十四話 陽と陰 −ひかりとかげ−
1.
京分家には、狐が棲んでいる。
幸孝は、そんな言い伝えを思い出していた。
炎を自在にあやつるという、青白い毛並みのうつくしい狐。
ただの噂話だと思っていたのに。
愕然と、幸孝は紅子の頭上を見上げた。
一匹のうつくしい狐が控えている。
人々の畏怖の視線を受け、紅子は背後の屋根を仰ぎ、わずかに口元をゆるめる。
「皆さんに引き合わせるんは、初めて、やね」
三股に分かれた尾にはそれぞれ、青白い焔が宿っていた。
「陽(あきら)どす。ご贔屓に」
妖艶に紅子が微笑する。
ひっと、後方で慄き声を上げる気配がして、幸孝は振り返った。
そこにいる男どもはもはや、名家銀の名をもつ霊媒師などではなく、ただの烏合の衆であった。
「お引取り願いましょうか」
紅子はうつくしかった。しかしそれは同時に、底冷えするようなおそろしさを備えてもいた。
ひとりが踵を返せば、あとは雪崩れがおきたようなものだった。
「紅子殿……」
苦々しい顔を作って幸孝は口を開いた。が、結局言葉を捜しあぐねて、その身を翻した。
不躾な侵入者の姿が完全に見えなくなってから、紅子は深々と溜息を落とした。
「やりすぎや、陽」
咎める調子で、後方を振り仰ぐ。
「御園は代々、詰めが甘いから心配やわ」
しれっと、活き活きとした女の声が応じた。
いつのまにか屋根の上には少女の姿があった。
人間と少し違っているのは、白銀の尾と耳とが体にくっついていることと、白に近いその髪の色だろう。
「あのぐらい"オシオキ"したらな、ああいうのはすぐに怖いのんも忘れてまた来るんと違うの?」
肩に届くか届かないかの不揃いな髪を指先で弄りながら、小柄な少女は屋根の上にすっくと立った。
少々きつめの赤い瞳がすぅっと細められる。
代々京分家の女当主、「御園」の名を継ぐものと契りを交わしてきた妖狐だった。
「今まで何処に行ってたんよ」
ひらりと身軽に屋根から下りてくる少女に、紅子は詰め寄った。
「せやって、鴉が居るんやもん」
幼子のように、陽はむくれた。
「宗家だけでも嫌やのに」
陽はいまいましげだ。頬を膨らますその様は、とても数千年生きた狐とは思えない。
「しょうのない子」
呆れた様子で紅子が頭ひとつ分下にある陽の額をかるくはたいた。
陽は筋金入りの"宗家嫌い"だ。そして、宗家に飼われている鴉のことを一方的に毛嫌いしている。
「茜のこと、悪かったわ」
生気に満ち溢れた表情にふっと翳りをみせて、ぼそりと陽がつぶやいた。
「うちが屋敷のそばにおったら、すぐに気づいたんやけど」
少し離れた場所にある山の中に避難していたのだ、と陽は白状した。
「終わったことは気に病んでもしようない。今はどうやって問題を解決するか、やね。一筋縄では行かんみたいやし」
あれだけの人数が反旗を翻したとして、それをまたひとつにまとめることができるのか。
現状を打開するだけで、終わる話ではなさそうだ。
視界の端で何かがすばやく動き、紅子はそちらに目を向けた。
陽の耳だった。
ぴん、と警戒するように立っている。
「どないしたん」
ひくく、紅子は問う。
「裏木戸!」
鋭く告げて、陽は地を蹴った。次の瞬間には、もう屋根の上にいる。
裏?
