十六話 覚醒





1.

 家族の大半が家を空けているため、広すぎる屋敷はがらんと静まり返っている。
 調べ上げた電話番号を節くれだった指で押し、前当主銀斎は受話器を耳に押し当てた。
 単調な呼び出し音は、数回でぷつりと切れ、代わりに。
《山内ですけど》
 まだどこかやんちゃさを残している男の声が返ってきた。
「私は銀斎というものだが」
 しずかに斎が告げると、俄かに受話器の向こうで身構える気配がした。
《銀が、何の用だ》
 少年の声が、噛み付いてくる。
 あまりに潔癖なその態度に、斎は僅かに口元をゆるめる。
 孫と同じ年だったか、と思い出した。
「すこしばかり尋ねたいことがあるだけだ。そちらの生活を脅かすつもりはない」
《信じられるか!》
 まさに、取り付く島もない。
 吠える勢いで、少年は語尾に被せるように怒鳴り返した。
《俺たちはもう、霊媒の世界とは関係ない。そっちの勝手な都合で連絡されても困るんだよ!》
 彼は番犬だった。
 自らの領域に土足で踏み込もうとする不届きものを、牙を剥き出しにして威嚇する。
 彼には家族を守るという自負がある。ゆえに、攻撃的になるのだ。
 一年前の一件を終えて、おそらく穏やかな生活を手に入れたのだろう。
 斎からの電話はまさに、寝耳に水だったに違いない。
 だからといってこちらも素直に受話器を置くわけにはいかない。
《銀がどうなろうが、俺たちには関係な―――、んだよ大丈夫に決まってんだろ》
 受話器の向こう側で、なにやら複数の声が飛交っている。すぐさま受話器を手で塞ぎでもしたのか、雑音のような音がしばらく続き。
 そして。
《お電話代わりました。銀の、御当主殿ですね》
 透き通るような女の声が、番犬を押しのけるように、現れた。
「元、ですな。既に一線は退いておりますゆえ」
 清水のような女の声音に、斎は思わず表情を引き締める。

《先の一件では、色々とご迷惑をお掛けいたしました。山内奈津と申します。御用あらば、わたくしが承ります》



            *


 旧家のしがらみを恐れ、また我が子の力を憂い、母は家を出た。
 息子が生まれ持った力は、銀という霊媒を生業にする家にとっては、とてつもなく珍しく、重宝がられるものであったけれど。
 繊細でやさしい息子が、無情に徹してその力を扱えるかといったら、おそらく出来ないだろう。
 都合よく、九条の家には既に先妻が遺した長男がいる。
 まるで逃げるかのようにぷつりと、幼い子の手を引いて、京都を出たのだ。

 魅了の手と呼ばれる力は、文字通り妖を魅了する。
 種族の垣根を越え、簡単に打ち解けてしまえるのだ。
 悠嵩の周りには、たくさんの人ならぬものたちがいた。
 体が弱く、あまり外で遊べなかった幼少時からずっと。
 朝桐はその中でも特別古い友人だった。息子を育てるために働きに出なければならない母親の代わりに、まるで兄弟のように添うていた。
 一つ目の猫に、掌に乗るほどの少女もいた。
 妖艶な和服姿の女も。
 あまり裕福とは言えぬ暮らしでも、母が忙しく働いていても、孤独ではなかった。
 今思えば、茜に目をかけたのも、彼女がおそらく、同じ手を持っているからなのだろう。
 他人事と思えなかったというのか。
 復讐のために鬼になると決めたものを。

