八 影
1.
いつの間に寝たのだった?
仰向けに転がって、天井を眺めながらまず思ったのはそれだった。
昨晩の記憶は、ぶつりと途中で切れている。
夢も見ずに、またざっくりと睡眠から引き離された。
寝起き特有の気だるさを引きずったまま、上体を起こす。
障子を透けて染み込んでくる澄んだ寒さ。静謐さ。
零れ落ちてくる日差しばかり、ただ、きらきらしい。
長い間、この体を支配していただるさは、一体どこへ行ったものか。
今あるのは、ただ眠りすぎただけの体の重みだった。
どこに行ったものか、だなんて。
今更、目を逸らすなよと自嘲が零れる。
何も知らない顔を、気付かないふりを、もうしてはいけない。
右の掌を、持ち上げて、見下ろした。
掌の中央に、古い傷痕がある。
―――どんな生き方をしても、僕たちは苦しむように、出来ているんだ。
この掌に刃を突きたてた同胞(はらから)が、かなしそうに呟いた言葉を、どうして今更思い出すのか。
苦しまずには生きてゆけない。
そんなこと、もう重々知っているはずだったのだ。
生きてゆく以上、その苦しみを受け容れる覚悟なら、していたはずなのに。
生き延びる、ただそれだけのために差し出された餌に呆気なく陥落したことに、傷ついている。
なにもかもを投げ出してしまいたくなる衝動を強く強く、感じるのはこのようなときだ。
それにしても、殺してくれ、だなんて。
勢いだったとはいえ、相当なことを口走ったものだ。
けれどもあのときは本当に。
できることならば消えてなくなりたかった。
意志で押さえ込むことの出来ない我儘な体。
本能を。なくしてしまいたかった。
おそらく、殺して欲しいという懇願は、嘘ではなかった。
どれほど我儘と罵られようとも、全てを投げ出したい一瞬が、確かにあったのだ。
それはもしかしたら今も、たった今も尾を引いているのかもしれない。
死への衝動―――。
「おーはーよーうっ! もう九時ですよー!」
すぱん、と小気味いい音を立てて、障子が開け放たれた。
「いい天気なので、起床をオススメします」
声を弾ませて、この寒さにその薄着で大丈夫なのかと思わず心配になるような、七分丈のニットに短いスカート姿の美人が顔を出した。
「なぁんだ。目が覚めてるなら起きてくればいいのにー」
床の上で半ば起き上がった形の一馬を見て、不思議そうな顔をする。蜂蜜色の髪が背中に向かって流れ落ちていた。きょとんとする瞳の色が、今は灰がかった緑だ。
「姫……」
「ひさしぶり」
何事もなかったかのような、明るい挨拶だった。
昨晩のことなど、全く意識していないかのような。
「ほら、起きてー。朝ご飯が片付かないので! 要なんか、もう出かけちゃったよ」
銀姫架は、遠慮を払うように座敷に踏み込んでくると、一馬の片腕を掴んで引っ張った。
「いや、あの、姫……」
起きることに異存はない。
ただ。
今はとても何かを口にしようという気分ではなかった。
食、という概念を少し、思い出さずにいたい。
すると、姫架はあからさまに不機嫌そうな顔をした。
「そう」
拗ねたようにぼそりと、呟く。
「そぉですかー。へぇ、ふーん」
あからさまに気分を害したそぶりを見せて、わざとらしく感心するような声を出す。
一体何がそれほどまでに姫架の機嫌を損ねたのか判じかねて、一馬は黙る。
「一馬兄は、あたしが作ったお味噌汁なんぞ飲めるか、ってことなのね。分かった、よぉーく分かりました」
「あの、姫……」
「あーあ、きずついたー。きずつきました!」
掴んでいた一馬の腕をぽいっと投げ出して、肩を落とすそぶり。
「ええと、姫、ちょっと待―――」
「あーあ、せつないなぁ、女として!」
これ見よがしの大袈裟な溜息を落として、姫架はくるりんと踵を返した。
「いや、姫、そういうことじゃなくて」
立ち去る気配の姫架に、思わず立ち上がった。
「だったら、食べてくれるわよね」
