九 共喰いの宴




1.

 おまえの裡から出てきた。

 鋭く長い爪の先を向けて、唐突に現れた男は、言った。
 愕然と、一馬は己の胸に突きつけられた指先を見つめる。
 夢を、見ているような心もちだった。
 まさか。
 思って、口走りもした。
「そなたの、夢よ」
 薄く笑って、美しい男がつぶやいた。まるで、一馬の願望を叶えるかのように。
 これは夢だと。
「願望(のぞみ)は、なまなましく形にも成ろう。私がどうして現世(うつしよ)に現れたのか、知りたくはないのか?」
 赤い双眸を細める。肉食獣が、獲物を見定めるような動作だった。
「私が、そなたに取って代われるとしたら、どうする」
 低く響く声音が、言った。


「一馬兄さんっ!」
 背後で、扉が勢いよく開け放たれる。
 弾かれたように、一馬は振り返った。
「…なに、してるの?」
 顔を出した姫架が、窓際で立ち尽くす男に怪訝そうな顔をする。
 一馬は、ああ、とだけ返事を返し、もう一度窓のほうを見た。
 誰もいなかった。

 まぼろし、か?
 白昼夢だろうか。
 鈍痛を訴えるこめかみを押さえる。確かにそこに、背に濡れた黒の翼を背負った生き物がいたと思ったのだけれど。
 幻覚と思うには、あまりにもなまなましすぎた。
―――取って代われるとしたら、

「ああもうっ、それどころじゃないんだってば!」
 どうも動きが鈍い男に、姫架が入り口の傍で地団太を踏んだ。
「要がっ」
 焦れた様子で、姫架が声を荒げる。
「え?」
 間の抜けた聞き返し方をした。
 姫架の慌てた様子と、聞こえた名前の接点が分からなかった。
「要と茜ちゃんが、ここの近くで攫われたって!」
 緩慢にまばたいた。言葉が、上手く意味を生まない。
「さらわれる、ってどういう」
「ああっ、とりあえずあたしもよく分かんないから! 現場見たって、刑事さん来てるから、一緒に―――」
 がたん、と足元で音が聞こえた。少しばかり遅れて鈍い痛みが這い上がってくる。
 テーブルに脚をぶつけたらしいと気がつくのは更に遅かった。
「場所は?」
 余裕のない声だった。普段の社交的な外面など、取り繕っている場合ではない。
 機敏に姫架が身をひるがえした。
「客間! 早く来て!」


