十 契
1.
しんと、身に沁みるような冷気が、屋敷中を包み込んでいる。
隙間という隙間から入り込んでこようとする風に、雅は無意識に首を竦めた。
屋敷中は、既に火が消えたように静まり返っている。
寝付いていたわけではないことは、分かっている。
息を潜めて待っているのだ。
かくいう雅も、黒い影を待っている最中だった。
何処で待っていようともあの律儀な使い魔は、従う血を察知して現れる。わざと縁側に出ている必要はない。
雅が縁側に出たのは、呼吸をするためだった。
同室の甥が、あまりにもぴりぴりしている所為で、呼吸もままならないほど室内の空気が張っているのだ。
噛み付かれる心配はないものの、精神的に疲弊しそうだと逃げ出してきたのだった。
慢性的な睡眠不足は、何も一馬に限ったことではない。ここ数日ばたばたしていた所為で、雅や都佳沙も十分に眠っているというわけではなかった。
仕事に忙殺されて眠る暇もないというのならば、まだマシだ。
(心に余裕がないってのは、どうにもいかんな)
“らしさ”が保てないのは、あまり心地よいものではない。
考えなければならないことは、それこそ山のようにある。感傷的になっている場合ではない。
理解はしているのだが、余計なことばかりを思い出す。
たとえば、昨晩のこと。
血に塗れた昔馴染みの姿だ。
どれほどのダメージになったのか、考えることすら避けて通りたかった。
ピンポイントで攻められている。そんな気がする。
弱った、と思う反面、苛立ちもある。
項に手を当てて、顎を逸らす。半分に欠けた月があった。
独裁の自覚ならば、あるのだ。
時には強引にねじ伏せることもするだろう。大多数を仕切るには、必要なことだ。強攻政治であろうとも、全てを寛容に許すわけにも行かない。
末端から見れば、ただの言い訳にしか聞こえないだろう。
どちらが間違っているわけでもない、立場が違うだけだ。
しかし、無数のほころびがこの数年で表面化してきた。このままでは蜥蜴の尻尾きりになるかも知れない。
改革を、考えねばならないのかもしれない。
そして、立て続けに攻められる急所についても考えねばならないかもしれないと、雅は口には出さず思っていた。
上に立つものには、時として、冷酷さが求められる。
弱点を攻めるのは、争いの常だ。攻められぬよう、弱みを切り捨ててゆく冷酷さが、求められる。
鉄壁の守りを、築かなければならないのだ、本来は。
支配者で、独裁者でいるつもりならば、切り捨てねばならないと、分かってはいる。
それを実行に移せないことこそが、現在の銀宗家の弱味だ。
―――もう、殺してくれ。
震える声に、慄然と息を飲んだ。
殺せるだろうか、と自問したことは、胸の裡だけのこと。口に出したら、その場で甥に殴られるだろう。
お前はそれでいい、と雅は思う。
潔癖で義理堅く律儀であればいい。
けれどいつか、決断を迫られるときが来るのかもしれなかった。望んでいるわけでは決してないのだとしても。
避けて通れないときが来るのだとしたら、そのとき自分はどうするだろうか。
分からなかった。
切り捨てるつもりはない、ときっぱりと言えないのは、薄情であるかもしれない。
が、生まれた家を捨てきれないのも、また事実なのだ。
思考がループする。
雅は苦笑した。
「元々こんなこと、考える柄じゃないんだけどねぇ」
嘆息して、ひとりごちた。
いつまでも、こうしているわけにも行かないだろう。冴えた月を見上げて、一度深い呼吸を。
息詰まる仮宿に戻る決意を定めて踵を返すと、すぐ傍の障子がさらりと開いた。
