イレギュラー
第一話〜第五話

【第一話】

 教室の扉をいつもどおりに開け放った。
 次の瞬間、空気が凍ったと感じたのは自分だけではなかったんだろう。
 たくさんの目が一斉にこちらを向いた。
 まるで、紛れ込んできた異物に驚いたような。
 怯えた目だった。

 不自然なほど一箇所に集まったクラスメートたちの手元。
 古ぼけた雑誌が広げて置かれていた。
 遠目でも、それがなんなのか漠然と分かった。
 こちらに向けられているその、異物を見るような視線で、十分わかった。
(ああ、”また”)
 石像のように固まるクラスメートたちの脇を通って、この間与えられたばかりの自分の机へ向かった。
 慣れている。こんなの。
 昔と同じだ。だから別に、傷つく理由はなかった。

 僕に怯えてあとずさった女子の足元に、その雑誌が広がったまま落ちた。

―――呪われた新興宗教の全容。

 一年も前の雑誌、誰が持ってたんだろう。
 ちらりとそのページを見てから、机に座った。
 ちょうどチャイムが鳴った。


            *


「……ただいま」
 少しガタのきている扉を手前に引いて、消えそうなほど小さな声で言った。ぎぃと軋んだ音を立てて開く。
「ああ、おかえり要」
 “ただいま”。それに対して”おかえり”。
 その言葉がまだなんとなく不自然で、慣れない。口に出すと不思議な感じがした。
 扉の向こうには、革張りの黒いソファーが置かれている。ここは厳密に言うと、家ではない。事務所だ。
 僕はそっと入り口からまず顔だけを室内に突っ込んで、声の主を探した。
 ソファーの向こうに、デスク。黒塗りの、時代遅れの電話。右手に簡易の台所。左手に窓、その下に応接のテーブルと椅子がある。
 事務所としては狭い場所だ。
 声の主は、台所にいた。
「コーヒー淹れてるけど、お前も飲む?」
 思わず壁の時計を見てしまったのは、そう告げた相手の顔と声が、とても眠そうだったからだ。
 学校が終わってから真っ直ぐここにきたから、もう既に4時を回っているのに。
「カズマ、寝てたの」
「転寝。暇だったから」
 悪戯を見咎められたような、少しばつの悪そうな顔で成瀬一馬は笑った。

 6月に入ってから、雨が続いている。
 カズマは、火のついていない煙草を口に銜えたまま、かすかな音を立てるコーヒーメーカーをぼんやりと見ていた。
 ワイシャツにゆるくネクタイを締めた格好でふっと顔をあげて、「中に入りなさい」。そんな、保護者みたいなことを言った。
 気づけば僕は、事務所の扉から、まだ顔を突っ込んだだけだった。
 うん、と頷いて事務所の中に入る。目の前のソファーまで歩いていって、カバンを置いた。
 なんだかよく分からないけれど、体が重い、気がした。
 カバンを置いたソファーに沈み込むように座って、左側を見た。ブラインドの隙間から、オレンジと黄色を乱暴に混ぜたようなひかりが零れ落ちている。
 天気雨だな、と思った。

 成瀬一馬と暮らし始めたのは、一年程前。この事務所に出入りをはじめたのは、半年ほど前だ。
 間の残りの半年は、外に出るのも怖かった。
 生まれてから13年、要は、限られた敷地の外に出たことがなかった。
 4、5歳までは体が弱かったから。それからあとは―――変な力が見つかったから。
 なんと表現すればいいのか、分からない力だった。オカルト的にいえば、超能力、なのだろうか。
 感情が高ぶると、身近なものが割れたり倒れたりした。
 見る間に、自分を見る周囲の目つきが変わっていって、母は泣いた。
 父は、まるで化け物を見るような目をした。そして、守るという名目で、とじこめた。
 その閉じ込められた環境から、抜け出したのがちょうど1年程前のこと。
 1年前。けれどもそれはあまりにも、遠い過去のような気がした。
 振り返ればひたすらに遠く、記憶は曖昧。
 きっと、思い出すのが嫌なんだろう。忘れてゆくのは、人間の自己防衛本能。
 生まれつき持っているものなんだって。