            *


 小さくすすり泣く声で、目が覚めた。
 背中が痛い。
 重い目蓋を無理矢理に引きずり上げて、要は覚醒した。
 何も見えない。暗かった。
「……茜、ちゃん?」
 すすり泣きが少女の声に聞こえて、要は聞いた。
 少し離れたところで息を詰める気配がした。
 身を捩ろうとすると、上手く動けないことに気付く。両腕が、後ろ手にきつく縛られていた。
「だ、だいじょうぶ、なん?」
 控えめな声が闇からかえってきた。少し掠れて涙声になっている。
「腕と頭が痛い以外は、平気だけど。茜ちゃんは大丈夫?」
「うちは、平気」
「それならよかった」
 全く良くはないのだが、少女が怪我などをしていないだけ、喜ぶべきだろう。
「ここはど―――」
 言葉を途中で切った。
 あからさまに施錠を外す音がして、体の左手側で扉が押し開かれたからだった。
 さぁっと帯のように光が流れ込んできた。
 床に、長く人影が伸びる。
「おや、なかなか早いお目覚めだね。自分が誰か分かるかい?」
 冗談めかしてつぶやきながら、男が踏み込んできた。
 簡素な白いシャツで現れたのは、茜と言葉を交わしていた男だった。
 要はきつく、相手を睨み据える。
 男はその視線に気がついて、軽く肩をすくめた。
「どういうつもりなんですか」
「君のことも少し、調べさせてもらったよ」
 詰問に応じず、男は要の前まで歩み寄ってきた。
 闇の中で男の瞳だけが、僅かに光る。
「あの化け物と五年も、暮らしていたんだってね」
 要は、戒められた体勢のままで、身を乗り出した。一瞬で、苛烈な熱が体の裡に生まれた。
 その顎を、ぬぅと伸びた手が少し乱暴に掴んだ。
「まだ名乗っていなかったね、僕は銀悠嵩だ」
「しろがね?」
 耳慣れた苗字に、顎を掴まれたまま要は問い返す。
「そのとおり。君のお知り合いの方々と、遠い遠い縁戚関係さ」
 視界の端で、茜が身構える。
「だったら尚更! 一体どういうつもりなんですかこれは!?」
 ふつふつと、腹の内が煮える。
 大人しくしていたほうが身のためなのだとは分かっているのだ。分かっていても、黙っているわけにはいかなかった。
「今の銀の体制を、宗家の傍にいる君は知らないだろう」
 顔を近づけるように屈みこみ、まるで秘密の話をするように、悠嵩は声を潜めた。
「宗家の絶対王政は、宗家の傍にいるならば、うつくしい統治にも見えようが」
 間近に見える漆黒の色を、要は睨み返した。目を逸らさずに。
「時代遅れなのだよ、もう既に。同じ苗字を名乗っていようが、もう我々は血筋的には遠すぎる。昔のように、直系が右といえば皆が右に行くと思ったら、大間違いなのだ」
「何……」
「血の絆で繋がっていられた頃とは、もう違うということだ。情では付き合ってはいられない。我々は、仕事上の契約をするべきだ。同業の、組合であるべきだ。宗家がどれほど独占企業か君には分かるまい。君の賛同を得られるとは思ってはいないよ。君は宗家側の生き物だろうから。しかし、どれほど彼らが我々の市場を狭め、私腹を肥やしつづけてきたのかぐらいには、目をやってもいいはずだ。なぜあれほどまで、宗家は肥えているのだ? それは考えたことはあるか?」
「……」
「我々の、お布施の結果さ。確かに、奴らも仕事はしているだろう。毎日忙しくはしているだろうさ。しかしそればかりで、あそこまでの財力を維持できるとは、君だって思うまい?」
「でも」
 口を開きかけて、要はまた閉じる。
 上手く言葉にならなかった。
「国のお偉方の仕事を請けられるのは、宗家だけだというのも、知らないだろう? そういうふうに、彼らは美味いところだけを平らげて、残りを下々に放り投げる。そういうことを続けてきたのだ。昔ならば、それでも良かったかもしれないがな。未だ血の繋がりも濃く、世の中がもののけに溢れていた頃ならば。しかし今はもう、違う。それが、宗家には分かっていないのだ。嘆願したところで、奴らの頭は固まってしまっているのだ。何も変わらない。搾取も何もかも、当然だと思っているのだ」
 違う、と。感情で反論をしかけて、要は出来なかった。
 何も、知らないことに気がついた。
 自分と接するときの銀宗家の人間は、あくまで個人対個人だった。
 親のように、兄のように、家族のように接してくれていた。
 宗家に属する人間としての裏側など、見たこともない。
「一矢報いるための、荒事なのだよ。そのためには君に、あの家にいてもらっては困る」
「どういう、ことですか」
「君がいると、情で、あのふたりは躊躇うだろうからね」
 悠嵩は視線を流して、茜を見た。
 怯えるように、茜が身をすくめる。
「汀という、あの鴉を喚んだのは、彼女なんだけれども」
 茜の両手が、耳を塞いだ。
「彼女には、彼岸とこちらとを繋ぐ不思議な力があってね、協力してもらったんだ」
 愕然と、要は茜を見る。あの、一馬に襲い掛かった鴉を喚んだのは、茜だというのか。
「京分家は元々、銀発祥の土地だ。あの扱いは不当だから、御園殿にも相応の立場を与えてあげるから、とね」
 紅子に心酔している茜ならば、肯いたかもしれない、と思った。今のように、巧みに悠嵩の言葉を耳に注ぎ込まれたのなら。
「いい揺さぶりではなかったかな? あの化け物の目を覚ますには。あと一歩、背中を押す力が足りないようだけれど、それはきっと時がどうにかするだろう」
 するりと、要の顎から悠嵩の指が離れる。
「今までは上手く、するりするりとこの世に留まってはこれたが、今度ばかりはどうだろう? 人に化けたままで、いられるだろうか?」
 腕組みをして、悠嵩は要を見下す。
 要は、眉間の皺を深く刻む。悠嵩の物言いが不快だった。
 彼の「化け物」という言葉が、一体何を指すのかなど、分かっていた。
「榊、という鴉天狗の話を知っているかな?」
 睨み据える要の視線にまるで気付かない様子で、悠嵩は続ける。
「汀は、その強い法力を持った鴉天狗の下僕だったのだよ。遥か昔、ね。汀には、まじないをかけておいた。妖の血を、呼び覚ますように、とね。すなわち、あの化け物の裡にかすかなりとも根付いているはずの、榊の血脈を」
 呆気に取られて、要は睨み据えるのを忘れた。
 昨晩の光景を思い出す。
 体中に血を浴びた、見慣れた男の姿。
「完璧に、化け物として目覚めたら、契約に則るしかないことは、君も知っている通りだ。夢喰いは元々、宗家との契約だから、手を下すのは宗家の人間だ。宗家の権限と威厳と責任とを持って、契約は実行されなければならない」
 心臓が、煩く鳴り始めた。
 目の前の男が一体何をしようとしているのか、その輪郭が見えてきたような気がする。
 そしてなぜ、自分が今、都佳沙や雅の傍にいてはならないのかも。
「もしも情にほだされて、手を下すことが出来なければ、宗家の権威は失墜するだろう。―――まァ、よしんば手を下したとて、狂う要素のあった化けものを手元に置いていた、というだけで、糾弾の手段にはなる。どちらに転んだとしても、宗家の威厳は崩れるのだよ」
 口元をゆるめて、悠嵩が微笑した。
(この男は―――)
「君は、あの化け物の傍で、宗家の傍らで、守られて生きてきた。君が傍にいれば、君に遠慮をして冷徹に徹することも出来まい。君の前では、どれほど完璧でやさしい友人だったかは知らないが、あのふたりとて、宗家の直系として育てられてきた生き物だ。君に言い訳をするだけならば、後でなんとでも言える。事故だとでも、なんとでも」
 ぞっと、背筋を冷たいものが這い登った。
 目の前にいるものが、人間ではないような気がした。

 この男は、雅と都佳沙に、一馬を殺させようとしてるのか。

 瞬いた一瞬で、頬をあたたかい何かが流れて落ちた。
 知らぬ間に、涙が溢れていた。
 かなしさのような、くやしさのような、そのどちらものような、どちらでもないような。
 驚きのような。

「ばけものっ……」
 口を突いて、罵声が零れた。
 涙声にふるえていて、勢いはなかったけれど。
「もし、おまえが言うようにカズマがっ、ばけものでも」
 目に力を込める。溢れ出す涙をなんとかとどめようとした。
「おまえよりは、マシだ」
 悠嵩はまるで、可哀想なものを見るような目でふと、笑った。
「ほざいてろ、ガキ。貴様もどれほど、違うっていうんだ、ええ?」
 悠嵩の脚が乱暴に、要の体を蹴り転がした。
 引きつったような茜の悲鳴。
「突然変異の、神子様。貴様も所詮、同じ穴の狢なんだろう」
 為す術もなく転がった要の腹に、悠嵩は靴の先を埋めて、強めに蹴った。
「自分を識れよ、いい加減に」



2.

