四 膿む傷口



 喚ぶ、声。



1.

 億劫だ。
 緩慢に瞬きをする。
 寝不足のはずはないのだけれど。ずっと、目の奥が重い。
 疲れが取れていないような気がする。
 以前にもこんなことが、と考えかけて、やめた。
 まさかそんなはずがない。
 自分の吐いた紫煙が目にしみて、一馬は思わず目を細めた。
 無意識のうちに、さほど燃えていない煙草の先を、傍に置いておいた硝子の灰皿に押しつけて、消してしまった。
 昼過ぎほどに、要が喜々として「出かけてくる」と分家を出てから、特にすることもなくぼんやりとしていた。
 ここは内庭に面した縁側だ。障子を背にして、しばらく庭の隅に残る雪を見ていた。
 ぼんやりとしていたのは、いつもの怠け癖もある。けれどもそれだけではなかった。
 体が重い。
 煙草をもみ消した右手で、右目と額のあたりを抑えた。双眸を閉ざすと、目蓋の裏で闇がゆらゆらと揺れた。
 はじめは、風邪ではないかと思っていた。そう、はじめは。
 微熱が続いているときのような、重さなのだ。動けぬほどではないが、動くのが億劫な。
 だるさ。
 それが、波のように寄せてきては引いてゆく。時折やってくるのだ。
 半年ほど前から。


「こんなとこにおったん。寒いんやないの?」
 背後で障子が開く気配。座ったままで肩越しに振り向けば、そこに紅子の姿がある。
 姉さん、と声をかければ、紅子はわずかに口元で笑った。
「少し、ええかしら」
 断ってから、一馬の右隣に腰を下ろした。
 お互い少し黙って、各々、顔は前方に向けたまま。視線は交わらない。
「……煙草ぐらい、部屋で吸ったらええやないの」
「ちょっと雪を見たくなって」
 答えてから、酷く言い訳じみているな、と自分で思った。
「一馬、あんた、平気なん?」
 首を傾けるようにして、紅子が一馬の顔を見る。
 まるで、視線を合わせるのを拒むかのように、一馬はぼんやりと、庭の隅に蹲る土に汚れた雪を見ていた。
「平気って、何が?」
 口調ばかり、少しおどけたように返すと、視界の端で紅子が盛大に顔をしかめた。
「いっつもそうやわ、あんたは。……分かってるんやろ? 自分のことなんやから」
 子どもを叱るような口調だと思った。
「ごめん、姉さん」
 こちらに非があることには気づいていて、だから素直に謝った。
 それでもまだ、顔は見れなかった。
「うちはな、ずっと傍であんたを見てたわけやないから、こんなふうにとやかく言うのは筋違いかもしれへん。けどな、一馬。あんたは何でも背負い込み過ぎや」
「それじゃあ、どうしたらいいんだろうな」
 問い掛けではなく、独白になった。
 少しだけ傾いた日差しに、雪がかがやく。
「誰かに弱音を吐いたところで、"止まる"のかな。これは」
 まばゆく輝く氷の塊に、わずかに目を細めた。まぶしかった。
 頭が、こんなにも重い。
「少しは楽になるんと違うの」
「嫌だな、姉さん。俺の厄介な性分を分かってるんじゃないの」
 ようやく、首をめぐらせて、紅子の顔を見た。
 卑屈な自嘲が、きっと顔に浮かんでいる。
「心配かけたくない、て思うのは分かるわ。せやけど、思い詰めるほうが良くないんと違う?」
 他人に迷惑をかけずに、凛と、立派であること。
 幼い頃から刷り込まれたような"長男"の気質が、今は邪魔をしている。
 変なプライドや意地もあるだろう。それ以上に、誰かに迷惑をかけたくない、というそれが大きい。
 それでなくとも、この生態自体が人間に依存しているのに、これ以上、もたれかかりたくないと思ってしまう。

