壱 発端と、それにまつわる幾つかの事柄
その昔、裏のお山に、それはそれは強い法力を持った、鴉天狗が住んでいた。
山の主で、暴れん坊。そんな鴉天狗に都の人間は苦しめられて居ったそうな。
しかしあるとき、その鴉天狗は貴族の姫と恋に落ちた。
姫は、その血筋を辿れば、帝に連なるやんごとなき身。
身分も種族も違う恋情とはまさにこのことよ。
姫はやがて、青い目を持つ子を産んだ。
姫の父は烈火の如く怒り、姫と逢瀬をしていたその天狗を、後ろから百もの矢で射殺した。
白装束はその血で赤く染まり、黒い翼は千切れた。
姫は、悲しみのあまり自ら命を絶ったという。
妖と通じたという噂は都を駆け巡り、御家は見る間に衰退の一途。
さて、ひとり残された子は一体どうしたかって?
残された子の行方や知れず。
これが裏の小山の天狗の話だ。
1.
う、と後方で誰かが口元を手で覆う気配。
さすがにすぐに嘔吐感は催さなくなったものの、やはり見て気持ちのいい光景ではない。
秦野康輔(はたの こうすけ)は青いシートをめくり上げた手をふと止めて、眉間にしわを寄せた。
街からは少し外れたところにある、鬱蒼とした木々に覆われた林。
その林をさらに少し踏み入ったところに、そのホトケは転がっていたのだ。
「これで、3人目ですよ」
傍らに人の並ぶ気配。視界の端に踏み込む、グレイのスーツの足。相手を見上げず、しゃがみこんだままで秦野は言った。
「吐かなくなっただけマシだな、秦野」
「相変わらず肉は食えません」
持ち上げたシートを元に戻して、秦野は立ち上がった。左隣に、自分よりも頭半分ほど背の低い50代ぐらいの男が立っていた。
口の端に煙草を挟んで、ポケットに両手を突っ込んで、足元の青いシートを見下ろす姿は、ドラマが作り出した刑事と言うイメージそのものを具現化しているように見える。
「一体どうなってるんですかね。こんなの、人のすることやないですよ」
「ぼやいても始まらん。聞き込みから始めんかい」
「前の二件だって、目撃者なんておらんかったやないですか……」
「今度はあるかもしれへんやろ! 地道に調べてくしかないんやぞ」
「……そら分かってますけど」
秦野は、横目で一定のふくらみを持ったその青いシートを見下ろす。
そのシートの内側には。
20代前半の女性。
会社づとめのOL。
細身の美人。が。
腹をばっさりと切り裂かれて、その中身をさらけ出すようにして、剥き出しの地面に横たわっているのだ。
周囲に立ち込める生臭い匂いを意識すると、こみ上げてくる何かがある。
一ヶ月ほど前からこれで3件目。お祭り騒ぎが好きなマスコミどもは、「和製切り裂きジャック」などという名前を付けて、楽しんでいるらしい。調べるこちらの身にもなってみろ、と秦野は思う。
ただひとつ、マスコミには公表していない事柄がひとつある。
「今回はどこだ?」
「……腹の肉ですね」
げんなりと、秦野は上司の服部の質問に答えた。
死体は皆、体の一部を喰われた形跡があるのだ。
*
「寒い」
身をすくめて、英要は呟いた。
濃い茶のコートに、白いマフラーと言う出で立ちで、電車からホームに降りたところだった。
呟きと共に吐息が白い霧に変わった。
知らず知らずのうちに手が、コートの襟を掻き合わせてしまう。
寒いとは聞いていたが、想像以上だ。
「相変わらず底冷えするな」
改札を示す掲示板にしたがって、エスカレーターへと向かう要に並んだその男の声は、眠そうだ。
黒のスーツに、膝裏あたりまで丈のある黒のコートという、至ってフォーマルな様相だが、どこか眠そうなその顔では台無しと言うものだ。
「いい加減しゃんとしてよ。だらしないな」
不快、と顔に書いて、要は同居人である成瀬一馬を軽く睨む。
「長距離移動は疲れるじゃないか」
窘められた当の本人は、まさに欠伸を噛み殺している最中。
言うだけ無駄だった、と要は諦めの溜息を落とした。
「お疲れ様」
改札を抜けたあたりで、聞き慣れた声が真横から。
