十八話 起源



1.

 聞き間違いで、あればよかった。
「な、んだって?」
 聞き間違いであれば、よかった。
 聞き返したのは、期待であり願望であり、祈りだ。
 否定が返ってくればいい。

―――榊を喰う、と。
 そう言ったのか。

「櫛引から連絡があったんだ。数代前、櫛引の家に顕現があって、そのときは具現化した力を喰って、おさめたと」
「それが、確実な手段なのか」
 胸を押さえる掌が、溢れ出る血でぬめる。
 息をするだけでも痛みがはしる。
「何もかもがそれで、おさまるっていうのか!」
 文字通り血を吐くように、雅は怒鳴った。
「夢喰いは、自分の意識を喰われたら死ぬんだぞ! 自分で自分に齧り付いて、無事で済むのかよ!」
 夢喰いは、自らの意識を与えることで力を継承させる。
 “喰われたものは例外なく死に至る”。
 どういう仕組みであるかは分からない。が、夢喰いは皆、意識を喰われると死ぬのだ。
 顕現して具現化したものであるとはいえ、元々は自分の力ではないか。
 それに噛み付いて。
 無事に済むのか。
「確証はないよ」
 雅を振り返った顔をふたたび前にもどして、一馬は答えた。
「正しいかどうかはわからない」
「だったら!」
「決めたんだ」
 噛み付く言葉を、きっぱりと撥ね退けた。
「ごめん」
 更に追い縋る前に詫びられてしまえば、何も言えなくなってしまうというのに。
 卑怯者。
 血が滲むほどに、雅は唇を噛んだ。
「俺のものなんだよ、俺の問題だ」
 銀の内紛にも、京都の猟奇殺人にも絡まない。
 ただひとつ、独立して在るのだ。
「おまえたちが傷を作って血を流しているのに庇われて、囲われているなんて」
 嵐が過ぎるのを、耳を塞いで待っているだなんて。
「不公平だ。そんな卑怯な真似、させないでくれ」
 だけどおまえそれは。
 引き止める文句が咽喉元にまで出かかって、結局言葉にはならなかった。
 自暴自棄になって特攻をかけるつもりなら、どんなことをしてでも止めただろう。
 けれどもそこに、狂気はなかった。
 昔、目を離せば血を流していた頃、彼のまわりには常にひそやかな狂気が寄り添っていた。
 ときが経ち、闇の中から解放されても、狂気の気配ばかりは見えぬ膜のように彼の周囲を覆っていた。
 現世と隔絶するかのように。
 そこに在るのに、触れられぬ。まぼろしのように。
 けれど今、視界はクリアだった。
 存在を信じられる。
 その事実が、引き止める言葉を封じ込めた。
 頭に上っていた血が、すうっと下がっていく。そうして、今更のように雅は、左肩に触れている手が震えていることに気がついた。
「おまえ、いいのか」
 コートも着ずに飛び出してきた妹分は、かわいそうなほどに華奢な肩をいてつく風にさらしていた。
 傷口もなまなましい左肩を、支えるように触れる指先は、青ざめている。
「止められないよ」
 悲壮な決意まで、見せられたら。
「だけど、あたしも逃げない」
 じっと、魔性の化身に歩み寄る背中を、姫架は見据えていた。
 目は逸らさない。
 腕を振り払ったあの日のように、もう逃げたりしないのだと決めた。
 彼女もまた胸の内に、決意を飼っていた。
 姫架はもう決めていた。見守るんだと。
「勝手にしろ!」
 白旗を揚げる心地で、雅は怒鳴った。
 怒声を背で受け止めて、一馬は苦笑しようと、した。
 が、それよりも早く、進路に立ちはだかる人影に気がつく。
 色素の薄い髪が、さらさらと揺れた。
 殴られでもしたものか、口元を切っている。
 見ているこちらが痛いほどの、痣になっている。
 コートを羽織っていないうすい肩。
 すべて、少し前までならば痛々しくて見ていられなかっただろう。
 少年特有の喧嘩や争いごとなど、無縁だったのだ。
 傷や血など、禁忌に思われた。決して傷つけてはならないものだと思っていた。
 庇護をされるべきものだと、無意識に思っていたのかもしれない。
 それなのに。こんなにも傷ついているのに。
 真っ直ぐに一馬を射る目は、もろさや頼りなさなど、微塵も感じさせない。
 目を逸らせなかった。
「約束、してよ」
 言葉を白い霧に変えながら、要はゆっくりと刻みつけるように、言った。
「これからは僕たちに、色んなことを隠さないで、言うって」
 猫を思わせる大きな瞳が、きらきらと輝いて見えた。
 うっすらと、涙が膜を張っている。
「絶対に……」
 血の滲む口元をゆがめて、一度そこで言葉を切った。視線を地面に逃がし、唇を噛んで何かに耐える。
 こみ上げる熱を、押し戻そうとしていた。
 引き止めたい欲求や、無謀な行いに浴びせる罵倒や、不安や嗚咽をぐっと押さえ込んで。
 要は再び、顔をあげた。
「絶対に、帰ってくるって」
 目元につよく、力をこめていた。
 光を受けた水面の如く、瞳のおもてが光る。
 噛み締める唇が震えている。それ以上は一言も、言えそうになかった。
 これ以上口にしたら。
 途中から泣き出してしまいそうだった。
 じわりと熱を孕む目元が今は、忌々しい。
 泣くものか。
 頭を撫でて欲しいわけではない。
 あやして欲しい、わけではない。
 帰って来いと、言いたかった。
 おまえの、味方だ。

