十七話 涯





1.

 しっとりと耳に馴染む声に、息を飲んだ。
 もう二度と聞くこともない声だと思っていた。
「櫛、引……」
《声だけで思い出してもらえるなんて、うれしいな》
 受話器のむこうがわで、男がちいさく笑った。
「無事、だったのか」
 声がかすれる。動揺していた。
《ひどいな、ひとを幽霊かなにかのように》
 男は―――櫛引充はもう一度笑みを含んだ吐息をおとす。
 彼もまた、夢を喰らわずには生きてゆかれぬ業に絡めとられている生きものだった。
 一年前の秋、文字通り”生き残り”をかけて対峙したことがある。
 そののちに、随分と長く昏睡状態に陥っていて、いつ目覚めるか、そもそも目覚めたりするのかさえ、疑問に思われていた男だ。
《残念だけれど、生きていますよ。今も》
 抑揚に欠ける淡々とした喋り方は変わってはいない。が、一年前に感じていたひそやかな狂気はすっかりと、なりを潜めてしまっていた。
「どうして、おまえが」
 この家に連絡をつけられたのか。
《銀の家から、報せをいただいたんです》
「報せ……?」
《あなたが今とても、危うい状況である、とね。それについて僕はすこしばかり、参考になる話ができるかもしれない。―――だけどその前にあなたに聞きたいことがあるんです》
 黙って、先を促した。
 櫛引が自分に問いたいことなど、見当もつかなかった。
《僕たちは、人にすがらなければ死んでしまう脆弱ないきもので、人のそばを離れては決して生きていけない》
 改めて櫛引からつきつけられなくても、そんなことは十分分かっていた。
 人の園をはなたれては、生きられない。
《だから、あなたが自分を蔑む気持ちも、僕にはよく分かる》
 他の誰かに、おまえのくるしみが分かる、と言われたところで腑には落ちなかっただろう。
 一体、何が分かるというのか。
 この惨めさの、一体なにが。
 たとえどんなに近くで、様々なことを許した間柄でも、共有できないこの己への憎悪。
 分かる、と簡単に頷いてほしいわけではなかった。
 けれど、櫛引の言葉はすとんと落ちてきて。
 きれいに嵌まった。
 それはきっと、彼がおなじもの、だからだ。
《僕はね、数ヶ月眠ったままでいました。目が覚めたとき、がっかりしたものです。どうして目が覚めて、生き残って、まだ”ここ”にいるのだろうと》
 現世に、留まってしまった。なにゆえに。
 櫛引は何かを飲みこむかのように一拍をおいた。
《―――もしもの話だよ。ものすごく、我侭であまやかな話として聞いてほしいのだけど。もしも僕たちが、この呪いのくびきから、放たれることができたとして》
 夢物語の話だった。
 あこがれたところで”どう”にもならない類の。
 まさか彼が、そんなことを言い出すとは思わなかった。
 何か違和感を、感じた。
 ズレを。
 まるで存在する次元が違うような。
《ただのひとに、なれたとしてね》
「何の話なんだ」
 思わず、苛立った。なにかに。
 不当に遠ざけられた気がした。一体何があったのか。
 同じ類の生きものであったはずなのに。
 骨組みから、違ってしまったみたいだ。
《だから、夢の話だよ》
 大人に諭されるような、ものごとを曖昧に濁されたときのようなざらつきだ。
 何かが、決定的に違っていた。
 違和感が、不安をかきたてる。
《もちろん、僕たちは他のなにものにもなれないよ。生まれ変わる方法なんて、僕は知らない。だけど、もしもただの人になれたとして僕たちは、”たったひとり”で、生きていけるのかな》
 たった、ひとりで。櫛引はくりかえした。
《誰にもたよらず、街を出て野にくだって、仙人のように霞を喰らってさ。なにものにも依存しないで、生きていけるんだろうか》
 他のいのちを削ることなく。
 誰かにもたれかかることもせずに。
 そんなこと。
 考えなくてもすぐに答えはでる。
「……屁理屈だろう」
《僕もそう思っていた。物理的にも構造的にも、それは不可能だ。何かを削らなきゃ生きていけない。最低限何かに依存しないと生きていけない。だから意識を喰うことを肯定しろと、言いたいわけじゃない。もっと、簡単なことだよ》
 櫛引の声から、笑みにも似たあまやかさが、いつのまにか抜けていた。
 芯のある声だった。
《今、あなたの傍に誰かがいるのは、あなたがばけものだからですか》
 予想だにしない死角から殴りかかられた心地だった。
 ざあっと、冷水を頭からかけられた。
《あなたの力だけが、周囲をつなぐ鎖なのかな》
 冷静に、足元をきりくずされる。
 何も答えられなかった。
《僕は随分かたくなだった。すべて穿って見ていたよ。世界のすべてが餌で、やさしくされるのも、遠ざけられるのも、自分の特性の所為だとずっと思っていた。だけど、体の調子がもどるまで、たくさんの人が甲斐甲斐しくあまやかしてくれた。奈津や、仁くんや木葉ちゃんもね。あれほどの醜態を演じて、たくさんのものを引っ掻き回したあとだというのに。だけどそれは、僕が”夢喰い”だからという理由じゃないんだ。―――ねえ、成瀬さん》
 櫛引の声は随分と”やさしく”なっていた。
 一年前よりも。
《僕たちはやっぱり、こんな呪いを負っているっていう以前に、誰かがそっとたすけてくれないと、生きていけないよ。そうでしょう》
 分かっている、と言いたくて、言葉が咽喉に詰まって出てこなかった。
 言い訳じみて聞こえる気がした。
 櫛引と、自分との間に絶対的な違いが、たしかに生じているのだ。
 彼の言葉にふくまれる重みが、すべての反論を飲み込んでしまった。
《僕は今、身近にあるすべてのものを失いたくない。自己愛で強引に横に退けてしまったものをも、今は勿体無く思うよ。たとえ僕が夢喰いでなかったとしても、彼らや彼女らは、正面から僕を叱ってくれるんだろうから》
 櫛引はきっと、未だ自分が見たことのない地平を、見たのだ。
 唐突に、理解した。
 もう、視点が違っていた。
《いるでしょう、あなたにだって。たくさん》
 少しこまったような声が、耳にすべりこむ。
《自分をいくら呪っても、僕には何もいえないけれど、可哀想でしょう、駄目だよ》
 きっぱりと厳しく、櫛引が言った。
《あなたのことを何の見返りもなく案じてくれているひとのことを、横に退けたら駄目だよ》

