十三話 孵化まで

1.

―――殺せよ!
 狂気じみた憎しみをぶつけられたことがある。
 分家から拝借した車のエンジンをかけたところで、雅はふと、湧き上がるように蘇った声に耳を傾けた。
 ハンドルに手を置いたまま、しばらく動けずにいた。
 昔の話。通り過ぎた日々だ。
 あの、六年前の夏―――。

―――おまえの仕事だろう。
 襟首を掴む、乱暴な力。ついこの間まで漆黒だったはずなのに、こちらを見据える瞳は夜の海の色だ。濃紺の、闇のいろ。
―――化け物を殺すのがおまえの仕事なら、なんで生かしておくんだ。
 憎しみのままに胸倉を掴み上げるくせに、口元は笑っていた。
 壊れ物と対峙しているような心地だった。少しでも乱暴な力をくわえたら、ぼろりとくずれてしまうような。
 決して広いとは言えぬ暗い座敷は、真夏というのに冷え冷えとしていたのをよく覚えている。
 血と怨嗟と包帯と、絶望とが棲んでいた。

―――なんで、だれも。
 やがて力なく、襟首から腕が離れ、体のいたるところに包帯を巻きつけた男が膝から力なく崩れた。
 かすれきった声が呟いた声を、未だに忘れられずにいる。

 誰も、責めてくれないんだ。


             *


 “そいつ”の名を初めて耳にしたのがいつなのかなど、もう覚えていない。
 ふたつしか年が離れていないから、物心ついたときには傍にいたような気がする。
 父親同士が懇意にしていたから、よく互いの家を行き来していたものだ。
 一言で言うとしたら、可愛げのないやつ。
 容姿も成績も運動能力すらも基準値以上で、しかも努力などしたことがないと来た。
 荒波を渡り歩く、処世術のようなものを知っていた。
 大人に無闇と逆らうことをしない代わりに、無心に敬うことも知らない。
 うまく交わし、流れてゆく術を知っていた。
 雅が兄や父親とよく言い争いをするといえば、「元気だねぇ」と感心したように笑う。まるで馬鹿にされているみたいだ、と思ったこともある。
 都内でも有数の進学校である葛城中央でも難なくトップをはり、熱狂的な信者のようなものもいたし、逆に悪魔だと指差して忌み嫌うものもいた。
 当の本人といえば、他者の評価など全く意にも介していない様子だった。
 人当たりはいいし、分け隔てなく優しくもあるけれど、反面、他者を冷静に”仕分け”する冷酷さも持っていた。
 雅の前ではもちろん猫も被っていなかったので、ただの冷徹で厭味な奴だった。

「よぉ、また首席(トップ)だったって?」
 居間のドアを開けるなり、雅は言った。
 褒め称える口調ではなく、揶揄だった。
 銀の本家から比べれば随分とこじんまりとした屋敷は、第二の我が家のようなものだ。
 修恵学園のブレザーを着ていた頃だから、互いに高校生だった頃だろう。
 家を出る出ないと、家族全員ともめていた頃は、実の家よりもこちらのほうが居心地がよかった。
「どこから仕入れてくるんだよ、そういう話」
 ソファーにあった人影は不躾な乱入を咎めることもなく、読んでいた本から顔を上げた。
 読みかけのページを伏せるように傍のテーブルに置いた。
 背表紙を盗み見ると、経済学関連の書籍だった。
「有名だぜ、葛城の成瀬サンは」
「へぇ、どこで?」
 僅かに度の入った眼鏡をはずし、大して関心もないくせにそんなことを聞く。
 眼鏡を本の傍に置いた。
「女。煩いよ、連れてこいって」
「それで? 連れて行く?」
「バァカ。性格が破綻してるからやめておけって宥めてるんだよ」
「ひどいな」
 一馬は小さく苦笑した。が、その笑みもすぐに消える。
「……つまらないな」
 ソファから立ち上がり、ぽつりと一馬は零した。
「俺はおまえが羨ましいよ」
 部屋の隅に鎮座しているサイドボードに近づき、慣れた手つきで急須を取り出す。
「何がだよ」
「また、斎小父さんと喧嘩した?」
 僅かに笑みを含ませた視線で、一馬は雅の口元を見た。
 口の端が切れている。
「これは兄貴だよ」
 バツが悪そうに、雅は幼馴染から視線を逸らした。
「本当に家を出るつもりなのか?」
 茶筒の蓋をひらきながら、一馬は背で問い掛ける。
 客人は既にソファに陣取って、一馬の投げ出した本と眼鏡とをもてあそんでいるらしい。
「出る」
 短いながら断固とした口調で、雅が答えた。迷いのない言葉に、一馬は小さく笑う。
「なんだよ」
 馬鹿にされたような気がして、雅が食ってかかった。
「ああ、悪い。馬鹿にしたわけじゃないんだよ。……いいな、と思ってね」
 もうとあがる湯気を、雅は馴染みの肩越しに見た。
「そんなふうに一本気に打ち込めるものがあって、だから俺はおまえが羨ましい。色々なものに手を出してはみたけど、面白いと思えなくって」
 膝にたてた頬杖で顎を支え、雅は幼い頃から神童と呼ばれつづけた男の背を見た。
 これが、完璧と渾名される男の抱える洞(うろ)だ。
 白黒の世界で生きているみたいだ、と。いつだったか零したこともあった。
 ほしいものがない。
 端から見ればなんと贅沢なもの言いだろうか。
 少しだけ手を伸ばせば、大抵のものは手中に入る。力をこめれば呆気なく、握りつぶすこともできる。
 生殺与奪の権利を無防備に与えられると、喜ぶこともできない。
 いつでも手に入るなら、がむしゃらに手を伸ばさなくてもいいのだ。