 革張りのソファー。もう座りなれているはずのその感触が、今日は違って感じられる。
 なんというか、いつもよりもやわらかくて、ずぶりずぶりと沈んでいってしまうような、錯覚。
「どうした」
 ぼんやりとしていると、目の前に白いコーヒーカップが差し出された。
 そのコーヒーカップから、それを握る手、腕、肩、そして、相手の顔を確かめた。
「なんかおかしくないか」
 僕のほうにコーヒーカップを差し出したまま、カズマは少し表情を曇らせている。
 ぎくりとした。
 まさか、今日あったことがもうここに知られているはずはない。
 できるだけ、動揺を表に出さないように気をつけながら、差し出されたカップを両手で受け取った。
「なんでもない。ただちょっと、疲れただけ」
 正直に言ってしまえばよかったのかな。
 ごまかしてすぐに、後悔が頭をもたげてくる。
 変な意地を張ったんだってことは、自分でも分かっていた。
 心配をかけたくないから、というのも確かにあっただろうけど。
 今日あったことを話し始めたら、途中で泣いてしまうと思った。絶対に。
 今まで、ここまで、ずっと平気な顔をしてきたけれど、改めて話し始めたら、きっと気付く。
 自分が、やっぱり傷ついていたんだっていうことに気がついて、きっと泣いてしまう。
 それは嫌だった。
 沈黙が不自然にならないように、コーヒーに口をつける。
 何故だかとても、苦かった。



【第二話】

―――僕、強くなんてなれなかったよ。神田くんみたいに。


 どこか遠くで、バットが硬い球を跳ね返す、金属質の音が響いた。
 雨に濡れたグラウンドは、所々に水溜りを作っている。
 雨上がりのにおい。
 水分を多くふくんだ空気が、しっとりと肌に吸いつく。
 ナイター完備の、金持ち私立学園中等部の野球グラウンド。そこに隣り合わせる、陸上競技用のトラック。
 正式な陸上競技場よりも一回り小さい、二百メートルの。
 走りこみ用に引かれた、石灰の白い線。ゴールのしるし。
「勝利」
 雨に滲んで消えかけたその線のあたりにぼんやりと立っていると、不意に声をかけられた。
 気配を感じなかった方向から急襲されて、大げさに振り返る。
「何してるの」
 怯えたように振り返ったその先に、見慣れた眼鏡を発見する。
 顔の位置は、自分の目線よりも少し下。声変わりをまだ終えていない高い声に、あどけない顔に眼鏡。
 典型的メガネくんの彼が、地区内で有数の走り幅跳びの選手だと言って、どれほどの人が信じるだろうか。
「慶太こそ、今日練習休みじゃんか」
 ずりおちかけたリュックの肩紐を直して、神田勝利は部活仲間の円藤慶太に質問を返した。
「明日、中央運動公園のトラックで練習だろ。スパイク取りに来たんだ」
 慶太の右手には、スポーツブランドの名がプリントされたスパイク専用の小さなバッグが下がっていた。
 ああ、そっか。明日。
 納得した。
「忘れてたの? もしかして」
 まるで可哀相なものを見るかのような顔をして、慶太が顔をしかめる。
 答えられなくて、勝利はついと目線を逸らした。
「どうしたの、勝利。最近ちょっとおかしくない?」
 憂うような気配を、哀れむようなその表情に混ぜて、慶太は勝利と視線を合わせようとする。
「この間の大会だってさ、おかしいよ。絶対あんなもんじゃないはずなのに。それに最近、ずいぶんぼぉっとしてるしさ。まさか勝利、高幡のこと気にしてんの? あれは誰のせいでもない、どうしようもないことじゃ……」
「違うよ!」
 大声で、否定した自分に、勝利は驚いた。
 突然張り上げられた大声に、慶太もびくついて言葉を引っ込める。
 悪い。
 慶太のメガネから、足元の濡れた土に視点を落として、勝利は謝った。
「勝利、気にすんなよ」
「大丈夫だって」
 重く、思わずもたげてしまう頭を無理に持ち上げて、勝利は笑った。
 口の端が引きつっていることぐらい、自分で分かっていたけれども。
「もう終わったことじゃんか」
 精一杯笑ったつもりで、言った。
 目の前の慶太の顔は、なおも、心配そうだった。

