十二話 躊躇に膿む熱

1.

 噎せかえるような血の匂い。じっとりと肌を濡らすような不快感に、要は瞬きも出来ずに前方を見つめていた。
「汀を」
 紅の瞳で要を射抜くように見つめ、そのあやかしは口を開いた。
 呪詛のように地に響く声は、男のものだった。
「何処へやった」
 鋭い爪の生えた手をきつく握り、男は憎々しげに搾り出す。
「みぎわ……」
 耳慣れぬ名を、要は鸚鵡返しにつぶやいた。
 どこかで聞いたことがある。
 眉根を寄せた刹那、いくつもの情景が点滅するように脳裏に過ぎった。
 赤い狩衣姿の女。
 短い悲鳴が廊下のほうから背中に突き刺さってきたが、要は振り向けなかった。
 眼前のあやかしから目を逸らしてはいけないような気がした。
「脆弱ないきものの分際で、儂等を家畜の如くに扱うか、人間ども―――!」
 牙を剥いて、男は憤怒の表情をした。
 こめかみや唇の端から赤い液体を滴らせながらも、餌に飢えた獣のように猛々しかった。
「汀を何処へやったかと、問うておるのだ!」
「死んだよ」
 笑いを含んだ声が割って入った。
 くつくつと咽喉で笑う気配に、思わず要が後方を振り返る。
「可哀相に、君は結界の内側にいて、その気配を感じることが出来なかったんだね、焔」
 ぎらりと鋭い殺気があやかしの瞳に輝いた。唇を噛み、室内に踏み入ってきた男をねめつける。
「この小僧どもの一味に殺されたのだよ。お前たちの慕い仰ぐ主君(あるじ)を奪還しようとして、ね」
 要よりも一歩前へ歩み出て、銀悠嵩は淡々と告げた。
「悠嵩、もういい加減に、しろ」
 辛うじて聞き取れるほどの声で、崇嗣は言った。
 すぅっと瞳をほそめ、頤を持ち上げて、悠嵩は部屋の隅に座り込んでいる実兄を見下ろした。
「ああ、兄さんか。誰かと思ったよ」
 芝居がかった動作で首を傾げて見せ、悠嵩は小さく笑みを零した。が、微笑をすぐに仕舞いこむと、重傷を負いながらも殺気ばかりで生き長らえているような化け物に向き直った。
「お前の主を縛り付けているのは、当代もあの、銀の直系どもだ。汀は、あのものどもに始末をされたのだよ」
 血の気が失せるほどに唇を噛み締め、翼を負った男は、悠嵩から要へと視線を流した。
 氷点に達した怒りの眼差しに、要は一瞬呼吸が出来なかった。
「またしても、御園の血脈か……!」
 牙を剥き出しにし、男は唸った。
 鋭い爪の生えた右手で、深く抉られた左肩に触れる。病的に白い指先が赤く染まった。
「許さぬぞ、今度こそ根絶やしにしてくれる……!」
「あなたを引きずり出したのはこの男じゃないか!」
 恐れを振り払って、要は声を張り上げた。
 悠嵩に指を突きつけて、鋭く断罪する。
「都を震え上がらせた伝説の鴉天狗。その懐刀と呼ばれた二匹が、憐れなことだな、焔よ。永遠の主を従属の楔から解き放って差し上げるために、わたしはお前たちを現世(うつしよ)に喚んだのだ」
「違う、こいつはあなたたちを利用して―――!」
「止せ!」
 要の反論を、急激に老いた男が掠れた声で制した。
「早く逃げろ! さっきも言っただろう、そやつは我を忘れているんだ! 現在と過去の区別もついていない。こうなってしまっては、もう我々ではどうしようもない! 宗家に―――」
 枝がしなるような音が聞こえたのは、そのときだった。
 低くうめいて、崇嗣ががくりと床に倒れこむ。
「崇嗣さん!」
「耄碌した老人の言葉など、耳障りなだけだ」
 まるで蝿を払うかのように悠嵩が指先をひらめかせた。ただそれだけで見えぬ鞭が崇嗣を打ち据えたようだった。
 一体、何をしたのだろう。
 要は愕然と、人形のように静かな悠嵩の横顔を見つめた。
「不条理な血脈の支配から、我らも脱却したいのだよ、焔。手を貸してやろう」
 優美でありながら、けっしてぬくもりの感じられない笑顔で、悠嵩は微笑する。
 悠嵩は左腕を伸べた。まるで、斜め後方にいる要を制するようにも見えた。
 自らの方へ向けられた悠嵩の掌を思わず凝視した、次の瞬間に。
 腹部にどっと衝撃を受け、要は後方に吹き飛ばされていた。
 あっけなく廊下の壁まで飛ばされ、要は背を強かにコンクリートに打ちつけた。
「ッ―――。来るなっ―――!」
 駆け寄ろうとする茜を鋭く制して、要は必死に酸素を取り込んだ。
 視界が、膜でもかかったかのように暗かった。
 這い上がってくる嘔吐感を、腹部を押さえることでなんとかなだめすかしながら、何度も咳き込む。
 ともすれば霞む視界で、なんとか悠嵩と翼を負った男―――焔と呼ばれていたか―――を睨み据えようとする。
 隙を見せてはいけない。
 気持ちで負けた瞬間、終わりだ。
 圧倒的に不利なのだ。勝とうなどと考えてはいけない。なんとか活路を見出さなくてはならない。
(一体、何をされたんだ?)
 焦らすようにゆっくりと歩み寄ってくる悠嵩を見据え、思考をめぐらす。
 得物のようなものは何も持っていなかった。すくなくとも、要には見えなかった。
「なんだ、案外あっけないものだなぁ」
 扉の枠に右手をかけ、もたれかかるように廊下に身を乗り出した悠嵩が、つまらなそうに言った。
「それでも五年前、世間をにぎわせた”神の子”かい? がっかりだな」
 大袈裟に首を左右に振って、唇の端を吊り上げて笑った。
 目に見えて要の顔から血の気が引くのに、悠嵩が満足そうに目を細める。
「だから言ったじゃないか。君のことも調べたんだって」
 物分りの悪い生徒を諭すような口調だった。
