雑食動物は飽食の夢を見るか
生マレ乍ラニ其レハ、課セラレタ宿痾デアル。
生キ抜ク為ニ殺シ合フ事ヲ予メ、決メラレテ居ル。
コノ世ニ生マレル事ノ、何ト血生臭ク、酷タラシイ事カ。
喰ラフ事ハ、穢レ行ク事デアル―――。
1.
頬に当たる風が、鋭く、つめたくなってきた。
そろそろ制服の上に何か、防寒用の装備を整える頃かもしれない。
十一月。
夏に比べれば、格段に日は短くなっていた。掃除当番を終えて学校を出た頃にはもう既に、空は紫色から紺色のグラデーションを描いていた。
英要(はなぶさ かなめ)は、正面から吹き付けてくる風に目を細める。アスファルトの上を、どこから転がってきたのか枯葉がからからと音を立てて転がっていった。
駅前に広がる商店街の中を歩いている。家とは全くの反対方向だ。
もう日も暮れるというのにわざわざ家と反対の方向へ歩いて来たのは、同居人が構えている事務所に用があるからで、簡単に言えばおつかい、だ。
(ガムテープとホチキスの針とゴミ袋なんて、自分で買いに行けばいいじゃないか)
少し歩けば商店街なのだから、自分で何とかして欲しい。
同居人の自堕落も、ここに極められたり、だ。
内心でぶちぶちと文句を呟きながら、要は目の前の通りを左に折れる。商店街から少し離れたところに、小さなビルが立ち並ぶ界隈があって、そのこじんまりとした月極駐車場の隣。
二階建ての建物が建っている。
一階は不動産会社。窓には所狭しと物件の紙が張り付けられている。
そして、その二階が要の目的地だ。
目的地を目前にしたとたん、更にふつふつと怒りが込み上げてきた。右手に下げたビニール袋が不快なぐらい重く感じる。
大股で荒々しく、要はその建物に近づいた。どんな文句を言ってやろうかと、少々残虐な気持ちで考える。
階段の入り口に、鈍い銀色のポストが張り付いている。飛び出しているダイレクトメールや諸請求書を引きずり出して、裏返したりしていると、ふと上から影がさした。
「あの……」
隣に立った人影が呼びかけてきた。その声に導かれるように斜め上を見上げると、顔があった。
青白い、頬のこけた、30代ぐらいの男の顔だ。
「はい?」
片手にビニール袋と鞄、もう片手に郵便物の束を持ったまま、要は応えた。
*
けたたましい足音が階段を駆け上ってくる。
事務用デスクに備え付けの、キャスターつきの事務用椅子に座り、新聞を広げながら、事務所の主は煙草に火をつけた。
一息吸い込んで、紫煙を吐き出すのとほぼ同時に、ばたん、と大きな音が響き渡る。
必要以上の力で、正面にある扉が開かれたのだ。
「要、頼むから壊さないでくれよ」
緊張感のない声音で、成瀬探偵事務所の主、成瀬一馬(なるせ かずま)は言う。広げた新聞のせいで扉は見えないのだが、相手を間違えたつもりはなかった。
何しろ、来客はほぼ皆無なのだから。
「で、でた……」
長距離走を終えた後のように息を乱しながら、少年の声が言った。
「出た? 幽霊ならいつものことじゃないか。今更、驚くことでもないだろう?」
灰色の紙面に、深い青の瞳を向けたまま、一馬は非常識なことを当たり前のように言った。
銜え煙草のせいで声がくぐもっていて、緊張感がない。
同居人である英要という少年は、少々特異な体質なので、血まみれの女性と路上ですれ違ったとしてもそんなに慌てたりはしないはずなのだ。
「違うっ!」
威嚇するように要が叫んだ。入り口から一歩も入ってこようとしないその気配に、さすがに一馬も怪訝に思う。
新聞を下ろした。
真正面。完全に開け放たれた扉を左手で押さえたまま、ブレザー姿の少年が立っている。
栗色の髪と瞳を持ったたいそうな美少年だ。が、その表情は今や怯えに歪んでいた。
新聞をたたみ、そんなに吸ってもいない煙草を揉み消すと、一馬は腰を上げた。
「何が、どうしたって?」
「だから、出たんだよ。へ……」
「"へ"?」
だらしなく緩めたスーツの襟元もそのままに、一馬は、要が床にばら撒いたダイレクトメール等々を拾い上げた。
「変態が……!」
嫌悪感も露に、要が吐き出した。
「どこで」
郵便物をまとめ、改めて要の前に立つ。
すると要は、少し震える指先で、階段を指し示した。指先は斜め下を向いている。「そこ」
「……。へぇ。美少年は大変だなぁ。あ、おつかいご苦労様」
一拍置いて、心配どころか寧ろ感心する勢いで、一馬は頷いた。要が右手に下げているビニール袋を受け取った。
要は、その対応に完璧にフリーズしている。
「ちょ、ちょっと!! 冗談じゃないんだってば! 『食べたいんですけど』って言われた僕の身にもなってよ!!」
