イレギュラー
第六話〜第十話

【第六話】


 目の前で、美術準備室の扉が閉ざされる。
 上履きの音が遠ざかってゆくのを聞きながら、気づけば嘆息していた。
 集団心理と言うものが、いまいち都佳沙には理解が出来ない。
 群れを作るということ自体、鬱陶しくて仕方がないというのに。
 群れがないと何も出来ない心理は分からなかった。

 孤高であることを、幼い頃から義務付けられていた。銀という家の束ねになるものとして。
 束ねであるということは孤独であるということ。
 そうあるために、自我を、芯をしっかりと確立することを常に求められてきた。
 だから、あまりにも周囲の同世代の人々とはスタンスが違いすぎる。
 強気な発言は躊躇うくせに、口さがない噂ばかりは音速で飛交う。
 互いの顔色をうかがって、どちらがわにつくかを決める。
 学校とは、魔窟だった。
 理解の範疇を越えている。
 数が力だという方程式が成り立つ場所だ。
 正直居心地は良くないし、肩が凝る。
 どうしてこうも、息苦しいのだろう。
 陰鬱な集団生活に耐えるということが、義務教育なのだろうか。
(無理をしている)
 先程まで向き合っていた少年の、暗い顔を思い出す。
 彼が無理をしていることなど、一目瞭然だった。
 大丈夫だから、という言葉に説得力はなかった。それでも都佳沙が引いてしまったのは、下手に触ったら悪い影響が出るかもしれないと思ったからだ。

 この部屋から、足を重そうに引きずって出て行った背中。彼と出会った、一年程前のことを思い出す。
 同い年なのだろうか、というのが正直な印象だった。
 人に支えられていなければ、立ってもいられないような頼りなさだったのだ。
 叔父である男に連れられて踏み込んだ、昔馴染みの家の中に、彼はいた。
 居間に踏み込むと、途端に怯えと警戒を全身で伝えてくる。その所作は、無力な小動物のようにも見えた。
 物陰に、全速力で駆け込むような怯え方だった。
 自分以外のものに対して発せられる威嚇と警戒。
 大きな瞳に、かわいそうなほど怯えを宿していた。
 本当に同い年なのだろうか。全身が、子どもっぽい。そんな気がした。
 子どもであることなど、許されずに都佳沙は育った。
 自我を持った頃から常に一個人として扱われ、甘やかされた記憶もないし、甘えたいと飢えた記憶もなかった。
 旧家銀の次の跡目として、幼い頃から縁戚やかかわりのある家に連れて行かれていたから、自覚が芽生えるのも早かった。
 そんな都佳沙から見れば、目の前の怯えの塊は、頼りない以外のなにものでもなかった。
 本当に、生き残っていくことができるのだろうか?
 今はまだ、庇護されているからいいかもしれない。けれど、一歩外へ出れば、外界は天敵だらけだ。
 己の身を守る術を身につけなければ、すぐに喰われる。

 同い年だし、修恵に通うことになるだろうから、何かと面倒を見てやってくれないか、というのが叔父と昔馴染みの知り合いからの頼みだった。
 保護しなければならないのかな、と。
 ぎこちない自己紹介と握手を交わしながら、億劫に思っていた。
 人の世話を焼くことが一番苦手なのだ。しかも、相手は幼い頃から自宅の敷地から外に出たことがほとんどないという相手だ。
 手が掛かるのは目に見えている。
 自分以外の誰かのことで、面倒を被るのは御免だ。
 内心で、冷酷に薄情に、そんなことを思っていた。
 詳しい話を叔父から聞いて、彼の生い立ちには心から同情した。それと同時に、厄介で面倒だとも思った。
 未だ時折発作のように、彼の内側に住むもうひとりが現れて、今の保護者と派手な喧嘩をすることもあると聞いた。
 いつ爆発するかも知れない爆弾を看ていろと言われたような心もちがしたのだ。
 そんな暇はない、と。自分のことだけで精一杯だと。都佳沙は思っていた。
 突発的な爆発に巻き込まれるのは御免だ―――。

