参 蛇
あ。もしもし。
ねー、今日暇?
ちょっとさ、買い物付き合ってよー。
え? だって、誰も掴まらないんだもん。
……なによ。カレシ? ……どうでもいいじゃん、そんなの。
え? ええええっ!? 何よ、なんで!?
京都? 紅子姉さんのとこ? 何で私に一言の断りもないのよー!!
は? 一馬兄や要も一緒?
ずるーい! ばか!
1.
「……切れた」
耳元から携帯電話を引き剥がして、都佳沙が独白する。
「姫架か?」
借り物である乗用車の運転席から声がかかる。
バックミラー越しに視線を合わせて、都佳沙は頷くだけで返した。
「誰も言ってなかったんだ?」
「最近あんまり連絡取ってなかったからな。あいつ、彼氏できたって言ってたし」
「大学のコンパで知り合ったって言ってたっけ? 上手くいってるのかな」
「さあな。それは本人同士のことだからな」
こちらが心配することでもないだろう、と雅はハンドルを切る。
自動的に内側に開く、巨大な木の門の内側に、車を滑り込ませた。
古ぼけた門に張り付いた表札には、「銀」と。同じ血を分けた一族の屋敷だった。
それだというのに。
この胃の重さは何なのだろうかと、都佳沙は嘆息した。気が進まない。
和やかな、縁戚同士の対面になるはずがないのだ。
面はきっと、微笑みを湛えあいながら水面下で腹の探りあいをする。
そのような空間に、誰が好き好んで居たがるものか。
「嫌なら分家にいれば良かったのに」
砂利を敷き詰めた空間に車を停めて、エンジンを切る動作と共に雅は苦笑する。
「気持ちいい空間じゃねぇだろ」
むすりと都佳沙は仏頂面で返す。
「貴方たち大人がそんなふうに、見えないようにするから」
後部座席の扉を開いて、都佳沙は砂利の上に足を下ろした。冷たい風が後ろ側から吹いた。
「いつまで経っても耐性がつかなくて、僕は困ってる」
後ろ側から髪をなぶる風に少しだけ肩を竦めた。
事なかれのように。穢れを厭うように。
汚いものの前で目を覆うそぶりをする大人が多すぎる。
瞳を覆うその指先の隙間から、かすかに向こう側が垣間見えているから逆に、嫌悪感が増して。
潔癖に、憎むことしか出来なくなってしまう。
あからさまに突きつけられてその泥に汚れたら、もっときっと、受け流せるようになると思うのに。
「俺たちのせいにするなよ。それはお前の頑固さのせいだろう」
潔癖過ぎるんだ、と年若い叔父が笑う。
「そうかもしれない」
整えられた松や、屋敷の門に続く飛び石を眺めて、都佳沙は頷く。
年の近い叔父の苦言を不機嫌にはねつけるのではなく、容れることができるようになったのは、きっと明らかな変化だ。
少し前までなら、口には出さなくてもきっと苛立っていた。
分かっているのに、改めて言葉にしないで欲しい。分かっているから、苦しいのに。そう思って、憤っていたんだろう。
その変化に、気づいているはずなのに何も言ってこない部分は、やっぱりなんだか癪に障るんだけれど。
「それでも、いつまでも潔癖なだけじゃ駄目だと思ってるから、少しは泥に汚れたいと思うんだよ」
大人に大事に守られているうちについた、顔をしかめて目を逸らす癖。
穢れを見過ごせずに、ことごとく言葉でやり込めようとする攻撃性とか。
少しずつでもその刺を削ってゆければいいけれど。
「一気に気張ると、リバウンドが来るからな。その頑固さが、お前のいいところでもあるんだ」
「兄さんみたいにはならないように、気をつけてるけどね」
言ってくれるじゃないか、と雅はからかいを込めて甥を軽く睨んだ。
「まぁ、そうだな。俺は見習わないほうがいいかもしれないな。俺は兄貴に全部押し付けて、結果的に逃げ出したみたいなもんだし。お前は嫡男だし、背負ってるものの重さが違うんだ」
悔しいのは、そうやってこちらを立てようとすることだ。
可愛がられている、といえばきっと聞こえはいいとして。そうではない。おそらくは容赦されている。対等にではなく。
庇護されて、風除けに立たれている。この体の前に。
近くにあるようで、やはり手の届かない距離。相手との距離を正式にはかることも出来ないのは、やはりまだ到達できない域に相手が在るからだろうか。そんなことを思う。近づいてすらいないのかもしれない。
まだ子どもだから。
そうやって甘えていられる時期は、もう終わりだ。疾うに。終わっているのだ。
あとはこちらが、自分が、どうにかするしかない。