紅子は屋敷の構図を思い描く。
裏木戸のあたりには客人に割り当ててある部屋がある。
そこには今―――。
「姫架!」
声を張り上げて、紅子は屋敷の奥へ向けて怒鳴った。
*
足音に気がついた。
表のざわめきが、波が引くようにおさまってしまったから、余計気配がわかる。
畳に膝を折って座り、神経を尖らせる。視線は昏々と眠りつづける男に据えたままで。
呼吸をしていなければ、まるで死人のような顔色だった。姫架には、それが痛々しい。
同時に、足音を殺すようにしてこの部屋に歩み寄ってくる気配が苛立たしい。
こみ上げる憂いを払うように、姫架は目蓋をおろす。
一本の糸をイメージする。ぴんと張った糸のように、心を落ち着け、神経を研ぎ澄ます。
斎が―――雅の父であり都佳沙の祖父である男が、教えてくれたものだった。
分家の、それもかなり末流に生まれた姫架が宗家当主に指南を受けるなど、本来ならばありえないことだ。
だが、姫架はうまれつき、特別な力を持っていた。
百年に一度生まれるか生まれないかという、稀な。
ゆえに、優遇された。
宗家に受け容れられ、分家からは煙たがられた。
子ども心にも、揶揄や厭味は沁みてくるものだ。押しつぶされたくはなかったから、虚勢を張る。
無差別に噛み付こうとしていた。
伸ばされた腕はすべて振り払うつもりでいた。情けなどかけてほしくもなかった。
そして、荒れた。
―――世界全部が親の仇みたいな顔をしてたよ。
あの頃を振り返り、からかうように時折、宗家の次男がそんなことを言う。
そう。
あの頃は全てが敵だった。親も例外ではなかった。
力など欲しいと思ったこともなければ、宗家の修行場に入りたいと望んだこともなかったのに、父親は幼い姫架の手を引いて宗家の門をくぐった。
幼心に、売り飛ばされたと感じた。
銀とは名ばかりで、霊媒の仕事など指折り数えるぐらいしか回ってこないような末流。それでも、子どもに珍しい力が宿るだけで、破格の扱いを受けるのだ。
生贄のようなものだ。
そう思った。
自分を守るものは、自分しかなかった、あの頃。
修練をさぼりもすれば、学校での素行も悪く、悪い連中と付き合ったりもした。
修練場に出入りするようになってから知り合った宗家の息子はどうやら世話焼きのようで、ことあるごとに姫架をたしなめたけれど、それにすら食ってかかるほどだった。
欲しいと思ったわけじゃない。
来たくて、ここに来ているわけじゃない。
もっときたない言葉も、浴びせたような気がする。
雅は大人だった。激昂しなかった。
夜の海のような男に出会ったのは、宗家に出入りするようになって少し経ってからのことだった。
真夏。内庭の、池の傍らだった。
落ちてしまおうかと思っていた。
もちろん、家の内庭にあるような池だ、深さはたかが知れている。
入水自殺ができるとは思わなかった。
だがそのとき、姫架は現実の際にいたのだ。絶望の淵に立っていた。
池に落ちようとしていたのではなく、現実から逃げ出してしまおうか。諦めてしまおうか。そんなことを考えていた。
水面に揺れる自分の姿が、まるで手招いているように見えて、ぐらりと体が傾いだ。
その重みを。
後ろから引き止める腕があった。
腕を掴み、傾いた体を引きずり戻す。現実に引き戻すちからが。
危ないよ、と静かな声が言った。
焼け付くような日差しのもとだというのに、右腕を掴む手は冷たく心地よかった。
池に落ちそうになった子どもを、ふっと見つけて助けただけ。
ただそれだけのこと。
けれどそれが、どれほど重要なことだったのか、きっと彼は今も知らずにいるだろう。
その腕は、姫架を現実の際に、引きとめた。
漆黒の髪と瞳とを持つそのひとは、どこか現実と層を異にしているように思えた。
姫架の腕を掴んだ掌のように、温度がかけているようにも。
それでも彼が懊悩していたことも、姫架にはちゃんと見えていた。
すべてに満たされているようで、何も満ちていない、胸のうち。
自然と目が引き寄せられる。
気づけば、宗家に来るたびに、その姿を探すようになった。
―――雅が困ってたよ。
修練を抜け出して、池のほとりに座っていた背に、声がかかった。
すっかり覚えた声音(トーン)に、姫架は弾かれたように振りかえる。
中学も二年ぐらいのことだったか。
だって、修練ってキライ。
サボリを見とがめられたような気がして、姫架はバツがわるくなる。
こんなところを見られたくなかった。
ぷいっと、顔を逸らして、池を見る。
日差しを受け、鯉の鱗がきらきらと輝いていた。
―――持っていて、無駄なものじゃないんじゃない?
