十一話 白昼夢


1.

 明々と、火が燃えている。
 濃い闇にまるで燈篭か何かのようにほう、ほう、と浮かび上がる。
 大路は、上を下への騒ぎだった。
 白い路と、それを縁取るような炎。あとは黒々とした屋敷の並びがある。
 俯瞰して、見下ろしている。
 あれほど広い大路も一本の線のようだし、炎も蝋燭の先のようだ。
 ひとなど、胡麻のひとつぶのようにも見える。
 風が頬を刺すように撫でてゆく。風は、烈しかった。
 “羽根”が、夜半の風を受けて膨らむ。
 木の焼ける臭いは、天の高くまで漂っている。
 身を切るようなつめたさの中、確かに体は”飛んで”いた。
 時折視界を遮るものは、白金色だった。糸のように細いものの束。髪の毛であるらしい。
 はらり、と顔の傍を火の粉が通り過ぎた。高度が下がっている。
 胡麻つぶのように見えていた動くものが、人のかたちになる。
 やがて、都のはずれにある貴族の館が見えてきた。
 かがり火が其処此処に焚かれていて、庭は煌々と明るかった。まるで、一片たりとも闇の侵入を許さないという構えである。
 濡れ羽色の翼をはためかせて、敷地をぐるりと囲む塀の上に降りる。
 夜半、普段ならば疾うに寝静まっているはずの刻(じかん)に、しかし人の気配が多く渦巻いていた。
 身を隠している。
 けれども気配までは消せないのが人である。特に、殺気ならば。
 少しばかり身を乗り出して敷地の内を覗き込むと、肌をぴりりと刺すような痛みが襲った。
 どうやら敷地の内は厳重に清められているらしい。
 見れば、縁にかけた指の先が、かまいたちが通り過ぎたあとのようにさっくりと切れている。
 蝋のように白い肌に、真紅が滴っていた。
 つまらなそうにそれを一瞥して、人差し指のあたりを軽く舐めた。
 結界に触れおった。あやかしじゃ、生きてはかえすな。
 屋敷の内から庭へ、まろぶように小さな影が飛び出してきた。
 一見して、出で立ちは貴族のもの。しかし、豪奢な衣装はちっとも本人には似合っていなかった。
 着られている、とそう思う。
 やはり結界であったか、ともう一度指先に絡む血を舐める。
 ええい、あやかしめ、どこじゃどこじゃ、と砂利の敷かれた庭で、高価そうな衣に”着られた”男はあらぬ方向を見上げて叫んでいる。
 隠れているわけではない。
 普通に塀の上に座っているだけである。
 男は闇に塗りつぶされた空を睨んでいる。
 屋敷の内は、簾に隠されて見えぬ。
 “男を着た高価な衣”は、尚も情けのない顔で彼方此方に首をめぐらせて、漸く塀の上に視点を定めて、そして。
 綺麗に腰を抜かした。
 砂利に尻餅をついて、耳障りな音を立てて足元を蹴散らし、後退する。
 こちらを見る男の目は、まさに飛び出さんほどだ。
 可笑しくなった。
 口元がゆるむのが分かる。

 人間とは、なんとか弱く脆くあさましく、醜い生きものであることか。
 集団を作り集落を作り、都を作り、神を作り。
 我が物顔で闊歩する。理を叫ぶ。
 かわいらしいではないか。

 何をしているッ、早くあやかしを射るのだ、射殺せッ!
 高価な衣が塀の上を指差して怒鳴る。
 敷地の彼方此方に身を潜めていた弓を背負った男どもが、一斉に白砂利の庭へ現れた。
 男衆の方が、よっぽど”まし”な顔をしている。
 かがり火に肌を赤く染めながら、きりりと此方を睨んでいる。
 まるで睨むことで相手を殺すことが出来るかの如き眼力だ。
 かわいらしい。そう思って、また口元がゆるむ。
 ひとは、睨むぐらいでは何も殺めることは出来ない。
 脆弱だ。
 怯えているものか、背負った矢に手をかけられるものはいない。
 お前たちがあやかしと呼ぶ生き物は、そのような七面倒くさい得物などは使わなくても、脆い肉など簡単に裂くことが出来る。
 血に塗れた指をひらりと、動かした。
 途端、耳元で矢を放ったような風が鳴り、弓を構える男どもが次々と糸の切れた人形のように砂利の上に倒れ伏した。
 白い石に、黒々とした水が模様を描く。
 一矢も報いることなく、男たちは絶命していた。
 高価な衣はさらに色を無くす。
 明々と、かがり火は燃えている。