 湯飲みに茶を注いでいるそのときに、呼び鈴が鳴った。
 母親は出かけているらしく、一言断って、一馬が居間を出た。
 つまらなそうに一馬が置き去りにしていった眼鏡などをもてあそんでいると、再び扉が開いた。
 随分早かったな、とそちらを見れば、着物姿の壮年の男がひとり、立っていた。
「小父さん」
「ああ、雅くんか」
 目を細め、男は来客に穏やかな笑みを向けた。
「どうも、お邪魔してます」
 一馬の父で、親類のように付き合ってきた男―――銀宗家との契約相手、成瀬宗吾。その代の夢喰いだった。
 本を取りに来たらしく、宗吾は居間の壁一面を覆う書棚に歩み寄った。
 沈黙がおりてくる。
 雅には当時、契約相手である彼にある種の不満があって、家族と折り合いもよくない今、不用意に口を開いたら、歯止めなく文句でもぶつけてしまいそうだった。
 ゆえに、黙っていた。
「随分と派手にぶつかっているそうだね」
 雅の忍耐を知ってか知らずか、書棚から一冊本を引きずり出しながら、宗吾は口を開いた。
「斎は手ごわいかな」
「親父よりも、兄貴がね」
 苦笑して、雅は口元の傷を撫でた。
 できるだけ短く、話を終わらせようと試みる。
 “もう猶予はあまりないのに”。
 彼はいつも平和そうな顔をしているのだ。
「始くんも、一本気だからなぁ」
 宗吾は笑ったようだった。
「でも、君は好きにしてもいいと思うよ。継がなければ死ぬわけじゃない。斎も始くんも、厳しくはあるが融通はきくからね」
 声援のはずだった。
 だが、雅は息を詰めた。危うく、手にしていた眼鏡のフレームをゆがめてしまうところだった。
 “継がなければ死ぬわけじゃない”?
 あなたがいうのか。それを。
「小父さん」
 居間を去ろうとする気配を、思わず雅は呼び止めた。
 幼い頃は遊んでもらったひとだというのに、随分と遠く離れてしまったようだ。
 無言で、宗吾は肩越しに振り返った。
「あいつに、言わないの」
 夢喰いの摂理を。
 伝えてはやらないのか。
 “継がなければ死ぬ”。そして、”生き残るために喰らうしかない”という業を。
 抱えた生き物がすぐ傍にいるというのに。
「なんで言ってやらないんだよ」
 長年抱えてきた不満が、ついに溢れ出た。表面張力をこえて。
 宗吾は少しだけ目を瞠った。そして、疲れたように笑う。
「すまない、雅くん。全部わたしの我儘だ。斎にも、散々叱られたんだがね」
「だって、あいつはこのままじゃ……」
 何も知らずに。
「おまえは親を殺すために生まれてきたと、言えばいいのか」
 心臓に冷たい杭を刺されたような気がした。
「わたしは、父親にそう言われて育った。いつか、今日か、あしたか。怯えながら過ごしていた。そんな思いを、負わせたくはないんだ」
「でも!」
「いずれは話すつもりだ。だが今は勘弁してくれ」
 頭を下げられると、それ以上食い下がることは出来なかった。
 扉がふたたび閉ざされるのを、呆然と見送った。
「くそっ……」
 手にしたものを勢いで投げ捨てかけて、それが他人の眼鏡であることに気づいた。
 伸ばし伸ばしにしても、やがてはやってくるのだ。
 絶望は。


