イレギュラー
第十一話〜第十五話

【第十一話】

 目が覚めたら、昼を回っていた。
 いまだ、ぼやける視界で天井を見上げ、要は今、自分が今どこにいるのかが分からなかった。
 しとしとと、雨の落ちる音がしている。
 閉ざされたままのカーテンから、うすぼんやりとした光がベッドの上に射していた。
 枕もとにおかれた目覚し時計を持ち上げて目の前にさらしてみる。
 驚いた。
 そして、焦った。
 昼休みも終わる時間だったのだ。
「うそだ」
 呟いていた。
 短針と長針を何度も見比べてから、むくりと上半身を起こした。
 布団を退けて、ベッドを出る。
 階段を駆け下りて、居間の扉を開け放つと、ちょうど煙草に火をつけていた同居人と目が合った。
「なんだ、もう具合はいいのか?」
 素っ頓狂なことを言われて、要は固まった。
「ぐあい?」
「しんどいから休むって、朝」
 うそだ。
「その調子だと、もう大丈夫そうだな。学校には連絡入れといたから」
 咥え煙草のまま、成瀬一馬は間続きになっているキッチンに消える。
 居間の扉を押し開いた形のまま、要はしばらく呆然としていた。
 全く覚えがなかった。
「どうした?」
 台所から引き返してきた一馬が、入り口で固まっている要を見て怪訝そうに眉をひそめる。
「あ、なんでも、ない」
 立ち去ることも出来ずに、要は居間に踏み込んだ。
 ふらふらと、覚束ない足取りでソファーにたどり着いて、ぽすりと沈み込んだ。
 ずぶりと沈むような錯覚を覚える。二度と立ち上がれないような気がした。
 おおきく吐息をついたら、溜息のようになった。

―――宿題。

 多くを語らずに差し出される手を、気がつけば思い出していた。
 僅かな痛みが胸を刺す。目を閉じて、絡まりつく情景を振り払おうとした。
 やさしく、されたわけじゃないんだから。
 期待もしていなかったはずじゃないか。
 週刊誌に書かれていることは、ほとんど正しい。
 軽蔑されても、憐れまれても、仕方がない。全てのひとに受け入れてもらえるはずがない。
 神田勝利が、少し前に自殺した友人と自分を重ね合わせて、こちらに手を伸べていたのだとしたら、全て納得がいく話じゃないか。
(僕のために、じゃなくて)
 肩越しの向こう側、誰かを見ていたのだとしたら、こんな自分に手を伸べてくれた理由もわかる。
 だって、気色悪いいきものだもの。そんな理由でもなかったら、受け入れられないだろう。
 持って生まれた力も、体の中に棲んでいるもうひとりの自分も、一年前までの箱庭での生活も、全て特異で異質で奇怪だ。
 溶け込めるなんて、思っていなかった。
 何事もなかったかのようにぬくぬくとあたためられて、ふざけて笑いあうことなんて、許されないと思って―――いや、許したくなかったのだ。
 ぼんやりと、両の掌を見つめてみる。
 自分がしてきたこと。無意識のうちだとしても、許せるものではなかった。
 そんな生き物が、当たり前のように友達に囲まれて笑っている、なんて。
 信じてなんかいなかったよ、そんな奇跡のようなこと。
(本当に?)
 ぽこり。
 水面に浮かぶ泡のように、疑問符が浮かんできた。
 両の拳を握るようにして、また、下らない考えを振り払おうとする。
 あたりまえじゃないか。
 一体自分がどれだけのことをしてきたのか、忘れたつもりなのか?
 母親に―――一体何をしたのかを。
 産んでくれた人のことを思い出すと、急に泣きたくなる。
 それでも、囁きは食い下がった。
(本当に、期待していなかったのか?)
 揺さぶりをかけてくる。きつく瞳を閉じて、必死にそれを振り払おうとする。耳を貸さないようにする。
 当たり前だ。自分のことを、誰よりも自分が許せないのだから。
 簡単に許されて、受け入れられるなんて―――。

―――本当に?

 静かに、囁きは問いかけ続けた。
 本当に期待していなかったと言えるのか。
 たとえば、毎朝教室の扉を開けるときに感じていた、あの絶望感。むなしさ。
 おはよう、と。声をかけられた瞬間に体中に走った電流のような感覚。じわりと広がったくすぐったさ。
 そして今。
 どうしてこんなに、脱力感を感じている? 何を悲しんでいるんだ?
 初めから何も求めていなかったのなら、つまはじきにされても虚しさを感じる必要なんてないだろう。
 構われて喜ぶこともなかったし、何より、こんなふうに悲しむ必要なんてない。
 期待が全てを運んできたんだ。
 虚しさも喜びも悲しみも。

 本当は、本当は、本当は―――。
 受け入れられたかった、んじゃないのか。
 無理だと、諦めているつもりで本当は。
 欲しがってたんじゃないんだろうか。

 他愛もない話をして笑いあったりだとか、つまずいたときに励ましてくれたりだとか、何よりも、この胸の内側に抱えた全てを吐露しても、離れずにいてくれるんじゃないか、とか。
 奇跡のような期待をどこかでしていたんだ。

(本当は、傷ついてるくせに)
 自分のもののような、他人のもののような声が宣告した。
 ほろっと、見下ろした掌に何かが落ちた。
 重みを持った水分が、重力に引きずられて落下した。
 要は、無駄な抵抗を諦めて、受け入れた。