恨みがましく肩越しに振り返って、姫架は念押しする。
なんだか無性に、可笑しくなってしまった。
そして唐突に気がつく。
これは、気遣いなのだ。
姫架のこの明るさは、沈殿しかける意識を引きずり上げる力がある。
「ご馳走になります」
こみ上げる笑いを抑えながら、答えた。
「よろしい」
すがすがしく、姫架が微笑した。
「じゃあ、あたし先に行って準備してるから! 早く来てよね!」
軽快な足取りで、姫架が、開け放ったままの障子の向こう、艶やかに光る廊下に出た。
放たれた障子の向こう側に見える空は、昨晩の雨が嘘のように青く眩しく、澄んでいた。
気がつけば、先程まで体を取り巻いていた倦怠感は、どこかへ。
「姫」
「ん?」
居間のある方向へ、歩き出しかけた姫架を呼び止めた。
障子の隙間からひょっこりと顔だけを出して、姫架が首を傾げる。
「ありがとう」
これだけは、言っておかなければと、唐突に思った。
僅かに目を瞠ってから、姫架は穏やかに笑った。
「どういたしまして!」
弾むような声で応じると、姫架は小動物のように、覗かせた顔を引っ込めた。
軽やかな足音が、ぱたぱたと居間のある方向へ遠ざかっていった。
「我儘だな」
つぶやいた。
死への衝動、など。
逃避願望など。
こんなにも甘やかされて、気を遣われている人間が、軽軽しく口にしていい類のものでは、きっとない。
投げ出さずに、逃げ出さずにいる責任が、甘やかされている分量だけ、あるに違いない。
繋ぎとめてくれる数多の手があるから、まだ。
まだ大丈夫だ。
駄々をこねている場合ではないのだ。
*
洋間の扉を開け放って、後ろ手に閉める。
そのまま、扉に背を預けて、深く息をついた。
ノブを握る手が、僅かにふるえている。鼓動が強く鳴っている。
一言でまとめるとしたらつまり、緊張した、のだ。
「はーぁ」
一際大きな吐息をついて、小さく笑った。
ちゃんと、平然とした顔をしていられただろうか?
今更になってこみ上げる頬の熱に、不安になる。
やっぱり違うなぁ、と思う。ここまでの息苦しさは、ここ数ヶ月味わったことなんてなかった。
なんだか嬉しくなって、口元が緩んでしまう。
どん、と背中に鈍い衝撃。背もたれにしていた扉が、向こう側から押し開かれようとした圧力だった。
「ああっ、ごめん!」
飛びのくと、今度こそ扉が開かれた。
「なにお前、つっかえになってるの。いたずら?」
「ちーがーいーますっ! ちょっと考え事です!」
「ドアにもたれかかって? 変な子だねぇ」
咽喉の奥でかすかに笑う気配。遠縁の親戚であるところの男は、姫架の額を軽く小突いた。
「寝てないでしょ」
びしりと人差し指を突きつけて、姫架は雅に詰め寄った。
少しだけ、呆気にとられた顔をしたあとで、雅が苦笑する。
「ばれた?」
「いつもみたくばっちり決まってません」
つまりは、雰囲気が弱っていると、姫架は言うのだ。
どんなに気を赦した相手にでさえ、一定のラインまでは繕って、常に余裕を見せる男であるはずが。
今日はその繕いがほころびているような気がする。
それはすなわち、睡眠不足ゆえの、気の弱りなのだろう。
「充血してると、かわいくないです」
「そりゃ困ったな」
軽口で、雅は応戦する。
「神経が繊細だからな、ちょっと考え事してたら眠れなくなってさ」
「……昨日の夜のこと?」
姫架が直球で訊いた。
遠縁の兄貴分は少しだけ黙る。
「まァね。考え事」
「私にも手伝えることとか、何かないの」
不安そうに、姫架が眉を八の字に下げる。
「お前はね、元気でいてくれたらそれでいいから」
「なにそれ」
「いや、今のタイミングでお前が来てくれたのは、正直助かったよ」
吐息混じりに、雅はつぶやく。
「私だって、ただうるさいだけじゃないのに」
不当な扱いを受けているような気がして、姫架はむくれた。
「お前が元気でいると、雰囲気も変わるんだから」