姫架の隣に、彼は腰をおろした。
―――いつか何かの役に立つかもしれないし。持っているものは、活用したほうがいいよ。
そのほうが賢い、と言った。
時折彼は、こんなふうに狡猾さを覗かせることがあった。処世術のような。
直進ではなく、うまく間をすり抜けてゆく"すべ"。
―――ちゃんと自分のものにしてしまったほうが、恰好いいよ。
微笑は端正でうつくしかったが、翳りも見えた。
一枚膜がへだたっているようだ。すぐそこにいるのにも関わらず。
おそらくあの頃彼は、何の刺激も受けることのない場所で、生きていた。
―――それは、姫が授かったもので、その力を持って生まれたことにも、使役することにも、姫はなにも責任はないよ。
今。
彼は絶対、同じことは言わないだろう。
さだめを継いだあとでは。
けれどあのとき、その静かな言葉がどれほど、心の迷いを消してくれたか。
彼が負った重みがどれほどかなど、推し量ることも出来ない。
欲しくもない力を得た同志、などと同列に扱うのもおこがましい。それほど、血の呪いは強大なのだ。
ただ、少しばかり。
無条件に押し付けられた力の、およぼす痛みを分かってあげられるかもしれない。
そんな驕りと。
あとは罪悪感だ。
伸ばされた手を、振り払って逃げたことがある。
彼が絶望の淵にいたそのとき。
無数の包帯が巻きつけられたその腕を払い除けて、逃げた。
そのとき確かに、彼は普通ではなかったかもしれない。何かが狂っていたのかもしれない。
確かに恐ろしかった。
それでも。
逃げ出した自分が、今も許せずにいる。
好きだと、そう思うのなら。
踏みとどまれたんじゃないのか。
今となってはどうしようもないことを、時折思い返しては悔やむ。
悔やんでいるのに、もうそんな資格はないと思っているのに。
まだどうしようもなく好きだなんてどうかしてる。
おさなごころの憧れと、割り切れないのはどうしてだろう。
もしかしたら、誰かと楽しくじゃれあったりできるかもしれない。
好きだと、言ってくれる人もいた。
好きだと、思ったこともあった。
けれど何かにつけて、あの夏の日、この腕を引きとめた温度と逃げ出した和室の、障子の白さが蘇る。
―――あいつは自分を心底憎んでるから、誰も愛したりしないよ。
遠回しに、忠告されるのにも、もう慣れた。
雅はやさしいから、遠縁の娘が不毛な恋をしているのを、見ていられないのかもしれない。
報いが欲しいわけじゃないよ。
応えてほしいとか、願っているわけじゃない。
どれほど深い闇が、すぐ傍で口を開いていても。
他愛のない穏やかな日々がそこにあって、たとえ仮初でも和やかに笑っててくれたらそれでいいよ。
馬鹿な話でもして。
それでいい。
そしてもし、無慈悲な絶望の腕が深淵に引きずり込もうとしたときには。
あの夏の日に貴方がしてくれたように、腕を掴まえられたらいいなんて。
夢みたいなことを願っている。
今も、ずっと。
ぎしりと、縁側の床がきしんだ。
姫架は双眸を開く。
焦りも恐れもない。平常心を保つ術は、散々叩き込まれていた。
(一馬兄さんの、言うとおりかもね)
折った膝を伸ばすように、しずかに立ち上がる。
いつか何かの役に立つかもしれないし。持っているものは、活用したほうがいい。
どこで役立つか、分からないものだ。
床のかすかな軋みが、相対した障子のまえで止まった。
まぶしいほど白い障子に、人の影がしっかりと写っている。
日の光は、向こう側からこの部屋に注ぐように射していた。
好都合だ。
うすく、障子が開かれた。
2.
