最終話 その先にあるもの
1.
風は、随分と春めいてきた。
白い花がみずみずしい風にさやさやと揺れた。
ゆっくりと手を合わせ、目を瞑る。
線香の香りは、なんだかくすぐったい。
―――明日、だよ。
要はゆっくりと瞳を開いた。
ゆるやかな煙を上げる線香と、白い花の向こう側に、灰色の墓石が見えた。
英家ノ墓。
「高校ももう卒業か、早いな」
連れ立ってやってきた父親が、どこか遠い目をして墓石を眺め、つぶやいた。
一緒に母親の墓参りにきたのは、初めてだった。
「ほんとだね」
素直に要はうなずいた。
早いものだ。
狭い箱庭で暮らしていた頃は、まるで昨日のことのようなのに。
気づけばもう、五年が過ぎている。
「引越しの準備はどうだ」
「もうすこし」
腰をあげる父親に倣って、要も立ち上がった。
「しっかりものにしては、随分とゆっくりだな」
なんだかすこしからかうような口ぶりだった。
くすぐったくなって、要はちいさく笑う。こんなやりとりも、少し前までは考えられなかった。
「思ったよりたくさんものがあって―――」
そして、片付けるのがなんだか寂しくて、とはいえなかった。
これから新しい生活が始まるというのに、後ろばかり振り返っているわけにもいかないじゃないか。
けれども、五年は決して短くはなくて。
片付けるたびに自分の足跡を発見する。
たくさんのことがあって。
たくさんのものを知った。
痛みも苦しみも哀しみも。
それと同じぐらいの、喜びと楽しさも、だ。
遠くへ行くわけじゃない。
大学は修恵学園の大学部だ。通う場所は変わるわけではないし、一人暮らしを始めるとは言っても、別に会えなくなるわけではない。
だけど、新しい生活の前には、少しぐらい臆病にもなるだろう。
あれからもう、一ヶ月近くが経過しているのだとは、とても信じられない。
嵐のように日々は過ぎ、様々なものが未だ、消化不良のまま残っている。
京都から戻ってきて顔を合わせた勝利といえば、要と都佳沙が揃って痛々しい怪我を負っていることに口をあんぐりと開いて驚き、なんてやんちゃな、とつぶやいた。
都佳沙は高校を卒業してから一年、銀の嫡子として山に篭るのだと言っていたか。
卒業式の余韻もなく、次の日にはもう発つらしい。
きっかり一年だからね、早く戻ってきたいし、と涼しい顔で言っていた。
盲腸だと偽って仕事場を出てきたはずのカメラマンといえば、勿論あれだけの怪我でただで済むわけもなく、しばらく絶対安静を申し付けられて、今は実家にいるらしい。
まだ会ったことのない雅の実母は大層厳しいひとらしく、無茶を散々絞られたようで、都佳沙は「自業自得だよね」と苦笑していた。
京都を発ってしばらくしてから、紅子から手紙が届いた。
銀の内部のことに巻き込んでしまったことを丁寧に詫びて、茜がさびしがっているから、またいつでも京都に遊びにくればいい、と綴られていた。
その茜からは、また別口で連絡があり、事後処理か何かは分からないが、近頃紅子が宗家―――おそらくは犬猿の仲であるはずの雅と―――連絡を取っているのが気に入らない、と書かれていた。
京都の連続殺人事件は結局犯人は捕まらないままで、悠嵩の処遇も伝わってはこなかった。
すべて片付いたようで、すっきりしたようで、昇華できていないものも、たしかに、ある。
「これからどうする」
墓地を出たところで、父が訊いた。
そろそろ午後から夕方に差し掛かる頃合。
明日は卒業式といっても、直帰するには早すぎる。
普段ならこのままどこかに食事にでも行って別れるところなのだけれど。
「ごめん、ちょっとひとと待ち合わせ」
申し訳なさそうに要が告げるのに、英秀一郎は笑った。
「送っていこう。どうせ、病院だろう」
看破されて、なんだか要は気恥ずかしくなって、無言で応えた。
2.