戦うしかない。すべてのものと。
「いやぁ、申し訳ない。お迎えが遅くなりまして」
緊張感のない声に、ふたりは同時に声のほうを見た。
屋敷の方角から門へと続く飛び石を踏んで、着物姿の男がこちらに近づいてくる。背後には、黒の着物を着た中年の女性が控えていた。
「悠嵩(ゆたか)殿?」
目を細めるようにして、雅は相手を見た。
所々跳ね返った黒髪は、厚ぼったく伸びている。どことなく、ぼんやりとした印象だ。
思わず都佳沙は、豆鉄砲を食らったようにまばたきを忘れる。
「ええ。そうです。嬉しいですね、名前を覚えていていただけたんですか!」
雅の下まで近づいてきたその男は、問答無用で雅の右手を取って、振り回すように握手を交わした。
「銀悠嵩です。どうも、遠いところをようこそ」
へらりと顔をゆがめるようにして笑って見せて、悠嵩は来客者ふたりを交互に眺めた。
どうぞどうぞ、と母屋のほうへ導かれる。
「ほら、行くぞ」
あまりに予定外の展開に呆けていたらしい。背中を軽く叔父に叩かれて、都佳沙は我に返った。
銀悠嵩。
先に病で倒れた先代の跡目を継いで、この家の当主になった男。当年28歳。
数ある銀の分家の中でも、時折耳にする名だった。
当主を継いでからというもの、少々荒っぽい所業で古風な慣習などを一掃したりした、と聞いたが。
想像していた人間像とあまりにかけ離れていて、正直なところ。
拍子抜けした。
*
さて、どこへ出かけたものか。
客間として宛がわれた和室から、内庭に通じる縁側に出て、その風の冷たさに要は身を竦める。
出かけたいところなら、それこそたくさんある。
京都は修学旅行で一度立ち寄った場所ではあるが、そのときは決められた場所に、決められた時間。お定まりのメニューで処理するような観光。
流れ作業。
(御苑には行けなかったしな……。御所のあたりとそのまわりにお寺もあるだろうし……)
せっかく数日滞在するということなのだから、急いで回ってしまってはもったいないとも思う。
さて、どうしたものか。
―――要。
幻聴に、呼び止められたようにして一瞬足が止まった。少ししてから、何事もなかったかのように、再び歩を進める。
ただ、意識は過去に飛んだ。
そうだ。あの時呼び止められたのも、こんな縁側だった気がする。
銀本家の廊下で。後ろから。威厳のある声が。
―――お前に、話しておきたいことと、聞いておきたいことがある。
足元で、綺麗に磨き上げられた板がぬめるように光る。踏めば軋んだ。
数ヶ月前のある日、要を後ろから呼び止めたのは、銀本家の元当主、今は隠居の身となった銀斎。雅の父であり、都佳沙の祖父だった。
本家の修練場に、不安定な力の制御を目的として通うようになってから、彼は要の師だった。
―――包み隠さず、本当のことを言ってくれ。
普段から威厳ある顔つきはしていた。けれども、そのときは何かが明らかに違っていた。
表情に緊張があった。思わずこちらが居ずまいを正すぐらいに。
いい話ではない。
直感で、そう悟る。
―――近頃一馬に、何か変わった所はないか。
どっと腹部に衝撃を感じたのは、突き当たりの角を右手に折れたその瞬間だった。
反動で何かが廊下に転がるのに、要ははたと我に返る。
「ごめん!」
慌てて、要は出会い頭にぶつかった相手の傍にしゃがみこんだ。
「考え事してて。大丈夫?」
華奢な少女が、廊下にぺったりと座り込んでいた。紅子の傍に控えていた、茜、と言っただろうか。
要が伸ばした手に、一瞬身を竦ませて、それからおずおずと掴まった。
白い指先は、やけに冷たかった。
「うちこそ、ぼんやりしてて……」
ようやく聞き取れるぐらいのちいさな声で、俯き加減に茜も詫びた。
「お兄さん、宗家のひと?」
上目づかいに要を見上げて、茜が伺うように訊いた。
「え……? 厄介になってるけど、違うよ。なんていうか、うまく言葉じゃ言えないんだけど」
「ほんなら、ええわ」
一瞬前までの怯えたような茜のそぶりが嘘のように。にっこりと茜は微笑んで見せた。
「君は、銀の子?」
今日は着物姿ではなかったが、相変わらず纏っている色は白だった。白のワンピース。
揃えられた黒髪など、少々浮世離れした彼女の容姿に、昨日顔を合わせたときから気になってはいたのだ。
すると、茜はゆるりと首を横に振る。整えられた髪が揺れた。
「うちは、御園様に拾ってもろうた子やから」
「え?」
拾う?