覗くほどのほそさで障子を開いて、男は拍子抜けをした。
宗家が厳重に囲ってある"ばけもの"の居場所。
鬼が出るか蛇が出るか。覚悟を決めて障子を開いたというのに。
警戒を解いて、男はさらりと障子を開いた。足音をひそめてきたのも、馬鹿みたいな話だ。
眠っている男と、少女がひとり。こちらの手勢は三人だ。いずれも無能ではない。
どちらに分があるかなど、知れている。
少女は細身で、凛とした顔をしている。人工的に色を変えているらしい緑がかった瞳に、戸惑いや恐れはない。
落ち着きすぎていた。そればかりが引っかかる。
だが、やはりたかが少女に見えた。長い髪を薄い茶に脱色して化粧を施しているあたり、どこにでもいる若い女に見えた。
が、少女が急に、笑った。呆れ果てた様子だった。
「あたしって本当に、男運ないんだわ」
大仰に肩をすくめる。
「こんなところでイイオトコ発見してもしょうがないんだけどさー」
うつくしくないわよねー、などとぼやいて、少女は腰に右手を当てた。
男たちは呆気にとられる。
何の話が始まったのか、理解できなかったのだ。
「ちゃんと、紅子姐さんに挨拶して入ってきたわけ?」
瞳に鋭い色を孕ませて、姫架は居並んだ男たちを見回す。
「……そんなわけないか。姐さんも、明らかに怪しいですって顔に書いてる奴らなんて入れないもんね」
「貴様ッ……」
ようやく馬鹿にされているらしいことに気づいた男が気色ばむ。
小娘ひとりではないか。何をぼんやりとしていたのか。
目の前に敷いてある布団に目がいった。何がどうなっているのかは分からないが、目的の"夢喰い"は深い眠りのうちにあるらしい。
その布団を挟んで娘とは相対している。人質に取ろうと思えば―――。
踏み出しかけ、男は膝から床に崩れた。
神経が突然ぶつりと途切れてしまったようだ。全く力が入らない。
「なんだ、これは」
なんとか両腕で上体を支えながら、男は喘いだ。力が、抜ける。
男はじっと畳を見下ろして、違和感に気がついた。
何かが、ない。
「このひとに近づかないで」
刻み込むように強く、姫架が言った。
が、呆然と畳を見下ろす男の耳には届かなかった。
日は、背から射している。畳にかがみこんだ自分の下には、当然影が―――。
「貴様、まさか……!」
鉛球のような頭を持ち上げ、男は少女を睨みつけた。
「影使いか!」
憎々しげに吐き捨てる。
自分の足元に、影が無い。
ゆらりと何か黒いものが、少女の足元にわだかまっているのが見えた。
あれだ。
"取られた"のか。
ひとは、影を失うと生きていけないのだ。存在が薄くなる。
陰と陽が世界のことわりであるように、影があるからこそ、くっきりと現世に在ることができるのだ。
しかし、他者の影を取ることができるほどとは、並みの力ではない。
「これでも、宗家ご当主に指南してもらったんだから」
自慢げに言う台詞すら、どこか茶化しているように聞こえる。
ここでも、宗家か。憎々しげに男が舌打ちを落とした。
そのとき。
後方で悲鳴が上がった。
呆然自失で立ち尽くしていた身内だ。
首を捩って後方を振り返ると、縁側にいたふたりがまろぶようにあとずさるところだった。
男たちの足元で、黒いものが立ち上がっている。
人の形をしたそれは、影だ。
足元から影が浮き上がっている。
長く伸びたそれは、持ち主の身の丈よりも大きい。ぐうとそれが、まるで主を抱き締めるかのようにのしかかっていく。
「やめろ」
影を取られた男は、喘ぐように呟いていた。
声に力はない。震えてもいた。
自らの影に抱擁された男たちは、息が出来ないのか咽喉を掻き毟ってもがいている。
「やめてくれ……」
なんてことだ。
これほどまでの術者を擁しているのか。
ひとの技ではない。
これほどの手駒をそろえる宗家は。
「宗家は……魔窟か……」
「あんたたちが!」
絶望のつぶやきに、姫架が食ってかかった。
よく見れば、姫架の額にもうっすらと汗が滲んでいる。力を使うことは、決して容易なことではない。