(だけど、どうしたっていうのかな)
 都佳沙は戸惑っている。
 厄介事はごめんだと思っていたはずなのに、未だ不安定な爆弾である英要という少年を、どこか放って置けない自分がいる。
 絶対多数の口さがない噂話という、陰険な凶器が気に入らないということもあるのだろう。
 けれど、決してそれだけではなく。
 英要という少年の存在が、その行動や言動が、新鮮で刺激的であることもまた、認めなければならない事実だった。
 幼い頃から外界との接触を断たれて育った少年は、周囲の人間が「当たり前」と受けとめる物事に対しても疑問を持つ。
 そんな彼に何かを尋ねられるたびに、答えに困る自分もいた。
 分かっているつもりで、実は本質までは理解していないことに気づく。
 新しい発見だった。いつもはっとさせられる。

 また最近では、要も随分と都佳沙に慣れてきたのか屈託なく話し掛け、頼りにするようにもなってきたと思う。
 頼られるというのは重いものだと思っていたのに、どことなくくすぐったいと感じてしまう自分にも、都佳沙は戸惑っていた。

(これ以上、何も起こらなければいいけど)

 本鈴が鳴って、ようやく都佳沙は美術準備室を後にした。



【第七話】

 教室の後ろ側の扉が横滑りに開く。
 たったそれだけのことで、教室の温度がぐっと下がる。
 勝利は思わず舌打ちを落としたくなった。
 植えた肉食獣を警戒するような遠巻きのクラスメートたちと、同じ制服を着た肉食獣とはほど遠い少年と。
 このアンバランスな光景が、最近のお決まりの朝だった。
 苛々するのは、両方に、だ。
 今にも飛び掛ってくるんじゃないかと怯えるクラスメートたちも、その冷酷な仕打ちに抗いもしない転校生もだ。
(これじゃあ、”あの頃”と同じだ)
 対象が変わっただけで、根本的には何も変わっていない。居心地の悪さはそのままだ。
 くだらない、と勝利は胸のうちで吐き捨てる。それを大声で喚くことが出来ない自分にも、苛立ちが募る。
 結局は同罪だ。
 何も変えられない。

 教室を凍らせた原因が、教室の端からゆるりと窓際まで近づいてくる。
 窓際の後ろから二番目の席で、勝利は頬杖をついたままその様子を伺った。
 人形のように整った造作の顔には、表情がない。
 肌は青白く、生気もないように見えた。
 あまりに、従順すぎる。易々と受け入れる。泣きも喚きもしなければ弁明も言い訳もない。
 学校を休むわけでもない。
 自分は退けられて当然、と。現状を甘受しているような。
 その、まるで罪人のような態度が、また勝利の気に障った。
 不当に避けられていると、思わないのか?
 あんな御伽噺めいたゴシップ記事、みんなが皆鵜呑みにしているわけではない。頑なに彼が押し黙るから、間に壁が出来る。
 現状にオロオロしているのは、何もクラスメートだけではない。
 二十歳をいくつか超えたばかりの担任も、戸惑うばかりで何を言うでもない。
 教室の雰囲気はいつも最悪だ。

 無言で、隣の席の椅子が引かれる。
 床を、木の椅子が引っかく耳障りな音がした。
「英」
 自分の声を聞いて、勝利は内心で驚いた。
 反射だった。
 何か思惑があったわけではない。衝動が、声帯を動かした。
 椅子を引いたまま、転校生は呆気にとられた顔をしている。
 予想外の出来事にぶつかったときの顔だった。
 空気が凍っている。
「……おはよう」
 頬杖をついたままで、勝利は斜め上を見上げて言った。
 和やかではなかった気がする。好意的でも、きっとなかった。
 睨み付けるような、挑むような挨拶だったかもしれない。
 転校生は、大きな猫のような目を更に見開いて見せた。
 そのあと、急にかなしそうな顔をした。泣くのを我慢しているような。
 クラスメートたちには背を向けているから、きっとその顔を見たのは勝利だけだったのだろう。
 転校生は、そのせつなそうな表情のまま口元を緩めて、かすかに笑った。
「おはよう、神田君」
 寂しげな笑顔をすぐに消して、英要は引いた椅子に腰掛けた。
 教室は、写真のように固まっていた。
 かすかに見せた笑顔のあとは、転校生はまた再び、無表情に戻っている。
 緊迫した教室の空気に、馬鹿らしさすら感じる。
(お前ら一体、何に怯えてんだ)
 なんで同じことを繰り返す?
 “半年前”から、何も進歩しちゃいない。