 度が過ぎた行いを叱ったり、健康を案じたり、そんな些細なやさしさをくれるひとのことを。
 知っている、つもりだった。
 どんなに苦しくて、視野がせまくなってしまっていても。
 覚えている、つもりで。
 向き合っていただろうか。
《僕が知っている限りでも、たくさんいるじゃないですか》
 ねえ、と櫛引は微笑したようだった。
 ふと、いくつもの顔がよぎっては、消えた。
 確かに。
「そう、だ。―――おまえの言う通りだ」
 認めた。”負け”を。
 わすれかけていた。
 だが、失態を指摘されたというのに、不思議と怒りは湧いてこない。
 凪、だ。
 先程までの苛立ちはどこかに過ぎた。
 おそろしく落ち着いていた。
 いつのまにか落とした何かを、そっと指し示されたような。
 そしてそれはとてつもなく、大事なものであったのかもしれない。
《偉そうな物言いをして、すみません。―――前置きが長くなりましたね》
 櫛引がひとつ吐息を落とすと、すでに空気は変わっていた。
 引き締まる。
 自然、息を飲んだ。
《銀のご隠居殿から報せを受けました。顕現について、お話しがあります》



2.

「痛ぇ」
 車の後部座席に身を投げ出してから、雅がうめいた。
「それだけ満身創痍で、逆に痛くないひとを見てみたいよ」
 となりにおさまった都佳沙が、呆れた顔でつぶやく。
 いくら並よりも少しは広く作られているとはいえ、また、いくら細身が揃っているとはいえ、後部座席に男三人は窮屈だ。
 だが、まだ不安そうな茜を後ろに放り込むことも出来ずに、要は都佳沙のとなりに座った。
「痛みがある分、まだましということだな」
 当主自らが運転席におさまると、流石に違和感がある。
「申し訳ありませんねぇ、隅から隅までお手を煩わせて」
 揶揄を声にふくませて、雅はバックミラー越しに年の離れた兄を見た。
「母上には申し上げておくからな」
 情け容赦のない死刑宣告だったようで、雅は黙った。
 ゆるりと車が動き出し、門のそばに停まっている一台のパトカーとすれちがう。その傍らに見覚えのある刑事を見た気がしたが、定かではなかった。
 一体何が、どういうことになるのだろう。
 鮮やかな回転灯の赤に目を凝らしながら、ふと、要はそんなことを思った。
 これは、法律か何かで裁けることだろうか。
 唯一罪に値するといえば、誘拐及び監禁かもしれないが、誘拐されたはずの要と茜とはさっさと現場をあとにしてしまっている。
 身内に対する監禁? 暴行?
 それで一体今回の、何が分かるというのだろう。
 悠嵩に何があったのか、何故宗家を憎むのか、要は何も知らなかった。
 ただ―――。