反射のようにそちらを見れば、黒い詰襟のようなコートに黒のパンツ姿。髪さえも黒檀のような色合い。細身で色白の青年が立っていた。
「都佳沙……」
「疲れた?」
少し驚いたように要が瞠目するのに、銀都佳沙は、その涼やかな顔立ちで笑みを作る。
「あれ、都佳沙くん。分家にいるんじゃなかったっけ?」
ここで会うはずのなかった顔に、一馬もわずかに首をかしげる。
「迎えに来たんです。なんだかんだで、ここから分家は結構ありますからね」
やわらかい笑みのままで、都佳沙は応じた。「駐車場に車が」
「そういえば、"元凶"はどうしてる?」
先に立って歩き出す都佳沙の背に、からかい半分で一馬が声をかけた。
ふと、立ち止まって。肩越しに振り返って、都佳沙は苦笑のような表情を作った。
「駐車場に」
*
「遠路はるばるお疲れさん」
"元凶"は、やけに笑顔だった。
営業用またはご機嫌取り、とあからさまに分かるその表情を、一馬は恨みがましく凝視する。
「どういうことか説明してもらおうか、雅」
駅前の駐車場に停めてあったのは、黒塗りの高級車だった。後部座席に乗り込むなり、一馬は運転席の男に追求を始める。
「……なんのことだ」
「とぼけるなよ。ただの観光だけのために俺たちを京都に呼び寄せたわけじゃないだろう」
駐車場を滑り出す車の窓から、一馬は後方を振り仰いだ。
古都京都、というイメージとはあまりにかけ離れた、近代的な駅の外観をもう一度確かめる。
市の、建物の高さ制限さえ変更させたという、その近代的な姿。
全面が硝子張りにされたといっても過言ではないその姿は、午後の光を受けてまばゆく輝いていた。
そもそもこの旅行は、唐突に決まったものだった。
時は、数日前に遡る。
夜も十時を回った頃、居間の電話が鳴り出した。
「はい。成瀬ですけ……」
《京都に来ないか》
手にした子機を耳から離して、思わずじっと凝視してしまうほどに唐突。
声で相手はすぐに知れたものの、一体どういうことだろう。新手の悪戯だろうか。
「どうしたんだよ、雅」
《どうせ暇だろ。京都に来ないか。いや、むしろ来い。来た方がいい》
一気に耳元でまくしたてられて、一馬は黙る。
色々と突っ込みたい場所ならばあるのだが、どこから始めたものか。
どうせ暇、という言葉も引っかかるし、"来い"と命令形なのも気に障る。
「……ってことはお前、今京都にいるのか?」
とりあえず、無難なところから攻めてみる。来い、ということは自分はもう現地にいるのだろうか。
《ああ。……何でだかな》
「何でだか、ってどういうことだよ」
《とりあえず、説明はこっちに来てからする。旅費その他必要経費はあとから俺が出す》
必死だった。
いつもは余裕綽々の文字を背負ったような男のこのような様子は、滅多にお目にかかることなどできない。―――実際に目の当たりにしているわけではないが。
《そうだ要くん、近くにいないのか?》
本当にたった今思いついた、というように雅は要を指名する。
何の用事だ、と問い詰めてみたところで、いいから代われよと向こうは譲らない。
嫌な予感はするものの、リビングから続きになっているダイニングでコーヒーを製作している要に、子機を手渡す。
誰? 雅。そんな短いやりとりのあとに、要は子機を耳に当てた。
五分後。一馬は子機を手渡したことを後悔することになる。
「え? あ、ハイ。受験は終わったんで、学校は自由登校です。え? ……京都!? 行ったことないです。……はい。……いいんですか!? わぁ、前からすっごく行ってみたかったんです、京都」
雅の声は聞こえなくても、どんどん旗色が悪くなっていっているのが、手に取るように分かる。
何よりも、要の瞳がきらきらと嬉しそうに輝いているのが、決定打だ。
あーあ、結局こういう展開か。
こぽこぽと音を立てるコーヒーメーカーの傍で、一馬は頭を抱える。
数分後、期待に胸を膨らませた顔で、要が子機を押し付けてきた。
(あいつ、要が歴史や民俗学に興味持ってるの知ってて―――)