 一馬は少しだけ驚いた。
 こんなふうに彼が、とん、と背中を押してくれると思わなかった。
 突き放されたわけではない。
 考えなくてもわかる。
 送り出されている。

 かがやく瞳を見つめ返して、一馬は止めていた足を踏み出した。
 体の両脇で拳をきつく握り締めている要の傍を、通り過ぎる。
 肩に、手を置いた。
「戻ってくるよ。ここに」
 バカ、と小さな悪態が聞こえたような気がした。



2.

 隙を窺う狡猾な、ハイエナの気配に気づいたのは、一体いつのことだっただろう。
 周囲を取り巻く大人たちの、うすい笑顔の裏に。
 透けて見えた。
 やさしく手を引くみかえりに、一体何を望んでいるのか。
 世界はプラスとマイナスだけで、できていると思っていた。
 完璧な善意など、どこを探しても見つからないのだと。
 情けは人のためならずと言うけれど、結局はだれも、自分のためにしか生きていない。
 やさしくするのも、やさしくされたいからで。
 しあわせにするのも、しあわせにされたいからで。
 想いが連なれば愛になり、減りつづければ憎しみに変わる。
 きれいに割り切れる。
 単純明快な、面白みのない”しくみ”を、さも複雑怪奇であるかのように取り繕って笑顔でかくす。
 本質は、きっと簡単な式なのだろう。
 上辺を塗り固めて、分かりやすい数式が見えないように繕うだなんて、滑稽だと思っていた。
 解をさぐって仕掛ければ、望みどおりの結果が返ってくるのだから、世界というやつは、滑稽でつまらない。
 どれほどの情熱を傾けて、なにかをひたむきに愛しても。
 いずれ枯れてゆくさだめだ。
 誰かを自分よりも上位に置いて慈しむことも。
 夢にすべてを賭して狂うことも。
 だからたとえば、大学の先輩が文学に魂を盗まれていても。
 たとえば、幼馴染がカメラを慈しんでも。
 熱は、伝播してはこなかった。
 本質を識っていたからだ。
 結局は単純な方程式。足し引きで出来ている。
 所詮は動物だからね。
 真理のもとに動いている。
 感情の振れ幅、それさえも、体の内側で起きている何らかの反応の発露だろう。


