伍 来訪者




 ひたひたと、寄せる波のような闇。



1.

 傅く主が、欲しかったのだ。
 唯一絶対のひかり。
 そのひかりだけで、あとは何も要らなかった。
 あれから幾年を越えたのだろうかと、考えてもよく分からない。
 都は変わった。ただそれだけは分かる。
 雑念とまがまがしい光に満ちている。

 ただわたくしは、何も知らずとも良いのです。
 目覚めたそのときから、貴方様だけを追い求めている。
 この都には、貴方様を惑わした女の血の匂いがする。
 それと微かながら、感じるのです。貴方様の気配を。
 汀は、寂しう御座います。貴方様が身罷られてから。
 現世(うつしよ)に再び舞い戻ってから、ずっと。
 ずっとお探し申し上げているのです。

 榊様。



2.

 寒さで目を覚ました。座敷だった。
 白くぱりっとした障子から、縁側のひかりが零れ落ちてくる。眩しかった。
 夢は見なかった。意識を失ってすぐに目を覚ましたような感覚だった。時間だけが経過している。奇妙だった。
 布団の上で上体を起こす。体が重かった。寝た気がしない。
 座敷で寝起きするのは、まだ苦手だな。塞がりかけた傷口をちいさな針でつつくような痛みがある。

 京都を訪れてから数日。要は史跡めぐりに忙しく、雅と都佳沙は相変わらず銀の分家を飛び回っている。
 出て来い、と雅に引っ張り出されはしたものの、別段目的があるわけでもない一馬にとっては、ただ日々が無為に過ぎていっているような気がしている。
 今は何時だろう。

 静かだった。どこか遠くで人々の行き交う足音と話し声。
 すぐ近くには、気配はない。

 嫌なことを思い出す。


 "あの頃"。この体に忌まわしい力を受け継いだあと。
 死んでしまいたかった。
 手首の内側、青い血管の浮いたその場所に、まるで何かに誘惑でもされたかのように刃を立てた。
 不思議と痛みはなかった。
 溢れ出る液体はあまりにも黒ずんで、汚れて見えた。
 ゆるく折り曲げるように持ち上げた腕にまとわりついて伝って落ちる血液を眼で追った。
 腕を伝い、折り曲げた"ひじ"の先から、音もなく落ちる。
 雫。
 全て流しきってしまえば、空になってしまえば、この力もなくなるだろうか?
 人を喰らって生きてゆく。
 寄生する。
 その業をつないでゆくのだろうか。
 成瀬の家は平安から続いているという。
 何代も何代も、人を喰い、親を食い殺し、いつまで続けるのか?
 流れる赤を、ただ見つめた。
 腕に緩やかな曲線を描く、赤い、赤黒い色。幾筋も。
 はたっ、と。落ちる。折った膝の上。
 めまいがした。視界が暗くなった。
 "死ねるかもしれない"。
 意識はそこで切れた。


 期待も虚しく、目は覚めた。
 見上げた天井は、見慣れぬものだった。暗い座敷だった。
 縛り付けられでもしたかのように、体が重かった。
 しばらくまばたきも忘れて、見慣れぬ天井を見上げていた。
 その日も静かだった。世界の全てが、蚊帳の外のように遠巻きな雑音ばかりで。
 取り残された気がした。

『目は覚めたかな』
 障子がさらりと開かれて、沈黙と均衡は破られた。
 病的な白さを放つ障子の方へ首を傾ける。
 着物姿の足だけが見えた。
『どうだい、具合は?』
 労わる響きだった。
 枕の傍らに膝を折って、着物の足が座った。
 顔を見上げる気力はなかった。
 始、さん。
 幼い頃から見知った、まるで兄弟のように育った男の声は、顔を見なくても分かった。
 名を呼んだ声は、自分のものとは思えないぐらいにかすれていた。

