六 顕 現


1.

「何さがしとんの?」
 倉の中にいた。二回に続く木造の階段に腰掛けていた。膝の上に乗せてあった書物から顔を上げる。
 声の主は、倉の入り口に立っていた。逆光で顔は良く見えない。けれど、背格好から誰か知れた。
「ちょっと、調べ物。茜ちゃん、どうしたの?」
 腕時計に目をやってから、要は腰をあげる。
 気づいたら夕方になっていた。どおりであたりが薄暗い。
「一日中倉におるから、気になったんよ」
 ぼそりと茜は呟いた。
 ありがとう、と。要は礼を言った。
 数日前、茜の足元に擦り寄る異界の獣を見てから、要と茜の距離はあきらかに縮まっていた。
 紅子以外の人間には決して自分から寄りつかない茜なのだが、要とは時折このように言葉を交わす。
「昔の文献をちょっと」
 自由に見てもいい、と言われた倉の所蔵物。数日間捜索して、ようやっと見つけた文献をぱらぱらと捲っていたのだが、どうにもこうにも色々と参考にするものがなければ読めそうになかった。
「むかしの」
 茜が鸚鵡返しにした。
「夢喰いの文献をちょっと、ね」
 古ぼけた冊子を少しだけ掲げて見せて、要は倉の出口に向かう。
「夢喰い、て、一緒におる人?」
 上目遣いに要を見上げて、茜は訊いた。
 そうだけど、それがどうかしたの?
「……あのひと、怖い」
 要から視線を逃がすようにして、ぼそりと茜が零した。
 言葉を失って、要は二度ほど瞬きをした。
「こ、わいって、カズマが?」
 ようやくそう訊き返せたのは、少しの間をおいてからだった。
 要から視線を逃がしたままで、茜が首肯する。
「何も怖いところなんてないよ。ぼーっとしてるしさ、茜ちゃんの勘違いじゃないの?」
「だってあのひと……笑ってるのに笑ってへんみたいやもん」
 拗ねたように、茜はそれだけ零した。
 咄嗟に、返す言葉が見つからなくて、要も黙る。
 そんなことないよ、と。笑顔で撥ね退けられなかったのだ。
 闇を、感じたことがないわけではない。
 むしろ、その闇と常に隣り合わせに在るのだ。紙一重で、背を重ねている。
 寝食を共にしていても、踏み越えられぬ境界を常に感じている。立ち入れぬ、闇の底をだ。
 卑怯だ、と。思うこともある。
(僕は全部、晒しているのに)
 それが子どもじみた我儘だということも、勿論分かっている。
 理解していても、くやしいものはくやしいのだ.。
(みずくさい)
 容易く割り切れないことだとは分かっていても、そう思ってしまう。
 ひとりで全てを背負おうという”きらい”がある。
 性分だ、と言われてしまうと反論もできないけれど。
「どないしたん」
 黙りこんだ要を、下から茜が覗き込んだ。
 すっかりとひとりで考えこんでいたことに気がついて、はたと我に返る。
「なんでもな―――」
 仕舞いまで言わずに、要は口を噤んだ。
 茜が両耳を押さえる形でしゃがみこむ。

 大きな硝子を思いっきり叩き割ったようなけたたましい音が響き渡った。
 物理的なものではなかった。神経に直接刺さるような、鋭い音。
 ざらりと、肌をなまぬるい風がなでてゆくのを感じた。
 屋敷の中の、風の流れが変わった。

 “何かが破れた”、と。
 気付いた瞬間には、もう駆け出していた。薄暗い蔵を飛び出して、なまぬるい風の風上に向かう。なぜだか分からないが、出所は分かっていた。
 中庭、だ。