 友達になれるんじゃないかって、思っていた。

 こんな自分を受け止めてくれるんじゃないかって。
 無邪気に焦がれた夢が、やっぱり叶わないものだと気がついて、しらしめられて、だからこんなに苦しいんだ。

 頬を、水の流れが伝って顎を辿って落ちる。
 水の通ったあとが空気に触れて、ひやりと冷たい。
 唇を噛んで、必死に嗚咽を堪える。肩が細かく震え始めた。
 このままここにいたらいけない。
 勢いで、ソファーから立ち上がった。
「要?」
 いぶかしむ声も、無視する。
 荒々しい足取りで居間を横切り、部屋を出た。
 階段を駆け上がり、突き当たりの自室に飛び込んで、仰向けにベッドに転がった。
 ようやく、堪えていた嗚咽が飛び出した。


 傷ついてるなんて、認めたくなかった。



【第十二話】

 隣の席を何度うかがっても、結果は同じだ。
 がらんと、空洞。
 左腕の頬杖に顎を預けて、ちらりと隣を盗み見る。
 誰もいない。
 無人の机と椅子が一組、陣取っているだけだ。
 目元をこすった。目蓋が腫れぼったい。だから、泣くのは嫌なのだ。
 隣の席が無人である理由を、担任は、体調が悪いからだと簡潔に説明した。
 本当にそうなのか? 疑問符が腹の内側で暴れまわる。
 紛うことなく、体の不調なのだろうか。
 勝利には、そうは思えなかった。
 ぼんやりと、白い机のおもてを見ていると、油性のマジックペンで書かれた文字が浮かび上がってくるような気がした。

『キモイ』
『死ネ』
『高幡くんの命日は○月×日』

 所狭しと書きなぐられた下世話な文字を前に、ぼんやりと立ち尽くす幻影まで見えた。
 何か、別世界のものでも見るような、遠い目をして汚れきった机を見下ろしている。
(高幡、何でおまえ黙ってんだよ)
 明るい、ぱりっとした声がその幻に語りかけた。
(嫌なことはちゃんと嫌だって、言えよな)
 いつのまにか、その幻の隣に自分が立っていた。今よりも少しばかり背の低い、半年前の自分。
 すがすがしい顔をしていた。正義感に溢れていた。
 自分の考えたことがすべて正しくて、何もかもに適応する道理だと思っていた。
 キショイのはおまえだ。
 左腕の頬杖に顎を預けて、勝利は半年前の自分を睨みつける。
 不快感で吐きそうだ。
 自信を背負った半年前の自分は、はきはきと、机を汚されたクラスメートに語りかけた。
(俺も、小学校の頃色々あったんだ。修恵って金持ちの学校だろ? 例外いないわけじゃないけど、周りはみん金持ちだし。俺、別に金持ちの家の生まれじゃないからさ、嫌がらせとか、イジメみたいのとか、あったんだ)
 それは事実だ。
 陰湿な嫌がらせのようなものを受けたことがある。
 靴がないだとか、教科書がトイレに捨ててあるだとか、基本に忠実なやつだった。
(ハッキリ言ってやったらさ、俺のもおさまったから。高幡だって、こんなのヤだろ?)
 半年前の自分は笑っている。平然と、悩みなんてないような顔で笑っている。
 唇を噛んだ。甘しょっぱい鉄分の味が、僅かに舌先に触る。
 自分に出来たことは、他のみんなも出来て当然なんだと思ってる。
 ゆるりと、高幡は折れそうに細い首をめぐらせて、無惨に汚された机から勝利のほうへ顔を向ける。
 うつろな、力のない瞳を細めるようにして、少し笑った。
(無理だよ)
(なんでだよ)
 半年前の自分は、まだ笑っている。しょうがないなぁ、と笑って、高幡の肩を叩いている。
 あんなに、疲れて打ちひしがれた、絶望の顔をしているクラスメートを前に、平然と、きらきらと、笑っている。
 バカじゃないのか。死んじまえ。
 今、目の前の幻に触れられるのならば、その奇麗事ばかりを吐き出す口を後ろから塞いでガムテープでも貼り付けてしまいたい。
(大丈夫だって。高幡だってできるって)
 一片の曇りもない顔を、きっとしていただろう。
 だって、何ひとつ間違っているとは思わなかったもの。
 唯一絶対の解決策だと、信じていたもの。
 だれでも、きっぱりとした態度で対応できたら、現状は打開できると思っていた。
(そう、かな)
 気恥ずかしそうに、困ったように、高幡が少しだけ笑った。
(おう)
 力強く頷いて、あの日の自分は高幡の肩を叩いた。
 何もかもこれでうまくいくと、簡単に信じていた。
 味方になってやれる。励ましてやれる。ヒロイズムに酔っていた。
 真っ直ぐ一本伸びた芯で。正論で、誰も彼もが励まされると―――無邪気に思っていたあの頃。
 それが人を追い込むことがあるのだなんて、考えもしなかった。
 かけらも。一瞬も。心の隅にも。

