異人の祀



 仄暗い水面に浮かぶは朧月
 風に揺らされ醜く歪む
 泳ぐ魚どもは罪に爛れ
 咲く蓮どもは澱を喰らふ
 くるな くるな
 其処は人外どもの魔境なり
 血色に染まりし松明の火
 照らした大地は鬼の住処
 舞う蝶は毒を啜り
 戦ぐ木々は屍を犯す
 よるな よるな
 此処は人外どもの魔境なり
 人外どもの魔境なり



序.

 暗い。
 直感的に体に入り込んできた印象は、それ。
 日差しが弱いとか、曇っているとか、木々に覆われているとか、そういうことではなく。
 雰囲気が、暗い。
 閉ざされている。ふさがれている。
 妙な息苦しさを感じて深呼吸をした。
「寒立村、か」
 リモートコントロールで、愛車に施錠を施してから、吾妻さんがぽつりと呟いた。
 高台に、車を停めていた。下方にひっそりとした村が見える。
「さすがにここまで山を上ってくると涼しいな」
 すかさずヘビースモーカーがセブンスターに火を灯す。
 そちらは派手な薄手の柄シャツだからいいようなものの、こちらは半袖で、涼しいどころの話ではない。むしろ寒いほどだ。
「ここが、例の祭りがある村なんですよね?」
 にわかに鳥肌が立つ腕をさすって、僕―――英 要(はなぶさ かなめ)は、眼下のに広がる集落を見下ろす。
 山中の、盆地を利用して作られた集落は、他の町から車で一時間以上も離れているとは思わせないほどに、戸数は多く感じられた。
 小さな村ではないというのに。
 寒々しい。
 特殊な祭りがあるというから、もっと観光的にひらけている村なのかと思っていたのに、拍子抜けをした。
「さてと、山の日暮れは早いっていうしな、遠藤さんのお宅に、早めに着かないと」
 一本の煙草を消費するぐらいの休憩を経て、吾妻さんはさっさと運転席に乗り込んでしまう。
 僕はもう一度、田畑と家々が連なる盆地を見下ろしてから、助手席に引き揚げた。


            *


 一週間ほど前のことである。
「アシスタント急募なのだよ」
 知り合いの探偵事務所に唐突に現れた吾妻さんが、丁度居合わせた僕に向かって、そう言った。
 無言でこちらを凝視して、何かを目で要求しているので、僕はお茶を出す手を止める。
「……今度はどこに行くんですか」
 控えめに、訊いてみる。
 吾妻珪丞という男は、職業作家である。
 取材だなんだと、日本全国津々浦々を飛び回っている、忙しい人なのだ。
 いつもふっと現れては、難題を持ち込んでくる人物でもある。
「東北の、寒立村というところなんだけど」
「カンダチ村?」
 聞いたことのない名称だった。
「珍しい祭りがあると聞きつけたんで、これは行かなければと」
 作家は妙な使命感に燃えていた。
「祭り、ですか」
「だから、アシスタント急募にここに来たんだけど。君がいると思って」
 事務所の主は丁度、用事で留守にしていた。万年昼行灯の男が留守にしていることの方が珍しいのだが、何故か吾妻さんが来るときは、こういうタイミングが多い。
 かくいう僕は、二年目の大学の長期休暇中で、一人暮らしのアパートにはエアコンが取り付けられていないので、暇つぶしに涼みに来たところをこの作家に捕まったというわけだ。
 これは必然というやつだろうか。
 困ったことに、東北の山奥、聞いたこともない村、見知らぬ祭り、と三拍子揃ったら、興味が沸いてきてしまった。
「丁度いいと思うんだよ。今は大学は休みだろうし。社会学部民俗学専攻の学生の、知的探究心を満たすのには」
 読まれていた。
 取材など、ひとりで行ってくればいいのに、と。言い切ってしまえない。
 そういう餌を、はじめから向こうは用意して誘いに来るのだから、性質が悪い。
 いつものに比べれば、今回は悪い話ではなさそうだ。
 作家がいつも依頼してくるアシスタントといえば、過酷な労働が多い。
 まず、場所が悪い。
 この人が興味を示す場所というのは特異なものが多く、僕も運悪く人よりも霊感というものが強い人種なものだから、"そういう類"の場所に多く連れ出される。魔除け代わり、とでもいうように。
 そのうえ、荷物持ちだの車のナビゲーションだのを申し渡される。行く先々で、宿代を奢られてしまったら、文句など言えようはずもない。
 吾妻さんが好む"そういう場所"で、手痛い思いをしたのは一度や二度の話ではないのだ。
 だから今回ここで顔を合わせたときも嫌な予感がしたし、また取材について来いというのならば、断ってしまうつもりだった。
 つもりだったのだが。
 困ったことに、その手の話には弱いのだ。気になる。
「その祭りがねぇ、今の時期にしかやらないみたいなんだよねぇ」
 揺らいでいるのを知っていて、作家は心理的揺さぶりをかけてくる。
 人間という生きものは、いつでも「期間限定」という概念に弱いものだ。
「アシスタント、頼まれてくれないかなぁ、要くん」