            *


 六年前。
 暑い夏だった。
 嗚咽で上ずった女の声で電話が入ったのは、成瀬宗吾という男の葬儀が終わった数日後だった。
「匡子さん、どうしたの! しっかりして!」
 母が受話器の向こう側を激しく叱咤していた。
 匡子?
 それは、一馬の母親の名前ではなかったか。
 何が起こったのかを問い質すよりも早く、雅は家を飛び出していた。
 通い慣れた門をくぐり、名乗りもせずに家に上がりこんだ。
 鉄錆のような匂いに、一瞬たたらをふんだ。
 奥まった座敷。生前は宗吾の部屋だった場所に、”それ”はいた。
 いきなり開け放たれた襖に、不思議そうに顔を上げる。
「おまえ、何やってるんだよ……」
 笑ってしまった。
 信じられなくて。
「何しに来たんだ?」
 穏やかに小首を傾げ、一馬も笑った。
 僅かに青みがかった瞳を細める。
「何って、おまえ、おまえこそ」
 混乱していた。うまく言葉にならない。
 畳は赤い筆を引いたように、濡れていた。
 一馬の右手に、白金色に輝く刃がある。
 左手首にはぱっくりと口を開いた傷口があり、だらりと垂らされた腕の先から、今も畳に赤を零しつづけている。
 たつ、たつ、と。
 重力に導かれるように流れ落ちるそれを改めて目にしたとき、雅の中で何かが切れた。
「テメェ何してるんだよ!!」
 怒号に、一馬はつまらなそうに左腕を持ち上げる。
「もういいんだよ」
 冗談のように開いた傷口を、退屈そうに眺めおろした。
「もうこれで終わる」
「……なに、言ってんだよ」
「ああそうだおまえ」
 傷口から顔を上げ、襖のあたりで立ち尽くす幼馴染に、柔らかく微笑みかけた。
「おまえ、俺を殺しに来たのか?」
 視界が真っ白に、焼けた。
 そのあとは、少しばかり記憶が飛んでいる。
 気づいたときには、一馬の襟首を掴んで、血に濡れた畳に引き倒していた。
 カッターが部屋の隅に転がっていて、自分の右手が傷ついていたから、おそらく乱暴にもぎ取ったのだと思う。
「テメェッ―――!」
 怒鳴りつけて、それから何を言っていいのか分からなくなった。
 視界が歪んで、声が詰まる。
 そのとき初めて、一馬の瞳に苛烈な色が宿った。
「もう違うんだ!」
 弟のように育った男が怒鳴る声を、雅ははじめて聞いた。
「おまえの幼馴染は死んだんだよ、もういない!」
 血を失って、青ざめた顔でも、瞳は猛獣のようだった。
「ひとじゃない!」
 血に塗れた腕で、一馬は雅の襟首を掴み返した。
「もう、ひとじゃ、ないんだ……」
 そのとき雅は、初めて目の当たりにした。
 ものごころついた頃から傍にいた男の、涙を。


            *


 確かにあの日、成瀬一馬という人間は、一度死んだのかもしれない。
 時折、そんなことを考える。
 今も確かに同じ体で同じ意識で、生きている。そんなことは知っている。
 だが、夢喰いの力を継いだ日以来、雅は、あの冷酷無比な優等生には、会ったことがない。そんな気がするのだ。
 何かが劇的に変わった。

 自ら手首を切って以来、一馬は銀の屋敷で日々を過ごしていた。
 成瀬の家は主を失った直後の事件に動転していたし、一馬の母である匡子も不安定。元々使用人の数もそれほど多くなかったため、保護という名目だったが、事実上は軟禁に近かった。
 何しろ少し目を離すと流血沙汰になるのだ。
 刃物はおろか、フォークやらペン、あまつさえ箸すらも危うく、それらのものから完璧に遠ざけられた。
 はじめのうちは手がつけられぬほどに暴れたものだが、一ヶ月もすると、ぼんやりと窓際に座って過ごすようになった。
 かといって、自傷行為が落ち着いたわけでもなく、時折思い出したように爪や歯で体のいたるところを傷つける、そんな日々が続いた。