―――おまえもその手で大事な夢喰いを殺してみるがいい。
 彼の憎悪は、どこからうまれたのだろうかと、
―――そうしたら、俺と同じ地獄が見えるさ。
 思った。

「情けないもんだねぇ」
 シートに体重をあずけて、雅はひくい天井を仰いだ。
「もう少し颯爽とやりたかったんだけど」
 細められた双眼は、大分焦点を失っている。緊張感が切れたからだろうか。
 そもそも平然と座っていられるほど余裕のある状態では決してないのだ。
 いたるところに開いた傷がある。
 意識をつないでいるのはもはや、精神力のみだろう。
「意地を張らずに気絶したら」
 こちらも決して無傷ではない都佳沙だが、隣と比べると、どうしてもある種の”派手さ”に欠ける。
「嫌だよ。気絶したらしばらく起きない自信がある」
 目蓋の重さに抗わず、雅は既に目を閉じている。けれど、やけにはっきりとした声が返ってきた。
「その”なり”で、これ以上なにかするつもり」
「もう無理はしません……っていうか、残念ながら出来そうにないわ。だけどな、ぶっ倒れてるうちに全部終わっちまった、っていうのは性に合わないんだよ」
 そう。
 まだ終わったわけでは、なかった。
 表向きのお家騒動には、とりあえずの結論が出たのだとしても。
 カタのついていない事柄が、ひとつある。
「あの」
 ためらいを振り切るように、要は口を開いた。
「カズマ、どうしてますか」
 どこか和やかだった車内の空気が、ぴんと。
 張った。
 すぐに答えは返ってこない。
 ぐうと腹のあたりが気持ち悪くなった。
 重い沈黙に押しつぶされそうになっているのか。
 何度も繰り返した最悪の事態がめまぐるしく蘇って、眩暈がした。
「顕現という、言い伝えがある」
 話の続きを引き取ったのは、始だった。
「君にはおそらく、話したことはないだろう」
 聞き覚えのない単語だった。
「君を除けものにしていたわけでは決してない。話す必要もないと思っていたんだ。何しろ、ただの伝承だと皆が思っていた話だからね」
 けんげん、と。耳慣れない言葉を口の中で繰り返した。どういう字を当てていいのか、見当もつかなかった。
 ただ直感で、嫌な響きだ、と思った。
「高まった力が溢れ出す現象だと思ってくれればいい」


           *


《僕があなたから力を奪おうとしたのは、決して自棄になったわけじゃない。具体的な根拠を知っていたからだよ》
 根拠?
《僕たちは、人と妖の合間にいる。求めれば、実際”妖に成れる”》
 あまり嬉しい話ではなかった。
 妖になりたいわけではない。
《力が足りないだけなんだね。だから、力を増やしていけば、僕たちは簡単に妖になれる。”その実例を、僕は知っていた”》
「実例、だって?」
《今あなたに起こっていることが、まさにそれだよ》
 至極冷静に、櫛引は現実を突きつけてくる。
《僕は双子だったから、持って生まれた力は甚だ弱かった。だから姉の力を喰らって、基本値を増やしたんだ。そんなふうに僕らは様々なものから奪い取ることによって、力を増やすことができる。その最終段階が顕現とよばれている》
 聞き覚えのない単語だった。
《もはや伝説だよ。昔は人と妖のあいだに今ほどの垣根がなかったんだろうね。顕現自体、まぼろしのようなものなんだ。だけど、櫛引の数代前に起こったことがある。それを僕は知っていた。実際に起こりうることなんだ、ということを。だから、あなたに近づいたんだ》
 ばけものになりたかったのだと、一年前のあの夜、櫛引は言った。
 自棄になっていたわけではなく、具体的な目的があったというのか。
《グラスに水をそそいでいくのと同じだ。許容量を超えるとあふれる。今まさに、あふれている状態なんだよ。その力は、あなたを飲み込もうとするだろう》
 失ったような、満たされたような。
 相反する感覚が波のように寄せては返している。
 手ばなしてしまいたいような、縋りついてしまいそうな。
「……飲まれたら」
《ひとではいられなくなる、んだろうね》
 それは即ち、死を意味するのではないかと、思った。
 終焉だ。
 ひとでいられないなら。
《具体的な回避法をあなたに教えてあげられるわけじゃない。それは覚えておいてください。僕は数代前、”妖に成りかけて、辛うじて戻ってきた人間”の話をするだけだ。それが最善策なのかは知らない。もしかしたら逆効果かも知れない。ただ、そう言う話があったと聞いてください。この話を聞いてどうするのかは、あなた次第だ》