 質素でゆるやかで、そして穏やかな生活は、母が職場で倒れたことで一変した。
 息子を必死に育て上げようとした真面目な母は、いつのまにか、体の奥に病巣を飼ってしまっていたのだった。
 入院して、手術が必要だという医師の説明に、途方にくれた。
 日々を暮らしてゆくのが精一杯で、蓄えなどもちろん、あるはずもない。
 父のことは、何も知らされていなかった。
 幼い頃に家を出たきりで、顔も覚えていない。
 随分と大きな屋敷に住んでいたような気億だけが、おぼろげに残っているだけだ。
 母の親戚とも、連絡は途切れていた。
 家に帰るといって聞かぬ母親を病院のベッドに強引に押しとどめ、絶望を背負って狭いアパートに戻ると、しっかりと施錠したはずの玄関が開いている。
「逃げなさい!」
 呆気なく開いた扉の向こうから、金属質な女の声が投げつけられた。
 愛染、と慣れ親しんだ名を呼んだ。
 幼い頃から母代わりとして傍にいてくれた、うつくしい女だった。
 彼女は無様に床に転がっている。白い着物が今は、真っ赤に染まっていた。
「智香子が倒れたと、連絡を受けた。手術をしなければ持たぬ、と」
 床に転がった妖の体を蹴り転がして現れた男の顔を、おそらく悠嵩は一生忘れないだろう。
「久しぶりだな、といっても覚えてはおらぬか」
 うっすらと笑う顔には、支配者特有の侮蔑と優越が混ざり合った色が滲んでいる。
「おまえの父親だ」
 何かがくずれる音を聞いた。
 これが?
 こんなやくざのような男がか。
 そしてなぜ、愛染は血まみれで倒れているのか。
 眼前の事実を受け止めきれずに、悠嵩が混乱しているのを、憐れなものを見るような目で眺めた。
「使い方を教えてもおらなんだのに、しっかりと身につけているようだな。その力の使い方を」
「……ちか、ら?」
「妖をたぶらかし、思うが侭に跪かせる手を、おまえは持っているのだ」
 たぶらかす?
 先程から、言葉が上手くのみこめない。どういう意味だったか。
「おまえの周りに妖が集うのは、その力に引きずられて来ているからだ」
「引きずられ、て」
 うわごとのように、相手の言葉を繰り返すことしかできなかった。
 昔から、霊や妖がよく見えた。しかし、彼らに害を及ぼされることは全くと言っていいほどなかった。
 それも、備わった力のせいなのか。
 朝桐が、愛染が、皆がそばにいてくれるのも。
 やさしくしてくれるのも。
「ふたたび銀の名を名乗ればいい。そうすれば、智香子の面倒は京都の家で見てやれる」
「しろがね?」
「おまえの名だよ。京都に戻ってくるがいい」
「……母さんを、たすけてくれるのか」
 はるか遠くに、光が現れたような心地だった。
 自分では、母を助けられない。
 今は、どんな手にでも縋りたかった。
 幼い頃から細腕一本で育て上げてくれた母。助けられるものならば、名や住処を変えることぐらい、容易い。
「ならば、殺せ」
 悠嵩の顔に希望が浮かんだ刹那、父と名乗る男が愛染を指差して、言った。
 鼓動が、止まった。
 おぼろげに見えたはずの光が、幻と消えた。
「霊媒師が妖と馴れ合うことは許されん。共に生きることは出来ぬ。銀を名乗る条件だ。身の回りにいる妖をすべて、おまえが殺せ」
 まばたきすら忘れた目が、水分を失ってひりひりと痛みだした。
「所詮はおまえの力に惹かれてふらふらと現れたものだ。おまえを必要としているわけではない。虚像だよ」
 九条の当主は、悠嵩に向かって一振りの小刀を投げて寄越した。
 呆然と立ち尽くす悠嵩の足元に、剥き身の刃が転がる。

 母を救いたいのは本当だ。なんでもしよう。
 たとえどれほどの苦痛にも耐えよう。下種にも頭を下げよう。
 けれど。
 足元に転がった刃の輝きが、目に痛い。
 たとえ、この体に宿った力のせいだとしても、幼い頃から家族同然に慕ってきたものたちを、手に掛けられるものか!
 思えばあの時、あの男は悠嵩を完全に支配下に置こうとしたのかもしれない。
 彼にとって妖や霊は生涯、屠る獲物であり、一切の感情というものを認めてはいなかった。
 完全な、独裁者だった。
 自分に与えられる苦痛ならば、どんなものでも耐えよう。母が自分に掛けてくれた愛情を思えば、プライドなど簡単に捨てられた。
 けれど。
 弟のように慈しんでくれた、慰めてくれたものたちをどうして。

 父親の影で、ゆらりと愛染が立ち上がった。
 ふっと幻のように揺らめくと、次の瞬間悠嵩の目の前に現れている。
 床に無造作に転がった刀を、血まみれの手が拾い上げた。
 いつも以上に青ざめたうつくしい面で、寂しそうに微笑する。
 悠嵩の手を取って、小刀をしっかりと握らせた。
「母君を、かなしませちゃぁ、いけないよ」
 右手で悠嵩の手を押さえつけ、刃を向こう側に向けさせたまま。
 その先端に倒れこむように、愛染は悠嵩の体をきつく抱いた。
 ずぶりと耳を塞ぎたくなるような音のあと、手が生温かいもので濡れた。
「たとえ、あんたの力のせいだとしても、あたしはあんたが可愛かった。それは、ほんとうのことだろう」
 囁いたあと、愛染は耳元にちいさく、接吻けを落とした。
 刃を中心に、ごうと黒い炎が上がった。
 めらめら愛染の体を包み込み、溶かしてゆく。
「泣くんじゃないよ、男のくせにさ」
 蝋燭を吹き消したように、艶然と微笑する美女はぷつりと消えた。
 いつのまにか涙の辿っていた頬をなでた指先の感触は、なまなましく残っているのに。
 もうどこにもいなかった。
 ふと夜中に目が覚めて、母親がいない心細さに泣き出す子どもを、抱き寄せてくれた腕はもう、どこにもない。
 栓を閉め忘れた蛇口のように、涙が頬を伝っては落ちる。握り締めた小刀だけが、小刻みに震えていた。
 なめらかな感触を脚に感じてぎこちなく視線を降ろすと、艶やかな毛並みの猫が足元に擦り寄っていた。
 出てくるな、と叫びたいのに声にならない。
 緋色の毛並みを持つ一つ目の猫は、じゃれつくように何度も足に背をなすりつける。

