十五話 神の名前





 おまえのものだよ。
 他人でも幻でも、錯覚でもなく。
 いつもそこにあるんだ。
 今までも、これからも。


1.

 視界すべてが赤く染まった。
 そんな錯覚を覚え、要は親友に駆け寄った。
「都佳沙!」
 がくりと膝をついて顔を歪ませる都佳沙の肩に手をかける。
 都佳沙の右肩を刺し貫いた触手のような槍は、すぐさま壁に飲まれてしまう。
 上下左右すべて、まるで体の粘膜のような気色悪い壁にはさまれている。悠嵩までは随分と距離を隔てている。彼が先程のように距離など関係なくあの針を繰り出せるのだとしたら、不利だ。
「大丈夫」
 この状況下にあって、その声は不自然なほど落ち着いていた。
 要は、声の主をじっと見た。
 青ざめた横顔は、しかし、静かな微笑をたたえていた。
「君を、がっかりさせたりはしないよ、決してね」
 要は目を瞠った。
「どんな状況でも、君が想定している最悪の事態は回避する。―――してみせる」
 力を込めて呟くと、都佳沙は立ち上がった。
「僕には確かに覚悟ならある。家を守る責任もあるんだ。だけどね、そこに至らないための悪あがきなら、いくらでもするよ」
 渇いた拍手が圧迫感のある空気に響いた。
「うつくしいな」
 悠嵩はどこか恍惚と目を細める。
「そのおうつくしき理想論がいつまで続くのか、見ものだよ」
 優美な仕草で悠嵩は首を傾けた。小首を傾げるような動作だった。
「たとえばこの空間は、私の意のままになる。いつまで軽口を叩いていられるものかね」
 咄嗟に伸びた都佳沙の左腕が、要の体を強く引いた。
 どすん、と不吉な音と共に、決して高くはない天井から先刻の針が床に向かって落ちてきた。
 先程まで自分が立っていた場所に、ずっぷりと刺さっているそれを見て、要は遅れて戦慄した。
「彼は部外者だ!」
 鋭く、都佳沙が怒鳴った。
「身内の揉め事に他者を巻き込むな!」
「枠のうちに踏み込みすぎたのだよ。最早他者とは言えんだろう。分家に名前が知れるまで宗家が構いすぎたのだ。悔いるならば、枠のうちに招き入れた己の失策を悔やめ」
 武士の果し合いとはわけが違うのだ。
 正々堂々、真正面から公正に戦うわけではない。
「巻き込みたくなかったのならば、近づけなければ良かったのだ」
 確かに要は、近づきすぎている。
 多くを知りすぎている。
 地面に刺さった槍が、するすると天井に戻ってゆく。穿たれた穴も、すぐに閉じてしまった。
「我々は反乱軍(レジスタンス)だよ、次期当主殿。革命に、血は流れるものだ。そして、因習に巣食った膿みを押し流してしまわねばならない」
「あなたは本当に、革命を起こしたいんですか」
 震える声が朗とした演説を遮った。
 悠嵩の目がふと、都佳沙に半ば庇われる形の少年に滑る。
 つまらぬものを見る目だった。
「本当にそんな、崇高な理想に従って、動いているんですか」
 少年はぼろぼろだった。いたるところに傷を負い、服には血がにじんでいる。
 要には、ずっと疑問だったのだ。
 悠嵩は宗家の現在の体制が気に入らぬという。
 隅々まで管理され”支配”されるシステム。
 要は細部まで宗家の仕事を知らないから、もしかしたら理不尽な支配が、そこにはあるのかもしれない。
 だが悠嵩には、彼の言動には解放のために血路を開く革命者のような輝きがない。
「このままじゃ、宗家だけじゃない、銀全部がだめになる! あなたのしてることって、そう言うことでしょう!?」
 身食いだ。
 一度、押さえていた不満のたがをはずしてしまえば、暴徒と同じだ。
 たとえ宗家を追い落としたとしても、次の主をたてるまでにまた争いがあるだろう。
 銀は、内から崩れるに違いない。
「……は、あははははは!」
 響き渡った哄笑に、要は怯んだ。
 何故、笑ったのか分からなかった。
「いささか甘く見ていたようだよ、神の子殿。まさか、君に看破されるとは思わなかった」
 尚もおさまらない笑いをなんとか押さえ込みつつ、悠嵩は敵を賞賛する。

