、人の顔が現れて驚いた。
控えめにのけぞると、顔の前でひらひらと掌が揺れる。
「どうしたー? またどっか行ってたのー?」
クラスメートの秋吉心がいつのまにかそこにいた。けれども、超能力を使って瞬時に現れたわけではなく、ただ私がぼんやりと外を見ていたから気がつかなかっただけらしい。
どうしたの、と私は訊いた。
放課後だった。
「あのね、ヤマト、大学部の廣澤教授と知り合いでしょ。よく研究室出入りしてるよね?」
事実だったので頷いた。
社会学部の教授である廣澤好宗は、昔から付き合いのあるひとで、この私立修恵学園に入学したのも、彼の勧めだった。
「よく、というほどじゃないけれど。時々」
細部を訂正した。そんなに頻繁に出入りしているわけじゃない。
ふーん、と心は深刻そうに頷いた。肩の上あたりで脱色した髪が揺れている。
由緒正しいといわれる私立学園ではあるが、生徒の恰好には案外ゆるい。
授業料が少し張ることに目を瞑れば、制服も可愛らしいし、設備は整っていて学園内はうつくしいし、人からは羨まれる学校である。
「廣澤先生がどうかしたの」
「あのね咲子がね、現社の佐渡に頼まれて廣澤教授のところに本を届けに行ったんだって」
うん、と頷いた。それで?
心は私の机に頬杖を付くようにしてしゃがみこんだ。机にそろいの椅子に座っている私を、下から見上げるような体勢になる。
「そこで、見たんだって」
妙に真顔になって、声のトーンを落とす。
見た?
「すっごい、美形の。男のひと。スーツを着た美人さん、だって。ヤマト、会ったことない?」
首を少し傾けて、考えてみた。資料で溢れかえっている廣澤先生の研究室。
「知らないわ」
悪いけれど。見覚えがない。首を横に振った。
「そうなの? てっきり知り合いかと思った。廣澤先生とすごい親しそうに話してたんだって。二五歳ぐらいの、茶色の髪と目のひとだって」
容姿を告げられてもまるで思い出せない。ということは知らないのだろう。
ごめんね、分からない。
「そうなんだー。すっごいかっこよかったらしいのよ。あーあ、ザンネン。また来るかなー?」
でも、四六時中廣澤先生の研究室を見張っているわけにも行かないでしょう?
「そうなんだけどさ。やっぱり見ときたいじゃん。すごかったんだよ咲子。盛り上がっちゃって。ってか、近々先生と会わないの?」
え? 今日これから少しだけ会うけど。
「えー! 何でそれ早く言わないのよ」
勢いをつけて、心ががばりと立ち上がった。今度は見下ろされる形になる。
「訊いてきて! その美人さんの話!」
鬼気迫るとは、多分このことだ。
*
絶対、だからね!