 それからあとのことは、あまりよく覚えていない。
 気がつけば狭いアパートの部屋に、斜めに夕陽がさしこみ、人間以外に立っているものは、なにもなかった。
 悠嵩の代わりに母の様子を見守ってくれていた朝桐ばかりが、虐殺から逃れた。
 満足そうな父親の顔を、脳裏に焼き付ける。忘れぬように。
 差し出された小刀を、悠嵩は返さなかった。
 母が快癒したあと、真っ先にこの刀で、あの男を殺してやる。
 幾度も、幾度も。許しを乞うても刺し貫いてやる。
 しかし、母は助からなかった。
 発見がおそすぎた。
 守りたいと思ったものは何ひとつ、この手には残らなかったのだ。

 ひとと妖とは決して、共には生きられぬ。
 特に、銀という霊媒の頂点に立つ人間ならば、それは遵守されなければならぬこと。
 種別を越えての馴れ合いなど、認められない。禁忌である。
 刷り込むように言われつづけ、悠嵩は次第に貝のように口をとざした。
 幻をつかう朝桐だけは、常に姿を変え共に添ってくれてはいても。
 失ったものが多すぎた。
 いつ、父親を殺してやろうか。
 そんな算段ばかりをするころ、風の噂に聞いた。
 夢喰いという名を。

 それは宗家と契約を交わす、半妖の名だ。
 使い魔という分類ではない。完全な主従ではない。
 何故だ?
 疑問が。
 生まれた。
 なぜそのようなことが許されているのか。
 握った刀の重みと、手を濡らした生温かさ。
 抱き寄せる腕の温かさを思い出し、疑問はすこしずつ、憤りへ変化してゆく。
 決して許されぬと、阻まれて。
 この手で殺せとまで指図された。だのに。
 宗家ばかりがなぜ、許されるのか。

 疑問と格闘しているうちに、父は勝手に肥え太り、病で死んだ。
 その頃にはもう、父などという”小物”には構っていられなくなった。
 この手に宿った力と、それを生み出した血と。理不尽な血の起源―――宗家。
 銀という名。
 何もかもを食い千切って、血の海を見せてやる。
 どれほど時間がかかっても、失うものなどもう何もない。

 かならず、滅ぼしてやる。


            *


「なに……」
 由紀子に抱き寄せられたまま、茜は喘ぐように零した。
 先程、唐突に目の前で三人の姿がどこかに消えた。
 それから数十分としないうちだ。渇いた破裂音と共に、壁の一部がくずれた。
 丁度、茜と要とが監禁されていた地下牢の、廊下側の壁だ。
 脆い粘土細工のように崩落している。
 いつのまにかそこに、人の姿があった。
 どれも酷くきずついていた。
「決して共には生きられぬと言われて」
 高い位置にある窓の下に立ち、しずかに、悠嵩は口を開いた。
 体中に走った寒気を、今ももてあましていた。
 これが昔、「神の子」と呼ばれた少年の、潜在的な能力か。
 妖の血を身のうちに入れ、底上げされた力をもってして、厳重に囲った結界だった。
 それをいとも容易くくずし、現実の世界にまで影響を及ぼす。
 おそろしい力だ。
 慄然すると同時に、ふつふつと憤りが湧き上がってくる。
 自然、声が震える。それは怯えなどではなく、憤怒の発露だった。
「それゆえに我々は、殺しあったのだ。それなのに何故、貴様らは許される!」
 ひととは違う力を持ち、ひとという括りから外れた生きものと穏やかな生活を。
 物理的な豊かさなど、何ひとつ願ったことはない。
 ただ、放っておいてもらえたら。
 それだけで良かったのに。
 愛しいものの血にこの手が汚れたそのときから、胸に刺さったままの刃がある。
 鑿を打つようなその痛みを中和するために、復讐しか思いつかなかった。
 何かが間違っているのかもしれない。しかしそれすらももう上手く考えられない。
 走り出してしまった。
 最早止めることなど。
 悠嵩は赤子を見るように、要に微笑みかけた。
「おまえもその手で大事な夢喰いを殺してみるがいい」
 この、自分の狂気を理解したいというのならば。
「そうしたら、俺と同じ地獄が見えるさ」
 悠嵩は、体の正面に右手を差し出した。掌を少年ふたりに向ける。
 掌が触れているあたりの空間が、まるで水面のように揺らいだ。
 低い唸りが空気を震わせる。
 やがてその掌あたりから、猛々しい牙と爪を持った黒い毛並みの狼が一匹、空を駆けるように飛び出した。
 弾丸のように少年ふたりに飛びかかる。
 喰らいつこうとする狼を都佳沙が腕ひとつで振り払うと、呆気なくそれは霧散した。
「悠嵩は!?」
 鋭い牙から逃れた要がふたたび窓の下を見ると、悠嵩の姿はどこにも見当たらなかった。
 まるでそんな人間などどこにもいなかったかのように、完璧に消えている。
「……とにかくここを出よう」
 鋭く視線を周囲に滑らせてから、都佳沙は壁の崩れた廊下側を振り返った。
 途端に、茜が怯えたように由紀子にしがみついた。
 彼は宗家の人間だ。自分が一体何をしたのか、おそらくもう、彼らには伝わっているに違いない。断罪されるのが恐ろしかった。そのせいで、紅子に被害が及んだらどうしよう。
「姐さんが心配してる」
 血の気の失せた顔で、都佳沙はぎこちなく笑ってみせた。
「早く戻って、安心させてあげたら」
 茜の目の縁に、涙が盛り上がった。
 必死に顎を引いて、ちいさくうなずく。
「大体の事情は把握しているつもりです。早く、崇嗣殿をどこかに移して差し上げてください。僕たちは、悠嵩を追うので」
 腕にしっかりと茜を抱いた由紀子に告げて、都佳沙は要に視線を寄越す。
 促す視線に、要も頷いて返した。