 色々なことを、話したかったのに。
 なんだか全てがぐちゃぐちゃに混ざって複雑に絡まってしまって、何も出てこなくなってしまった。
 小鳥が囀る声と、内庭の池で鯉の跳ねる水音だけをしばらく聞いて、ようやく。
 知って、いたんですよね。
 ざらざらとした声で、それだけ言った。
 ごめん。
 まず、始は謝った。
『黙っていてくれと、宗悟小父さんに、頼まれていたんだ』
 父の名がふと耳に沁みただけで、急に泣きそうになった。
 もういない。
 どこにもいない。死んでしまった。
 横に傾けていた首を、真っ直ぐ前に戻した。再び慣れぬ天井と向き合った。
 おそらくここは銀の屋敷なんだろう。
『一馬、私たちは隠すつもりは―――』
 始さん。
 言葉の途中で、名を呼んで、制止した。
 聞きたく、ないんだ。
 視界が徐々に曇る。薄い膜で覆われるように暗い天井が見えなくなって、やがて唐突に。
 視界が澄んだ。
 こめかみを伝って、耳の方へ。あたたかく引かれた一本の線の感触。
 すぐに、空気に触れて、ひんやりとくっきりと、その一筋を感じる。
 何も聞きたくない。
 お願いだから今は何も、聞かせないで欲しい。
 慰めも同情も叱咤も要らない。きっと今はどんな言葉にも傷つく。

 しばらくして、傍から人の気配が立ち去っていって、あまり音も立てずに障子が閉まった。
 外界から隔絶された世界は、また均衡を取り戻した。
 何も考えずにただ、瞳だけは開いていた。けれどきっと何も見ていなかった。
 気づけばいつも、気を失うように睡魔に絡め取られていた。

 どちらかしか生き残れなかったのなら。
 生き残りたくなどなかったのに。

 食事の膳を出されるたびに絶望した。
 喰わなければ死ぬんだろう。そうやって生きてゆくのか?
 人を食い物にして生きていけというのか?
 一体いつまでこうして略奪を繰り返してゆくのだろう。
 絶望を感じるたびに、気がつけば体のどこかを傷つけていた。思えば簡単な逃避のしかただと思う。
 血を流していれば楽だった。痛みは感じていなかったけれど、この体が、傷ついている。
 罰を与えられている気になっていた。
 それと同時に、憐れんでほしかったのかも知れなかった。。
 赦しよりも、同情を。
 あれだけ死んでしまいたいと思っていたのに、その頃にはもう、きっと。
 死ぬつもりはなかった。
 なぐさめてほしかったのだ。
 やさしくしてもらいたかった。

 可哀想な生き物に、どうかやさしくして。


 もう、あまり覚えていない。断片的な記憶しか残っていない。順番も定かではない。
 どれが一番昔で、どれが一番最後の記憶なのか? あやふやにばらばらに、散らかっている。
 多くの人間と争ったような気がする。その記憶が真実なのかただの夢なのか、その境界すらも危うい。
 酷いことをたくさん言ったような気がする。
 俺が銀の家の夢喰いだから、生かしておくんだろう?
 斎小父さんも始さんもお前も、今までずっと、俺を騙してたんじゃないか。
 もうたくさんだ。
 諭され、怒鳴られ、殴られた覚えもある。
 怒鳴り声で一番覚えているのは、雅の声だ。
 お前のことなんてもう知るか。死にたいなら勝手に死んじまえ。
 怒鳴り散らしてぴしゃりと障子を閉ざす。
 ひとり、暗い座敷に取り残されて、昼か夜かの判断もつかない数日を過ごす。そして、日にちの感覚が曖昧になった頃に。
 また、眠れてないのかよ。
 障子を開く手がある。
 見捨てられないことに、おそらく甘えていたのだろう。
 気づけばいつも、やさしくされていたのに。それに気がついたのは、銀の屋敷の外に出てからだった。



 今になって左腕の内側を見下ろせば、古くなった傷がいくつも残っている。
 あの頃はこの腕に刃を突き立てることなど少しも怖くなかったのだ。
 色々な回路が少しずつ、狂っていたに違いない。今、全てが元に戻ったとは思わないけれど。
 あの頃より少しは、広い場所に目を遣れるようになったとは、思うのだ。
「最低だな」
 古傷を見下ろして、ふと苦笑した。
 今になって思い返せば、あの頃喚き散らした戯言は、どれほど独り善がりのものだったか。