            *


 こうもあからさまに、刑事という役職を体現していて果たしていいものだろうかと、銀雅は思う。
 テーブルに向かい合わせて座った三人は、背中に「刑事です」と張り紙をしているように、まごう事なき刑事だったのである。
 スーツ姿に、どことなく滲み出す剣呑な雰囲気は、テレビドラマなどですっかり植え付けられたイメージと全く違わない。
(バレバレだ)
 むしろそのぐらいの方が、いいのかもしれないと考えを改める。
 わかりやすくて。無言の圧力にはなるかもしれない。
 対面したばかりの相手を分析してしまうのは、癖だ。幼い頃から刷り込まれた、どうしようもない癖。
 見定める。
 相手の力量を。上か、下か。有害か、無害か。有益か、無益か。
 霊媒という、世間とは溶け込めぬ家に生まれたときから、ひとりで立って、生き残ってゆくことは定められていた。活路は、己で見出さなければならない。
 大筋からは離れたとはいえ、雅もまた、結局は宗家の人間だった。
 この癖は、厄介にも年若い甥にもしっかりと継がれている。時折そのような目線で値踏みされるのだけは、止めてもらいたいと心底願うわけではあるが。
 頭の内側がこんなふうにごちゃごちゃとうるさいのはつまり。
 手元に気分を紛らわすための合法ドラックがないという理由で。
 先程、一本引きずり出そうとしたところで、犬猿の仲と呼ばれるこの家の当主に「みっともないやろ」と、ジッポを取り上げられたのである。
 懐に煙草だけ残るという”おあずけ”のくるしみを、嫌煙家は知らないのだ。
 どうせなら一緒に取り上げてくれ、と思う。
 そうしたらこんなふうに、手持ち無沙汰に任せて相手を値踏みすることもないだろうに。
 一種の緩衝材なのだ。有害な煙を摂取するのは。
 ドラッグなんぞに頼らずに済む逞しい人間には、どうにも理解されないらしい。この逃げ道は。

 居並んだお客人三名。中央に座るのは、いかにも古株と言った面構えの五十がらみの男だった。「オヤジさん」と呼ばれている手合いだろう。
 左右に従えているのは、いたって無表情の、底の読めないような男だった。二十代も下る頃だろうか。もう片方は、落ち着きのない小型犬という印象だった。学生をまだ脱皮していない。
(奇妙な取り合わせというかなんというか)
 来訪者たちの値踏みを一段落させて、雅は左隣に視線を流す。
 京都分家の当主は普段どおり泰然と、凛と背を伸ばしている。その端正な面立ちは、黙っていても苛烈さを漂わせていて、そこらへんの男ならばまず気圧される。
 ただの男勝りだ、と。見慣れた男としては思うのだが。