2.

「具合の方は、随分と良いようですな」
《お陰さまで、と申し上げたいところですが、それはわたくしですか、それとも彼のことでしょうか》
 斎は思わず苦笑する。
「手厳しいかただ」
《失脚した家の術者などに、貴方がたは関わりますまい》
 苦笑の響きにも、奈津は揺らがなかった。静かながら、たしかに厳しい。
《わたくしたちではなく、あの人に御用なのでしょう》
 すぐに応とは言えなかった。
 一呼吸置いてから、斎はふたたび口を開いた。
 文献やら情報やらをひたすら漁って、ようやく突き当たった場所が、こんなにも身近なところとは。
 縁か、それとも因縁か。
「―――櫛引の家に昔、顕現があったというのは、本当なのか」


            *


「くそっ……」
 きりきりと痛む心臓を押さえ、悠嵩は玄関を開け放った。
 無理をしすぎた。
 鼓動が胸を突き破りそうに高鳴っている。
 飛び石が置かれた緑に囲まれた庭にまろぶように飛び出したところで、足を止めた。
「久しぶりだな」
 かすかな笑いすら含んだ声とは裏腹に、近づく気配は剣呑だった。
 血に飢えた、獣のようにも見えた。
 前方に立っている見覚えのある男は、既に満身創痍であったけれども。不穏なほどに落ち着いていた。
「どこに行こうってんだ」
 なめらかな光沢をはなつ刀の鞘を右手に持ち、頤を持ち上げて悠嵩を見下す。
 身なりの派手な優男にしか見えなかったものが、今はどうだろう。体中から殺気にも似た威圧感がたちのぼっている。
 ぎりりと歯噛みをして、悠嵩は身構えた。
 悠嵩の視線が自然と鞘に注がれるのを見て取って、雅はわざとらしく右手を持ち上げた。
「ああ、これね」
 ちいさく笑い、体の前で地と並行に構えると、鍔のあたりに巻きついた呪符を引き千切る勢いで、刀を抜いた。
 刀身は光にさらされて、ぬらりと不吉に輝いた。
 あかがねの色。いや、それよりももっと、紅に近い。
「伝家の宝刀ってやつだ。銘は蜘蛛斬」
 無用の長物となった鞘を簡単に遠くへ放る。
「これが赤いのはな、妖の血が塗ってあるからだ。こいつは随分と大食漢でな、簡単に共食いをする。俺らのお仕事には随分と役に立つ、が―――」
 不吉な月のかがやきにも似た刀身を、顔のそばに近づける。
「何よりも好物なのは、術者の血だ。うっかりしてると、容易く乗っ取られて自分の体にグサリっていう曰くつきでね」
 銀宗家の蔵の内に仕舞い込まれている妖刀は、確かに絶大な力をもつ。が、確固たる精神力を以って御さなければ、自らの身を滅ぼしかねない。
「ドーピングで底上げされた術者の血は、さぞかし旨かろうぜ」
 諸刃の切っ先を、雅は悠嵩に突きつけた。