念押しされて、教室を追い出された。
高等部の敷地から、大学部の研究室が立ち並ぶあたりまで歩く。
私服の学生たちが行き交う中で、高等部の派手な制服は目立つらしく、何度も人が振り返る。
珍しいだけだと分かっているのに。私は、正体を見破られているような気がしてしまう。
蔑まれているような気がしてくる。
馬鹿らしいことだ。何を考えているのだろう。
目的の研究室がある建物に踏み込み、階段を上る3階の社会学部研究室4。
そこが、民俗学という業界ではかなりの権威になるらしい、廣澤好宗(ひろさわ よしむね)の研究室だ。
「廣澤先生、倭です、入ります」
二度、いつものようにノックしてから扉を開いた。
いつも、勝手に入れと言われているのでノックから扉を開くまであまり間はない。
不在のときは鍵がかかっているので、すぐにわかる。
「先生―――」
「先生なら」
聞きなれない声が返ってきて、驚いた。思わず首をめぐらせて室内を見回してしまう。
若い男の声がした。
「先生なら、事務に呼ばれて少し席を外しているよ。貴方が来たら、少し待ってるようにって言っていたから」
その人は入り口の左手にある本棚の前に立っていた。
ワイシャツ姿に焦げ茶色のパンツ姿の、細身の男性が本を片手に立っている。
やわらかそうな栗色の髪で、肌は白く、とても整った顔立ちをしていた。どことなく、猫科の生き物の感じがする。
咲子さんが言ってたのって、この人のことかもしれない。
扉を開いた体勢のままで固まってしまっていると、その人は開いていた本を閉じて、書棚に戻した。
「根津、さんだよね。入ったら」
人懐こい笑顔を浮かべて、その人が私を招く。
頷いて、一歩踏み出して、違和感に気がついた。
名前。
どうして苗字を知っているのだろう。
【第二話】
初めて顔を合わせた相手に、何故か告げてもいない苗字を呼ばれた。
さすがに強張って、警戒した顔をしていたのだろう。男の人は苦笑して、ごめん、と謝った。
「廣澤先生から聞いていたから。貴方のこと」
今度は自分でもわかった。眉間に深く皺を刻んでしまっていた。どうして先生が私のことを話したのだろう。
「ヤマト。お前何ぼぉっと突っ立ってるんだ」
背中にのんびりとした、けれども良く通る声がかかった。振り返ると、だらしなくネクタイを襟元に結んだ五十半ば程の男が立っていた。片手になにやら、大学の名称入りの紙袋を携えていた。
中肉中背、髪は白いものが目立つが、口元に蓄えた髭が似合っている渋い男前だった。
「先生」
私は困った顔をしていたのかもしれなかった。ドアノブをまだ掴んだままで廣澤先生を見上げると、先生が軽く首を傾げる。そして私の向こう側に立っているであろう、謎の男性を見た。
「要、お前脅かしたんじゃないだろうな」
「僕がそんなことすると思ってるんですか」
疲れたような溜息が零れ落ちるのを聞いた。
「だけど、突然僕が名前を呼んでしまったから、警戒させてしまったのかもしれません」
「そりゃそうだろ。―――ホラ」
掛け声と共に、背中をばしりと平手で叩かれた。入れ、という意味らしい。
「警戒するのも分かる。お前のその浮世離れした顔が悪い」
「好きでこんなふうに生まれたわけじゃないです」
「それを公共の面前で言ってみろ、めでたくリンチに遭うに決まってる」
すっかりと取り残されている私を尻目に、男ふたりは他愛もない冗談交じりの諍いをする。
「要、コーヒー」
短く言って、先生は大股に研究室に踏み込むと、窓際に置かれた机の上に紙袋を置いた。
要、と呼ばれたその男の人は憮然とした顔をしていたが、すぐに諦めたらしく、本棚の隣に設置された戸棚を開く。
私はいつものように、来客用の茶色い革張りのソファーに座った。
「ああ、あれは気にするな。ちゃんとした生きものだから。俺の教え子で、たまにここに顔出してる。ハナブサカナメって言うんだ。英語の"英"に必要の"要"」