「おまえ……」
 人のあまり寄り付かぬ奥座敷を窺うのが、雅の日課になっていた。
 ほとんどが無反応なのだが、その日は珍しく、一馬が口を開いた。
 部屋の奥。窓辺から、縁側の障子のほうへ首を傾けた。
「しってた、んだよな?」
 表情に、一切の温度はなかった。
 まわりの大人を有益か無益かで区別していた頃でも、こんな冷たい顔はしなかった。
 障子を開いた体勢のままで、雅はかたまった。
 主語のない問いに、眉をひそめる。
「俺が、どういういきものなのか、おまえ知ってたんだろう」
 うっすらと、口元に笑みが浮かんだ。
「そうだろ? 雅。おまえ、銀の息子だもんな」

―――小父さん。
 まばたきの間に、数年前の出来事がまざまざと蘇った。
―――あいつに、言わないの。
 宗吾の、疲れきったような笑みも。

 告げたほうがよかったのか。
 黙ったままのほうがよかったのか。
 どちらが正しかったのか分からない。
 唇を噛んで、雅は畳に視線を落とした。沈黙が死の灰のようにふりつもる。

「殺せよ」

 いっそ穏やかな命令に、雅は弾かれたように顔を上げた。
 言葉の意味が理解できなかった。理性がストッパーをかけた。
 囚われた男は、ゆっくりと立ち上がるところだった。
「なに……?」
 愚かなことに、訊きかえしていた。
 聞き間違いであればいいと、そんな望みを抱いていたのだ。
「おまえの仕事だろ?」
 狼狽する雅をおかしそうに笑って、一歩、踏み出した。
「教え込まれてるんだろ? 子どもの頃から。”殺し方”を」
「冗談だろ……」
 悪夢だ。
 早く覚めればいい。
 焦らすようにゆっくりと間合いを詰める男は、一体何者なのだろう。
 全身の毛が総毛立つ。本能的な恐怖すら、感じていたかもしれない。
「ずっと、白黒の世界で生きていくのかと思っていたのに……」
 部屋の中ほどで足を止め、一馬は自らの右手を見つめた。
 藍の瞳には何かを懐かしむような、哀愁の色がある。
「ここは闇だ」
 異形の力を手に入れたはずの右手をいとおしむように、それと同時に憎悪するように見下ろして、一馬は笑った。
 障子を握る自分の手が、無様なほど震えていることに気づく。不甲斐ない自分を叱咤して、雅は室内に踏み込んだ。
 できることなら、逃げ出してしまいたい。薄情だけれどそれも本音だった。

 ようやく思い知った、気がした。
 どれほど。
 どれほど、この男が飲み込まれた闇が深いものか。
 淵から覗き込んで手を差し伸べるぐらいでは、届きもしないのだと。
 奇麗事や正論でも、足りない。
 途方に暮れた。
 どうすればいいんだ。