「神田」
 だみ声に呼ばれて、我に返った。
 気づけば、数学のだるまのような教師がすぐ横に立っている。
 丸い眼鏡の奥で人の良さそうな小さな目が渋いものでも口に放り込んだときのようにゆがめられている。
「どうした。真っ青だぞ」
「先生、俺……」
 椅子を引いて、席を立った。
 どうしてそんな行動に出たのかは、よく分からない。
 立ちくらみがした。脚の感覚がなかった。
「具合悪いんで、早退します」
 白い机のおもてを見下ろしたまま、掠れた声が言ったのを聞いた。自分の声には聞こえなかった。
「神―――」
 がらんと空いた隣の席をとおりすぎ、数学教師を押しのけて、後ろ側の扉から出た。
 とりあえず引きずってきた鞄が、まるで鉛で出来ているかのように重くて、肩が抜けそうになる。
 授業中の廊下はひっそりと静まり返っていた。まるで長距離を走り終えたときのように内側から噴きだしてくる汗を不快に思いながら、玄関へ近い階段へ向かう。
 一階に下りたあたりで、玄関へ続く長い一本道の向こう側から、人影がこちらに歩いてくるのが見えた。
 目は悪くないはずなのに、視界がぼんやりと霞む。同じ制服を着ているから、誰が誰かなんて分からない。
 ただ、空気が締まっていると、そう感じた。
 最近は梅雨空が続いていて、今日も例外なく曇り空だ。肌に湿気がまとわりついて、鬱陶しいはずなのに、延々と直線に伸びるその廊下だけ、空気が澄んでいる。
 金縛りに遭ったかのように、脚がすくんで動かなくなった。
 違和感の塊は、向こう側からこちらに歩いてくる。しんと静まり返った廊下に、足音はよく響いた。
 どんなに光を透かしても、黒以外には見えないだろう髪は、白い肌に良く映える。
 勝利の近くまで来て、ようやく”彼”はこちらに気づいたようだった。
 一瞬だけ歩みを止めて、また何事もなかったかのように歩き始める。距離がつまる。
 息が出来なかった。
 雰囲気に呑まれて、圧されていたのだ。
「君が一体、どんなつもりかは知らないけど」
 擦れ違い様に、隣のクラスの御曹司が口を開いた。
 はりつめた、冷たさを含んだ声だった。
「好奇心だけで要に構わないでくれ」
 鋭い針で心臓を一突きにされたら、こんな気持ちになるのだろうか。
 胸のあたりから体全身に、激痛が走ったような気がした。
 勝利の横を通り抜けて、銀都佳沙は階段を上り始める。
「俺は別にっ―――」
 大声をあげて、階段のほうを振り返った。
 都佳沙は肩越しに、勝利を見下ろしていた。
 髪の色と同じ、漆黒の瞳がまるで、すべてを丸裸にするかのように鋭く勝利に注がれている。
「好奇心、なんかじゃ……」
 蛇に睨まれた蛙の心地で、勝利の言葉は尻つぼみに消える。
 しばらく温度の感じられない視線で勝利を串刺しにしてから、都佳沙は唇をひらく。
「もし、何かの身代わりにしているつもりなら、それは好奇心なんかよりもよっぽど、悪質だと思うけどね。君は彼の何を知って、何を分かって、励まそうとしているのかな」
 言葉が何も出てこなかった。
 まるで断罪するかのような都佳沙の視線に耐えられず、うつむく。
 階段を上る靴音が、徐々に遠のいていった。廊下は再び、静寂に満たされる。
 重い足を引きずりながら、勝利は玄関に向かって歩き始めた。


             *


 その日、高幡は。
 勝利に励まされたとおり、勇気を振り絞り抵抗し、その結果袋叩きにされた。
 ぼろぼろの姿で重そうに体を引きずって家に帰り、心配する家族とはひとことも言葉を交わさず、部屋に閉じこもり、必死に机に向かっていたのだという。
 ひっそりと家中が寝静まった頃に家を出て、―――二度と帰らなかった。


 家とは別の方向に、足が向いた。
 鉛のような足と鞄とを引きずって、駅の向こう側、雑居ビルが立ち並ぶ通りに出た。


『ぼくはまるで、幽霊のように見えるのだそうです』

 ガードレールを挟んだ向こう側を、ひっきりなしに車が通り過ぎる。
 排気ガスを吐き出して、大型トラックが通過していった。風に、髪が舞い上がる。
 いじめは本当にあったのかなかったのか。
 それを検証するために立ち上がった大人たちが、高幡の遺書を勝利に突きつけた。
 勝利の名前が、そこに綴られていたからだった。
 幸い、クラスで傍観していたおとなしめのクラスメートたちが、「神田は高幡を励ましてただけだから」と弁護をしてくれて解放された。

『幽霊なら幽霊らしく、この窓から飛んで見せろという。それが出来ないなら、床に這いつくばって謝れという。ぼくの何がいけないって言うんだろうか』

 励ましていた、って。なんだよ。
 本当に俺のせいじゃないと言えるのか。

『ぼくはただ、そこにいただけだ。そこで、本を読んでただけだ』

 笑って肩を叩いて、がんばれ、なんて言って。
 それは、いじめじゃないのか?

 遺書には切々と、今まで受けた仕打ちのことが綴られていた。
 勝利は確かに、それを目の当たりにしていた。高幡は何ひとつ嘘も誇張もしていなかった。
 止めに入らなかったのは、傍観していたのは、見過ごしたのは。
 罪ではないのか?

