七 朱の驟雨
1.
体のふるえが止まらない。
かじかんだときのように、指先の感覚がない。
(あんなの……)
乱れた足取りが、足元の砂利を蹴散らした。
等間隔に置かれた飛び石につまづきそうになる。
漆黒の羽根。
血のように赤い瞳。
中庭に浮かび上がった、紅の狩衣のばけもの。
こみ上げた嘔吐感に、思わず左手で口元を覆う。
巨大な門の脇、通用口を押し開いて、屋敷の外に出た。
少しどこかで、落ち着きたい―――。
「茜ちゃん」
笑いを含んだ声に名前を呼ばれ、茜は見えない縄につまづいたように立ち止まった。
右の耳が、くすくすと小さな笑いを拾った。
「そんなに慌ててどこに行くの。もう日が暮れるよ」
屋敷の塀から体を起こして、漆黒のコートに身を包んだ男が、茜に歩み寄った。
茜は、足元に伸びた自分の影を見ていた。
その影に、別の黒が混ざる。
「まァったく、汀(みぎわ)には困ったものだ。呼び出し主の命令をちっとも聞きやしない。―――ねぇ、茜ちゃん」
俯いたままの茜の顔を、男が横から覗き込んだ。
害虫に出会ったように、茜が大袈裟に後ろにあとずさる。
「ひどいなぁ、人を化け物みたいに。僕たちは同志じゃないか」
大袈裟に肩を竦め、男は唇の端を引きずり上げて笑った。
「それとも、もう忘れてしまったのかな。僕たちは、不当な圧政を退けるために結託したんじゃなかった?」
男が、穏やかに微笑んだ。
「だって、あんなっ……!」
茜は震える声を絞り出した。
あんなもの。
まがまがしい気配。
見つめているだけで体の芯から凍りそうな、恐怖。
「あんな化け物、って言いたいのかい? 馬鹿な子だな」
上等な冗談を聞いたかのように、男が声を上げて笑った。
「あれを喚んだのは、きみだよ」
腕を伸ばし、男は茜の肩に触れた。
「いやっ……!」
潔癖な動作で、茜が男の手を払いのける。
小動物のような身軽さで踵を返すと、茜は飛び出してきた通用口から、屋敷の中へと飛び込んだ。
大きな音を立てて、通用口が閉まる。はたかれた掌を一瞥して、男は小さく嘆息を落とした。
その背後に、滑り込むように黒い車が停まる。
男は自ら後部座席の扉を開き、体を滑り込ませた。
「感心しませんね、悠嵩さま」
運転席の、スーツを隙なく着こなした男が無表情に言った。
「このままでは、謀りが実を結ぶよりも先に相手方に悟られても仕方がない」
「謀りとはまた、無粋な物言いだな朝桐」
顔に零れかかる漆黒の髪を後ろに掻きやりながら、銀悠嵩は咽喉の奥で笑った。
「革命だよ」
口にした傍から、悠嵩は堪えきれないように笑い出した。
「不変のものなど何もないのさ。いつまでも旧い仕来りに縛られているばかりでは、いずれ全てを道連れに滅びるだけだ」
煙草の先に、火を灯す。細く紫煙を吐き出して、悠嵩は双眸を閉ざした。
ひらめかせた笑みはすぐに仕舞いこむ。
「巨大な櫓の頂点に座していれば、土台が腐るのも分からんだろうに」
「私であり貴方が、その腐食であると?」
「東の康人殿は、少々急きすぎたのだ」
運転席の、朝桐の問いには答えずに、先のお家騒動の中心人物となった康人の名を、悠嵩は口にした。
「櫓は引きずり倒す。せいぜい高みで清らで潔い面構えで座っているがいいさ。支配者の顔で」
指先でライターを弄びながら、悠嵩は先日顔を合わせた櫓の頂上の人々を思い返す。
自覚はないだろう。けれども、優越が在った。
管理するものの顔。
それはすなわち、支配する顔だ。