―――”高幡”のときと。
 何も変わっちゃいないんだ。

 いつもどおり、担任がギクシャクと教室の扉を開け、尖った声で席につくように言う。
 そうしてようやく、停止していた教室の時間は、再び動き出した。


 挨拶をしてやったのは、何も英要を助けたかったわけではない。
 陰鬱な空気の中で、毎日生活するのがしんどかっただけだ。
 HRの間中、勝利は自分に言い訳をするように、胸の内で繰り返していた。

 半年前と同じようなことは御免だ。



【第八話】

 不可思議な感覚に、戸惑っている。
 興奮? 高揚だろうか。
 落ち着かない。

 ここ数日というもの、教室の扉を開ける一瞬は、いつも緊張していた。
 軽い扉を一枚隔てた向こう側に広がる、極寒の地を思って覚悟を決める時間が要った。
 能面になる準備。感情を押さえ込むこと。扉に手をかけて、一拍を置いて、深く呼吸をしてから。
 無表情には慣れていた。すこし昔の記憶を呼び覚ますだけでいい。
 周囲の大人たちに、怯えを気取られないように、父親に不快な思いをさせないように、人形のようになること。
 一年前までは、簡単に出来ていたことだ。
 どうして今、難しいと感じるのか要には分からなかった。
(元に戻るだけじゃないか)
 言い聞かせて、実行してきた。毎朝仮面をかぶることにも慣れてきたころ、突然変革が起こった。

―――おはよう、と。
 隣の席の少年が急に言い出したのだ。
 友好的な笑顔でもなければ、柔らかい声音でもなかったけれど。
 むしろ、睨まれたような気もしたけれど。
 面と向かって声をぶつけられたのは、久しぶりの気がした。
 せっかくつけたはずの能面がぽろりと、はがれるのを感じた。
 驚いてしまって。
 おはよう、と返すのがやっとだった。
 それ以外何を言っていいものか分からなかった。礼をいうのもまた、すこし違う気がする。
 他愛のない挨拶を返すだけにして、おざなりに流してしまったけれど。

 それから数日。
 相変わらず要は、教室の扉を開けることに戸惑いを感じていた。
 しかし、それは連日続いていた極寒の地への準備ではなかった。
 勝利と挨拶を交わしてからというもの、扉を開けて踏み込むと、僅かながらかかる声がある。
 そのことに、要は今戸惑っている。
 嬉しいはずのことなのだ。けれど、どう対処すればよいのかが、分からない。

「英語の」
 戸惑いながら、自分の席につくなり、隣から声がかかった。
 首だけを向けてそちらを見ると、四方に跳ねた髪を持つ少年が、こちらを見ていた。
 ひらり、と掌を返す形で差し出される。
 戸惑いながら、席につくことも出来ない要に、神田勝利は。
「宿題のプリント。やってある?」
「え……?」
「最近朝練いそがしくって。昨日帰って寝ちゃったから」
 見せて。と、勝利が言った。
「……間違ってるかもしれないけど」
 要は、ぎくしゃくと自分の鞄を開きながら言った。
「一時間目だろ、英語。やってないよりマシだし」
「……はい」
 ファイルから、英語のプリントを引きずり出して勝利に手渡すと、人好きのする顔で勝利が笑った。
「サンキュ」
「……間違ってても、知らないよ」
 礼を言われるのがどことなく気恥ずかしくて、要はわざと拗ねたように言った。
 いいのいいの、とくりかえして、勝利は早速自分のまっさらなプリントに回答を書き写し始めた。
 横目でそれを伺いながら、要は席につく。
 以前のような寒さは、なくなっている。
 明確な変化だった。
 温度差に、戸惑っている。
 困りながら、そのぬるさにうっとりと目を閉じたくなる自分もいる。
 委ねて、溶けてしまえるかもしれない、と思う。
 ぬるま湯のなかに。
 ダメだ、と引き止める自分も確かにいる。
 甘えてしまえば、そのあたたかさに浸ってしまえば、外へ出たときの寒さに適応できなくなるんじゃないのか。
 傷つくのを迂回する臆病さが、ひきとめる。

(だけど)
 神田勝利に、おはよう、と言われたとき。
 嬉しかった。
 その気持ちだけは、誤魔化せなかった。気恥ずかしいような、くすぐったいような。
 慣れていないから、そんな”ぬるさ”は知らなかったから。
 どうしていいのか分からなくなる。
 笑えばいいのか、神妙な顔をすればいいのか、それとも―――。