思わず足を止めて、雅は開いた障子を見る。目が合った。
互いに息を飲んで、押し黙る。
ああ、そう言えばこのあたりは彼女の私室だったかもしれないと、今更ながらに雅は思い出して後悔する。
「……何してるん」
障子に片手をかけたまま、柳眉をひそめて彼女は言った。
「そっちこそ」
愛想なく、返す。
「自分の家、歩き回って何が悪いんよ」
「客人は、屋敷を自由に歩く権利も与えられないってことかしら」
刺を含んだ言葉を交わして、再び黙り込む。
紅子は、あからさまに深い溜息を落とした。鋭い切り返しが帰ってくるかと身構えた雅としては、肩透かしを食らった気分になった。
覇気が足りないと、思う。張り合いがない。
どうも調子が狂う。
「あの子らに何かあったら、どないしよう」
しじまのあと、紅子がまるで独白のように呟いた。
「茜も要くんも、銀には関係のない子ォやない」
目を伏せると、濃い睫が影を落とす。翳りは、常に凛と気高い京分家の女当主には不似合いに思われた。
「らしくないな」
思わず、雅は口に出していた。
らしくない。
普段は纏め上げている髪をおろしているせいか、それとも夜の静寂のせいか、彼女の気配がしぼんで感じられる。周囲を圧するほどの存在感が、今、ここにはない。
「あんたは、心配やないの?」
下方から、きつく睨みあげられる。
まだ、その目の方が”らしい”。今にも噛み付きそうだ。
「そりゃ、心配に決まってんだろ。俺だってそこまで残虐非道じゃない」
「ほんまなん?」
睨み据える、紅子の瞳は相変わらず鋭い。
「ほんま、って何が?」
「一時も、残虐非道やないて、言えるんか」
追及する口調だった。糾弾だ。
いつのまにか、紅子の漆黒の瞳には、苛烈な色がある。
「……どういうこと? 遠まわしに言わずに、言いたいことがあるんなら言えよ」
首を僅かに傾けて、雅は紅子を見下ろした。臨戦体勢だった。
遠回しに突付かれるのは、好きではない。
「昨日の夜、一馬のこと見て、あんた鬼みたいなカオしとったで。もしあの子が呑まれてしもうてたら、やるつもりやったんか」
「やるって、何を?」
紅子の言わんとしているところを察して、それでも雅はとぼけた。
苛烈な炎を宿す女の瞳から、ついと視線を逃がす。
「殺すつもりやったんか、って聞いてるんよ」
低く、うめくように紅子が言った。
「まさか」
声に軽さを含ませて、雅は笑い事にしようとした。
視線を逃がす男に焦れて、紅子は咄嗟にその顎を掴んだ。自らの方へ強引に顔を向けさせる。
「分かりやすく誤魔化そうとするんやなんて、滑稽やね」
昨晩の、この男の形相を、紅子は反芻する。
叩きつけるような雨も上がった、この屋敷の内庭で、妖の血に塗れていた一馬を見つけたときの、雅の目だ。
同業者だからこそ、分かるものがある。
おそらく都佳沙も気づいたはずだ。
狩るべき、滅すべき相手を見つけたような目をしていた。
スイッチが切り替わったように思えた。命を奪うものの顔だ。
僅かに苛立ちを込めた冴えた眼差しを、雅は紅子に向けた。顎を掴む手を払う素振りはなかった。
素の顔だ、と紅子は思う。体裁や社交性など、外界を渡る仮面が全て剥がれた、この冷静で容赦のない眼差しが、本来の顔だ。
怖い男だと、思う。
「あんたが宗家の男やってことは、重々承知の上や。古臭いとはいえ、契約も契約。せやけど、あんなにあっさり、化けモン殺す顔になるやなんて、信じられへんわ。誰よりも一馬の近くにおったんは、あんたと違うの。残酷非道じゃない、なんてよう言えたもんや」