            *


「もともと夢喰いというのは半妖だ。その身は如何なる呪いも受け付けない。身近なものからも撥ね退ける。それゆえに、呪いを受けることの多い霊媒師たちは、彼らを身近に置いていた。魔除けのようにね。しかし遥か昔、その”護符”は諸刃でもあった」
 遥か昔。
 未だひとに妖が添うように生きていた時代だ。
「夢喰いはね、案外簡単に、”妖に成る”んだよ」
 視界が、薄い膜にでも覆われたかのように暗くなった。息を飲むと、咽喉が鳴った。
 始はまっすぐに前を見ていた。バックミラーに、愕然と目を瞠る自分の顔が見えて、要は慌ててそれから目を逸らす。
 胸のうちで鼓動が煩く鳴っていた。
「自分と同質の力が身近にあれば、の話だがね。妖は、同質の力を喰って力を増すことができる。半妖とて同じこと。だから、昔はありふれた話だったようだよ、顕現というのは」
 今のように完璧に、ふたつの世界が隔絶されていない頃。
 人々がまだ、妖しのものを畏れていた頃の話だ。
 ひとはもう大半が、異界のいきものを信じていない。ゆえに妖しのものも生きる”層”を異にしているのだと、聞いた。
 夢喰い自体の数も徐々に減っている。ゆえに、力の略奪自体、行われないということか。
 自然、伝説にもなる。
「増幅された力はやがて、ひとの器から溢れる。具現化し、器を喰らおうとする。それが、顕現だ」
 閉ざした目蓋の裏に、雅は銀糸を見た。
 凍てつく風を受けて、棚引くうつくしい髪(くし)。
 背負う翼のつややかな濡れ羽色。
 その、鮮血のような双眼。
(あれが、身の内で飼っていた力だって言うのか)
 うすく笑う酷薄な唇の形まで、しっかりと焼きついている。
 完璧な敗けだった。
 無意識のうちに右手が痛む肋骨を押さえる。
 超然としている。傷のひとつも負わせることができなかった。
「契約というのはね、要くん。意に添わぬものを手当たり次第に切り捨てて殺す、というものではないのだよ。今の時代にはそぐわぬやりかたに思えるかもしれないが、昔は自衛策だった。契約の本来の姿というのは、顕現に陥ってひとではなくなってしまった妖にのみ適応されるものだったのだ。今では顕現も伝説と言われるほどに減り、夢喰いも減り、互いに近づかぬ協定をつくり、一応の秩序は守られている、はずなのだがね」
 後部座席から窺い見る始の口元に、苦々しい笑みが広がって、すぐに消えた。
 唐突に。
 要は気づいてしまった。
 何故始が突然、契約の話などをはじめたのか。
 伝説と思われていた現象のことなど、説明したのか。
 予感に、全身が総毛だった。
 項のあたりがちりちりと、帯電しているように痛む。

「顕現が、起こったんですか……?」

 ひとが妖になるという、その。
 最早言い伝えとなったはずの、その。
 事象が。

 重くつめたい沈黙は、そのまま肯定だった。
 鳩尾のあたりから、波紋がひろがるかのように、全身の血が凍る。
 かじかんだ指先が、気づけば膝をつよく掴んでいた。
「要……」
 気遣うように都佳沙が要を覗き込む。が、俯いた要の視界には割り込めなかった。
「だったら、どうなるんですか」
 伸びかけた栗色の髪が、血の気を失った顔を他と隔絶する。
 たよりなく、声が震えた。
 顕現に契約が履行されるのだとして。
(僕は)
 膝をつよく握り、色味をうしなった自らの両手を見下ろして、要は一度深く呼吸をする。
 こたえを。裁定を待っている間だというのに、津波のように起こった動揺はもう、静まっていた。
 自分の答えなんてもう出ているじゃないか。
 それに気づいたら、全身を粟立たせた焦燥は、すうっとおさまった。