「俺は、銀などすべて潰してしまいたいのだ」

 笑いが消えた悠嵩の顔には、ただ、憎しみだけが広がっている。
「宗家分家、そんな”括り”など関係ない。俺は、銀という血そのものを憎んでいるのだ。もちろん、己の身の内に流れる血すらもな!」
 仮面の剥がれ落ちた悠嵩の素顔は、美しき解放戦士ではなかった。
 般若がそこに、いた。
 腑に落ちた、ような気がした。
 要にはずっと疑問だったのだ。奇麗事を掲げているようで悠嵩は形振りを構っていないような気がしていた。この騒乱の後のことなど、何も考えていないような。
 乱すだけ乱し、蹂躙し尽くしたあとに残るのはただの焼け野原だ。
 そこには何も育たない。
 向こう見ずな悠嵩の動きが、ずっと不思議だった。
 それもそのはずだ。
 悠嵩は、何も育てるつもりなどなかったのだ。
 壊滅こそが、終着点。
「たけき者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ。―――この血が俺に強いた屈辱を味わいながら、滅びてもらうぞ」
 巨大な肉食獣の口腔に迷い込んだようにも思えた。
 悠嵩の宣言と共に、上下から飛び出した槍が、まるで牙のようにかみ合わせになったのだ。
 だが、要は無事だった。
 咄嗟に動くことも出来ずに、ただきつく目を閉じただけだったというのに。
 生きている。
 ふと我に帰って天井を見上げれば、自分の立っている周囲だけ、槍が途中で折れているのが見えた。丁度頭上に、見えない半円の壁があるかのように。
 はっと、要は隣を振り仰いだ。
 都佳沙は、顔色ひとつ変えずに悠嵩を睨み据えていた。
 左手は傷ついた右肩を押さえ、無防備に立っているように見える。
 けれども、ふたりを牙から救った”結界”は、咄嗟に都佳沙が張ったものに間違いなかった。
「安心したよ」
 口元が微かに引かれ、酷薄な笑みが都佳沙の顔に浮かび上がった。
「これで、迷わなくて済む」
 傷口から離した手を眼前に持ってきて、それを染める赤に都佳沙は眉をひそめる。
「貴様が銀を改革するために動いているんじゃないんだったら。銀そのものに徒為すつもりなら、手加減は要らないな。大義名分もたつ」
 手を濡らす血を払うように、都佳沙は腕を横に振るった。
 散った赤い水滴が、見る間に白い光を帯び、まるで矢のように悠嵩に向かって飛んだ。
 無数の光の矢は、悠嵩の体のあちこちを掠って通り抜け、消えた。
「大きな意味でお前も銀を”守ろう”と思っていたのだとしたら、躊躇うところだけど。僕は銀の守護者だ。お前が潰す、と言った以上、危険因子は排除する」
 体のあちこちから鋭い剃刀で切ったような痛みを感じながら、悠嵩は歯噛みした。
 無数の形なき刃は、体のいたるところに傷をつけて通り過ぎた。
 すべてかすり傷ばかり。
 悠嵩が避けたわけではない。
 都佳沙が”当てなかった”のだ。
 威嚇と蔑み。
 明らかに手加減をされて、悠嵩は歯軋りをする。
 血を媒体にしたとはいえ、ここが結界内の非現実的な空間であるとはいえ、あれだけ鋭利な衝撃波を一瞬で作り出して見せるとは。
「ばけもの、か」
 しかし、悠嵩は嬉しそうに笑った。
 永きに渡り、身の内に妖の血を入れつづけてきた宗家の末裔。
 この呪われた血の源。
 ならば、そのぐらい禍々しい”わざ”、やってのけてくれなくては。

「これで思う存分、総てを呪うことが出来そうだ」



2.

 どこか、尖った先端から、雫がおちる音がする。
 ひたりひたりと。絶え間なく、心音のように。
 脈々と血を生み出す、心臓の営みのように。

 生きるということは並べて他者の命を搾取することと。
 “ひと”とは違う生きものだから割り切れと。
 人が草花や動物を自らの体に汲み取るようなものだと思えばいいと。
 言うけれど。

 ひととして生まれ、ひとと信じて生きてきた。その年月までも、なかったことにはできない。
 脆弱で、意気地なしなのだから。
 “ひとでなし”と指をさされて、はいそうですか、とは頷けない。
 ひとで、ないのなら。
 永らえても仕方がないのかと思うときもある。
 同時に、脈々と継がれてきた血を簡単に投げ捨てられない自分にも気がつく。
 父が、その親が、血の源を食い殺しながらここまで、つないできた流れだ。
 そのふたつを考えるうちに、自分が一体どうしたいのか、分からなくなる。

 雫は絶え間なく落ちている。

 誘惑は実は、常に存在していた。
 背に寄り添うように。
 もしも自我を手放してしまえたら、楽になれるのだろうか。
 同時に、安易な逃げ道へ駆け込もうとする自分の脆弱さも嫌悪した。
 裏表として、くるくると翻りながら、いつもそこにあった。

「見ろよ」
 良く通る少年の声が聞こえた。
 未だ高い、声変わりも終えていないような涼やかな響きだった。
 分厚い闇の奥で、青白い光が揺れている。
「おまえが置き去りにしていったものを」
 鑿を打ち込むように鋭く刻みつけてくる言葉だった。
 鬼火はゆらゆらと漂っている。
「なぜ、愚鈍な皮を被ろうとする。おまえはあのときに、本来の器用さを全部ここに捨てていった」
 耳に馴染むどこか懐かしい声音は、糾弾をやめなかった。
(あれは、器用さなんかじゃなかった)
 今ならば分かる。
 狡猾な目を持っていただけだ。
「鋭さを放棄して、個をすてて、周囲に溶けようとする」
 鋭さではなく、傲慢さだ。
 個ではなく、我だ。

 すべてのものが自分とは別の生きものに思えていた。

 けれど今まで感じていた手ごたえの無さが、この身の内に流れている妖の血の作用なのだとしたらどうだ。
 何も自分が優れているわけではない。
 血が違うだけだ。
 認めたくはない。
 帳消しにしたかった。
 なまぬるい水に浸り続けるためになら、どんな我も要らない。
 ひとでいるためならどんなことだって―――。

「気づいてるだろう、完全に切り離せるわけじゃないんだ。生まれ変わったわけじゃない。おまえがここに置いていこうとしているものは、常に傍にある。賢さも、冷酷さも、なにもかも。無理に押さえ込んでいるだけだ」
 それも、知っている。
 ふとした瞬間、理性の隙間から表出しようとする剥き出しの感情のことを。
 ひどく独善的で、自分の周囲以外のものなど顧みない傲慢さのことを。
「なんのために」
 裸足の足音がひたひたと、近づいてきた。
 雫の落ちる音にかさなる。
 気づけば、すぐ傍に子どもが立っていた。
 幼い頃の自分が。