            *


 心理戦の結果は惨敗だったということは、助手席におさまっている時点で明らかだろう。
 そうだ、これは吾妻さんのアシスタントではない。
 自分のために、件の祭りを見に行くのだ、と何度も虚しく自分を慰めた。
「そういえば」
 諸悪の根源が口を開いた。
 車窓の外、繁る緑と蝉の声をぼんやりと受け容れていた意識を、車内の、運転席のほうへ戻す。
「マロウドって、何?」
「マロウド、ですか」
「そう」
 マロウド、ともう一度吾妻さんが繰り返す。
 僕の頭の中には、その単語が立派に漢字変換をされたところだった。
「異人、って書くんですよ、マロウドって」
「イジン? 偉い人のほうの?」
「異なる人のほう」
 なるほど。異なる、人ねぇ。
 よっぽど特別なことのように、吾妻さんは感心して見せた。
「意味は? 漢字の意味とおんなじ?」
「だいたいは。でも、狭義で言うなら、隔絶された領域に侵入してくる異物、みたいな意味かな。昔って、村々の独立性とかがとても強かったから、そこに入り込んでくる、村や場所に馴染みのない来訪者のことを、そうやって呼ぶところもあったみたいです」
「へぇ、なんだかそれって、否定的な意味合いだね」
 吾妻さんの声は、意外そうだった。
 確かに、異人という言葉には閉鎖的なイメージがある。
 それよりも僕には、吾妻さんが前振りもなくその言葉の意味を知りたがったことのほうが気になった。
「どうしたんですか、唐突に」
「いやね、その珍しい祭りって言うのが、『マロウドの祭り』っていう名前らしいから。作家としてボキャブラリーが貧困なのを露呈する恥を忍んで、聞いてみたわけだ」
 聞くはひとときの恥、聞かぬは一生の恥と言うだろう。
 恥、と言っている割には偉そうに、吾妻さんはそうつけ加えた。
 異人の祭り。
 口の中で繰り返して、響きを確かめる。
 あまり、いい響きではない。
「吾妻さん、その祭りってどういうことをするんですか? 謂れとか、分かってるんですか?」
 山奥の集落、期間限定の祭り、という煽り文句にあっさり釣られてついてきたものの、そう言えばその祭りについて何一つ知らなかった。
「火を焚くのだ」
 簡潔に、作家が答えた。
 一言のみ。あとは口を噤んでしまった。
「……それで?」
 不穏な沈黙に、思わず先を促した。まさかまさか、それで終わりというわけでは―――。
「以上」
 力づよく、言い切った。
 車内には、更に重い沈黙がしばらく流れ。
「そんなの!」
 先にその沈黙に焦れたのは、僕のほうだった。
「そんなのどこでもやってるじゃないですか、今の時期! 迎え火とか送り火とか。そういうのと何か違うんですか?」
 嫌な予感がする。もしやよもやひょっとして、これは体よく騙されたことにはならないだろうか。そう言えば向こうからこの祭りについて話を振ってくることはなかった。
 ますます詐称の疑惑が濃厚だ。
「いや、火を焚くのは村の中央の広場だそうだけど」
 僕の、まるで噛みつかんばかりの勢いに、少しだけ体をドアのほうに退避させて、吾妻さんが言葉を継いだ。
「一軒ごと、家の中のものを一品持ち寄るそうだよ」
「え」
 予想外の展開に、僕は拍子抜けする。助手席で浮かせかけた腰を落ち着けた。
 なんだ、話に続きがあったんじゃないですか。
「燃やすんですか?」
「らしいね」
 なんで?
 さァ。
「それを探るために、ここまで来たんじゃないの」
 ねぇ、と促されたら、もうそれ以上は追及できなかった。
 アシスタントは、静かに成り行きを見守ることに、決めた。



1.