今にも泣きそうな声で要は必死に訴える。それには、さすがに一馬も眉をひそめた。
「そんなこと言われたの?」
デスクの上にダイレクトメールとビニール袋を置き、まだ入り口に立ち尽くす要を振り返った。
「肩、掴まれてね……」
思い出すのもおぞましい、という顔で要は付け加えた。
世の中には奇妙な人種がいるものだと、一馬は半ば感心し、半ばあきれた。
確かに目の前の少年は、時折女の子に間違えられるほど秀麗な顔立ちだが、男子校生のブレザー-姿でまさか間違えたわけもあるまいに。
そもそも、それ以前にその"変態"と呼ばれた人間の発言自体、色々とマズいものではあるのだが。
「とりあえず、中に入りなさい。寒くなってきたんだし」
潔癖な要には耐えがたい屈辱だったのだろう。ショックに半ば自失気味の少年は、室内に入るという手順を忘れている。
うん、と小さく頷いて、要は事務所に踏み込んだ。なんとなく足元が覚束ないのに、よほどショックだったのだろうなと一馬は同情した。
フラフラと要が室内に入り込んだのを見計らって、一馬は扉を締めた。いや、閉めようとした。
「うわ!」
素っ頓狂な声をあげて、一馬は扉を閉めかけた体勢のまま固まってしまった。
目の前に突然、見知らぬ男が現れたからだ。この男はいつ階段を上ってきたのだろうか? 全く気付かなかった。
線の細い男だった。俯いて、そこに立っている。
なにやら体が重そうなのは、淀んだ空気を背負っているからか。
少し眺めの前髪が、男の顔の輪郭や表情を隠してしまっていた。
背後で要が息を呑んだ。
空気が凍り、時間が止まった。
「あの……」
男が、かよわい声を出した。
俯かせた首を持ち上げて、一馬と、その肩越しの向こうの要とを見る。
「成瀬探偵事務所は、ここですか」
随分と憔悴したその男は、か細い声で訊いた。
時間が再び、動き始めた。
*
「本当に申し訳ない」
窓際にある応接用のソファーに沈み込んだ坂上―――先程の男は坂上昇(さかがみ のぼる)と名乗った―――は、深々と頭を下げた。
「どうも、意識が朦朧としていて変なことを口走ってしまいました。そちらの方には本当に失礼を……」
事務所内に、コーヒーの香りが漂っている。
要が慣れた手つきで、坂上の前にコーヒーのカップを置いた。まだ少し堅い表情で、「いえ」と返す。
本人としては、あそこまで狼狽した自分が逆に恥ずかしいようだ。
「いや、いいんですよ、気にしないで下さい。元々ちょっと、慌てやすい子ですから」
あははは、と調子に乗った一馬の目の前に、がっちゃん、と凄い音を立ててコーヒーカップが置かれた。
勢い余って、中身の液体が飛び出し、テーブルに小さな池を作る。
突き刺さるものを感じて、そちらを見上げると、射殺すような絶対零度の視線と目が合った。
あとで覚えていろよ、と目が言っている。
絶対零度の視線でしばらく一馬を串刺しにしてから、要はくるりと踵を返した。つくりつけのキッチンの方へ消える。
一連の流れに完全に取り残された坂上が、呆然と固まっているのに、一馬はとりあえず笑った。
「いつものことなんです、お気になさらず」
とりあえず坂上は、はぁ、と頷いた。
そうは言うものの、後でどれぐらいの"お小言"を食らうか分からない。覚悟は決めておかなければならない。
「ところで、坂上さん。今日いらっしゃったご用件ですけど、『食べられない』って、どういうことですか」
気を取り直して、一馬は本題に入った。坂上がこの事務所を訪ねてきた理由は、「食べられないから」ということだそうだが。
それは一体どういうことなのだろう。
「食べ物を目の前にすると、急に食欲がなくなってしまうんです。なんだか、食べることが気持ち悪くなってしまって、それで……。病院にも行ったんですが、原因が分からなくて。いくら考えてみても思い当たることがひとつしか―――夢しか、なくて」
「夢……ですか?」
「食べている夢なんです。夢では食べているんですけどね。というか、ここ最近は何かを食べている夢しか見ないんですよ。それで、目を覚ましてみると食欲がなくなっていて」
坂上は、憂いを帯びた瞳を伏せた。膝に乗せた腕の先で絡めた指に、視線を落とす。
しばらく絡めた指を握ったり開いたりしたあと、顔を持ち上げる。
「どういうことなんでしょうか」
まるで縋るかのように凝視してくる坂上の目元は落ち窪んでいる。頬の線も鋭く、とても健康的とは言えなかった。
その、強い視線を受け止めかねて、一馬は斜め上の中空に視線を逃がす。ううん、と小さく唸って、首の後ろ側を掻いた。