そろっと、スライド式の扉を開いて、姫架は病室の中を窺った。
扉と真正面にある大きな窓はあけられていて、微風に白いカーテンがふわふわと揺れている。
今度はひょこっと顔を突っ込んだ。
個室だ。
ベッドを窺って、ほっと安堵してから猫のようにするりと、音を立てないように病室に滑り込んだ。
患者はどうやら眠っているらしい。
引っ張り出したパイプ椅子が一度大きな音を立てて、姫架は反射的にすくみ上がる。が、目覚めた気配はなかった。
ベッドの傍らに椅子を設置して、座る。
寝ているところに行き当たるなんて、ラッキーだな、と思う。
あんまり無防備なところを見せないひとだから。
要との待ち合わせよりも随分早く来て、良かった。
待ち合わせなんて、別にどこでもいいはずなのに。最近はここで顔を合わせることが多い。
見舞い、と言ってここを訪れるのもなんだか気恥ずかしいとか、そんな理由なのかもしれない。いいわけだ。
一ヶ月前、冬の京都で。
本当に彼は、死にかけていた、のだ。
実際少しの間、心臓も止まっていた。
一週間、目覚めなかった。
(生きた心地がしないって、きっとああいうことを言うんだ)
建設的なことなど、何も考えられなかった。
すこしも考えがまとまらないだなんて、初めて経験した。
地獄のような一週間だった。
けれども、過ぎたことはもういいと思う。
満身創痍の類縁は、「おまえは心が広すぎる」と渋い顔をしていたけれど、実際そう感じるのだから、仕方がない。
風があたたかい。
もうすぐそこに、春がきている。
様々なことがもう一度、仕切りなおしになる季節だから。
かなしかったことや苦しかったことを思い出すよりも、これから先の喜びに思いを馳せるほうが、きっと楽しいんだろう。
健康的だ。
具体的に何が起こったのか、姫架には分からない。
おそらく誰にも説明は出来ないだろう。
自分の意識に噛み付くということが、顕現にとって有効な手段なのかどうかも、結局のところ分からず仕舞いだった。
けれどやっぱり、過ぎたことはもういい、と思う。
何が起こったのかは分からなくても、あの日以来、少しだけではあるけれど、常に彼を覆っていた不穏で切ない気配が薄まったことだけは分かった。
無くなったわけではないけれど。
瞭かに、何かが違っていた。
それがどうしてだか姫架にはとても嬉しくて、だから複雑怪奇で分かりづらいことは、もういいのだ。
本当の自分は、もっと強欲であるはずなのに。
姫架はいつも、不思議に思う。
もっと我侭で、もっと自分勝手で、もっと欲深いはずなのにな。
“どうにか”したいと、あんまり思わない。
今更、純粋無垢のフリをするわけじゃないのに。
もっと汚い感情もたくさん知っているはずだ。
どうしてだろうな、へんなの。
かすかに、身じろぐ気配があった。
少しだけ緊張する。
いやな気持ちではないけれど、なんだかきゅうっと締め付けられるような。
なんて声をかけようかな、と思った。
他愛のないことで迷えるのは、しあわせだと思う。
うすく、瞳が開かれた。
「おじゃましてまーす」
迷った末に、それだけ言った。
「姫、か」
まだ眠たそうな声で、苦笑する。
「あのね、要と待ち合わせなの」
ありがとう、と礼を言われるのは気恥ずかしかったから、先回りした。
「具合は?」
「最近は大分落ち着いた、かな」
意識が戻ってからもしばらくの間は、重い病を患った病人のように、体調がおちつかなかった。
病という、目に見える原因がない分、厄介で不気味だった。
やっぱり”身食い”は―――。
「無謀、だったのかな」
姫架の心の内を読んだかのように、一馬は苦笑を零す。
「だけど、あのときはどうしても、ああしたかったんだ」