「八王子?」
 どことなく落ち着かない若い刑事の説明に、鋭く切り込んだのは雅だった。
 要と茜を拉致したらしい車のナンバーが、京都のものではなかった、というくだりだ。
 考え事をするようにうつむいていた都佳沙も、その単語に視線を持ち上げる。
 刺すような鋭い視線と、温度のない涼やかなそれに同時に見据えられて、赤城はすくみあがった。
 肩身が狭そうに視線を逃がす赤城から、都佳沙は叔父に顔を向けた。
「八王子って」
「偶然―――なはずはない、な」
 隣から甥の視線を受けて、雅は苦々しげに吐き出した。銜え煙草を唇から放して、紫煙を吐き出す。
「なんやの」
 苛立たしげに、紅子が問うた。
 ふたりばかりで分かり合っている様子なのが気に入らない。
 険しく、眉間に皺を刻んでいた。

 決して狭くはない客間が、今は窮屈に感じられた。
 訪ねてきた刑事ふたりと、この家の主。そして居候の面子が揃いも揃えば、仕方のないことかもしれないが。
 障子の傍に座して、一馬は来客の説明を聞いていた。半分ほども、理解できているかはあやしいものだったけれど。
 鈍い頭痛はまだ、続いている。

「八王子は、悠嵩が京都に来る前に住んでた場所だ」
 紅子は目をしばたいた。
「身内やって言うの」
「もちろん八王子ナンバーの車なんてここいらにもたくさんあるだろうさ。でもな、赤の他人を疑うほうが馬鹿らしい話じゃないのか?」
 赤の他人が、要や茜を拉致する理由を探すほうが、困難だ。
 それは、と口にして、紅子は押し黙った。
「身内?」
 胡座に腕組みの体で、服部が雅を覗き込んだ。
「身内といっても―――」
 雅は項に手をあてて、首を回す。鈍い音が鳴った。
「もうほとんど血の繋がりはない。名目上だけの縁戚だ」
 全国各地に散らばった銀の一族の中で、宗家と純粋な血のつながりを持つ家は、ほとんど一握りでしかない。
「その、名目上の親戚があんたらの身内を攫う理由は?」
「皆目」
 取り調べの顔つきになった服部に、雅は肩をすくめる。
「ただ、四方八方から恨みを買ってる自覚ならあるがね」
 続けて自嘲気味に笑った。
 都佳沙が苦虫を噛み潰したような顔をした。
「恨み?」
「大勢をまとめるってのは、骨の折れる仕事なのさ。個々の個性を好き勝手認めてたら、まとまらない。時には上から押さえつけることもする。その反動は、色々なところでくすぶってるんだろうさ」
 あまり外側へは見せんがね、と小さくつけくわえる。
「内側までうつくしいはずがないだろう、これだけデカい家だ、仕方がない。批判なら甘んじて受け入れるさ、真正面からぶつけられればの話だが」
 足元に引き寄せた灰皿に愛飲の煙草を押し付けて消すと、雅は口元にひらめかせた自嘲をふと、消した。
「こういう手段は納得できねぇな」
「せやかて、どないするねん。九条の方へ直接押しかけても、とぼけられたら終いや」
「そう急くなよ」
 詰問する様子の紅子に、雅は露骨に顔をしかめる。
 しかし、急ぐなと言われてもハイそうですか、と落ち着けるわけではない。
「これが黙って落ち着いてられる場合なん―――」
「もう手は打った。噂をすれば、だな」
 雅は、ぴしりと閉ざされた障子のほうへ顔を向けた。
 透き通った白い障子の表に、一瞬黒い影がよぎる。
 バレーボールほどの大きさだった影が、縁側にふっと下りると、急に人型を取った。障子に人影が透けてうつる。
「失礼」
 糸のように張った男の声が、一言断って障子を開いた。
 すらりと背の高い男が立っていた。上から下まで黒ずくめで、長い前髪が目にかかるほど。一見陰気な男に見えたが、眼光はどこまでも鋭かった。
「お疲れ」
 雅が右手を挙げた。待ち合わせの相手にするような動作だった。
 黒ずくめの男は、雅の挨拶に、あきれ返った溜息を落とした。
「本当にあなたという人は」
「早かったじゃないか、叶(かのう)」
「……あなたが至急、と呼びつけたのですよ、お忘れですか」
「お前のそういう律儀なところが愛しいよ」
「……叶、真面目に取り合わないほうがいいよ、この人には」
 眉間の皺を一言ごとに深くする黒ずくめの男に、都佳沙が声をかけた。
 複雑そうな表情の乱入者に、雅は咽喉の奥で笑う。雅は、このとにかく糞真面目な男をからかって、その反応を見るのが好きなのだ。
「だ、誰や」
 突然現れた謎の男に、服部の声が僅かに上ずった。
 呆気に取られた様子で、上背のある黒い影を見上げている。
 黒ずくめは、深い紫の瞳で、ひややかに服部を一瞥した。
「ウチの身内ですよ。驚かせてすみませんね」
 腰をあげ、雅は叶と呼ばれた男に歩み寄った。軽く肩を叩く。