 自嘲と共に溜息を落としたところで唐突に、体の右側にある障子が小気味いい音を立てて開け放たれた。
 人の気配など感じなかったのに。


            *


 もうすぐ十時になろうとしている。
 全く、皆が皆、あの男を甘やかしすぎだ。
 内庭に面した縁側の廊下を、要はやや足早に歩く。
 相変わらず風は冷たいものの、今日は朝から晴れ渡り、太陽の光がまぶしい。小春日和というやつだ。
 昨日も別段何もせずに、そんなに夜更かしをしていたわけでもないというのに、こんな時間まで寝ていられるなんて、全くどういう神経をしているんだろう。
 目的地の障子までたどり着き、要は勢いよくそれを開け放った。
「ちょっと、いつまで寝てるつもりなんだよ、もう十時になるんだからさ!」
 開け放つと同時に一気に怒鳴る。普段ならばここで、起きるのをぐずる"大人の図体をした子ども"に罵詈雑言を浴びせてやるのが日課なのだが、唐突に要は言葉を失ってしまった。
 弾かれたようにこちらを向いた顔が、まるで殺人鬼にでも出くわしたかのように強張っていたからだった。
 なんだ、要か。
 一瞬の空白を置いて、布団に入ったまま上体を起こした体勢の男が、心底安堵したように息をつく。
 なんだじゃないよ。
 思わず言い返した。何そんなに驚いてるのさ?
 過剰な反応だった。
「びっくりさせるなよ。お前も本当に意地悪だな。忍び寄ってくるなんて」
「何言ってんの?」
 のそのそと布団から這い出す同居人に、要は冷たく声を返した。
「忍び寄るって何さ? 普通に歩いてここまで来たけど?」
 布団を畳もうとしていた一馬の行動が一時停止する。要は怪訝に眉を顰めた。
「どうしたの、おかしくない? 寝惚けてるの?」
「いや、……まぁ、そんなもんかもな」
 否定しかけて、すぐに言葉を濁す。ごまかされたような気がして、要はさらに不快になる。
 元々この男は他人の干渉を拒むようなところがある人間だけれど。
 ここまであからさまになぁなぁに持ち込まれては、さすがにいい気はしない。
 それでなくてもここ数ヶ月は特によそよそしい。それに―――。
「……あのさ」
 少し躊躇った末に、切り出した。
 けれども、逡巡して、やめた。
「なんでもない」
 一馬はしばらく不思議そうな顔をしていたが、深く追求はせずに布団を押入れにしまいこむ作業を再開した。

 最近、寝すぎじゃない? 不自然なくらいに。
 たったそれだけのことが、ここしばらくの間、聞けずにいる。



3.