「こんな遠いところまでわざわざようこそ」
 高台から車で更に一時間ほど。盆地へ下ったところに集落はあった。
 村の中央を走る一本の道を南に突き当たったところが、目的の遠藤家のようだった。
 威圧的な、木造の門が構えている。
 古い門に、違和感の塊のように取り付けられているインターホンを押すと、中から和服姿の女性が現れた。
 三十代も半ばほどの、うつくしい人だった。
 ただ、纏っている和服の色のせいなのか、雰囲気は暗い。
 この村のようだ。
 喪服の色。
 黒だったのだ。
 服と同じ色の髪を後ろで綺麗に結い上げている。
 着物が黒であるためか、袖や襟から覗く腕や首筋は、青白い。
 口元に引かれた紅だけが、やたらと赤かった。
「遠藤晃子さん、ですか?」
 吾妻さんが問い掛ける。
「はい、吾妻様ですね。そちらの方は……」
 どうやら、アキコさんというらしい。
 心なしか憂いを帯びているような視線をこちらに流す。
 ああ、そうだ名乗らなくては、と居ずまいを正している隙に。
「ああ、この美人は助手です。英といいます」
 先に言われてしまった。
「そうなのですか、英様。遠藤晃子と申します、このような山奥までようこそ」
 丁寧に、晃子さんは頭を下げた。
 反射的にこちらも頭を下げた。
 はじめまして、お世話になります、としか言えなかった。
 完璧に空気に飲まれていたのだ。

「本日はお疲れでしょう、むさくるしいところですが、どうぞ中へ」
 晃子さんが促す。
 むさくるしい、というのは謙遜に違いなかった。
 開かれた門の向こう側に見える屋敷は、古いながらよく手入れが行き届いていると思われる、巨大な日本屋敷だったのだから。


            *


 足元の床が、年代もの特有の軋みを立てる。
「そう言えばここに来る途中にね」
 思ったとおり、広い屋敷の中を晃子さんに導かれて歩いているところで。
 吾妻さんが切り出した。
「中央の広い道を通ってきたんですけど、ここの真向かい、というのも変なんですが、北の突き当たりの家も、随分大きかったですね」
 肩越しに、晃子さんがこちらを振り返る。
「ああ、それは巌の家ですわ」
「イワオ」
「ええ、寒立には、四つの大きな家があります。それぞれ東西南北に位置しておりますの。村を突っ切る十字の広いとおりの突き当たりにひとつずつ、館が御座いましてね」
「へぇ。じゃあ、ここもそのひとつなんですね」
「ええ、お恥ずかしながら。北が巌、南が遠藤、東が皆上、西が風祭と申しまして」
「それは面白いですね、その配置に何か謂れとか、あるんですかね?」
「さぁ、詳しいことはわたくしにも。生まれたときからずっとここで育っておりますので、あまり不思議に思ったこともありませんの」
 吾妻さんの、更に少し後ろを歩きながら、ふたりの会話を耳に注ぎ込む。
 確かに、外からきた人間にしてみれば、不思議だった。
「巌の家の門に黒い幕が下がっていたのを見たんですけど、あれってなにか特別なことなんですかね? こちらにはないみたいですけど」、
 すると、晃子さんは少しだけ足取りをよどませて、せつなそうに眉根を寄せた。
「あの黒い幕は喪に服しているしるしなのです。巌では先だって不幸がございまして」
「ああ、それは。軽軽しく変なことを訊いてしまって申し訳ない」
「いいえ、お気になさらずに」
 口元をほころばせて、晃子さんは笑った。