当人は気付いていないようだが、彼女の存在感というものは偉大だ。
かしましく、華やかである。
ともすれば際限なく沈みがちな人間たちの只中にあって、その華やかさは貴重だ。
事実、今と数日前とでは、この館の雰囲気は微妙に異なっているのだ。
「いいです、別に騒がしさ担当でも!」
拗ねたように、姫架が言った。
無意識の産物だから、尚更貴重なのだ。
「あ、そういえば雅兄さん、坊は? 今日まだ見てないけど」
すると、雅は痛いところを突付かれた顔をした。
「ちょっと放っておきなさい。今、少しへこんでるから」
*
始末しておけば良かった。
宛がわれた和室の、襖に背を預けてどのくらいの時間が経過したのか、分からないままでいる。
向かい合わせた障子が、夜明けの光を受けて輝いてから、どれほど。
体の奥に重みがある。不快な、だるさだ。
汀というあやかしの執着(しゅうじゃく)を、少しばかり甘く見ていたかもしれなかった。
昨日の昼間、結界を破って現れたときに、祓おうと思ったら祓えたのだ、おそらく。
それをしなかったのは、驕りだ。
ここが守られた屋敷であるということと、いざとなったら対処もできるだろうという、過信。
昨晩の、凄惨な絵を脳裏に呼び起こすと、自ずと唇を噛む動作になる。
豪雨に晒されて、すっかりと雪が解けてしまった内庭の、雪の下にひっそりと息づいていた緑を黒々とした赤に染め上げた、液体の、ぬめるような色は。
愕然と、その赤を見つめて、しばらく自失していたらしい。
我に返ったのは、年若い叔父の、強引に肩を掴むちから。
おちつけ、と。
低い声で凄まれる。
お前ばかりに責任があるわけじゃない。
ようやくそこで、痛覚が戻ってきて、掌のうちに爪の痣ができるほどに、拳を握っていた自分に気がつく。
昼間に、始末しておけば良かったんだ。
唇から、理性の検閲を免れた本音が、落ちた。
動揺していたらしい。
あの程度ならば、後からどうとでもなると、逃げるに任せたことが今更ながら悔やまれたのだ。
いいから、落ち着けよ、と。
叔父が声を荒げる。
怯まなかった。
落ち着いていないのは、貴方も一緒だ。
昨晩から、夜が明けてもずっと。
様々な言葉が渦を巻いて、頭の中を悩ませていた。
こんなに早く仕掛けてくるとは思わなかった、だとか。
再び施したはずの結界をどうやって破ったのか、だとか。
今になっては言い訳にもならない戯言ばかりだ。
今更ながら、この身の脆弱さをしらしめられる。
逃げるのはやめろ、と何度も戯言を振り払った。
驕りが招いたことだ。
うな垂れて、双眸を閉ざす。
目を抑えた。鈍く痛かった。
明確な懇願を、初めて聞いた。
殺してくれ、と。
それが、勢いで飛び出した言葉にしろ、本音には違いなかっただろう。
ふるえが、きた。
足元から駆け上るような寒さだった。
すぐ傍にいるはずの友人を振り返ることも出来なかった。
どんな思いで、彼はその独白を聞いただろうかと。
心中を慮ることすら、恐ろしかった。
これが、自らが招いたことなら、と幾度も絶望しかけて、頭(かぶり)を振るのだ。
起こってしまったことばかりを振り返って、沈んでいる場合ではない。
具体的にこれからどうするのかを考えなければならなかった。
責を感じるのならば。
―――お前は甘やかされるのが嫌いだろうから、放っておくから。落ち込むだけ落ち込んだら出て来い。
生まれた時分からの付き合いであるところの叔父は、さすがにこちらのことをよく知っている。
突き放されて、正直ほっとした。
あの時、撫でられでもしようものなら、再起不能になっていたかもしれない。
一晩鬱々としたから、そろそろ浮上する頃合だ。
次に顔を合わせたなら、とりあえず謝らなければと決めて、都佳沙は重い体を引きずり上げた。
このまま下がっては、腹の虫も落ち着かない。
不意打ちに噛み付いてもらった分の代償は、きっちりと払ってもらわなければならなかった。
2.