「あんたたちが一馬兄のこと、放っておいてくれないから!」
体の両側に垂らした腕の先で、姫架はきつく拳を握った。
今まで堪えてきたことだった。どこにぶつければいいか分からない怒りでもあった。
「権力争いに、何の関係があるっていうのよ! これ以上銀の下らない騒動に巻き込まないで!」
じわりと目元が熱くなる。
どうして誰も。
そっとしておいてくれないのだ。
「あんたたちが一馬兄に手を出そうとするんだったら、あたしはどんなことをしてでも……」
たとえそれが、ひとの命を奪うことになっても。
「絶対に阻んで―――!」
「姫架、やめや」
かなしみを含んだ声が遮った。
「もう十分やろ。……殺してまうで」
鮮やかな紅の着物が縁側から現れた。
開け放たれたままの障子からするりと部屋に踏み込んできた紅子が、遠縁の少女に歩み寄る。そっと、細い肩を撫でた。
途端、姫架の顔がくしゃっと紙を丸めたように歪んだ。
だって、と口に出してそれ以上は何も言わなかった。大きな両目からほとほとと涙が零れて落ちる。
頼りない少女の体を、紅子はいたわるように抱き寄せた。
「この人らですかね」
耳慣れない男の声が割って入った。縁側が人の重みを受けて軋む。
「住居不法侵入ってのは」
グレイのスーツが縁側に立っていた。無表情でどこか底知れない。
「お願いしますわ、秦野さん」
姫架の頭を撫でてやりながら、紅子は刑事に向かって言った。
「身内やさかい、お恥ずかしい話やけど」
すうと目を細め、紅子は縁側を見遣った。
影を取り戻した男はがっくりとうな垂れて動かない。
縁側から中庭に転げ落ちたふたりは、肩で大きく息をしていた。
紅子は肩を震わせている姫架を見下ろす。尋常ではない力だ。使い方を誤ると、大変なことになる。
特に彼女は、一途だから。
「大きい家ってヤツは、難儀やなぁ」
場違いな声だった。暢気である。
秦野が庭に転がっているふたりを引っ張り起こしているのを眺めながら、服部は顎を撫でていた。
「寿から連絡がいきましたか」
これほど迅速な動きは、よく気のつくお目付け役の仕業だろう。
服部は緩慢に頷くと、畳にうな垂れている男の腕を掴んだ。
「誘拐のほうは、どうなった」
他愛の無い会話の続きのように、服部が訊いた。
「その話で、呼ぼう思うてたところです。要らん邪魔が入ってしもうて」
「聞かしてもらおうか」
男の身柄を部下に引渡し、服部は隙のない瞳を紅子に向けた。
「どうぞ」
姫架の背を擦りながら、紅子は奥の座敷を示した。
3.
鉄の匂いだ。
なまなましい。
生きるものの発する臭気。
灰色のコンクリートに、じわりじわりと広がる濃密な赤。つくりものめいた表情をふと歪め、叶はその池を見下ろした。
池の中心に立っているそれは、人の形をしていた。
二本の足と腕とを、赤い海から順に眺め上げ、左肩の傷を見る。
左腕は赤黒く染まっていた。
魔物の全身が、黒い炎に覆われているような錯覚を、叶は覚えた。
怒りが視野を狭め、目を眩ませている。
焔の右手が、傷口を庇うように左腕に触れる。
「おのれ、銀の、狗」
「盲(めしい)め」
全身から立ち上る凶悪なまでの憤怒に、叶は眉をひそめた。
「怒りに前後を見誤ったか。その腕を喰らったものが、貴様の敵とまだ気づかぬとは」
「かたき、だと?」
人と同じ色の血に指先を染めながら、焔は笑んだ。
唇を横に引くような、冷笑だった。
「敵など、其処此処に溢れておるわ、飼い馴らされて、盲いたのは貴様のほうだろう。首に鎖をつながれ、ひとにでも成ったつもりか。我ら闇に生きるものは総じて、ひととは水と油なのだ。ましてや、闇狩りなど」
鋭い爪が、いまだなまなましい傷口に突きたてられる。新たに溢れ出した血液が指先から滴り、床に池を広げてゆく。
違和感があった。
焔は今まで、怒りで前後不覚に陥っているとばかり、思っていたのだが。
何かが、違う。
「儂は、汀とは違う」
傷口に立てた爪を下に力づよく滑らし、自らの左腕に深い傷を刻みながら、尚、焔は微笑していた。