「なんのためにおまえは”俺”を、殺そうとするんだ」


            *


 肩口が裂けた。
 しんと冷えた風に錆に似た臭いが混じる。
 右の膝からくずれた。
「いくじなし!」
 無様に膝をついた背に、罵声が飛んできた。
「男って血を見るとすぐにそれやから!」
 カモシカのように締まった脚が、視界に割り込んだ。たどるように見上げると、白装束を所々朱に汚した小柄な女の姿がある。
 毅然とした台詞とは裏腹に、全身で呼吸をしている。消耗しているのは確かだった。
「バケモンやな」
 口の端をゆるめて、陽が笑う。苦味がにじんでいた。
「ふたりがかりで、この”ザマ”か」
 こめかみから顎にかけて、透けるほど白い肌を赤黒い雫がつたって落ちている。
 陽もまた、満身創痍だった。
 その元凶は、空に在る。
 紅蓮の目で宙を睨んだ。
 泰然と在るのは漆黒の炎だ。
 平安の世を騒がせた鴉天狗の右腕は、やはり伊達ではない。
 相手とて無傷ではないのに、決定的な損害(ダメージ)を与えられずにいる。
 今では逆にこちらのほうが、じりじりと削り取られている。
 叶は、痺れてあまり感覚のない脚で立ち上がった。
 後頭部のあたりが靄につつまれているようにぼうっとする。
「牙を抜かれたな」
 いまやその身をも憎悪の炎で燃やしている焔は、地を這う二匹を蔑んだ。
 黒の衣は彼方此方が裂け、たしかに赤い血を流してはいても。
 あまりにも猛々しく殺気に満ちていた。
 叶は右の手で左の肩に触れる。指先がすべった。ざっくりと開いた傷口を思った。
 決して自分の視野には割り込んでこないはずなのに、柘榴のようになまなましい傷口が視えた。
 これほどの傷を負わされたのは、いったい何時ぶりのことか。
「魂を抜かれた哀れな木偶、鼠のように逃げまわるのはやめろ」
 焔が、ふたりに右の掌を向けた。
 そのたなごころから、漆黒の炎が生まれた。
 見る間に渦を巻き、膨張し、球のかたちになる。
 陽はひくく身構えようとして、よろめいた。
 あの炎は厄介だ。
 すぐ傍まで近づいて、四方に砕け、全身を剃刀の鋭さで切り刻む。
 切り傷の痛みだけではなく、煉獄の熱さも共に残してゆくのだ。
 気が狂いそうな痛みだ。
 これ以上喰らうわけにはいかない。しかし、避けるのにも体力を消耗するのだ。
 何か打開策が見つからなければ、このままいたぶられる。
 猫のまえに引きずり出された鼠のように、転がされ弄われ、終いには喰われてしまう。
 己の牙が唇を噛み破って、叶は我にかえった。
 ほんの一瞬、意識が途切れていた。
 すぐそばにある陽の体も揺らぐ。
 既に臨界はこえている。気力だけで立っているようなものだ。
「終いにしよう」
 もはや赤子にひとしい同胞をいとおしむように見下ろして、焔が笑んだ。
 慈愛の顔だった。
 漆黒の炎は、いまや人の頭ほどに膨張している。
 次をまともに喰らえば、まさに終いだ。
 身構えようと、感覚の切れた脚を叱咤しても、上手く動かない。
 これほど無力だっただろうか。
「それほどさみしいか」
 炎がまさに地に放たれようとしたとき、場違いにかろやかな、からかう声音が割って入った。
 どっと背から胸に衝撃が貫き、右手に集めた漆黒の炎が霧散する。
 ふと、焔は己の胸を見下ろした。
 鏃(やじり)が。
 白銀に輝く矢の先端が、赤黒い液体をからめ、胸から突き出していた。
「それは、悪いことをした」
 ともすれば霞む視界で、叶は屋敷の屋根を見た。
 白銀のかがやきがいつのまにか、そこに在った。
 凍えるような風に糸の如き銀髪をたなびかせ、屋根のへりに片脚を立てて座っている。

 焔は胸を貫く矢を、右手で握った。
 ふりかえらずとも。
 其処に何があるかは分かっていた。
 神と焦がれ、それと同時に全身で憎悪していた。
「ならばおまえもおいで」
 あまやかな声が促した。
「汀のように、そばにおいで」
 緩慢な動きで、焔はようやく声の主をかえりみた。
「汀の、ように?」
 噛み締めるようにつぶやいて、焔は屋根に泰然とある主と向き合う。
「喰われろと、言うのか」
 榊は笑った。
 凄艶に。
「元にもどるだけだろう。おまえたちは、わたしの力から分かたれたのだから」
 右腕を誘うように伸ばし、当然の真理であるかのように榊は告げた。
 神の顔で。
「貴様の、持ち物とはちがう」
 鏃から滴る赤黒い血液が、空中で黒い炎に変わる。
 螺旋をえがくように、焔の体を包んだ。
「つれないな」
 顔の片方だけをゆがめて榊が苦く笑う。
 潔癖症の子どもを見守る顔だった。
 上から下をながめるしぐさ。
「殺してくれる」
 歯軋りをして、焔は怨嗟を吐いた。
「ほう?」
 榊は優美に眉を持ち上げる。
「儂らの忠義を裏切ったことを悔いるがいい!」
 粘土細工のように、焔の体が歪んだ。
 人のかたちが崩れて、巨大な鳥のものに変わる。
 身が竦むばかりの殺気を向けられ、何故か榊は。
 口元の笑みを深くした。
「あかん!」
 縁側から悲鳴が上がった。
 ことの成り行きを見守っていた紅子が、叫ぶ。
「これ以上榊に力をやったら……!」

 艶やかな濡れ羽色の双翼を広げ、鋭い嘴で焔が一声高く鳴いた。
 屋根を見下ろす高さまで舞い上がると、下方にむけて一本の矢のように身構える。
 見えない手によって弦が引かれるのと、本能的に陽が地を蹴ったのはほぼ同時だった。
「御園!」
 縁側で呆然と佇む紅子の体を乱暴に上から押さえ込む。

 光が爆発した。

 視界を灼き尽くす眩しさに、叶は思わず目を庇う。
 局地的な縦揺れが、中庭を乱暴に揺さぶった。
 静寂が訪れた。
 光の残像を残す瞳を、叶は開いた。
 雪の動きで、はらはらと黒い羽根が落ちてくる。
 禍々しい鳥の姿も、白銀の魔物の影も、どこにもなかった。



3.