「今までに前例がないことなんで、一概には言えませんが……。確かに気にはなりますね。調べてみないことには今はなんとも……」
瞭かに坂上はやつれている。聞けば、もう2ヶ月ほど食べられない状態が続いているらしい。空腹感はなくとも、やはり体力は落ちる。栄養は点滴などで補っているとは言うが、やはりそれにも限度があるだろう。
状況は思わしくない。危険であるのも分かっている。そのために、一体何をすればいいのかも。
分かってはいるのだが。
ふと、一馬は自らの右手を見る。
出来れば力を使わずに済めばいいのだけれど。
「ええと、じゃあ、具体的な夢の内容とか、覚えていることがあれば」
それが、と切り出しかけて、坂上は口ごもる。首をひどく重そうに、ゆるりと横に振った。
「何かを食べているということだけは覚えているのですが、あとはおぼろげなんです。自分でもよく覚えていないので何が原因なのか……。それが、この間たまたま成瀬さんの噂を耳にして、それで」
宿っては長く治らぬ病を、宿痾(しゅくあ)と呼ぶ。
ならば、この身に宿るものは宿痾ではないだろうか。
いや、病などではない。あとから喰らいついたものではない。
生まれたときから、引きずってきた、それは本能なのだ。
この体に宿るその力は、もって生まれた、持ち物なのだ。
そんなことを、いつも思う。
「夢喰いという力の話を、聞いて、来ました」
化け物の名を呼ぶように声を強張らせ、坂上が言った。
*
沈黙。
一馬と坂上はしばらく黙り込んで向かい合っていた。
その沈黙を破ったのは、せとものか何かが割れるような甲高い音だった。緊張の糸を切るような音だった。
少しして、つくりつけの台所から、ワイシャツ姿の少年が現れた。人差し指を口に銜えているところを見ると、割った欠片で切ったらしい。
無言で事務所内を横切り、要は部屋の隅の物置から掃除機を引きずり出した。
掃除機特有の騒音がしばらく続いて、やがて止んだ。
再び掃除機を元の場所に戻す気配を察知して、一馬はソファーの背もたれに腕をかけて振り返る。
「怪我は?」
要は丁度、デスクの上に乗せた救急箱から、バンソウコウを引きずり出しているところだった。
無言で右手の人差し指を一馬の方へ向ける。
人差し指の腹が、予想以上に豪快に切れていた。
「あんまり痛くはないけど」
と断ってから、要は消毒液を滲ませた脱脂綿で傷口を拭う。
白い綿に、赤い血液が見る間にしみこんだ。
「あの、白い皿。一枚割っちゃったよ」
丁寧に血を拭いながら、ようやく要は申し訳なさそうに小声で呟く。
「ああ、別にいいよ」
応じて、一馬は体を前に戻した。どうやら大したことはなさそうだ。
次の瞬間。
目の前で、坂上がずるりとソファーから崩れ落ちた。
一瞬遅れて、けたたましい音。
応接用のテーブルにぶつかって、それでも収まりがつかず、坂上の体は無様に床に転がった。
激しく波立った、手もつけられていなかったコーヒーが、テーブルの上に派手に海をつくる。
「坂上さん……!」
床に蹲るようにして、坂上は激しく咳き込んだ。
「……は、……などで、はな……」
激しく咳き込む合間に何か、途切れ途切れの言葉が零れる。
ソファーを立って、坂上の傍へ回り込んだ一馬にも、その言葉ははっきりとは聞こえない。
ソファーとテーブルの位置をずらして、不自然な形で床に転がった坂上の体を、仰向けに返す。
忙しない呼吸を繰り返すその顔は、血の気が引いて青い。
「さ、…よ…」
口唇がかすかに動いて、それだけを漏らした。
「大丈夫なの?」
後ろから様子を覗き込んだ要が訊く。
「いや、分からない。ただ……」
「すみません」
動かしていいものか分からず、ただ、額に脂汗を浮かべる坂上を見下ろしているところに、凛と張った女の声が割って入った。
振り向けば、入り口の扉がいつのまにか開いている。艶やかな色彩が、殺風景な事務所に広がる。そこに花が咲いたようだ、とはよく言ったものだ。
艶やかな黒髪を背に流した、朱の着物姿の17、8の少女がそこに立っていた。小柄で、顔はまだあどけなさを残している。
気高く、うつくしかった。
少女の黒目がちの瞳が、床に転がる坂上を見とめて、少し細められた。
「お邪魔致します。成瀬探偵事務所はこちらですね」
その清楚な居住まいに、突然、事務所内の雰囲気がひきしまる。
まるで一昔前の時代に引きずり戻されたような錯覚を覚えた。着物姿が堂に入りすぎている。
「わたくし、坂上幾(いく)と申します。兄を迎えに参りました」
2.