 紅子から、再び顔をそむけた。
 彼女の言うことは正論だ。正しい。だから、逃げたくなる。
「もし、姉さんが想定してる最悪の事態になったら、今度こそ」
 とても、何故かとても残虐な気分になった。
 右側頭部。こめかみのあたりに釘でも打たれているかのような痛みだ。
 刻み付けるような痛みに、眩暈がして、ふと。
「今度こそ、殺されるのかな」
「一馬!」
 語尾にかぶせるようにして、紅子が鋭く怒鳴った。
 そこではたと、我に返った。
 ざあっと音を立てて血の気が引くのを感じる。
 一瞬にして、体中の熱が冷却されてゆく気がした。
「ごめん……」
 狼狽して、謝罪を口走った。
 思わず見つめた紅子の顔には、怒りよりもかなしみの色が濃く滲んでいるように見える。
「あんた、本気でそんなこと思……」
「違う」
 今度は逆に、こちらから鋭く言葉を遮った。
 体が氷のように冷たくて、言葉がうまく出てこない。少し黙ってからようやく。
「ごめん、姉さん。……本気じゃない。どうかしてた」
 魔がさした、と。言うのだろうか。
 一瞬、思考が完全に停止して、何も考えられずに、口にしていた言葉だった。
 うなだれて、片手で額を押さえる。熱かった。
「困ったな、思ったより参ってるみたいだ」
 自嘲しようとして、笑みがすぐに消えてしまう。そんな余裕も、もうなかった。
 頭が痛い。
 じわりと脂汗が滲み出すのを、額に押し当てた掌で感じた。
「……東京に戻ったほうが、ええんやないの」
 労わるように軽く、紅子の左掌が一馬の肩に触れる。
 かすかに肩を震わせて、一馬はうなだれた頭を持ち上げて、紅子を見る。
「"成瀬の夢喰い"は京都の出や。悪い影響が出るかもしれへん。うちは、それが怖いんや。辛いことかもしれへんけど、今は少し落ち着くまで待ったほうがええ」
「……そう、かもしれない。ごめん、取り乱したりして」
 ようやく、凍り付いていた四肢の感覚が戻ってきたような気がする。
 苦々しい笑みを浮かべるぐらいの余裕も、取り戻した。
「あんまり深く考えんこと。どうにかなるんやから」
「紅子姉さんは相変わらず、男前だな」
「それだけ軽口叩ければ平気やな。具合の悪さもきっと風邪やわ。不摂生してるからやで」
 ぱしりと一馬の背中を叩いて、紅子は立った。
 一馬が背にしている障子をさらりと開く。
「心配してるんよ。あの子も」
 言い聞かせる母親のような声だった。
「気づいてるよ」
 傍らに置いてあった煙草の箱から一本を抜き出して、一馬は答えた。
 あの子、が指している人物はおそらく、5年近く一緒に生活してきた少年―――もう少年と呼ぶのも躊躇う―――のことなのだろう。
「そういえば」
 要の顔を思い出して、ふと。気づいて一馬は、身を捩って紅子を見上げた。
 首を傾げるようにして、紅子もこちらを見ている。
「茜ちゃんって、銀の子、じゃないよな?」
「ああ」
 了解した、というように紅子は軽く頷く。
「あの子は、うちが保護してるんや。もう2年ぐらいになるわ。……保護っていうても、うちの、ただの自己満足かもしれへん。ほんまにそれがいいことなのか、わからへんのやけど……」
 紅子には珍しく言葉を濁した。
 その端正な顔に浮かんだ憂いと、その内側に飼う戸惑いになつかしさのようなものを感じて、一馬も苦笑で応じた。
「部外者は何も言えないな。それにそれは俺にも」
 ライターの炎で、煙草の先を軽く焼く。
「それは俺にも、覚えがある感情だから」
 口にすると、少しだけ胸の内が痛んだ。
 感傷的になるのも、今更のような気もしたが。
 未だ、正しかったのか間違っていたのか、その判断は下せずにいる。きっと、自分の内側だけでは答えは出ないとも思う。
 答えを出すのはおそらく、要のほうだ。きっと。
「俺はそれで、随分救われてる」
「……そうやね。うちもやわ」
 頷いて、紅子は障子の向こうに姿を消した。
「いい加減、入り。ほんまに風邪ひくで」
 窘めるような声だけが、閉ざされた障子の向こうから聞こえてきた。
 生返事だけを返して、それでも即座に立ち上がる気にはなれなかった。
 煙草一本分、と自分を納得させて、良く手入れの行き届いた庭を、眺めるともなしに眺めた。


―――生き延びるためには、化け物におちるしかない。

 そう言ったのは、誰だっただろう。
 同じ生き物だったような気がする。
 どんなに抗っても、無駄なのだろうか。
 右掌を見た。
 丁度中ほどに、古い傷がある。
 この傷は、刻印だ。
 生き残ることを決めた。その証だと、思っている。
 くるしみを、受け容れると決めたはずだ。
 一年前。