「たくさんの奇跡を起こして人々を救う傍ら、様々な怪異を起こして周囲を震え上がらせたのは、若干十三の子ども。天使のようにとても愛らしい子だったんだとか」
 悠嵩の声はなめらかであまやかだった。
 まるで幼子に御伽噺を話し聞かせるような。
「お父さんは随分と長いこと病に臥せっているんだってね。一体どこが悪いんだい? 可哀相に」
 憐れむかのような色を目元にたたえ、悠嵩は眉根を寄せた。
 漆黒の瞳から目を逸らせぬまま、要はきつく唇を噛む。
 じわりとしょっぱさが口内に広がる。鉄の味がした。
「ああ、そうそう、君さ」
 同情するような憂い顔をすぐさま仕舞いこんで、仲のよい友達と会話をするかのように話を継いだ。
 廊下まで歩み出て、ひどい痛みを堪えているような要の顎を乱暴に掴む。
「―――君、お母さんに何をしたの?」
 囁きに、一瞬で視界が白に染まった。
 気づけば、要は思い切り、悠嵩の体を突き飛ばしていた。
 顎を伝って生ぬるい雫が落下したところで、要は自分が知らずに涙を零していたことに気づく。
 上ずる呼吸を、まるで他人事のように聞いている。
「ふふ、はははは!」
 数歩後ろによろめいた悠嵩は、扉の枠に手をかけたかと思うと、螺子が外れたかのように笑い出した。
「残念だよ、本当に。もっと手に余るものかと思ってたんだけれどね」
 顔半分を右手で覆い、こみ上げる笑いをなんとか堪えようとしている様子だった。
 頬に涙を伝わせたまま、要は笑い狂う男を見上げていた。
「何せ宗家が真綿にくるむように保護しているんだ。どんな切り札かと思えば、ただの温室育ちのガキか」
 額あたりを覆っていた指の隙間から、ぎらりとした瞳が覗き、要は息を飲んだ。
 その眼差しは、何かの熱に浮かされているようだったから。
「がっかりだ。ただの荷物に興味はないよ」
 靴音を響かせて間合いを詰め、悠嵩は上から要の髪を強く引く。
 引きずられるような痛みに、思わず目を瞑った。が、その痛みも、一瞬で感じなくなった。
「盾に使われるのがどんなに惨めなことか、お前に教えてやる。あの人喰いの化け物を始末するのをその目を見開いてしっかりと見ろ」
「っふざけるな、何も知らないくせに!」
 咄嗟に、目の前にある悠嵩の胸倉を掴んでいた。
「好きでなったわけじゃないのに、誰かを苦しめたわけじゃないのに、何で皆、あいつのことを放っておいてくれないんだよ!!」
 嗚咽に引きずられ、迫力はなかった。
 けれど、一言言ってやらなければ気がすまなかった。
 なんと言われても自分のことならば、耐えることもできる。責められてしかるべき過去もある。
 だけど―――。
 悠嵩は、嘲るような笑みを消した。
 掴んだままの要の頭を引っ張り、後方のコンクリートに強く叩きつけた。
 脳味噌を揺さぶるような衝撃に、悠嵩の襟元から指が離れる。
 打ち付けられたこめかみのあたりから、一筋、赤い流れが顎に向かって落ちた。
「因習の象徴のようなものだ。夢喰い? 契約? 旧いものを捨てきれぬ、宗家の妄執だよ。いつまで平安のころと同じものを引きずろうとするんだ。血の絆はもうほころびている。我々は血だけではもう、納得が行かないんだ。それを宗家に知らしめてやるのさ」
 ひょう、と風が鳴ったのはその瞬間だった。
 要に覆い被さる悠嵩の後方から、黒いものが飛来し、悠嵩の頬をかすって壁に突き刺さった。
 霞む意識を何とか奮い立たせ、要はすぐ左側に突き刺さったものを見た。
 黒い、艶やかな羽根だった。
 悠嵩は右手の甲で頬を軽く拭った。羽根は、剃刀のような鋭さで、悠嵩の右頬にほそい傷を残していた。
「戯言はいい。退け」
 ひたひたと血の池を引きずるようにして、黒い影が言った。
 つくりものめいた端正な顔には、何の感情も浮かんでいないかのように見える。けれども、瞳ばかりが滾るような熱をたたえている。
「汀の仇だ。その小僧の首、銀の屋敷に投げ入れてくれる」
 ともすれば閉じてしまいそうな瞳を必死に押し上げながら、要は廊下に現れた妖を見上げた。
 歩み寄る焔の気配に、悠嵩は要を解放した。
 ぬぅっと伸びたしなやかな腕が、信じられないほど凶暴な力で要の首を掴んだ。
「んぅッ―――」
 要は鷲掴みにされた首を掻き毟ろうとするが、力が入らない。
「御園の血の気配がするな」
 首を支点に、焔は要の体を引きずり上げた。
 体重を、背にしたコンクリートに預け、要は何とか立っていた。足がよろめく。
 視界にはうすい膜がかかっているようだ。目の前にあるはずの男の体さえ、歪んで見える。
 ただ、濃い血の匂いにむせ返りそうだ。
「憎むならば、今生で御園の血脈とめぐりあったことを憎むがいい」
 どうやるのだったか。
 意識を集中させるのだ。研ぎ澄まし、一点に集める。
 斎から教えられた、力の使い方。
 だが、どれほど意識を研ぎ澄ませようとしたところで、朦朧とした意識では叶うはずもなかった。
 首を締め上げる冷たい腕に、じゃれ付く子猫のような力で抗うのが精一杯だ。
 気道をぎりぎりと狭められ、視界はどんどんとトーンを落す。
 ゆるやかに、下降してゆく。
(光、が―――)
 うすれてゆく意識の中で、ほとんど無意識のうちに思い浮かべた。
 水面にうかぶ泡のように、心の表層に浮かび上がったその存在に、要は愕然とした。
 一体自分は、何に縋ろうとしたんだろう。
 あっけなく、縋りつこうとしたものは、乗り越えようとした過去だ。
 “彼”に。
 この身のうちに居るもうひとりに助けを求めれば、確かにこの状況を打開できるかもしれない。