「紅子」
静かに、重く。雅の声が呼んだ。
顎を掴んだままの、女当主の指を掴んで、少し強引に引き剥がす。
その力と、指先のつめたさに、紅子は息を飲んだ。
「本当に崖っぷちなら、やるだろうさ。お前の言う通り、宗家の男だからな、俺は。だけどな、家より何より、俺はあいつの味方だ。やるなら、あいつのためだ」
唇の端を、僅かに持ち上げる笑い方をする。苦い笑いだった。困ったときの顔に見えた。
「化けモンに成り下がるのは、あいつが一番許さないだろ。もしも万が一、どうしようもなくなったときは、他の誰でもなく俺がやる。家のためじゃない」
幾度かまばたいて、紅子は年下の親戚を見上げる。
「そういうことに、決めてるんだ。昔から」
雅はようやく、掴んだままにしていた紅子の手を離す。
はなれた温度に、ようやく紅子も我に返った。手を掴まれていたという事実に、今更ながらきつく相手を睨む。
潔癖なその態度に、雅は僅かに咽喉の奥で笑った。
「殺すもんか」
独白のように、小さく零す声。
「大事な弟分を手にかけるもんか。崖から転がり落ちるまで、どんだけ追い詰められたって、粘るさ」
外気に触れて冷えた両手をポケットに突っ込んで雅は笑った。
紅子はしばらく黙って、宗家の息子を見ていた。
雅は僅かに首を傾げる。
「何よ、キツネにつままれたような顔しちゃって」
ぼんやりしている様子の紅子に声をかける。
複雑そうな顔をして、今度は紅子が視線を逃がした。
「……安心したわ」
少しだけ悔しそうに、ぽつりと呟く。
ふふ、と今度は雅は声に出して笑った。
「見直した?」
調子にのって、雅が言葉を継ぐ。
「阿呆!」
照れ隠しのように叫んで、紅子は荒々しく踵を返した。
*
きし、と畳を踏む足音に、都佳沙は障子の方へ顔を向けた。
床の間に近い、窓の傍に片膝を立てて座り、沁みるように注ぐ月の光を眺めているところだった。
叔父と共同で宛がわれた部屋に、今、雅の姿はない。
代わりに現れた黒い影に、僅かに笑みを零す。
黒い影は、人の形をしていた。
すらりと上背のある、色の白い陰気な男だった。
「お帰り。兄さんのところへ行かなくていいのかい?」
「何やらお邪魔のようなので、こちらへ」
真面目な面持ちのままで、叶は主にそう言った。
僅かに目を瞠って、次の瞬間都佳沙は小さく吹き出した。
「お前もそんなことを言うんだね。―――わざわざ人型で来てくれて感謝してるよ」
「相変わらず、鳥がお嫌いなようですので」
叶の口調は、真剣そのもので、事実そうなのだろう。
「嫌いなわけじゃないよ、苦手なだけで。それで、どうだった?」
凛と澄んだ表情に浮かべたかすかな笑いを仕舞いこんで、都佳沙は使い魔に向き直った。
「九条の家に、おりました。軽くではありますが、話も」
「ふたりとも?」
「ええ。独房のような地下室に。英殿は多少怪我をしていたようですが、大事はないかと」
「独房? 一体いつの時代の話かな? 全く、いい趣味だね」
都佳沙は冷笑した。
「私が連れ出してもよかったのですが、素早くご報告したいことがありまして」
「要たちを逃がすことよりも、重要なことかな」
「ええ、二三気になることが」
都佳沙は、紫の瞳を見据えた。
僅かに顎を引いて、叶は頷く。
「結界が、必要以上に強化されていたのが気になって、多少調べました。どうやら外部からの侵入を防ぐものではなく、内部から外へ出すのを阻むような編まれ方をしている」
「内から?」
「強い瘴気を感じました。およそ、銀を名乗る家とは思えぬ程に」
霊媒師の家の気配ではない、と叶は言うのだ。