 終わったこと。
 そうだ、と言い聞かせる。
 もう全て、終わったことなのだ。
 過去の話。

「……それならいいけど」
 慶太の声は、譲歩の響きがした。納得したわけではない。
 くるりと踵を返して、野球場の方へ足を向ける。その横を通り過ぎて、裏門を出たほうが早い。
「待てよ。俺も行く」
 歩き出した慶太の背中を追う。足元で土がぬかるんで、バランスを崩した。
 何かに引っ張られたような気がして、思わず飛び出しそうになった悲鳴を、なんとか口の中だけで抑えた。
「そういえばさ。あの、例の転校生って、銀と知り合いなんだってね」
 勝利の異変に気づかなかったのか、気づかないふりをしているのか、慶太は別の話を切り出した。
「は? 転校生?」
「勝利のクラスの。あの、英だっけ? 週刊誌の」
「……ああ、あれ」
 意識はしていなかったのに、げんなりとした声が出た。
 今朝から、教室の空気を気まずいものにしてくれた一件を、思い出した。
 慶太のクラスと階が違うはずなのに、もうそこまで噂が届いていたのか。
「うちのクラスに銀っているだろ。あのでっかいお屋敷のさ。噂じゃあの家、お化け退治とかやってるらしいじゃん。その転校生とも、そういう関係あるのかな?」
「さぁな」
 気のない返事をした。

 興味が、ないわけではなかった。
 好奇心なら人並み以上にあると思っている。
 クラスの女子が、誰が持ってきたかも分からない週刊誌の記事に群がる気持ちも、分からないわけではないし。
 醜い好奇心なら、ある。
 同い年のはずなのに、何故かあどけなく見える女顔の美人転校生は、どことなく浮世離れした雰囲気を醸し出していて、新学期から二ヶ月ほど経った今も、なじんでいるとはいえない空気だった。
 幼かったり、どこか達観していたり。場面によって表情の変わるその少年の過去。
 気にならないなんて嘘だ。
 それでも。明らかに居心地の悪くなったクラスの空気。
 誰かが、誰かを意図的に避ける、ということ。
 その空気に今は、堪えられそうになかった。


「それよりさ、今日お前のクラスで英語の小テストやったんだろ? どこ出たか、教えてよ」
「先生、問題変えるって言ってたから無理じゃない? 問題聞いても」
「そこを何とか頼むからさー」
 手を叩き合わせて、慶太に強請った。
 すぐそばのグラウンドから、バットが硬い球を跳ね返す、金属質の音。
 足元にはぬかるみ。
 心の内側にはどうしても拭い去れない、重さがある。

―――気にしてんの、高幡のこと。

 慌てて否定はしてみたけど。
 気にしていないなんて、真っ赤な嘘だ。



【第三話】

 ざわざわ。さわさわ。
 雑音が夢の中まで潜り込んできて、やがて眠りのほうが負ける。
 目蓋を開くと、どこか薄暗い白い天井が見えた。いつもならもっと、明るく見えるはずなのに。
 カーテンが締め切られた窓から、いつも差し込んでくるはずの朝の強い光はなく。
 ああ、曇ってるんだな、と少し間を置いてから気がついた。
 体を起こそうと思って、重くて挫折する。
 異様なぐらい、頭が、腕が重くて。
 気づいていた。それが現実の重みなんかじゃなくて、感覚だけだってこと。
 重く感じているのは、こころ。

 何か夢を見ていたような気もするんだけど、忘れてしまった。
 見上げる天井が、くすんで見える。
 さわさわ。
 雑音が繰り返して、ようやく細い雨が降っているらしいことに気が行った。
 四季折々、季節がしっかり分かれている国だから、しかたないけど。
 憂鬱なのは、雨。

 枕もとにおいてある目覚し時計を手探りで掴んで、目の前に持ってきた。
 10時42分。
 一瞬、ひやりと慌てて。今日は日曜日だったことを思い出した。
 焦ることなんてなかったんだっけ。
 目覚し時計を枕もとに戻して、もう一度起き上がろうと思って、やっぱりやめた。
 急ぐ必要なんて何一つなかったから。
 ころりと体を横にして、枕を抱いてみた。
 もう少し、眠っていてもいいんじゃないのかな。今日ぐらい。
 考えずにいたかった。何も。