 タイヤが砂利を噛む。
 まだ夕暮れには早い。というのに、その屋敷はひっそりと静まり返っていた。
 空気だけが、騒いでいる。
 なまぬるい手が肌のいたるところを撫でてゆくようだ。
 砂利が敷き詰められた車留めに借り物の乗用車を停めて、雅は屋敷を仰ぎ見た。
 京分家と同じような純和風の屋敷の奥に、建て増ししたような洋風の建築が酷く不安定に観えた。
 九条の門は、ひらかれていた。
 躊躇わずに車を乗り入れて、前庭に停める。
 急いで出てきたから、コートなんてもちろん持ってきていない。
 如月の京都は底冷えがする寒さだろうに、空気が孕む不穏な熱で、冷気は感じられなかった。
 砂利を数歩踏んで屋敷に近づいたところで、何かの境界を踏み越えたことに気づく。
 もちろん目には見えない仕切りだ。
 ぃん、と耳鳴りがした。
 結界を、踏み越えた。
 相手方の、領域に入った。
 にぶく痛む胸をかるく撫でて、更に一歩踏み込む。
 たとえ罠だとしても、引くつもりはなかった。

 ふっと、前方の空間が歪んで、ゆらいだ。
 蜃気楼のように捩れる景色に、目を眇める。
 黒い細かい霧が一点に集まり始めていた。
 徐々に形になる。ひとの、かたちに。
「宗家の御次男とお見受けするが」
 霧の塊から声が投げられる。
 感情の起伏が感じられない平坦な男の声だった。
 黒い影にやがて目鼻が出来、”人らしく”なった。
「おまえは?」
 長身の部類に入る雅と、大して体格は変わらない。若い男の恰好だった。
 だが。
「人じゃあ、ないな。何者だ」
 青白い肌を持つ青年は、口元をすこしだけ笑みの形にゆるめる。
「名は朝桐と呼ばれている。悠嵩のところへ行かせるわけにはいかない」
「退け」
 建前をすてて、端的に雅は告げた。
「手前に構ってる暇はねぇんだ」
「承服しかねる」
 まばたきもせずに、朝桐と名乗る男は跳ね返した。
 人間の姿かたちをしていて、ビジネスマンのようなスーツに身を包んでいる。が、しかし気配ばかりはごまかせない。
 彼は妖だ。
 懐でふつふつと煮えていた憤りが、咽喉元までこみ上げてくるがわかる。
「何ゆえに悠嵩に従う。どんなしがらみで縛られてるっていうんだ」
 九条の家に、契約をしている使い魔はいなかったはずだ。
 ならば、これは何故立ちはだかるのか。
「ひとと妖との繋がりが、呪縛のみとしか考えられぬのは、狭量だな」
 かわいそうに、と朝桐が笑った。
「わたしは自ら望んで、彼と共に在るのだ」
 契約や服従などという呪縛ではなく。
 そこに自らの意思があるのだと言うのか。
「わたしは幼き頃から、あの方の傍に在る。自らの望みで。だからこそ、あなたを通すわけにはいかない」
「可愛い子どもたちを迎えに来たんだ。通してもらうぞ、―――力ずくでもな」
 唇を不敵な形にゆがめておきながら、雅の目には欠片も温度はなかった。
「俺が腹に据えかねてるのはな、無関係な子どもたちまで巻き込むてめぇらの性根の腐りかただ。気をつけろよ、俺は随分怒ってるんだぜ」
「銀の血が我々に強いた地獄を思えば、ぬるいことだ」
「地獄! それは大層だな!」
 雅はわざと大仰に声を上げた。
 酷く残虐な気分になっていた。
 何もかもが忌々しい。
 子どもすら巻き込む敵方のやりくちも、悲劇の主人公を気取るような妖の台詞も、鈍い痛みを訴え、思うようにならない自らの体すらも。
 忌々しい。
「退けよ、手加減なんて出来る余裕はねぇんだ」
 切羽詰るほど、加減は難しくなる。
「加減など要らぬ」
 朝桐の足元で、かすかに風が渦巻いた。
「殺すつもりで、来るがいい」
「へぇ」
 口元を引き上げて、雅は笑って見せた。
 ジャケットの内から煙草のボックスを取り出し、一本を引きずり出す。
「余裕だな、舐められたもんだ」
 メンソールを口元に運んで、慣れた所作で火をつける。
「お言葉に甘えて、通してもらうぞ」
 一口紫煙を吐き出すと、雅は指先を弾くようにして未だ長い煙草を朝桐に向けて放った。
 放物線を描いて、妖の足元に落下した途端、その火種から爆発的に火炎が上がった。
 青白い、狐火のような炎が、生気のないばけものの体を足元から舐めるように包む。
 やがて人の形が炎に飲まれ、ゆっくりと黒ずんで崩れてゆくのをつまらなそうに見遣って、雅は大股に脚を運んだ。
「拍子抜けだ」
 消し炭の如くに崩れた”もの”の傍を、小さく肩をすくめて通り抜けようとする。
 ところに。
「雅さん」
 足元に崩れた妖の残骸あたりから、声が聞こえた。
 とても、聞き覚えのある声だ。
 愕然と視線を足元に転ずると、未だ燃え盛る鬼火の最中にうずくまる人影が見えた。
 女にも劣らぬ端正な顔立ちの所々が、赤黒い血で汚れている。こめかみあたりに大きな裂傷があって、そこから顎へ伝う流れが痛々しい。
 炎に飲まれながら、雅の足元へ縋るように腕を伸ばしてくる。
「どうして、―――僕をころすの」
「要……」
 喘ぐように、雅は少年の名を呼んだ。
 血に塗れた要が、炎に包まれたままで雅の脚を掴む。
 ぞっと背筋を遡る悪寒に、思わす雅はその手を脚で払う。
 殺気を背後で感じたのはそのときだった。
 振り返ることも間に合わず、焼けるような痛みが左肩に走った。
 朝桐は、背後にいた。
 青白い指先が赤く汚れている。妖の手を汚す血がどこから流されたものかなど、想像したくもなかった。
 じりじりとした痛みは左肩のあたりだ。
 背後から、あの手にやられたのだろう。
 右手の指で触れると、濡れた感触がある。
 左肩を庇いながら距離を取る。
 その間にも、鬼火に焼かれたはずの人影を探すが、そんなものはどこにもない。
 もちろん、要もどこにもいなかった。
「……幻術、か」
 歯噛みをして、雅は朝桐を睨み据えた。
 相も変わらず、朝桐の顔には温度が感じられない。
「どうぞ、殺すつもりでいらしてください」
 指先に絡まった赤い汚れに舌を這わせて、抑揚にかける声で朝桐は言う。
「そのたびに、同胞の断末魔を聞かせて差し上げよう」
 そのとき、初めて朝桐の口元に寒々しい笑みが浮かんだ。
 妖艶さと侮蔑と残虐さとがまざりあったような。
 舐め取った血で濡れた唇が、やけに赤い。
「本性表しやがったな」
 ともすれば揺らぎかける意識を痛みのみでつないで、雅は吐きすてた。
「―――わたしと悠嵩が味わったのは、幻などではない」
 深い洞のようにとろりとした漆黒の瞳の底には、静かな憤怒と殺意が見え隠れしている。
「我々は、数多の同胞をこの手にかけなければ、生き残ることが出来なかった。あの血の池を、地獄と呼ばずして何と呼べばいい」
 ふつふつと、底の方で滾っていた怒りが、すこしずつ表面に波紋を作り始めた。
「銀の名で生きるために、悠嵩に強いられたことは何だと思う」
「何?」
「闇を祓うものとして、常に身近にいた妖たち、すべてを己の手で始末することが、銀の名を名乗る条件だった」
「……悠嵩は”魅了の手”、か」
 ようやく糸がほどけてきた。
 霊媒の力を持つものの中には、いとも簡単に妖を手なずけてしまうものがいる。
 種別の差という壁を、容易に越えてしまえる力だ。
「魅了などという魔術ではない。我々は望んで、悠嵩の傍にいたのだ」
「―――何が望みだ、宗家の失脚じゃないな」
 何やら、大きな勘違いをしていたのかもしれない。
 悠嵩の望みは、下克上などではないのか。それどころではないのか。
「身の内から、食い破ってやる」
 頤を持ち上げ、朝桐は凄艶に微笑した。
「宗家の敵、どころの話じゃないわけだ」
 鈍い痛みを訴えていた腹部も、左肩の裂傷も、気にならなくなった。
 腹のあたりが妙に冷えてゆくのは、怒りが収まったからではない。
「この喧嘩、高価くつくぜ」
 たとえ、どんな私怨があったとしても。
 理に適った革命などでないのだとしたら。
 容赦は要らぬはずだ。