「信じてくれないんですか?」
 目元に涙を滲ませて、女は上目遣いに、向かい合った刑事を睨んだ。出身はどうやらこちらではないらしい。綺麗な標準語だった。
「そう、言わはりますけどねぇ……」
 手にしたボールペンの尻でこめかみあたりを掻いて、赤城は嘆息する。
 手元に置いたメモを見下ろした。
 自分の癖のある文字が並んでいる。
 ここは捜査本部にある応接室で、相対した二十代半ばほどの女性は、先程訪ねてきたOLだった。
 ここ数日、例の一件の犯人を知っている、犯人を目撃した、という悪戯電話などがあとを立たなかった。
 しかし、どこか思いつめた様子で「話したいことがあります」というからには、今までの悪戯とは少し違うと踏んでいたのだが。
 彼女が語った話は、俄かには信じがたい話だった。
「だって、本当に見たんですぅ」
 瞳をうるませて、女は必死に訴える。机の上に置いた両手を、きゅうっと握り締めた。
「変な鴉をですか?」
 癖の強い下手くそな自筆の文字をペンでぐるぐると囲んで、赤城は面倒くさそうに相手を伺う。今回こそはと期待したというのに。すっかりと興味が薄れてしまった。
 目元をわずかに赤らめたままで、女はしっかりと頷く。顎を引いて、警戒するように。
 これではまるでこちらが悪者ではないか。
「……で、その鴉が突然、女に変わった、と」
 女は憮然と、もう一度頷く。
「ありえへんでしょう」
「私だって、信じられなかったんです! でも本当に見たんだもの! その鴉が死体を食べ―――」
「そういう話やったら、週刊誌にでも持ってってくださ」
「待て、赤城」
 突然背後から声がかかった。
 うわあ、と情けない声をあげて、赤城は椅子から飛び上がるように立った。
 体を捻るようにして振り返ると、先輩ふたりが立っている。
「オヤジさん、脅かさんといてくださいよ。先輩まで……」
「見たんやな」
 ほっと胸を撫で下ろす赤城を綺麗さっぱり無視して、服部はOLに向き直った。
 突然踏み込んできた年配の刑事を、彼女はぽかんとした顔で見上げている。質問が主語がなくてわからないようだ。
「その鴉が死体を食っとったのを、見たんやな」
 はっと目を瞠って、そのあと。彼女はしっかりと頷いた。
「死体に食ったようなあとがあるのはまだ公表してないんや。この嬢ちゃんがただの悪戯なら、知っとるはずないやろ」
 頭ごなしに否定するなアホ。叱られて、赤城はしゅんと肩を落とした。
「せやけどオヤジさん、そんな話信じられへんでしょう。鴉が人になるやなんて。第一、その女? も変ですよ」
 拗ねたように、赤城が自前のメモを服部に手渡した。
 読み辛い文字の並びに、服部が目を細める。
「昔の服?」
「ほら、昔の貴族とかが着てたっていう、狩衣? っていうんですか? そういうんもんらしいんですけど」
 赤城の説明に、女も顎を引いて同意を示す。
「……あの日、少し帰りが遅くなったので急いでたんです。事件のこともあったし心細かったので。それで、その空き地の前を通ったんですけど……」
 OL―――朝倉麻衣子はそう切り出した。

 月が出ていた。青白い月だったのを良く覚えている。
 現場である空き地の傍に来たところで、急に生臭いにおいがした。今思えばそれは血だったのだろう。
 不快に思いながらも歩調は緩めないまま通り過ぎようとしたところで。声が聞こえてきた。
 低い女の声だった。

「これも違う、って。女の声で。私びっくりしちゃって、思わずそっちを見たんです。そうしたらそこに、普通よりも一回りぐらい大きな鴉がいて、女の人の腕のあたりを、その、……つっついてたんです」
 麻衣子はブラウスの上から腕を擦った。思い出して寒気がしたのかもしれない。

 思わず小さな悲鳴をあげてしまった。静寂の中でその声は良く響いた。あまりにも。
 すると、その黒い小さな塊が、死体から頭を持ち上げた。青い付きの光を浴びて、黒い"びろうど"のような羽毛がなめらかに輝いていた。
 恐ろしくなって、あとずさった。二三歩下がるとすぐ背を塀にぶつけてしまった。
 足に力が入らない。今すぐにでもへたり込んでしまいそうだった。食われる。私も食われる。
 突然、鴉の姿が"融けた"。アメーバのように歪んで崩れた。
 その歪んだ液状のものは、やがて人の形に変わっていった。長い黒髪に狩衣姿。素足だった。そして。
「目が、赤かった、です」
 青白い肌の、美しい女だった。ただ瞳だけが爛と燃えるように輝いていた。それだけが何よりも恐ろしかった。
「煙みたいにふっと、消えてしまったんです」
 何度か瞬きを繰り返すうちに、いつのまにか女は消えていた。
「さかき、さま。って。人の名前でしょうか、最後にそれだけ、言って、消えました」


            *


「信じはるんですか?」
 麻衣子を帰した後、すぐさま赤城が食いかかってきた。
「そんなん、化けモンやないですか。別に信じたい奴は信じればええし、文句は言いませんけど、警察が信じたらあかんでしょう?」
「秦野、出かけるぞ」
 食い下がる赤城を綺麗さっぱり無視して、服部はコートに手をかける。オヤジさぁん、と赤城が情けない声を出した。
「あそこですか?」
「話聞きに行くだけや」
 明らかに不服と顔に書いてある秦野の肩を、擦れ違い様に服部が叩いた。
「赤城」
 扉を手前に引いて開いたところで、ようやく服部は赤城を振り返った。
「お前もついて来い。肌で感じたほうがええ」
「……何をですか」
「"化けモン"や」
 ぽかんと立ち尽くす赤城を残して、服部はさっさと出て行ってしまう。
「ど、どこ行くんですか?」
 迷子の子どものような顔で、今度は秦野に縋りついた。
「化けモンの専門家様のとこや」
 面倒くさそうに、秦野はそれだけ説明した。



4.