「身、内?」
「ええ。俺ら宗家のしもべチャンですとも」
「雅様」
 宗家の使い魔である叶が、雅の言い様に気色ばむ。
「間違ったことは言ってないだろ」
 ぐっと、叶は押し黙った。確かにそのとおりではある。
 叶は、代々銀の宗家の血族のみに仕える使い魔であり、元は鴉の妖である。
 銀直系の命しか受け付けず、他者に媚びることもない。気難しく生真面目な奴だった。
「そのような戯言を言うためにわざわざ京都に呼びつけたと仰るつもりですか」
「お前、要くんの気配なら分かるだろう」
 いよいよ気配が剣呑になってきた叶に、苦笑しがちに雅は告げた。
「……英殿のことですか」
 叶は、線の細い少年と青年のあいだにある男の顔を思い浮かべた。
 ここ半年ほど、銀の本家に出入りしている、高校生。
 雅は頷いた。
「そうだ。九条のあたりに、銀の分家がある。そこに要くんがいるかどうかを確かめて、可能であるなら接触も試みて欲しい」
「ご命令ならば」
「ああ、そうだ。命令だ」
 刻み付けるように、雅は言った。
「従いましょう」
 抑揚のない声で応じた黒ずくめの影が、突然その場で溶けた―――かのように見えた。
 うわ、と赤城が思わずうめく。
 黒い小さな影が、弾丸のように開け放たれたままの障子から外へと飛び出していった。
 ひらり、と艶のある羽根が雅の足元に落ちた。
「これでしばらく、俺らにできることはないな」
 屈みこんで、艶っぽい羽根を拾い上げながら、雅はひとりごちる。
「無闇に動いて、相手に付け入る隙を与えないほうがいい。怒鳴り込んでいって、不法侵入だのなんだのと言われると、問題が面倒くさくなる。まずは要くんと茜ちゃんの所在を確かめてからだ」
「どれくらい黙っていればいいんだ?」
 開け放たれたままの障子の傍から、声が上がった。
 雅は、幼い頃から馴染んだ男に顔を向ける。
「お前だって叶のことぐらい知ってるだろ。そんなに時間は掛からんさ。焦っても仕方ねぇだろが」
 でも、と言いかけて一馬は口を噤む。
 雅の言うことは正しい。
 ここで焦ると、碌なことにならないだろう。
 けれども、何もできないということが只管にもどかしいのだ。
 銀にとって部外者であるはずの要と茜が連れ去られたことも腹立たしい。
「少しでいいから落ち着けよ。叶ならすぐに戻る。あいつが戻ってきてからどう動くかを考えといたほうが利口だ」
 苦虫を盛大に噛み潰した顔で一馬が黙ると、雅は呆気に取られたまま固まっている刑事ふたりに向き直った。
「……ということなので、子どもたちの居場所が判明したら、あなたたちに協力してもらわないといけない」
「そらそうやろう。間違っても突っ走らんといてくれよ。いくら不可思議なことを見せ付けられても、法律の前じゃ武器にはならん。これは立派な誘拐事件なんや。ほんまなら、俺らの領分やで」
 呼吸を整えるように深く息をついて、服部は立ち上がった。
「俺らの連絡先なら、姐さんが知っとる。動きがあったらすぐに連絡せぇ。赤城、戻るで」
 カーキ色のトレンチコートを着込みながら、服部は開け放たれたままの障子に向かった。
「オ、オヤジさん、戻りはるんですか!?」
 慌てて赤城も腰を浮かす。横に置いてあったコートを掴みあげた。
「当たり前や。俺らはデカいヤマ抱えとるやろ」
「で、でも、和製切り裂きジャックはもうおらんのでしょう。昨日見た奇怪な女―――」
「阿呆!」
 振り返り様、服部は赤城を一喝する。
「そないな説明を発表するわけにいかんやろう。俺らはバケモン相手にしとるわけやないんやで。刑事は刑事らしく犯人を探すんじゃ。まだ分かっとらんことも仰山あるやろ」
「……ハイ」
「この手の事件は珍しいことやない。せやから姐さんにも度々協力してもろてるわけや。大概は、バケモンの所為でした、なんて言うわけにいかんから、どうしてもお宮入りになってしまうがな。今のヤマはまだ、世間もテレビも新聞も騒いどる。俺らが手を引くわけにはいかん。できる限りのことはするんじゃ」
 一気に吐き出してから、服部はさっさと敷居を跨いで縁側に出た。
 ぽかんとしている赤城を数歩歩いた後、振り返る。
「……まァ、こっちが気になるなら居ってもエエ。お前は坊主らが攫われんのを直に見とる訳やし、立派な誘拐には違いない」
「いえ!」
 服部の言葉を、赤城は途中で遮った。
「ここにおっても待機してるだけなんやったら、戻ります。自分の仕事」
「そんなら、早よ来い」
 足音荒く、服部はまた歩き出した。
「あ! オヤジさん待ってくださいよ!」
 慌てて、赤城は服部の背を追った。形ばかりの会釈を、室内に取り残された一同に残してゆく。