 宗家として、数多に分かれた家を統括するためとはいえ、強引なことをやってきたことは、骨身にしみて分かっている。
 だから、僅かな後ろめたさこそあったのだ。
 分家の言い分も一理はあると、分かっていた。
 しかしそれが、建前なのだとしたら。
 うまく踊らされていたわけだ。
 ひどい茶番だ。

 雅は、あっさりとスーツの上着を脱ぎ捨て、放った。
 申し訳程度に絡まりついていたネクタイを勢いよくゆるめる。
 右腕のシャツを力任せに肘まで捲ると、骨っぽい腕が外気にさらされた。
 腕から指先まで滴ってきた血で、右の手の甲に文様を描く。
 円を描き、その円を貫くような一本の線を、肘のあたりまで長く引く。
「描き方、忘れてなかったな」
 蔦状の文様をいくつか書き加えてから、雅は自嘲気味に右腕を見下ろした。
「元々、得物を使うのはあんまり好きじゃなくてね」
 奇妙に彩られた腕の先で、拳をゆるく握っては開く。
「少々消耗が激しくはなるが、しょうがないな」
 不敵に微笑して、雅は一歩で朝桐との間合いを詰めた。
 咄嗟のことに身を捩る朝桐の首あたりを、雅の手の甲が掠めてすぎた。
「っ―――!」
 途端、焼け付くような痛みに朝桐がうめく。
 触れた場所が、火傷のように爛れた。
 後方に跳んで、朝桐は素早く距離を置く。
 近づいてはいけない気がした。

「咽喉を狙ったんだが、そう上手くはいかないな」
 大仰に肩をすくめる素振りが、茶化しているようにも見える。
 触れただけで、妖をいとも簡単に滅しようとする力、か。
 並大抵の力ではない。
 素質と、血と、それから鍛錬か。
 もはや人というよりも―――。
「貴様らも、ばけものか」
 憎々しげに、朝桐が吐き捨てた。
「上等」
 いまや刺青のように肌にくっきりと浮かび上がった文様をさらして、雅は笑った。
「俺だって腐っても宗家の男だからな。家を守るためなら、なんだってするさ。なんてったって、おうちラブですから?」
 左肩の負傷は決して軽いというわけではない。肋骨も、折れてはいないとはいえ、皹ぐらいは入っているだろう。
 しかし、笑う余裕が戻ってきていることに、雅自身おどろいていた。
 気分が高揚している。昂ぶっているのは。
 獲物を狩る猟犬として育てられた業なのだと、改めて知った。
 救えない。
「死ぬ気で逃げろよ、狙った獲物は逃さない主義だからな。さもないと、火傷するぜ?」
 眼前に掲げた腕が、ぼんやりと赤い色に包まれている。
 それが立ち上る力の発露なのだと、気づかないわけにはいかなかった。
 家を出、銀の仕事とは距離を置いているという噂の次男だが、とんだくわせものだ。
 小さく舌打ちを零し、今度は朝桐のほうが地を蹴った。
 刃物のような鋭さを持つ爪を振りかざして、一気に雅に肉薄する。
 大雑把な動きに、雅は容易く相手の腕を受け止める。掴んだところから、酸をかけたように溶けはじめ、不気味な煙が上がった。
「飛んで火にいる何とかって―――」
 単調な攻撃を受け止めたあとで、雅は、呼吸を忘れた。
「殺せよ」
 間近に、昔馴染みの顔を見た。
 深い、藍の双眸を翳らせて、痛みを堪える顔をする。
「くそっ……!」
 力任せに身に迫る鋭い爪を押し返しながら、雅は吐き出す。
 まぼろしだ。
 そんなことは分かっている。
 理解している。
 これが都佳沙や要であったとしたら、割り切って、この腕で刺し貫くこともできるだろう。
 所詮幻なのだ。
 だが、こればっかりは。
「ふざけた真似、しやがって……!」
(おまえは、何も分かっちゃいない)
 眼前にいるのは妖であって、一馬の姿などまぼろしなのだ。
 しかし、理屈で分かっていても、体が言うことを聞かない。
 ふつふつ、別の男に言いたい文句ばかりが、咽喉元に這い上がってくる。