逃げるように出てきたような気がする。
特に行きたい場所があったわけではなかった。
とにかく落ち着きたくて、銀分家を出たのだ。
動揺していた。
夜が明けて顔を合わせたら、きっと必要以上に気を遣ってしまう。それは嫌だった。
落ち着け。
その言葉を、何度も何度も繰り返している。
僕が動揺しても、何にもならないじゃないか。
一日古都を歩けば、気分も変わるかと思っていたのだが、どうやらそう簡単には行かなかったようだ。
住み慣れぬ土地を目的もなく歩くのはつらい。
ふらふらしているうちに、見慣れた道に戻ってきてしまった。
時刻を確認しても、まだ夕方にも早い午後。
かといってこれ以上外で時間を潰す気にもなれなかった。
どんな顔をして会ったらいいのか、分からなかった。
何を言えばいいのかすら。
あんな直接的な言葉を聞いたのは、去年以来だ。
思ってはいても、絶対にこちら側には見せなかったのに。
―――もう殺してくれ。
櫛引の一件から、ずっと要の心のうちには問い掛けたい言葉が、あった。
死にたいのだろうか。
生きつづけることは、くるしいのだろうか。
その疑問の答えを、昨晩、聞いたような気がした。
まだ、大丈夫と言ったのは、こちらを心配させないための建前だったのかも。
どうしてほしいのか、要には、よく分からない。
苦しんでほしくはないと思う。
でも、死んでほしくはない。
それは、相反する望みだ。
あの男の苦しみの根源が、生きることにある限りは。
相反するような、このわがままを口にしたら、きっと。
困らせる。
困らせたいわけじゃない。
十三の頃のままではないから。
幼い頃は、困らせてばかりだった気がする。
自分のことで相手が困るのも、きっとうれしかった。
甘えだったのだ。見て、かまって、気に留めておいて欲しかった。
それだけでは。
甘やかされるばかりでは足りなくなったのは、いつの頃からだろう。
子どもとして扱われるのではなく。
守られるだけではなく。
享受するだけではなくて。
対等に、ありたいとか。思い始めたのは。
(だから、困らせたいわけじゃない)
きゃん、と小さな鳴き声が、足元から聞こえた。
はたはたと揺れる、茶の尾。
すこし離れたところに、犬が座っていた。
子犬。ちいさくて、愛らしい。
額のあたりに“つの”がある。
(茜ちゃんの)
彼女のそばにいる、異界の獣ではないのか。
要と目が合うと、ぱっと、その生きものは立ち上がる。
機敏に身をひるがえして、京分家のある方向へ走り出した。
高くひとつ、鳴いた。
呼ばれているのだろうか。
獣は、曲がり角のあたりで足を止め、要を振り返る。
きゃん。
促されるように、一歩。
やはり呼ばれているのだ。
素早く角を折れて、獣は見えなくなる。
急かされたようになって、駆け出した。
小走りに角に辿りつき、道を折れたところで、要ははたと足を止めた。
すこし離れたところに、黒塗りの高価そうな車が、左手側。京分家の、延々と続く塀に寄せられるようにして、停まっている。
車の傍らに、少女が立っていた。
獣は、少女の足元に駆け寄ってゆく。
茜、だ。
車の、後部座席。道に面した右側の扉が、開いた。
漆黒のロングコートを纏った男が、地面に足を下ろす。
見覚えがある。
(この間茜ちゃんと話をしていた―――)
そうだ、前にもこのあたりで茜と話をしていた男だ。
立ち居ふるまいに隙がない人だと、思った。
物腰に無駄がない。
無機質の気配がする。
なにやら話している様子だが、ここからでは声が聞こえない。
茜は―――身を堅くしているようだ。
ここから見てもはっきりと分かるぐらいに、茜の体が強張っている。
男の右手が、茜の肩を掴んだ。
こわばっている茜の体を、すこし強引に引き寄せた。扉の開かれたままの後部座席の方へ。
茜はたじろいだ。足が半歩、下がる。
ふと、男が顔を上げた。
濡れたような艶のある、黒髪の隙間。
無機質な、底の知れない瞳が、要を捉えた。