 ひととき、京を震え上がらせた鴉天狗の法力、このぐらいは容易い。

 もう終わりか、と口が動いた。
 朗々とした声音だった。
 どうやら高貴な衣に投げかけられたものらしい。
 もう終わりなのか、”成瀬の”。
 行儀悪く塀の上に肩膝を立てて座り、数多の死体に取り囲まれる男に、言った。
 悪戯な声音だった。
 そんな弓(もの)で、わたしを殺めるつもりだったのか。
 くつくつ、と咽喉が鳴った。
 この家の―――旧くは帝に連なるという成瀬家の当主は、紙のように白かった顔を真っ赤に染め上げ、塀に人差し指を突きつける。

 黙れ、黙れ化け物が! 貴様、儂の娘に何をしてくれたか。
 折角縁談もまとまりかけていたものを。
 地団太を踏んで、成瀬某は激昂する。
 良縁でもまとまりかけていたものか。
 この都では、いかに有力者の子を産ませるかが成功の分け目らしい。
 誰ぞ、誰ぞ刀と弓矢を持て参れ!
 声高に、男は屋敷に呼ばわる。

 そなたの娘は不思議な娘だな。
 ぞろぞろと、屋敷から湧き出してくる物々しい男どもなど知らぬ顔で、続ける。まだ行儀悪く塀に座ったままだ。
 直ぐに殺せる。ならば急ぐ必要もない。
 屈託なく、物怖じせず、―――おろかものだ。
 言葉を継いだ。
 心底、愚かだと思っていた。
 京の都を震え上がらせた諸悪の根源に、容易く近づいて、全てを赦した。
 愚か以外の、何であろう。
 初めは、ものめずらしかった。ただそれだけだった。相手もおそらくそうであろう。
 この都で、女は駒である。
 煌びやかに飾り付け、男が退屈しないような教養を教え込み、売りつける。
 人形に興味はなかった―――筈だ。
 それがどうしたことか。
 火遊びの火は、広がってしまったのだ。
 今宵、満月の京を焼く炎のように。

 儂の娘は、気がふれてしまったぞ!
 咽喉をひらいて、叫ぶ。
 あやかしの子など産んだからじゃ!
 全ては貴様の為したこと。京を震え上がらせるだけでは足りぬのか。
 一斉に、男どもが矢を番える。
 潮時か。
 つまらない幕引きだ。
 虫けらほどに脆弱なものどもと遊ぶのも楽しかったような気もするが、さすがにねぐらのあたりまでかき回されては鬱陶しい。
 殺してしまうか。
 血も乾き始めた指先を、夜闇に滑らそうとして、ふと、屋敷が目に入った。
 簾が、少しばかりめくれている。
 隙間の奥、闇に目を奪われた。
 かがり火の赤が少しばかり届く。闇にぼんやりと、着物が浮かんだ。
 紅色。
 耳元で、細く風が鳴った。
 頬の直ぐ傍を、白金色の髪を巻き込んで矢が過ぎた。
 一矢放たれれば、後は雨の如く。
 仕方なく、塀を蹴って飛んだ。
 雨霰と矢が追いかける。
 頬に、指先に、脚に、鋭い痛みが走った。
 ただ、目は紅の着物に奪われている。
 さらりと、さらに簾を捲り上げて、白が空を仰ぎ見た。
 女の顔。
 女は―――泣いていた。

 肩口に焼けるような熱を感じたのは、そのときだった。
 はたと我に返って、左肩を見る。
 深々と、矢が埋まっている。

 ごうごうと矢は天に向かって放たれる。
 一切の気概が削がれてゆくのを感じながら、せめてと背を向ける。
 矢の雨が、濡れ羽色の翼に次々と降り注いだ。

 落ちる、と分かった。

 不思議な、娘だ。
 容赦なく隙間なく射掛けられる矢を受けながら、漠と思った。
 此方の注意力など、いとも簡単に零にしてしまう。
 魔力でも、あるかのようだ。
 その魔力を何と呼ぶのか、と考えるうちに、体中が炎に包まれたかのように熱くなった。


             *


 息が苦しくなって、跳ね起きた。
 布団を撥ね退けて上体を起こす。
 こめかみから顎のほうへ、ひとしずく、汗が伝って落ちた。
 液体の伝って落ちた軌跡が、つめたかった。
 荒れた呼吸を必死に整えようとする。なかなか動悸がおさまらない。
 兎にも角にも熱かった。特に、背中だ。
「夢……」
 咽喉が渇いている所為か、声は掠れている。
 うな垂れて、左手で目と額とを覆ってから、成瀬一馬は一際深い呼吸をした。それで少しばかり、忙しない呼吸が落ち着いた。

 夢なのだろうか。
 熱を持て余して、眩暈がする。
 夢と呼ぶには、あまりにもなまなましすぎた。
 情景も、感覚も、―――感情も。
 確かに、炎に彩られた京の大路を高いところから見下ろしていた。
 空も飛んでいた。
 色彩は鮮やかで、痛みも本物だった。
 指先を切ったときも、肩口を射られたときも、背を矢の雨に晒されたときも。
 死ぬのだ、と思った。
 事実、背が熱くてたまらない。
 これでは、眠ったうちに入らない。
 ひどく疲れていた。
 何日滞在しても見慣れる、という事のない座敷だった。
 動悸も落ち着いたところでぐるりと首をめぐらせて、漸く一馬はここがどこであるかを思い出した。
 京都、だ。



2.