(でも、僕はいつまでそうやって、甘えていくつもりなんだ?)
 無意識のうちにもたれかかって、背を支えてもらって。
 それではいつまでも、”ひとつ”にはなれない。
「離……せっ……!」
 唸る。
 首を締め上げる焔の腕にしがみついて、爪を立てる。
「ほう、威勢のいい猫だな」
 口の端をゆるめて、焔は笑った。
 要の首を締め上げているのとは別のほうの指を、獣が爪を剥き出しにするときのように開いた。鋭い爪の先にほうと、青白い炎が宿る。
「寂しくはない。すぐに皆、彼岸に叩き込んでやるゆえ」
 火の宿った爪を、焔は迷うことなく要の左胸に突き立てた―――。
「ぐぅ―――ッ」
 苦悶のうめきを聞いて、要はきつく瞑った目をひらいた。戒められていた首が解放され、われ先にと酸素が咽喉に飛び込んでくる。
 がくりと膝を折ってうな垂れると、咽喉を押さえて何度も咳き込んだ。
 うめいたのは、自分の咽喉ではない。鋭い爪を突き刺されたはずの左胸にも傷ひとつなく、一切痛みを感じていなかった。
 慌てて、殺気の塊である妖の姿を探す。
 焔は要の左手側の廊下に仰向けに倒れていた。後ろ手についた腕を支えに、上体を起こそうとするところだった。
 腹部のあたりの衣が破れ、抉られたような傷がぱっくりと口を開いている。
 その更に後方、由紀子が茜を必死に抱きかかえて後ずさりをしているのに、要は少しだけ安堵した。
「鴉天狗。榊の眷族だな」
 一切の温度のない声がすぐ上から降ってきた。
 驚いて、要は声の方を見上げる。目の前に足があった。細い締まった体躯を、ゆっくりと眺め上げてゆく。
 闇そのものであるかのような黒衣に、滝のように背を落ちる黒髪だ。そして要は、見覚えのある人影をそこに見出した。
「飼犬風情が!」
 憎々しげに焔が牙を剥いた。
「家畜同然に堕落した下種が、同胞に刃を向けるか、恥を知れ!」
 滾るような怒りを怨嗟にしてぶつけながら、焔は素早く立ち上がった。
「叶さん」
 まるで幽霊にでもであったかのような気分だった。
 要の目の前に立つ使い魔は、紫の瞳でちらりと要を一瞥して、すぐに同胞である妖に視線を戻した。
「大事なく、なによりです」
 焔を見据えたまま、叶は愛想なく言った。
「あとは、我らにお任せください」
 我ら? うまく回らない頭で、複数形の意味するところを図りかねていると。
 力なくコンクリートについた右手を、後ろから伸びてきた腕が掴んだ。
「ああ、ひどいな。立てる?」
 耳慣れた声だった。
 今度こそ、要は弾かれたようにそちらを振り返った。
 打ち付けられた頭が重い鈍痛を訴えるが、この際気にしてはいられなかった。
 いつのまにか傍らに人がしゃがみこんでいた。
 憂えるような瞳で、こちらの顔を覗き込んでいる。
「都佳沙……」
 信じられない思いで、要は友人の名を呼んだ。
 呆然とする要に苦笑しながら、都佳沙は要の体を引っ張り上げた。
「あ、ありがとう」
 よろめきながらも立ち上がる要に、涼やかに微笑した都佳沙だが、すぐさま笑みを消して、扉の傍に立っていた悠嵩に向き直った。
「残念です」
 しずかに、都佳沙は言った。
「使い魔として契約を結ばぬ妖を使うのは法度と、お分かりのはず。何より、貴方の宗家への叛意は、既に当主の知るところです。何より、わたしがこの目で見たものこそ、動かぬ証拠。これ以上の抵抗は無意味と心得よ」
「宗家宗家と、仰るがな、次期当主殿」
 あきれ返ったように溜息を落とし、悠嵩は潔癖な少年を見据えた。
「敢えて問うが、本流とは何だ? 傍流とは? 一体どこに違いがあるんだ?」
 役者のように手を大きく広げて見せながら、悠嵩は都佳沙を見つめた。
「遙か昔であったならば、血の濃度という決定的な違いがあっただろうが。今はどうだ? 違うのは家の名ばかり。わたしが分家に生まれ、貴様が宗家に生まれたという違いばかりではないか」
 道化の笑いを完全に消し、悠嵩は敵意を剥き出しにした。
「絶対的な力の差すら”後付け”だというのならば、一体、我らの間にどんな壁がある! 世襲など、そんな埃まみれな因習をいつまで引きずるつもりか!」
 憤怒に顔をひきつらせ、悠嵩は都佳沙を糾弾した。
「まだ言うことはあるか、聞いてやる」
 これほどまでに冷えた都佳沙の声を、要は聞いたことがなかった。
 悠嵩を見据える横顔を窺うと、一切の感情が消失した、人形のような面が見えた。
 しずかな怒りがひたひたと空気を侵食してゆく。
「誰が望んで踏み台を用意してほしいと言ったものか。僕とおまえが違うところを教えてやろう。僕ら宗家の血脈は、既にばけものと同じだ。おまえ如き、一時のドーピングで、我らの血脈を凌げると思っているのか。経験が違うよ。身のうちの化け物を飼い馴らしている、経験がね」
 笑みさえ浮かべて見せる都佳沙に、悠嵩はあきらかにたじろいだようだった。
「僕は怒っているんだ。こんな薄汚く、回りくどい手段で噛み付かれたことにね。貴様が力を持っているというのなら、単身、僕らを殺しにくればよかったんだ。そのほうがうんと分かりやすいだろう」
「大した物言いだ!」
 ひきつった笑いで唇の端を歪め、悠嵩は嘲笑と共に吐き出した。
「ならば、比べてみようじゃないか。宗家と分家の違いというやつを! 同じ踏み台を手に入れたもの同士で! それでも宗家が我らを束ねる器であるかどうかをな!」
 獣のように猛々しく、悠嵩が吼えた。
 瞬間、足元の床がぐにゃりと粘土のように溶けた。