事務所の隣にある、月極駐車場。その定められた場所に。
見慣れない車を見つけたのは、坂上が訪ねてきてから3日後の、土曜日のことだった。
午後の間、事務所の留守番を頼まれた要は、その青いスポーツカーに小首をかしげる。
一馬の車は今日は車検に出すはずではなかったか。だから、留守番を頼まれていたのだ。そんな用事でもなければ、あまり人の出入りのない事務所のこと。閉めて出かけても問題はない。
そもそも、一馬の車は黒の国産車だし。
郵便受けを確かめ、階段を上る。いつもどおりに事務所の扉を開くと、金に近いベージュの髪を翻して、人影が振り返った。
「あ。おかえりー」
色素を抜いた髪を背の中ほどまで綺麗に伸ばした、細身の美人がデスクの前に立っていた。
青いシャツにパンツ姿という、実に簡素ないでたちだ。
「姫架さん、寒くないの?」
要は、首に巻いたマフラーをほどきながら訊く。
銀姫架(しろがね ひめか)は笑って言う。全然平気。
姫架は一馬と要、共通の知人で、彼女もまた少々普通ではない力の持ち主だが、それを除けばごくごく普通の女子高生である。
「カズマは?」
周囲を見回してみても、事務所の主の気配はない。
今は何の役割も持たない応接用のソファーに、鞄とマフラーを置いた。
「調べものがあるって出かけちゃった。思ったより早く車検の人が車取りに来てさ」
「調べもの? カズマが?」
空から槍でも降ってこなければいいけれど、と要は思った。
普段、能動的に動く人間ではないのだ、成瀬一馬という人間は。自分から調べものなど、ありえないと言ってもいい。ところがここ数日どうも活動的なので、要は少々怯えている。
「あ、ところで駐車場の青い車って……」
誰の、という残りの言葉を、要は飲み込んだ。良くぞ聞いてくれました、とばかりに姫架が顔を輝かせたからだ。
……まさか。
「あ、た、し、の〜」
嬉々として姫架が宣言した。
「姫架さん、車なんて持ってたっけ……?」
恐る恐る、少し遠まわしに訊いてみる。
すると、姫架は何故か勝ち誇った顔をすると。
「実は、免許取りたてだったりするんだよねっ!」
語尾に音符マークをつける勢いで、姫架は言い放った。
姫架さん運転できるの、という疑問を、何とか要は咽喉から下に押し下げる。それは生命を維持するために口にしてはいけない部類の言葉だ。
そうこうしているうちに姫架が印籠よろしく免許証を取り出したので、要は謹んでそれを拝見した。
彼女はなんと言うか、豪快な性格なので、その性格がそのままドライビングテクニックに流用されるとしたら。
……考えないことにしよう。
「ただいま。あれ、要来てたのか」
タイミングよく、事務所の扉が開いて、主が現れた。
要は矛先を向ける相手を発見して、ぐるりと振り返る。
「来てたのか、じゃないよ! そっちが留守番を頼んでおいてさ。その言い草はないだろ?」
一馬は、相変らずの襟元の緩んだスーツ姿で、少し長めの黒い前髪を後ろに掻き遣りながら苦笑する。
「思ったより早く車を取りに来てさ。丁度遊びに来てた姫が留守番を買って出てくれたんだよ」
それならそれで、連絡のひとつでも入れて欲しいものだ。要は不機嫌そうに顔をしかめる。学校からここまでは、自宅に歩くよりも遠いのだ。
歩き損だ。
「……それで、どこに行ってたの?」
一馬が片手になにやら茶封筒を抱えているのを見咎めて、要は訊いた。
「図書館まで」
その、手の中の茶封筒を軽く持ち上げて見せて、一馬は事務所を少し大股に横切る。
デスクの上にそれを投げ出した。
図書館? よりにもよって? 要は更に困惑の度を深めた。
別に一馬が本を読むのがおかしいわけではないのだが、どうも図書館という公共施設に踏み入って調べ物をしているという姿が想像できない。
いつもならば、依頼を受けるのも渋々重い腰をあげる感じだというのに、この活動的な様はなんだろう。
自ら進んで調べものとは? 何かがおかしい。
「それで、これから少し出かけるから。そうだな、今日はもう、家に帰れないかもしれない」
勤勉な様子を奇怪に思われているとはつゆ知らず、一馬はそんなことを言った。
事務所内を歩き回りながら手早く準備をはじめる一馬に、要は本格的に気色悪くなって怯えた。
「……出かけるって、どこに?」
「サカガミヤマ」
即答された。それをすぐに頭の中で変換することが出来ず、要は何度かまばたいた。
「"サカガミ山"? どこ、それ」
どこかで聞いたことがあるような名前だが、一体、どこでだったろう?