《本当なのか》
 いぶかしむ気配が、耳に注ぎ込まれる。
「俺が冗談でこんな電話を入れるとでも?」
 洋間の壁に背を預けるかたちで、雅は最新式の携帯電話を耳に当てている。
《別にお前を疑ってかかっているわけじゃない。いちいち突っかかるな》
 呆れた吐息が、東京にいる実兄の口からこぼれた。
《だったら、銀崇嗣はもともと、失踪などしていなかったと言うのか》
「叶の証言を信じるなら、な」
《ならば疑うこともあるまい》
 一も二もなく、宗家当主はうなずいた。
 真面目で、尚且つ忠義に篤いあの鴉が、嘘や誇張を口にするはずもないことは、短くない付き合いでふたりとも重々承知している。
 重々しい沈黙が兄弟の間に下りたとき、受話器の向こう側でなにか、動きがあった。
 何事かと耳をそばだてる雅に、耳慣れた声が届いた。
《おまえに宛てて、京分家に封書を送った》
「はぁ? 封書? 何のだよ」
 感情が抑制された男の声に、訊き返す。
 生まれたときからすぐ傍らにあった、父親の声だった。今は当主を退いて、隠居の身である、銀斎。
《そちらの雲行きが怪しいようだから、一昨日ぐらいに投函しておいた。おそらくそろそろ着くだろう。崇嗣が幽閉されているというのが事実ならば、送った手紙もまた真実だろう。今まで裏が取れなかったので、儂が仕舞っておいたものだ。それを足がかりに九条の家に踏み込めばいい》
「だから、一体何を送ったって言うんだよ」
 要領を得ない父の言葉に、雅は苛立ちを隠さずに核心を促した。
《由紀子―――崇嗣の嫁から儂に、二月ほど前に届いたものだ。義弟の悠嵩が、夫の反対を押し切って妖を喚び出し、その血肉を食った、とな》
 思わず携帯電話を取り落としそうになるのを、何とか堪えた。
 ゆっくりと息を飲む。
 こめかみのあたりから、じわりと嫌な汗が染み出してくるのを感じた。
 胃液が這い上がってくるような不快感。
 体が未だ、あの頃の想像を絶するようなくるしみを覚えているのだ。
 化け物の血を身の内に入れたこと、それによって高められた自らの力。しかしそのためには、異物を激しく攻撃する己の体の、拒絶反応と戦わなければならなかったのだ。
 思い出したくもない過去である。
 細胞が沸騰するような熱さを感じたかと思えば、体中が麻痺するかのような寒さに襲われる。肉を食い破って、この体の内側から何かが飛び出してくるかのような、恐怖だった。
「はっ、宗家のからくりを見抜いて、それじゃあ自分もドーピングってことかよ」
 侮蔑を隠しもせずに、雅は吐き捨てた。いかにも憎々しげに。
 確かに、その方法を使えば、宗家と分家の垣根はなくなる。
 宗家が威信を保っていられるのは、絶対的な力があるからだ。けれどそれが、人工的に手に入れられるものだとしたら?
 権威など、あってないようなものだ。
 ねっとりと絡みつくような悠嵩の目を、雅は思い出していた。
《細かい処置はお前に一任する。だがな、一年前の康臣の一件から、地方の分家は息をひそめて喰らいつく隙を狙っておるのだ。お前の動きが宗家の命運を動かすことと心得ておけ》
 即答できずに、雅は黙っている。
《雅》
 逡巡する気配を察してか、斎は刻み込むように息子の名を呼んだ。
《いくら己の生業を手に入れ、宗家の敷地より外に居を構えるようになろうとも、お前の体に流れる血すべてを抜き取ることは出来ん。お前はやはり、宗家の男なのだよ。お前がいくら否定しようともな》
 父の声は厳しかった。
《宗家の男たるように、儂は始もお前も都佳沙も育てたつもりでいる。お前が直感的に思いつく方法こそ、最善だと覚えておけ。それが如何に冷酷で残忍な手段であろうとも、情に流され躊躇うことだけはするな。それだけは、言っておくぞ》
「……分かってる」
 珍しく煮えきらぬ様子で、ようやく雅はそれだけを父親に告げた。
 愛想もなく、ぷつりと通話はそこで切れた。
 苦いものを口に放り込んだような渋い顔をして、雅は苦笑する。
「困ったわ」
 通話を終えた携帯電話を見下ろして、ひとりごちる。
「ドーピング、ねぇ」
 嫌いな食べ物のように口の中でその言葉を転がして、目を細める。
「要くんたちが攫われただけで、十分ハラワタ煮えてたってのに」
 ぱくん、と片手で携帯電話を折りたたんだ。
「久々に、キレてしまいそうだわ」