 明日になればまた、7時には起きて、7時45分には家を出て。
 学校に行って、授業を受けて、放課後になって。
 そんな繰り返しをする。
 ただの繰り返し。
 ぼんやりとしていれば、過ぎ去って、終わってしまう時間だ。
 我慢してればいい。
 ものめずらしそうに、気味悪そうに、遠巻きに眺められることなら、慣れてる。大丈夫。
 慣れてるから、大丈夫。
 言い聞かせるように心の内側で繰り返して、もう一度目を閉じた。
 大丈夫。
 きつく瞑った目から、何かが零れたような気がしても、気にしないふりをする。
 自分の気持ちに鈍感になりたかった。
 気づかずに。
 自分の本心なんて知らずに。
 傷つかずに。
 その方が、楽だ。


            *


 朝八時からはじまった練習は、十時を回ったあたりに降りだした雨の所為で昼で切り上げることになった。
 水気を含んだトレーニングウエアを脱ぎ捨てて、Tシャツとパーカーに着替える。
「せっかく運動公園まで来たってのに、昼であがりかァ」
 チームメイトがぶつくさと文句を垂れながら、スポーツバッグを担ぎ上げる。
「勝利、どした?」
 後ろから覗き込む気配に、勝利は大袈裟に振り返った。
 大きな眼鏡と目が合う。
「慶太……」
「チャリで来たよな? 雨ひどくなってきてるけど。俺ら、バスで帰ろうかと思っててさ」
「いーよ、どうせ家に帰るだけだしさ」
 少しだけ笑って、勝利は履いたままだったスパイクを脱ぐ。
 窮屈な感触から、足が解放されたように思えた。
「それに、練習中に随分濡れたから、今更変わんないっしょ」
 手早く愛用品を片付けて、荷物をまとめてベンチから立ち上がった。
「そう?」
 慶太が表情を曇らせている。
 勝利は首を傾げて相手を伺った。
「勝利が平気なんだったら、いいけどさ」
 慶太は、どこか煮え切らない。
「なんだよ」
 少しばかり苛立って、勝利が促した。
 仕方ない、というようにひとつ、慶太が嘆息した。
「やっぱりお前さ、最近ちょっとおかしいよ」
 丸い眼鏡の奥で、チームメイトが憂いを帯びた目をする。
「しつこいな」
 苛立ちの所為で、口が勝手に動く。
 胸の内にどうしようもない凶暴な部分があって、それを上手く制御できない。
 これじゃ八つ当たりだ。分かっているのに、どうにもならなかった。
「こだわってんの、慶太のほうだろ」
「勝利」
 慌てる慶太を振り切るように、勝利は踵を返す。
 呼び止めようとする気配が、途中で諦めに変わるのを背中で感じる。
 脱衣場の扉を閉めるまで、視線だけはずっと追いかけてきた。

「なんなんだよ……」
 陸上競技場を後にした瞬間、後悔した。
 こんなことを言いたいわけではなかった。
 次第に強くなる雨脚が、アスファルトの灰色を黒く塗りつぶす。
 せっかく着替えた服がすぐに、水を吸って重くなる。
 髪の毛が束になって、その先から雫がたつたつと落ちた。
 眩暈がした。体が不調というわけではなく。
 自己嫌悪に嘔吐感すらこみ上げてくるようだった。
 慶太に当たっても仕方がない。分かりきっていることなのに、苛立ちを制御できない自分が不甲斐なかった。
 どんどん強くなる雨に、体中が濡れそぼる。
 両足がひどく重く、だるかった。
 枷がつけられているような足を引きずり、鉛のように重いスポーツバッグを背負いなおして、駐輪場にたどり着く頃には、すっかりと体が冷えていた。
 屋根付きの駐輪場にもぐりこんで、スポーツバッグを籠に押し込む。
 サドルに腰掛けて、うな垂れた。