 嵐が去ったように思えた。
 その場に残されたのは、重みのある緊迫感のみ。
 紅子が疲れたように深い溜息を落とした。
「叶まで引きずり出してくるやなんて」
「苦肉の策だ。ふたりの居場所が分からなかったらどうしようもない。それにあいつなら腕は確かだ」
「そらそうやろけどな、せやかて、一体何が目的なんよ」
「んなもん、俺が知るかよ」

 ぼんやりと、どこか遠くに紅子と雅の声が聞こえている。
 見下ろした、畳がやけに青い。
 どうしてこんなことになったのかを考えようとして、頭痛に妨げられる。
 後頭部を、打ち付けるような鈍痛が絶え間なかった。
 一体、何がどうなっているのだったろう?
 要が、近くの路地で殴られて、車に押し込められて? それから―――。
 視界がぼやけた。
「……兄」
 声が、した。
「一馬兄……!」
 右腕を掴む力に、一馬は我に返った。
 弾かれたように、掴まれた腕を見下ろす。
「だいじょうぶ?」
 不安げにこちらを見上げる、灰の瞳と目が合った。
 姫架だった。
 え、と思わず問い返す。何を心配されたのか、分からなかった。
「顔、真っ青だからさ……」
 腕を掴む力を幾分かゆるめて、姫架がこころぼそそうに呟いた。
 細い眉が八の字に下がっている。
「具合悪い?」
「いいや」
 否定はしてみたものの、説得力は欠片も無かっただろう。
 しかし、正直に頭痛がするとも言えなかった。
「うそ」
 案の定。
「そんな真っ青な顔で言われたって、納得できません!」
 むぅ、とむくれた姫架が、少し強めに腕を引いた。
「体調悪いの? 風邪とか? 無理しちゃダメ」
 姫架は引き下がる。
 心配されているとは分かっているのだが、素直に訳を話す気分でもなかった。
 眠っても、疲れの取れぬ日々が続いているのだと。
 体が痛切に、飢えて弱っているのだと。
 そのような化け物の事情を、彼女に告げる気にはなれなかった。
 信頼を、していないわけではない。
 けれど、やさしい彼女は心を痛めるだろうから。
「昨日の夜、寝ていないんだろう」
 少し離れたところから、助け舟が出た。
「どうせ今は手詰まりだ。なんかあったら起こすから、寝とけよ」
 え、そうなの? と姫架が目を瞠る。
 雅の目が、こちらを見ていた。言葉にしなくても分かっている顔をしている。
 苦笑を返した。どう転んでも、敵いはしない。
「悪い。そうさせてもらうよ。……姫も、ごめんね」
 折っていた膝を立てて、立ち上がる。
「そっか、睡眠不足はお肌に悪いよ!」
 姫架の腕が、するりと離れた。声に、いつもの明るさが戻っている。
 どこかで安堵をした。
「ありがとう」
 礼を述べて、未だ開け放たれたままの障子に向かう。
 障子の隙間から遠くに見えた空は、冬の凍てついた空気のせいか、やたらに青く見える。
 中庭に面した縁側に踏み出して、後ろ手に障子を閉ざした。
 叶が飛び去った方向は、一体どちらだったか。
 見つめたところで状況が好転するわけでもあるまいに、夢見がちだった。

「可哀相に」

 左の鼓膜を、低い声が打った。
 外気ではない、何か特別な冷気が左の頬を打った。
 慌ててそちらに首を向けると、真紅と視線が絡まる。
 雪のように白い肌に埋めこまれた紅の双眼は、爛と炎のように輝いていた。
 漆黒の、翼。
 流れ落ちる糸のような銀の髪までも。
 何もかも、綿密に計算されてつくりだされたもののようだった。
 なまなましさがどこにも無い。
「何が―――おまえを繋ぎとめているのだろうね」
 ゆるく腕を組んで、化生は一馬を見ていた。ふ、と赤の双眸を含むように細める。
「お前は、何者だ」
 低く誰何すると、白銀のいきものは、今度は声に出して、ふふ、と笑った。
「幾度も教えてあげたろうに。愚かな子だな」
 漆黒の翼を背負った、修験者のような出で立ちの男は、憐れむ色を瞳に浮かべる。
「わたしは、お前だよ」
「何を―――!」
 そのような理不尽な話があるものか。
 思わず気色ばんだ一馬に、男は再びその白い指先を突きつける。
 その指先ひとつに張りつけられたように、一馬は言葉を飲んだ。
「お前の、その血脈に瞭かに流る妖の性よ。ふつふつと、眠っている血よ。お前の肉を、今も内から食い破ろうとしている。分かっているのだろう」
「あやかしの……」
「認めるがいい。既にお前は、識っているのだ」
 すらりと伸びた、鋭い爪の生えた掌が、直に一馬の左胸に触れた。
「自らの性(しょう)を、識っているのだろうが」
 触れた掌から、凍えるような冷気が体中に染みてゆく。
 半歩、あとずさった。縁側の床が軋む。
「いつまで逃れているつもりか。いつまで逃れていられると、思っているのか」
 掌は、この世の者とは思えぬほどに冷たいが、確かにそこにあった。
 夢でも、幻でもなく。
 現だった。
「その、藍の目が真実(まこと)なのだよ。お前の体に離れず、施された刻印なのだ」
 注がれる緋の眼差しは、しかし、酷く冷たかった。
 炎のように苛烈で獰猛に輝いている。背筋が冷たくなるような輝きだった。
 けだものの、獲物を射る目をしていた。
「お前は一度、この世から逃れようとして、またこちら側に戻ってきた。そのときに、お前は選んだのだよ。生き延びることを」
「選ぶ」
 鸚鵡返しにすると、鴉天狗はやわらかく、口角を引きずり上げて微笑する。
「その通りだよ。生き延びるために、何が必要なのかは、お前が一番良く分かっているだろう。いや、お前の血肉が一番良く、分かっている。―――悦んでいる」
 含んだ笑いが、背筋を逆さに撫で上げた。
 悦んで、いる?
「汀の”夢”は」
 妖が首を傾けた。子どもの戯れのような所作だった。
「さぞかし旨かったであろう。のう、―――」

 背後で、勢い良く障子が開いた。
 ふつ、と。胸元に触れていた威圧の塊が掻き消える。
「あれぇ」
 暢気な声が不思議そうに言った。
 一馬は、それを背で聞いた。
「何してんの? ってか、まだこんなところにいたんだ?」
 ぎくしゃくと体を動かして、振り返る。
 大きな瞳と目が合った。
「姫」
「ホント、だいじょうぶ?」
「あ、ああ」
 知らず、安堵の吐息が落ちた。
 額のあたりに汗が滲み出す。詰めていた息を吐き出した。
「もう。ちゃんと寝ないと体に良くないです」
 ありがとう、と告げるのがやっとだった。
 体中にめぐった緊張から解放された体が、次は急激に冷え始めた。
 畏れかもしれなかった。

―――さぞかし旨かったであろう。
 姫架に急かされて、宛がわれた部屋に足を進める。その耳元で、くつくつと笑う男の声が繰り返し響いた。

―――のう、半妖のいきものよ。

 あの男は―――この血の起源であるという鴉天狗は、確かにそう言って、獣のような瞳を細めて、笑ったのだ。



3.