 彼らがもし、決まりごと通りにことを運ぼうというのなら。
 一馬を手に、かけようというのなら。
 全力で阻むだろう。
 すべてを敵に回して勝ち残れるとは自惚れない。
 自分は卑小だ。
 いつでも大きな背中に守られている。
 けれどもこればかりは譲れない。
 あの美しくも孤独な箱庭の外から差し伸べられた手。
 どんなときでも、どんな場所でも、その手は味方をしてくれた。
 背を、支えてくれていた。
(僕も、味方だ)
 適当さや怠惰さに罵詈雑言の限りを尽くしても、嫌悪をしているわけではない。
 本当はいつも、伝えたい言葉はあるのに。
 気恥ずかしさに、悪態に流れてしまう。
 けれど、天地がひっくり返っても揺るがないことがある。

 彼が彼である限り、僕は味方だ。

 顔を、あげた。
 バックミラー越し、始と視線が絡む。
 思わず始は目を瞠った。
 少年の、日本人としては色素の薄いその瞳が湛える、つよさにだ。
 こんなに鋭い目をする子どもだっただろうか。
 あの頃は、少し強く肩を握っただけで、硝子細工のようにこなごなに崩れてしまいそうだったというのに。
 しかしすぐに思い直す。
 もう五年も前の話だった。決して短くはない。
 歳月が皆平等に、ひとを成長させるわけではないけれど。
 彼はきっと何かを、育ててきたのだろう。
 あたらしい生活のなかで。

「父が今、顕現について調べている。私が京都まで出向いてきたのはね、内紛をおさめると同時に、顕現をおさめるためでもある。それ以外の理由はないよ。切り捨てるためじゃない」
「僕は、カズマの味方です」
 毅然と要が言った。
「私たちも、そのつもりだよ」
 自分だけではなく、勿論弟も息子もそうだろう。
「我々がもしも一馬に刃を向けるときがくるとしたら、それは完全に彼が自我を手ばなしたときだ。別に成瀬の家と契約を結んでいるからじゃない。そんな古い決まりごとなんてどうでもいいんだ。妖に成ることを、彼は決して望まないだろう。だからいざというときは刃を取ると、彼と約束した。いにしえの契約ではなくて、一馬との約束なんだよ」
 鋼鉄の掟ではない。そんなものを大事に守っているわけではない。
「だから私たちは、さだめに縛られ操られているわけではない。そこまで清廉に出来ているわけがない。欲張りだよ。家も守りたければ、友人も守りたい。すべてを上手く転がしたい。そのために京都に来たのだ」
 全力を賭して、我を通す。そのために。
「見たまえ、そこの半死体を」
 バックミラーの中で、始が顎をしゃくって見せた。
 促されるまま、要は右手側のシートを見る。
 億劫そうに薄目をひらく、満身創痍の男がいた。
「本当に冷酷非道ならば、負の要因などすぐに切り捨ててしまえばいいのだ。それが最も楽な手段なのだからね。切り捨てる覚悟が出来ているのならば、足掻かずにもっと前に”始末”をしておくのが上手なやりかただろうね。相手方からつつかれる前に。だが見たまえ、この醜態を」
 笑いさえ含んで聞こえる兄の声に、雅は盛大に渋面をつくった。
「誰しも痛い目に遭うのは嫌なものだろう。切り捨てれば済むもののために敢えて命を張ったりはしないはずだ。私たちの心構えは、その死にかけを見てもらえば分かると思うが、どうだろう」
「雅さん……」
 これほど余裕のない次男坊を見るのは初めてだった。
 いかなる時も、泰然と超然としている。余裕の塊のようなひとだと思っていた。
 僅かに首を傾けて、雅は要を見た。
「無様でごめんね」
 要はゆるく首を横に振った。
 今はその余裕のなさにこそ、安堵していた。
 そして急に、自分のわがままさが恥ずかしくなった。
「ごめんなさい、僕、自分のことばっかりだ」
 狭量で、視野の狭い人間になっていた。
 始の言う通り、少し考えれば分かる。簡単に切り捨てられるなら、誰もこれほど足掻かない。
 眼前の、雄弁な事実すら、見えなくなっていたのか。
「私たちは有難いと思っているよ」
 しゅんとしおれる少年を鏡越しに見て、始は微笑に口元をゆるめた。
「君がいつでも一馬の味方でいてくれることは、とても心強いことだと思っているよ」
 始の言葉に気恥ずかしくなって、要はうつむいた。
 一体彼らを、どんな化け物だと思っていたのだろう。
 いつも、何度も手を伸べてくれたというのに。
 ひとりで、守ろうなんて。
 驕りじゃないか。
 胸のあたりを押さえて、深く呼吸をした。安堵した。
 そのとき。