「茜、どこにおるんー」
少し遠くから、紅子の呼ばわる声が聞こえた。
「あ、はい! 御園様、今行きます!」
忠犬のような機敏さで、茜は踵を返した。去り際に小さく要に会釈を残して、声のしたほうに駆けていく。
要は、しばらく呆然と立ち尽くして、まばたきを繰り返した。
2.
「ええっ!? 本当ですか!? すみません!」
ひどく情けない顔をして、悠嵩は何度も頭を下げた。
「まさか、連絡が滞っていたなんて。僕はこっちに来て少ししか経っていなくて、全て周りのものに任せっきりになっていましたから……」
今にも泣き出しそうとはこのことか。28とはとても思えない情けない表情で、悠嵩は詫びる。
「悠嵩殿」
「は、はい!」
向かい合わせて座した雅が名を呼んだだけで、びしりと背筋を伸ばす。当主の威厳など、どこを見渡しても無かった。
張り詰めた緊張をほどくようにわずかに外交用の笑みを浮かべて見せて、雅は続ける。
「悠嵩殿は、こちらの言葉じゃないんですね」
「はい?」
「いや、京弁じゃないなぁと思って」
都佳沙は、横目で叔父を睨んだ。こんなときになんと気の抜けた話をし出すのか。
「あ、ああ。ついこの間まで東京にいましたから。僕は次男だったんです。元々は兄がここを継ぐつもりだったらしいんですけど」
「へぇ。次男。おんなじですね」
テーブルの上に置いた腕の先で指を組んで、雅はさらに和やかに話を続けた。
都佳沙は嘆息して、たしなめるのを諦める。
「ご長男は? 崇嗣(たかし)殿、でしたっけ?」
「何でもご存知なんですね。こんな、傍流の家のことまで」
ぼさぼさの頭を掻く動作で、悠嵩は困ったように笑った。
「兄は、父が亡くなった頃に行方知れずになってしまいました」
視線を手元に落としたまま、しょんぼりと悠嵩はこぼす。
「沙汰も無くて。探してはいるんですけど。……恰好のつかない話で」
「そうですか。それは、すみません」
「いいんです。気になさらないで下さい」
そうは言いながら、少し傷ついたような顔で、悠嵩は笑った。
「ところで。……あの一件から夢喰いの方は、お元気なのでしょうか?」
「……ええ」
少しだけ間を置いて、雅は首肯した。
「ご心配おかけして申し訳ありません、彼はもう元気ですよ」
「ああ……それはよかった」
値踏みするように目を少しだけ細めて、悠嵩が言った。
口元にうっすらと笑みが浮かんだように見えた。
都佳沙はわずかに目を見開いて、悠嵩を見る。
違和感。
あきらかな、違い。先程と、今と。落差。
「もしも少し京都にご滞在なさるおつもりなら、ゆっくりお食事でも如何ですか」
しかし、その違和感はすぐに拭い取られ、またのほほんとした顔が戻る。
一瞬の、白昼夢を見せられたような。不思議な感覚だけが残された。
「結構」
跳ね除けるような強さで、雅が言った。
はっと、都佳沙は思わず叔父のほうへ顔を向ける。
しかし、雅は営業用の笑みは絶やさずに、悠嵩を見ていた。
「それは大変結構なお申し出ですね。是非」
言い直した。
「ええ、是非、ご一緒してください」
悠嵩も破顔した。
「……では、本日はこれでお暇します。お話できてよかった」
「以後、気をつけます。申し訳ありませんでした」
「そうしていただけると有難い。なんだかんだで、縁戚ですからね」
「ええ。本当に。本当に、そうです」
うっすらと、悠嵩は笑みを浮かべて見せた。
また、冷気。
「あれは何?」
後部座席の扉を閉めた都佳沙の第一声は、それだった。
雅は黙っている。