「坂に上って書いて坂上山さ。ここから……そうだな、2時間ってところかな。その山のふもとに、坂上村っていう村がある」
坂上。何度かその名前を口の中で繰り返し、ようやく要は嚥下した。
坂上?
「……三日前に訪ねてきた人、坂上、だったよね?」
そうだ、と一馬は頷く。
「でも、その坂上さんは、結局ここで倒れて、妹っていう人に連れて帰られて、それきりじゃないか」
三日前。
この事務所で急に倒れた坂上昇は、突然現れた妹と名乗る坂上幾と、彼女が連れてきた数人の屈強な男たちに運ばれて、帰っていった。
妹と名乗った幾は、「兄が大変ご迷惑をおかけしました」と、言うばかりで詳しい説明は何ひとつなかった。
着物姿の背を凛と伸ばし、深々と頭を下げ、それでは、と引き上げていったのだ。
呆気に取られている一馬と要を残して。
「どこかで聞いたことがある名前だと思ったけど、もしかしたらと思ってね。少し気になっていたんだ」
一馬の説明は一向に要領を得ない。デスクに座って、図書館から持ち帰った資料を茶封筒から引きずり出し、はらはらとめくる。
「だから……!」
「見えたんだよ」
見るともなしにその資料を指先で弄びながら、一馬が呟いた。
「潜ってもいないのに、相手の夢が見えた。一瞬だけど」
「……そんなこと、あるの?」
横から姫架が口を挟んだ。
「時々ね。よっぽど強力な思念の具現化か、波長が似ているか、そのどちらかに限られるけど」
一瞬、脳裏にフラッシュのように焼きついて消えていったいくつかの情景がある。
あの短時間、坂上と向かい合った間に、だ。
「それでどうしても、気になってしまってね」
一馬はぼんやりと中空を眺めている。その、深い青の瞳が一体どこを、何を見ているのか要には知りようもない。
あの日、その目が一体、どんな"夢"を垣間見たのか。
「それに、坂上さんの忘れ物も届けないといけないしね」
言って、一馬は机の引き出しから黒い革の財布を取り出した。机の上に乗せる。
「倒れたときに落として、そのままだから」
それは、"ついで"で、"口実"のように思える―――。ふと、要は嫌な予感を覚えた。
「まさかカズマ、わざと財布を忘れてることを言わなかったんじゃ……」
「まさか! 俺がそんなことするように見えるのか?」
やけに大げさに、即、否定が返ってくるところが尚更怪しい。どことなく棒読みに聞こえる。
普段の昼行灯モードの一馬なら、そんなことはしないだろう。が、一度こうと決めてしまうと頑固で、そのためには手段を選ばないところがある。
財布の忘れ物に気付きながら、あえて口にしないということぐらい、平気でやってのけるだろう。
何故それほどまでに坂上にこだわるのかは知らないが、相当この一件にご執心のようだ。
「……ということなんだけど、運悪く丁度足がないんだよなぁ。―――あ!」
ぼそぼそと独り言を呟いたあとに、はっと何かを思い出したらしい一馬は、傍らの姫架を見上げた。
「姫架ちゃん、車貸し―――」
「ヤダ」
即答だった。
「姫〜」
「イ、ヤ、です〜」
情けない声を上げる一馬だが、姫架はにべもない。
「せっかくの新車だもん。そう軽々と人に貸せるわけないじゃん」
「そこをなんとか」
もはや一馬は拝む勢いだ。
「イヤです。連れてってくれなきゃイヤ」
「―――は?」
「坂上山にあたしも連れてってよ。そしたら車、貸したげる」
語尾にハートマークをつけて、姫架はデスクの向かい側から身を乗り出し、一馬に迫った。
「坂上って、あたしもどこかで聞いたことある名前だし、邪魔はしない。足手まといにはならないはずだし、車も心配。ね、いいでしょ?」
これでは脅迫だ。
要はふたりのやりとりを突っ立ったまま傍観していた。割ってはいる余地がない。
だが、これこそが口実だと、要は思う。
何をどこでどう間違えたものか、姫架嬢は、この万年昼行灯の代名詞のような探偵に好意を持ってしまっている。
結論としては、ただ一緒にいたいだけの口実、だ。
まぁ、いいけどね。要は応接用のソファーに腰を下ろして、内心で呟く。
自分に何らかの影響が及ばないのであれば、別に構いはしない。ふたりで坂上山に行ってきたらいいじゃないか。
そうそう。このまま傍観者でいられるなら別に何も支障は―――。
「要も行きたいよね〜?」
「は!?」
なにやら耳が信じられない言葉をとらえた。思わず要は大声で訊き返す。
背もたれに腕をかけて振り返れば、すぐ後ろに姫架が立っていた。
「姫架、さん?」
これは一体どういうことなのだ? と要は目で訊いた。
すると、姫架は要の耳に口唇を寄せて、声を落とす。
「お願い要、ついてきて」
何を言い出すのだ、急に?