『神田君へ』

 無邪気に、相手のことを分かったフリをして慰めたり励ましたり、せっついたりするのは。

『ぼくはやっぱり、君みたいにはできませんでした。君とぼくは違うよ。色々言ってくれて嬉しかったけどそれと同じぐらい―――』

 それは、罪じゃないのか。


 勝利は、顔をあげて、聳え立つ廃ビルを見上げた。
 駅から大分離れたところにあるこのビルは、勝利が物心がついた頃にはもう廃ビルだった。
 地面から、なぞるように見上げてゆく。
 くすんだ灰色の壁にはめ込まれたガラス窓はほとんどが割れてなくなっている。
 全部で七階建て。
 大通りに面した、立地条件に恵まれているビルがずっと放置されていることについては、たくさんの噂があった。
 呪われているだとか、人が死んだのだとか。取り壊そうとすると必ず何かが起こるらしい。
 屋上には、フェンスも何もない。膝のあたりまでしか、段差もない。
 踏み台にのぼるように簡単に足を掛けて、身を乗り出すことが出来る。
 今でこそ、入り口は板でふさがれているけれど、当時は入ろうと思えば簡単に入れた。
 屋上まで見上げて、勝利は息を飲んだ。
 人が立っていた。
 曇天を背にして、ブレザーの制服姿で、線の細い少年が立っていた。
 制服も顔も埃で汚れている。吹きすさぶ風に、髪が、服の裾が揺れていた。
「高幡―――」
 彼の名を、勝利は呼んだ。
 高幡千晶が、そこに立っていた。
 あの日のままの姿でそこにいた。
 静かな笑みを浮かべて、地上を見下ろしていた。
 七階分も離れていて表情など見えるはずもないのに、何故かそれが分かった。
 咽喉がからからに渇いて、叫ぼうと思って開いた口からは何も出てこない。砂を詰め込まれたような気分になった。

 やめてくれ!
 叫びたかった。

 ふわりと、高幡は笑った。
 両手を広げて、体を前に倒す。
 ぐらりと体が傾いで、そのまま重力に引きずられて、落下する。
 見上げる勝利の上に、落ちてくる。
 まばたきもできずに、勝利はそれを見上げていた。
 一瞬でぐっと迫った高幡の体は、勝利の体をすり抜けて、地面に落下した。
 どん、という鈍い衝撃音すら、聞こえたような気がした。
 指先から力が抜けて、鞄がアスファルトに落下した。
 膝が崩れ、往来にぺったりとへたり込んだ。

『神田君、僕は―――』

「俺の」
 せいだ。
 声にはならなかった。

 追い詰めるつもりはなかった。苦しめるつもりなんてなかった。
 ただ純粋に、正しいことをしていると思っていた。

「ごめん……」
 曇天を見上げる。
 屋上に人影はない。だけどまだそこに、高幡がいるような気がした。
「ごめん、高幡」
 反らした咽喉が痛くなって、がくりとうな垂れて、勝利は見た。

『君がうらやましくて、ねたましくて、真っ向から励まされるたびに、苦しかったんだ』

 アスファルトは血の海だった。



【第十三話】

 がらん、と。
 隣の席が空いている。
 見晴らしが良かった。久しぶりに晴れた空が、よく見える。
 要はぼんやりと、主のいない机を眺めていた。

 結果的に学校を休んでしまった次の日、教室の扉を開くのは想像以上に気力のいる作業だった。
 覚悟を決めて、後ろ側の扉を開く。
 ざわめきが一瞬静まり、しばらくしてまた復活する。
 吸い寄せられるように、自分の席のほうを見ていた。
 大会が近いから、朝練が多いという陸上部員は、この時間にはもう来ているはずだった。
 席は空だった。
 担任は、元気で調子のいいクラスメートがいないのは、風邪をこじらせたからだと説明した。
 それからもう、五日が過ぎている。
 隣の席は、がらんと温度を失ったままだ。
 クラスメートたちも次第に不審に思い始めていた。
 風邪をこじらせたって、本当だろうか?
 それが嘘だからと言って、神田勝利が学校を休みつづける理由も分からず、クラス中が困惑していた。
 神田君は今日もお休みで、と担任は言っていた。彼女自身、顔にありありと困惑を刻んでいるものだから世話は要らない。
 よけい不安になる。
 宿題、と急かす手がない。
 自分から振り払ったくせに、むなしかった。


 顔を覚えている程度の、他クラスの生徒に呼び出されたのは、昼休みのことだった。
 身長は低いほうである要と、そう変わらない。眼鏡をかけている。
「隣のクラスの、円藤っていうんだけどさ、ちょっといい?」
 彼の姿は、何度か体育館の舞台の上で見たことがある。
 彼は陸上部で、幅跳びの都内有数の選手だった。優勝なり入賞なりの賞状を、全校生徒の前で授与されていたと思う。
 勝利とも仲が良かった。
 要はきょとんとまばたきをした。
 何故、円藤に声を掛けられたのかが分からなかった。
「勝利のことなんだけど」
 動きのにぶい要に、円藤慶太は少し声を低めて、つけくわえた。
「英に、教えておきたいことがあるんだ」
 抵抗は出来なかった。勝利、という名前は有効な餌だった。何が起こったのか知りたくてたまらなかったのだから。