「それで、お前はどう思うんだ?」
「あの屋敷には、妖が棲んでいます」
よどみなく、叶は答えた。
都佳沙は、涼しげな面立ちに、僅かに翳りを浮かべる。
「お前のような使い魔かもしれない」
「いいえ」
きっぱりと、鴉は首を横に振る。
「家を内から食い潰そうとする使い魔は、おりませんよ」
「そうか」
同じ使い魔が言うのならば、それは真実なのだろう。
「一大事だな」
顎に指先を添えて、都佳沙は目を細める。
仮にも銀を名乗る家が、内側に妖を飼っているというのならば、看過はできない。
「もうひとつ」
思案する様子の都佳沙を、叶は更に会話に引きずり戻す。
一度伏せた顔を持ち上げ、都佳沙は視線を合わせる。
「ふたりが幽閉されている部屋の隣も、同じような独房でして。そちらにも拘束されている男が」
「なんだって?」
「おそらくは、失踪しているはずの銀崇嗣ではないかと」
温度に欠しい声で、叶は淡々と告げた。
*
急にこみ上げた嘔吐感に、悠嵩は体を折った。
膝から崩れ落ちるように倒れこんで、口元を覆う。
体の内側から、皮を食い破ろうとする凶悪な熱を、もてあます。
臓腑が内側から焼け爛れるようだ。
冷たい床に、額を押し当てた。
「……大した、ものだ」
口元を覆った掌。指の隙間から、笑いが零れる。
内部から身を焦がすような熱が、おかしかった。
確実に体を蝕むこの力は、彼が臨んで手に入れたものなのだ。
「これをガキの頃にこなすってんだから、道理で宗家の奴らは辛抱強いわけだ…」
じわりと、額に脂汗が滲むのが分かった。
ぼとりぼとりと、崩れ落ちてゆくように、蕩けてゆく意識。
口の内側、舌先に、なまなましい血の味が蘇った。
歯で噛み締めた、なまぬるい肉の歯ざわり。
身に受け容れた異形の血は、別の生きものとして、確実にまだ生きている。
飼い馴らさなければならない。
食うか、食われてしまうかの瀬戸際にいるのだった。
勝つことが出来たのなら、確実に強大な力となる。
(宗家の直系が、やっているように…)
宗家と分家の間に、何故あれほどまでの力量の差が生じるのか。
血?
答えは否だ。
宗家の血が特別であったのは、はるか昔の話だ。
今では多くの血が入り混じり、純度が高いとはとてもいえない。
事実、今現在の宗家の嫁も、霊媒とは何ら関わりのない家から嫁いできたという話だ。
ならば何故。
宗家の力が地に落ちぬのか?
*
「悠嵩、を止めてくれ……」
か細い声が、懇願する。
要は、冷たい壁に歩み寄った。
灰色のコンクリート。その表に浮き上がった染みが、人の顔のようにも見える。
「あいつは、全てを、ひっくり返すつもりで、いる。この家だけじゃない。宗家の、基盤から何もかも……」
「基盤……?」
コンクリートに掌を這わせる。
凍りつくような冷たさだった。
「あいつは、宗家の、しくみを知ってしま、ったんだ。そして、”同じ生きものになろうとしている”」
「おなじ、いきものって……」
それではまるで、宗家の人間が何か特別なもののようではないか。
ひやりとした冷たい予感を知りもせず、銀崇嗣は言葉を継いだ。
「だから悠嵩は、妖の血を、身の内に入れた、んだ」
*
「純粋な、王者でないのなら……」
右頬を、フローリングの床に押し付ける。
冷たさが、熱を持て余す体に広がっていった。
「こうして手に入れることが出来る力なら、宗家が宗家である意味は、疾うに無いんだ」
暴君でいられるのは、力があるからだ。
しかし、その力が誰でも手に入れられるものであって、天賦ではないのだとしたら?