「根津さんは、コーヒー大丈夫?」
先生の説明など聞こえていないかのように、英さんはこちらを伺う。インスタントだけどね。
はい。大丈夫です。無糖でも。
するとなぜか、英さんは僅かに目を瞠って、それから少しだけ笑った。
そうか、別に皆甘党なわけじゃないんだ。そんな独白が聞こえた気がした。
「俺はいつもので」
「分かってます別に言わなくても」
「相変わらず俺には冷たい男だなぁ。少しは愛想よくしろよ」
「愛想は使う相手を選んで使えばいいんです」
なんだか下手くそな漫才を聞いているような気がしてきた。
「な、ヤマト。嫌な奴だろ? あの顔に騙されちゃいかんぞ」
先生は英さんの顔に何か恨みでもあるのだろうか。
英さんも慣れたものらしく、別段反応を示す素振りもない。
「どうぞ」
研究室に備え付けのマグカップを手渡された。ありがとうございます。両手で受け取る。白い、熊がプリントされた可愛らしいマグカップだった。
英さんは先生専用の黒いマグカップを机に乗せる。先生はごそごそと何か探す仕草をした。
「要、煙草くれ」
「僕はもう半年も前にやめたんですけど」
えええ、とブーイングが起きた。
「なんでやめるんだよ、お前まで俺たち愛煙家を裏切ったのか。お前の身内も泣くぞ」
「泣きません。元々そんなに吸うほうじゃなかったし、別にやめるのも辛くなかったですよ。先生も少し減らしたほうがいいんじゃないですか」
私はただ、その話を傍観している。
割と親しいと思っていた先生が、まるで知らない人のようだ。
マグカップを両手で持ったままでふたりのやりとりを見つめていると、初めにこちらを振り向いたのは英さんだった。
「ほら、下らない話ばかりしてて、困ってるじゃないですか」
「ああそうだそうだ、ヤマト」
事務用の椅子を回転させて、先生がこちらに向き直った。
はい? 私は僅かに首を傾げる。背に流したままの黒い髪が肩を滑って落ちた。
「最近調子はどうだ」
話題が見つからないときの切り出し方みたいに聞こえた。近頃話をしていない子どもに父親が話を切り出すときのように。
けれども、私と先生の間では、ありふれた話の始まり方だった。イレギュラーなのは、ここに他人がいること。
私と先生が共有するあまり世間一般向きではない話題は、いつもこの研究室で、ふたりだけで話していた。
知らず知らずのうちに、私は本棚のあたりで立ったままコーヒーを口に運ぶ英さんを見つめてしまった。
「ああ、いいんだこいつは」
私が英さんを見ているのに気がついて、先生が言った。
「事情その他は全部分かってるから」
私は顔を先生に向けて、眉を顰めた。分かってるって?
「成瀬って、聞いたことあるだろ」
マグカップを机の上に置いて、先生は事務用机の抽斗を上の段から開閉しながら言った。
やがて嬉しそうに発見した煙草を引きずり出しながら、もう一度私に向き直る。
聞き覚えのある苗字に、記憶をさらう。随分と昔に聞いたような気がする。
私の生きている業界では、一種伝説のような名前だ。
「あの、"成瀬"、ですか」
先生は美味しそうに紫煙を吐き出しながら頷く。英さんは黙っている。
「そうだ。その成瀬の今の当主と一緒に暮らしてたんだ。こいつは」
煙草の先を無遠慮に向けられて、不機嫌そうに英さんが顔をしかめる。
「だからもしかしたら俺よりも、多分話が分かるだろうと思って」
珍しく、先生が真剣な顔をしている。すとんと納得した。ああ、そうか。
心配されているのだな、と思った。
先生はいつも、誤解している。
「ありがとう、先生。でもいいんです、私、別に調子悪くないし。それに、このことについて全然悩んでいません」
私が傷ついて悩んで困っていると、先生は思っている。
「私はこの力をちゃんと受け容れているから、もういいんです。苦しんでいませんから」