「どうして、放っておいてくれなかったんだ」
 一馬の口調はまるで拗ねている子どものようだった。
「あのとき、おまえが来なかったら、こんなふうに」
 血に濡れた座敷。部屋の隅に転がるカッターナイフ。硝子のような微笑と、電話器の傍で蹲って泣いていた一馬の母と。
 絵が。刹那に目蓋の裏を駆け抜けた。
「ふざけんな!」
 怒鳴りつけるのが正しいのか間違っているのかなんて、もうどうでも良かった。
 ふつふつとたまった澱が行き場を無くして、爆発した。
 腕を伸ばして、相手の着物の襟首を掴んで引き寄せる。
 が、あの日と同じように、何を言っていいのか分からなくなってしまった。
 一馬は。
 胸倉を掴まれて引き寄せられているというのに、とても不思議そうな顔をした。
「どうしておまえが、痛そうな顔をするんだよ」
 厭味などではなく、それはおそらくただの疑問だった。
 ひどい傷を負ったような顔でもしていたのだろう。それが一馬には不思議だったのだ。
「おまえに何が分かるって言うんだよ」
 責めている素振りではなく、こちらが苦痛に顔を歪めているのが何故なのか、おそらくとても純粋に、分からなかったのだ。
「目の前で父さんが崩れて動かなくなって、どんどん冷たくなっていって。それでも俺は、気持ちが良かったんだ。体中が熱くて、酔っ払ったみたいになった。今まで体中に漂っていただるさが一瞬で消えて、視界がクリアになったような気すらした。それが……」
 大根役者が読む台詞のように、一本調子のまま一気に吐き出す。
 不自然なほど唐突に言葉を切った一馬の顔に、急激に感情が浮かびあがった。
 憎悪の。
 牙を剥くのにも似た、苛烈な熱。
「それが、喰い殺すっていうことなんだぞ! 身内を喰って、笑い出したくなるような化け物をどうして―――!」
 気圧されて、雅は思わず相手の襟元から腕を放した。
 半歩、あとずさる。
 日々を植物のように過ごしている男とは思えぬ素早さで、包帯だらけの腕が今度は逆に雅の襟首を掴まえて、引き寄せた。
「どうして、殺してくれないんだ―――!」
 はらりと。
 殺気すら漂わせる男の頬を涙が落ちた。
「お前の仕事じゃないのかよ、化け物を殺すんだろ?」
 嘲笑のような薄ら笑いのすぐ傍を、水分が筋道をつくって落ちてゆく。
「親父の死体を踏みつけて、これからも人の意識を喰って縋って生きてくんだろ? それのどこが……」
 胸倉を掴む腕から、急激に力が抜けた。
 糸の切れた操り人形のように、がくりと首をうな垂れる。
「俺のどこが、人間だって、言うんだ。なんで誰も……」
 電池の切れた玩具のように、一馬は膝から崩れ落ちた。
「責めてくれないんだ!」
 落雷のような絶叫に、雅はそれこそ雷に打たれたように動けなかった。
「俺は……」


            *


 腹部に蘇る鈍痛に、雅は舌打ちをした。
 怪我のせいか、やけに感傷的になっている。過去を振り返っている場合ではないというのに。
「認めないぞ、俺は」
 妖になりたい、だなんて。
 六年前の夏。絶望の季節、誰よりも傍にいて見ていたのは自分だ。
 一馬の望みを、知っている。
 宗家の屋敷、奥深く。人避けをした奥座敷の中で聞いた。
 はかない願いのような望みを、雅は今も忘れられずにいる。

―――俺は、ひとでいたいよ、雅。



2.