「助かった」
 白いプリントが、隣の机から差し出される。
 差し出された手の方へ顔を向けると、人懐こい笑みがあった。
 こんなときも、どういう対応をすればいいのかわからなくなる。
 ああ、うん、とうやむやに頷いて勝利の手からプリントを受け取った。


            *


 神田勝利の対応に引きずられるように、ごくごく少数ではあるが、要に声をかけてくれるクラスメートも増えた。
 担任がHR中に泣きそうな顔をすることも減った。
 上手くいきすぎだ、と要は思う。
 ふわふわと、覚束ない雲の上を歩いているような気分だった。
 すぐ目の前にすっぽりと穴が開いていてもおかしくないと思っていた。
 だから、その日の放課後。
 職員室で担任とすこし話をしたあと戻った教室でその話を耳にしたときも、驚きはしなかった。

 新任から二年ほどの女教師は、最近いつも悲壮な顔をしている。
 何かあったらすぐに相談してね、とは言うけれど、自分が一番重い荷物をしょっているような顔をしていた。
 うちのクラスでイジメなんて、という愚痴が顔に書いてある。
 表向きだけ憐れむような、優等生然とした彼女の顔を見るのが、要には苦痛だった。
 女の人の、疲れた顔は見たくなかった。
 そんな顔を自分がさせていると思うと、惨めになる。
 大丈夫ですから、と半ば一方的に話を切って、職員室を出た。
 英くん! と悲鳴のような声も無視した。
 あのまま職員室にいたら、自分を押さえる自信がなかった。
 自分では律することの出来ないもうひとりの自分が、いつ顔を出すかもしれない。
 絶対に、それだけは避けたかった。

 燻る熱を抱えたまま、英単語のドリルを忘れてきたことに気がついて、教室に足を向けた。明日の朝、小テストがある。
 人気のなくなった、がらんとした教室の後ろの扉に手をかけたところで、中から人の声が聞こえてきた。

「勝利さぁ、なんつーか、アレはないよな」
 耳に飛び込んできた名前に、要はその場で凍りついた。
 クラスメートの声だ。聞き覚えがある。顔も思い出せる。野球部だ。名前はなんだったか?
「なにが?」
 もうひとり、男子の声が応じた。
「転校生のこと」
 声変わりを終えたばかりの、咽喉に負担が掛かっているような話し方で、野球部の男が言った。
 要は急に、冷水を浴びせ掛けられたような心持ちになった。
「あんな週刊誌、誰も本物だって思ってなかったのに、最近のクラスの雰囲気って最悪だったろ? だから、だんだんいい方向に向かってるっぽくて、いいように見えるけどさ。勝利のあの態度って、身代わりにしてるように思えるんだよね」
「……もしかして、高幡のこと?」
「そ。勝利さ、かまってたじゃん、高幡のこと。甲斐甲斐しく」
「まぁな」
「だから、相当ヘコんでたじゃん? ―――高幡が自殺してからさ」

 指先に、静電気が走ったような気がした。
 弾かれたように教室のドアから手を離した。
 足元から、強烈な冷気が這い登って、背筋が震えた。
 英語のドリルのことなんて忘れていた。
 踵を返す。手が震えていて、抱えていた鞄を取り落としそうになる。
 呼吸がうまく出来ない。

―――あの態度って、身代わりにしてるように思えるんだよね。

(やっぱり)
 階段を駆け下り、昇降口向かう足取り。リノリウムの床を歩いている感覚はなかった。
 じわりと視界が滲む。
 それとは逆に、口元に何故か笑いが浮かんでいた。
 涙が溢れる前に、手の甲で拭う。
 逃げるように、校舎を出た。
(やっぱり、そんなに上手くいくはずないじゃないか)
 うす曇りの空の、どこか遠くから低い雷鳴が聞こえ始めた。
 雨が近い。