特に次のご当主殿など、涼しげな顔立ちをあからさまに顰めてみせていたものだ。
(あの顔が)
支配することに慣れたものの面構えが。
「どうなるか、見物だな」
*
身を刺すようなとげとげしい沈黙が、刻一刻とすぎてゆく。
「死にたいのか?」
追及の勢いを抑えずに、雅が言った。
「死にたくないさ」
「正直に言え」
「本音だ。死にたくはない。今までと何も変わっていないはずだ。喰う頻度も」
「それじゃあ足りないんだろ、なら」
「これ以上は御免だ」
言葉を仕舞いまで聞かずに、遮るように、一馬が言った。
「俺はこれ以上、貪るようにはなりたくない」
きっぱりと、反論を受け付けない強さで、宣言する。
譲れない一線と、明確に引いた境界があるのだ。
野生の生きものたちは、決して、必要以上の獲物を狩らない。
命を繋ぐのに、要る分だけを、身のうちに取り込むのだ。
生きていられるのに。
これ以上、もっと、もっとと。
強請る所業はあさましい。
健全な生きものではない。
「じゃあおまえそれが」
語気を荒げて、唸るように雅が。
「非効率な自殺と何が違うか言ってみろ」
何も言わず、一馬は伏せていた視線だけを持ち上げる。
「足りてないのは、おまえのせいじゃないだろう」
力が増したのは。
望んだわけではないだろう。
「それでも―――」
己で定めた境界を越えるのは、くるしい。
これからますます膨張するのだとしたらどうする。
もっと、もっと。
今よりもさらにもっと、求め出したとしたら。
そうならないと、誰がはっきりと証明できる。
「歯止めが効かなくなるのが、怖いんだ」
飢えを。
切実な飢えを眠りで誤魔化すにも、限界はあるのだろう。
とはいえ安易に妥協などはしたくない。
生命に関わると脅されても、これ以上はもう無理だ。
許せない。
「だからってな―――」
無機質なベルの音が鳴り響いたのは、そのときだった。
デフォルトの、ぴりぴりと鳴る、携帯の呼び出し音。
「都佳沙……」
携帯電話の持ち主を、恨めしそうに雅が睨んだ。
雰囲気がぶち壊しだ。
「ごめん」
あまり悪びれた様子もなく謝罪だけ口にして、都佳沙は着信を訴える携帯電話を引きずり出す。
はじめは切ってしまうつもりだった。
しかし、画面に表示された名前を見て、結局都佳沙は通話ボタンを押した。
「どうしたの」
《あのねーぇ》
間延びした声がした。声の向こう側に、雑踏。野外だ。
《まだ京都にいるんでしょ? 雅兄に掛けても全ッ然出てくれないんだけど》
「兄さんに用事?」
会話の断片に、雅が体を捻って都佳沙を振り返る。
《まぁー、そうかな? 車出してもらわなきゃなんないし》
「……話が全然見えないんだけど」
受話器の向こう側から、ざわめき。聞き覚えのあるアナウンス。
駆け込み乗車は、おやめください。
《来ちゃった》
「え?」
《きょう、とー》
「……何してるの」
《なァによう、あたしが行ったらマズいことでもあんの?》
「いや、別に……」
《じゃあ、決まりってことで! 京都駅にいるから、迎えにきてね!》
ぷつり。
彼女との電話はいつもこのような終わり方をする。
つまり、一方的にぶちっと切られる、終わり方。
無情な通話音をしばらく耳で受け止めてから、都佳沙は携帯電話を折りたたんだ。
事の成り行きを見守っている室内の人間たちを見回して、簡潔に状況を説明した。
「京都駅だって、姫」
大袈裟に溜息をついて、雅がソファーから立ち上がった。
2.