2.

「”顕現”、あれが」
 つぶやいて、紅子は机の上に重ねた手に視線を落とした。
 見事な漆塗りのテーブルはよく磨き上げられている。
 深刻そうに押し黙る当主の向かい側には、宗家の次男。口元の傷に姫架がばんそうこうを貼りつけるのを、渋い顔をして見ていた。
 手当てを終えて、いつもは騒がしい姫架が無言で離れるのを見てから、テーブル中央に置かれていた硝子の灰皿を引き寄せる。
「高まった妖力が蓄積されて、表面張力のようにふくれあがり、一気に零れ出す。それが、顕現って呼ばれているものだ」
 ジャケットの内側から煙草とジッポライターを引きずり出し、雅が口を切る。
「あの鴉天狗は実体じゃない。あいつの力が溢れ出した集合体が、わかりやすい形をとっただけだ。顕現が起こるほど、切羽詰ってたってことさ」
 いささか投げやりに言って、雅は煙草に火をつける。
「……どうなるの?」
 主語のない問いは、右隣から聞こえてきた。
 紫煙を吐き出しながら、雅は縁戚の少女を見る。
 姫架はきりっと膝を折って座り、その膝の上に両手を置いていた。
「これからどうなっちゃうの?」
 膝に置いた手をきつく握り締めながら、姫架はうな垂れる。
「分からん」
 しばらく沈黙を置いて、雅はゆるく首を横に振った。
「分からん、ってあんた……!」
 噛み付いたのは向かい側の紅子だった。
「分かるわけないだろ、俺だって初めてなんだよ、こんなのは!」
 気色ばむ紅子に、思わず怒鳴り返す。
 怒鳴りつけてしまってから、急に冷静になる。
 憮然とする紅子に、「悪い」と一言詫びて煙草を揉み消した。揉み消してから、ほとんど吸っていなかったことを思い出す。
「俺だけじゃない。おそらく今生きてる連中は、めぐり合ったことはないだろうさ。兄貴も、親父もな」
 怒鳴った勢いで、ぴりぴりと痛みを訴え始めた腹部を擦りながら、雅は溜息を落とした。
 顕現、など。
 御伽噺の世界だった。
 人が、化け物を産み落とす。
 伝承としては伝えられていても、実際に目の当たりにしたのは初めてだ。
 にぶく痛みを訴えつづける腹部を押さえて、雅は小さく舌打ちを落とした。
 つい先刻の情景が、まざまざと脳裏に蘇った。