茜も、まるで倣うように振り返って、息を飲んだ。
男は、唇の端を引きずり上げるようにして笑った―――ような気がした。
かたまった茜の体を強く引いて、男は、彼女を後部座席に押し込んだ。
車の傍らで、けたたましく獣が吠えた。
その泣き声で、金縛りが解けた。
「茜ちゃ―――」
茜の押し込まれた車に駆け寄ろうとした刹那。
どっという鈍い衝撃に、視界が”ぶれ”て、暗くなった。
力の抜けた体が地面に、無防備に崩れる感覚だけを感じて。
意識はぷつりと、切れた。
*
「ご苦労」
悠嵩は、車に戻ってきた朝桐をねぎらった。
昏倒した、まだ顔におさなさの残る青年を、後部座席に運び込んで、朝桐はただ、「はい」とだけ答えた。
茜は、紙のような顔色をして、ふるえている。
茜の隣に押し込まれた青年は、後頭部を殴られたらしく、意識を失っていた。
「ご苦労様は君もだね、茜ちゃん」
脱力している要を、茜をはさんだ向こう側に見て、悠嵩はうすく笑った。
びくりと茜が身をすくませた。
「これで今日の目的は果たされたよ」
「どないするつもりなん」
震える声で、茜は悠嵩を問い詰めた。
「気になるのだったら、君もおいで」
誘いではなかった。
明確な、強要だった。
3.
昨日の出来事を。
あの奇妙な屋敷での出来事を、一夜明けて尚、赤城は飲み込めずにいた。
市街地への聞き込みという名目で捜査本部を出て、気づけば威圧的にどこまでも続く塀の傍まできていた。
銀一門。
旧くからつづく、巨大な一族。
源まで遡れば、平安の世にまで至るという。
集めた資料がどこまで信用に足るのかなどは定かではないが、目の前に延々と伸びる塀を見ていると、真実(まこと)のことのように思えてくる。
(化け物退治、か)
赤城は、道端に寄せた車内から、銀京分家の”囲い”を眺める。わずかに倒したシートに体重を預けて、胸中でひとりごちた。
銀という家は、代々、霊媒を生業にしているというのだ。
霊媒。それはつまり、幽霊や憑き物を落とす役割を担っているということか。
そんなもの、漫画や小説の中だけの存在と思っていた。
しかも、それを生業にする一族がこんなにも巨大で、現代社会に当然の如く存在しているということが、赤城には信じられなかった。
現実を見据えて、戦う仕事だ。
赤城は、刑事という仕事―――警察に携わるということを、そう捉えている。そう信じている。
理性、科学、常識。
それら全てを総動員して、真実を白日の下にさらす。闇にまぎれようとする犯罪を、光の下に引きずり戻す。
だからこそ、赤城にとってこの社会とは、理性と科学と常識とで全て割り切れるものと―――割り切れなければならないと、思っていた。
超常現象など、全て錯覚だ。
“まがいもの”だと、思っていた。
しかし、昨日。
赤城は自らの目で見てしまったのだ。
狩衣を纏った、真紅の双眼の女が中に浮いているところを。その女が幻のようにかき消えるのを。
まるで映画のようだった。
流行のSFやファンタジーのような。3D。
けれどもそれは、映画などではなく、”現実”だった。
そして赤城は、自分の信じていたものがなんだか良く分からなくなってしまった。
化け物がゆるされるのなら、警察なんてどれほど役に立つというのか。
人殺しも全てあやかしの所為。そう言われてしまったら、どうしようもなくなってしまう。
今回の「和製切り裂きジャック事件」だってそうだ。
証言者の目撃情報を信じるとすると、昨日の赤目の女が犯人ということになる。
それならば、警察の出る幕など、ないのではないだろうか。
急に肩の力が抜けたような気がした。
だからといって、ここにいても何かがわかるわけでもない。
心の整理がつくわけでもなかった。
(なにしてるんやろ)
嘆息する。馬鹿らしくなってきた。
「戻ろ戻ろ」
まるで言い聞かせるように呟いた赤城の、車窓の傍を、影が通り抜けた。駆け抜ける速さだった。
思わず目が、影を追う。
小柄な。少女か?