 呼び出されたのは、中庭だった。
 昼休みということもあって、たくさんの生徒が溢れている。その分、要たちに注意を払うものもなかった。
「あいつ、さ」
 中央に据えられた池の横を通り過ぎ、円藤はどんどん校舎から離れる。
 深い緑の葉を繁らせている桜の木の、下に設置されたベンチに腰掛けた。
「風邪じゃないんだってさ」
 少し躊躇ってから、要は円藤の隣に腰を下ろす。
「眠ったまま、……目が覚めないんだって」
 要は幾度か、まばたきを繰り返した。言葉が意味をむすぶまでに、すこし時間がかかった。
「風邪だっていうから、俺、家まで見舞いに行ったんだ。そしたらさ、おばさんがすげぇ気落ちした顔で出てきて。学校早退して帰り道の途中で倒れたんだって」
 円藤は、膝の上に置いた腕の先で指をからめて、要のほうも見ずに続けた。
「倒れてたの、家の方向じゃなくってさ、高幡が飛び降りたビルの前だったって、いうんだ」
 反射で、肩が震えたのをまるで他人事のように要は感じていた。
 眼鏡の奥に憂いをたたえて、円藤が要をうかがうように見た。
「高幡のこと、知ってる?」
「自殺、したって。神田君が気に掛けてたって、ことは」
 聞きかじった情報だけを伝えると、うん、と円藤がうなずいた。
「いじめられてたんだ。高幡千晶っていうんだけどさ」
 再び、円藤はからめた指先に視線を落とした。
「勝利、話し掛けたり励ましたりしてたんだ。ここ、金持ちの学校だから、俺もあいつもふくめて庶民ってのは結構肩身がせまくって。勝利も昔、いじめみたいな目に遭っててさ。あいつはそれを克服したから、自信があったんじゃね? 立ち向かえば、解決できるって」
 円藤は、皮肉めいた笑みを口元に浮かべている。
「けど、高幡はちがったんだ。勇気ふりしぼって抵抗したら、袋叩きに遭ってさ。そのあと、廃ビルに登って、飛び降りちまったんだ」
 さらり、と風が流れた。
 髪を撫でて過ぎてゆくそれは、水っぽかった。また雨が降るかもしれない。
「俺、あいつに酷いことしたかもしれない」
 懺悔をするようにうな垂れて、円藤がつぶやいた。
「勝利は強いもんだと思ってたんだ。高幡が自殺してからあいつ、だいぶへこんでたけど、こんなだとは思わなかった。真っ向から色々言うんじゃなかった。気づかせちまったのかもしれない。あいつ、自分が傷ついてるってこと、分かってなかったんだ」
 円藤の言葉は、ひとり言のようで分かり難かった。
 彼も大分、参っているように思える。
「あいつ、多分本当にただ、ほっとけなかったんだと思う」
 不意に顔を持ち上げて、円藤は要を見た。
「悪気とか、正義感とか全然関係なくて、黙ってられなかったんだ。そういうやつだよ。計算とか出来ないんだ。英にとっては余計な世話だったかもしれないけど、分かってやってよ」
 返事が出来ずに、要はただ、円藤の顔を見つめ返す。
「悪いことした、って。言ってたよ。こないだ」
「僕、に?」
 円藤はうなずいた。
「自分勝手なことした、って。英の気持ち考えてなかったって」
 胸の内側で、言いようのない鈍い痛みが広がった。じりじりと咽喉を伝いせりあがって、目元を熱くさせる。
「これからあいつ、どうなっちゃうんだろ」
 呟いて、円藤は沈黙した。


            *


 芯の強い人間だと思っていた。
 授業を終えて、帰途を辿りながら、考える。
 周囲の大多数に流されたりしないで、でも孤立しているわけでもなく朗らかだ。
 柔軟で、凛としている。
 強くて、揺らいだりしないもの。神田勝利は、そういう人間だと思っていた。
 弱ったり、傷ついたりなんて想像できなかった。
(だけどそれって、おかしいよね)
 彼もひとで、中学生で、たくさんの人間の中で生活しているんだったら、ただの一度も傷つかないなんて、あるはずがない。
 住宅地につづく坂を、下る足取りは重い。
 傷つかないなんて、ありえない。
 今更気づいたことを、胸中でもう一度繰り返す。
(だったら僕も、ひどいことをした)
 あからさまに避けたりして。
 そんなことをされて、いい気分がする人間なんていないってことは、分かっているはずなのに。
 自分のその場の気分だけで行動するなんて、本当に子どもだ。
「謝りたいな」
 転がり落ちた。
 自分の、わがままを。
 面と向かって言えたらいいのに。

―――眠ったまま、……目が覚めないんだって。
 円藤の言葉を思い出す。
 一体、どういうことなのだろう。

 鉛のように重い空を見上げ、深く呼吸をした。
 重い体を引きずるようにして坂を下り、いつもとは違う道を折れる。
 住所を聞いただけではたどり着けないかもしれないけれど、とりあえず、その番地の方へ足を向ける。
 どうしたんだろう、と自問した。
 自分から行動することなんて、怖くて出来なかったはずなのに。
 戸惑いながらも、体は勝手に動いていた。