             *


 ゆるやかに羽ばたく黒い翼が風を切る。
 中空に足を組んで座った一匹の鴉天狗は、まるで彼岸の生き物のように美しかった。
 銀糸の髪に紅の瞳。白装束に、負った翼の濡れ羽色がよく映えた。
「貴様、何者だ!」
 意識を手放した一馬の体を姫架に預け、雅は闖入者を怒鳴りつける。
「なにもの、か」
 面白い冗談でも耳にしたかのように、美麗なあやかしは口元をゆるめて笑った。
「そこの男の身のうちで飼われていた、ばけものの血だよ」
 鋭い爪の生えた右手で、男は意識を失っている一馬を指した。
「奴の半身と言ってもいい」
「ふざけるな! てめぇと一馬に繋がりなんてあるか!」
「そう、いとけない猫のように毛を逆立てるな、銀の血脈よ。お前もそやつと同じよな。駄々を捏ねずに真理を見るがよい。そやつの力は、もう既にひとの域を越えておるのだ。わたしは奴の意志。あやかしに堕してしまおうかと躊躇う、そやつの躊躇いの具現化だ。力ばかりではなく、心も振り子のように揺れ動いておったのを、気づかなんだか、銀よ」
「こいつが、妖に、なりたいだって?」
 刻み付けるように区切って言いながら、雅は殺気を孕んだ視線を向けた。
「そんな馬鹿げたことをこいつが思うわけねぇだろうが! こいつは誰よりも、人間でいることに拘ってるんだぞ!」
「ひとに留まりたいという思いは、確かに堅固だよ、銀の。だからこそ、こうなるまで持ちこたえたのさ」
 怒髪天を突く勢いの霊媒師を見下ろして、まるで諭すかのようにやわらかく、告げる。
「世界は陰と陽とに別れているものだ。善があれば悪があるように。光があれば影があるように。どうしてそやつが闇を孕んでいないと貴様に言える。想像を絶するような痛みや飢え、体を蝕んでゆく力に対する恐怖やくるしみ。いっそ落ちたほうが楽かと願うのは、それほど罪なことか。わたしは、楽になりたいと願う意識の一部。今もそやつの、人の器に留まりたい想いと戦っておるところ」
「顕現、だな―――!」
 ようやく雅は、この現象の名を思い出した。
 蓄積された妖力が行き場を失い溢れ出すという現象。
 夢物語だとばかり思っていたのに。
「顕現ってことは、実体じゃないな。妖力の塊か。厭味な恰好だな」
 厳密に言えば、奴は一馬の先祖―――鴉天狗の頭領”榊”ではあるまい。
 力の高まりゆえに自我のようなものを持っているが、元は一馬の意識の一部。
 もっとも一馬の心を揺さぶるために効力の在る恰好を選んだのだろうか。一馬が恐れる、強大な力を持ったあやかしの姿を。