英さんの、茶の瞳がこちらを見ている。
睨むでもなくただ、じっと。
「あの日から受け容れているんです、こうして生きていくことも。父から力と命を譲ってもらったときから」
コーヒーが冷めてきた。たぶん、すごく苦いと思う。そんなことを思いながら。
私はあの日を思い出す。
―――根津という名前は、もうずっと前からひっそりと続いてきた。
幼い頃から、子守唄のように聞かされてきた伝説。血の呪い。
「夢喰いとして生きることは、怖くないです。認めているから自分のこと」
ばけものだと。
ちゃんと分かってる。
分かっている。
【第参話】
「どう思った?」
薄闇に包まれつつある研究室。しばらく続いた沈黙を破ったのは廣澤のほうだ。
「これだけじゃ、ちょっと何も分かりませんね」
いつのまにか書棚に増えている新しい文献を手に取りながら、答えた。
「お前がどう思ったか訊いてるんだ」
根津倭。長くうつくしい黒髪と、濃紺の瞳を持つ、とても大人びた顔をする少女が立ち去ったあとの研究室。
応接用のテーブルの上に、ほとんど中身を残したままのマグカップだけが残されている。
「僕のときと状況が違いすぎるから、ちょっと分からないかな。ただ、頑なに無表情だな、とは思ったけど」
「お前最近、会ってるのか?」
恩師の主語のない質問に、文献を閉じて書棚に戻す。振り返った。
「前に比べたら激減しましたけど、時々は」
廣澤が訊いているのは、僕が十三から十八まで、五年間共に暮らした男のことだ。
先程会った、根津倭と同じ色の瞳と同じ力を有する男。
廣澤が僕を彼女に引き合わせようとしたのは、僕の人とかけ離れた生い立ちと、その男と暮らした時間が理由だろう。
「相変わらずの昼行灯ぶりです。恵まれてると思うのは、出た家が名家だってことと、バックに銀がついてることだと思うけど。最近は実家のことも色々と手伝っているみたいだし」
以前よりは、随分と割り切ってると思いますけど。
付け加えた。
「何度も説明受けたんだが、いまいち曖昧でよく分からんのだけどな。"夢喰い"ってなんなんだ?」
「それこそ何度も説明したじゃないですか、僕が」
何度聞いても分からないというのに、また同じ相手に説明をさせようとするのが理解できない。
「じゃあ、こっちから訊くから答えろ。夢喰いってそもそも、どういう生き物なんだ?」
「簡潔に言うと、人と物の怪のハーフらしい、です。何で立証されたわけではないし証拠もないけど、そっちの業界ではずっとそう言われてきたみたいですね」
「その能力っていうのは?」
「大雑把に言ったらふたつかな。人を強制的に眠らせることと、眠ってる人間の夢を媒介にして意識に触れること」
「化け物って言われる所以は」
「夢を媒介に人の意識に潜ったときに、人の意識の一部を食べること。一番一般的なのは、そのとき見ていた夢を喰うことかな」
質問されることに、とりあえず簡潔に答えた。何度も説明させられているので、言葉に詰まることはない。
夢を喰う、と言ったが、実はそれでは説明が足りない。
夢喰いは、人の意識は何でも、思うが侭に喰えるらしい。それこそ記憶、"正気"など。
けれどもそれは、現実社会に生きる夢喰いにはタブーとされている。
人に害を成さぬように、生きてゆくように定められている。
「夢喰いはそうやって、人の意識に潜って、夢を食べないと、死ぬんです」
そのメカニズムは今もって分かっていないけれど、人間がしなければいけない栄養源の摂取とは別に、人の意識の一部を喰わなければ死ぬのだという。
人の意識に依存をして、それを掠め取って生きていく。だから化け物なんだ。
その言葉は、夢喰いである本人から聞いた。
「それと、"親殺し"か」
銜えていた煙草を安っぽい灰皿に押し付けて、消す。
最後の紫煙と共に、廣澤が吐き出した。
そのことは、よく理解しているらしい。