            *


 達筆の封書が先程届けられた、と使いのものがやってきた。
 確かに流麗な毛筆体でこの屋敷の住所が書かれているものの、宛名のところには「銀雅様」との文字がある。
 裏っかえすと、今は現役を退いて隠居した先代当主の判が鮮やかな朱色で押されていた。
「ご隠居はんもわざわざ封書やなんて」
 大昔でもあるまいし、連絡ならば電話一本で事足りるはずなのだが。
 白い封筒を何度もひっくり返して眺めながら、京分家当主は、宛名に記された人物を捜索していた。
 廊下の突き当りを右に折れると、洋間に出る。
 きびきびとした足運びで角を曲がったところで、紅子はふと、足を止めた。
 洋間のドアの前に人影を発見したのだった。
「……一馬、あんた何しとるん?」
 軽く小首を傾げて、紅子は人影に問うた。
 先日からこの屋敷に滞在している男が、まるで驚いたように振り返った。
「どないしたん?」
 洋間に用事があるのではないだろうか?
 純粋に疑問に思って、紅子は訊いた。
「いや、別に何でもないんだ」
 一馬は面に笑顔を貼り付けた。
 洋間の扉に、体を支えるように突いていた右手を離す。
「あんた」
 その顔がやけに青白いことに気がついて、紅子は一馬の腕を掴もうとしたが、するりと容易くかわされる。
「姐さんこそ、急いでるんじゃないの」
 ついと顔を逸らして、一馬は紅子の横を通り過ぎた。そのまま洋間に背を向けて歩き出した。
「何やの、あれ」
 ぼんやりとその背中を見送って、紅子は思わず呟いた。
 しばらく一馬が消えた廊下を見つめていた紅子だが、はっと我に帰って右手に握った封書に視線を落とす。
 届け先は犬猿の仲ではあるが、そうも言ってはいられない。
 ドアノブを握って、向こう側に押し開いた。
「ちょっと、あんたにご隠居はんから」
 窓際で携帯電話をもてあそんでいた人影に向かって、白い封筒を差し出した。


            *


 要は片手で二の腕あたりを擦った。朝は冷える。
 コートは茜にかけてしまっている。が、コートがあったところで暖房器具が一切ない上に四方がコンクリートの壁では、あまり変わり映えはしないだろう。
 高いところにある小さな四角い窓。鉄格子の嵌まったそれを見上げて、要は目をほそめた。

 なんだか随分と平和な夢を見たような気がするのだが、よくは思い出せなかった。
 あまり眠った気もしない。目の奥が重く、意識がはっきりとしないようだ。
 かすかに差し込む朝日すらまぶしくて頭を後ろの壁に預けて、目を閉じた。
 目蓋をとおして染み込む光に、何故か要は一年前のことを思い出した。
 櫛引充の一件の後、しばらく一馬は病院にいた。
 櫛引の旧敷地内で倒れたあと、数日目を覚まさなかったからだ。
 別に体に異常があったというわけではないのだが、大事をとるという形でそのまま入院していたのだった。
 もう死にたい、とはっきり吐露したあとだというのに、一馬は櫛引についてや夢喰いのことについて、何も言わなかった。
 何事もなかったかのような、けろりとした、いつもどおりの様子だった。―――要たちの前では。
 だが、宛がわれた個室のドアを薄く開いてこっそりと中をうかがうと、ぼんやりと己の右手を見下ろしている場面に幾度も出くわした。
 短い入院期間でそれほど何度も見かけたということは、もう始終そうしていたのだろう。
 深々とナイフの突き刺さった、傷の残る右手。しっかりと包帯を巻かれたそれを見下ろして、温度のない表情をしている。
 それに出くわすたび、要は一度音を立てずに扉を閉めてから、大袈裟にノックをするのだった。
 何も訊けなかった。