「汀、なんて」
こめかみのあたりを指先で抑えて、紅子がぼやいた。
打って変わって、ところは紅子の私室。
「お山を騒がせた鴉天狗の、下僕だったっけ」
「ほんま、坊は何でも知ってるんやね」
「そんなふうに溜息混じりに言われると、誉められているんじゃなくて馬鹿にされている気がするな、姉さん」
都佳沙は、居候がひとり増える旨を伝えに、紅子の部屋に赴いた。
すると、部屋の主は黒檀のような黒髪を背に流したまま、机に向かっていたのだった。
机の上には、古ぼけた巻物が一帖。
「ただの言い伝えや」
鴉天狗がいたと伝えられる時代は、平安。
下僕と伝えられた「汀」という鴉がいたのも、その時代だ。
現代の生きものではない。
「警察のひとたち、引き揚げたんだね」
後ろ手に障子を閉ざして、都佳沙が言った。
「渋々な。あんなん見せられたら、なんも言えへんやろ」
中空に浮く、ひと。
背に生えた翼や、時代錯誤な服装。赤の瞳。
妖の類と関わらずに生きている人々には、確かに異形のものだろう。
「姫が、押しかけてきたんだけど、平気? もう事後承諾になってしまうけど」
脈絡のない話を、宗家の嫡男が切り出した。
「姫が? ははん、さては一馬を追っかけてきたんやね、あの子」
「全く、どこにでもばれてるから面白いよね」
人形めいた端整な顔立ちに、都佳沙は少しだけ笑みを滲ませる。
「別にかまわんよ。今更ひとり増えようがふたり増えようが。変わらんわ」
ふふ、と笑いを零して、紅子は、広げられた巻物を巻き取る。
「何で今更、汀は榊を探しているのかな」
―――裏の御山に、それはそれは強い法力を持った鴉天狗が―――
巻物を巻く手を、紅子は止めた。
「何で、平安の化け物が、今ここにいるんだろう、おかしいね」
「めずらしく回りくどいやないの。はっきり言うたらええ」
再び巻物を仕舞う手を動かしながら、紅子は見透かしたように言う。
わずかばかり、都佳沙が黙った。
「…回りくどく聞こえたなら、謝るよ。僕もまだよく分かっていないから。だけど、こう予測はしてる。"誰かが意図的に喚んだんじゃないか"、とね」
そしておそらく貴女も、同じ予測をしているはずだ。
「うちは垣間見ただけや。直で見た坊の方が、よく分かるやろ」
「馬鹿だな」
「は?」
「馬鹿だな、と思ったよ。あの、汀と名乗った鴉を見たときに」
愚かだと。
木偶のようだ。
うまく思考が働いていない。
「自らの意思ではないんだ。榊を探しているのが。そうだな、催眠―――洗脳に似た感じかもしれない。"そうしなければならない"という強迫観念に動かされているだけだよ、おそらくは」
「まぁ、洗脳された木偶なら、誰かが後ろで糸引いたらな、あかんなぁ」
核心には触れず、すっとぼけたような口調で相槌を打つ。
こういうところがどこかの誰かに似ているのだと思うのだが、口には出さないでおいた。
都佳沙とて、命は惜しい。
「そんなことが出来るのなんて、よっぽど力を持った人間ぐらいだよね」
「何のため?」
「全部僕に聞くなんてずるいな。―――ただの推測だよ。今現在、この時間軸に榊なんて勿論居やしない。それなら、誰を探せと命じたのかなんて、すぐに分かる」
事実その人は、操られた木偶に押し倒されたわけだし。
「それこそ、何のために、や」
ふう、と吐息をついて、紅子は手にした巻物をぼんやりと見つめる。
蔵から持ってこさせた資料だ。
成瀬の起源、と伝えられる話が、そこには綴られていた。
「一馬を狙って、誰が得するんよ」
「それははっきりとは分からない。だけど、良し悪しは別として、今の宗家にとって、アキレス腱であることは確かなんだ。それを突付こうとするのはおそらく外部じゃないよね」
「内側から点いた火やって、言いたいんやね、坊は」
「もしそうなら、宗家の敵だし、宗家の敵なら、僕の敵だ。許さないよ」
「……で? 次期当主殿はうちもお疑いなんか?」
体の正面を都佳沙に向ける形に座りなおして、紅子は挑むように一回りほど年の違う嫡男を見据えた。
ぱちくりと、都佳沙は瞠目した。
予想外の攻撃を食らったらしい。珍しい驚きの表情を顔に浮かべて、それから小さく噴出した。
「まさか」
「何やの、その笑いは」
くすくすと笑いつづける都佳沙に、むくれたように紅子が反論する。
「もし姉さんが宗家に文句あるんだったら、こんな姑息な手なんか使わずに、直接怒鳴り込んでくるだろうから」
だから心配なんかしていないよ、と涼やかな笑顔で都佳沙はつけくわえた。
言い返すこともできずに、不服そうに紅子は黙った。確かにそのとおりではある。
「とにかく、もう少し調べてみなきゃ。じゃあ、姫が来たら、顔を出させるから」