《顕現、か》
 受話器の向こうで重厚な溜息がこぼれおちた。
「ご隠居はんなら、何ぞご存知かと」
 最新型のFAXつき電話機は、京分家の中においては甚だ浮いている。
 居間の働きをする洋間で、紅子はゆるやかな曲線を描く受話器を握っていた。
 もうひとつ、深い溜息が耳元におちてくる。
 柳眉をひそめ、紅子は渋面をつくった。
《銀はもちろん、他の家でも近年はそのようなことは全く聞かぬな。何しろ夢喰い自体数が減っておる》
「せやったら……」
《調べてはみるが、直ぐ様力になれそうにはないな》
 今度は紅子が溜息を落とす番だった。
「分かりました。……ああ、そうやわ、ご隠居はん」
 用件をもうひとつ思い出して、紅子は受話器を持ち替えた。
「雅からもうひとつ、言伝があるんやけど」
《あの馬鹿息子がどうかしたのか》
 クソジジイに馬鹿息子とは。仲がいいのか悪いのか分からぬ父子だ。
 結局のところは根底が似ているのだろう。緊迫した状況だというのに、微笑ましく感じてしまった。
「なんでも、蔵から出してほしいもんがあるんだとか」
《蔵から?》
 いぶかしむ気配が如実に伝わってくる。
「蜘蛛……」
《馬鹿者めが》
 名を言い終わらぬうちに、嘆息。盛大に呆れた様子だった。
《そのあたりは始に伝えておこう。色々と迷惑をかけるな、紅子》
「いややわ。他人行儀やね、ご隠居はん」
 いたわる様子の声音に、ころころと紅子は笑った。
「うちかて銀の女。それに京分家は西を預けてもろてる身。西から火が上がったんやったら、うちの監督不行届きと謗られてもしようない話や。せやから、この火を鎮めるためにはなんにも惜しんだりはせぇへんつもりです」
 ご隠居は上機嫌に笑い声を上げた。
《銀はどうしてこうも、女が強いのか。全く頭が上がらんわい》
「今頃気づきはったんですか?」
 畏れ入ったと苦笑いを零す斎に、紅子は勝ち誇ったように笑った。
 そのとき。
「御園さまっ!」
 勢いよく扉が開かれ、使用人の娘が声高に呼ばわった。
 慌てて耳元から受話器を引きはがし手で覆うと、紅子は結い上げた髪を翻して振り返った。
「なんやの、騒々しい! 電話中や!」
 きっと怒鳴り返すと、まだ少女の域を出たばかりの使用人はきつく目をつぶって肩を竦めた。
「そ、それが、お客さまが」
 瞑った目を開きながら、おそるおそる娘は告げた。
「お客? 今日は誰とも約束してへんはずやけど」
「そうなんですけど、色んな分家の方が仰山……」
「すんまへんご隠居はん、また掛けなおしますわ!」
 さっと色をなくした紅子は、未だ繋がったままだった受話器に向かって怒鳴りつけるように言うと、猛々しく受話器を置いた。
「どこにおるん?」
 凛とした面持ちで、紅子は娘に向き直った。
「はぁ。前庭に……」
「門の内側に入れたん?」
 娘の答えを聞きながら、既に紅子は緋の着物を翻して洋間を出ている。
 小走りに、娘が追って来る。
「寿はんが止めはったんですけど、殺気立ってるっていうんか……」
 未だ頭が上がらない小柄な老婦人の顔を思い出す。
 先代―――早くに他界した紅子の母共々、教育係でもあった厳しい京女でも押しとどめられなかったのか。
 苛立たしげに紅子は唇を噛んだ。
「姐さん?」
 縁側にも通じる廊下の交差点で呼び止められ、紅子は左手側に体を捻った。
「どうかしたの? すっごい騒々しいんだけど」
 遠縁の親戚―――とはいえ、血はほとんど繋がっていないだろう―――である少女が不思議そうな顔をして立っている。
「ああ、ちょっとな」
 すぐ傍にある玄関の扉を疲れたように眺めて、紅子は言葉を濁した。
 姫架はいよいよ訝しげな顔をつくる。
「あたしも行こうか?」
 先程から無数の男たちの話し声が聞こえるのだ。庭のほうから。
 紅子のことを侮っているわけではないが、万が一ということもある。
 すると紅子はひらひらと手を振ってみせた。
「ええよ、心配せんとき」
「でもさー」
「ええから」
 食い下がろうとする姫架を押しとどめる。
 紅子の顔に静かな笑みが浮かんでいるのを見て取って、引き下がる。凛と意志の強い顔だった。
 嫣然とほほえむ紅子に、思わず姫架は息を飲む。
 うつくしいと同時に、おそろしくもあったからだ。
「あんたは一馬の傍に居ったり」
 ひとこと。
 尋常ならざる気配に、ひとつ頷いて姫架は踵を返した。
 何かが起こっているのだ。
 きりりと表情をひきしめて縁側へ歩いてゆく背中を見送ってから、紅子は玄関に向き直った。
 草履を引っ掛けるように履くと、紅子はすぱんと扉を開け放つ。
「お約束もなしに、何でっしゃろ」
 玄関から門へと続く広々とした庭園が今は、無数の人で埋め尽くされていた。
 鮮やかな緋の衣で現れた当主に、京分家に詰め掛けた男たちはいささかたじろいだ様子だった。
 先までのざわめきが、水を打ったかのように静まる。
「いくら親戚筋や言うても、不躾なんと違います? しかも、こないに大勢で」
 最低限の礼儀は繕っていても、紅子の眼光は剣呑だった。
 威圧感すら感じさせる紅子のもとに、玄関の近くで男と揉めていた小さな老女が小走りに駆け戻ってくる。着物を着こなし、髪を見事に結い上げた彼女は、御年八十近くというのに、きりりと背筋がのびている。
「すんまへん、御園様。門前でとどめよう思うたんどすけど」
 内緒話のように声を潜め、陣内寿は主に詫びた。
「寿はんが悪いわけやないで。気にせんとき」
 眼前に居並ぶ男どもを見据えながら、紅子は寿を労った。
「揃いも揃って」
 片方の腰に手を当て、紅子は居並ぶ男衆を眺め回した。
「申し上げたきことがありましたゆえに、不躾な訪問ご容赦願いたい」