「僕がいない方が都合いいんじゃないの?」
思わず要も声を低くしてしまう。
「ふたりきりじゃ困るの〜」
「何が困るんだよ、ふたりで行ってきなよ!」
僕を巻き込まないでくれ、と要は祈りを捧げた。
「お願い〜」
が、逆に今度は両手をぴたりと合わせて、拝まれてしまった。
姫架は金茶の髪に灰色のカラーコンタクト、美しい紋様の入った長い爪という取り合わせの、いわゆる派手めの女子高生だが、内側はというと、大層純なお嬢さんなのである。
おそらくふたりきりでいると、緊張するだのというつもりなのだろう。
「そんなこと言われてもさ……」
「かーなーめー……」
このままでは次は、最終手段「泣き落とし」が始まる。
元々要は頼まれるということに弱い。それが女性からとなれば尚更だ。
結局。
こくり。
首を前に倒してしまった。勝負は決まった。
いわゆる、負けである。
「要も行きたいって!」
姫架が高らかに宣言すると同時に、要はもう後悔していた。
今日は事務所に来るんじゃなかった。
3.
きっとこれはのろいなのだ。
いや、違う。
生まれたときからそうだったのか?
もう全て決まっていたのか?
そう認めたら、少しばかり楽になった。
そうか。
生まれたときから、他の有りようもなく決まっていたのだ。
空が空であるように。
ばけものだったのだ。
はじめから。
*
坂上村。
ぼろぼろと剥がれかけた路上の案内板の、示す矢印に従って左に折れる。
うねる山道を上るうち、周囲の景色は鬱蒼と、どんどん寂しくなった。
様々に色を変える山を覆う緑。その山道を上る、青い新車はあまりにも不釣合いだ。
日は暮れかけていた。
後部座席におさまった要は、シャツの上から腕をさする。寒くなってきた。
昼間の寒さとは質が違う。夜の寒さは、ひたひたと寄ってくる。
ゆるりゆるりとうねる山道を上っているせいで、今一体どこにいるのか徐々に分からなくなってきた。気分が悪い。
先程から、左手を崖にして車は山を登っている。右手のガードレールの向こうには木々しか見えない。黄緑、緑、深緑。とてもその三種だけでは区別できない葉の色が、風に揺れてまざりあい、眩暈がした。
車内は随分前から無言だ。
別に誰も諍いをしたわけでもない。ただなんとなく、この山の雰囲気に呑まれ、口が重くなっているのだった。
どうして突然、こんな山奥にまで出かけてくる気になったのだろう?