【第十四話】

 すっかりと、日は落ちてしまっていた。
 駅の裏手側、料理屋などが並ぶ界隈は、内側から漏れてくる明かりでかがやいている。
 駅を越えてこちら側に来ることはほとんどない。見慣れぬ景色に、全身が戸惑っているのが分かる。
 なれた場所なら、ひとりで歩き回っても何ともないけれど、やはり見知らぬ場所は緊張するのだ。新しく暮らし始めた家のまわりや、同居人の事務所の傍などには顔見知りもいるし、たとえ夜にひとりで出歩いても孤独だとは思わないけれど。
 寄る辺もなく、完全に孤立無援だと思うと、胃のあたりが重くなる。
 乗り越えなければいけない病だ。いつかは、きっと。

 電柱に記された番地をたどり、要は一軒の店の前に出た。
 引き戸の上に、紺の暖簾がかかっている。
 暖簾のさらに上には、木で作られた看板が掲げてあった。
 一竜、と。
 神田勝利の家は蕎麦屋だと小耳に挟んだことがあったから、おそらくここがそうなのだろう。
 ここまで来たのはいいんだけど、どうしようもないよね。
 片手に下げた鞄が重い。
 ほんのり明るい光が、店の内側から漏れてきて、黒いアスファルトを照らし出している。
 随分と突っ立ったままでいた。
 湿度の高い風は、肌に張り付くように生ぬるい。
 こうしていても仕方がない。神田勝利の家を確かめたところで、自分に何が出来るわけでもなかった。
 踵を返そうとしたところで、引き戸がひらく、からりとした音に立ち止まる。
 開いた扉から、眩しいぐらいに白い割烹着を着た四十がらみの女の人が出てくるところだった。
 目が合ってしまった。
「あら」
 恰幅のいい女の人が、目を丸くした。
 まるで金縛りに遭ってしまったかのように、要は動けなかった。
 割烹着姿のひとは、疲れたように笑った。
「勝利のおともだち?」
 足がすくんで、動けなかった。
「円藤くんに、聞いて」
 それほど道幅の広くない道路をはさんで、少し遠くから要は言った。
「慶太くんに? まぁ、わざわざ悪いわねぇ」
 口元に手をあててすこしだけ笑うと、彼女はひらひらと要を手招きした。
 魔法にでもかかったかのように、要は一竜の入り口に、ふらふらと歩み寄った。
「せっかく来てくれたんだし、入っていかない? それとも、もう遅いかしら」
「あの、……いいんですか?」
 おともだち、というほど仲がよいわけではない。
 うまく説明が出来ずにそれだけ言うと、勝利の母が笑う。
「全然構わないわよ。どうぞどうぞ」
 手招かれるまま、要は勝利の母のうしろについていった。
 店の扉からは戻らず、横道から店の裏側に回る。
 建物の横っ腹に、店の入り口とは違う、明らかな家屋の玄関がある。かまぼこ板のような表札に、神田、と彫りこまれている。
 横滑りの扉を開き、勝利の母は玄関に要を導きいれた。
 明かりのついていない玄関は薄暗かった。すぐに、勝利の母が壁を弄るようにしてスイッチを入れる。
 オレンジっぽい、ぬくもりのある光が一気に闇を消し去った。
 目の前に、二階へと続く階段が現れた。
「階段を上って、突き当たりの部屋がそうだから。どうぞ。何か飲み物持っていくわね」
「あの、気にしないで下さい」
 いいのよ、と身振りで示して、母親は玄関をあがってすぐの部屋に消えた。居間なのだろう。
 ぽつんと玄関に取り残された要は、腹をくくって玄関にあがる。
 目の前に聳え立つ階段に、足をかけた。
 ぎぃ、と軋む。
 大分古い階段だった。
 一歩進むごとに耳障りな音を立てる。
 二階部分の照明が消えているせいか、階段半ばからは再び闇に飲まれている。
 暗い場所に踏み込んでゆく恐怖感に、胃がきゅっと絞られる心もちがした。
 手すりを掴む手に力が入る。
 犬が水を払うように首を振って、闇に進む恐怖を振り払った。
 残り数段を勢いをつけて上った。
 闇のわだかまる廊下の突き当たり。左手側にへばりついた扉のノブを握る。
 掌に、冷たさが染みた。
 回して、押し開いた。
 扉の先も、また闇だった。
 しかし、窓の隙間から零れ落ちてくる街灯の、青白い光が僅かに部屋の中を照らしている。
 部屋の突き当たりに机がひとつ。雑誌やら教科書やらが雑多に重ねて置かれていた。
 床にも、漫画などが積み重ねられ、雑然とはしていたが、荒れ果ててはいなかった。
 窓際に寄せて、ベッドが置かれている。
 そこにいた。
 仰向けに、微動だにせずに、クラスメートは寝息を立てていた。
 呼吸は深い。
 ゆるやかに胸が上下しているが、それ以外の変化は全くなかった。身じろぎも、寝返りも。
 死んだように、とはこのようなことを言うのかもしれない。
 頭の隅で、要はそんなことを思った。
 ドアのすぐ傍に、室内照明のスイッチはあっけなく見つかった。
 指を伸ばして、躊躇って、やめる。
 一週間も目覚めないというのだから、今更電気をつけたぐらいで起きだしたりはしないと思うが、眩しいのではないかな、と思ったのだ。
 ベッドに近寄ることも出来ずに、戸口で立ち尽くしていると、階段を上ってくる足音。
「本当、どうしちゃったのかしらね」
 疲れの滲んだ声が、背中にかかった。
 先ほどまで頭に巻いていた三角巾を解いた、勝利の母が立っている。
「今までこんなこと、一度もなかったのにねぇ」
 母親の顔にも、疲労が滲んでいた。目のあたりが落ち窪んでいるような気がする。
「いっつも騒がしい子なんだけど、その分悩みとか、全然人に言わない子だから」
 母親が、照明のスイッチを入れる。
 蛍光灯の鋭い光が、一瞬にして部屋を照らし出した。
 眩しさに、要のほうが目を細めるが、ベッドの住人はその素振りすら見せなかった。
 要の横をすり抜けて、勝利の母は室内に踏み入れる。
 教科書が広げられたままの机に、持ってきた盆を置いた。
「お医者さんにも見てもらったんだけど、体に悪いところは全然ないっていうから」
 要も、数歩踏み込んで、扉を閉めた。
 さああ、と窓を叩く音に気づく。
 雨が降り出したようだ。水滴が硝子を伝って、落ちてゆく。
「本当は、ずっと落ち込んでたみたいなのよ。高幡、くん? が亡くなってから。この間、慶太くんから聞くまで全然気がつかなくって」
 寂しそうに、口元で笑う。
 痛々しい笑顔を見ていられずに、要は勝利に視線を移した。
 先程と何も変わらずに、そこにいる。
「あら、そうだ。そう言えばまだお名前聞いてなかったわよね」
「え?」
「同じクラス?」
「あ、ハイ。転校してきて……」
「ああ、君がそうなのね」
 得心がいったように、母親が笑った。
 自分について、勝利と彼の母がどんな会話をしていたのかは分からない。だが、勝利は家庭で要のことを話題にしたこともあったらしい。
 なんだか、くすぐったい気持ちになる。
「いっつもドタバタ煩い子だけど」
 勝利の母が、慈しむような目でベッドを見た。
「今は、いつもみたいに煩く騒いでくれたらいいのにって、思っちゃうのよね」
 急に、錘を飲み込んだような気分になって、要は黙り込んだ。
 何も言えなかった。