その特殊な能力は、一子相伝。
親から子にしか継がれない。
力を継ぐのは、大体二十歳前後らしい。その頃になると、夢喰いの長子には体の不調があらわれるらしいのだ。
どうしようもないだるさと、飢餓感。
その飢えを満たすために、子は親の夢を"喰う"。
それが継承の証であるという。
どうしようもない飢餓が満たされると同時に、力を奪われた親は、死ぬ。
それは逃れようのない業だ。例外はない。
いつまでも力を継承しなければ、子は飢えて死ぬ。
どちらかしか生き残れぬさだめだ。
親を殺して、子は生き残る。
「根津さんが力を継いだのって、十六歳でしたか」
「去年だから、そうだな」
「……はやいですね」
思わず嘆息した。
早いのか、と珍しく重い口調で恩師が訊いた。
「カズマは―――成瀬の夢喰いは二十歳だって聞きました。大体そのぐらいだって」
僕の知る夢喰いは、二十歳でその力を継いだ後、とても不安定に陥り、何よりも自分を憎んだのだという。
壮絶な自己嫌悪は、薄まっただけできっと今も続いているのだろうと思う。
「父親と、知り合いだったって話したよな?」
机の上を手早く片付けながら、廣澤が言う
ええ、と頷いた。
「大学の友人でな、随分親しくしてた。だから、倭とは生まれた頃からの顔見知りなんだ」
椅子の背にかけてあったジャケットを羽織って、カバンを掴む。帰るつもりらしい。
無言で顎をしゃくるので、僕は先に研究室を出る。
「俺は、浩市に―――あいつの父親に一度だけ頼み事をされた。倭を頼む。唐突に言われたんだ。俺はあいつが夢喰いだってことは知らなかった。それから一ヶ月もしなかったかな、倭の親父が死んだのは。しばらくして浩市の遺言書を持って、兵頭っていういかめしい苗字を持った男が説明にきた」
淡々と話しながら、廣澤は研究室のドアに鍵をかける。
その鍵をスーツのポケットに乱暴に押し込んで、エレベーターへ向かった。
隣に並んで、同じ歩幅で、歩く。
「そこで初めて夢喰いの話を聞いて、説明されたよ。倭がその力を継いだってことも。正直、何言ってんだこいつは、って思ったぜ」
先生の両手が塞がっているので、こちらがエレベーターの呼び出しボタンを押す。
「元々大人しかった。母親も早くに亡くしていて、しっかりしてた。そう思ってたんだが」
エレベーターの扉が開く。正面に鏡。
「兵頭に連れられてきた倭は、とにかく無表情だった。お前がさっき言ったみたいに、頑なに、無表情だったんだ」
そう。彼女に感じた感想は、頑なに無表情。
無理にでも感情を消している、何も感じないふりをしている気配だった。
外界との間に膜を張り、全てを蚊帳の外に外し、自分を蚊帳の外に置き、何も感じないようにすること。
同調しないこと。感応しないこと。
その感覚には、実は、僕も覚えがある。
ただ突っ立っているだけの心無い人形になること。
社会生活に適応できるだけの、マシンになること。
「要らん世話、焼いてるのかもなぁ」
エレベーターの扉が開くのと同時に、先生はらしくない弱音を零す。
いつも破天荒で傍若無人なひとが、珍しいな。
「世話を焼いてくれる人がいるって、ありがたいことだと思いますよ。そのときは分からなくても」
恩師を慰めるのなんて、なんだかさびしいな。そんなことを思った。
大学、大学院と世話になり、この学園を離れてから二年ほど。年を取った、なんてまだ思いたくないですよ、先生。
「そうかぁ?」
鬱陶しいんじゃないのか? 怪訝そうに横から僕の顔を覗き込む。
「世話を焼かれているときはね。うっとうしいですよ」
ほらみろ、とふいっと先生が顔を逸らした。
拗ねてるんですか。
「あとから思い返すとありがたいです。僕もそうだった」
建物の外に出ると、風が随分冷たかった。空も薄紫が濃紺にかなり侵食されている。
九月、そろそろ暑さも引き揚げ時なのかもしれなかった。