 己が今、確かにこの次元に在るということを、分かっちゃいない。
 まぼろしのように、消えてなくなってしまえるとでも、思っているのか。
 呆気なく、泡と消えてしまえたならば、おまえは楽だろう。
 だが、遺された波紋はどうしてくれる。
 ひとではないとして、化け物であったとして。
 それでも、おまえが在ることで。
 成り立っている空間をぶちこわしてゆくのか。
 失われたバランスを取り戻すために、嘆く人間がいるってことを。
「おまえは、何も分かっちゃいないくせに……!」

 殺せと、簡単に言うのか。

 自分ひとりがいなくなっても何も変わらないだなんて。
「馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
 怒鳴りつけ、雅は見慣れた姿を乱暴に撥ね退けた。
 一馬の恰好をしたものが、よろめくように後ろにさがった。
「おまえの仕事だろ?」
 記憶をなぞるように、一馬は薄く笑う。
 魔物を殺すことが生業なら、殺せというのだ。
 一歩、間合いを詰めるように。追い詰めるように、近づく影にたじろいだ。
 何度も言い聞かせるのだ。これはまぼろしだ。
 まぼろしだ、のに。
 いつか、訪れるかもしれない現実と、かさなる。
 審判の日のことを、幾度もシュミレーションしたはずだ。
 断崖絶壁まで追い詰められたならば、他の誰にも譲らずに、自分で執行するだろう。
 けれど、最後の最後まで、粘るつもりだったのだ。
 覚悟なんて、していない。
「もう、いいよ」
 眼前の男は、穏やかに微笑して見せた。
「終わりにしよう」
 また一歩。こちら側に踏み込む足。
「あのとき、来なければよかったんだ、俺のところなんかに」
 フラッシュバック。
 血まみれの座敷の情景が、まざまざと蘇る。
 あそこへ、行かなければ良かったと、言うのか。
 だって、行かなければ―――。
「そうしたら俺も、おまえも、辛くならずに、終わりに出来ただろう」
 幻だと分かっているのに、勝手に体が動いた。
 伸ばした左腕で、相手の胸倉を掴む。

 見殺しに、すればよかったっていうのか。

「ふざけんな!」
 力任せに右の拳で殴りつけた。
 怒る相手を間違えている。そんなことは分かっている。
 けれど、この憤りを。
 どこにも持ってゆけなかった。
 殴られたまま、相手の首がうな垂れる。漆黒の髪に顔が隠されて、目は見えない。
 けれど口角が、三日月のように持ち上がっていた。
 拳をうけた頬が、じわじわと黒く変色し、爛れてゆくのが見えた。
 頬から顎へ、顎から首筋へ向かって。
 腐敗がひろがる。
「おまえは甘いな、雅」
 うな垂れた首を持ち上げて、藍の瞳で真っ直ぐに雅を射抜き、男は笑った。
 どっと、鈍い衝撃を腹部に感じた。
 一瞬遅れて、右の脇腹あたりが焼けたように熱くなる。
 相手の胸倉を掴んでいたはずの左腕からすとんと力が抜けて、はなれた。
 間合いを取ろうとする足がもつれる。
 できれば見たくはなかったけれど、ゆっくりと目を自らの腹部におとした。
 右脇腹のあたりが真っ赤に染まっている。
「宗家の覚悟とは、そのぐらいのものなのか」
 未だ幻をまとわりつかせたまま、朝桐が嘲弄する。
 悪態をつこうとしても上手く行かず、逆に咳き込んだ。咽喉の奥に血の味を感じる。
「我らが見た地獄よりは温かろうが、そろそろ終わりにしようか」
 赤く濡れた左腕をつまらなそうに眺めて、朝桐がつぶやいた。
「おまえに、俺は殺せないんだろう」
 一馬の声色を真似て、せせら笑った。
「下種、がっ……!」
「上等、だな」
 やけに優美に口元をゆるめて、朝桐は右腕をもちあげた。
 疫病患者のように醜く爛れた指の先で、爪ばかりが鋭く光っている。
「次は首だ」
 身を低く構えた。
 獲物に飛び掛る前の、獣の動作に似ていた。
 一撃でも喰らったら、流石に耐えられない。が、脚に思うように力が入らなかった。
 思ったよりも、血は失われているのかもしれない。
「終わりだ!」
 吠えて、朝桐が砂利を蹴った。
 唇を噛み破る痛みで一瞬だけでも、体の自由を取り戻さなくては―――。
 しかし肉薄する妖の動きは見えても、体が追いつかない。
「くそっ……!」
 振りかざされた爪を何とか、文様の浮いた右手で受け止めようとした、瞬間に。
 朝桐の動きがぴたりととまった。
 空間に縫いとめられたかの如き空白のあとで、なにかの発作でも起こしたかのように、体をくの字に折った。
 朝桐は、その場に蹲って激しく咳き込んだ。すっかりと幻術の解けた妖の右肩に、ずっぷりと小刀が突き刺さっているのが見える。
 がちゃん、と重々しい音を立てて、雅の足元に何かが落下した。
 音に導かれるように、足元を見る。
 うつくしい光沢を持つ漆の鞘と、それにおさめられた日本刀―――。
 砂利に膝をついて、雅は見覚えのある刀に触れた。
「全く、今も昔も手のかかる弟だ」
 砂利を踏む足音が近づいて、さっと傍に影がさした。
 顔を上げずとも、最早誰がそこにいるのか、雅には分かっていた。
 肌に馴染んだ気配だ。禍々しく濁った空気を清浄にする。
「貴様っ……!」
 朝桐は憎々しげに闖入者を見上げ、肩から小刀を抜き取った。
 着物姿の男は、大した感慨もない様子で無様に膝をつく妖を一瞥してから、弟に視線を流した。
「約束のものだ、持っていけ。ただし、抜いたあとのことは自分で負え」
「ザマぁないな」
 自嘲気味にこぼし、雅は肌に吸いつくような漆の鞘を握った。
「全くだ。帰ったら母君に説教してもらうことにしよう」
「……それだけは勘弁」
「ここは代わってやる。さっさと行け」
「借りておく」
 緩めた口元を引き締めて、雅は腰を上げた。