後部座席から、運転席に収まったスーツ姿の男を見つめて、要は今日何度目かの自問をする。
繰り返すようだが、成瀬一馬は、一応私立探偵の看板は掲げてはいるものの、極度の面倒くさがりだ。
特に今回のように、探偵の依頼ではなく別件―――副業のことだが―――の依頼は、訳あって本人は好まないのだが。
それに、坂上と相対したときに垣間見えたという夢の断片についてすら、説明してもらってはいなかった。なにひとつ。
(尖ってる―――)
要は、運転席の男から、少し張り詰めた空気を感じた。
普段はのほほんと、全く緊張感のない男なのだが。どうも、数日前から何かがずっとおかしい。
普通ではなかった。それがなんとも居心地が悪く、気味が悪い。
ふたたび左に折れたところで、今度は下り坂になった。
突然の下降にふと我に返って、要は窓の外を覗く。
村が、あった。
山の中にある盆地に出来た村らしい。見渡す限りに広がる田畑の間に、ぽつりぽつりと家が見える。
これほどまでに人里から離れて、不便ではないのだろうか。
それとも昔の人々は自給自足だったから、困らなかったのか。今は不便だろう。ここまで上ってくるのに車でも1時間はかかった。
一応道路は舗装されているが、ほそい。
公道からはずれ、その細い道を左右に畑を見ながら真っ直ぐに進むと、やがて巨大な門に突き当たった。
木で作られた門だ。武家屋敷や寺にあるもののようにそれは大きく、茶であったはずのものがすっかりと黒に近いまでに色が変わっていた。この門が重ねてきた年数が、生半可なものではないと知れる。
門の左右には白い提灯が下げられ、それにはおそらく家紋だろう、三角の印が描かれていた。
門扉はぴしりと閉ざされている。
一馬はそこで車を止め、運転席を降りた。
助手席の姫架と要は顔を見合わせてから、同じように車を降りた。
一馬はポケットに両手を突っ込んだ体勢のまま、門の右側に立っている。
彼の見上げる視線の先に、これもまた変色した表札があった。
坂上。
「ここが、坂上さんの家なの?」
想像していたどれとも違ったが、坂上昇を引き取りにきた妹の着物姿を思い出せば、あまり意外でもなかった。
声をかけても、一馬からは何の返事もない。生返事すらないのだ。
仕方がないので、要はぐるりと周囲を見回してみた。
瞭かにこの家だけが異質だ。周囲は普通の農家だし、ここだけが浮いている。
巨大な門、提灯。典型的な日本屋敷だ。表札の少し下にへばりついているインターホンが、不似合いすぎておかしい。
と、思っているうちに、調子のおかしい探偵が、躊躇いもなくそのインターホンを押した。
「うわ、ちょっと……!」
いくらなんでも躊躇いがなさすぎはしないか? ちょっと待って、と制す間もなく、電子音が鳴り響いた。
間をおかず、「はい」と抑揚のない声が返った。機械を通した、少しエフェクトのかかった声だ。
「どうも、突然すみません。先日坂上昇さんにお尋ねいただいた成瀬探偵事務所の成瀬一馬と申しますが」
固まっている姫架と要になど全く構わずに、一馬は軽快に話し出した。
≪はぁ、何の御用でしょうか≫
「昇さんが事務所に忘れ物をしていかれまして。遅くなりましたがお届けに上がったんですが。ご在宅ですか」
いつもの倍以上に口が動いている。すっかり営業用の貌(かお)だ。やはり、たがが外れている。
いつもは押さえ込んでいるいろいろなものが、今日は剥き出しになっているような気がした。
≪昇様は只今体調を崩しておりまして、その……≫
歯切れが悪い。
「では、幾さんはいらっしゃいますか。"成瀬と言っていただければ分かります"」
突然何を言い出すのだろう? そんな含みをもたせる言い方など、してもいいのだろうか?
少々お待ちください、と抑揚のない声が下がり、しばらくの沈黙の後。
≪替わりました。幾です。先日は失礼致しました。成瀬様ですね≫
幾は、成瀬という部分をやけに強調した。……ように、要には感じられた。
はい、と一馬はその反応が至極当たり前のように頷いた。
≪わざわざこのようなところまでありがとうございます。只今迎えのものをやりますので、どうぞ、中に≫
幾の言葉が終わるか終わらないかの内に、扉はきしんだ音を立てて、内側に開いた。
「機械、かな? 自動ドア? 変な感じ」
自ずと開く扉に、姫架はそう感想を添える。
しかし、要は別だ。扉自体がまるで生き物で、それが口を開いたかのように、思えたのだ。
さっさと敷居を跨いで行ってしまう一馬と姫架の背中に、要は少し躊躇った。
喰われるような、気がした。
*
たかが財布ひとつ。届けただけで、こんなにももてなされるものなのだろうか。
三人は、客間に通されていた。
自ずと開いた門の内側。玉砂利の敷き詰められた広い庭を、飛び石を踏んでしばらく歩いた。
元々旧家に生まれているらしい一馬と姫架は、目の前に広がる日本庭園にたじろぎもしないが、要にとっては威圧的だ。
調和がありすぎて、侵し難い。
しばらくして、向こうから和服姿の男が現れた。三人の前まで来て、何度も頭を下げた。
「ご足労頂きまして、有難く存じます。ここからはわたくしがご案内いたします」