―――勝利さ、かまってたじゃん? 高幡のこと。

 そんなに上手く話が進むはずがない。
 ふわふわと、天上の雲の上を歩く心地でも。

 こんなところに大きな穴が、空いていたんじゃないか。


―――相当ヘコんでたじゃん? 高幡が自殺してから。



【第九話】

 夕方から降り出した雨は、夜通し雷を伴って暴れまわり、次の日の朝までしとしとと続いていた。
 重い体を引きずって、要は教室のドアに手をかけた。
 肌に触れた金属の部分が、やけに冷たく感じられる。
 一呼吸、置いた。
 週刊誌の一件があったときの覚悟とも、神田勝利と挨拶を交わしたあとの高揚ともまた違う。
 妙に冷えた心地がしていた。
 横滑りに、いつものように扉を開いた。
 向けられる幾つもの視線が、今までとは違う気配を含んでいるように感じられた。

 みんな、そんなふうに思っていたんだろうか。
 自殺したタカハタという誰かの代わりにされているんだ、と。
 ここ数日、皆そう思っていたのだろうか。
 かわいそうに、と。憐れまれていたのだろうか。
 急に、要は叫び出したい気持ちになる。
 同情を寄せられるぐらいだったら、怯えられて遠巻きにされたほうがマシだ。
 自分だけ何も知らずに、やさしくされて喜んでいたなんてそんなの、惨めじゃないか。

「よぉ」
 気楽な挨拶に、憂鬱な思考が分断される。
 人懐こい笑みがそこにあった。
 屈託がなく、明るい。
 昨日までは、その笑顔を向けられるとくすぐったい気持ちになっていたけれど、今は違った。
 ちろちろと、小さな炎が胸のうちで燃えている。
 それは苛立ちかもしれない。
 自分の向こう側、どこか遠くのために、その笑顔が向けられているかもしれない。
 そう思うと、相手の顔がまともに見られなかった。
 うん、と素っ気無い相槌だけうって、要は椅子を引いて座った。
 一瞬、勝利が呆気に取られた顔をしたのが、視界の端に見えた。
 戸惑う気配が、隣から漂ってくる。
 要は、左側を意識からはずす努力をした。
 そうすればそうするほど、敏感にそちらの気配を感じ取ってしまうというのに。
 戸惑っているのも、こちらに声をかけようとするのも、気配で知れてしまう。
 こちらの機嫌を伺おうとしている勝利の気配が、尚更気に障った。
(放っておけばいいじゃないか)
 得体の知れない、転校生のことなんて。
 無理にかまってくれなくったっていい。
 誰かの代わりにするぐらいだったら、あからさまに遠巻きにされたほうがいい。
 勝利が躊躇っているうちに、以前よりは幾分か顔色のよくなった担任が教室前方の扉を開いた。
 出席をとっている最中、いつもならば小声で宿題を要求してくる声も、なかった。
(すっきりした)
 これで、元通りだ、と思った。
 左側に頬杖をついた。


            *


 時折伺うような視線を左側から受けながら一日を過ごし、授業が終わるとすぐに帰途についた。
 雨は上がっていたが、雲はどんよりと空を覆っていた。
 ただの荷物になった傘を引きずるようにして、住み慣れた家の玄関までたどり着く。
 鍵を差し込んだところで、要は急に憂鬱な気分になった。
 こんな日に限って。
 ひとりになる時間が欲しかった。何も考えないで、ぼんやりとしていられる時間が。
 家ならば、夜まで誰にも会わずに済むと思っていた。
 鍵を仕舞いこんで、要は扉を少しばかり手前に引く。
 予想通り、扉はあっさりと手前に開いた。
「……ただいま」
 更に扉を大きく開いて、その向こうに声をかけた。
「おかえり」
 居間の方から返答があった。
 無意識のうちに、要は嘆息していた。
 すきまから体を滑り込ませるように玄関に入って、しっかりと内側から鍵をかけた。
 傘立てに傘を突っ込み、のろのろと靴を脱いだ。
「カズマ、鍵」
 うかがうように居間の扉を開いて、声をかけた。
「ん?」
 家主は、ドアから左手側にある応接用も兼ねるソファーにいた。
 目を通していた新聞から顔を上げて、要のほうを肩越しに振り返る。
「鍵、開いてた」
 言葉を覚えたての子どものようにみじかく、要は告げた。
「ああ、ごめん」
 読みかけの新聞をたたんで、家主は詫びた。
 そしてそのままじっと、要の顔を見る。
 居心地が悪くなって、要は眉間に皺を寄せる。
「なに」
 不機嫌を前面に押し出して、要は訊いた。
「最近、あまり顔色がよくないな、と思って」
 たたんだ新聞をソファーの上に置いて、成瀬一馬が腰をあげる。
 要の背中を、冷たいものが一気に流れて落ちた。
 思わず一歩、後ろに引こうとする足を、必死に食い止める。そんなことをしたら、相手が余計にいぶかしむ。
(だから会いたくなかった)
 変なところで勘が鋭い。全て見透かされているような気になる。
 必死に取り繕ったとしても、そんなもの、全て無駄な努力だと言われているような。
「気のせいじゃないの?」
 上手く笑えただろうか。
 唇の端を持ち上げた感覚はあるけれど。
 歪んだ笑いになっているような気がした。
「じゃあ、宿題あるから」
 今は、これ以上顔を合わせていないほうがいい。お互いのために、それが絶対いい。
 何よりもひとりになりたかった。
 話を切り上げて、踵を返しかけると。
「要」
 呼び止める声があった。
 振り返らずに、ただ立ち止まる。
「何かあったんじゃないのか?」
 労わるような声が背に掛かった、次の一瞬、自分で自分の感情が分からなくなった。
 何かが、胸の内側で大きな爆発を起こしたことだけはわかった。
 けれどもそれが怒りなのかかなしみなのか恥ずかしさなのか、他の何かなのか。その全てなのか。
 ただ、目の前が真っ白になった。
「カズマには関係ないよ、かまわないでよ!」
 咽喉がカッ、と熱くなったような気がした。灼けるように。
 急激に発生した熱は、咽喉から一気に頭のほうへ駆け上る。目頭が熱くなった。
 泣きそうだ。
 様々な感情が絡まりあっている中で、それだけは分かった。
 泣き顔を見られるのは嫌だ。
 逃げるように、居間の扉を閉ざした。叩きつける勢いが、耳障りな騒音を生む。