 紫煙がほそく、空にのぼった。


―――……ま。
 ふと、呼び止められたような気がして、後方を振り返る。
 沈黙する障子があるだけだった。
 気のせい。幻聴だろうか?
 頬を撫でる風が冷たくなってきた。そろそろ日が傾きかける時刻だ。
 さすがに、これ以上外にいるのもなんだと、灰皿と煙草を持って、立ち上がった。

―――……き、さま。

 背後の障子に手をかけたところで、もういちど。
 女の声に聞こえた。
 肩越しに庭のほうを振り返る。やはり誰もいなかった。
 それはそうだ、先程まで誰もいなかったのだし。
 突然沸いたとしたら、それはそれで怖い。しかし、ここは霊媒師の家だし、京分家のことは良く知らないが、銀の本家には清めと結界とが施されているはずだった。中庭にそれが"出てくる"こともあるまい。
 それに、一馬には霊感の類というものが、実はほとんどないのである。
 おそらく、全く皆無ではないのだろう。曰くつきの場所ではそれなりに悪寒や頭痛も感じる。が、見えはしない。
 その点に関して言えば、要の方が強いはずだ。
(気のせいか?)
 空耳だろうか。そう言えば朝もこんなことがあったような気がするのだが。
 いや、きっと疲れているのだろう。
 無理矢理自分を納得させて、一馬は障子を開いた。畳と襖とが、眼前にひらかれる。
 踏み込んで、後ろ手で障子を閉めた。


 カァ。
 少し離れたところで、鴉の鳴き声が聞こえた。



2.

 ふつうのことだと、思っていた。

 きもちわるい、きもちわるい、やめて。
 この髪を引っ張って、般若のような顔をして怒鳴り散らす女の顔を思い出す。
 なんであんたそんななの。なんでそんなことするの。きもちわるい、しね、しんじゃえ。
 ごめんなさい、と。訳も分からないのに必死に謝った。
 謝るしかなかった。
 何も知らなかった。何が悪いのか。
 そんなことしないで。しないでよ。茜、お願いだから。
 ひとしきり髪を引っ張ったあと、その人は泣きながら懇願した。この体をきつく抱いた。

 母は、自殺した。


 どうしてあの人がこんなにも追い詰められていたのか、分からなかった。
 ただ、私に見えるものがあの人には見えなかった。それだけのことだったと思う。
 父と離婚したあと、あの人は必死に私を手元に残すことを望んだ。
 まるでそれが、唯一残された希望か何かのように。
 きっと、絶望したのだろう。その希望かなにかが狂って見えたのだろうから。
 私にしてみれば、何故貴方に見えなかったのか、それが分からないのだ。
 両者の間に、決定的な軋轢があった。きっと。


―――守屋、茜ちゃん?
 回想は跳躍する。
 あの人が死んだあと、入れられた施設の一室に、その人は現れた。
 部屋の隅で膝を抱えている私の前に膝をついた。黒檀のように美しい髪を持った、艶やかな女の人だった。
 だれですか。
―――うちはね、銀紅子。はじめまして。
 聞いたこともない名前だった。
 どうして私を訪ねてくるのか分からなくて、首を傾げた。
―――その子、お友達なん?
 その綺麗な人は、私の足元を見て、訊いた。
 みえるの?
 訊き返した。
 お母さんには見えなかったのに。

 私の足元には、ちいさな犬のような形をしたものが蹲っていた。
 犬と違うのは、額にちいさな角が生えていることだった。
―――見えるよ。
 その人は、白い指先を伸ばしてその犬のようなものに触れた。
―――あんな、茜ちゃん。茜ちゃんはな、ちょっと人より敏感で、色々なものが見えすぎるんよ。
 角のあたりをくすぐるように触れて、その人は言った。
―――うちもな、ちょっとひととは違うんよ。せやから、この子も見える。別に、茜ちゃんがおかしいわけやあらへん。
 やさしく、言い聞かせるようにその人は言った。
 ただそれだけのことなのに、いつのまにかじんわりと、目頭が熱くなった。

 うちがおかしいんやないの?