            *


「遅かったじゃないか」
 ただいま、と小声で告げると、同居人が玄関先まで出てきた。
 うつむいたまま、要はうん、とだけ答えた。
 普段はそこまで干渉をする人間ではないのだが、やはり平素と違って帰宅があまりにも遅すぎたからだろう。
「何かあったのか?」
 怪訝そうに眉をひそめる。その顔も、要は見上げることが出来なかった。
 霧雨が降っていて、しっとりと髪と服とが濡れている。
 額から、じわりと水滴が鼻のほうへ流れてきた。
「ちょっと、色々」
 か細い声で、それだけ答える。
 頭の中がぐちゃぐちゃと、まとまらなかった。
 どの道を歩いて、勝利の家からここに戻ってきたのかも、よく覚えていない。
「やっぱり最近、おまえ、変だぞ」
 伺うような声に、要はようやく咽喉を反らすように顔を上げた。
 気遣うような眼差しと、目が合った。
「僕……」
 何を言えばいいのか分からなくなって、口を噤んでしまう。
 いたわりを込めた視線を受けてしまったら、急に泣きたくなってしまった。
 心配を掛けたくないと思っているのに。
 目のふちが熱くなった。水分が盛り上がるのを感じる。
「焦らなくていい。とりあえずあがって、風呂にでも入っておいで」
 促すように、一馬が踵を返す。
「カズマ」
 その背を―――呼び止めた。
 肩越しに、一馬が振り返る。伺うように、僅かに首を傾げて見せた。
「お願い」
 ふるえる声で言えば、相手は目を瞠る。
 目のふちで盛り上がった水分が、目じりから頬に落ちた。

「助けてほしいんだ」
 


【第十五話】

「どうしたんだ?」
 一馬は聞き返した。
 玄関先でぽつねんと立ち尽くしている要は、瞳にいっぱいの涙を溜めている。
 振り返って、向き直る。
 きらきらと、光を跳ね返す水っぽい目で、一馬を見つめている。
 数歩遠ざかった距離を詰めるように、再び玄関先まで引き返した。
 唇をかみしめるようにして、要は何かに耐えている。
 ニ三度まばたくと、雫が頬に伝って落ちた。
「助けてほしい、ひとがいるんだ」
 嗚咽に妨害されて、時折声が途切れる。
 右手の甲で、要は目元を拭う。
 細い肩がふるえていた。
「神田君、がさ。一週間も目が覚めないんだって。カズマだったら、なんとか出来ない?」
 返事はできなかった。
 状況が飲み込めていない、ということもある。
 が、何よりも、自分が所持している「力」を使うことへの抵抗が大きかった。
「要―――」
「カズマが、自分の力が嫌いなのは、分かってるけど」
 なだめすかそうとすると、すぐさま切り返された。
 真剣な、縋るような強さを、大きな瞳がたたえている。
「このままじゃ、嫌だ……」
 かくん、と糸が切れた人形のように、要がうな垂れた。
 ぽつり、と一滴、重力に引きずられて涙が落ちた。
「僕、もっと、いろいろ……話したいことが……」
 拳を目に押し当てて、要が肩を震わせてしゃくりあげた。
「あがって」
 根が生えたかのように動かない要に、声をかけた。
「話を聞くよ」