「屁理屈ばかりを並べ立てる」
 鋭い切っ先を向けられて、悠嵩は疲れたように笑った。
「あまり理不尽なことを言わないでくれないか。理解に苦しむよ」
 右手の中指と人差し指をそろえ、悠嵩は口元に運んだ。
「そろそろはっきりしてくれないか。ひとと妖とは、共に生きてはいけぬのだろう」
 いぶかしんで、雅は目を眇める。
 達観したような顔で、悠嵩はちいさく、何事かを唱えた。
 悠嵩の足元が揺らいだ。
 砂利がとろけて、漆黒の穴が空いた。
「妖討伐を掲げる大元が何故、自らに害を成すかもしれないものを慈しんで傍に置くんだ。宗家と分家に最早、何の差もありはしないのだとしたら、何故貴様らに許され、俺には許されないのか」
 蟻地獄のように、黒い穴が擂鉢状にうずまいた。
「銀という名が、俺からすべてを奪った」
 悠嵩の声はむしろ、淡々としていた。
 それは、すべてを通り過ぎたあとの凪だった。
「俺はあの日の絶望を、ひとときたりとも、―――忘れたことはない」
 肌をざわりと撫でるような唸りが、黒の渦から聞こえてくる。
 蟻地獄の底から伸びた獣の脚が、砂利に爪を立てた。
 闇がそのまま具現化したような、漆黒の前足。谷から体をひきずりあげるように、隻眼の獣がのっそりと這い出した。
 ざりざりと片脚で砂利を掻いて、低く咽喉を鳴らす様は、猫科の生きもののようにも見える。
 雅は片脚を引いて、重心をひくく構えた。
 これが、此岸と彼岸とをたやすくつなぐという、魅了の手のちからか。
 猛々しく咆哮をあげ、隻眼の獣が高く跳んだ。
 上空から降って来る漆黒の悪魔の、開かれた口腔は燃えているように赤い。
 迫る巨大な牙に、真っ向から蜘蛛斬の刃を噛ませる。
 がっちりとかみ合わされた牙の合間から、じゅうと肉の焼ける音とともに煙が上がる。
 力任せに横に払えば、悲鳴にも似た鳴き声をあげて、獣は後方に跳んだ。
 ぐるぐると威嚇を漏らす、真横に裂いたかのような大きな口からは、たつたつと赤い色が落ちていた。
 ふと、眩暈がした。
 視界から色彩が消えて、モノクロの中でただひたすら、獣の口から落ちる赤が鮮やかだった。
 右手のうちで、刀が僅かに震える。
 “飢えている”。
 今、少しばかり獣の血を得て、悦びながら。
 貪欲に求めているのだ。
 おそるべき執着(しゅうじゃく)。
 これが妖刀とおそれられる所以なのか。

 妖が相手ならば、素手でどうとでもなったろう。
 しかし相手が人であるならば、力をぶつけても仕方がない。
 ゆえに、伝家の”妖刀”をもとめた。
 握るのははじめてだ。兄や父ですら、滅多に蔵から引きずり出さない。
 それだけこの刀が御しがたいものであるのだ。
 絶大な力の見返りに、己を脅かすものでもある。
 その恐ろしさを今、肌で感じている。
 世界のなかで、血の色がやけに鮮やかに見える。
 普段の状態なら、もっとまともに押さえつけることもできただろうに、今は傷を負いすぎていた。
 失血と痛みから逃避しようとするように、意識が揺らぐ。体を酷使しすぎている。
 ここでぷつりと意識を手放してしまえたならば、おそらく最も自分にやさしいのだろうが。
 残念なことに、雅は至極負けず嫌いであるのだった。
 真っ向から果たし状を叩きつけられて逃げ出すなど、ゆるされない。
「どうした」
 蜘蛛斬を肩に担ぎあげて、誘うように左腕を伸べた。
「おまえが売った喧嘩だぜ」
 挑発は、自分をふるい立たせるためのものでもある。
「来いよ」
 口角をつりあげる雅を、冷え冷えとした目で見据え、悠嵩は傍らの獣の毛並みを撫でた。
 まるでしなる鞭で打たれた馬のごとくに、獣はかろやかに地を蹴った。
 数歩砂利を踏んでから、まだ空にある太陽を遮るように、上空に躍り上がる。
 鋭い牙と爪とを剥き出しにして飛び掛るその影を、雅は素早く後ろに下がってかわした。
 巨大な爪が地面を抉り、四方に砂利が飛んだ。
 着地の反動でできる一瞬の隙を、雅は見逃さなかった。
 顔の中央に据わった黄金色の目を目掛け、斜め上から刀を振り下ろす。
 この世のものとは思えぬ咆哮とともに、赤い飛沫が散った。
 勢いよく跳ねた朱が、肌に注ぐ。
 視界を遮るその赤ごと一閃、横に薙げば、大きくのけぞった獣の咽喉がざっくりと切れた。
 漆黒の巨体はどっさりと腹を見せて地に倒れる。ぷすぷすと黒い煙を上げて禍々しい巨躯は隅からするするとほどけてゆく。
 濛々と立ち上る闇色の煙がはれると、残ったのは生々しい血だまりばかりだった。
 肌が粟立つのを感じて、悠嵩は知らず息を飲んだ。
 いまだかすかに残る黒い霧を隔てて、不穏な紅がぬらりと輝いた。
「もう終わりか?」
 右手の先に妖刀を下げ、立ち込める死臭を払うように雅は一歩、悠嵩との間合いを詰める。
 よく見れば、漂う黒い霧はするすると、刀に吸い込まれている。
 妖の血が、同胞のちからを吸っているのか。
 銅ほどの色みしかなかった刀身が今や、鮮やかな朱に輝いている。
 妖刀を握る男といえば、白かったはずのシャツはおろか、頬にまで返り血を浴びていた。
 肉食の獣が持つ気配だ。飛びかかるまえの。張りつめた静寂。
 しかし―――。
(気迫ばかりが支え、か)
 消耗は、著しかった。傍目にもつたわる。
 元々無傷ではなかったのだろう。その上で、極度の緊張を強いられている。妖刀から自我を守るために。
 大きく上下している肩や、紙のような顔色を見れば、一目瞭然だ。
「だから貴様ははじめから、気に入らなかったんだ」
 右腕を真っ直ぐ伸ばし、掌を雅にむけて、悠嵩はつぶやいた。