「闇狩りの御園の一族、脆弱な人間ども、何もかもが愚かしく醜い。何より忌むべきは、誇りと自我とを棄て、鎖につながれたものどもだ」
指先に絡みついた血を払うように、焔は腕を払った。
「たとえそれは、自らの主であったものでも、変わらぬ」
黒みを帯びた赤い飛沫が、叶の足元まで散った。
「汀のように、神と崇めはしない。あれは愚かな娘だった」
漸く、叶は焔を取り巻く黒々とした憎悪の本体に、触れたような心持がした。
何か、に向けられたものではない。
森羅万象。この世に在る、総てのものに向けられた怒りなのだ。
「榊の血、其れを根絶やしにするまでは、この憎しみは尽きぬ。あの魔物ばかりは、儂がこの手で―――屠ってくれる」
赤く濡れた右手を、焔は眼前で強く握りしめた。
「待て!」
思わず叶は叫んだ。
焔の体が縮んだような気がした。
足元に広がった赤黒い池に、焔の体が徐々に沈んでゆく。
高らかな哄笑と共に、みるみるうちに焔の体は床に飲まれ、見えなくなった。
歯噛みをして、叶は口を開いたままの小部屋を振り返った。姿は見えないが、そこに主がいるはずだった。
悠嵩の結界に飲まれた、都佳沙と要。
少しばかり逡巡してから、叶は鳥の姿に身を変えた。
同じく扉の開け放たれた、要と茜が軟禁されていた部屋。そこの窓から九条の屋敷を飛び出した。
*
「九条にある分家のひとつ。そこにふたりとも居るようです」
淡々と告げる紅子に、服部は渋面を作った。
「難儀やなァ、でかい家は」
先程も言った言葉を繰り返して、頭を掻いた。
「ほんま、お恥ずかしい限りですわ」
紅子はちいさく吐息を落とした。
「確実なんやな?」
「少なくとも、実兄を監禁してるというのはホンマのことです」
嫌に因習めいてきた話に、服部は露骨に顔をゆがめる。
これだから、デカイ家は、と言いたげな顔だった。
「なんやの、御園と言うこと疑うてるの?」
紅子の隣でぐっと、テーブルに身を乗り出したのは小柄な少女だった。
一発で奇抜だとわかる。青みがかった白い頭髪も、頭にへばりついた耳も、時代がかった狩衣のような衣も、だ。
「……やっぱり出よったか」
服部は長い溜息をついた。
どうやら服部とは既知であるらしい。後方に控えた秦野も、相変わらず涼しい顔をしている。
先輩ふたりをはらはらと見比べる赤城だけが、奇妙な少女に戸惑っている。
「ひとを悪い虫みたいに言わんといてくれる?」
頭を抱える素振りの服部に、陽はさらに詰め寄った。
「疑うてるわけやない。人間の社会ってのは難儀でな、目に見えた証拠ってやつが必要になるんじゃ」
物分りの悪い孫娘を嗜めるような口ぶりだった。
「せやから、好かんのよ」
ついっと陽が服部から顔をそらした。
「陽」
頭痛のするこめかみを押さえて、紅子が鋭く叱る。
陽は一瞬恨みがましい目で紅子を見たが、それっきり黙った。
「事が起こってからじゃなきゃ動けんいうのは、悪癖ではあるが、な」
服部がふと、自嘲気味に笑った。
「俺が、行きます!」
すっくと立ったのは、赤城だった。
「俺の独断ってことに、してください」
拳を握り締め、赤城は僅かに震える声で、言った。
「まだ新米やし、間違いがあっても俺が辞表書けば済む話ですから」
赤城の瞳には何かの炎が宿っているように見えた。
「目の前であの子ら攫わせて、俺……」
何も出来なかった。それが、ここ数日赤城の内で澱のように澱んでいる。
俯いて唇を噛む新米に、服部は再び嘆息する。
「お前の数年前にそっくりやな、秦野」
「ここまで無分別じゃあなかったですよ」
憮然と、秦野は言い返した。
「皆、そう言う、な」
苦々しく笑いながら、服部は腰をあげた。
「まぁ、行ってくる」
きょとんとしている紅子に向かって、こともなげに服部は言った。
追うように、音もなく秦野が立ち上がる。ふたりが障子に向かう背を、まるで狐につままれたかのような赤城が見送った。
「早うせんかい」
石化している赤城を、服部の恫喝が促した。
どやしつけられた犬のように、赤城は慌ててその背を追った。