            *


 音も立てずに、灰皿に置いた煙草の先から灰がおちる。
 吸いもせずに短くなったそれを、あきらめてもみ消した。
 とつとつと、要が現状を説明した。
 それと同時に、一馬の期待も裏切られることになる。
 もしかしたら、身体的な理由で眠りつづけているのかもしれない、という期待があった。
 だとしたら、自分が介入できる領域は越えている。
 それならばいいと、そうあってほしいと、思っていたのだけれど。
 どうやら、うまくことは運んでくれないようだ。

「しんどいものがあったなら、言えよ」
 話を聞き終えて、とりあえず、告げた。
 要はソファーに沈んで、俯いたまま黙っている。
 容易くはないということなど、分かっている。
 胸のうちに抱えた重みを、あっけらかんとひとに晒すことなんて、出来はしない。
 特に、目の前の少年はそうだ。
 他人に重みを預けることが苦手だ。
 いい子であろうとする分だけ、心配をかけないように口を閉ざす。
 目を配っているつもりだったけれど、さすがに学校の内側までは見透かせない。

 おまえ、気づけよ。
 押し殺したような低い声が、耳元に蘇った。
 要が学校を休んだ朝のことだ。
 何事もないかのように居間に下りてきた少年の口から、批難を浴びせられたのだ。


―――ヒカリ、か。
 近頃は現れていなかった。
 剣呑な気配に、思わず身構える。何が飛んでくるか分からなかった。
―――何かあるのか。最近様子がおかしいとは思ってたけど。
 問えば、さらにきつく睨み返される。
 気配を察してるんなら、もっと突っ込んで聞けよ。
 要が自分から、ホイホイ喋れるような奴じゃないって、知ってるんだったら。
 無理矢理にでも踏み込めよ。そうしないと、何も言わないだろ。
 お前が考えているよりも、状況は深刻だぞ。
 要には言わなかったが、あの朝、そんなふうに叱られていたのだった。

 確かに、想像していた以上に状況は深刻だった。
 まさか、当時の週刊誌が校内で出回っていたことまで、考えつかなかった。
「悪かった。全然気がつかなかったよ」
 謝罪に、要はゆるく首を横に振って答える。
 しばらく、沈黙が降りた。
 バスタオルを頭からかぶったまま、要はうな垂れている。
 飲み物でも用意しようかと、一馬が腰をあげると。
「うれしかったんだ」
 ぽつりと、か細いつぶやきが落ちた。
「神田くんに声かけてもらって、うれしかった。だから、身代わりにされてるんじゃないかって思ったときは、ショックで……だから無視しちゃって」
 堤防が決壊したあとは、言葉が溢れてとまらなかった。
 頭からかぶったバスタオルが視野をさえぎっているからかもしれない。
「ちゃんと謝って、さ。もっと、色々話がしたいんだ」
 体を小さくたたむように、要が、ソファーにのせた膝に額を押し付けた。
「……に」
 くぐもって、声は聞こえづらかった。
「友達に、なりたいんだ」
 膝を抱く腕に、力を込める。
 一馬は黙り込んだ。
「お願い……」
 か細い声が、続いた。
 お願い、だなんて言葉を、この少年の口から聞いたことなんてほとんどない。特にこの家で暮らすようになってからは、皆無かもしれなかった。
 かわいそうなぐらい、体を小さく畳んでいる少年に近づいて、一馬はその肩に手を置いた。
 驚いたのか、その肩が大袈裟にふるえる。
 夏服であるシャツは、水を吸ったのか、生ぬるかった。
「とりあえず、今日はちゃんと体をあっためて寝なさい」
 弾かれたように、要が膝から顔を上げた。
 おざなりに、うやむやに流されると思ったのかもしれない。
 勢いをつけて顔を上げたからか、頭に乗せていたバスタオルが肩に落ちる。
「今日はもう遅いだろ。明日にしよう」
「……助けてくれる?」
 この手を離されたら、深い水の底に沈んでしまうかのようだ。最後の砦を必死に守ろうと、要は縋った。
「明日、その子に会ってみようか」
 絶望に沈んでいた要の瞳に、光明がさしたようだった。
 驚きに瞠った瞳に、確かに生気が戻っている。
「……ありがとう」
 全身を強張らせていた緊張が、大きな吐息と共に抜けてゆくのが分かった。
「お前が風邪を引いたら元も子もないんだから。早くしないと体が冷える」
 促せば、恐々と要は折りたたんだ体をひろげるようにして、ソファーから立ち上がった。
 ぺたぺたとフローリングを踏んで、居間の外に消えた。
 足音は、そのまま浴室のほうへ向かってゆく。

 テーブルの上に無造作に投げ出してあった煙草の箱から、一本引きずり出して、唇にはさむ。
 行方不明のライターをおざなりに探しながらも、思考の大部分は先程のやりとりのことで占められていた。
 これでおそらくは、受諾したことになるんだろう。
 会ってみようか、と要には言ってみたものの、一馬はまだ割り切れずにいた。
 生まれ持った力を行使するのには躊躇いがある。
 しかし、要があんなことを言い出したのは初めてだ。
 友達になりたい、なんて。
 彼が振り絞るように口にするぐらいだから、よっぽど強い思いなのだろう。
 それを察してしまったら、振り払うことが出来なかった。
 結局、自分は要に甘いのだと、自覚しなおしてようやく、ライターを探り当てた。
 一口深く吸い込むころには、雨音ではない水音が、浴室のほうから聞こえてきた。







【続く】