 茜が、震える指先できつく戒められた腕の縄を解いた。
 体中の関節がきしきしと痛んだ。自由になった右手で、要はじわじわと痛む口元を押さえた。
 指先が触れるだけで、刺すような痛みが口元から顔中に走る。
 口元だけではない。不安定な体勢で戒められていた腕や、悠嵩に蹴られた腹部などが鈍く痛んだ。
「窓は……ないのかな」
 痛みに顔をしかめながら、要は天井を仰いだ。
 声が、やたらと遠くまで響く。天井は、思ったよりも高いようだ。
「……あるよ」
 微かな声で、隣に座った茜が呟いた。
「え?」
「窓。ある、てゆうても、高いとこやし、鉄格子はまってる」
 要は、そらした顎を下ろして、傍らに座る少女を見下ろした。
 暗闇の中で、少女の白い腕がぼんやりと浮かび上がる。
 茜は、冷えた壁に背を預け、自分の両膝を抱えていた。膝頭に額を押し付けているので、表情は見えなかった。
 要はもう一度顎を逸らして、天井を見上げた。
 目を凝らす。
 確かに、右手側の壁から細い明かりが差し込んで来ているようだ。あそこが窓なのだろうが、立ち上がっても手が届きそうにないほどに高い場所だ。
 どうやら鉄格子が嵌まっているというのも本当のようで、差し込んでくる僅かな明かりは、何本かの線に分割されていた。
 鉄格子なんて、と要は思う。
 悠嵩が茜を拘束せずにいたのも、喩え要の戒めが解かれたとはいえ、すぐに逃げられはしないのだという自信があったからなのだろう。何せ、この部屋だ。
 まるでここは、人を閉じ込めるためだけの部屋のようではないか。
 牢獄。ふとよぎった言葉に、背が粟立った。
(どうして、こんなことされなきゃいけないんだよ)
 背にしたコンクリートが異様につめたい。波紋を描くように、そのつめたさが体中に広がってゆく。
 後頭部を道端で殴られて、目が覚めたら監獄のような鉄格子の嵌まった部屋だなんて。
 日常では、めぐり合うことない世界だ。
 学校へ行って、塾へ通ったり友達と遊びに行ったりしている環境では、こんなことはありえない。
 平平凡凡な生活を送ってきたわけではないけれど、人よりは特殊な環境だとも思うけれど、まさかこんな目に遭うことになるとは思っても見なかった。
 今はこんな、誰とも連絡のつかない状況で、助けも呼べない。
(もしかしたら、誰も気づいてないかも……)
 ふとよぎった予感は、的中しているように思えた。
 あの界隈は、銀の京分家が大きな屋敷を構えているので、基本的に人通りが少ない。
 相手だって馬鹿じゃないから、目撃されないようにことを運んだだろうし、そうなったとしたら、今頃はまだ帰ってこないのか、と思われているぐらいなのかもしれない
 急にこころぼそくなった。
 はやく、しなければ、と思った。
(帰らなきゃ)
 ぷくりと、水面に泡が浮かぶように、思った。
 帰らなければならない。
 見聞きしたものを、早く伝えなければ。あの、蛇のような目をした男が言ったことを。

―――いつまで人のフリをしていられるのかな。
 鼓膜をくすぐるように、男の声が蘇る。
 悪魔の囁きのようだと思った。手招くセイレーンのようだと思った。
 こちらの水は、甘い。
 だから早く諦めてしまえと。
―――自分を識れよ、いい加減に。
 鳩尾に入ったつま先の衝撃を思い出す。思わず左手を胃のあたりに当てた。
 “お前もどれほど、変わるというのだ”。
(知ってるよ、そんなこと)
 要は、薄汚れたコートの表面を左手で握った。生地を、指先で強く握り締める。
 ふつうと何かが違ってしまっていることぐらい、知っている。
 知っていて、分かっていて、それでも普通になりたいと思うのは、そんなに許されないことだろうか。
 そんなにも、大それた望みだろうか。

「……怒らへんの?」
 くぐもった声が、ぽろりと零れ落ちた。
「怒る?」
 うずくまる少女のほうへ首をめぐらせて、要は聞き返した。
「うちが、あんなこと、したから……」
 膝頭に押し当てた額を少しだけ持ち上げて、茜が微かに笑った。
「せやのに、なんで怒れへんの?」
 笑いが、傍から微かな嗚咽に変わった。
 引きつったような呼吸で、茜は咽喉を鳴らす。
「言いなりに、なっ、たから、や。ほんまに、で、出てくるなんて思わ、へんかった」
 茜は、さらに体を小さく折りたたんだ。両足をきつく胸に抱き寄せる。
「……どうして、あいつの言うことを聞いたの?」
 できるだけ、穏やかに問うたつもりだった。
 しかし、茜は大袈裟に身を竦ませる。
「紅子さんの、ためかな?」
 凛々しい人の名前を出せば、茜の肩がひくりと震えた。
 しゃくりあげる声が、コンクリートにやけに大きく跳ね返る。それ以上なんと声をかけていいのか分からずに、要は開きかけた口をつぐんだ。
「く、に」
 やがて、しゃくりあげながら、茜が震える声で切り出した。
「役に、たたなアカンて……思て」
 ぼんやりと青白く浮かび上がる手の甲で、茜は、零れる涙を拭う。四方をコンクリートで囲まれた、こんな暖房もない部屋では、痛々しいほどだ。
 良く見れば、茜は外に出るような恰好ではない。薄着だった。小さな肩が震えているのは、おそらくしゃくりあげているだけではない。
 あ、と気がついて、要は自分のコートを茜の肩にかけた。
 僅かに、息を飲む気配がする。
「……役に立つって?」
 うろたえる気配を少し強引に無視をして、要は先を促した。
 しばらく戸惑って、茜はやがてあきらめた。その頃には、もうあらかた涙も止まっていた。

 とつとつと、茜は身の上の話をした。
 幼い頃から不思議なものが見えたこと。両親の不仲や、母の情緒不安定さ。
 要は、立てた膝に腕を預けて聞いた。
 何故だか、どこかで聞いたような話に思えた。
 他人の話ではなく、もっと身近な。