しなければならなかった、のではなく。
たくさんの人に迷惑だとか心配だとかをかけておきながら、自分勝手にそう願った。
「一馬兄さんはー」
吹き込むそよ風に揺れる髪をおさえながら、他愛もない世間話のように姫架が切り出した。
「色々溜め込みすぎ。だからいざって時のワガママがおっきくなるんだよ」
限界まで、待つから。
「だからもっと、フツーのときから、少しずつワガママになればいいと思う」
一馬は思わず、目を瞠る。
我侭になれ、とは。
なかなかもらえないアドバイスだ。
思いつきもしなかった。
「それでただの自分勝手になるんだったら困るけどさ。あれでしょ、ちょっとぐらい、自分にやさしくするぐらいだったらさ。もっと色んなことが、楽になるかもしれないよ」
澱みをつくらずに。
「だってさー、たった一回のワガママとかで、そのひとのこと嫌いにならないもん」
ふと、姫架は真摯な目をした。
「あたしもいるし」
何の構えもなく、ぽろっと零れた言葉だった。
言ってから、慌てた。
「えっと、あたしだけじゃなくって要も雅兄さんもだよ」
咄嗟につけくわえてしまった。いくじなし。根性なし。
「ありがとう」
臆病な自分に嫌になるときもある。けれど。
やさしい声をかけられると嬉しくなってしまう。
現金だな。
ちょっとだけ泣きそうになって、笑ってしまった。
「あ、いた」
横滑りのドアがするりと、なめらかに開いた。
「あ、きた」
見慣れたブレザー姿を発見して、姫架が顔をあげた。
秀麗な顔立ちは今も昔も変わらないけれど、なんだか今は少年と呼ぶのも気が引ける。
離れて眺めてみると、随分と身長も伸びたような気がする。
すべりは滑らかな扉を、それでもそっと閉める。相変わらず細かいところにまで礼儀ただしい。
「修恵、あした卒業式だって? あたし行こうかな」
「……何しに?」
一気に要が身構えるので、姫架は機嫌をそこねた。
まるで人を危険物のように。
「なにその迷惑そうな顔はー! お祝いにいくんじゃないのよう! いっぱい写真撮ってきてあげるね! 要の泣き顔とか!」
「……泣かないよ」
「わかんないじゃない! 案外泣くかもしれないじゃない! あたしは泣いたもん!」
先程危険物扱いされたことがよっぽど気に食わないのか、姫架は執拗に絡む。
素直じゃないなぁ、と一馬は苦笑する。
要はただ、気恥ずかしいだけなのだ。
「それに坊にも会っておきたいしさ。明後日にはもう発つんでしょ」
都佳沙はこれから一年、ここを離れる。
「ああ、通過儀礼の時期か」
「そう。あんまり叶いじめないように言っておかなくっちゃ」
びしっと要に指をつきつけて、姫架は。
「行くからね! 待ってなさいよ!」
まるで挑戦状を叩きつけるかのように、宣告した。
「さてと、そうと決まればー」
すっくと姫架は椅子から立ち上がると、てきぱきとたたむ。
窓の外は、ゆっくりとオレンジ色に染まり始めている。
「これからね、神宮館に受かっちゃったひとにゴハンおごらなきゃならないんだ」
おかしいなぁ、賭けにはあたしが勝つはずだったのに、と不服そうに姫架はつけくわえる。
一年前の一件で知り合った神田勝利とは、それからはあまり接点がないにも関わらず、気の置けない付き合いをしているらしい。
お互いに人付き合いがマメなところや今の生活を楽しんでいるところが合うのかもしれない。
「また来るね」
華やかに微笑して、姫架は扉の方に歩き出した。
「……明日」
姫架が扉を開くのを眺めながら、要はぽつりと。
「式が終わったら、来るから。……おとなしくしててよね」
照れ隠しに、可愛くない言葉を付け加えた。
「待ってるよ」