 身を削ってでも、背後を庇おうとする姿が、昔の自分と、やさしかった妖たちを思い出させる。
「強く願ったぶん報われるように、世界は出来てはいない。莫大な努力で積み重ねた石を無惨にくずされる、賽の河原だよ」
 此岸も彼岸も、なんら変わらない。
 どちらも、煉獄。
「だから貴様がそんなに頑張っても、所詮はなるようにしかならないのさ」
 伸べた掌の先で、風が渦を巻いた。
 くるくると旋回する風の中央部から、みにくい鳴き声がまず、飛び出してきた。
 ぬうと、人の顔があらわれた。
 鋭い牙の生えた、土気色の肌をした女の顔だった。
 ぎいぎいと姦しく鳴きながら、ぬるぬる旋風から這い出してくる女の肩から腕にかけては、鮮やかな紫の鳥の翼そのものだった。
 ふくよかな乳房もあらわに滑り出した腰から下もまた、狩猟をする鳥のそれ。
 あらわれた凶鳥は、しばらく悠嵩の頭上で滞空しながら高度をあげ、屋敷の屋根を越えるほどまで舞い上がると、ひらりと下方に向きを変えた。
 紫の翼で大きく一度はばたくと、弾丸の如くに雅にむかって突っ込んできた。
 雅は刹那で眼前に迫る妖に舌打ちをすると、鷹が獲物を掴むかのように振り下ろされてくる両足の鉤爪を蜘蛛斬で薙ぎ払う。
 真紅に輝く刃を寸ででかわし、凶鳥はふたたび上空へ舞い上がる。
 今度は頭を下にして弾丸の如くに突っ込んでくる。
 雅は刀を手前に引いた。
 鋭い切っ先を、飛来する禍々しい鳥の咽喉元に力ずくで突きこんだ。
 超音波を引き起こすかのような悲鳴が走った。
 蜘蛛斬を咽喉に突きたてたまま、凶鳥は激しく身を捩った。やわらかい肉ならばあっさりと切り裂く鋭利な鉤爪が、咄嗟に刀から手を離した雅の左肩をざっと掠めた。
「―――ッ!」
 視界が白く焼けるほどの痛みには、悲鳴もあがらなかった。
 先刻朝桐につけられた傷が、数千の針で抉られたかのように壮絶な痛みを全身につたえた。
 醜悪な獣の鳴き声に、遠のいた意識がひきずりもどされたときには、雅は砂利のしきつめられた地面に仰向けに倒れていた。
 上空では女の上体をもつ妖しの鳥が咽喉に紅の刃を突き立てたままでもがいていた。
 無惨に貫かれた咽喉からはしゅうしゅうと黒い煙が立ち昇り、目を凝らしてみればそれが、ぬらぬらと光る刀に吸い込まれているのが分かる。
 体の体積がまるで、とろとろと溶けて地に吸い込まれているようだった。
 重く、うごかない。
 やがて凶鳥の輪郭がくずれ、より一層まばゆさを増した刀へと吸い取られてゆく。
 ものの一分と経たないうちに蜘蛛斬は、妖のすべてを喰らいつくしてしまった。
 すっかりと尋常の気配を取り戻した前庭で、蜘蛛斬はくるりと切っ先を地にむけてまっ逆さまに落下する。
 頭上から顔面に向かって一直線に落下してくる妖刀に、雅は咄嗟に身を捩った。
 とすり、と。
 場違いに軽やかな音を立てて、蜘蛛斬は雅の首筋、すぐ傍に突き立った。
 薄皮が一枚、するりと裂けた。
 ―――瞬間。
 ひとつ、大きく鼓動が跳ねたかと思うと。
 全身総毛立ち、見えないなにものかの手によって咽喉を急激に絞めあげられる錯覚に突き落とされた。
 首を一筋伝う血液の、なまぬるさが際立って感じられる。
 ぞっとした。
 嫌でも視界に入る紅の刀身が、ひときわまばゆい光を放ってみせた。
 氷水に浸されたら、もしかしたらこのような感覚を味わうだろうか。
 全身をくまなく鋭利ななにかで突付かれているような。
 指の先からしびれてゆく。
 ぼんやりと輝く刀身から立ち上る”気”が、俄かに人間の手の形にそだち、うっすらと開いた傷口に触れようとする。
「ぐ……ぁっ!」
 たまらずに声をあげた。
 壮絶な熱が傷口から強引に捻じ込んでこようとする。体中の組織をくまなく塗り替えられる心地だった。
 この侵略される痛みには、覚えがあった。
 幼い頃、使い魔の血を身のうちに入れたときと同じ。
「く、そっ……!」
 じわじわと侵される体をなんとか捩って、雅は蜘蛛斬の柄に手をかけた。
 妖刀はまるで火で炙られでもしたように熱い。
 悦んでいるのが、わかった。
 たった数滴の血でこれほどまで。
 今更ながらにこの刀のおそろしさを知った。