「御園様―――紅子ねえさんが迎えに来てくれはったときは、ほんま、うれしかった。やさしゅうしてもろて、色々してもろてばかりやから、役にたたなアカンて……」
 くすん、と茜はちいさく鼻を鳴らした。
「ぜんぶ、もろてばかり、だったら、荷物になるもん。そんなん、いやや。迷惑かけたないし、きらわれたら、どうしたらええか、わかれへんようになる……」
 相槌を打つことも忘れて、要は少女の言葉に耳を傾けた。
(荷物には、なりたくない)
(嫌われたら、どうしたらいいかわからない)
 これは本当に茜の告白なのだろうか。あまりにも、身近すぎる気がした。
 堰を切ったように、茜の言葉はとうとうと流れて落ちる。一度決壊したら、止まらなかった。
「置いて、いかれたく、ないんやもん」
(置いて、いかれたくない)
「せやから、うち……」
 御園様のためだよ、という悠嵩の口車に乗ったのだ。
(僕だったら……)
 どうするのかな、と要は自問する。
 あいつのためだよ、と言葉巧みに促されたら。
 “たとえばあの男が、体を蝕む全ての呪いから解放されるのだとしたら”?
 そのために、自分の持っている力を提供しろと、言われたら。
 ―――どうしただろう。
 途方もなく、難しい命題に思えた。同時に、あまりにも甘美な誘惑にも思える。
 少しばかり想像してみただけだというのに、ぐらついた。そんな方法が、もしもあるのだったら、と。
 茜の気持ちも、分かるような気がした。責められはしない。

「僕も、そうだった」
 膝に預けた両手の先、闇にぼんやりと浮かび上がる灰の床を見つめる。
 視界の端で、驚いたように茜が顔を持ち上げるのが見えた。
「茜ちゃんと、一緒だよ。拾われたって思っていたから、何か役に立たなきゃいけないんじゃないかってずっと、思ってたよ」
 与えられてばかりだと思っていた。
 だらしないだの、情けないだの、口先だけで罵ることは簡単だけれど、はたと我に返ってみると、受け取るばかりしかできていない自分に気がつく。
 かといって、何かしようと思ったところで幼い無力な自分を思い知るだけだ。
 拾われたなら、役に立たなければ。
 好かれるようにしなければ、いつかまた捨てられてしまうかもしれない。
 そんな、今になって考えれば馬鹿みたいな危機感をずっと抱えていた。
 切実だった。
 怖かったのだ。
 また寒い場所へ戻ることが。

「……帰らなきゃね」
 呟くと、吐息が僅かに白い霧になる。
 ここは、とても寒い。
 暖かい場所へ、戻らなければいけなかった。
 要は、軋む体に鞭打って、立ち上がった。
 きょとんと、茜は不思議そうに要を見上げた。
「相変わらず、色々与えてもらってばかりではあるんだけどさ」
 寒さと痛みとで、あまり感覚のない腕を擦りながら、要は高い窓を仰ぐ。
「さすがに、昔よりも色々なものは見えるようになった、と思う。そしたら、昔は完璧に凄いとか思っていた人でも、別の一面が見えてきたり、大したことなかったり、そんなに大きなものじゃなかったりとか、ちょっとずつ、分かってきたりして」
 ほそい光が、格子の嵌まった窓から注いできている。

 途方もなく、遠くにいる人たちだと、思っていた。
 一生掛かっても追いつけはしないのかもしれないと。
 周りにいる大人全て、自分とは完璧に組織から違う、別のいきもののように思っていた。
 世界の仕組みや、大人の事情なんか、少しずつ見えてきたら、実はそんなに遠くにいるわけでもないのかもしれないと、思うようになったりもして。
「さっきの銀の話も―――」
 悠嵩がつきつけた、宗家と分家との確執、壁、絶対王政だとか。
「ショックではあったけど、そうなのかもしれない、って思った」
「え?」
「そういう側面が、あるんだろうなって、気がついたんだ。銀はあんなに大きな家だし、大多数をまとめるには、強引なこともしなくちゃいけないのかもしれない。分家から見てみれば、絶対王政以外のなにものでもないかもしれない。あいつが言ったことを全部鵜呑みにするわけじゃないけど、間違ってもいないんだと思う」
 ふと、見慣れた顔が過ぎって、また消える。
「雅さんのことも都佳沙のことも、悪いとか、そんなふうには思いたくはないけど、いい悪いで割り切れないこととか、あるんだと思うし。僕はなんだかんだで部外者だから、全部を見せては貰ってないけど、完璧に正義じゃ、ないのかもしれない」
 考えて、喋っているわけではなかった。
 内側の整理をつけようとしているのかもしれなかった。
「カズマも、そうなのかもしれない、しね。誰が完璧に正しいとか、言えないけど」
 ぴったりときれいに、割り切れるわけはないのだ。
 清濁を、善悪を。様々な方向から切り裂いてみて、どこでも同じような切り口が見えるわけじゃない。
「だから、僕らが絶対に正義で、向こうが悪だとか、思わない。もしかしたら逆なのかもしれないし、僕にはどっちが絶対的にいいとか悪いとか、分からないよ」
「……疑ってるん?」
 遠い窓を仰ぐ要の背に、控えめに茜が声をかけた。
「……よく、分からない。正直、ぐちゃぐちゃで混乱してる。だって、雅さんも都佳沙も、始さんや斎さんだって、とてもいいひとだし、やさしくしてくれるんだし。本当なら、あの男が言ったことなんて、信じたくないよ。―――どう受け止めればいいのかは、まだ分からないけど、帰らなきゃいけないんだなってことは分かるんだ。戻って、全部話さないと」
 言葉が溢れて、止まらなくなった。
 自分で自分に、説明をつけているような気になった。
「正義か悪かで判断して、向こうにつくわけじゃなくて、僕は雅さんも都佳沙も好きだから戻りたいんだ。どっちが正しいとか、そういうことじゃなくて。自分が信じるほうにつくよ。カズマのことも……何が一番いいことなのか、正しいのかなんて全然分からない。でも、あんな思惑で殺させたりなんか、絶対にさせない。させたくないよ」
「もし、あの宗家の人らが、夢喰いの人殺そうとしたら、どないするん」
 はっとして、肩越しに要は茜を振り返った。
 真摯な少女の目が、こちらを見ていた。皮肉でも揶揄でもない。
 真剣だった。
 あえて考えないようにしていた部分に容赦なく顔を向けさせられて、要はたじろいだ。
 同時に、驚いた。
 迂回して通り過ぎたはずのその問いの答えは、あまりにあっけなく出たからだ。
 口元が、気がついたら歪むように緩んでいた。自分にあきれた。
 いつの間にこんなに刷り込まれたものか。