「今日は、どんなご用件でっしゃろ」
 きつく引き結んでいた赤い唇をほどいて、紅子が切り出した。
 伏せていた面を持ち上げ、来客をまるで威嚇するかのように見渡した。
 警察とはいえ、アポイントメントもなしに乗り込んでこられた不快感を、体中から発している。
 そもそもは、相容れない者同士。警察ならば、認めてはならないはずだ。異形のものの存在など。
「てっきり追い返されるもんかと」
 口の端だけを持ち上げて、中央の男が笑った。
 紅子が、柳眉をひそめた。続いて、盛大に溜息を零す。
「服部はん、何度も言うてますやろ。厄介ごと全部ここに持ち込まれても困るんです」
「それにしては随分と応対が早かったようやけどな、銀の姐さん」
(へぇ)
 傍観者に徹していた雅は、心中で感嘆する。
 なかなかやる。
「尋問されてるみたいで嫌やわ」
 軽く、紅子が皮肉めいた物言いをする。
 服部は、小さく肩を竦めた。
「京都の分家はこんなふうに刑事さんと頻繁にジャレあってるってことなんですかね?」
 思わず横から口を挟んでしまった。
 言葉でのやりとりは嫌いではないが、時と場合がある。
 人を喰らう鴉。
 そのキィワードには引っかかりを覚える。
 話が遅々として進まぬのは、苛立つ。
 雅、と横から諌める声が聞こえるのものの、構ってはいられなかった。
 他人事ではない。
 むしろその話題は、こちらの領分であるかもしれぬ。
 するどい剣呑な眼差しが、ついと雅に向いた。
 “誰だ手前”と目が訊いている。
 面だけ営業用の笑みを浮かべて見せた。
「失礼。地方のことにはなるたけ口を出さないようにしてはいるんですがね。圧政は敷きたくないですし。ただ少しばかり、じゃれあいが過ぎるんじゃないかと。ただの若輩者の戯言ですがね」
 服部が、僅かに目をほそめる。
 路傍の石を、ひとりの存在と認めた変化だった。
「アンタ横から口っ……」
「さぐりあいもいいんですけどね。冷静に茶ァ飲んでる場合なのかって訊いてるだけなんですよ、俺はね。最初にそちらさんが提示してくれたキィワードでなんとなくこちら側も察しはついてるんですが、察しがついている通りなら、こんなふうに面つき合わせて座ってる場合かってことです」
 他に口を挟ませぬ勢いで一気に吐き出してから、雅は冷えた茶を煽る。
「ひとが死ぬんなら、一刻を争うんじゃないのか」
 視界の端で、犬っころのような若い刑事が息を飲んだ。
「……多発してる、切り裂き事件を知っとるやろ」
 服部が、声を低めた。
「犯人まだ捕まってないそうですね」
「目撃者が出て来てな」
 あからさまに警察を無能と責めるような雅の皮肉もさらりと流して、服部は話をすすめる。
「大きな鴉が死体を啄ばんどったらしい。目撃者に気付いたら振り返って、ひとの形に変わったそうや。資料館にあるような、男の狩衣姿やったらしい。髪が黒くて、目が赤」
 暗記した文句をそらんじるように続けながら、服部が服の内から煙草のソフトケースを取り出した。
 無言で、雅は左側に掌を差し出す。
 むすっとしたまま、紅子が鈍い銀に光るジッポを手渡した。
「まぁ、普通に考えたらありえん話やけど」
 煙草の先に火を灯す、その僅かな沈黙を置いてから、再び服部が口を切った。
「切り裂きの犯人が死体を喰ってるってことは、まだ公表しとらんから、デマカセと突っぱねるのもおかしい話やし。助言を賜ろう思うて来てみれば、なんか知っとるな」
 右の親指でジッポの蓋を開いて、雅は俯いたままで視線だけを持ち上げる。
「あんたらのカードを全部見せてもらってから。話はそれからだろ」
 慣れた手つきでジッポに火を灯し、雅は乱暴に先を促した。
「まだ何か、隠しているんだろう」
 頤を持ち上げて、雅が双眸を細めた。
「敵わんな」
 服部が首を竦めた。降伏の仕草だった。
「取引はフェアに、ね」
 冗談のように、雅が紫煙と共に吐き出した。
「死体の傍に必ず血で書いた文字が残されとる。”起源の理”とな。あと、このことばに聞き覚えはあるんか。”サカキ”―――」
 危険を察知した野生のいきもののように、雅が首をめぐらせた。
 とざされた、障子の向こうを見ていた。
「紅子」
 鋭く、当主の名を呼ぶ。
「分かっとる」
 珍しく声に焦りを滲ませて、紅子が腰を浮かした。
「結界を、破ったモンがおる」



2.

 女の赤い瞳に飲まれてしまいそうになる。
 まばたきすら忘れてその血のような瞳を見つめていると、唐突に、女の体が引き離された。
「離れろ、妖……!」
 鋭く、少年の声が叫んだ。その声で、唐突に現に引き戻される。
 急に呼吸を取り戻して、噎せた。
 突如現れた化け物と自分との間に割って入ったのは、都佳沙だった。
 女は地を蹴って後方に飛び上がった。中空に浮かび上がって、左肩のあたりを押さえる。
 真紅の瞳に怒りを燃え滾らせて、都佳沙を睨みおろした。
「銀のっ、犬めがっ……!」
 都佳沙に掴まれたらしい左肩を庇うようにして、女が吐き捨てた。
「結界を破って入ってくるとは相当な力を持っているようだが、ここは霊媒を生業とする家だ。単身乗り込んでくるのは、あまり賢いとは思えぬ」
 背後に一馬を庇うようにして、都佳沙がきっぱりと言い放つ。
「この人に危害を加えることは、銀を名乗るものとして断じて許すことはできない。去れ。二度と現れるな」
 ぐぅと咽喉を鳴らすようにして、女は都佳沙を睨む。
「結界を破ったとはいえ、この屋敷の霊気は貴様を蝕む。望みならば、もう一度触れてやっても構わないが?」
 漆黒の双眸に冷気を孕ませて、都佳沙は中空に浮かぶ狩衣姿の女を見上げる。
 都佳沙が触れたらしい左肩が、まるで焦げたように黒ずんでいた。
「許さぬ、許さぬぞ霊媒師!」
 美貌を歪ませるようにして、女が醜く叫んだ。
「榊様を絡めとり、従わせようなど、決して許さぬ! いずれ、思い知らせてくれる!」
 声高に叫んで、女の体がぱっと、黒い羽根になって、散った。