 もっと幼かった頃―――それこそ一馬に引き取られたばかりの頃は、詳しい事情なんて何も知らなかったから、ただひたすらその右手が羨ましく感じられたものだ。
 随分と精神的に不安定だった要は、眠れない夜が続くことも多かった。
 右てのひらひとつで眠りをもたらすことができる手だなんて、奇跡か魔法のように思えていたのに。
 羨ましがるたびに困ったように苦笑する理由を知った今では、随分と無神経なことを言ったものだと思う。
 人を喰らうようにして永らえる。その辛さを知ったかぶりはしない。分かるはずがない。
(だけど、愚痴ぐらいだったら言ってくれてもいいのに)
 愚痴が問題を解決させるとは言わない。ただ、気持ちが楽になるんだったら、言葉にすればいいのに。
 あの男は何も言わないから、まわりの人間はその闇の淵までいって、うわべばかりを覗き込むしかないのだ。
 心配していつも気を揉むのはこちらなのだ。寿命が縮むような思いをしたことも、一度や二度の話ではない。
 今も―――そうだ。
 飢えや渇きは一体、どうしたのだろう。始終だるそうにしているのは一体なんなのか。
 昨晩、何故真っ赤な血に濡れそぼっていたのか。
 何も分からない。問い質せる距離でもない。京分家にいるうちに、問い詰めておけばよかった。
「僕もいつも、引き下がるからダメなんだよね……」
 溜息と共に、要はこぼした。
 いつも「何も話してくれない!」と相手ばかりを責めるけれど、おそらくは飛び込んでゆく勇気が持てない自分にも責任はあるのだ。
 次に顔を合わせたら絶対に問い詰めてやる。そのためにも早くここから―――。

 ふと、左肩に触れていたぬくもりが離れて、要は回想から引きずり戻された。
 見れば、茜が眠そうに目を擦っている。
「起こしちゃったかな」
 ぶつぶつとひとり言を並べていた自分を思い出して、要は茜の顔を申し訳なさそうに覗き込んだ。
 茜はゆるく首を横に振った。
「……足音が聞こえる」
 幾分か充血した目を尚も擦りながら、声をひそめて茜が言った。
 足音?
 要は息を殺して耳を澄ませた。一瞬にして眠気が飛んだ。
 入り口側に座っている茜を、自分の後ろの方へ引き寄せた。
 確かに、足音が聞こえる。こちらのほうへ近づいてくるようだ。
 はるか上方にある窓からは、和やかな鳥の鳴き声などが聞こえてくるというのに、要は爆発的に高まる緊張感に息を飲む。
 硬い足音だった。おそらく廊下もコンクリートなのだろう、靴の踵が床を踏む音が徐々に大きくなる。
 願わくは、このドアの前で止まらないように。
 味気ない鋼鉄製の扉を睨み据える。
 が、願いもむなしく、規則的に廊下を歩んできた足音は、扉の目の前で止まったようだった。
 鍵をはずす音が、扉を隔てた向こうからこちら側に届く。
 茜が怯えるように要の服の裾を掴んだ。
 できるだけ扉のほうを警戒しながら、要は立ち上がった。震える茜の腕を掴んで引っ張り上げると、背に庇う。
 昨晩悠嵩が出て行ってから一度も開かれなかった扉が、ゆっくりとこちら側に向けて開かれた。
 間合いを計るように部屋の奥へ後ずさりする要の眼前に現れたのは、やつれた三十がらみの女だった。
「こちらにいらっしゃい」
 見えない何かに怯えるように、小声でふたりを促す。
 おどおどと、廊下の左右をうかがいながら手招きをする。
「あなたは?」
 訝しげに眉をひそめて、要は誰何する。
 かわいそうなぐらいに痩せ細ったその女性は、右手に鍵束を握り締めて、しきりに周囲を気にしている。
「いいから早く出ておいでなさい。逃がしてあげられなくなるわ」
 元は見事な黒髪なのだろうが、今は白いものが混ざっている。
 白いシャツに膝丈ほどのスカート姿の彼女は、やけに疲れているように見えた。
 逃がす?
 要は目を瞠った。
 彼女は自分たちを逃がそうというのか?
「わたしはこの家の嫁です。義弟(おとうと)がいないうちに早く」
 声を鋭くして、銀由紀子はふたりを手招いた。
 幾分か警戒を解いて、要は手招く女性に歩み寄った。
「この家の人がどうして、僕たちを逃がそうとするんですか」
「一度は義弟のいうことを信じたの。けれど、どんどん怖くなってしまった。義弟はもう、ひとではないんだわ―――」
 青ざめた唇を噛み締めて、由紀子は蚊のなくような声で言った。
 全く要領を得ないが、少なくとも彼女がこちらに危害を加えるつもりはなさそうだ。
 後ろ手で制していた茜を傍に呼び寄せる。
「もどって、この家のことを宗家のひとに言って頂戴。そして、夫を―――」
「そうだ! 崇嗣……さん? は隣にいるんじゃないんですか?」
 壁越しに聞こえてきた呻き声を思い出して、要は隣の扉を振り返った。
「その鍵で開けられるんでしょう? どうして旦那さんのこと閉じ込めておくんですか」
 妻を問い詰めた瞬間に、由紀子の顔から目に見えて血の気が引いた。
 紙のように蒼白な顔で、あとずさる。
 とん、と背中からコンクリートの壁にぶつかった。
 怯える様子の由紀子に焦れて、要はその右手からすこし強引に鍵束を奪い取った。
 昨晩の様子を考えると、大分崇嗣は衰弱しているはずだ。手遅れにならなければいいが。
 自分たちが監禁されていた部屋の右手側にある扉に要は歩み寄った。
 いくつか外れを引いたあと、ようやく正しい鍵の感触を手で感じる。
 確かな手ごたえを感じたあと、要はノブをゆっくりと回した。
「やめて!」
 震えているが鋭い声で由紀子が叫んだ。
 制止を無視して、要は扉を押し開いた。
 ぱんっ、と。乾いた破裂音がどこかで聞こえたような気がした。
 大きく扉を開いて、中をうかがおうとした、そのとき―――。
「早く扉を閉めるんだ!」
 ”部屋の内側から”怒声が飛んできた。
 かすれきってはいるが、強い意志を持つ声だった。
 左手側。丁度要たちが押し込まれていた部屋側に接する壁に背を預け、力なく座り込んでいる男が見えた。
 愕然と、要はその場に立ち尽くす。