(銀の)
延々と続く囲い。その向こう側で、昨日見た少女だった。
長さの整えられた髪をひるがえすようにして、しきりにまわりを伺っているような動作をする。
そのまま十字路まで突き当たって、角を左手に折れる。
左側に曲がったところで、銀の高い塀は途切れることなく続いているわけだが。
何故か赤城は、少女が消えた角を見守るようにして、しばしその場にとどまった。
やがて、十字路の向こう側から、こちらに近づいてくる物体を見つける。
黒い点のようだった物体は、徐々に近づいてくるにつれて、焦げ茶のコートを着込んだ人影であると知れる。
赤城は目を凝らした。
見覚えがある。
やはり昨日、この塀の内側で見た顔だった。
少年を脱す頃の、それでもまだ青年とは言い切れないあやふやな境界にいる人物だった。ちらりと顔を見た程度だが、非常に整った顔立ちをしていたような気がする。本人は嫌がるだろうが、形容するならば「かわいい」という言葉が似合う気がした。
こちらのほうまで来るのだろうか。
ハンドルを握ったまま、何故か赤城は身構えた。掌の内側で、堅いゴムの感触がやけになまなましかった。
道端で、焦げ茶のコートが突然立ち止まった。何かに驚いたような仕草だった。
地面を、じっと見つめている。
何か落ちているのだろうか。
しばらくアスファルトを見つめたあと、彼は突然小走りに、先程少女が曲がった角を同じ方向に折れた。
その角を折れた先に、一体何があるというのだろう。
次の瞬間、赤城はハンドルを強く握った。
ゆらりと揺らめくように、黒い人影が右から左へ。赤城の視界を横切るように十字路を。
また少女や少年が向かった方向に黒い人影が滑り込む。
そこに、一体何があるのか。
赤城が車を降りたのは、おそらく予感だった。正体不明の、刑事の勘というやつだ。
音を立てないように車のドアを閉める。小走りに、それでも何故か気配を消して、十字路まで近づいた。
何をやっているのか。
自分でも良く分からなかった。
周囲をうかがって、影から路地を覗き込むなんていう動作をするなんて、まるで、犯罪者ではないか。
刑事なのに。
銀の塀に背を預けたところで、路地のほうからがつん、と鈍い音がした。
首を捻るようにして、赤城は路地を覗き込む。
黒が、いた。
黒い影は、スーツ姿の長身の男だった。
その手前で、何かがアスファルトに崩れ落ちた。
赤城は咄嗟に口元を覆った。
崩れ落ちたものを、男の手が引きずり上げる。だらりと男の腕から垂れ下がっているのは、焦げ茶色だった。
黒影はやがて、その焦げ茶を軽々と担ぎ上げる。
肩に担ぎ上げられた”それ”は、重たそうにだらりと垂れ下がっている。
たつ、と地面に一筋赤黒い糸が落ちた。
(血)
直感だった。
黒服は平然とした顔で、かわいらしい顔立ちの少年を担ぎあげ、歩を進める。
前方に、銀の塀に寄せるようにして黒塗りの車が一台、停まっていた。
男は、後部座席の扉を開くと、担ぎ上げていた少年の体を、車の中へ仕舞いこんだ。
身をかがめ、黒服が後部座席の内側と二言三言、言葉を交わした。
(車の)
赤城は、咄嗟に車のナンバーを確認しようとする。
これこそが、刑事のするべき仕事だ。
突然、黒服が顔を持ち上げ、赤城のほうを振り返った。
敏感に気配を察知する、野生のけだもののような動きだった。
反射的に、赤城は身を隠す。
バタン、と扉が閉ざされる音に、赤城は慌ててその路地に飛び込んだ。
黒塗りの車はゆるやかに滑り出し、遠ざかってゆくところだった。
すぐさま豆粒のように小さくなる黒い影を呆然と見送って、赤城はスーツのポケットから携帯電話を引きずり出した。
短縮ダイアルはすぐに、一課につながるようになっている。
《もしもし》
「オヤジさん」
服部が出た。
愛称を呼んだ己の声は、震えていた。
《なんや、赤城か。どないし―――》
「……い、です」
《なんやて》
「誘拐、です。銀の、家のすぐ傍で。男の子が頭殴られて」
携帯電話を持つ手が、ふるえている。
(おちつけ)
荒い呼吸を繰り返しながら、何度も自分に言い聞かせた。
咽喉元まで、たくさんの言葉がせりあがってきているのに、うまく言葉にはできなかった。
《落ち着け!》
耳元で、鋭く怒鳴られた。
それすらも、遠かった。
目の前で起こったことに、何ひとつできなかった。
今更ながらに、ふるえがきた。
自分にできたことは、覚えていたことは―――。
「車は、ここいらのもんではなかったです。八王子、て。東京ですよね」
車のナンバーだけだ。
4.