素直な返事が返ってくるから、なんだか急に毒気が抜かれてしまった。
捻くれているこっちのほうが、子どもっぽいような。
かーなーめー、と廊下から呼び声がする。
「じゃあ、明日」
目が覚めたら力いっぱい殴ってやる、と心に誓った報復は、まだ実行に移せてはいない。
明日こそ果たしてやろう、と決めて、踵を返した。
入り口で、姫架が待っていた。
なんだか緊張した面持ちだった。
怪訝に思う要を病室から引っ張り出す。いつでも閉められるように扉に手をかけて、病室の中を見た。
ふかく、息を吸ってから。
「あたし、一馬兄さんのこと、大好きだからね!」
まるで捨て台詞のように言って、勢い良く扉を閉めた。
「……どうしたの、いきなり」
ぴしゃりと閉ざした扉に両手を突いて、過酷な肉体労働を終えたあとのような呼吸をしている姫架に、要が問い掛けた。
「あたしも、ちょっと、ワガママになろうかと思って」
うるみかけた瞳で要を見て、姫架はちょっとだけ恥ずかしそうに笑った。
押し付けたら迷惑かなあ、とか。色んなことを考えていたけれど。
自分に、素直に。
破天荒で底抜けに煩くて、トラブルメーカーになるときもあるけれど。
要はこういうときいつも、強くてみずみずしくて、可愛い人だな、と思う。
「僕も勝利も都佳沙も、応援してるからね」
一気に体中の力が抜けた顔で、姫架は笑った。
「……でももしかしたら今のでも、気づいてないかもよ、あのひと」
「問題は、そこなのよね」
深刻だわ、と唸ってから姫架はぱちんと一度両手で頬をはたく。
「よし、カンダにゴハンおごりにいこっかな!」
白い蛍光灯を跳ね返すリノリウムの床を踏みながら、颯爽とした足取りでエレベーターホールに歩き出す。
正直、カズマには勿体無いとおもうけど。
胸中でつぶやいて、要は姫君の背を追った。
明日がすぎて、春が来れば。
今までのように勝利や都佳沙と毎日のように顔を合わせることもなくなるだろう。
春がきて、家を出れば。
五年暮らした人間とも、少しばかり距離ができるかもしれない。
少し前まで、それは孤独になるようなものかと思っていたけど。
別ればっかりがあるわけではないし、会おうとすれば会える。
ひとりで無人島に行くわけではないんだ。
連絡なら、いつでも取れる。出かけていけば、いつでも会える。
不安や寂しさはいつも、簡単なことを隠してしまうものだから。
変化は時々恐怖を伴うけれど。
黙っていたって、相変わらずのように見えて、やっぱり何かは変わる。
背が伸びたり、好きなものが変わったり、嫌いなものを赦せるようになったり。
誰かをどうしようもなく、憎むこともあるかもしれない。
変わることは、不安だ。
今までどおりにいかないかもしれないもの。
けれど不変のものなんて、ないだろう。
皆、変わるもの。
今はその分かれ道が、くっきりと見える時期なのだ。春ってやつは。
自分の道だけじゃなくて、他人の道までもが、はっきりとしている時期なのだ。
わかれてゆくのが。
だから寂しくなる。
だけど、目の前にある、それぞれの道の。
その先にあるものが。
しあわせな光であればいい。
たとえ頻繁に会えなくなったとしても。
別々の道を行くとしても。
その先で、たまたま道が重なったときに、笑えたらいいな。
何か変わった自分を、誇れたらいい。
だから大切なひとが、ひとりひとり。
しあわせであることを、祈る。
つらいことや、かなしいこともあるだろう。
もう二度と会えない別れもあるかもしれない。
だけど、踏み出した一歩が道になることを、願う。
過去があって、今があって、その先が、あること。
きっと、ずっと、これからも。
“その先にあるもの”を、信じている。
やわらかな光を。
<了>