「要」
並んで校門まで歩いている途中、しばらく黙り込んだあとで、唐突に名前を呼ばれる。
返事もせずに、顔だけをそちらに向ける。
「俺はな、倭のこと可愛いんだ。生まれたときから知ってるからな。お節介だろうと、世話焼いてやりたいんだ」
年取ったのかなぁ、と廣澤はぼやいた。
「倭が何か話そうと思ったときは、聞いてやってくれ」
頼む、と最後に廣澤は付け加えた。
貴方に頼み事をされるのなんて、コピーに行かされるか、コーヒーを淹れるか、事務室に所用を頼まれるぐらいだと、ついこの間まで思っていたのに。
不思議な偶然は、あるものだ。
「分かりました」
頷いて、校門で別れた。
【第四話】
考え事をしながらでも、環境に適応した足は間違えずに帰り道を歩く。
けれども、見慣れた門の前まで来ると、今まで何を考えていたのか分からなくなった。
やけに真剣な面持ちでこちらを見ていた先生の顔と、今日出会った端正な男の人の顔だけが焼きついたように残った。
兵頭、という表札のかかった小ぢんまりとした日本屋敷。
木の門を横にからりと開いた。
ひとつふたつ、飛び石を踏んで、玄関までたどり着く。
「ただいま帰りました」
「あら、倭ちゃんお帰りなさい」
すぐに、ぱたぱたと軽快な足音が近づいてくる。
柔和な物腰の、小柄な女の人だ。肩のあたりまでの髪がゆるく弧を描いている。
白いエプロンをしていた。
「ただいま、春子おばさん」
やわらかい気持ちになって、微笑む。
「着替えてらっしゃい。すぐにご飯にするわ」
あたたかく微笑して、春子おばさん―――兵頭春子はまた小走りに家の奥へ戻ってゆく。台所だろう。
玄関の照明は橙色をしている。靴を脱ぐときに足元を照らす明かりは、いつもあたたかい。
春子おばさんはやさしい。
いや、兵頭の家の人は、誰もやさしかった。
やさしさはここで完結している。満たされている。
これ以上は要らなかった。
階段を上って、宛がわれた部屋まで戻る。
正座なんて、滅多にしなかった父が珍しく膝を折って私と相対したとき。
私はとうとうその日が来たのだと思った。
その頃、私はどうしようもない体の不調に悩まされていて、食事も碌にできない有様だった。
予言されていた日がやってくる。壮絶な吐き気と戦いながら、私は漠然と気がついていた。
父を殺す日が来る。
幼い頃から、それこそ子守唄のように言い聞かされて育った。
それをむごいと言う人もいたけれど、私はこれでよかったと思っている。
別れの日までを、大事に出来た。
母が病気で亡くなったのは五つぐらいの頃で、その頃の記憶はあまりない。
ただ、小雨が降る中で父と手を繋いで、黒く沈黙した墓石を眺めていたのを覚えている。
母を亡くして肩を落としている父を見上げて、私は手を強く握る。
手が軋むぐらいの痛みで、握り返された。
父はとてもかわいそうなひとだ。
この人を私は、食い殺さなければならない。
父は何度も繰りかえし言った。これは決まりごとなのだと。
私たちはばけものだから、仕方がないことで、誰も悪くない。
私は頷いた。わかった。
だから、父と面と向かい合って座ったときも、覚悟はできていた。
でもそれからあとのことは、よく覚えていない。
気がついたら目の前に父が倒れていたことだけだ。
寄る辺のなくなった私は、以前から付き合いのあった兵頭家にひきとられた。
兵頭の家は少し普通とは変わっていて、霊媒を―――分かりやすくいうところの幽霊退治のようなものを影の生業にしている。
夢喰いの家と霊媒師の家が一対一で縁戚のように何代も付き合ってゆくことは、仕来りのようなものだと聞いた。
有名な家ならば、成瀬と銀。
はるか昔から続く夢喰いの旧家である成瀬と、平安まで遡れば帝の御用達であったとさえ言われる名実共に随一の霊媒一門、銀。
その他にも、櫛引と呉。山科と首藤。表と裏、と呼ばれるその関係。