 老人がそこにいた。
 痩せ細り、皮膚はたるみ、手足は枯れ枝のように細い。
 頭髪はすべて真っ白だった。
 これが、銀崇嗣―――悠嵩の兄なのだろうか。八十ほどの老人にしか見えない。
 だらしなく四肢を投げ出すように座り、首だけを入り口の方へ向けていた。瞳だけが爛と、意志を持って要を睨み据えていた。
「わたしのことは、いい! 早くその扉を閉めてくれ! 一刻も早く、ご当主に連絡を差し上げ、悠嵩を―――止めてくれ!」
 老人が声の限りに叫んだ。
 だが、要の視線は老人の足元に吸い寄せられていた。
 足元にうずくまる、黒い影があった。
 コンクリートの床に這いつくばって、首だけを持ち上げてじっと、要を睨み据えている。
 部屋中、いたるところに黒い羽根が散らばっていた。
 ひとのかたちをしたそれは、長い爪の生えた手で床を掻き毟っていた。血のように濡れた瞳に殺意をなみなみとたたえ、鋭い牙を剥いて低くうなる。
 力なく横たわった”それ”の背には、黒い翼が生えていた。
 よくよく見れば、白い両手首に、枷のようなものがはめられ、重たそうな黒い鎖が床を蛇のように這っている。
 “それ”の顔立ちは端正だった。男か女か、一見判断がつかない。しかしその秀麗な面も今は憤怒でみにくく歪んでいる。
 強い、鉄の匂いが要の鼻先を掠めた。
 翼を持つ黒い影の左肩が、大きく抉れてどす黒く変色していた。
 うまく動かない体を引きずって、要のほうへにじり寄ろうとはするのだが、ある一定のところまで達すると、見えない鞭に激しく打たれでもしたように悲鳴をあげて悶絶する。
 コンクリートの床には、どす黒い塗料で円のようなものが描かれていた。はたと気づいて部屋を見渡せば、至るところに札のようなものが貼り付けてある。
「結界……?」
「そうだ、だから早く閉ざして、くれ……! 扉が開かれていると、結界が、弱まる……!」
 老人の言葉に、慌てて要は扉を振り返った。そこにもしっかりと札が貼られている。
 四方がしっかり固められていなければ、結界は弱まる。それは、斎に教えられたことだった。
「崇嗣、さん……あなたは……」
 力なく座り込む崇嗣の指先が赤黒く汚れている事に気づいて、要は息を飲んだ。
 このばけものを封じている結界は、この老人にしか見えない男の血を媒体に描かれたものなのか。
「わたしのちからも、どんどん弱まっている。そのうちこいつを押さえつけてはいられなく、なるだろう。身勝手な理由でこちらがわに喚びよせられ、あまつさえ血肉まで喰らわれて、これは我を忘れている。そうすれば、見境なく人をその毒牙に、かけるだろう……。わたしでは、無理だ。宗家の……」
 か細い崇嗣の声を引き裂くかのように、封じられた妖が咆哮をあげた。
 両手を戒める鎖を引きずるように身を起こすと、見えない壁に思い切り体をぶつけた。
 白い蛇のようにうねる光が、妖の体と結界が触れたあたりを這いまわり、ばけものを戒めようとする。
「いかん! 早く扉を閉めろ! 由紀子!」
 掠れる声を振り絞って、崇嗣が絶叫する。
 その間にも、妖の体と結界とが反発しあい、まるで稲妻のような音を上げていた。
 じゅう、と肉が焼けるような匂いが周囲を満たす。要は思わずあとずさった。
「お願いだから、早く逃げて!」
 由紀子が、まるで縋るように後ろから要を引いた。
「あのひとがまだ、あいつを押さえていられるうちに―――!」
 ギャア、とまるで鳥のような鳴き声をあげ、翼を持つ妖が必死に身を捩った。
 ぱりぱりと帯電するような音と、肉が焦げるような音。妖を絡めとろうとする白い蛇のような光。
 きりきりと高まった緊張が、やがて―――。