(妖力なら、祓えるかもしれない)
 顕現の具体的な対処法など、もちろん知らない。
 今の己ができることといえば、幼い頃から仕込まれてきた”殺し方”で、化け物を始末すること。
 ただそれだけだ。
 ふくれあがった力だというのなら、吹き飛ばして減らせばいいではないか。
 それに、一馬がこんなに迷ってるなんて。意識の一部を切り離してしまうぐらい、躊躇しているだなんて。
「俺は認めない」
 搾り出すように宣言して、雅はジャケットの内側に右手を差し込んだ。
 手首をひねるように、引きずりだしたものを中空に漂う鴉天狗に向けて投じた。
 白い札は、鴉に届く間に揺らいでその姿を変え、小刀に変わると、一直線に天狗の白装束に飛び込んでいった。
「荒っぽいことだ、な」
 榊のかたちをしたものは、憐れむように微笑した。
 しなやかな指先をつい、と。ひらめかせる。
 したことといえば、ただそれだけだった。
 乾いた音と共に小刀は生き物のようにその刃を翻し、地上の雅へと矢のように降り注いだ。
 舌打ちを落とし、雅は顔を庇った。肩と脇腹のあたりを、熱さにも似た痛みが通り過ぎる。
「さっすがは、平安の世を震え上がらせた鴉天狗の姿をしてるだけは、あるって?」
 地面に突き刺さると同時に姿を消した小刀を見送ってから、雅は笑った。
「違うな」
 すぐ傍で声が聞こえ、雅は慌てて顔を上げた。いつのまにか、眼前に男が立っている。
「この力は、榊のものではないと、言っているだろう。いい加減認めるがいい」
 反射的に雅は背を逸らした。先ほどまで顔のあった場所を男の指先が風を切るようにかすめてゆく。
 僅かに掠められた頬が、ぱっと血を散らした。
 めまぐるしく動く視界の中で、確かに”ばけもの”は、凄艶なまでの笑みをたたえていた。
 艶やかとも言える微笑を目にした次の瞬間、雅は腹部に圧倒的な衝撃を受けて、後方に弾き飛ばされていた。
「兄さんッ!」
 取り乱す姫架の悲鳴を、どこか遠くに聞いた。
 仰向けに地面に投げ出され、しばらく呼吸がうまくできなかった。
 超高速で投げつけられたボールを腹に喰らったような心地だ。
 どこか内臓が傷つけられでもしたのか、咳き込むうちに血の味が口内に広がった。
 肋の一本ぐらい、折れたかもしれない。
 波が引くように遠ざかった意識は、体のうえに射した影で引きずり戻された。
「この力は、お前の馴染みが胸のうちに飼っていたものだ。やつの力なのだよ」
「ふざけ……んな!」
 振り絞るようにして、悪態をついた。
「お前の大事な友がわたしに屈したとき、すべては終わる」
 うつくしく、榊は微笑して見せた。紅玉のような瞳がすぅっと細められる。
 体を起こそうとして、腹部を襲う激痛に起き上がれずに、雅は舌打ちを落とした。

 力が違いすぎる。

 認めなければならなかった。
 敵は強大だ。
 ともすれば霞んでしまう目を必死に見開いて、雅は漆黒の翼を持つ化け物を見据えた。
「永きにわたり飼い殺しにしてくれた礼に、貴様に絶望の瞬間を見せてやろう」
 ざあっと一陣の風が横殴りに吹き付け、雅の視界は漆黒の羽で埋め尽くされた。
 風が収まったときには、もう男の姿はなかった。


            *


「紅子」
 思い出すだけで怒りが再び滾る。
 苛立ちを押さえ込みながら、雅は犬猿の仲を呼ばわった。
 テーブルに手を突いて、立ち上がる。
「おまえにいくつか頼みたいことがあるんだが」
 喋るたびに痛みを訴えるあちこちの傷を必死になだめすかす。
 紅子はといえば、怪訝に眉をひそめている。
「あんた、どこか行くつもりなん?」
「甥っ子たちのお迎えにちょっと」
 幼稚園のお迎えに行くかのような気軽さで、雅は言った。
「阿呆! あんたやって無事なわけやないやろ! 肋骨……」
「アバラの一本二本如き、今は関係ねぇんだよ」
 鬼気迫る様子に、紅子は声を飲んだ。
「警察に連絡してくれ。監禁先が分かったってな。あとは宗家(いえ)に連絡してもらいたい。お前がさっき見聞きしたものを、親父に聞かせてやってくれ。あるいはあのクソジジイが何か知ってるかもしれない。それから、蔵から出してほしいものがあるって」
「蔵……?」
「蜘蛛斬、って言えばわかる」
 手早く指示をあたえ、雅は早くも障子を開いて縁側に出ている。
「兄さん!」
 まろぶように和室を飛び出し、雅の背を呼び止めたのは姫架だった。
「あたしも行―――」
「駄目だ」
 言葉も終わらぬうちに、雅はばっさりと切り捨てた。
「イヤ! あたしも何か……」
「お前は一馬の傍にいろ」
 妹のような娘に背を向けたまま、雅は先刻以来意識を失ったままの弟分を思い出す。
「紅子はこの屋敷の主だ。ここに襲撃を受けたら、守るものが多すぎる。だからお前が、一馬の傍にいろ」
「兄さん……」
「お前を頼りにしてるから、言ってるんだ」
 姫架は息を飲んだようだった。
「……ここにいる」
 わずかに上ずった声で、きっぱりと言った。
「よし。目が覚めたらな、俺らの代わりに折檻くわえとけ。きつーくな」
 軽口を叩いて、雅は歩き出した。足音は最早追ってこなかった。
「ぶっ殺さなかったのを後悔させてやる」
 酷薄なほどの笑み口元をゆがめて、雅は口元の傷を撫でた。
「俺がどれだけ負けず嫌いなのか、知らなかった方が悪いんだぜ」