 だって、お母さんはずっとそう言っていた。
 見えないものと話すのやめて。あんたは狂ってるんだ。やめて、気持ち悪い。きもちわるい。
 怒鳴り散らして、この髪を引っ張って、この体を蹴った。
 だから私はずっと、自分が狂っているのだと思っていた。
 全部モウソウだと思っていた。

―――おかしくなんてないんよ。ちょっと、他の人に見えんものが見えるだけや。

 微笑むと、尚更綺麗だった。
 その綺麗な顔が、すぐに見えなくなってしまった。
 まばたきとともに、自然と涙が溢れた。
 うれしかった。

―――ねぇ、茜ちゃん。うちの家においで。一緒においで。

 たったさっき会ったばかりの人だということも、どうでも良かった。
 一も二もなく頷いた。
 誰かの傍にいたかった。温度が欲しかった。
 それから二年、銀の家で暮らすうちに、御園様―――紅子さんがどうして私を引き取ったのかも、分かるようになった。
 全く、霊媒筋の家ではない家に突如として生まれた私。
 放っておくと、きっと良くないと思ったのだろう。
 それでも良かった。
 紅子さんは、やさしくしてくれる。
 冷え切っていた心に、あたたかいものを注いでくれた。
 だから私は、あの人のためならなんだってできる。
 そう。紅子さんのためだったらきっと、なんだってできる。



 片手にスーパーの買い物袋を下げて、十字路を左に折れる。
 徒歩であと5分ほど。そうすれば、二年間暮らした大きな日本屋敷にたどり着ける。
 庇護され、包まれる空間。寒々しい座敷にも慣れた。
 布団で寝ることにも慣れた。
「茜ちゃん」
 早足になりかけるのを、後ろからかかった声に制された。
 聞き覚えのある声に、ふと足を止めて。振り返った。
「久しぶりだ」
 ここではあまり聞きなれない、東京の言葉。
 振り返った先にいたのは、見覚えのある顔だった。
 黒いロングコートを着て、細いフレームの眼鏡をかけている。
「……こんにちは」
 暮れかけた紅の日を跳ね返す眼鏡の表面。それに阻まれて、相手の目は見えない。
「茜ちゃん、宗家の人間が来てるって、本当?」
 わずかに首を傾げるようにして、男が訊いてきた。
 この男の名前はなんと言ったっけ? 前に聞いたような気もするが、忘れてしまった。
「来てる、けど……」
 どこから聞いたのだろう?
「気をつけて」
 声を潜めて、男が言った。
「気をつけてね、茜ちゃん」
 繰り返した。
 声は重かった。無意識のうちに、息を飲んでいた。
「前にも話したよね? 銀は、本来なら御園様のものなんだよ。それを宗家は我が物顔をして牛耳っている。本来なら、許されるべきじゃないんだ。御園様だって、多分警戒してるんじゃないのかな」
 そういえば、と思い起こす。
 紅子さんはあの銀の次男と滅法仲が悪かった。
「せやけど……」
 俯いて、足元を見た。男の視線から逃れたかった。
 思い出すのは、数ヶ月ほど前のこと。
 暗い暗い、地下の一室。石畳。
「これで、ええんやろか」
「……あのこと、御園様には話してないね?」
 ふと、男の片手が肩に乗った。
 首を横に振るだけで答えた。
 とても言えなかった。
「そう。それならいいんだ。きっといずれ、ちゃんとうまくいくから。そのときまでもう少し、我慢してくれるね」
 大丈夫だよ、と言い聞かせる声に無理矢理頷いた。
 御園様のためなんだから。と言い聞かされて、また頷いた。
 そうだ。紅子さんの、ためなんだから。


「茜ちゃん?」
 別の声がふと、名を呼んだ。


            *


 御所の参観には申し込みが必要なのだ。
 それは知っていた。今日はその周辺を少しばかり歩いて、帰るつもりだった。
 何よりも、京都の雰囲気が好きなのだ。
 寺院などを遠目から眺めているだけで、軽く酔いそうになる。
 何か、厄介な病気ではないのだろうかと、ふと客観的に考えて不安になることもあるのだが。
 好きだと、綺麗だと思うから、仕方のない話だ。
 精神的に満腹だった。これで少しは最近の憂鬱を忘れられるかもしれない。
(憂鬱、か)
 そしてまた、心を悩ませる問題を思い出してしまって、溜息を落とす。思い出すんじゃなかった。
 冷たい風が吹いた。思わず襟を掻き合わせる。マフラーを忘れて出たのは痛かった。