 がくん、と車体がおおきく揺れた。
 前方に投げ出されそうになる体を、前の座席に手をついて回避する。
「茜ちゃん」
 助手席を後ろ側からのぞきこむ。茜はちいさく「平気」とつぶやいた。
「運転下手になったんじゃないの」
 アスファルトを噛むように急ブレーキをかけた兄に、雅は悪態をつこうとした。が、当人は既に運転席のドアを開けて、凍てつく車外におりている。
「兄さん」
 表情をひきしめて、都佳沙が雅に呼びかける。
「……休む暇はないってことね」
「ひとりでのうのうと休んでいてもいいよ」
「嫌だね」
 不敵に笑って、雅は後部座席の扉を開いた。
 一瞬だけ肋骨の痛みに顔をしかめたが、すっくと立ったときには既に、顔から余裕のなさは拭い取られている。
 圧力を、感じているのだ。
 見えぬ手が上からじりじりと力をこめて頭を押さえつけてくる。
 差し込んでくる風がつめたいからではない。
 何かが、いる。
「ここにいて」
 茜に囁きかけて、要も左手側の扉を開いた。
 地面に下ろした足から脳天に向けて、凍みるような寒さが駆け上っていった。
 すぐそばに京分家の塀が見える。広い道ではないが、決して寂れているわけでもないというのに、人の姿が全くみあたらなかった。
 まるでこの場所だけが、切り取られてしまったかのように。
 車の進行方向だった方角から、ほそく風が吹いてくる。
 刃のような鋭さを持っている。
 何もないはずの中空を、人々は睨んでいた。
 もうすぐ日が暮れるはずなのに、夕陽の色も見えない。
 時が止まっているかのようだ。

 不意に。
 何の前触れもなく、中空から漆黒の塊が降ってきた。
 重みを感じさせて、始のすぐ手前に落下する。
 漆黒の、翼だった。
 片翼だけ。
 強引に毟り取られたのか、所々がひどく抜け落ちている。
 不吉なシンボルだった。
「揃いも揃って、見事な恰好だな」
 先程までは、誰もいなかったというのに。
 無惨な翼に目を奪われている数瞬のあいだに、前方に人影が現れていた。
 凍てつく風にたなびく銀糸。新雪のような白装束。
 眇める瞳の、赤さ。
 時代錯誤も甚だしい、山伏装束の男がひとり、立っていた。
 決して天を衝くほどの大男というわけでもないのに、その圧倒的な存在感に自然と足が後ろに下がろうとする。
 これが、榊だというのか。
 要は慄然とした。
 遥か昔、平安の御世をふるえあがらせたという伝説の鴉天狗。
 こんな桁外れの”もの”が、棲んでいた?
「焔は、どうしたんだ?」
 無造作に転がる片翼を見下ろしたまま、都佳沙がつぶやいた。
 凄艶に微笑して、榊はゆっくりと自らの胸を指した。
「さて次は、おまえたちの番だ」
 胸を指したしなやかな指を、榊はいならぶ一同に向かって伸べた。



3.

「ほんまに”それ”、やるつもりなんか」
 ソファーの背もたれに体重をあずけ、紅子は腕を組んだ。
「うまくいくとは限らへんのやろ、一か八かは賢くないで」
 電話を終えた一馬を捕まえて、紅子は問い質した。
 聞きたいことならばたくさんあった。
 何故唐突に目が覚めたのか。電話の主は、目的は。
 噛み付かんばかりの紅子に面食らいながらも、訥々と説明をした。
 しかし、説明を加えるに連れて、紅子の眉間にくっきりと皺が浮かび始めた。
「いつまでもこのまま、囲われているわけにもいかないよ」
「自分が犠牲になればすべて済むやなんて、思うてるんやないやろうな?」
 それならば、許すわけにはいかなかった。
 何も犠牲にするべきではない。
 そのために誰もが必死に足掻いているのだから。
 一馬は困ったように、少しだけ笑った。
「姐さん、俺はもっと欲張りだよ」
 聖人ではない。
 慾も業も、もっとふかい。
「俺だって、自分が可愛くないわけじゃない」
 今までを振り返れば、決して説得力のある台詞ではない。
 しかし、苦笑に翳りがなかった。
 悲壮な切迫感や使命感。絶望も。
 見えなかった。
「可能性があるから試す。それだけのことだから」
 彼を支配していた悲壮感の代わりに今は、鋼鉄の意志が存在していた。
 紅子は吐息をひとつ落として、あきらめた。
 こうなったら、梃子でも動かないだろう。
 平素しずかな男が肚を括るほど、厄介なものはない。
「あたしも!」
 破裂する勢いで扉が開かれた。
「あたしもついてく」
 いつからそこにいたのか。決意を体にみなぎらせた少女が、扉を開け放った体勢のままでそこにいた。
 居間からすこし離れた座敷で、叶の手当てをしていたのではなかったか。
「姫……」
「お願い」
 思わず立ち上がる一馬の傍らに、姫架は歩み寄った。
「もうあたし、逃げたくないよ」
 ひかえめに手を伸べて、姫架は一馬の袖口あたりを掴んでうつむいた。
 あのときこうすればよかったと、後悔するのはもう嫌だ。
「姫、俺は……」
 うつむく華奢な肩に、掴まえられていないほうの手で触れた。
 本当は誰も、巻き込みたくはない。
 他の誰のものでもなく、自分だけの問題なのだから。