いつもどおり、完璧な笑みを紅子に向けて、都佳沙は踵を返した。
「ほんまに、怖い子ォやね」
元通りに閉ざされた障子を見つめて、紅子が嘆息した。
*
窓を叩く、ぱちりぱちりという音が、次第に強く、はやくなる。
うな垂れていた首を持ち上げると、未だカーテンを引いていない窓の向こうは漆黒に塗りつぶされていて、鏡のようになった硝子の表面に、水滴が張り付いては下へと零れる。
道理で、暗いわけだ。
手前にあるテーブルに片手をついて、ソファーに沈み込んだ体を起こす。
「要」
背に感じていた気配に、声をかけた。
「なに」
そっけない返事だけが返ってくる。
互いに視線は合わせない。
雅と都佳沙が去った部屋には、いつのまにかふたりで取り残されていた。
「ごめん。まだ、平気だから」
「"まだ"、なんてさ、いつまで言ってるつもりなの」
背に、視線を感じた。
「本当に、死にたくないんだって、言えるの」
鋭い。刺さるように、強い。
糾弾を受けたのは、初めてだった。
「卑怯なのは、カズマのほうじゃないか」
声に苛立ちを滲ませて、要が言う。
「何も教えてくれないくせに、それで平気だって言われても、説得力なんてないよ。僕はそんなふうに、何も知らされずに甘やかされてたいわけじゃないんだ」
語調を荒げて、一気に吐き出した。最後にひとつ、深く呼吸をする。
「……本当は、どうしたいのさ」
建前でつくろわず、他人のことも気にせずに。
腹の奥に押し込めている本音があるのなら、吐き出せと。
背に刺さる鋭い目が云う。
目の前に広がる、漆黒の闇。
鏡のように内側を映し出す硝子越しに、視線が合った。
"本当は"。
「僕は……」
眉根が寄っている。泣きそうな顔をしている。
そんな顔、ここしばらく見たことがなかったな。
最近は凛と、逞しく背を伸ばしていたから。
「死なれたくないから、言ってるんだ、僕は」
好きで罵倒しているわけではないのだと、言う。
本音を言え、と。開いた距離と沈黙とが促す。
逃れる術は、どこにもなかった。
「…死にたくないと言ったのは、本当だ。でも」
言葉を切った。
弱味を、さらしてもいいものだろうか。
恰好をつけているつもりでも、体面を繕っているわけでもない。
言霊を、おそれている。
言葉に出して、認めて、それでも立っていられるのだろうかと、不安なのだ。
なんて脆弱。
鈍感でいたい。自らの感情に気付かずにいたい。
促す視線が背に。
一度、呼吸をととのえた。
「時々、なにもかも投げ出して楽になりたいときなら、あるよ」
雨脚が強くなったと思ったのは、沈黙が訪れたからだ。
「人の夢を、食べるからだ?」
幾分か和らいだ口調は、それでも、追及の手はゆるめなかった。
「どれだけ覚悟が足りないと罵られてもね、こればっかりはどうしてもね」
「そういうこと、全然言わないでごまかすからいけないんだよ」
いつもの悪態のような調子が、声に戻ってほっとする。
ここしばらくは、そんな他愛ないやりとりも出来ないほど空気が張っていたのだ。
からかうのもからかわれるのも、馬鹿にされることも、必要なのだ。
「恰好悪いからいやだよ」
「それで死んだら、ばかだよ」
ほとほとと呆れかえった溜息も、久しぶりに聞く。
少しばかり、可笑しくなった。
こんな他愛のないことで、なんだか気持ちが軽くなるのだから、なんて現金な生きものだろう。
「少し休むよ。姫が来るまでにもまだ時間はかかるだろうし」
「具合でも悪いの? さっきの?」
「少しね、だるいだけなんだ」
「寝たら、治るの? だから、寝てるの?」
「落ち着きはするよ」
無くなるわけではない。すこしだけ、なりをひそめるだけだ。
波のように寄せて、そしてまた引くだけだ。
零にはならない。
「あの、さ」
部屋を横切って、扉にまでたどり着いたところで、小さな声に呼び止められた。
今度は肩越しに振り返って、直に顔を見る。
「僕は銀の人間じゃないし、何がどうマズイのか分からないからさ」
気まずそうに、要が視線を外す。
「好きにすればいいと、思ってるんだ、本当は。……勝手に、何も分からないままいなくなって欲しくない、だけ。だから」
まばたきを忘れて、思わず要の顔を凝視した。
しばらくそうしていると、僅かに頬を紅潮させた要が、きっとこちらを睨んだ。
「寝るならさっさと行けば!」
叱りつけるように怒鳴って、ぷいっと顔を逸らした。
「……おまえにそんなふうに言ってもらえるのは初めてだな、と思って」
うるさいな、きまぐれだよ、と。
やけっぱちになったように要がぼやく。
こみ上げる笑いを押さえ込んで、ドアを押し開く。
「ありがとう、楽になった」
「どういたしまして」
棒読みが返ってきた。
3.