 どん、と爆発音のような音が上がった。
 どこから湧き出したものか、熱を孕んだ蒸気が一瞬で室内を白く染めた。
 腕を掲げて、要は顔を庇う。
 火傷をしてしまいそうなほどに高音の蒸気をやり過ごした要は、周囲の温度が急激に冷えてゆくのを感じて、腕を下ろした。
 じゃらり、と床と鎖が擦れる音がした。
 霧のように周囲を包み隠していた蒸気が薄らいでゆく。
 殺気に燃え滾る赤と、まず、視線が絡んだ。
 蒸気の膜の向こう側から、一歩、足が踏み出してきた。
 踏み出した足の形に、血がコンクリートに池をつくる。
 戒めから解き放たれたあやかしが、絶対零度の殺意をたたえて、そこに立っていた。



3.

 京分家の気配は刺々しかった。
 慌しく動く一部の人間によって、ペースが掻き乱されているようだった。
 その一部というのも、元々はこの屋敷の者ではないのだから、困惑も当然かもしれない。
「ちょっ、何のつもりなんよ!」
 珍しく荒々しい勢いで玄関に向かう雅の腕を、後ろから紅子が掴んだ。
「説明してる時間はない。詳しい話が聞きたかったら、兄貴か親父に連絡してくれ」
 乱暴ではないが有無を言わせぬ力で、引き止められた腕を取り返しながら、雅は玄関から屋敷の外へ出た。
 既に都佳沙が待っていた。
 その傍らに、黒ずくめの無表情なしもべの姿もある。
「宗家に対する背信だ。看過は出来ない」
 表情から一切の感情を排除して、雅は淡々と甥に告げた。
「内部告発があった。これからそれを確かめに、九条に行く。ついて来い」
 都佳沙は僅かに目を伏せることで同意を示した。
 叶には元々、拒否権はない。
「それから―――」
 身を捩るように、雅は後方を振り返った。
 玄関のあたりにいつのまに現れたものか、昔馴染みの姿を発見して、歩み寄った。
 懐から封筒のようなものを取り出して、相手の胸にぶつけるように差し出した。
 状況を飲み込めぬままに、一馬は差し出されたものを受け取る。
 開いて、息を飲んだ。
「どういう―――」
「お前は先に東京に戻れ」
 気色ばんで問い詰めるより先に、雅が告げた。
 詰め寄るタイミングを失して、一馬は手にした航空チケットを握る手に、力をこめてしまう。
「帰れるわけないだろう! 要が……」
「俺が助ける。だからお前は京都を離れろ」
 雅の視線には強い意志があった。一歩たりとも、ゆずらぬ構えだった。
「どういうことだよ……」
 濃い藍の瞳に不信の色をたたえて、一馬は兄貴分を睨みすえた。
「悠嵩のやりたいことは、宗家の転覆だ。お前だって、自分が狙われてることぐらい分かってんだろ」
 雅はまるで機械で出来ているかのように無表情だった。
 胸のうちに決意を飲んでいる。普段飄々としているぶん、こうなってしまっては手がつけられないことを、一馬は経験から知っている。とはいえ、今回は引き下がるわけにはいかなかった。
「いいか」
 不服そうな一馬の胸元に、雅は指を突きつけた。
「奴らが狙っているのはな、スキャンダルなんだよ。宗家の持ち物であるお前を狂わせて、俺か都佳沙に殺させる。そんな内輪もめがあったら、今度こそ分家の追及を逃れることはできないんだ。前回は親父が責任とって当主を退いて形をつけた。だが今回は、そういうわけにいかないんだ」
 理詰めにされて、一馬は言葉を飲んだ。
「お前が近くにいないほうが、俺も安心なんだ。万が一のことがあったときに、お前と向き合わなくて済む」
 雅が、懇願するかのような目をした。
「俺だってな、しんどいんだよ。聞き分けてくれ」
 一馬は揺らいだ。雅は相当の覚悟を背負っている。
 雅の言うことも尤もだ。狙われると分かっていて、敵の勢力圏にとどまることはない。
 首を縦に振って、おとなしく京都を発つのが、おそらく一番懸命な判断なのだろう。
 いつもならば、渋々ではあっても首を縦に振っていただろう。
 けれど。
「俺は要を置いては帰れないよ」
 一馬は首を横に振った。
 瞬間で、雅の苛立ちが臨界を越えるのを肌で感じながら、毅然と剣呑な眼差しを見つめ返した。
「いい加減に―――!」