「さあ、どうする」
 弟の背が見る見る小さくなるのを視界の端におさめながら、四十がらみの男は手負いの獣を見下ろした。
「残念ながら、私は弟のように甘くはないぞ」
 息子にもしっかりと受け継がれている漆黒の双眼をすがめて見せる。
「自ら、お出ましとは」
 いたるところに傷を負いながら、朝桐は不敵に微笑してみせた。
 とうとう櫓の頂点までも引っ張り出した、というわけだ。
「雅もつくづく情けない。あれだからいつまでも詰めが甘いのだ」
 出来の悪い弟に嘆息してみせるその姿には、緊迫感などは感じられない。
 しかし、朝桐は。
 身を切るようなつめたさを確かに感じていた。
 冬の寒さともあきらかに違う。質の違う冷気。
「幻術使いか。珍しいな」
 涼やかな顔立ちを僅かにくずして、男は笑った。
「しかし、私は若輩なれど銀の柱を担う身だ。いかなる理由があろうとも、情けをかけるつもりはない」
「妖を屠り、英雄気取りか!」
 唾棄するように吐き捨て、朝桐は立ち上がる。
 手にした小刀を砂利の敷き詰められた地面に投げ捨てた。
「英雄?」
 和服の男は眉をひそめた。
「違うな、我々は料理人と同じだよ」
 右手を左の袖に差し込んで、男は教師のような顔で朝桐を見た。
「料理人は俎板の上の魚に対して、”かわいそう”とは思うまい」
 刻むことを、生業とするのだから。

 言葉の意味が伝わるまで、少しばかり時間が要った。
 銀の柱の面には何の感情も浮かんでいなかった。
 それこそ料理人が呆気なく魚の首を、生きたまま落とすかの如く。
 少しばかりの感慨も、持ち合わせていない。
 朝桐は初めて、恐怖を覚えた。
 獣として、天敵にめぐりあった時に覚える、本能的で純粋な。
「宗家の覚悟と、言っていたな」
 風が、横から殴りつけた。
 きびしい、底冷えのする京都の、冬の風。
 和装の、濡れたような漆黒の髪を揺すって、過ぎた。
「見せてあげよう」
 酷薄な形に男の唇が緩む。愕然とそれを見る朝桐の視界に、はらりと何かが迷い込んだ。
 はじめは、雪かと思った。
 牡丹雪のような、大粒の雪がひとひら、降ってきたのかと。
 しかしそれは、雪などではなかった。
 青みを帯びた、火の粉。
 気づけば、小刀を受けた右肩から、静かに燃えはじめていた。
 燐を燃やしたようなうつくしい炎。
 熱はない。
 ただ、侵食されてゆく。
 原子から分解されてゆくようだ。
 炎は肩から腕にくだり、また首元に這い上がり、舐めるように広がってゆく。
 物理的な炎ではないから、はたいて消せるものではない。
 朝桐は、憤怒を剥き出しにして霊媒師の頭領を睨み据えた。
 青白い炎の只中で、朝桐の体が陽炎のように揺らいだ。
 捩れた空間が平らかに戻ったときには、ふたたび朝桐の姿は変わっている。
 吹き付ける冷風の中で、濡れ羽色の髪が揺らいだ。
 銀を担う男は、わずかばかり眉を持ち上げる。見慣れた姿だった。
 まやかしの姿で、まろぶように男ににじり寄った。
 満身創痍であり、煉獄の炎に焼かれているその姿は、あまりにも痛々しい。
「父さん……」
 血の気を失った唇が、喘ぐように零した。
 止め処なく血を流す右肩を押さえて、縋るように歩み寄ってくる細身の体を、穏やかに微笑して、男は受け止めた。両肩を、支えるように抱いてやる。
 都佳沙の玲瓏とした面に、安堵とも侮蔑ともつかぬ笑みが広がった、刹那。
 左胸を貫いた熱さに、朝桐は瞠目した。
 半拍を置いて、痛覚がついてくる。
 ありえない質量が、左胸にめり込んでいる。
 生温かいものが腹のあたりからこみ上げるのを、堪えることもできなかった。
 口の端から鉄の味がするものが零れてゆくのを感じながら、朝桐はゆるゆると、自分の左胸を見下ろした。
 肩を抱くように添えられていたはずの手が、左胸に埋まっていた。
「どう、して」
「これが、宗家の覚悟だ」
 息子の姿をしたものの、左胸を背中のほうまで貫いて尚、その表情に揺らぎはない。
 メッキがはがれるように、妖の姿は都佳沙のものから、本来のものへと戻りはじめていた。
 鬼喰いの炎に包まれた体から、ゆっくりと差し込んだ腕を抜けば、どっと赤い飛沫が流れ出す。
「どうして、わたしたちを……」
 粘土細工のように、朝桐の形がくずれてゆく。
 ぼろぼろと落ちるそばから灰になって、風に攫われてしまう。
「ほうって、おいて、くれなかったのか」
 膝を折って、地面にくずれ、朝桐は前のめりにたおれた。
 全身を舐めるように燃え盛っていた炎も少しずつ薄れ、終いには。
 そこには何も残らなかった。

「業は、深いな」
 赤く濡れそぼつ右腕を見下ろし、銀一門の束ね、銀始は深い溜息を落とした。



4.