 茜に向かって、答えは言わなかった。
 もしも、雅や都佳沙があの男に刃を向けるようなことがあったら、多分自分は―――。
 阻むんじゃないだろうか。
 そう思った。

「よくもまぁ、こんな時代錯誤な場所があったものですね」
 天から声が降ってきた。
 ふたりは、同時に顎を伸ばして、高い窓を見上げる。
 黒い影があった。
 外から差し込んでくるはずの僅かな光を遮る何か。僅かな光を受けて、濡れ羽色が艶やかに輝いていた。
「安易というか、なんというか」
 4メートルほどある高さから、小さな影は落下した。要の足元そばにひらりと舞い降りる。
「叶、さん?」
 呆然と、要は足元を見下ろした。
 普通よりもひとまわりほど大きな鴉が、漆黒の目を向けて要を見上げていた。
「必要以上に結界を強めてある。潔癖で分かりやすいことと言ったら」
 人型であったなら、溜息でもついていることだろう。あきれ返った声音だった。
「あの、叶さん、なんで京都に……」
 銀宗家の使い魔である彼が、何故今、京都にいるのだろうか。
 本来ならば、常に頭領である始の傍にいるはずだ。
「人遣いの荒い人に、急に呼び出されましてね」
 温度の感じられない、淡々とした口調が言った。
「……雅、さん?」
 過ぎった人物の名を口にすると、沈黙が答えた。
 確かにやるだろう、あの人ならば。
「一度英殿からもあの人には言ってやって下さい。全く、人権を無視している」
 はぁ、と要はおざなりに頷いた。鴉の姿をした叶の口から人権という言葉を聞くのは、なんだか不思議な気分だった。
 はたと、要はようやく我に返った。
 叶が京都にいるのはいい。しかし何故、”ここ”が分かったのだろう。
「呼び出されたばかりなので、私も詳しい事情は知りませんが、あなた方が何かに巻き込まれてここにいるらしいことは、雅様はじめ、皆が承知しているので、ご心配はなさらぬよう」
 咄嗟に、要は唇を噛んだ。
 急に涙が出そうになった。
「今は確認に赴いただけです。後のことはこちらで何とかしますから、無理に動こうとして事を荒立てぬよう。擦れ違いになったら困る」
 抑揚のない声で告げて、叶は翼をはためかせた。
 隙のない動きで浮き上がると、高い窓枠まで一気に飛び上がった。
「一度、分家へ報告に戻ります。間はあまり空けないつもりですから、それほど時間は掛からないでしょう。それでは、失礼」
 格子の隙間から、漆黒の影は消えた。
 詰めていた息を肺から一気に吐き出すと、自分の足が微かに震えていることに、要は気がついた。
 恐怖でも怯えでも、もちろん寒さからくるふるえでもない。
 安堵だった。
 “気づいていてくれた”。その事実が、とてつもなく心を安堵させた。
 あの状況で、一体どうして気がついてくれたのかは分からない。けれど、ここで捕まっているという事実を認識してくれるということが。
 嬉しかった。
 まだ、絶望ではなかった。
「いまの……」
 未だ自失しているらしい茜の、気の抜けた声がした。
 目を丸く見開いてぽかんと窓枠を見ている。
「ああ、宗家の使い魔の叶さんだよ。宗家の人の言うことしか聞かないんだけど」
「鴉……?」
「みたいだけど、実際どういうひとなのか、あんまり知らないんだ」
 何しろ神出鬼没で、自分のことを語るタイプでもない。
「でも、皆僕たちがどういう状況か分かってくれてるみたいだ。だったら、慌てなくても大丈夫だね」
 向かっている場所は、断崖絶壁ではない。
 手をかける岩もある。受け止める草も。
 奈落ではないということが、これほど頼もしいことだとは。
 かすかな笑みすら口元に浮かんでいる自分の現金さに、驚く。
 何度か瞬いてから、茜も深い吐息をついた。
「よかった……」
 心底安堵したように、呟いた。

 ゴリ。
 硬質な音が、鳴った。
 ひ、と咽喉を鳴らして、茜が飛びずさるように立ち上がる。要のコートが床に落ちた。
 茜が背にしていたコンクリートの壁が、鳴ったのだ。
 まるで、壁を何かで掻くような。
 続いて、鈍い音が聞こえた。どん、と。壁を叩くような。
 向こう側に、何かいる。
 怯えた足取りで、茜が要の方へ歩み寄った。
「……か」
 くぐもった声が、コンクリートの向こう側から聞こえてきた。
 掠れているが、男のもののようだ。
 茜を背に庇うようにして、要は壁に近づいた。
「……誰ですか?」
 張った声音で、要は壁に問うた。
「誰か、そこに……いる、のか……」
 弱々しい声が返ってきた。掠れてしわがれた、男の声だ。
「僕は、英と言います。事情は分からないけど、ここに、閉じ込められてて……」
「……私は、この屋敷のもの、だ」
「え……?」
「銀、崇嗣―――」




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