してやられた、と思いながら子機を耳に当てると。
《ということで、お前も来い。要くんはノリノリで同意してくれたから》
「お前な……」
《待ってるからな。とりあえず京都の分家にいるから》
「おい、雅お前」
ぷつり。
あっけなく通話は向こうから打ち切られて。あとは無情な通話音だけが続いた。
「雅兄さんは、分家で居心地が悪いから、援軍を呼んだつもりなんですよ」
押し黙る雅の代わりに、助手席から返事が返ってきた。
「都佳沙……」
恨みがましく雅が、視線だけを助手席の甥に流した。
僕は嘘は何一つ言ってないよ、と都佳沙は完璧な笑顔で切り返した。
「どうせそんなことだろうと思ったよ。京都の分家って西の総元締めだろう? なんでお前がわざわざそこに出向いてるのか不思議に思ってたところだ」
「それもこれも親父がだなぁ……」
左手を逆立てた明るい茶の髪に突っ込んで、雅が口を開く。やけに歯切れが悪い。珍しい。
「最近、ちょっと京都というか西の分家がごたごたしてるらしいんですよ」
「……ごたごた?」
「そうだな、ちょうど……一年前の騒動みたいな感じです」
バックミラー越しに後部座席を見る都佳沙の表情は、苦笑を含んでいる。
一年前という響きに、おそらく車内の誰もが同じ事件を連想したことだろう。
櫛引充という男との接触から始まった、銀の利権争いと、夢喰い同士の"力の略奪"の一件。
車内に、短い沈黙が下りた。
「あの一件があってから、様々なところから"ほころび"が出てきてるみたいなんです。……情けない話なんですけどね」
「平たく言うところの利権争いって奴が西側でも目立つようになってきた。その実地調査に行ってこいって親父に蹴り出されて来たわけだ」
疲労半分、諦め半分。そんな溜息を落として、雅がようやく白状した。
「お前が?」
「そう思うだろ? だけどな、宗家当主を兄貴が継いじまった以上、兄貴はふらふらと出歩くわけにもいかないし、跡取とは言っても都佳沙はまだ未成年だしな。それで俺にお鉢が回ってきたってわけだ」
「お前がねぇ」
しみじみと繰り返す一馬に、なんだよ、と雅は不服そうに返した。
「だってお前、紅子(べにこ)さんと仲悪いだろ」
かわいそうに、と同情するような一馬の口ぶりに、雅は憮然と押し黙る。
「だから一馬さんに頼らざるを得なかったんですよ。あんまりにさみしいから」
「……都佳沙お前、あとで覚えてろよ」
「僕を呼んだだけじゃ足りなかったみたいだからさ。役者不足の僕としては、説明役ぐらい買って出ないとと思っただけで、他意はないよ」
全部本当のことなんだしね、と都佳沙は微笑む。
どうやら、一馬たちよりも先に呼び出されたらしい都佳沙と、呼び寄せた本人である雅の間では冷戦が始まっているらしい。
「紅子さんて、誰なんですか?」
すっかりと話題から弾かれていた要が、車内にたちこめる妙な緊張感に、おずおずと口を挟んだ。
銀家の内部のことは、よく分からない。
「ああ、これから行く、京都分家の当主だよ」
内輪な話ばかりをしてすっかり要を蚊帳の外に置いてきたことにようやく気づいて、一馬は説明を加える。
「恰好いい人だよ。凛としてて、行動力もあって。そこらへんの男より男前かもね」
「強引で我儘で我が強くて、周囲を引きずり回してるだけだろ」
要は驚いて、運転席を見る。雅が人のことを悪く言うのなんて、ほとんど聞いたことがなかった。
「へぇ、それってさ、雅兄さんのことみたいだよね」
車内の時間が、ふと、止まった。
暖房は効いているはずなのに、木枯らしが通り抜けたような気がする。
都佳沙の舌に、容赦がない。
「気にしなくていいよ、要。同族嫌悪ってやつだから」
後部座席を振り返って、都佳沙は凍りつく要に微笑みかけた。
そうなんだ? と、要は無理に笑顔を作って都佳沙に応じる。
機械のように黙り込んで運転に徹する雅を後方から眺めて、随分と都佳沙くんを怒らせたもんだな、と一馬は改めて銀宗家の次男坊に同情した。
2.