何か言おうと試みて、都佳沙は何も言えずに口を噤む。
言葉をうまく掴まえられなかった。
胸に残ったざらつきの名は、知らなかった。
「どう思った?」
安物のライターでメンソールの煙草に火を灯しながら、雅は甥を振り返る。
「どう、って言われても」
それを言い表せないから困っているのだ。とても、一番問題の多い家とは思えなかった。
肩透かしを食らった気分だ。
「気持ち悪い」
ようやく、それだけ言った。
苦手な虫を見つけた少女のような反応に、雅は少しだけ笑って、すぐその笑みを消す。
「あっちがコンタクトを試みてきても」
煙草を吸い込む、間隙。
「いいか? 絶対に応じるなよ」
紫煙とともに、雅は吐き出した。
聞き慣れぬ、張った声だった。
思わず、都佳沙が身構えるほど。
「あいつは多分、道化の部類だ」
銜え煙草のまま、雅はエンジンをかけた。
*
じりじりと、細く白い"筒"の先に火をともして、深く吸う。
「ただの道楽息子かと思えば、なかなか」
ばらばらに零れかかる前髪を後ろに掻きやって、悠嵩は大きな硝子の灰皿を手元に引き寄せた。
「ど、どうだったのです、宗家の嫡男とやらは」
年の頃は30ほどの和服の女が、部屋の隅で落ち着かないようにそわそわしている。
「大丈夫ですよ義姉さん。そんなに怯えることじゃない」
悠嵩は、口唇の端に笑みを刻んで、縮こまっている女に目線を流した。
先刻までの小動物のような頼りない気配は、もう既にどこにも見当たらない。
「確かに、聡そうな子でしたよ。18という割には。けれどもまだ頑なですね。ただ、問題なのは現当主の弟でしょう。あの、本家を出てカメラマンをやっているらしい次男坊。中々どうして、切れますね」
「そんな悠長な……!」
「まだ何も分かっちゃいませんよ。何も、ね」
キャビンの先を灰皿に押し付けて、悠嵩は口唇を歪める。
「夢喰いは京都に来ている。それは確かなんです。だから平気ですよ。全てはとどこおりなく、進みますよ」
未だくすぶる煙草の先から、ほそく、白い煙が天井へとのぼっていった。
3.
「皆、黒い髪なんです!」
捜査本部の扉を開け放つなり、赤城が宣言した。
会議用の机を並べただけのがらんとした部屋にいた刑事たちが、一斉に入り口を振り返る。
「は?」
「せやから、被害者の女性たちがですよ! 皆黒髪でストレートで、ロング」
「で?」
服部が、銜え煙草で先を促した。
「で、って。それだけですけど……」
「アホ! そんなもん、もうとっくにマスコミが騒いどるわ!」
服部に一喝されて、赤城は反射的に頭を庇う。
「ほんまに。マスコミと一緒やな」
言葉とともに、服部は赤城に向かって一冊の週刊誌を放り投げた。
「よう勘繰るで。大変な仕事やな」
その言葉には明らかな揶揄。赤城は、投げつけられた週刊誌をはらはらと捲った。
―――古代の因果! 公家の血筋にまとわりつく呪いか?
「公家……?」
「被害者の血筋を辿ると、全部が全部、平安時代の公家の血筋だとかなんとか。よう調べるもんや。全く、呪いやなんやって、アホらしいわ」
深々と、溜息とともに紫煙を吐き出して、服部は頭を掻いた。
赤城は、紙面に目をやりながら、あの文字を思い出していた。
現場に残された、紅の。
果たして本当に何の意味もないことなのか?
勘繰りすぎなのだろうか。
刑事の自分が思うことではないのかもしれないが、今回の事件は常軌を逸している。
目撃者もいない。凶器も特定されていない。
果たして、"人"なのか。
起源の理。