 睨み合いが続いている。
 片や綺麗に膝を折り、凛と背を伸ばして。片や胡座。各々の座り方で、ふたりは向かい合っていた。
 胡座の方がメンソールの煙草を一本、箱から引きずり出す。
「覚えがないとは言わせへんで」
 本家の次男を睨み据えて、紅子は言った。
「覚えならあるさ。俺も、もちろんあいつもな」
 紫煙と共に、つまらなそうに雅は吐き出した。
「ご隠居も気にしてはるんやろ? 要くんも言うてたで」
 どちらかといえば逃げの体勢である雅に、紅子は食い下がる。
「囲いに入れとくだけがいいとは思わない。お前も知ってるだろ、あいつは思いつめたまま放っておくとずぶずぶ沈んでくのさ」
「せやけど、京都は良くないと思うわ。この屋敷もな。雅、あんたが思うてるよりも、まだ一馬は立ち直ってへんのと違うの?」
「本音を言えば」
 雅はまだそんなに吸ってもいない煙草をもみ消すと、左手でネクタイを緩める。
「実はこんなに京都に長居するとは思ってなかった。それは俺の誤算だ。数日の観光ぐらいなら、と思って引っ張り出したんだ」
「そろそろ本当のことを言うてくれてもええやろ。ほんまはご隠居から何を言われて来たん? ただの視察やないんやろ? 時間かかりすぎや」
 紅子の目はしっかりと据わっていた。言い逃れは一切通用しそうにない。雅は観念した。
「別にお前を信用してなかったわけじゃない。正直こっちに来るまで危機感が全然なかったんだ。―――お前、崇嗣の行方、知ってるか?」
「崇嗣て、九条の?」
「そうだ。悠嵩の兄貴」
「自分から行方くらましたんやろ? ―――違うん?」
「オヤジに匿名で手紙が届いたらしい。崇嗣は失踪なんかしていない、ってな」
 雅も実際にその手紙を見たわけではないので、詳細は分からない。毛筆の流麗な文字だった、とは聞いた。女らしい文字だった、と。父は言っていたような気がする。
「悪戯やないの?」
 紅子は渋面を作る。その手紙だけで本家のご隠居は腰をあげたというのだろうか? いささか早計のような気もするが。
「悪戯の線も十分考えたさ。だから始めはそんなに深刻に考えてなかったんだよ。だがまぁ、九条の家が悠嵩の代になってから急激に力を付け始めたのは事実だし、視察がてらって気分だったんだがな」
「何ぞ、あったん?」
 歯切れの良くない雅の口調に、紅子は声を強張らせて問うた。
「いや、その逆だ。何もないんだよ」
「何もない、て……」
 呆気に取られて、思わず鸚鵡返しにする。
「崇嗣が失踪したっていう形跡が全くない。屋敷の外に出た様子さえない。それに、九条の家は捜索願を出してない」
 紅子はわずかに目を瞠った。それは初耳だ。
「あまりに何もなさ過ぎて、不審だ。それを調べようと思ってる。―――が、確かにここの雰囲気はあんまり一馬には良くないのかもしれないな。一年前の一軒からあいつ―――」
「御園様」
 雅の言葉を遮るように、襖の向こうから人の声がした。低い、落ち着いた女の声だった。
「何やの」
 正面。雅の後ろ側にある襖を見て、紅子が声を放った。
「警察の方が来てはりますけど……」
 戸惑っている様子の声が、襖の向こう側から返ってきた。
 わずかに紅子は首を傾げた。思い当たる節はない。
「用件は何やの?」
「何でも、人を喰う鴉の話を聞きた」
 机を叩き割る勢いで、雅が立った。その物音に、襖の向こうで息を飲む気配。
 紅子はまだそこに座っていた。折った膝に白い手を重ねて、しばらく漆塗りのテーブルを睨んでいた。
「お通しして頂戴」
 やがて覚悟を決めたかのように、芯のある声で紅子は命じた。