 けれど、本質だけが、すべてなのか。


 今更そんなことを、思った。
 たとえ根底に流れるものが、動物的な本能に違いないのだとしても。
 すべて割り切れる方程式で出来ているのだとしても。
 一瞬、瞬間、その刹那。
 胸を過ぎるものが錯覚だと、どうして思っていたのだろう。
 たとえば何かを愛おしく思うのも。
 別れを痛みとして感じるのも。
 自分にプラスになるものだから慈しむのか。自分にマイナスになるから哀しむのか。
 遺伝子がめまぐるしく計算していたとしても。
 一瞬、瞬間、その刹那。
 何かを掴もうと手を伸ばすそのときに、数式がちらついたりするだろうか。
 めぐりめぐって、すべてが自分のためだとしても。
 差し伸べる手に、決して嘘はない。
 今更そんなことに、気づいた。

 もっともっと、割り切れない、目に見えない何かを、信じていれば。
 たくさんのものを愛することが出来ただろうか。

―――今、あなたの傍に誰かがいるのは、あなたがばけものだからですか。

 大元まで辿れば、”そう”なのだろう。
 銀とのつながりも、要とのつながりも。
 成瀬の家に生まれたという因縁も。
 夢喰いという力が呼んだものかもしれない。
 けれども皆が皆、一言ひとこと言葉を交わすそのときまで、この力のことを”計算して”言葉を選んでいるだなんて、あり得ないことだ。
 四六時中、哀れな獣を憐れんで、自分の立場を選んでいるなんて。
 どうして思っていたのだろう。

 絡まるたくさんの糸を手繰って、起源にたどり着いたときに、簡単な数式しか残っていなくても。
 絡まるたくさんの糸が布を織ることがあるように、決してすべては、容易くはない。
 答えだけを、明快さだけを求めすぎていた。
 きっぱりと割り切れることだけが、正しい答えだと思っていたんだ。
 なんて狭量で、なんて傲慢な。
 自分を庇いすぎた。
 悲劇に酔っていたのか。


 この力が、自分と世界とをつないでいる。
 それは真理だろう。
 しかし、”それだけ”ではない。
 英要という少年と暮らすようになったのは、彼の特異な環境のせいだった。
 けれど、今も尚一緒にいるのは、その環境のせい”だけ”ではない。
 おんなじように、他のひととつないだ手も、たったひとつの理由(わけ)ではない。

 もっと、目に見えぬたくさんの糸を、信じることができていれば。
 世界は白黒でも、闇でもなかった、だろうか。
 そんなことを思った。
 今更。


「わたしを喰うか」
 孔雀が己のうつくしさを誇示するかのように、その漆黒の翼を広げて、榊は問うた。
「わたしを喰らってそれで、すべてが元に戻るとでも思っているのか」
 凹凸も何もない、なめらかな地平に戻れるとでも、思っているのか。
 紅の双眸はまばたかない。ただ矢のように、対峙する相手を射るばかり。

―――忘れないで下さいね。顕現の声は、あなたの声なのだから。
 ふたつに分かたれても、源は同じだ。
 おのれの、膨張して溢れ出た迷いだ。
「わたしは知っているよ、おまえがどれほど、溶け合おうとしたのかを」
 どれほど怠惰と謗られても、まわりと同じもので在りたかった。
「それでも決して溶け合えぬのに、何故すがり付いて馴れ合おうとする」
 足掻いたところで、この体に流れる血のすべて、最後の一滴までも絞り取らねば、生まれ変わることなど出来ないことも、知っていた。

 縋りついていたいけれど。
 何もかもを終わらせたいと願ったことも、嘘ではない。
 “ここ”に留まりたいけれど。
 手を伸ばせば届く終焉に焦がれているのもまた、自分だ。
 光と影、陽と陰、プラスとマイナスを。
 両腕に、かかえきれぬほど、持っている。