 先程寿と言い争っていた男が、表情をひきしめて紅子に向き直った。黒いスーツを纏った、屈強な壮年の男。
「女子所帯なんやから、先に話を通して欲しかったんやけどね、幸孝殿」
 そこそこ名のある分家の主だったはずだ。
 言葉に棘をふくんで、紅子は彼を見つめた。
「連絡などをして、逃がされたら困る!」
 いずこからか、男の声があがった。
 艶やかな視線を流し、紅子は声の主を探そうとするが、人波は沈黙したままだ。
「”逃がす”?」
 聞きとがめ、紅子は鸚鵡返しにした。
「御園殿、ご理解いただきたい」
 幸孝が一歩踏み出した。
「我々は、宗家に申し立てがあるのだ。丁度こちらに宗家の方々がいるとうかがった。ゆえに……」
「雅殿と都佳沙殿なら、生憎と出払っとります。二方に御用といわはるなら、言伝でもなんなりと承りましょ。直接というなら、日を改めていただきましょう」
 多勢に無勢とはいえど、そこは西の束ねである。
 胸を張って、きっぱりと紅子は声を張り上げた。
「あなたは! 宗家の独裁に目をつぶると仰るのか!」
 幸孝は、建前を脱ぎ捨てたようだった。
「仕事の細部に至ってまで管理され、縛られる。このままでは我々は……!」
「……ちぃと、誤解してはるんと違います? 幸孝殿」
 なるほど。やはり彼らも宗家に楯突くためにやってきたものたちか。
 内紛(クーデター)だ。
 幸孝の顔を見上げ、紅子は艶然と微笑んだ。
「うちが何で、宗家に楯突かんとあかんのです?」
 呆気に取られた様子で、幸孝は言葉を失う。
 分家筆頭の京分家を、味方に引き込もうとでもしたのだろう。
 筆頭とはいえ、所詮頭は若い女。数で攻めれば陥落するとでも思ったのか。
「おかしいやないですか。京分家は、言わば宗家の直轄。あんたさんたちがいわはる甘い蜜を一緒になって啜ってる家です。うちは管理されとるんと違います。あんたさんらを”管理してる”んです。まず楯突くなら、うちんとこと違いますの!?」
 男どもの顔から一瞬血の気が引き、すぐに赤みがさした。
「御園殿、あなた……」
「好都合だ、つかまえてしまえ!」
「化け物を引きずり出せ!」
 何かを言いかけた幸孝の言葉も、群集からの扇動にかき消されてしまった。
「ばけもの、ねぇ」
 両手を腰に当て、紅子は呆れたように吐息をついた。
 その言葉が誰を指すのかなんて改めて考えなくても―――。
「どちらが畜生か、よぉく考えんかい!」
 腹に力を入れた一喝で、大の男がひくりと肩をふるわせる。
「九条の悠嵩殿といい、陰気な手ェばっかり使うて、人海作戦ですか。随分と安く見られたもんやね。敢えて言わしてもらいますけどね、そんなんやから、あんたら地べた這いずり回っとるのと違いますの?」
「言わせておけば!」
「貴様とて、世襲で家を継いだだけの、小童ではないか!」
「確かに、うちはまだまだヒヨッコですわ。せやけど、傷口に群がる蛆みたいな真似は惨めったらしくてとっても出来まへんわ! 長う生きてると、面の皮も厚くなるみたいどすなぁ」
 紅蓮の炎のような凄絶な存在感をもって、紅子は庭を支配した。
 明らかに紅子よりも年長である男どもは一様に顔を赤く染め、拳を握り締めている。
「つまりあんたさんらは、仰山で押し寄せて、雅や都佳沙、そうでなければ一馬を捕まえるつもりやったんやね。人質をとって当主と交渉が目的か。数で攻めればうちがこっくり頷くと思うてたんでしょうけど」
 顎を逸らし、紅子は憤怒に震えている”親戚一同”を舐めるように見回した。
 瞳には、冷え冷えとした怒りが燃えていた。
「無駄や。人質になんて、宗家は見向きもせぇへんよ」
 いざとなれば、斎や始ならば、切り捨てるぐらい、する。
 雅や都佳沙も覚悟はあるのだ。
 宗家とはそういう家。
 魔性の家だ。
「やってみねば、分からん!」
 幸孝の背後で肩を震わせていた三十代も折り返した程度の男が、服の内側から何かを抜き取った。
 抜き出された得物を見て、紅子は盛大に嘆息した。
「ヤクザとおんなじやんなぁ。嘆かわしいわ」
 銃口を前にしても、紅子はたじろぐ様子はなかった。
 ひとりが得物を抜いたのを合図に、男どもは次々と武装をととのえる。
 敷地が桁外れに広く、住宅街から少し外れているということは、こういうときにネックになる。
 近所が聞きつけて、通報をしてくれるわけでもない。
 が、逆にどれだけ騒ぎになっても、ある程度は感づかれないという利点も、ある。
「残念です」
 目を伏せ、幸孝が後方に下がった。
「うちもですわ」
 紅子も苦笑し、一歩だけ後方に下がった。
「あんたは中に入っとき。出てきたらあかんで」
 傍に控えていた寿に小声で告げた。
 律儀に一礼をして、老婆は素早く玄関をくぐると、ぴしゃりと戸を閉ざした。
「覚悟を決めたわけか」
 人波のうちから、下卑た笑いが届いた。
「ここは京分家の屋敷。いくら若輩と謗られようが、わたしの敷地。やんちゃは許しまへん」
 あたりの温度が急に下がった、ような気がした。
 ざわりと肌を舐めてゆく寒気に、銘々が唾を飲む。
「ひぃっ……!」
 震えた男の指先が、怯えに後押しされて引金を引いた。
 乾いたピストルの咆哮と共に、鉛が一直線に女に向かって飛んだ。
 瞬間、紅子の足元から青白い炎の壁が噴き上がり、鉛玉の進路をはばんだ。
「うわああ!」
 人波のあちこちで悲鳴が上がった。
 ほう、ほうと。あちらこちらで青白い鬼火があがったのだ。
 あっという間に炎は男どもを取り囲んだ。
 円の形にとりかこまれて、自然と男たちは互いに背を庇うかたちになる。
 紅子は両脇を二本の火柱で庇われていて、銃弾すらも受け付けない。