            *


 鯉が跳ねた。水音が涼やかに響く。
 うつつかな、とふと思った。
 これは現実だろうか。夢ではなく?
 安っぽい夢オチだったらどうしよう。怠惰にくれてゆく夕日を見て、そんなことを思った。
 もし本当はベッドの上の植物人間で、これは長い、とてつもなく長い夢だったなら。
 どんなに良かったかと思う。
 けれども、それなら一体どこまでが夢でどこからが現なのか?
 胡蝶の夢。
 そんな言葉を不意に思い出して、苦笑した。
 夢なら良かった、なんて。ただ逃げ道を探しているだけだ。
 ああ、またこんなことを考えたりして。抜け道を探している。人でいられる道に戻ろうとしているのか。


「風邪ひきますよ」
 頬に当たる風と似た、涼しげな声が右からかかった。
 すっかりと蕩けた夕日からそちらに視線を移すと、凛としたたたずまいの少年が立っている。
「今日は早かったね、都佳沙くん」
 連日叔父と奔走している銀の時期当主は、苦笑して肩を竦めた。
「毎日毎日愛想笑いばかりじゃ疲れてしまうので。今日は早めに切り上げました」
 僕はあまり建前を使うのが得意ではないんです。
 冗談のように、都佳沙はそう付け加えた。

「ねえ、一馬さん」
 少しの沈黙を挟んでから、都佳沙が切り出した。
「飢えてるんでしょう」
 唐突に。
 深くまで切り込んできた。
 真摯な黒の瞳が、見ていた。
 取り繕うことも出来ずに真顔で黙り込んだ。一瞬、呼吸の仕方を忘れた。
「僕は建前とか、含んだ言い回しは苦手なので、単刀直入で申し訳ないんですけど」
「……素直だね、都佳沙くん」
 ようやく笑えた。少しだけ。苦笑だったけれど。
 ええ、と都佳沙も少しだけ微笑んで頷いた。
「よくそれで窘められます」
「それが君のいいところだよ」
「時と場合によりますよ」
「……君の、言う通りだよ」
 肯定した途端、体の力が根こそぎ抜かれたような気がした。眩暈がした。
 無駄だと分かっていたのに、気取られないようにと必死に張っていた肩の力かもしれなかった。
「多分、櫛引に近づきすぎたせいだと思います。元々その内側にある"力"は、より強くなろうとする性質があるから」
「気づかないふりをしてきたんだけどな」
 再び、どろどろに熔けた夕日に目をやった。もう既に大分崩れて、紫に飲まれていた。
 このだるさは、似ていた。
 父から力を継ぐ前の、あまりにも切実な、飢えに。
 体の重さ、意識の鈍さ。これはやはりただの、空腹なのだ。
「我慢してるんですか」
 並んで空を見上げる形で、都佳沙が訊いた。
「最近、仕事らしい仕事もしてないしね」
「死にますよ」
 冗談のように言うと、鋭い切り返しが来た。含みのない、単刀直入の刃で。
「そうなのかな?」
 薄闇に包まれ始める空から、都佳沙に視点を戻す。
 純粋に疑問だった。
「実際、どのあたりが限界なのか、俺には良く分からないよ」
「限界に挑戦してるつもりなんですか? 取り返しがつかなくなったら、どうするんです」
 聞き分けのない子どもを叱るような声で、きっぱりと都佳沙が言った。
「じゃあ、誰を喰えばいいんだ?」
 それは本音だった。誰にも面と向かって言ったことのない、それでもいつも繰り返してきた疑問だった。
 依頼と、ギブアンドテイクと、割り切れるならいい。
 今までならばそれで足りていた。
 しかしこれから飢えが、強くなってゆくのだとしたら。
 一体何を糧にすればいいんだ?