内庭に面している縁側への障子を開いたところで、服部は目をしばたいた。
空に黒い染みのようなものを見つけた。
じわりと水に墨汁を溶いたような、黒点。それが、中庭にある池の上あたりにぽつりと浮いているのである。
目の錯覚かと幾度か瞬いてみるが、その"しみ"は、より一層広がってゆく気配だった。
うす曇りの空を、侵食してゆくような。
「何だ?」
思わず口をついて疑問が零れた。瞬間、計ったかのように黒点が爆発的に膨らんだ。
荒ぶ時化の海のように、影は渦を巻いていた。
「下がっとき!」
胸を強く押され、服部は後方によろめいた。すかさず秦野がその背を支える。
服部を押しのけた影は既に縁側を蹴って中庭に降りている。色彩の欠ける冬の庭に青みを帯びた白は一際目立つ。
「行って下さい」
ぽかんと中庭を注視している刑事どもの傍らに並んで、若き女当主が促した。
紅子の顔は毅然と、空に現れた黒い渦に向けられている。
「これは、うちらの仕事です」
婀娜めいた視線を、紅子は服部に流した。その妖艶さには同時に、底冷えするような冷たさも棲んでいた。
「茜と要のこと、よろしゅう頼んます」
服部は肩をすくめ、何事もなかったかのように玄関に向かった。
"一般人"の、出る幕ではなかった。
無言で秦野が続き、最後尾を赤城が慌てて追いかける。
縁側を軋ませる足音が聞こえなくなったところで、紅子は口元に浮かべていた笑みを消した。
不快な風が、吹いてくる。
黒い渦から。
陽はいつでも飛びかかれる位置で身を低く構えている。ぴん、と耳が立っているのは警戒している証だった。
小柄な使いの背と、不吉に渦を巻く影を視界にしっかりとおさめ、紅子は意識を張った。
空気をふるわせて伝わってくるのは、憎悪だ。
深い深い、憎しみなのだ。
尋常ではない。
渦がくずれて、やがて形になった。冬の京都には似つかわしくない生ぬるい風が、肌を撫でてゆく。
一見性差を見つけられないような美しい顔立ちは、しかし、般若のように歪んでいた。
左腕を赤黒く染め、両腕と両足とに鎖の下がった枷をはめている。
所々破れた黒装束と、ざんばらに乱れた黒髪が風にはためいていた。
瞳は怒りの色を宿したような、濡れたような真紅。
「忌々しい気、だ」
左腕の先からとろみのある赤い色を滴らせながら、宙に浮いた影は口を開いた。
低い、地響きのような男の声音だった。
「我らを隷属の鎖に、縛りつづけた血の臭いだ」
紅玉の瞳は、真っ直ぐに紅子を見据えていた。
「銀御園、その血脈よ」
「人ん屋敷に土足で踏み込んで、挨拶も出来へんのかい。躾がなっとらん餓鬼を相手にしとる暇はないんや。とっとと帰り」
温和で気風のいい姐御肌の京女は、最早どこにもいなかった。
分家の反乱分子どもと相対したときでも、これほど無機質な表情はしなかっただろう。
彼女はいまや、獲物を目の前にしている。
京分家の当主とは、西の筆頭。
あやかしは即ち、屠るべき獲物なのだ。慈悲は必要ない。
「地に落ちた天狗を出してもらおう」
天敵を絶対零度の視線で見下しながら、黒影は右腕を差し出した。しゃらりと手首に絡まりついた鎖が鳴る。つめたい響きだった。
「何時の話なん、それ?」
着物の懐に右手を差し込みながら、紅子は冷笑する。理不尽な子どもの駄々を聞いたような気がした。
「榊なんて、とっくの昔に死んだやろ」
懐の得物を指先で確かめながら、紅子は見当をつける。
榊が従えていた、二羽の鴉。汀が現れたということは、おそらく片割れも喚ばれたに違いない。
兄妹であり、陰と陽のように分かたれた、鴉天狗の懐刀。
「血は、未だ生きている」
差し伸べられた右掌の中に、ほう、と炎が生まれた。
ゆらりと揺れる黒いそれは、決して男の肌を焼こうとはしない。しかし、じわりじわりと全身を包み込んでゆく。
紅子は確信を強めた。
焔、か。
「一馬には、手出しさせへんで」
項のあたりがちりちりとざわついた。
主を取り返しにきた、という気配ではない。何よりも、濃密にこの屋敷中を満たしてゆくような憎しみは一体なんなのだ。
「ならば、貴様らが先だ」