「……。大丈夫ですか?」
 女が散って消えた空をしばらく睨んでから、都佳沙は肩越しに振り返る。
「あ、ああ」
 都佳沙の呼びかけに我に返って、一馬は頷いた。
「ごめん、都佳沙くん。ありがとう」
 呼吸を整えながら、礼を言う。
 目を瞑ると、目蓋の裏に爛と輝く女の赤い瞳が焼きついている。
 かすかな痛みを感じて左胸のあたりに手を置くと、濡れた感触が指先に絡んだ。女の立てた爪のあと。掌を眼前にかざすと、赤い色がまとわりついていた。

 サカキ、と。
 女はこの身に爪を立てて呼んだ。
 榊。
 それは起源の名だ。
 この血の、呪いの源。
 平安の世から続く成瀬の家の、祖と伝えられる、ばけもの。
 世を荒らした、山の主。鴉天狗。
 たとえこの身に宿るのが妖(あやかし)の性であろうとも、
 実感はなかった。正直なところ。
 はらり、と。
 風に弄ばれて、黒い羽根が落ちてきた。
 あの女の、名残。

―――お会いしとう御座いました。
 邂逅をなつかしむ顔をしていた。
 赤く燃えるような瞳がそれでも、潤んでいた。
 悦んでいた。おそらく。
 何がそれほどまでに、妖の血を悦ばせるのか。
 この身の、何が。
(ちからか)
 冷たい如月の風にさらされ、指に絡んだ血液は既に乾きはじめている。黒ずんだそれを親指と人差し指の先で擦って、胸のうちで独白した。
 力、か。
 血で継がれた呪いの証がか。
 喚(よ)ぶのか。眷族を。

「一馬さん」
 清浄な声音が、沈殿してゆく意識をつなぎとめた。
「具合でも悪いですか」
 白い手が、差し伸べられた。
「ひどい顔をしているかな?」
 苦笑が頬までせりあがってくる。
「顔が、紙のようです。少し中でやすんだほうがいい」
 血で穢れていないほうの手を、差し伸べられた掌に重ね合わせた。
 立ち上がるのに、他人の物理的な助力は要らなかった。
 ただ少しばかり、温度が要った。
 彼の放つ空気は、いつも涼やかで清浄で潔い。
 それは若さなのだろうか。違うだろう、これから年月を経てもおそらく、彼は凛と立つ。

「今のはなんだ」
 鋭利な刃物のような声が飛び掛ってきたのは、ようやく一馬が立ち上がった頃合だった。
 渡り廊下の先に、無数の人の気配がする。
「遅いよ」
 恨みがましく、都佳沙が鋭い声の主に言った。
「急ぎはした」
 短く、雅が応える。
 偽りはないようだった。息が乱れている。
 雅の背に、多くの気配を感じた。
 この屋敷にいるものは多かれ少なかれ、鋭敏な感覚のアンテナを持っているので、この異変に気がついたのだろう。
 いわゆる、結界をぶち破っての、侵入。
 異物がまざりこんだということに。
「そんなにヤワなのか、この家の結界とやらは」
「阿呆、そんなわけないやろ」
 あからさまに呆れた体で雅が溜息を落とすのに、後方にいた紅子が噛み付いた。
「八つ当たりはよくないよ、兄さん。ここの結界が強固なことぐらい、分かってるはずだろう」
「分かってるよ。くそ、なんだあの女、鴉か。……おい一馬、平気か」
 相対した都佳沙の向こう側に向かって、雅が声を放った。四方八方から受けた集中砲火の逃げ口にも見えたが。
「あ、ああ。大丈夫だ」
「なら、顔貸せ」
 語尾に被せる勢いで、強く、雅が言った。
 先程までの慌てた気配はすっかりとなりをひそめて、鋭さだけが在った。
 逃げ道はなかった。