 不安なことなら、たくさんある。考えなければならないことも。
 様々なものが折り重なって、何から片付けていけばいいのかわからない。
(やめたやめた)
 半ば自棄になって、要は考えるのはやめた。
 鬱々と自分が悩んでみたところで状況がよくなるわけでもない。だったら悩むだけ無駄なのだ。
 そうやって納得させて、少しでも考えずにいたほうが、精神衛生上には、きっといい。


 最悪の事態になると、決まったわけではないのだ。まだ。



 確か、この通りを真っ直ぐ行けば銀の京分家に帰りつけるはずだ。
 明日はどこに足を伸ばそうか? どうせ悩むなら、楽しい悩みの方がましだ。
 問題を摩り替えた。
 ふと、視界の端に人影を見つけて、無意識にそちらを見た。
 丁度右手側の道に、立ち止まって話し込んでいるふたつの影を発見する。
 アンバランスだなと直感で思った。
 妙な取り合わせだと。
 片方は長身で、インテリ然とした男だった。黒のロングコート姿。
 そして、こちらに背を向けているのは少女だった。赤いコートを着て、スーパーのものと思われるビニール袋を下げている。
 肩の上あたりで綺麗に切りそろえられた髪は、見覚えがあった。
「茜ちゃん?」
 思わず少女の背に声をかけてしまった。衝動だった。
 こちらの声に反応して、怯えたように少女が振り向く。茜だった。
 声をかけたのはまずかっただろうか?
「あ、ごめん。ちょっと声をかけただけだから。気にしないで」
 取り繕って、その場を去ろうとした。何かを邪魔したような気がする。しかし、何を。
 茜の怯えたような様子も、こちらに向けられた男の刺すような視線も、居心地が悪い。
「僕もそろそろ帰るから、茜ちゃん」
 身を屈めるようにして、男は茜の耳元に口唇を寄せた。
 何事か囁くような口唇の動きだけ、見えた。
 茜が表情をこわばらせる。
 男は口唇の端に笑みを刻んで、軽く要に会釈をすると、踵を返した。
 その路地に、要と茜だけが取り残された。
 空の端はもう紫色に染まり始めている。
 手持ち無沙汰に時計を確かめると、五時を回ったところだった。
 冬の日暮れは早い。
 足音が近づいてきた。茜だった。
 一緒に帰ろうか、と誘うのは憚られた。
 しかし、背を向けることも出来ない。何せ目的地は一緒で、もはや目の前なのだ。
 なぁなぁで、一緒に歩き出した。
 色々聞こうかと思って、すべて胸の内に仕舞い込んだ。なんとなく、聞きづらかった。
 知り合いなのだろうか、あの男。
 居心地の悪い沈黙が続く。

 正面にどっしりと構えた門が見えてきたところで、要はふと、目を凝らした。
 門のあたりに、何か小さいものを見つけた。
 灰色の、子犬のような。小動物に見えた。
 その子犬と思しきものはこちらをじっと見て。喜々として駆け寄ってきた。茜の足元に。
(角がある)
 茜の足元にじゃれ付くその灰色の獣の額に角をみとめて、要は目を見張る。
 "こちら側"の生き物ではないということか。やけにはっきり見えて、驚いた。
「その、子? 知ってるの?」
 茜に聞いた。
 なるたけ気にしないように、視線だけでその犬のようなものを追っていた茜が、弾かれたように顔を上げた。
「見えるの?」
 頷くことで答えた。
 呆けた顔でしばらく要を見上げたあとで、少しだけ、泣きそうに顔をゆがめた。
「気づいたときには、もう、見えてた」
 じゃれつくそれに視線を落とすように俯いて、茜が呟いた。
「うちのせいで、死んだんや」
 茜の表情は見えなかった。
「お母さん、うちのこの力のせいで、自殺したんや」

 見えないハンマーのようなもので、胸を打たれた心地がした。
 呼吸とまばたきを忘れて、茜を見下ろした。
 無意識に、左耳の下あたりに触れていた。そこには古い傷がある。消えぬ傷。


―――僕、殺したんだ。お母さんのこと。
「うちが殺したんや」


 いつかの自分の告白と茜の声とが、奇妙に混ざり合った。
 夕日はいつの間にか姿を消して、うすい闇が周囲を包み始めていた。




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