「惨めなことだ」
 悠嵩は慨嘆し、ようやっと上体をおこし砂利に片膝を突いている雅を頤を持ち上げて見下した。
「……る、せぇな。どうせくたばるんなら、おまえも道連れだ」
 少しだけやさしく、悠嵩は笑った。
「飯事はもう、やめにしてくれ」
 そっと、天から降ってくる何かを受け止めるかのように、悠嵩は右手を差し伸べる。
「所詮は、共には生きられぬのだ」
 ほう、と差し伸べた掌の上に青白い鬼火があらわれた。
 風もないのにゆらゆらと揺らぎ、見る間に自らをおおきく育ててゆく。
 やがてそれは悠嵩の手をはなれ、宙に浮いた。
 めろめろと青い火の粉を撒きながら、ひとまわりも、ふたまわりも。
 ぬぅと、巨大な角がのぞいた。
 続いて青ざめた鉄の色をした肌。隆々とした体躯。
「正気か?」
 雅はおもわず、口元を引き攣らせた。
 そこには紛うことなく、鬼がいる。
 鬼が、炎から産み落とされようとしている。
 いくら魅了の手を持つものとはいえ、鬼を喚ぶことは容易ではない。
 たとえそれが、力の底上げを行っていたとしても、だ。
 そのとき。
「兄さん!」
 悠嵩の背後で、勢いよく扉が開け放たれた。
 見覚えのある顔がふたつ、立て続けに覗く。
「馬鹿野郎、出てくるんじゃねぇ!」
 雅は甥たちを鋭く怒鳴りつけ、蜘蛛斬の柄を握りなおした。途端、右腕に電流にも似た激しい痛みが走る。

 ようやくこの日がきたのか。
 宗家の血族を額づかせる日に、どれほど焦がれたことか。
 すうっと唇の端が自然持ち上がるのを悠嵩は感じた。
 復讐を誓ったあの日から、片時たりとも晴れた事のなかった心の闇を、なにかが払ってすぎて行くようだ。
 これで、何もかもが終わるのか。
 それならばこの後、どのように朽ち果てようとも、悔いは無い。
 しかし、悦楽にゆるんだ口元が、次の瞬間奇妙にゆがんだ。
 腹のあたりからこみ上げたあたたかい何かを、抗えずにそのまま吐き出した。
 鉄の味を感じたと思う時には、激しく咳き込んで、その場に崩れ落ちている。