頭が重かった。
うな垂れて、目頭を押さえる。
飢えは引いたはずなのに、この体は一体何が不満なのだろう。
洋間のソファーに、一馬は沈んでいた。
庭に面した、大人の身の丈ほどある窓に、背を向けていた。
日暮れには、まだすこし早い。屋敷の人々は皆忙しいのか、母屋から離れた洋間へ立ち寄る者はいなかった。
こうしていても、仕方がない。
コーヒーでも淹れることにしよう。何かしなければならない。
ソファーと同化してしまったような体を引きずり起こして、半ば無理矢理に立ち上がった。
「無様なことだ」
背に声がかかった。低く、落ち着いた男の声音だった。
強烈な冷風が、背後からどうと押し寄せる。
窓は閉まっていたはずで、そこには誰もいなかったはずだ。
気配も、感じなかった。
ソファーから立った体勢そのままで、一馬はそこに立ち尽くした。動くことができなかった。
圧倒的な存在感に圧されて、気配のつめたさに絡め取られて、指先すら動かせなかった。
嫌な汗がこめかみから顎へ落ちてゆく。
「嘆かわしいことだよ、いくら薄まったとは言え、おまえの体の内には、紛うことなく私の血が流れているというのに」
声は、薄く笑っていた。
しかし、根底には彰かに残虐さがにじんでいた。肉食獣が捉えた獲物を前足で弄ぶような、相手を完全に掌中にとらえているからこそできる戯れだった。
「わたしの、血、だって?」
それだけ訊きかえすのが精一杯だった。
心臓が、襤褸雑巾のように絞られる錯覚を覚えた。ぎゅう、と。締め上げられる圧迫感。
ほとんど何も入れていない胃が、気持ち悪かった。
鼓動だけが速くなり、その速度に体がついてゆかない。眩暈がする。
息苦しい。
「私はおまえの源。あまねく事柄の、はじまり」
氷付けのようになった首をなんとか捻って、一馬は窓のほうを振り返った。
圧倒的な気配を。吹き付ける冷気を。
真紅が、こちらを見ている。
美しい男がそこに、立っていた。
氷のような男だった。
山伏のような衣を纏った男の、肩に流れ落ちる髪は、光をこぼすような見事な銀だった。
背に、漆黒の翼が生えている。
向き直ったまま硬直した一馬に、可笑しそうに口元をゆるめる。
「化け物に遭うたような顔よな」
笑みは凄艶だった。凍りつくかと思うほどに、おそろしくてまた、美しかった。
身じろぎすらできない一馬に、男は右の指先を持ち上げた。
爪が鋭く、長い。
持ち上げられた指先は、真っ直ぐに、一馬を指し示した。
「私は、おまえが”そこ”に飼っていたもの」
頤を持ち上げ、まるで見下す体で、男はつぶやいた。
一馬は思わず、指し示された場所を見下ろす。
左胸。
「私はおまえの裡から、出てきたのだよ」
冷たい声が、無慈悲に告げた。
第九話
夢喰い
TOP
NOVEL