 生ぬるい風は、既にそこにはなかった。
 あるのはただ、しんと底から冷えた冬の澄んだ空気だけだ。
 雅たちに少し遅れてたどり着いた要は、口も挟めずにその光景をただ、見ていた。
 駆けつけたのは雅と紅子。見たことのないスーツ姿の男たち。そして茜と要だった。
「茜、ちゃん?」
 ふと、手前にある小さな体に声をかけた。
 不自然なほどに体を跳ねさせて、茜が肩越しに要を振り返る。
 顔が、紙のように白い。胸の前で握り合わせた指先が、震えていた。
「大丈夫……」
 伸ばされた要の手を振り払うようにして、茜は踵を返した。
 足音高く、来た道を駆け戻る。
 はたかれた手に軽い痛みを感じながら、要は遠ざかる背中を見送った。
 怯えていた?
 どうして。



3.

「俺の質問に正直に答えろ」
 面貸せ、と引きずられてきたのは、洋間だった。
 刑事の面々は勿論のこと、紅子までも完全にシャットアウトして、室内にいるのは居候の身分の四人だけだった。
 おまえはここに座っていなさい、と。窓際に一組、向かい合わせて置かれた応接用のソファーに、一馬は押し込められている。
 向かい側。窓を背にして、まるで被告人を断罪する裁判官のような面構えで、雅がいる。
 都佳沙は窓際の壁に背を預けるような形で、立っていた。
 部屋の隅で、要は茶筒の蓋をはずす。なんとなく座っていられなくて、いつものようにお茶汲みをしている。
 おそらく緑茶など、誰も消費はしないし需要もないのだろうけれど。
 気を紛らわすための、手段だ。
 おそろしいことが待っているかもしれない。
 予感がした。
 漠然と、靄のような不安はあったけれど、それが明確な形で突きつけられるのが怖い。
 そしておそらく、予感は的中するのだ。
 ほうほうと湯気を上げる、沸騰中のポットの前で、要はなるたけお茶汲みに集中しようとした。少しでもダメージを減らそうとした。
 無駄な足掻きだ。耳はしっかりと、ソファーの方に向かって神経を張っている。
「自覚してるんだろう」
 雅の追及は、鋭かった。
 いくらのらりくらりと逃げるのがうまい男でも、目の前にこんなふうに立ち塞がられては、逃れるわけにも行かないだろう。
「いつからだ」
 畳み掛けるように、雅が言葉を継ぐ。
「いつから、断ってる」
「断ってはないさ」
 追求から視線を逃して、容易く一馬が答えた。
「ならなんでそんなにダルそうにしてるわけだ?」
「おまえは卑怯だ」
 自嘲じみた笑みをひらめかせる。珍しい顔だった。声の響きに、要は思わず急須を置いた。
「おまえの方こそ、正直に言えよ。謎かけみたいな言い回しをするなよ」
 都佳沙はついと、窓の外から室内に視線を戻した。向かい合わせに対峙しているふたりから、部屋の隅で金縛りに遭っている要のほうへ。

 明確な答えなど、この部屋にいる人間は皆、わかっている。
 掴んでいる。
 確かな言葉にすることをただ、恐れているのだ。
 眼前に突きつけられることが、ただ怖い。

「メシが足りてないんだろうが」

 苛立つ口調で、ためらいを振り払う強さで、境界を越えたのは雅。
 都佳沙が、ふと双眸を閉ざす。
 未だ緑茶の一杯も生産できていない要が、息を詰めた。
 いきぐるしい沈黙がしばらく続いてから。