 牙を剥くかのように雅は一馬の胸倉を掴んだ。
「お前が一番に守るのは、宗家だろう。お前は宗家の男なんだから」
 噛み付かん勢いの雅を静かに見返して、一馬は言った。
 胸倉を掴んだまま、唖然と雅は声を無くした。
「お前が助けるっていう言葉を疑ってるわけじゃないんだ。それは分かってくれるよな。お前が要を見捨てたりしないってことは俺だって知ってるよ。ただ俺は、優先順位の話をしているんだ。俺は何よりもまず、要を助けたいんだ。”ついで”じゃなくてね」
 傷口に塩を塗りこめられたかのように渋い顔をして、雅は一馬から視線を逸らす。
「本当に追い詰められたら、人間っていうのは直感で動くんだ。そうなったときにお前は絶対に宗家のほうを取る。条件反射でね。それを責めてるわけじゃない」
 何しろ、そういうふうに育てられてきたのだ。
 刷り込まれてきたものは、咄嗟には変えられない。
「それに、東京が本当に安全なのか? お前だって分かってるんだろう、俺の敵は、俺の内側にいるんだ。決して切り離して逃げたり出来ない。万が一、東京にも相手の手が回っていたら? 俺は、お前以外に殺されるのはごめんだよ。約束したじゃないか、お前がやってくれるって」
 疲れたように、一馬は笑った。
「ただの感情論だ。ダダッコの我儘だろそれじゃぁ」
 憎々しげに雅が吐き出した。
 鷲掴みにしていた胸倉を、ゆっくりと離す。
「そりゃあ、どこもかしこも完璧に安全な場所なんてないだろうさ。だから俺こそ、優先順序の話をしてるんだ。東京にいるよりも京都にとどまったほうが危険なんだ。確率的に。それにな、俺は―――」
 逃がしていた視線を真っ直ぐに向け、雅は一馬を見据える。
「どこにも逃場が見つからなくなったら俺がやるがな、お前を殺したいと思ったことなんざ、一度もないんだよ! 覚えとけ!」
 僅かに瞠った目を伏せるように、一馬は苦笑する。
「でもやっぱり俺は要とお前たちを置いてひとりだけ帰ったりなんか―――」
 激しい咳が、言葉を途中でせき止めた。
 何かの発作のように激しく咳き込んで、一馬は体をくの字に折った。
 そのまま膝から地面に崩れる。
「都佳沙! お前は先に行け! 叶もだ!」
 懐から引きずり出した封書を都佳沙に叩きつけて、雅は叫んだ。
 地面に両手を突いて尚、激しく咳き込んでいる一馬の傍らにしゃがみこむ。
 背後で甥と鴉とが身を翻すのを感じながら、弟分の背に手を置いた。
 が、咄嗟に手を離してしまう。
 背が、焼けるように熱かったのだ。
「おい、一馬―――」
「一馬兄!」
 今まで玄関で様子を窺っていたらしい姫架が転がり出てきた。
「馬鹿、おまえは離れてろ!」
 慌てて雅が一喝するが、姫架はきっぱりと首を横に振った。
「いや! わたし、もう逃げないって決めたの!」
 雅の反対側にしゃがみこんで、姫架は荒い息を繰り返す一馬を覗き込んだ。

 地に突いた両手で上体を支えられなくなったのか、一馬はそのまま地面に倒れ伏した。

―――可哀相に、な。

 どこか面白がるような声が、どこかで聞こえた。
 声の出所を探って、雅は絶句した。
―――再三、わたしは忠告したはずだ。
 焼けるように熱くなった背から、何かが突き出してきていた。
 黒い、翼。
 徐々に浮き出してきたその影は、まるで脱皮をするかのように一馬の内側から外へと這い出してくる。

―――ここまで大きく、わたしの力を身のうちで育てたのは、お前が初めてだよ。

 長い銀糸のような髪。白い装束、そしてまるで血を塗りこめたような瞳。
 完全に一馬の体から離れたその影は、重みなど感じさせずに中空に浮いた。
 一馬の体は力なく、地面に横たわって、動かない。
―――お前に残された選択肢は、最早ひとつしかない。
 中空で優雅に足を組んだ”それ”が、勿体つけるように指を一本立てて見せた。


―――わたしに、その体を譲り渡す。ただそれだけだよ。




【続く】


第十二話

夢喰い

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