3.

 世界が溶けた。そうとしか思えなかった。
 灰色の寒々しいコンクリートがどろりと崩れた。
 とうとう自分の頭が現実を放棄したのかと、一瞬要はいぶかしんだ。
 だが、都佳沙が小さく舌打ちを零したところをみると、世界が融解したのは自分だけではないらしい。
「あそこでは狭い」
 血のようなおぞましい色合いを放つ空間で、悠嵩が泰然と告げた。
「結界か」
「さすが、聡いな」
 揶揄の響きだった。悠嵩の口元には蔑むような笑みがある。
 要は周囲を窺った。どろりと血の色をした不思議な空間に立っていた。
 悠嵩と、都佳沙。ふたり以外に人影はない。のこりの人々はどうしたのだろう。
 何よりここは一体どこだ。
「要まで巻き込んで、何のつもりだ」
 剣呑な気配を漂わせて、都佳沙が凄んだ。
 悠嵩はすずしげだった。
「彼と三人で、話がしたかったものでね」
 全く悪びれもしない様子で、都佳沙の険しい顔を見返した。
「彼の前で聞かせてほしいのだよ、宗家の次期名代殿」
 まるで、人間の内臓の内にいるような錯覚を、要は覚えた。
 赤黒い壁はうぞうぞとうごめき、まるで脈動しているようだったからだ。
 都佳沙は柳眉をひそめる。嫌悪感も露にして、反逆者を射るように見た。
 一体何を聞かせろというのか。
「わたしの薄汚い謀略が叶って、あなたがたが大事に大事に飼い殺しにしてきたあの化け物の鎖が解けたとしたら。―――そう、つまりあなたの家の夢喰いが、自我を手放してしまったら、あなたは銀宗家のいきものとして、情を振り切って、殺せるのでしょうね」
 まばたきを忘れた様子で、都佳沙は目を瞠った。それでも、瞠目したのはほんの一瞬だった。直ぐ様、親の敵でもあるかのように厳しく、険しい眼差しで悠嵩を射抜く。
 睨み付けられることを、悠嵩は悦んで受け容れた。潔癖で躊躇がなく、時として冷酷であるとすら言われる次代の当主の、それは負けだったからだ。
 反論を封じ込めて、動揺を引きずり出したことは、ある種の勝利に違いなかった。
「あなたが我々を率い、時として厳しく罰し、切り捨ててゆくと仰るならば、手元に繋いだ獣の処理ぐらいは、自らの手を汚してくださるのだろうな」
 畳み掛けるように悠嵩は詰め寄った。
 視線だけを左奥に流し、都佳沙は要を窺った。
 顔や姿までは視界に捉えることが出来ない。窺ったのは、気配だ。
 ぴんと、張り詰めた緊張が体の左側をひりひりと焼くようだ。息を詰めて、穴が空くほどにこちらを見つめている、視線を感じる。
 やわらかい、耳障りのいい言葉なら。
 おそらくいくつでも用意できるだろう。
 言いくるめることも取り繕うことも、都佳沙にとっては容易なことだ。
 己が好む好まないに関わらず、必要であれば、必要な分の嘘はつきとおす。
 時々揶揄の対象になるほどの潔癖さの、それは瑕にはならない。自らを貶めて汚すものではなかった。
 銀を継ぐためには、奇麗事ばかりではいられない。
 ゆえに、都佳沙は自らが歩むと決めた道のためならば、無情に他人を謀ることも厭わない。
 ただそれは、自らが銀の嫡男であるときだけの話だ。
 仕事として責務として、さだめとしてならば、誰に憎まれ疎まれ罵られようが、露ほども気にはならなかっただろう。
 本当に僅かではあっても、家の名に縛られぬ、個人になる時間があるとしたら。
 そのときばかりは清廉でいたいと願うのは我儘だろうか。
 都佳沙にとって、左奥に庇う友人は、たしかに家を通じて知り合ったものだ。
 けれど彼はいつのまにか、家と家の繋がりを超えた。
 全てを敵に回したとしても家を守ると決めた自分が、特定の個人に対して誠実であろうとするのは、牙を抜かれたといわれても仕方がないかもしれない。