―――僕、何やってもダメなんだよ。

 雨音に混じって、少年の声が聞こえた。まだ高い。
―――そんなわけないだろ。
 無邪気で明るい、自分の声がそれを追った。
―――高幡だって、やれば出来るだろ。
 底抜けで、悲壮感のない、軽い声に聞こえた。
 勝利は、きつく目を瞑る。
 まぶたの奥に、白が広がった。
 まっさらの、縦書きの便箋だった。


 頑張ってみたけれど、やっぱり僕には上手く―――


「くっそ……」
 やり場のない悪態をついて、勝利は握った右の拳を腿に叩きつけた。
 もう二ヶ月も前のことだ。終わったことだ。
 何度そうやって言い聞かせてきたことだろう。
 自分に言い訳をしてきたことだろう。

 閉ざした目蓋の奥。白い便箋の向こう側に、通い慣れた教室の情景が浮かんだ。
 今日と同じように、雨が降っていた。
 夕立だった。
 部活を終えて、教室に飛び込むと、窓際の席にぽつんと座った人影がある。
 上品に作られた制服を、ぴしりと着こなして、凛と伸ばされた背中。
 首筋が青く細く、肌は病的に白かった。
 夕焼けに、赤く染められた机に本を開いて、じっと静止している。
 彼の周囲だけ、時間が止まっているような錯覚をいつも覚えたものだった。
 物静かで、物知りで、本が好きな奴だった。

 高幡千晶。
 春休みに、廃ビルの屋上から、身を投げたクラスメートだった。



【第四話】

 空気が重い。
 自然と、苛立ってくる。
 入梅してから、空は晴れ間を見せることを頑なに拒んでいる。
 そのせいもあって、気分は常に鬱々としていた。
 何よりも、隣に座る人物の所為だ、と勝利は思う。
 隣の席には、四月に編入してきた謎の美少年が座っている。
 横目で盗み見た。
 色素の薄い、茶色の髪は地毛なのだという。
 同じ色の瞳も大きく、ぱっと見、女にしか見えない。男子用の制服を着ているから、見分けがつくようなものだ。
 浮世離れしたその容貌と、妙に世間知らずでありながら、時折達観した顔を覗かせる場違いな雰囲気に、転入当初からクラスメートたちは戸惑っていた。
 名前まで、どことなく煌びやかな感じがして、踏み込みづらい。
(ハナブサ、だってさ)
 英語の英で、ハナブサ。
 漫画の登場人物みたいだ。
 けれども、漫画と違うところもある。少女漫画的ベタな展開だと、クラスの女子は騒ぎそうなものだけれど。
 あまりにも異質だったので、逆に遠巻きになってしまったようだ。
 ただ、遠巻きになることと興味がないこととはイコールではなく、影で様々な憶測が飛交ってもいた。
 本人の耳にも届いているだろうに、全く反応を示さないあたり、やっぱりどこか違うのだろうか。
 同い年だというのに、あどけないと感じる。
 肌も白くて、同性とは思えないぐらいだ。そう、高幡みたいに―――。
 そこまで考えて、勝利は静かに息を飲んだ。
 “高幡みたいに”。
 胃から急激に気持ち悪さが這い上がって、転入生から目を逸らした。
 ちょうどよく、チャイムが鳴った。
 昼休みだ。ざわざわとクラスメートたちが散ってゆく。
 購買にでも行こうか、と勝利も席を立った。
 隣を、わざと見ないようにした。


 例の、ゴシップまがいの週刊誌が持ち込まれてから、ハナブサカナメを取り巻く見えない壁は、分厚くなったような気がしていた。
 新興宗教の神子で、不思議な力を操るんだとか。
 あいつの所為で母親が死んだんだとか。
 奇妙な爆発があったんだとか。
 どこまでが本当なのか、眉唾物の記事だったけれど。
 クラスメートたちが感じていた違和感を代弁するには、十分すぎた。
 ああそうか、と腑に落ちるような気がする。
 だから、毛色が違うのだと。
 ゴシップ記事を全て鵜呑みにしたら、楽になるような気がするのだ。
 自分たちとは明らかに違う、その存在感に怯えることもなく。
 嚥下できる。
 そんな気がした。