 男たちを囲む円の傍に、一際大きな鬼火が現れた。揺らぐ炎がやがて、玉から別のものへと形状を変えてゆく。
 それはまるで人のようだ。
 人型になった炎は、むくむくと大きくなり、やがて屋敷の屋根を追い越すほどになった。
 戦く男どもをのっぺりとした顔で見下ろし、炎の巨人は仁王立ちをしている。
 突然のことに無様に腰を抜かしている男たちを見下ろした、巨人の顔の一部がくわっと裂けた。
 丁度口があるあたりだろうか。口裂け女にも劣らぬような、巨大な裂け目が現れた。
 緩慢に地面に両腕を付き、獣のように四つん這いになると、巨人は口だけの顔を男どもに近づけた。
 大きく裂けた口で、男のひとりを頭から飲み込んだ。
「ぎゃああああああ!」
 断末魔の叫びがうつくしく整えられた庭園に木霊する。
 咽喉を鳴らすように飲み込むと、また身を屈めてもうひとり―――。
 まるで、地獄絵図のようだ。
 幸孝は呆然と立ち尽くし、次々と同志が飲み込まれてゆく様を見つめていた。
「や……」
 声を振りしぼり、絶叫する。
「やめてくれえええええ!」

 コーン、コー……ン。
 高く鳴くなにものかの鳴き声が、幸孝を現実へと引きずり戻した。
 冬の寒空の下であるというのに、びっしょりと汗をかいて、立ち尽くしている自分に気がついた。
 炎の魔人などどこにもいない。
 食われたはずの男たちは、まばたきも忘れてへたり込んでいるか、既に意識を手放しているか……。ともあれ、食われたものはいないようだった。
 それでは、先程の魔人は一体―――。
 コー……ン。
 視界の端を何かが横切った。
 門に連なり敷地を囲む塀の上を、何かが跳ねるように移動している。
 既に戦意を失った男どもの周りを数度飛び跳ねると、青白い影は紅子の上、玄関の屋根に姿をあらわした。

 三股の尾。
 体全体が青白い炎に包まれた、あれは―――。
「おやおや、どないしはったんです?」
 頭上にうつくしい獣を控えさせて、紅子は艶然と笑んだ。
 壮絶な微笑に、とうとう幸孝は膝を折り、力なくへたりこんだ。

「皆さん揃いも揃って。”まるで狐にでも化かされたみたいに”―――」





【続く】


第十四話

夢喰い

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