 紅玉の輝きをもつ双眼を、榊はゆっくりと細めた。
 濡れ羽色の双翼が一度、風を孕んで羽ばたく。
 びょうと耳元で風が鳴いた。
 何かがはじける音とともに、体の彼方此方がかっと熱くなるのを感じた。
 左の頬と、右の腕と、両の脚に。
 熱に遅れて、じくじくとした痛みが現れた。
 するどい風圧が切って過ぎた傷口から、赤い雫が重力に引かれて落ちる。
 顎の先まで、なまあたたかい流れが伝ってきた。
「もう仕舞いにしないか」
 慈愛にも似た声で、化生が言った。
 顎から滴る不快なぬるさを拭いもせずに一馬は、藍の瞳で榊を見て。
「そう、だな」
 頷いた。
 かすかに、笑う。
「もう、やめる」
 宣言に、榊の口元があまやかな笑みを含む。
「おいで」
 愛し子を招くように、両のかいなを開いた。
 凍えるアスファルトを踏んで、一馬は魔性の懐へ歩み寄る。
 大きく開いていた翼が、頭上に天蓋をつくるように体の周囲を覆う。
 妙な安堵に、一馬は自嘲した。
 こうして何度、逃れてきたことか。
「もう、やめるよ」
 手を伸ばせば触れられる距離で、もう一度言った。
「自分の醜さを、おまえの所為にするのは、もうやめる」

 冷酷さも。
 傲慢さも。
 我侭さも。

 何も魔性の血が流れているからではなかった。
 生まれたときから備わっていて、自分で育てた。
 ひとの顔色を窺う術も、要らぬものをばっさりと切り捨てる残虐性も、世界を白と黒で染めてしまったのも。
 愛することを畏れるのも。
 何もかもを血の内に飼った魔物の所為にして、逃れた。
 逃避するには、絶好の場所だった。
 醜いのはすべて、自分の中の魔性だと。
 まものが棲んでいるからと、自らの周りに見えぬ線を引いた。

 本当はただ、己の醜さを、看破されたくなかっただけ。
 内側に踏み込まれたあとで、失望して、踵を返されたくなかった。


 秀麗なつくりの顔を訝しげに翳らせて、榊は藍の瞳を見つめ返した。
「身喰いだぞ、分かっているのか」
 親切な忠告のように、静かに言った。
「生き残れると、思っているのか」
 無事に済むと、どうして信じていられる。
 魔性の声はまるで労わるようだった。
 気づけば、笑ってしまっていた。
 どれだけ用意周到に、逃げ道を用意しようとするんだ。
 こうやっていつも、誤魔化す手段(すべ)を手に入れてきた。
 けれどもう、やめる。
「たとえ一か八かの賭けだとしても」
 ゆっくりと、右腕を持ち上げる。
 中央に、今は塞がった傷痕の残る掌を、見下ろした。
 一度ゆるく握って、開く。
 魔性の掌。
 くっきりと顕現した力に向けて、伸べる。
「おまえを受け容れるわけには、いかないんだ」
 私利私欲で他を貪るように、なるわけにはいかない。
 伸べた指先が、化生の胸元に触れた。
 水面に指を差し入れるように、ずるりと内に飲まれた。
 波紋が、いとも簡単に滑り込んだ指先から外側へと広がる。
 いくつもいくつも。波打つように。
 頭上に屋根をつくる漆黒の翼。つやめく羽根の一枚一枚が、端から風に煽られるように抜けてゆく。
 やがて濡れ羽色が体の周りを、そして視界すらも埋め尽くした。


「おろかもの」

 何故か憐れむ貌(かお)で、榊がつぶやいた。


            *


 突風が吹いて、鋭い切り口を彼方此方に残していった。
 魔性と対峙する背中の、至る所から弾けるように鮮血が散ったのを、要は見た。
 反射的に脚が動いた。駆け寄ろうとして、しかし、見えぬ圧力に阻まれる。
 びょうびょうと風が渦巻いている。
 榊の、紅をひいたような唇が動いているのが見えるが、声は届かない。
 手を伸ばせば、届くような距離だというのに。
 名前を呼ぼうにも、自分の声すら耳に届かない。
 やがて、うつくしい漆黒の翼が、ぐるりとふたつの姿を包み込んだ。
 外部から隔絶するように。
 数瞬を、置いて。
 見事な翼を、端から見えぬ手が毟り取るように、羽根がはなれ。
 刹那、破裂する勢いで一斉に―――散った。
 豪、と騒ぐ風が正面から吹き付けて、視界すべてが羽根で覆われる。
 要は思わず、腕で顔を庇った。



3.