―――成瀬さん、僕たちは幾度も、涯を見たはずだ。さいはてまで行って、それでも今もここにいる。あなたも僕も随分と図太い。そうでしょう? あなたが食い尽くされるなんて、僕にはとても思えないよ。

「やだ、連れて行って!」
 勢いよく顔を持ち上げた姫架の瞳は、潤んでいた。
 悲壮な決意に言葉を失ったそのとき、鈍い衝撃に屋敷が揺さぶられた、気がした。
 地震などではなく。
 ごく近くで爆発があったような、余波の揺れだった。
 弾かれたように、紅子が立ち上がった。
 暖房が効いている室内だというのに、凍えそうなほどの寒さがどこからか漂ってくる。
 物理的な爆発ではない。
 何らかのちからが膨張して、破裂したのだ。

―――ただかなしいのは、こうやって傷口が見える同胞こそ、近づけないということだ。

 自然と、体が動いた。
 見えない手に招かれている。
「一馬兄さん……」
 居間を出てゆく男の背を、姫架は慌てて追った。
「陽、ここに居りや」
 紅子が部屋の隅に呼びかけると、青白い毛並みの狐が一匹現れる。
「うちも行く」
「足手まといになるぐらいなら、丸まっとりなさい。そのぐらいは自分で分かるやろ」
 虚勢をきびしく叱り付ける。つまらなそうに陽がそこに丸まるのを見届けて、紅子も居間を後にした。


―――僕とあなたの在る座標はもう、二度とかさならないだろう。そればかりが、僕はかなしい。


            *


 背中からアスファルトに叩きつけられた。ぐぅと固い地面に内臓を圧迫されて、呼吸ができなくなる。
 何が起こったのか分からなかった。
 咳き込みながら、要は何とか上体を起こす。
 無事に両足で立っている人間は、ひとりもいなかった。
 皆、膝を折っている。
 榊が、こちら側に述べた腕を一払いした。要に見えたのはそれだけだった。
 次の瞬間、見えぬ風圧に弾き飛ばされていたのだ。
「衰えたものだな、あわれな」
 腕を払った体勢のままで、榊は肩をすくめて見せた。
「これが闇祓いの名家、銀の力か。始祖が見たら哀しむであろうな」
 伸べた手を引き戻して、榊は自らの爪をつまらなそうに眺めた。
 重力が増しているとしか考えられない。上から見えぬ力に押さえつけられ、立ち上がることも出来なかった。
 冷えたアスファルトに掌を突いて、天から押しつぶそうとする圧力に抗う。
「何が、望みだ―――!」
 血を吐くように、雅が詰問した。
 紅を塗ったように赤い唇をゆるめて、榊は雅を見下ろした。
「微弱な力とて、束ねればそれなりになろう。足掻かぬのか、つまらぬな。”踊り食い”のほうが好みなのだが」
 知らず、目が瞠られた。
 今、なんと言った?
「我らを喰うと、そう言うのか」
 慄然としたのは雅だけではない。不覚にも膝を折った現当主が、魔性を見上げて聞き返した。
「汀を喰らい、焔を喰らい、これ以上力を増して、どうするつもりだ!」
「増幅させているわけではない。取り戻しているだけだ」
「それはてめぇの力じゃねぇだろう!」
 咽喉が裂ける勢いで叫んで、気力だけで雅は体を引きずり上げた。
 傍の塀に右手を突いて、なんとか支える。
「力が増えることを、あいつが望んでるわけが、ねぇんだ! 勝手なことをするんじゃねぇよ!」
「弱い狗が吠えるとは、よく言ったものだ」
 右手の人差し指を、ついと動かした。榊がしたことは、ただそれだけだった。
 視界が赤い霧で包まれる錯覚のあとで、痛みはやってきた。
「ッああっ―――!」
 胸元が真横に、ざっくりと裂けていた。
「雅さん!」
「兄さん!」
 肩口から塀にぶつかり、そのまま雅はずるずるとへたりこむ。
「私は奴の意識の一部であるとともに、最早独立した自我も有している。あの体は窮屈だ。だからこそ出てきたのではないか」
「く、……そ……ッ」
 地面に座り込んだまま、雅は拳を傍らの塀に叩きつけた。