 階段を駆け上り、二階のつきあたり、宛がわれた自分の部屋に飛び込んだ。
 閉ざした扉に背を預け、ずるずるとへたりこむ。
 怒っているのか、悲しんでいるのか、それとも?
 ぐちゃぐちゃしていて、収拾がつかなくて、自分の気持ちがわからなかった。
 泣きたいのか、喚き散らしたいのか、何かを傷つけたいのか。
 全てのような気がした。
 抱いた膝に、額を押し付けた。

(カズマに怒鳴ったって、仕方ない)
 ただの八つ当たりだ。分かってる。
 分かっていても、どうしようもなかった。
「……最低だ」
 同情されることも、過度に庇護されるのも気遣われるのも、いやだ。
 けれど、一番いやなのは、善意で伸ばされる手まで乱暴に振り払ってしまう自分、なのだ。

【第十話】

 勘違い、なんかじゃない。
 ここ数日、英要に避けられている。
 数日を要して、ようやく勝利は断定した。
 認めたくなかった、というのが正直なところだろう。
(なんでなんだ?)
 荒々しい足取りで、勝利はグラウンドの端を歩く。
 野球部の掛け声や、ボールの弾む音、どこからともなく聞こえてくる吹奏楽のすこし外れた演奏などが、なんともいえない放課後の喧騒を作り出している。

―――……り。

 どうして避けられる?
 何か気に障るようなことをしただろうか。
 思い当たることはない。
 足早に野球部のグラウンドを通り抜けて、陸上競技場の方へ向かう。
 じりじり、胸の内が焼けているような焦燥感を感じていた。
 気持ち悪い。