いまや全身から黒い炎を立ち上らせた焔は、怒りに滾る紅の瞳をほそめた。
「やれるモンなら、な」
不敵に微笑した陽の口元から、鋭い牙が零れる。
ぴんと立った青白い毛並みの尾が、威嚇するようにふくらんでいる。
次の瞬間、陽は地を蹴っていた。
右手の爪が、まるで刃のように伸びる。
滞空している焔目掛けて、鋭い爪を薙ぎ払った。
狙ったのは深く抉れた左腕だった。いまだなまなましく血を流す傷に付け込むつもりだった。
が、眼前でふつと獲物が掻き消え、陽は瞠目する。
無防備なその背中に、高温の黒い炎が覆い被さった。
身を焦がす熱に、陽の体が海老のように反る。が、必死に中空で身を捩り、爪を真横に薙ぎ払った。
今度は確かな手ごたえがある。
いつのまにか後方に回っていた焔の胸元で、細い三本の傷口が開いた。
陽は背中から、池に落ちた。
高い飛沫が上がる。
「陽!」
使いの名を叫んで、紅子が身を乗り出した。宙に浮いたままの焔が、再び紅子に焦点を合わせる。
庭に下りようとした紅子の足を、憎悪ばかりで構成された視線が押しとどめた。不用意には動けない。
左腕に深手を負い、今また胸に三本のなまなましい切り傷をこさえて尚、漆黒の影は泰然とそこに在る。
只者では、ないのだ。
榊の眷族は、それほどまでに強い。
僅かに残った残滓が形になったはずの一馬の"顕現"。それに、曲がりなりにも宗家の直系が手も足も出なかった。
「鴉は、せやから、好かん」
寒々しい水音を伴って、青白い影が立ち上がった。
雫が落ちる音と、荒い呼吸が重なった。
「御園には、指一本触れさせへんで」
まるで煩い虫でも見つけたかのように、焔が池を顧みた。
「狗、め」
汚物を見るように目をすがめて、焔が吐き捨てた。
深い呼吸を忙しなく繰り返しながら、陽は水に濡れそぼった髪を掻きやる。
「鎖につながれ、牙を抜かれたと見える。支配されることに悦びを見出すか、あさましい。醜いその有様が、儂には赦せぬ。儂等の誇りと忠誠とを裏切ったあの天狗、八つ裂きにせねば気が済まぬ」
「……駄々を捏ねる童(わっぱ)ではないか」
荒い呼吸を繰り返す口元を引いて、陽は笑った。
急に時代がかった口ぶりと、投げつけられた言葉とに、焔は眉根を寄せる。
「素直に、置いてゆかれてさみしいと言えばよかろうが」
唖然と見開かれた焔の瞳に、爆発的に怒りが広がってゆく。
陽の揶揄は、あきらかに逆鱗に触れた。
「貴様ァッ―――!」
憤怒に顔を歪ませて、今度は焔が陽に突っ込んだ。
池の中央に立って、陽は微動だにしない。端からみれば、さも観念したかのように見えたかもしれない。
小柄な狐を押し潰さんばかりに急降下した焔の体が、或る一点で見えない壁に弾かれたように再び上空に飛び去った。
漆黒の矢が屋敷の外から弾丸のように飛来し、焔を弾き返したのだ。
ぱっと、空中に濡れ羽色の羽根が舞う。
漆黒の矢は、くるりと身を翻すと、人工池に立ち尽くす陽の傍に"着地"した。
「遅いわ、やくたたず」
歯軋りをする焔を睨み上げたまま、陽は現れた影を罵る。
「いつの世も男(おのこ)は使えん。女子ばかり残して勝手に外に出て行きたがる」
「申し訳ない」
ゆっくりと立ち上がり、呆気なく叶は詫びた。
「相も変わらず、つまらん男じゃ」
陽は口をへの字に曲げる。
「奴の目的は夢喰い、か」
両手を腰にあて、陽は胸を張った。
「厳密に言えば、その身の内に流れる榊の血、だろう」
感情の揺らぎが完全に欠如した声音で、叶が応じた。
「時代錯誤も甚だしいな。置いてきぼりを食らったガキが、逆恨みというところやろう。ところで、宗家の童どもはどないしたん。死んだか?」
陽は軽口のように言う。
主を伴わずにこの影が現れることはめずらしい。
「私は独断で、ここにいる」
つまらない答えが返ってきて、陽は嘆息する。
厭味の通じないやつほど、からかってつまらないものはない。
真面目一徹の叶の横顔から、陽は空中に視線をもどした。
「同じ鳥やろう。とっとと片付けてもらおうやないの」
【続く】