「こちらの離れは、好きにお使い頂いて結構です」
 母屋の端、屋根付の渡り廊下まで導いたところで、晃子さんがこちらに向き直った。
「祭りまでまだ少しばかり時間もございます。何もない村ではありますが、ごゆるりとお過ごしください。お食事はこちらに後からお持ちいたしますから」
 どうもすいません、何から何まで、と吾妻さんが頭を下げた。
 僕もつられるようにして頭を下げる。
 母屋のほうへ引き返してゆく黒い背を見送る。違和感だけ、残った。
 妙だ。
「あの、吾妻さん」
 離れへ続く渡り廊下を歩きながら、作家を呼び止めた。
「ん?」
 やる気がなさげな雰囲気で、吾妻さんがこちらに顔を向ける。
「遠藤さんのお宅って、別に人を泊める職業をしてるわけじゃないんですよね?」
「ああ、そのはずだけど」
「サービス良すぎませんか」
 異人の祭りについて調べたいから取材をさせてくれと、頼み込んだのは吾妻さんのほうだったはずだ。
 当初の予定ならば、山の麓に宿をとるはずだったのだが、祭りは夜に行われる特性上、祭りが終わってから宿に戻るのは不便でしょうと、遠藤さんが宿泊場所を提供してくれたのだと聞く。
 つまりは、僕たちは遠藤家の客でも何でもない、ただ転がり込んできた東京の怪しい作家とその助手なのであって。
 泊まる場所を提供してもらっただけでもありがたいのだ。それ以上もてなす義理は、遠藤家にはないだろうに。
 このもてなしは過度に思えた。
 それともこの地方では、このぐらいのもてなしは日常茶飯事に行われていることなのだろうか?
「ああー、そう言われてみれば、そうかもねぇ」
 初めて思い当たった、という様子で、作家は顎に片手を当てると中空を見上げた。
 この人は基本的に、雑事をあまり気にしない人だったのだと、思い当たって脱力した。
「まぁ、いかにもな村じゃないか」
 不敵に、吾妻さんが笑った。
 “いかにも”?
 含みのある笑いに、嫌な予感がざっと肌を撫でた。
「なんだ要くん、そんな怖い顔をして」
「まだ隠してることありますよね」
「全部話したと思うけど、祭りのことと、行方不明者のこととか……」
「後のほう聞いてませんけど」
「ま、まァそれはここで立ち話もなんだし、せっかく用意してもらった部屋でゆっくり」
 ぷつりと、吾妻さんはそこで言葉を切った。
 肩越しに、僕の向こう側、母屋のほうを見て黙った。
 思わず、後方を振り返る。
 白と黒のコントラストが、まず視界に飛び込んでくる。
 母屋と渡廊下の境界あたりに、白の着物を纏った少女がひとり、立っていた。
 子どもながらに整った顔立ちに、温度が感じられない。爛と、強い瞳がこちらを見ていた。
「遠藤さん家の子?」
 外交用の笑みを浮かべて、吾妻さんが声をかけた。
 答えはない。
 眼力の強い瞳は、まばたきも殆どせずに、まるで睨み据えるようにこちらを見ている。
 こめられているのは、敵意ではないのか。
 つめたかった。
 視線を交わしたままで、動けなくなってしまった。
 強い視線を外さないままで、日本人形のような少女が、口を開いた。
「轟と唸るは紅蓮の猛火
 大地震わせ闇夜を焦がす
 近寄る勿れ
 近寄る勿れ
 其は地獄の入り口也
 汝近付かんとすれば
 猛火 大蛇の如くに忽ちと
 御霊までもを滅却せん」

「……なに?」
 怪訝に眉をひそめて、吾妻さんが訊きかえす。
 少女の口から零れ落ちた言葉を飲み込みきれずに、反芻してみる、が。
 わからない。
「まつりの前に、早くでていけ」
 あどけない声に不似合いなほどの強い声できっぱりと、告げて。
 少女は踵を返した。
 あっという間に、見えなくなってしまった。
 渡り廊下にふたり取り残され、どちらともなしに顔を見合わせた。