「おまえは全く本当にどうしてこんなに、突発的行動が多いんだ」
「なんか、それ、回りくどくてすごくイヤミ」
細い雨が降り出したのは、京都駅で、冬だというのに足を晒した気の強そうな女性を拾ってからだ。
後部座席に旅行用の鞄と一緒に乗り込んだ姫架が、類縁の男の苦言に口を尖らせる。
「来る前に連絡ぐらいできただろ」
「電話に出てくれなかったのは誰ですかねぇぇ」
膝についた両腕の先に顎を乗せて、姫架は車窓の外に視線を逃がす。
言い訳をせずに、雅は黙った。忙しさにかまけて着信を黙殺していたのも、事実だ。
「だってずるいじゃないのー! 一言も! 教えてくれなかったなんてー!」
「遊びにきてるわけじゃないんだぞ」
後部座席から運転席に掴みかかる勢いの姫架に、運転手は嘆息する。
「そりゃそうだろうけどさー、雅兄が京都にくるなんてー」
ぽすり、と浮かせた腰を再びシートに沈めて、姫架が拗ねる。
紅子姉と仲悪いもんねぇ、とぼやく。
今度は八つ当たりらしい。
「いいのか、おまえ。京都なんかに来て。彼氏は?」
ぶちぶち零れていた愚痴が、ぴたりと止んだ。
バックミラー越しに後部座席を盗み見ると、女子大生は不自然なほどに首を外に向け、貝のように黙り込んでいる。
「…おまえ、まさか」
「ぎゃー、最後まで、言わないで!」
頭を抱えて、姫架は後部座席で蹲る。
「どのくらい続いたの」
「…三ヶ月、ぐらい?」
ぐったりとうな垂れたままで、とうとう姫架が観念した。
「……」
「あからさまに、黙らないでよ、いじわる」
ぷくぅと、姫架は頬を膨らませて抗議する。
「おーまーえねぇ」
「わかってるから、怒らないで。反省してるから!」
「三人目でしょう、それで」
「……う」
「好きになれないんなら、付き合うんじゃないの。相手にも失礼でしょうが」
「だってぇ」
「なんだ、申し開きでもあんのか」
「仲良かったし、人として普通に好きだし、イケるかなーって、思ったんだ、もん」
漆黒に塗りつぶされた車窓にこてりと頭をもたげて、姫架がつぶやいた。
「好きに、なれるかなーって、思ったの。でもやっぱ、別だったみたい」
車窓に押し当てた耳に、さあさあと流れる雨音が聞こえる。
耳を澄ますように、姫架は目を閉じた。
「難儀なやつ」
「分かってますぅ。……あーあ、それなりに、楽しかったんだけどなァ」
こめかみに当たる、硝子のつめたさ。肌と硝子との境界が、徐々に、徐々にぬるくなる。
別物。
その好きと、この好きとは。
別の生態を持った生き物。自分では殺せない。
あきらめが悪い。難儀なやつ、とは自分でも思う。
「……もうやめるの、そういうの」
だって、どうしようもないことなんだもの。
「そうしなさい。自分を大事にしなさいよ」
「うん。そうする」
無視しても黙殺できないものならば。
どうしても眼前に立ちふさがるなら、別にそのままでいい。
そういうことにした。
自分で決めたなら、あとは顔を下げずに、歩くだけだ。
怖くない。
だいじょうぶ。
「雨、つよくなってきたねぇ」
耳を押し付けた硝子にたたきつける雨音がはやく、つよくなってきた。
閉ざしていた双眸をゆっくりと開き、姫架は、滲むテールランプをぼんやりと見つめて、つぶやいた。
*
―――おかわいそうに。
軒から滝のように雫が落ちる。
糸のように細かった雨が、今では大粒の雫がたたきつけるように強くなっていた。
庭の隅にわだかまっていた融け残りの雪が、徐々にその形を崩してゆく。
縁側でふと、一馬は足を止めた。
ぱつ、たた、つ。
すぐ傍を落ちてゆく雫。
足を止めたのは、視線を感じたからだ。
体の右側に、絡みつくような。
―――おかわいそうな、かた。
破られた結界は再び結ばれたはずだった。
妖は、入り込めないはずだ。
けれどそこに、雨に塞がれた向こう側、蟠る闇のなかに、気配がある。
やめておけ、と。
警鐘が鳴る。
関わってはいけない。
それと共に。
呼ばれていると、騒ぐ、内のこれは、血か。
源へ、招く指先。
おまえは何者だ。
この、うちを巡る血脈は、本当に妖のものなのか。
しゃらんら、しゃらんら。
囃せや、踊れ。飲めや、唄え。
遺された子の、行方や知れず。
裏の御山の、天狗の噺(はなし)。
(祭り、囃し……?)