 頭上で、ぐちゃりと音がした。
 粘性のものが壁に叩きつけられる音にも聞こえた。
 周囲には都佳沙が張ってくれた結界がある。そのお陰で、四方から襲い掛かる臓腑のような針には刺されずに済んでいる。
「どうした」
 せせら笑う声に、要は真正面を見た。
 口元にゆがみを刻んで、異空間の主は両腕を広げて見せた。
「守ることで手一杯か、大事な大事なおともだちを」
 要は息を詰めて、傍らの友人を振り仰いだ。
 都佳沙の表情はきびしい。
 血の気の失せた顔で悠嵩を睨め据えたまま、深く呼吸している。
 良く見れば、額やこめかみのあたりにうっすらと汗が滲んでいるのが見える。
 都佳沙のそんな姿を、要は今まで見たことがなかった。
 消耗しているのは、あきらかだった。
(僕の、せいだ)
 悠嵩に現実を突きつけられたりしなくても、分かっていた。
 都佳沙が自由に立ち回れないのは、要が傍にいるからだ。
 庇われている。守られている。
 足手まといになっている。
 要は、噛み切りそうなほどに唇を噛んだ。
(どうしていつも、僕はこうなんだろう)
 いつだってそうだ。
 誰かの背に庇護されている。
 大人になったつもりでも、虚勢を張ってみせても。
 いざというときにひとりで立てなければ、何の意味もないじゃないか。
 どうしてこんなときに、折角使い方を教えてもらった力が発揮できないのか。
(ヒカリ―――)
 気づけば、胸を押さえていた。
 自分の内からさえも、いつだって守られていた。
 彼ならば、現状を打開できるだろうか?
 安易に縋りかけて、愕然とした。
 また、頼ろうとしている。誰かの、力に。

―――おまえのものだよ。
 そのとき。
 耳に馴染んだやわらかい声が、耳元に蘇った。
 いつか。
 ずっと昔に。
 聞いた言葉だった。


            *


 昔のことだ。
 不意に、居間のソファーで目を覚ました。夜中にだ。
 たしかに、宛がわれた部屋のベッドにいたはずなのに。
 むくりと体を起こすと、すぐ傍で気配が動いた。
 目が覚めたのか、といたわる声に安堵しかけて、息が止まった。
 相手のこめかみあたりに、赤い色が見えたからだ。
 急に震えがきた。
 ソファーの表についた腕が、冗談のように震えている。
 不覚、と顔に書いて一馬は目を逸らした。
 蛇口が壊れたかのように、どっと涙が溢れた。
 どうして。
 傷つけたくなどないのに。
 どうして彼は。

 あの頃は、自分の内側の誰かが、恐ろしくてたまらなかった。
 意識が途切れた場所とは、ちがうところで目を覚ましたり。
 たくさんの形あるものを無惨に踏みにじったりする、見えない手がおそろしかった。
 できることならば、逃げてしまいたかった。
 体のどこかを切り裂いて引きずり出せるなら。
 体を変えることで逃げ切れるものならば。
 そうしたかもしれない。

―――だけどそれは、おまえのものだよ。
 眠ることも怖くてたまらなくて、ベッドの上で頭から毛布をかぶる。
 体を小さく折りたたんで蹲る肩を、撫でた手があった。
―――他人でも幻でも、錯覚でもない。
 慰めに、絶望した。
 だったら。
 他人でも幻でも錯覚でもないのなら。
 逃げられないじゃないか。どこまでいっても。
―――自分の希望が、形になることもあるんだそうだよ。
 隣に腰掛けた温度が、そっと切り出した。
―――だったら、”彼”に名前をつけたのは、おまえだろ。
 名前―――?
 顔を上げると、頭から被った毛布がぱさりと落ちた。
 やさしい、藍色の瞳を見上げた。
―――彼は、おまえだよ。


            *


 あのときの。
 あの言葉の意味に、ようやく気がついた。
 くっきりと、他人と線を引こうとしていた。
 別のいきものだと。
 恐れて、畏れて、見えぬふりをしてきた。
 誰かを傷つける手を力を、自分が持っているということを、認めたくなかったんだ。
 かみ合わなかった歯車が、かちりと嵌まった音を、要は聞いた。

―――おまえがその名前を、あの子にあげたんだよ。
 胸の内にある、その思いを。理想を希望と呼んで。
 自らあたえた。

 おそれることなど、何ひとつないのだ。
 たったいま、そのことに気がついた。

 他の誰のものでもなく、自分のものだ。
 いつも欲しかったもの。
 ここに、あるんだ。
 今までも、そしてこれからも。

 ゆっくりと目を閉じ、深く、長く、呼吸をする。
 体の中に流れをつくり、一本の線を歩くように真っ直ぐに。
 都佳沙の祖父、斎の言葉を幾度も繰り返した。
 自分の力だ。
 自分のものだ。
 誰のものでもない。
(それでいい)
 胸の奥で誰かの、声を聞いた。薄く笑う、少年の声。


「何だ……?」
 違和感に気がついて、悠嵩がうめいた。
 目を瞠って、都佳沙が半歩後ろの要を振り返る。
 やわらかい栗色の髪が、風に巻き上げられるように浮き上がった。
 どんっ、と。
 あたためられた空気が膨張するように、衝撃が起きた。
 抗いがたい風圧に、悠嵩は背後の壁に叩きつけられた。
 気管が圧迫され、息が出来ない。
 まばたきを忘れた悠嵩の目に、突き刺すようなまぶしさが飛び込んできた。
 閉鎖された、臓腑のような空間の中に。輝きが。
「僕が、ずっと欲しかったものが―――」
 ゆっくりと、要は双眸を開いた。
 色素のうすい薄茶の瞳に、揺らぎはない。

 世界が、裂けた。
 赤黒い、閉鎖的な空間をざっくりと裂いて、”それ”は現れた。
 視界を灼き尽くすほどに鮮烈な純白の帯が、蠢く壁を上から斜めから刺し貫く。
 悠嵩の張った結界を無惨なまでに切り刻み、くずしてゆく。

 その眩しさは、希望の名と同じだ。
 神と呼ばれ崇められた、自らの理想につけた名。

 要は、自分の胸元を強く握った。

「ここに光があるならもう、―――怖くない」




【続く】




第十六話

夢喰い

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