 遠巻きは、更に後方に退いて、野次馬のように転入生を取り残した。
 絶海の孤島に取り残されて、英要はすんなりとその状況に適応したように見える。
 簡単に諦めてしまったように。
(どうしてそんなに簡単に)
 諦めることが出来るのか。
 勝利には理解が出来なかった。
 その所作は、自分から壁を分厚くしているようにも見える。
 他人の理解など、元より求めていないという、冷たい拒絶。
 愛想笑いのほかに、端整な顔立ちが笑ったのを、勝利は見たことがない。

 適当にパンを見繕って教室に戻る。
 陰鬱な空気が漂う教室に戻るのは少し億劫だったが、他に過ごす場所もない。
(別に、俺がシカトされてるわけじゃないんだし)
 そうは思うのだが、やはり、居心地がいい場所ではない。
「ちょっといいかな」
 後ろ側のドアを横に開いたところで、背に声がかかる。
 声に色があるというなら、青だ。
 清浄で、凛と張っている。
 ドアに手をかけたまま、肩越しに振り返って、勝利は目を瞠った。
 別世界の生きものがそこにいた。
「C組の人だよね」
 すっと、切れ長の瞳が勝利を見ていた。
 肌は白く、髪は黒檀のように黒くて癖がない。
(銀)
 その男の苗字が、水面に浮かぶ泡のようにぽこりと浮かんできた。
 隣のクラスの生徒だった。慶太とクラスメイト。
 圧倒的な存在感は、英とは別の意味で浮いていた。
 大金持ちの御曹司。子どもっぽいところは欠片もない。
 群れることなく、周囲に溶け込もうとも馴れ合おうともしない。
 周囲に漂う凛とした清浄感は、圧迫感にも似て、誰も下手に近づけなかった。
 勝利もそのひとりだ。
 別世界の人間だと思っていた。
 何ひとつ、共通項のない人間に思えた。
 生活環境、家族、趣味、何から何まで、重なるところなどどこにもないような。
「ごめん、人を呼んでくれるかな」
 微笑して、およそ中学生には見えない男が言った。
「え、あ、ああ」
 動揺を隠し切れずに、慌てて勝利は頷く。
「英要、呼んでもらえる?」
「え?」
 思わず聞き返した。

―――例の転校生って、銀と知り合いなんだってね。

 慶太の言葉を思い出す。
 固まっている勝利に、銀都佳沙は、微かに眉をひそめて怪訝な顔をつくる。
「あ、ワリ。英、な」
 ただ眉をひそめただけ。その動作に気圧されて、勝利は逃げるように教室に踏み込んだ。
 座りなれた自分の座席。その隣でぼんやりと窓の外を眺める色素の薄い少年に近づく。
「英」
 他人行儀に苗字を呼んだ。
 首をめぐらせて、つくりものめいた顔が振り返る。
「神田くん」
 高い声が、勝利の苗字を呼ぶ。
 視線が、どうしたの、と訊いていた。あどけない顔だった。
「呼んでる」
 背中にクラス中の視線を感じながら、ドアの方を指差した。
 どうしてなのか、声を潜めてしまった。
 要は、勝利の向こう側に見知った姿を見とめて、椅子を引いて立ち上がった。
「ありがとう」
 小さな礼を残して、要は座席の合間を縫って後ろの扉に向かう。
 銀と合流して、一言二言を交わして廊下へ消えてゆく背中を、何故か勝利は見送ってしまった。
 この居心地の悪さは、一体なんなのだろう。
 せっかく買ってきたパンも、食べられそうになかった。



【第五話】

「都佳沙」
 名前を呼んで、要は来訪者に歩み寄った。
「どうしたの」
 いつもどおりの涼しげな顔で、銀都佳沙は目元で微笑する。
「少し、話できるかな」
 ここではなく、と都佳沙の目が暗に言っていた。
 顎を引いて頷くと、ひらりと都佳沙が身を翻した。慌てて、要はその背中を追った。
 どうしたの、と聞いてみたものの、都佳沙が現れた時点でどんな話なのかは大体見当がついていた。
 いずれ、来るだろうと思っていた。
 足は、迷いなく人気のないほうへ向かっている。
 都佳沙のことは嫌いではない。頼りにしてもいる。
 初めてできた、同年代の友達でもある。
 けれど気が重い。
 せっかく考えないようにしているのに。