雨音は、太鼓のよう。
はたと我に返れば、縁側から庭に降りていた。
軒を離れたとたんに、たたきつけるような雨に晒された。
―――どうして、汀を遺してゆかれたのです。
太鼓と、笛と、鈴の音。
飛礫(つぶて)で打たれるような、鈍い痛みが絶え間ない。
凍えるような冷たい雨だった。
―――おかわいそうに、そんなにも、弱られて。
髪が、服がすぐに水を吸って重くなる。たたきつける雫に目も開けていられない。
屋敷と外とを区切る塀の傍までたどり着くと、はらりと。
黒い羽根が落ちてきた。
「お探ししたのです。お会いしたかった」
羽根の落ちてきたほうを仰ぐと、高い塀の上に、人影があった。
綺麗に纏め上げた黒髪を肩から背に流し、紅の狩衣を纏い、蝋のような肌。赤の瞳。
注ぐ雨にさらされながらも、涼やかに、温度を感じさせずにそこに在る。
まばたきをした次の瞬間には、塀の上に女の姿はなかった。
「何度、夢に見たことか、こうして再び傅かせて頂けるのを」
足元から声が聞こえた。
慌てて視線を下ろすと、足元に跪いた紅の色。
面を上げ、下から見上げる紅の瞳は潤んでいる。雨の雫ではなかった。
「もう、汀を独りにはしないでくださりませ。榊様にお会いするためにわたくし、力をたくわえていたのです」
汀の白い手が伸びて、一馬の右の手を掴んだ。
痛み。限度を超えた冷たさが、肌を痺れさせた。
しゃらんら。飲めや、唄え。
瞭かな変化に、一馬は息を飲む。
意識がひととき遠のくほどの、眩暈。
鼓動がつよく、はやくなる。
皮膚の内側で、血が、悦んでいる。
触れた汀の手から、冷気が体に沁みてゆくのだ。
数ヶ月、体を支配していた重みが、薄れる。
うめきそうになるのを唇を噛んでやりすごし、汀の手を振り払った。
これは、食事だ。
乱暴に腕を払って、反動で後ろに下がる。
中途半端で"餌"を離した体の中で、物足りぬと暴れる凶暴な血。
今、この体は瞭かに、汀の手から何かを"喰って"いた。
「なにゆえです」
いたいけな幼子の顔を、汀がした。
物知らぬ子のような。あどけない仕草で首を傾げて、一馬を見上げた。
「遠慮など、なさらずとも良いのです」
困ったように笑いながら、汀が立ち上がる。
思わず荒くなった呼吸を整えながら、一馬は女の、いっそ無垢な瞳を見据えた。
「愚昧なものどもの血肉をわたくしが得て参ったのは、総て差し上げるためなのですから」
邪気もなく微笑む汀の唇が、やけに赤い。
「血、肉……?」
―――人を喰らう鴉、と。
連日京都を騒がしている猟奇殺人の犯人がそれだと、先程雅は言っていなかっただろうか?
無惨に腸(はらわた)を撒き散らされた亡骸は、皆一部が喰われていたと。
「喰った、のか」
問い掛けに、汀は凄艶に笑んだ。
「榊様のお為です」
潤んだ赤には、熱っぽさがあった。
酔ったように、高揚している。
伸ばされる手に、反射的に足を引いた。
貴方のために、人を、喰らって―――。
引き返せ、と。
声高に叫ぶ理性。
屋敷の中に戻ってしまえば、おそらく彼女も手出しは出来ぬだろう。
引き返せ。縁側はすぐ後ろだ。
尚も伸びた汀の指先が、左の腕を掴んだ。
ちくりと針で刺す痛み。爪。
振り払え、拒め。
指先すら、動かせない。
「拒まないでくださりませ」
太鼓のような雨音は、強さを増すばかり。
笛の音のような風が鳴った。
しゃらんら。
飲めや、唄え。
喰らいつけ!