盆は、簡単にひっくり返る。
口内に、どこか甘味を含んだ鉄の味が広がった。
奥歯がやわらかい肉を噛んでいた。
じわり、滲み出す生ぬるい味と鈍い痛みは気を紛らわすには足りなかった。
意識が溶ける。落下する。
「引き摺り下ろしてやる……」
*
母に、きつく抱き締められた記憶はあまり無い。
思い出せるのだとすれば、十ぐらいの頃だろう。
体中の震えが止まらず、熱くてたまらなくて、足元も覚束なくなって、縋りついたことがある。
じくじくと、体の内から何かが、この皮を食い破って出てこようとする。
血の一滴一滴が意志を持って、意識に、体に、反逆を仕掛けているような感じだった。
思うようにならない体と、朦朧とする意識を持て余す。
いつも穏やかに笑っている母の、今にも泣き出しそうな顔を見たのだとしたら、そのときが最後だ。
大丈夫? とも。しっかしりて、とも。
あの人は言わなかった。
大丈夫でも、しっかりしようとしても出来ないことも、分かっていたからだ。
ただ、きつく抱きすくめられたのを覚えている。
「……内側に妖を飼っているということなら、僕も他人をあまりとやかくは言えないけどね」
昔のことを思い出して、都佳沙はふと、口元に自嘲を浮かべる。
「宗家だから、という暗黙の了解で許されているんだ。妖と―――おまえと、血を交換するということが」
それは、ドーピングだ。
妖の血を体内に取り込み、それを飼い馴らすことによって、能力の基本値を底上げする。
妖は、霊媒師の血を得て永らえる。それと同時に縛られることにもなる。
これもまた、契約のひとつだった。
「その力は最早、貴方のものです。貴方は克服したのだ、悪魔の誘惑を」
「……でも僕は、一人だけ高い踏み台を用意されているような気分だ」
つい、と都佳沙は血を交わした使い魔から視線を逸らす。
潔癖な彼にとっては、耐えがたい汚点なのかもしれない。
自らの努力ではなく、差し出された麻薬によって手に入れた力などは。
「屈辱と、思われますか」
正直に、叶が問うた。
「さだめなら割り切れる」
切り返すように答えが飛んできた。
それは、意志だった。さだめならば、割り切ろう。自分に言い聞かせるような響きを含んでいた。
「でも、僕よりもよっぽど、納得していない人なら近くにいるだろう」
ようやく、都佳沙は口元に微笑を取り戻した。
「あの人の根は深いよ、きっと」
「そうでしょうか。私には割り切っているようにも見えますが」
「まだまだだな、叶も」
くすくす、と。都佳沙は今度は声に出して笑った。
「本当に割り切っているなら、あの人は今頃大人しく、宗家の仕事を誰よりもこなしているよ。僕よりも、やたらプライドの高い人なんだ」
年近い叔父が、カメラマンという仕事を愛していることは勿論知っている。そこを疑っているわけではない。
逃げ道にしたわけではない。
しかし、生まれ落ちた家の生業を、宿命と受け容れられなかったのは―――今も受け容れていないのは―――その力の全てが生まれながらに与えられたものではなかったからに違いない。
「それにあの人は、一番一馬さんの近くにいる。だから尚更、複雑なんだと思うけれどね」
一度は自分も、妖の血を身に容れた人間として。
蝕まれる苦しみや痛み、甘美な誘惑を知っているから尚更。
「業の深い生きものだな、僕たちも」
家のため、とはいえ。
「要や勝利には知られたくないよ」
彼らが去っていく、とは思っていない。受け容れてくれるものだと自惚れてもいる。
けれども、知られてしまえば何かが終わってしまうような気がしていた。
自分の中で、そこだけは守りたいラインだった。
穢れだと、思っているのかもしれない。
「皆、僕を高く”買いかぶって”くれているんだ。勤勉で努力家で潔い、とね。僕はせめてその期待を裏切らない”ふり”はしたいんだ」
「いつの世も」
鴉は、都佳沙の向こう側、白く透けるような障子を眺める。
「銀の人々はむずかしい生きものだ」
「そんな一族につかまったお前も、かわいそうだね」
珍しく、都佳沙は情けない笑い方をした。
「悠嵩が僕らと同じ方法で力を得たというなら、僕はそれを許すつもりはない」
気弱な笑みをすぐに仕舞って、都佳沙もまた病的なほど白い障子を見つめた。
「ばけものを飼い馴らしている年数(けいけん)の差を、教えてあげるよ」
いっそ酷薄な笑みを一瞬だけ、口元にひらめかせて、そのあとは黙った。
「……それでは、雅様にもご報告に行ってまいります」
年若い主に告げて、叶は踵を返した。
縁側へ続く障子をさらりと開いて、よく磨かれた床を踏む。
「望んで為るものじゃないんだ」
閉ざしかけた障子の隙間から、声が漏れてきた。
覗き見れば、主は己の右手をぼんやりと見ていた。
2.
―――宗家のように、妖の血を体の中に。
―――宗家のように。
要は混乱していた。
「し、ろがねさん」
相手を何と呼んだものか迷った挙句に、要は苗字を呼んだ。
よく知ったはずの苗字なのに、全く別物のような違和感がある。
返事は無い。
「銀さん……!」
ひそめてはいるが、切羽詰った響きで要はもう一度呼んだ。
返るものはなかった。
硬いコンクリートを右手で数度叩いてみても、静かなものだ。
(宗家のように、ってどういう意味なんだ?)