「そうだよ」
 諦めたような肯定が、こぼれておちた。


            *


 通い慣れた日本屋敷で呼び止められたのは、今から一月ほど前の話だ。
 ポットが上げる湯気の熱気を、まるで膜を隔てた向こうのことのように感じながら、要は思い出す。
 雅の父で、都佳沙の祖父。銀一門の、元当主。
 さまざまな肩書きを持つその人はまた、要の指南役でもあった。
 銀斎。
 嫡男であった都佳沙の父、始に当主の座を譲って後も、事実上の一族の長だった。
 全くもって突然変異の、”おかしな”力を持つ要に目をかけてくれたのも、彼だった。

 近頃一馬に、何か変わった所はないか。と。
 要を私室に招いて、斎は訊いた。
 包み隠してくれるなと、逃げ道を断って。
 変わった、ところ。
 鸚鵡返しにした。質問の意図がいまいち掴みきれなかった。
 なんだろう。
 ただ寒気がした。冬の寒さではなくて、体の中心がつめたい。
 慣れぬ正座でさらに身を竦めて、要は斎の言葉を待った。

―――櫛引の一件から。

 響く、低い声で斎が沈黙を破った。
 要はさらに体をこわばらせた。判決を待つ気分だった。
 自分が責められているわけではないのに。
―――おそらく”あれ”の力は、増している。
 あれ、という代名詞が指す相手を、要はよく知っている。知っているはずだ。
 うな垂れて、頭上に斎の声を聞いていた。今返せる言葉は何もない。

―――夢喰いの力は、ひろがろうとする。その性はやはり妖なのだよ。同胞と触れ合えば、ふくれあがるのだ。
 仕組みは、何度も聞いた。さまざまな口から説明を受けた。
 本人から聞いたことはないが。

 力が強くなると、一体どうなるんですか。

 斎の目を見る勇気もなく、俯いたままで要が訊いた。
 遠巻きな理屈や謎かけのような言葉は、余計恐怖を深めるだけだった。
 具体的に、どうなるのだ。
 何を見ることになるのだ。これ以上。
 あの男の痛みを、見せ付けられるのか。
(もう十分じゃないか)
 十分だ。

 死にたい、とは。口にはしない。
 けれどもあの男がいつも顔を向けているのは、滅びだ。
 その闇は、見える。見えている。今も。
 自分の幸福など、除外してしまえるから。
 省いてどこか遠くへ、棄ててしまえるから。
 だからあの男は他人にやさしくできるのだ。
 自分を殺してしまえるから、他人に伸べるぶんの手を持っている。
 その危うさに、幼い頃は気がつかなかった。
 飢えていたからだ。
 貪欲に、与えられるものは全て欲しがっていた。享受するだけの。
 折った膝の上で、要は気付いたら、白くなるほど拳を握っていた。

 降り注ぐ、冷たい雨の音を、鼓膜の傍に聞いていた。
 あの夜。
 体中を痛いほどの雫にさらして、たどり着いた荒れた屋敷跡。
 櫛引の敷地の中の、古ぼけた蔵のうちから。
 聞こえたのだ。

―――もう疲れた。

 愕然と、その声を聞いた。
 絶望を。
 なくしてしまう、と。
 本能的な恐れで、叫び出しそうになった。
 ゆるせなかった。
 相手の事情や底のない悲しみなど、どうでもよくて。
(おまえが僕の手を掴んだんじゃない)
 急に我儘になった。
 離してなど、やらない。どこにも行かせない。
 おまえのせいで皆が必死になってと、正論をぶちまけたように言って、相手を責めても。
 本当はただ。
(僕が)
 どこにもやりたくなかっただけだ。
 子どもの駄々と何も変わらない。泣き喚いて取りすがって、ひきとめた。
 一言も、責められたことはない。
(おまえの意思を無視してひきずりもどしたのに)
 何も言わなかった。
 せめて、口汚く罵られたりしたら、分かるのに。

―――僕は、カズマが一体どうしたいのか、分かりません。

 白旗を揚げるのは、くるしかった。
 まだ守られている。見せてもらえていない。底を。
 一体いつまで、撫でられて過ごせばいい。そんなのは、もう。
 もう厭だ。

 要、と。
 労わる響きで斎が呼んだ。
 具体的な説明など、本当は要らなかった。
 力が強くなるということがどういうことなのか、少し考えれば分かる。
 ほんもののばけものに。
 為る。そういうことだ。