(厭だ)
人の意識を、いのちを、糧に生き延びることなど。
許されないのだ。
女の腕は細い。それほど強く握られているわけではない。
振りほどける。
振りほどけるはずだ。
なぜ体が動かないのか。呪縛に遭っているのか?
(違う)
分かっていた。
この体が、切実に望んでいることを。
女の手から伝わる熱に、悦んでいる。
父を喰い殺したときと同じ。目の前に投げ出された餌に、貪欲に喰らいつこうとしている。
―――それじゃあ足りないんだろ、なら。
なら、喰らえというのか。
これ以上何も、奪いたくはないのに。
「やめてくれ……!」
石像になったかのように、指先すらも動かない。
動け。逃げろ。
これ以上は、奪うな。
「やめてくれ!」
裡に、叫んだ。
女にではなく、この血に。
血に棲むばけものに。
餌に悦んで喰らいつく、体。本能。
"歯止めが効かない"。
これが、本性だ。
性だ。
悦ぶ。
飲めや唄え。
踊れ。
「もう、独りにはしないで下さりませ。汀を、どうか、貴方様の」
女が一歩踏み込んで、こちらに身を寄せた。
「貴方様の、血肉にしてくださりませ」
ひとでいたいと望むことは、そんなにも過ぎた願いか。
生れ落ちたときから、もう既に遅かったのだろうか。
父を喰らわず、何も知らず、もがいて死ねたらまだ良かったのか。
「わたくしは、貴方様の力になれるのであれば、本望」
がくりと地面に、膝をつく。
急に力が抜けた。
もう、厭だ。
慈悲の笑みを浮かべて、汀が上からその体を包み込むように抱いた。
「総て、喰ろうて、くださりませ」
細い腕で強く、男の体を掻き抱いた一瞬に、風船を割るような渇いた音が、鳴った。
体を包む腕が、気配が瞬時に消えて。
一馬は顔を上げる。
汀の体が、こなごなに砕けた。
無慈悲な雨を落とす漆黒の空を仰ぐ顔に、濃い朱の驟雨が、たたきつけるように降り注いだ。
「馬鹿野郎!」
怒鳴り声で我に返ったとき、一体どこにいるのか分からなかった。
濡れた服が肌に張り付いて、気持ち悪い。
雨は既に上がっていたが、軒から雫が落ちる音が止まない。
「おまえこんなところで何……」
雅の、声だ。
いきり立っている。何故だ?
体に、力が入らない。
右肩を掴まれた。驚いたように体が震えた。
ぎこちなく首を捻って、肩を掴む相手を見上げた。
「……何があった」
愕然と、雅はこちらを見下ろしていた。
何、が。
責めるような視線から顔をそむけて周囲を見渡すと、分家の庭だった。
縁側からそう遠くないところに、座り込んでいたらしい。
体が冷たい。頭痛がする。
体が重くてだるいのは、飢えているせいか?
(……違う)
"もう飢えてはいないのだ"。
霞が、強い風で吹き飛ばされるような、錯覚を覚えた。
意識が、冴えた。
"何があったのか"。
思い出した。
「おい、一馬おまえっ―――」
取り乱して怒鳴る声を右側に聞きながら、俯く。
だらしなく投げ出していた両手を、持ち上げた。
視界に収めた両の掌は、赤黒い色で塗りつぶされていた。
濡れた髪から滴った雫が、顎に向かって落ちる。手の甲でそれを拭うと、それも赤い色をしていた。
強烈な寒さと震え、頭痛。
吐き気が一遍に騒ぎ出す。
"喰い殺した。"
あれほどまで騒いでいた飢餓感が、今はこの体にはない。
寒さも震えも、いたるところの痛みも。
雨に打たれたから、ただそれだけで。
この体は営みを続けている。貪欲に。
あさましく。
「雅……」
血に塗れた両の掌。それを見つめたままで、傍らの男を呼んだ。
醜く掠れ、震えた声が少し遠くに聞こえた。
赤く濡れた両手で、顔を覆った。
どうしようもできなかった。
理性がどんなに拒んでも、どうにもならなかった。
厭だと、やめてくれと口ばかりが叫んでみたところで、望んでいた。
望んでいたのだ。
餌を寄越せ。喰らいつき、噛み砕き、飲み下せ。
血肉に―――。
あの腕を、振り払えなかったのではない。
振り払わなかったのだ。
自分で。
「もう、殺してくれ―――」
第八話
夢喰い
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