 手も足も出ないだなんて。
 ただそこに存在しているというだけで、気に当てられてまともに立ってもいられないだなんて。
 どうすればいいんだ。
 口の中に、鉄の味がする。どこから血がしみてきているのかなど、もう分からなかった。
 傷から溢れたものなのか、唇を噛み締めすぎたのか。
 しかし、突然何かのスイッチが切り替えられたかのように、のしかかる圧力が消えた。
 すぐ傍に、影が落ちた。
 人のかたち。
 見たことがあるような気がして、雅は思わず息を飲んだ。
「雅兄さん、だいじょうぶ!?」
 駆け寄る足音のあと、妹のように面倒を見ている遠縁の娘が顔を覗かせた。
「姫、架」
 うな垂れた首を持ち上げ、今にも泣き出しそうな妹分を見る。
 そしてその肩越しに。
 すっくと立つ男の影。
 脚のあたりからなぞるように見上げた。思ったとおりの面をみつける。
「てめぇ、寝坊にも程が、あるんじゃねぇのか」
 胸に開いた傷を押さえ、肩で息をしながらも、罵らずにはいられなかった。
 物心ついたときから傍らにあった気配が、その藍の瞳を雅に寄越し。
「ごめん」
 短く、詫びた。


            *


―――この話を聞いてどうするのかは、あなた次第だ。ゆだねます。

 アスファルトに散った赤が、なまなましい。
 幼馴染は、白鳥のような男だ。
 必死に水を掻く姿など見せずに、優雅に在る。余裕を保つことこそが、彼の誇りなのだ。
 それをこうも無惨に引き千切った。
 自分から溢れ出した力が―――。
「カズマ……」
 急停止した車の傍らに座り込んでいる少年が、現れた人影を見上げて、その名を呼んだ。
 一馬は呼ばれるままにそちらを見下ろす。
 たった数日会わなかっただけなのに、数年ぶりにめぐり合ったような心地がした。
 こめかみに傷を負ったのか、顎に向けて赤い流れがある。
 服も汚れ、所々は擦り切れている。
「平気か?」
 労わるように問い掛けた。
 要はしっかりと、首を前に倒して応えた。

―――櫛引の家には、こう伝えられている。溢れ出した力は妖のかたちになり、本体を飲み込もうとしたと。そして、当代の夢喰いは―――。

 遥か前方に、神のように在るすがた。
 ゆるく流れる風に銀糸を遊ばせて、朱色の目元口元にあまやかな笑みを湛えている。
 白装束には一点の汚れもない。
 かすかに緩んでいた口元を盛大に引きずり上げ、榊は凄艶に微笑した。
 ざあっと音をたて、その背に漆黒の翼が現れた。
 体を包み守るかの如く、大きく広がる。
「覚悟は出来たか」
 榊は誘うように、手を伸べた。
「”すぐ”だぞ。私にすべてを委ね、諦めれば。終焉(おわり)はすぐそこだ」
 風に運ばれてひとひら、漆黒の羽根が流れてくる。
 一馬は一歩、足を前へ運んだ。
「一馬!」
 魔性に近づく背中に、するどく雅が怒鳴った。
「てめぇ、何する気だ!」
 ゆるりと肩越しに、一馬は怒鳴り声を振り返る。
 絶望も諦めも、静かな面にはなかった。
 呆気にとられ、雅は声を失う。
 とうとう自棄になったのかと思っていたのに。
 渦巻く風に濡れ羽色の髪を遊ばせたまま、一馬はゆっくりと、口を開いた。



「榊を、喰うんだ」



―――顕現した力を喰って、相殺した、と。








【続く】




第十八話

夢喰い

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