 ころすんですか。
 きっと顔を上げて、要は斎を睨んだ。
 視界に膜がかかっている。きっと向こう側から見たら、瞳が飽和状態まで潤んでいるのが見えるはずだ。凄みの威力はない。
 また、駄々をこねる子どもになっている。
 泣き叫べば許されるわけではないと、もう知っていても。
 退けなかった。
 斎は表情をかえずに、要を見つめ返した。目は逸らさなかった。

―――最悪の場合は、そうなる。

 正直に、斎が言った。
 厭だ。
 悲鳴のような叫びが、響いた。
 自分の声だった。
 咽喉が鳴った。
 うまく酸素が吸えなかった。
 胸が圧迫されて、くるしい。
 そんなのは厭だ。

―――させない。そんなこと。
 生ぬるい雫が頬を伝って、零れてゆく。
 ただの我儘を、口走った。

―――おまえに何ができる。
 残酷に、斎が問う。
―――何もできないに決まってるじゃないですか! でも、それでも、何もできなくたって……。
 抗いたい。
 たとえ侵食を止められなくても、どうしようもなくても。
 うばいとられたくない。

 大きな掌が頭に乗った。撫でもせず、押されるような形で。
 ただそれだけのことなのに、ぷつりと糸が切れた。
 おかしいぐらい、ばらばらと涙が落ちた。浮かせた腰から力が抜けて、その場にへたり込んだ。

―――最悪の場合と、言っただろう。最悪にならないように、打てる手を全て打つんだ。おまえがそんなに不安なのは、思い当たることがあるからだろう。

 不安。そうだ。
 怖かった。
 手の甲で唇を押さえる。喚きそうになるのを、押さえ込んだ。
 これほどの激情が在ったことに、自分で驚いていた。
 気恥ずかしくて一度も、本人の前で晒したことはない醜態だ。
 こんなにも依存している。まだ縋っている。
 ひとりで立っているように見せていても、失われることを考えるだけで、これだ。
 そこに居ないとこころぼそいだなんて、赤子と一緒じゃないか。

―――なんであんなに、寝てるのか、わからない、んだ。

 みっともないぐらい上ずった声で、白状した。

 健全な眠りとは思えない。
 死の、終わりのすぐ傍まで行っているような。
 ふかさ。

―――依頼も最近全然、請けてない、みたいだし。

 体が震えているのは、寒いからではなかった。
 怖くて死にそうだ。

―――一馬はおまえに、随分救われているよ。
 嘘だ。
 怒鳴り返すように喚いた。そんなの、嘘だ。
 証拠がない。
 確かなものがない。
―――あれは、裡に誰も入れないのだ。その境界の、一番傍にいるのは、間違いなくおまえだ。奥底から遠ざけられているのは、おまえだけではない。
 そんなの。
 そんなかなしいことを、認めたいわけじゃない。
 自分ひとり拒絶されているわけではないと、そんなことを知りたいわけではない。
 どうしたらいいかわからないんだ。

―――たすけて。

 口走っていた。
 救って。もう、どうしようもないから。
 たすけて欲しいのは、あの男のことなのか、それとも自分なのか。
 最早わからなかった。


            *


―――だってあのひと……笑ってるのに笑ってへんみたいやもん。

 急須の、なめらかな陶器の艶を凝視しながら、先程の茜の言葉を思い起こす。
 茜はおそらく、本質を見抜いているのだ。
 道化の、つつみかくした裡(うち)の、本性。
 要にも見えている。だから笑い飛ばせなかった。

 予感と不安は、本人の肯定で具現に為った。
 蚊帳の外に出されたら拗ねるくせに、聞きたくなかった、なんて。
 また我儘なことを思っていた。
 触れている陶器だけがただ白い。

 不安は形となって、最早どうしようもなく。
 はじまっていたのだ。
 認めてしまえば容易い。
 不安を抱いたそのときから、抗っても仕方がなく。
 はじまっていた。
 もう。




第七話

夢喰い

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