空気が重い。四方八方から見えない重圧が迫ってきているような。息苦しい。
気まずいわけではないと言うのに自然と威圧を受けるのは、純和風の建物が醸す雰囲気なのだろう。
思わずしっかりと膝を折り、背筋を伸ばしてしまう。
暖房は効いているのだろうが、見渡す限りに広い座敷は寒々しい。
畳にして、20ぐらいはあるだろうか。
(慣れたと思ってたんだけどな……)
きりきりと張り詰めるような緊張感に、胃のあたりが重くなってくる。要は、無意識にそのあたりを抑えた。
銀の家に出入りをするようになって、和風の建築の威圧感にも慣れたと思っていたのだが、本家とは違う空気感は、やはり京都だからなのだろうか。
「遅うなって、ほんますんまへんなぁ」
さり、と音を立てて、縁側があるほうの障子が開く。
落ちかけた日の橙が、さっと斜めに部屋に差した。
殺風景だった部屋を、たった一人で塗り替える。圧倒的な存在感に、要は少しの間まばたきを忘れた。
背は、女性の平均からすれば少し高めだろうか。艶めく黒髪は後ろでひとつに纏め上げ、顔の右側にだけ、わずかに前髪がこぼれている。
黒地に目が覚めるような赤い牡丹の柄の着物姿だった。
白い肌にくっきりとした目鼻立ち。鮮やかに引かれた紅。
年の頃は20代後半と言ったところか。
艶やかだった。
その女性について、白い着物の少女が続き、開いた障子を丁寧に閉めた。少女の黒髪は肩の上で切りそろえられていて、どことなく座敷童子を連想させた。
「遠いところをようおこしやす」
座敷に居並んだ4人と向かい合わせるようにして、置かれた座布団に膝を折り、鮮やかな赤い口唇を引いて微笑した。
「お久しぶりですね、紅子姉さん。元気そうでなによりです」
「ほんまに久しぶりやねぇ、達者そうで安心したわ。心配したんやから」
要が感じている威圧感や緊張感など全く意にも解さず、一馬はその女性と和やかに会話を交わす。
どうやら彼女が、先程車内で話題に上がった"紅子"という女性らしい。
名は体を表すというが、なるほど、艶やかな女性には似合いの名だと思った。
「せやけど、どういう了見なん。坊だけやのうて一馬まで引っ張りだすやなんて」
すっと目を細める形で、紅子は一番右端に座る雅を見る。瞳から瞬時に温度が消えた。
「お前には関係ない」
ついと視線を逸らして、雅はばっさりと斬り捨てる。
「関係ないことないやろ。ほんまにいやな男やねぇ。この家の主はうちやってこと、忘れんといてくれる」
ちりちりと見えない火花が散る音が、今にも聞こえてきそうだ。
「姉さん、要が怖がってるから」
やんわりと、都佳沙が制した。
すると紅子は、一馬と都佳沙に挟まれるようにしている要に視線を移す。
「いややわ。みっともないとこ見せてしもて。堪忍な」
頬に手を当てて、紅子は申し訳なさそうな顔をする。
「要くんやね。いっぺん会うてみたかったんよ。うちは銀紅子。よろしうな」
「初めまして。英要です」
要は、ぺこりと頭を下げる。
「噂通りのかわええ子やね。そないに堅くならんでもええのよ」
緊張している要の気配を感じ取って、紅子は口元を抑えてくすくすと笑う。
「あ、ありがとうございます」