―――都佳沙ちゃんは、素敵なお友達がいて、しあわせね。

 けれど母は、その変化を喜んでいるように思える。
 煮え滾る怒りを静めようと、都佳沙は双眸を閉ざした。深く、呼吸をする。
 再びその漆黒の双眼をひらいた時には、阿修羅のような怒りの熱は幻のように消えていた。

 嘘や詭弁は、彼の前では言うまい。
 それがたとえ、冷酷な宣告であったとしても。

「殺すだろう。おまえの望むとおりに。―――それが契約だ」
 先程までとは打って変わった、仮面を思わせる静かな面で、刻むようにしっかりと都佳沙は言った。
 悠嵩は満足そうに口元をほころばせた。
 都佳沙の背後で色を無くす、満身創痍の少年に、その蛇のような視線を流した。
「聞いたかね、神の子。きみの友人の言葉を」
 悠嵩は両腕を広げて大仰に叫んだ。
「なんとも非情ではないか。これこそ頂点(トップ)に立つものの裁量なのだろう。流石、畏れ入った。ならば是非ともその言葉を体現してもらいたいものだ」
「だが―――」
 高く上がった悠嵩の哄笑を、低いながらはっきりとした声が遮った。
 息を飲む要の傍で、都佳沙がゆるやかに瞬いた。
 いまだ十八の直系の嫡男は、静かな顔をしていた。滾る憤怒はそこにはない。
 迷いを振り切り、無我の境地に至ったかのように揺るがずにいる。
「謀略がうまく運べばの話だ。僕はおまえの薄汚い姦計には嵌まらない。何ひとつ、奪わせるつもりはない。おまえが伊達だと罵った宗家の、呪われた血脈を以ってして、かならずおまえと我らに仇為すものどもを打ち滅ぼす。血塗られた獣に爪を立てたのだと知れ!」
 空気を震わす一喝に、悠嵩は一瞬、声を失った。
 高々十八の、いまだ制服を着ているような少年に完全に気圧されたのだということに、遅れて気がついた。
 背を流れ落ちる一筋の汗に我にかえると、忌々しげに歯噛みする。
「俺だけではないのだぞ」
 唸るように悠嵩は零した。
「此度貴様らに噛み付いた蟲は、何も俺一匹ではないのだ! 旧い因習でいつまでも我らを繋いでおけるなどと、思い上がるなよ、小僧!」
 慇懃無礼な仮面をかなぐり捨て、悠嵩が吼えた。
 持ち上げた左腕を、直ぐ傍らにある赤い壁―――人の臓物にも似たそれに力の限りに突き立てた。
 どぷりと、悠嵩の腕はその壁に飲み込まれた。手首のあたりまでがまるで、液体の中に沈むかのように。
 さざめく呼吸する壁は、波紋を描くようにしてその手を受け容れている。
 異様な様に、少年二人は揃って息を飲んだ。
 悠嵩の唇がまるで悪魔のように割れ、半月型の笑みを形作った。
 先に異変を察知したのは都佳沙だった。
 咄嗟に右側からきた衝撃に、要は為す術もなく床に倒れこんだ。触れた壁と同色の床は、ぬるりと濡れて、生温かかった。
 床に手を突いて体を起こす。
 “横から突き飛ばされたのだ”と気づき、自分を突き飛ばしたらしい友人を振り返って。
「都佳沙!!」
 要は絶叫した。
 都佳沙の右手側。粘膜のように蠢く壁から、無数の針のようなものが飛び出し、深く、都佳沙の右肩を穿っていた。
「っ……!」
 黒い人の指ほどの太さを持つ針は、その先に血を絡めてずるりと抜ける。
 そしてそのまま、何事もなかったかのように壁のうちに沈んでいった。
 肩に穿たれた傷を左手で抑え、都佳沙は体を折った。
「さあ、見せてもらおうか」
 壁のうちから自らの左腕を取り戻して、悠嵩は一歩を踏み出した。
 思わずぬめる床に膝を突いた都佳沙は、首を持ち上げて反逆者を睨み据える。
 右肩を覆う手の隙間から、生温かいものが溢れ出すのを感じていた。
「呪われた血脈を以って、群がる蛆虫を払い除けてみせたまえ、純血の子よ」


【続く】


第十三話

夢喰い

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