言葉のとおりに考えるのならば、宗家の人間は妖の血を体内に入れているということになる。
何のために?
分からない。
足元に黒い羽根が落ちている。
先程、叶が残していったものだろう。
かがんで、拾い上げた。
妖、といえば。
宗家に一番近いのは、あの使い魔だ。
「”あの男”がいうてた」
ぽつん、と部屋の中央に立ち尽くしていた茜が不意に、口を切った。
「もとは、京が本拠地なんやって。京分家と宗家とはどっちも本流の血筋なんやって。都が京から東に遷ったとき、一族をふたつに割って半分を京に残したんやから、東ばかりに大きな顔をさすんはおかしい、て」
茜の話が本当だというのならば、確かに不当な扱いかもしれない。今日の京分家の扱いは、有力であることに変わりはないとはいえ、傍流の扱いには違いない。
「うちも、宗家はきらいや。うちは銀の人間やないけど……。無茶ばかり言いよる気がする」
「だけどそれは」
反論しかけて、すぐに要はやめた。
茜と言い争っても仕方がない。
彼らのことといえば、友人であるときの顔しか、要は知らないのだった。
内情をよく知っているわけではない。
自分はただ、雅や都佳沙を庇いたかっただけだ。
何より、自分と茜とではまず、立ち位置が違いすぎる。肩入れをしたい陣が真逆なのだ。大きな河の対岸同士にいては、話は出来ない。
「……座ろうよ」
言葉を飲み込んで、出来る限り柔和に要は促した。
「こんなときにぐちゃぐちゃ考えていても、いいことないよ」
茜はしばらく、渋い顔のまま立ち尽くしていたが、要が腰をおろすのを見てのろのろと近づいてきた。コンクリートに背を預け、ずるずると座り込む。
言葉はなかった。
要は、背に神経を集める。
壁の向こうからは、何も伝わってこない。
高いところにある窓から月の光が冴え冴えと射していた。
しばらく月の光を眺めているうちに、左肩に重みがかかった。
首をそちら側に向けると、茜が要の肩にもたれて眠っていた。
疲れたんだろうな。
知らず知らずのうちに微笑んでいた。
要自身は、とても眠れそうになかった。
茜から、再び高い窓へ目を向ける。
いくら見つめてみたところで、先程のように黒い鴉は現れなかった。
「妖の血を、体に……」
独白は、高い天井によく響いた。
凍みるような月の光と、白く宙に吐き出される吐息とを見て急に寒く感じ始めた。
体のうちに、別の血を容れること。
それは、一体どういうことなのだろう。
具体的に何がどうなるのか、要には想像できなかった。
宗家のように、というからには雅や都佳沙も関わっている話だろうか。
あのふたりと妖とは、全く対極にあるような気がした。
(叶さんに、言いそびれてしまった)
銀悠嵩が、宗家を根底からひっくりかえそうとしていること。
雅と都佳沙の手を汚させようと画策していること。
一馬を―――殺すように仕向けようとしていること。
それだけは、絶対にさせるわけには行かなかった。
悠嵩が、一馬の罪悪感を重点的につついているのだとしたら、許せるものでもなかった。
どうして誰も、あの男のことをほうっておいてくれないのだろう。
とても理不尽なことに感じられた。
確かに銀の宗家とつながりがあり、契約があるのだろう。けれど要には、いつも彼ばかりが一番痛い目に遭っているように思えてならなかった。
身内の喧嘩なのに、まわりくどいことをしないといけないのか。
銀は、真っ向から意見を対立させて話し合うには大きくなりすぎたのだ。理屈としては要にも分かっているが。
まきこむな、と思う。
さも、喧嘩の切り札のように扱うなんて。
成瀬とも銀とも無関係のくせに、ちゃっかり巻き込まれている自分のことは棚上げにして、要は憤っていた。
目を閉じて、要は眠ろうとつとめる。
(早く、朝になればいい)
そうすれば、おそらく事態は動きだすだろう。
【続く】