 水音が鳴った。魚の鰭が水面を叩いたのだろうか。
「……今だから、言えるんですけど」
 横から吹いた風が漆黒の髪を撫でてゆく。長めの前髪を後ろに掻きやるぐらいの間を置いてから、都佳沙が。
「僕、嫌いだったんです、貴方のこと」
「うん」
 そうだろうね。そんな気はしていた。
「割り切るしかないじゃないですか。だって、そうじゃなきゃ生き残れないのに」
 風が強くなってきた。視界を髪が遮る。
 割り切れず、わがままばかりを言っていた。潔い彼には無様に見えただろう。
「その方が楽になれるのに、かわいそうだなって。でも、今は一馬さんのそういうところ、好きですよ」
「無様だよ」
 ただ、自分の欲求ばかり、垂れ流しにしただけだよ。中途半端で、あまりにもおさない。
「僕は、あの後貴方が割り切ってすっかり夢喰いに徹したりしたら、きっとがっかりしたに決まってるんだ。貴方に何を望んでたのか、今じゃ良く分からない。自分が抑圧されていた分、喚き散らせる貴方が羨ましかったのかな。それで妬ましかったのかもしれない」
「君は今、抑圧されてると思ってる?」
「少しは。でも今は、その緊張感が好きです。楽になりました。同じように一馬さんもどこかで肩の力を抜けるところがあればいいと思うけど、それは難しいんでしょうね」
「ありがとう。気を使わせちゃってごめんな」
 思えば、都佳沙とこのように話すのは初めてのような気がする。
 なんだか、諭されたような気がした。
「それは、僕よりも要や兄さんに言ってあげたほうがいいですよ」
 涼しげな顔で都佳沙は微笑した。
「考えても考えても答えが出ないことなら、考えないのも手です」
「そう、だな」
 八つも年の離れた子に慰められてしまった。
 情けなくて笑ってしまった。少しだけ、肩の力が抜けたような気がした。
「そろそろ入りませんか? 本当に風邪ひきますよ」
 空はすっかりと薄闇に包まれてしまっていた。身を翻す都佳沙に倣って、内庭に背を向けた。
 刹那、空が、裂けた。


            *


 ばりん、とすさまじい音がした。ような気がした。
 錯覚だ。音のした場所に割れるようなものなどない。ただ、薄闇に飲まれた空が広がっているだけだ。
 その空が、急にくだけたように思えた。
 どう、と奔流のように生ぬるい風が押し寄せてくる。今は冬だ。おかしい。
「一馬さん……!」
 鋭く都佳沙が叫んだ。
 後方に強く、左腕を引かれる。けれども動けなかった。床に足が張り付いたかのように。
 押し寄せる生ぬるい風と共に、黒い塊が飛んできた。
 弾丸のように真っ直ぐ、その塊はこちらに突っ込んでくる。
 どっと。胸のあたりに重みを受けて、思わず後方に倒れこんだ。背を柱に強かに打って、息が詰まった。
 その黒い塊が、羽根を広げた。
 ぬるい風に漆黒の羽毛が舞い上がった。黒いそれが視界を覆い尽くす。
 ふと、小さな痛みが左胸を掻いた。
 見下ろすと、白い掌がいつのまにかシャツを掴んでいる。しなやかな女の手だ。鋭い爪が食い込んで、肌を刺していた。
 慌てて起き上がろうとする腹に、重みが乗り上げた。上から押さえ込まれる。
「お探しいたしました」
 低い、艶のある女の声が降ってきた。
 滝のように、黒く長い髪が流れ落ちて、視界を奪われる。
 間近に、人の顔が現れた。
 男物と思われる赤い狩衣を纏った、恐ろしいほどの美女だった。
 膝で一馬の腹に乗り上げ、女はその白い手で一馬の頬を撫でた。いとおしむように。
 冷たさが左頬を滑る。
「どれほどお探し申し上げたことか」
 せつなそうに細められる双眸は、濡れたように赤い。
「お会いしとう御座いました」
 女は一馬の肩のあたりに額を擦りつけた。猫が甘える動作に似ていた。


「榊、様」






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