 都佳沙は、美術準備室の扉を開いた。
 途端、油とシンナーの臭いが押し寄せてくる。
 要が後ろ手に扉を閉ざすのを待ってから、都佳沙は要に向き直った。
「大丈夫?」
 主語もなく、都佳沙が問い掛けてくる。
「なんのこと?」
 意味はもう、通じていた。分かっていた。
 誤魔化すように、訊き返す。
 顔が笑おうとして失敗している、顔の筋肉の動きで、分かる。
「噂、聞いたよ」
 都佳沙は正直だ。誤魔化したりしない。
 その潔癖さは正しく、強い。
 けれど、時として残酷でもある。真っ向からぶつけられると、痛みにもなる。
「あ、うん」
 誤魔化しきれずに、要は俯いた。
「口さがない噂は、気にしなければいい。すぐに消えるよ」
 正論に、要は俯いたまま小さく頷いた。
 都佳沙の言うことは正しいのだ。
 けれど、彼は分かっていない。皆、彼のように凛と強く立てはしないのだと。
 気にしなければいいと言っても、割り切れない弱さを飼っている。
 目を逸らしていても、傷口から痛みが、沁みてくることもある。
 治療を怠れば膿む。
 尚も目を背け続ければ、致命傷にもなる。
「何かあったらすぐに言って。力になるよ」
 普段ならば頼もしいと思える言葉だった。しかし、奇妙にささくれだった心には、真っ直ぐには届かない。
 傷つけられていると、認めろ。そんなふうに促されているようにも思えた。
 必死に吐き気を堪えているのに、背をやさしく擦られるような。
 この仕打ちに傷ついていると、白状してしまえ。
 白旗を揚げたら、救いの手を差し伸べてあげるから。
 そう、言われているようにも思えた。
 ただの被害妄想だと、必要のない意地だと分かっている。
 分かっていても。
「大丈夫だよ」
 表情を取り繕って、顔を上げた。
「僕は、大丈夫。……慣れてるよ」
 奇異の目で眺められることや、遠巻きにされることも、別に今にはじまったことではない。
 いつもどおりだ。
 過去に起こったことを全て帳消しにして、あたたかくやさしく明るい、そんな学生生活に飛び込めるとは思ってなかった。
 そんな、御伽噺みたいな顛末なんて。
 信じていなかった―――と思いたい。
 信じていなかったから、疎外されても傷ついたりしないのだ。
 当たり前のことだと受け入れられる。
(だって)
 鈍い痛みが、胸の内に燻っているような気もするけれど、勘違いだと片付けることにする。
(だって、遠巻きにされて傷ついているなんて、認めるのは惨めだ)
 それに、認めてしまえば、今まで押し込んできた痛みの全てが、一気に噴出してくる気がした。
 決壊して、全て溢れ出したら、自分を支える自信がなかった。
 かといって、受け容れてくれる周囲の人々に全力でもたれかかるのも嫌だった。
「僕には都佳沙も始さんも雅さんも、いてくれるんだし」
 都佳沙や、その父、叔父。全てを理解して尚、受け容れてくれる人もいる。
 これ以上彼らに心配をかけることも、憚られた。
 何よりも―――。
「僕の問題だから、何とかするからさ」
 笑みが、唇の端に張り付いたままになっている。
 無理を、都佳沙はきっと、見抜いているに違いない。意志の強い瞳がじっと、要を見ていた。
「だから」
 居たたまれなくなって、要は目を逸らした。
 ふっと、火が消えるように口元の笑みも、消えた。
「カズマには言わないで」
 縋りつくような、ただの懇願だった。
 彼には、彼にだけは知られたくなかった。
 こんなふうに弱っている自分のことなんて。
 常にやさしく労わって背を押してくれる人には、見せたくない。

 都佳沙は暫く、何も言わずに要を見つめていた。
 やがて、思案するように一度双眸を閉ざし、再び深い黒の瞳を開いた。
「分かった。でも、無理はしないって約束してくれるかな?」
 まるで大人が子どもに促すような言葉だった。
 無茶は、危険なことは、しないように。
 顎を引く動作だけで頷いた。
 都佳沙の顔を見ることは出来なかった。

 助け舟のように、予鈴が鳴った。







【続く】