根津と兵頭もそのような関係だった。
ただ、根津も兵頭も、それほど全国規模で名前が知られるほど有名ではない。
銀の本家と呼ばれる家も修恵学園からそれほど離れていないところにあるけれど、見渡す限りに続く塀と、厳重に閉ざされた大きな観音開きの扉、垣間見える文化財としか思えない屋敷は、住む世界の差を感じさせる。
兵頭の小父さんは本職は公務員だし、私の父も元々は会社勤めだった。
霊媒師だのなんだのと言って、それ一本で食べていけるのは本当に指折り数えられるほどだけだ。
ひっそりと、隠れるように、生きている。
階段を上り詰めた所に、左右にふたつの扉がある。
左側が私に宛がわれた部屋だった。自分の部屋に入る前に、右側の扉をノックする。
「朝樹(アサキ)」
扉を薄く手前に引くと、白いひかりが溢れてくる。
窓際にかけられたカーテンは、染み一つなく白い。
その窓辺に寄せられたベッドに、小さな人影があった。
「ヤマト! ヤマトおかえり!」
ベッドの上で体半分を起こして本を読んでいたその小さな影が、ぱっと顔を上げた。
ドアの傍にカバンを置いて、ベッドの傍に寄った。
「朝樹、ただいま」
小さな両腕が伸ばされるのを受け止めるように、抱き締めた。
今年十二歳になる少年の体とは思えないほど、ちいさい。
全体的に色素の薄い、やわらかい印象のある少年は、この家のひとり息子だった。
とても体が弱く、ほとんどこの家の中から出ることができない。
その代わり、彼が内包する力は、一族の誰よりも強いと言われている。
(力の強い弱いは、関係がない)
小さな体はあたたかく、彼を取り巻く空気はあまりにも清浄だ。
私がまだ人らしく振舞えているのは、彼のお陰なのだと、思う。
「ねぇ、ヤマト。なにかあったの?」
大きな薄茶の瞳が、じっとこちらを見上げていた。
その大きな瞳には、いつも全てを見透かされているような気がする。
「どうして?」
「なんだか、いつもと雰囲気がちがうから」
「うん、廣澤先生と会ってきたよ」
「なにか言われた?」
ゆるく首を横に振って、否定する。
「先生は、私のことを心配しているんだと思う」
ベッドの上に下ろした右手を、朝樹の小さな手が握った。
「英さんというひとに会ったの」
「どういうひとだったの?」
純粋な目が聞く。
外界との接触がほとんど無い朝樹にとって、私は外の世界との窓口でもあった。
私は聞かれるままに彼にいろいろな話をし、彼に様々なことを話すことで、自分の内側を整理しているのかもしれない。
だから私は、朝樹になにも隠し事をしていない。彼にはなにも包み隠さず、素直に話ができる。
「あのね」
私は今日一日の出来事を、順を追って話し始めた。
【第伍話】
私の世界は完結していた。
毎日同じような日々の繰り返しで成り立っている。
目が覚めて、学校へ行く支度をする。朝食を摂って、まだベッドの中で寝息を立てている朝樹の部屋を覗き込んでから、家を出る。
足が覚えている道程を辿り、学校へ着き、定められた授業をこなし、家に帰る。
単調で、変化は無い。
漣も立たぬような日々が、ゆるやかに流れてゆく。
これからも、あまり変わりはないと思っていた。
ヒトの棲む世界に適応しているようで、溶け込みきれずに。流されてゆくものだと思っていた。
ある朝、教室の扉を開いてみると、事件が起きていた。
単調な朝ではなくなっていた。
騒がしかった。
教卓に立って、クラスメイトの岡崎咲子が興奮気味に話をしている。
薄茶に染めた髪を綺麗にまとめて、制服のスカートは短めにして、ぱっと目を引く典型的な女子高生。
そんな彼女を囲むように、クラスの女子生徒がわらわらと集まっている。
「あ、おはよう倭!」
こちらに気がついた心が、当たり前の朝の挨拶をする。
ちらほらと、それに応じるように挨拶があった。
おはよう、と返した。
何かあったの?