 見抜かれたかった。
 隠し通したかった。

 二律背反をずっと、飼っていた。

 褒めないで欲しかった。
 嫌わないで欲しかった。

 我侭な願いを持っていた。

 生まれた家のことや、成績のことや容量のよさを人々はこぞって褒めそやしたけれど。
 そのたびに、周りとの溝は広く、口を開けた。
 皮を一枚剥げばどれほど醜い底なしの沼が広がっているのか、誰も知らないのだ。
 何を注いでも、満たされぬクラインの壺。
 純粋に何かに、心を賭けたことなど、一度でもあっただろうか。
 ぱっくりと、空いたままの穴がある。
 何を放り込んでも、ぴったりと嵌まらない。
 欠けている。
 何も見えていないくせに。
 だれかの、気狂いになるほどの情熱を、盲目になるほどの愛情を。
 羨んだこともある。
 何も追いかけられない、愛せないのは。
 一体どこが壊れているのか。

 なのに人は、どこを見て、万能と言うのだ。

 時折、とても残虐な気分になった。
 胸のうちに溜まった澱を、闇を、簡単に他者を蔑み上辺だけの嘘をつき、自分の周りから笑顔で遠ざける狭量さと薄情さを。
 あますところなく曝して、見せてやりたかった。
 けれども一度パンドラの匣を開いたら、ありとあらゆる厄災が溢れ出して世界を覆ってしまう気がした。
 誰からも赦されず、遠ざけられ、置き去りにされるような。
 だから、見抜かれたいけれど、隠しとおしたくて。
 褒められたくもないけれど、嫌われたくなかった。

 だったら、どうされたかったというのだろう。
 あの煩悶は一体、なんと言う名前だったのだろう。
 劣等感、だっただろうか。
 そこに丁度よく、人喰いの業が足されて、だから。
 すべてその所為にした。
 底なしの沼ははじめから、誤魔化しようもなく在ったのに。
 たったひとつの呪いの所為に。
 幼い頃から何も、変わってはいないじゃないか。


            *


―――おろかもの、と。
 榊が罵った。
 なんだか、安堵にも似た心地になった。
 罵られたのに。

 山伏装束の胸に埋めこんだ右手が、先から悴んでゆく。
 氷水にひたしつづけているようだ。
 感覚が失われる。
 世界が羽根で埋まる。
 風に流れる銀糸も、装束の白も、鮮やかな紅の瞳も。
 掻き消える。
 指先から砂になって、灰になって、風に奪われるようだ。
 右腕を這い上がって、全身にいたる寒さの次にあるのは、無。

―――すべて消えてなくなるかもしれない。

 最早世界は闇色に沈んで、伸ばした腕の、先も見えない。
 そんなものもう、どこにもないのかもしれなかった。
 満たされてゆくのか、それとも失われてゆくのか。
 プラスなのかマイナスなのか。
 それすら分からない。
 ただぬばたまの闇がそこにあり、吹き荒ぶ風に煽られる。

 渦巻く風に散り散りに奪われてゆく意識の中で、意外とあっけなく、気がついた。
 見抜かれたくて、それでも隠しとおしたくて。
 褒められたくなくて、それでも厭われたくなかった頃に。
 本当は。