労わられても、すぐには緊張がほどけるわけもない。けれども、とりあえず礼は言った。
「茜」
「はい」
ふと、紅子は控えた少女に声をかける。
すぐに明朗な返事が返った。
「客間の支度を」
「はい、御園様」
深々と頭を下げると、少女は立ち上がった。
「"みその"?」
丁寧に膝を折って障子を開け、また閉める。少女がこぼした新たな名詞に、要が隣の都佳沙を見た。
「ああ、京都分家の当主は、そうやって呼ばれるんだ」
「銀の家を帝御用達にまで引き上げた、昔の当主の名前なんよ。畏れ多い話やけどねぇ」
都佳沙のあとに続いて、紅子がつけくわえた。
「帝、かぁ」
知識欲がそそられる響きだ。
「詳しく知りたいんやったら、蔵の方調べてもええよ」
「え?」
よっぽどもの欲しそうな顔をしていたらしい。微笑ましいとばかりに顔に笑みをたたえて、紅子が言った。
が、すぐにそのやわらかそうな笑みを消して、場の隅に座る男を見遣る。
「急に誰かさんが呼びたてたんやから、それぐらいはねぇ、お安い御用やわ」
「……引っかかる言い方してくれるな」
「あら、別に悪気があったわけやあらしまへんえ。ひっかかるんやったら、何ぞやましいことでもあるんと違うの」
つんと、紅子は雅の切り返しをかわす。
要は、すぐ隣で一馬が「相変わらずだな」と溜息を落とすのを聞いた。
どうやら、犬猿の仲というのは冗談でも大げさでもないらしい。
どちらもどちらで意地を張っているだけのように見えてしまうのだが、とりあえず、要は口を横に引き結んだ。
触らぬ神に、祟りなし。
「今日は長旅で疲れはったやろ。ほんまに何にもない家やけど、ゆっくりと休んでおくれやす」
凄艶に笑んで、紅子は客人をあたたかく迎え入れたのだった。
3.
ヒールの音が、やけに大きくてうるさい。
ぽつりぽつりと、等間隔にならぶ街灯の明かりは、今夜は何故かあまりにも頼りなかった。月が見えないからだろうか。
気弱になってるだけよ、と彼女は、徐々に鼓動の早まる自分を叱咤した。
いつも通ってる道じゃない。確かに今日はいつもより少し遅いけど。
今まで何もなかったんだから、今日も大丈夫よ。
知らず知らずのうちに、早足になる。
近くで例の、和製切り裂きジャック事件の死体が見つかったって、朝、ニュースで見たから。
だから気弱になってるだけよ。
今まで、犯行は全部郊外とか、林の中だったって言うじゃない。
ここは寂しいとは言っても街の中だし、大丈夫。大丈夫よ。
突き当たりの角を左手に折れると、アパートが見えた。
あそこまでたどり着いたら、お風呂に入って、ベッドに潜り込める。
ほっ、と胸を撫で下ろした。知らず知らずに安堵の吐息が落ちた。
余程急ぎ足で歩いていたのか、じんわりと内側から汗が滲み出してくるのが分かる。
馬鹿らしい。私、なに怖がってたんだろ。急におかしくなって、小さく笑った。
先程までは自分のヒールの音すら怖かったと言うのに。今では、かつかつとアスファルトを打つその音が心地いい。
小さい頃、母の靴を拝借して歩いたときのことを思い出した。こういう硬い音が、昔は憧れだったのだ。
軽やかにアスファルトを打つ音は、ゆっくりとアパートに向かってゆく。
その足音は突然にぷつりと。
止んだ。
―――これも、違う。