「それがね、昨日言ってたじゃん、咲子が見たっていうひとの話」
窓際の席までたどり着くと、昨日と同じように心が私の机のまえにしゃがみこんだ。
「特別授業っていうやつを廣澤先生がするんだって。その助手のひとらしいの。職員室で見かけた人がいたって言う話から盛り上がっててさ!」
特別授業の話は、以前に聞いた。土曜日の昼頃から自由参加。大学の講義のような内容らしい。
週休二日制度が取り入れられてから、すっかり土曜日は休日になってしまっている。部活動で忙しい生徒も多く、このままストレートで修恵の大学に進む生徒以外には何の利点もなく、参加者はほとんどいないだろうと言われていた。
咲子さんが昨日見たというひとはおそらく、英さんなのだろう。
「騒がしくしてんじゃねぇ、席につけっ!」
壊れるほどに勢いよく扉を開いて、威勢のいい怒鳴り声が飛び込んできた。
「ジンセンセー、社会科の特別授業の助手の人のこと……」
「お前らなぁ、朝っぱらからそのことばっかり聞いてくるんじゃねぇっ、とりあえずHRだろうが!」
担任の真堂迅は江戸っ子を地で行くようなかなり型破りな男だ。
彼の評価は綺麗に真っ二つに分かれる。人情厚く、多彩な雑学を織り交ぜる世界史の授業やHRを好むもの、逆に、しっかりとした受験対策をしてくれず、口煩いと厭うものもいる。
私は、嫌いではないが、苦手だった。
形どおりの出欠確認と伝達事項が終わると、俄かに教室が騒がしくなる。
特別授業への申し込みの方法はどうするのだ、とか。
「お前らなぁ、そんな不純な動機で授業受けてどうすんだ」
呆れきった溜息を落として、真堂が呟く。
「入り方はどうであれ、授業受けたあとに何かが残ればそれでいいと思いマース」
「……本当に、お前らは口ばっかりは達者に回るもんだなァ、毎回感心しちまうぜ」
「先生、先生はさっき職員室でそのひとに会った!?」
「会ったも何も、向こうから挨拶に来たに決まってんだろ。教え子だぞ」
教室内に、女子の悲鳴が上がった。
男子はげんなりとした様子で最早聞いてはいない様子だ。
「じゃあ、修恵の卒業生?」
「名前なんていうの」
「いくつ?」
「あー、煩ぇ煩ぇ、そんなのどっかであいつをとっ捕まえて本人から聞け」
人差し指で耳を塞ぐ動作をして、真堂は矢継ぎ早の質問をあしらった。
HRの終わりを乱暴に宣言して、すたすたと教室を出て行ってしまう。
「卒業アルバムとか、調べたらあるかな?」
こそこそと楽しそうに、秘密の算段をするような声が聞こえてきた。
何故かざわついた。心が。
いつもどおりの日常の、繰り返しではない。
瞭かな変化。
*
「全く、お前はいつまで経っても問題児だぜ」
「僕が悪いんじゃないですってば」
放課後。委員会の定例会議を終えて、昇降口に向かっている途中。
職員室の前を通りかかったところで、耳馴染んだ声が聞こえてきた。
職員室の扉を開いて、担任の真堂と、まさに渦中のひとの人影が並んで現れた。
「おお根津、今帰りか」
ばったりと顔を合わせてしまった。真堂先生が頑固親父のような顔で笑う。
「こんにちは」
柔和に笑って英さんが言うので、軽く会釈する。
真堂先生は、少しきょとんとした顔をして私たちふたりの顔を見比べてから。
「知り合いか?」
と、どちらともなしに聞いた。
「廣澤教授の研究室で会ったことがあるんです」
英さんが答えた。先生の顔がこちらを向くので、私も頷いた。
そうか、とようやく先生が納得する。
「じゃあ要、お前よほどの用が無い限り高等部に来るなよ。お前の身の安全のためにも、生徒のためにも、言っておく」
びしりと人差し指を突きつけて、真堂先生が教え子に忠告する。
「わかりました、気をつけます」
不本意そうな顔で、それでも英さんは忠告を受け入れる。
気をつけて帰るんだぞ、と言い残して先生はまた職員室の中に引き返した。
人気のない廊下に、何故かふたりだけ、取り残されてしまった。
「根津さん、ちょっとだけいいかな」
何故だか止まってしまっていた時間を動かしたのは、英さんの一言だった。
「少しだけ話があるんだけど」
いつもどおりの日常の、繰り返しではない。
瞭かな変化。
それは漣だった。
大きな津波の予感がする。
【続く】