「……り、勝利ってば、オイ!」
 急に、右肩を掴まれて強引に振り向かされる。
 乱暴な力加減に、勝利は反射的に肩にかかった腕を振り払った。
「なんだよ」
 豆鉄砲を食らった鳩の顔で、円藤慶太は振り払われた手を持て余している。
 まるで傷ついたような顔つきが、さらに勝利の苛立ちを逆さに撫でた。
 咄嗟につかまれて、驚いたのはこっちだ。勢いで払っただけで、そんなに愕然とするなんて。
(まるで俺が悪いみたいに)
 慶太は、驚いて瞠った瞳をほそめるようにして、憮然とした表情をつくった。
「おまえさ、おかしいよ」
 決意を固めたような、毅然とした表情だった。
 叱る顔。
「どうしたんだよ、全然らしくないよ」
「なにが」
 慶太の顔は、正義を確信している。肩に力をいれて、道を逸れた友達を、引きずり戻すという大義を背負っている。
 俺が、そんなにどうしようもなく、間違っているのかよ。
 そんなに、真正面から向き合って、腹割って叱らなければ目が覚めないぐらい、何か逸れているのか。
 絶対的な正しさを疑わない、慶太の眼差しに、勝利は苛立った。
 何がおかしい。何が間違っているというのか。
「身代わりにすんなよ、かわいそうだろ」
 何を言われたのか、飲みくだせなかった。
 今度はこちらが、豆鉄砲を食らった心もちがした。
 ぽかんと、慶太の顔を見つめる。
「おまえ、気づいてないんだろうけどさ、あれじゃ丸分かりじゃんか」
「まわりくどく言うなよ!」
 怒鳴りつけると、慶太が一度口をへの字に結ぶ。
「あの転校生に構ってんだってな」
 覚悟を固めたように、慶太が再び重そうに口を開いた。
 ぎくりとした。後ろ暗いところは何もないはずなのに、痛いところを突かれたような気がした。
「見ててイタいよ。それってさ、おまえ、高幡の身代わりにしてるんじゃないの」
「なんだよ、それ」
 咄嗟に反論が出てこなくて、勝利は困った。
 とても不当な中傷を受けたような気がしたけれど、真正面から言い返す言葉が見つからなかった。
「おまえが何に負い目感じてるのか分かんないけどさ、高幡が自殺したの、おまえのせいじゃないだろ」
 慶太が眉をハの字に下げた。今度は、憐れむような顔をした。
 どっと、嫌な汗が吹き出した。
「分かってる、よ。そんなの……」
 逃げ出したくなった。急に、この場から。
 怖気づく脚が、勝手に後ろに下がろうとする。虚勢を張るように、耐えた。
「分かってないよ」
 張りぼての勢いを崩すように、慶太は一歩踏み込んだ。
「全然、分かってないよ。負い目に感じてるんだよ。いい加減認めろよ、おまえ」
「やめろよ!」
 焦って、勝利は止めた。その先を聞いたら、引き返せないような危機感を感じた。
 制止を、慶太は聞かなかった。
「おまえ、ショック受けてるんだよ」
 ぷつん、と。
 見えない糸が切れる音を聞いた。
 目を逸らしつづけてきたのに、強引に顎を掴まれて、そちらに目を向けさせられたようで。
 冷水を、バケツごと頭の上からぶちまけられた気分だった。
 熱くなっていた体が、急に冷えてゆく。
 一点に、集まってきた。目元が熱い。
 ちがう、と怒鳴り返したかったけれど、口を開けば壁が崩れてしまいそうで、引き結ぶ。
 泣き出してしまいそうな気がした。
「俺は、勝利が心配だよ」
 慶太の手が、勝利の肩にふれる。
 いたわるように少しだけ、さすった。
 あっけなく、堤防は瓦解した。
 ぼろっと、大粒の雫が右の目から落ちる。
「……傷ついてない」
 手の甲で目元をぬぐって、虚勢を張った。
「嘘だよ」
 きっぱりと、慶太は否定する。その強さが、そのやさしさが余計に沁みる。
「嘘じゃない……」
 否定したい。
 だけどどうして、一粒落ちたら止まらないんだろう。
 涙が。
「意地、張るなよ」
(だって、否定しないと、どうしていいのか分からなくなるよ)
 感情を持て余したら、自分でどうやって処理していいのか分からなくなるよ。
 だから厄介な気持ちは、奥深くに仕舞いこんでおきたい。
 余所にやってしまいたい。
 知らないフリを決め込んでいたかったんだ。本当は知っていたけど。
「俺の、せいだ」
 ずっと。
 何度も何度も、胸の内側で叫びつづけてきた。
 ぼろっと、涙の雫と一緒に、唇から外界へ零れ落ちた。
 そうしたら。
 内側で叫んでいたときよりも、もっと―――重かった。その重みに自分で驚いた。
 咽喉が鳴る。惨めで不恰好な嗚咽が零れた。
「おまえのせいじゃない」
 慶太はやさしい。だけど、頷けなかった。
 不恰好に、首を横に振る。
「俺が無責任に、あんな―――」

 ―――あんなことを、言ったから。

 慶太は、もう何も言わなかった。
 ただ、勝利の肩を握る手に力を込めた。

「俺のせいだ」
 気づけば、繰り返して呟いていた。






【続く】