 今が好機かもしれない。
 突然倒れ伏した悠嵩に戸惑いながらも、雅は思い通りにならない体を引きずり上げようとする。
 都佳沙と要。彼らだけはなんとしても無事に帰さなければならない。
(これ以上動けば、正直―――)
 あぶないだろう。
 けれども、背に腹を変えられるわけもない。
「待て」
 厳かな声とともに、肩に誰かの手が乗った。
「弁えろ。それ以上、今のおまえには無理だ」
 残酷に告げる。
 そのとき、視界の端を黄金色の何かが切って飛んで行った。
 長い尾ばかりが白いその鳥は、いまだ宙でもがく鬼火に矢となって飛び込む。
 音もなく、爆発が起きた。
 一瞬で純白に焼き尽くされた視界が残像を伴って復活したときには、鬼神の姿など、幻のように失せている。
「父さん……」
 都佳沙が幽霊でも見た顔で、つぶやいた。
 弟の肩から手をはずし、宗家の現当主はゆっくりと砂利を踏んで悠嵩に歩み寄った。
「酷使をしすぎたようだな」
 すぐそばに落ちた人影から、声が降ってきた。
「当主自らとは、畏れ入った」
 両手を地に突いて荒い呼吸を繰り返しながら、悠嵩はかすかに笑ったようだった。
「今回の一件に対する、宗家の決定を伝えにきた」
 感情の抑揚を感じさせない声音に、悠嵩は口の端を伝う血を拭って、顔をあげた。
 漆黒の髪に瞳の、四十がらみの男が立っている。和装だった。
「ほう?」
 目を眇め、悠嵩は始を見上げる。
「一体、どのような英断をしてくださるおつもりか―――」
「此度の一件に荷担した分家とは、本日を以って縁(えにし)を断絶する」
 揶揄する悠嵩の言葉に被せるように、始は言い渡した。
 零れんばかりに目を瞠ったのは何も、悠嵩だけではない。雅も都佳沙も、息を飲んだ。
「今このときより、銀とは無関係だ。以後は好きにするがいい。しかし、霊媒を行うにあたり、銀の名を用いることは、認めぬ」
 それは、看板を下ろせといわれているようなものだった。
 この業界で頂点に立つ銀という名があるからこそ、分家は糧を得ることができる。銀という名を剥奪されたらば、今の世の中で霊媒という特殊な生業をつづけてゆくことは、ほとんど不可能に近かった。
 しかし―――。
「は、はは」
 悠嵩の口から、掠れた笑いがこぼれた。すぐにそれは、引き攣った哄笑にかわる。
「陳腐な幕引きじゃないか! 膿んだ四肢をばっさりと切り落とすしかできぬとは! 尾を切って逃げる蜥蜴とおなじか! これで貴様らも苦しくなるな、悔しかろう!」
 しかしそれと同時に宗家は。
 分家から得られる莫大な”お布施”を、うしなうことになる。
 宗家の独裁に不満を覚え動いた家は、決して少なくない。それらすべてと縁故を切るというのならば、とてつもなく大胆な決断だった。
 言い換えれば、それ以外に取る手立てがなかったということにもなるのか。
「そのとおり」
 ようやく口元に人間らしい苦笑を浮かべて、始は頷いた。
「貴様の―――勝ちだ」
 悠嵩の顔から、一切の表情が失せた。
 ぷつりと見えぬ糸を切られたかのように、始を見上げていた首がかくりとうな垂れる。
「勝ち、だと?」
 砂利が爪に食い込むのもかまわず、地に突いた拳をきつく握る。
 今更、たくさんの愛しい顔が脳裏を過ぎる。
 母と、そしてやさしかったたくさんの手。
「俺が欲しかったのは」
 失ったものが―――。
「こんなものでは、なかった」
 重みに耐えかねて落ちた額が、冷たい地面に触れた。
 どこか遠くから、サイレンが近づいてくる音が聞こえたような。
 それすらも今はもう、どうでもよかった。



3.

 波のように。
 寄せて返す、シグナル。
 ゆるやかな灯台の明滅にも似ている。
 報せがとどいている。
 遠くから。


 ―――目が覚めた。

 天井を横切る梁。見つめて、数度まばたいた。
 人気のない屋敷のどこかで、何かが点滅している。
 訴えている。
 確証はない。ただ感じた。

 ゆっくりと上体を起こすと体の節々が悲鳴をあげる。
 軽い眩暈。
 世界には膜がかかっている。
 上手く頭がまわらない。何かが足らない気もすれば、満ち足りている気もしていた。
 しかし、何かに呼ばれている。
 それだけは分かる。

 鯨たちが海の中で、耳には聞こえぬ歌で会話をするようだ。
 特別な信号が、届いていた。
 畳に手を突いて、立ち上がった。
「一馬兄!?」
 真正面、縁側に面した障子を開いた見慣れた顔が、元々大きな瞳を零れんばかりに見開いていた。
「目、覚めたの? だいじょうぶ!?」
「”電話が”」
 掠れた声で、一馬はそれだけ返した。
「え、電話って……」
「ごめん」
 一言で、一馬は姫架を退けた。
 するりと横に退いた隙間から、どこか覚束ない足取りで縁側に出る。
 洋間のほうへ向かう背中を、姫架は追えなかった。見えぬ境が、今はそこにある。
 仕切られていた。

 縁側から屋敷の内側へ折れる。壁に右手をついて、支えにした。
 平衡感覚が狂っているようだ。
 ふわふわと床がやわらかく感じるのは、体が軽くなったのか、足が弱っているのか。
 自由の利かない体をひきずるように、突き当たりの扉をめざす。
 日も暮れかかっているのか廊下は暗い。
 どのくらい眠っていたのか、時間の感覚もあやふやだ。
 なんとか扉にたどり着いて握ったノブは、氷のつめたさだった。
 捻って押し開ける。
「一馬……」
 窓に面して据えられたソファーから、紅子が思わず立ち上がるのが見えた。
「あんたもう、平気なん―――」
 紅子の声を遮るように。
 部屋の隅に設置された電話が、鳴り出した。
 いやに静まり返った室内に、不似合いなほど明朗な音を立てて、着信を報せる。
 一馬はまよわなかった。
 紅子の傍をすり抜けて、受話器を取った。

 おそらく、鯨の歌とおなじ。
 同等の感覚を持ったものに伝わる、予兆だったのだろう。
 それが深層に落ちた意識を、強引に引きずり上げた。

《もしもし》
 抑揚に欠ける、しかしどこかに笑みを含んだ男の声。
《随分と、今年の冬はさむいですね。京都にいらっしゃるなら尚更でしょう》
 相手を確かめもせず、男は話しはじめた。

《一年ぶりぐらいですか、お久しぶりです、成瀬さん》






【続く】




第十七話

夢喰い

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