「近寄る勿れ―――か」


            *


「とりあえず、先程のことは少し置いておくことにしよう」
 通された部屋に腰を据えてから、早速煙草を取り出して、吾妻さんが言った。
「行方不明って一体何のことなんですか」
 煙草の先が焦げる特有の煙が目に染みる。気がつかないうちに、目を細めてしまっている。
「まぁ、ただの噂なんだけどね」
 吾妻さんは、首をぐるりと回した。骨が、耳にしていて痛々しいほど大きな音を立てて鳴る。
「夏にこの山に入った人が、何人か行方不明になっているらしいんだ」
「山に人が入って行方不明になるっていうのは、結構あることなんじゃないですか? 遭難とか」
 それがすぐにこの村と関係があると結びつけるのは、時期尚早のような気もする。
「そりゃね。俺もそこを鵜呑みにしてるわけじゃないですよ勿論ね。でも遭難だったらさ、すごく嫌な話だけどさ、死体が見つかってもいいわけじゃない? でも、ひとりも見つかってないらしいんだよね」
 それは確かにおかしい話だった。
「まぁ、だからと言ってこの村が原因だーとは俺も思い込んでないけどね。奇妙な歌とか村の慣わしとかが気になっただけで。あと季節が、夏だからねぇ」
 祭りも行方不明者も。どちらも夏限定だから。
 また新しい事柄が口から飛び出してくるから、一瞬対処が遅れた。
「え、ちょっと待ってくださいよ、歌?」
 歌って、なんですかそれ。
「あれ? 言ってなかったっけ?」
 セブンスターの先を硝子の灰皿に押し付ける。
 とても不思議そうな顔をした。
「聞いてません」
 きっぱりと答えた。
 吾妻さんはこちらから急かさないとちっとも情報をくれないのだから性質が悪いのだ。
「この村にはね、家ごとに歌が伝わっているらしいんだ。詳しいことは何も分からないんだけど」
「歌って、メロディーとかついた歌、なんですか? それとも詩みたいな……」
「詳しくは俺も分からないね。噂を聞いただけだから」
 それじゃあ、謎だらけじゃないですか。
 そうなんだよねぇ、なにも分からないんだよね。
 僕としては遠まわしに責めたつもりだったのだが、どうやらそれは作家には伝わらなかった様子だ。
 暖簾に腕押しとは、こう言うことをいうのかもしれない。
 あきれてしまった。
「大体吾妻さん、何の取材にきたんですか? 具体的にこういうものを書く、っていう構想が決まってるんですか?」
「いや、旧い因習とかいいなぁって思って」
 これだ。
 あれだよ、横溝正史だよ。
 急に喜々と瞳を輝かせて、作家が言う。こういうことに関しては本当に無邪気な子どものようだ。
 横溝正史ってねぇ。それは僕も読んだことありますけど。
 それって大体、殺人事件が起こりませんか?
 現代の、今の世の中で、そこまでおどろおどろしい、いかにも王道といった殺人が起きるとは考えていない。それこそ、小説の中だけの話だろう。
 いわゆる古典的な設定というものも、僕は嫌いではないですけど。
「吾妻さんあのですね……!」
 とうとう堪忍袋の緒も切れかかって身を乗り出したとき、急に吾妻さんの視線が鋭くなった。
 しっ、と人差し指を唇の前に当てて僕を制する。
 勢いを削がれて、黙った。
 しばらく、間を置いてから。
「失礼します」
 僕の後ろ側の障子が、音も立てずに開いた。
 穏やかな笑顔で、晃子さんがそこにいた。
「お食事の準備ができたのでお持ちしたんですけれど。お邪魔でしたでしょうか?」
 すこし困ったような顔をして、晃子さんがこちらを伺う顔をする。
「いいえ、とんでもない。至れり尽せりで申し訳ないです」
 吾妻さんがすがすがしい笑顔で言った。
 この人は、営業用の顔が即座に作れるから、大人だと思う。
 よかったですわ、と晃子さんが安堵の顔を作った。
「こちらに運びますわね」
 折りたたんだ膝を伸ばすようにして、晃子さんが立ち上がった。

 いつからそこにいたのだろう。

 足音は聞こえなかったけれど。





続く

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