 もうずっと、罵られたかった。

 仕様がないと。
 苦笑をして。
 どうしようもない負の部分を跳ね返すことなく。
 無条件に受け容れるわけでもなく。

 ただ、”しょうがない”と。
 軽口で馬鹿にして、叱って。
 赦して―――欲しかった。


―――なんのためにおまえは”俺”を、殺そうとするんだ。
 おさない頃の自分の問いかけがふと、風に運ばれてきた。
 深い眠りの中で問い掛けられた言葉だった。
 あの時は、何も答えられなかったけれども。今は、分かる。
 とても、呆気なく単純で簡単なことだ。
 器用さやしたたかさや狡猾さを捨てて、どうして、鈍いふりをする?
 元々備わっていて、そこから育てあげたものを、ばっさりと切り捨てようとしたのか。


「なりたかった、からだよ」

 もっと寛容で、もっと従順で、もっと温和で。
 もっとやさしいものに。
 なりたかった。

 もっと多くのものを赦し、もっと多くのものを受け容れ、もっと。
 たくさんのものを慈しんで愛せるものに。

 怠惰で鈍感で締まりがないと指をさされても。
 はじめはそれが上辺だけの演技でも、いつか全身に染みとおるかと思っていた。
 すみずみまでゆき渡って。
 いずれ本当になればいい。
 たとえそれが、元を辿って根幹まで行き着けば“フリ”に過ぎないとしても。
 演じていることすら気づかなくなれば、それは本物じゃないんだろうか。

 もう、いらないんだよ。
 誰もが褒めそやした富や名声や特性なんか。
 もう、誰を退けたり誰を厭ったり誰を見下したりする必要はないんだ。
 だからもう、そんなもの。

 必要ないんだ。



4.

 風が―――止んだ。
 要は、顔を庇った腕を、そっと降ろす。
 世界を覆い尽くしたと思った漆黒の羽根は、ひとひらすら見えない。
 外気は冷たいけれど、先程とは何かが絶対的に違っていた。
 人の住む世界の空気だった。

 真正面に、背中が見えた。
 見慣れた姿がいつものまま、立っていた。
 息苦しさに気がついて、要はゆっくりと、詰めた息を吐き出した。
 いつのまにか呼吸を止めてしまっていたらしい。
 それが一瞬のことなのか数分のことなのか数時間のことなのかはわからない。
 どうでもよかった。
 そんなことどうでもよかった。
「カズ―――」
 深く息を吸い込んで、いつものように名前を呼ぼうとして。
 できなかった。

 しっかりと立っていると思っていた背中が急に傾いで、そのまま前のめりに、膝から崩れた。

 たくさんの声が一斉に、ひとつの名前を叫んだ。
 要は凍りついた。
 急に世界が、色を失ったように見えた。
 咄嗟に防衛本能がストッパーをかけたのだと、酷く第三者的な自分が説明をつけくわえた。
 一番はじめに駆け寄ったのは姫架だった。
 ざわざわと、多くの気配が動くなかで、要は指先一本も動かせなかった。
 目の表が渇いてちりちりと痛み出す。ようやくまばたきをした。
 たくさんの人が喋っているはずなのに、声が聞こえない。

 ちょっと、待ってくれ。
 なんだこれは。
 姫架さんはどうして泣いてるんだろう。
 どうしてあいつは倒れてるんだろう。
 すこしも動かないんだろう。
 ちょっと待て、考えろ。
 たったさっき、言ったじゃないか。
 無事に、あのままで。

 戻って、くると。


 ぎくしゃくと、一歩踏み出した。
 脚の感覚がない。
 何も分からない。
 分かりたくない。
 駆け寄りたいのに、逃げ出したかった。
 ゆるゆると近づいた。
 うつぶせだった体を返して、アスファルトに座り込んだ姫架が上体を抱きかかえていた。
 頬と首のあたりに、かまいたちが切って過ぎた傷口が見える。
 まだ血を流している。
 ぱきりと膝を折って、傍らに座り込んだ。
 手を伸ばして、頬に触れた。

「……待、って、よ」
 思わず零した声が、がくがくと震えている。

 つめたかった。








【続く】




最終話


夢喰い

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