小さな男だった。165センチの要よりも頭ひとつ分ぐらい低い。
年の頃は四十、いや五十は過ぎているかもしれない。すっかりと頭は禿げ上がっていた。
ぎょろりと目が大きく、まるでカエルのようだ、と思った。人が良さそうで、にこにこと愛想良く笑っている。
その男に導かれるまま、目の前に現れた巨大な日本屋敷に上がりこんで、それから。
この客間で待たされている。
正直なところ、要はあまり正座は得意ではない。その上、静謐なこの空間の醸す雰囲気も、息苦しい。
目の前にある漆塗りのテーブルの上に出された茶は、手がつけられないまま冷めてしまっていた。
先程から姫架はというと、しきりに客間の中を見回している。珍しいのではない。まるで虫か何かを視線で追っているような動きだ。
一馬は。
黙っている。
だから、残りのふたりも無言だった。
白い障子から、暮れかけた赤のひかりが零れてくる。しずかだ。
その静寂を壊すことなく、さらりと障子が開いた。
赤だ。鮮やかな、赤。
すっと、そこに視線を奪われた。白地に艶やかな、赤い牡丹が描かれた着物を纏ったうつくしい少女がそこに、立っていた。
後ろに先程の男を従えて、敷居を跨いでくる。
陰鬱な空気がさっと、清浄になった。清風(かぜ)が、吹き込んだように。
「大変お待たせいたしまして、申し訳ございません」
深々と頭を下げる坂上幾を見て、ふと、隣に座った姫架が「あれ?」と零した。
その横顔を覗き込めば、姫架は少し驚いた様子で幾を見ている。
「姫架さん、どうかしたの?」
声をかければ、はたと我に返った様子で要を振り返る。「……えっと、別に。ごめん。なんでもない」
彼女にしては珍しい、歯切れの悪い返答だった。だが、それ以上は訊けなかった。
幾はテーブルを挟んで向かい側に座した。
一馬と向かい合う形になる。
「先日は、失礼致しました」
幾は、うつくしく頭を垂れた。白の着物の肩を、さらりと黒髪が流れた。
「いいえ、こちらこそ、突然押しかけてすみません。日暮れ時に」
「お届けいただいた財布は確かに兄のものでした。兄に代わりましてわたくしがお礼を」
ふたたび幾は頭を下げる。
「ところで幾さん、その昇さんなんですが」
幾が頭を持ち上げるのを待ってから、一馬が口を開いた。
「お体の調子が良くないようで。少しでも、お会いすることはかないませんか」
「兄に、御用ですか」
そこではじめて、幾はその端正な顔にわずかに困惑の色を刻んだ。財布を届けるだけが目的ではなかったのか。
「幾さんもご存知の通り、私は探偵を生業にしているんですが、3日前、"昇さんから依頼を請けまして"」
嘘だ。
確かに3日前、坂上昇は事務所を訪れた。「食べられない」という悩みの相談と、奇妙な夢の話をした。
けれどまだ、"依頼はされていない"。
一馬の顔には笑みが浮かんでいるが、それはあくまで営業用の薄っぺらいものであることなど、ともに生活している要にはすぐに知れる。
普段なら、依頼をされてからも随分としぶって、ようやく重い腰を上げる男が、されてもいない依頼をでっち上げるなんて、どういうことだ。
しかし、一馬は構わず続けた。
「幾さんは、お兄様の症状を、ご存知ですよね?」
笑顔で問い掛けた。
「摂食障害のことでしょうか」
幾は相変らず、柳眉を寄せたまま答えた。
「ええ。しかし、医者にも原因は分からぬという。そして奇妙な夢を見るという。その症状は具体的に、いつ始まったんですか?」
「"ずっと"です」
動じたふうもなく、幾は答えた。今度は一馬の方が眉をひそめる。
「ずっと? といいますと」
「兄は少々不安定なところがございまして、年に2、3度こうして食べられない時期が訪れます。周期も別に決まっているわけではなく、期間は大体、一週間から一ヶ月。確かに今回は少々長いようで、もう二ヶ月半になりますが……。不安定な間は体調も悪化するため、滅多に外に出ることもなく、家で過ごすのですが……」
「今回、体調を崩しているのもその所為ですか?」
「そうです。本当に不安定で、調子の良いときもあれば、熱を出して寝込むこともあります。ですからもしかしたら明日には少々良くなっているかもしれません。今日はもう遅いですし、よろしければお泊りになってください」
「いいんですか? それなら申し訳ない、お言葉に甘えさせていただきます」
「ちょ、カズマ……!」
ようやく要は口を挟むことが出来た。脇から一馬をつつく。
「別に今からでも帰れないことはないんじゃないの。時間はかかるけどさ」
おかしい。何かが決定的におかしい。
財布を届けただけで家に泊めてくれるというのか? しかも、素性を瞭かにしたわけでもない探偵と、そのコブふたりを?
なにか、簡単にことが運びすぎてはいないだろうか。
一馬の様子もおかしい。普段ならそんなに簡単に、申し出を受けたりしない。
そうだ。何もかもが、3日前からずれてしまっている。
しかし、一馬は要に「別にゆっくりしていってもいいじゃないか」とだけしか言わなかった。
笑っていたが、目がいつもと違っていた。
何かをもう決意してしまっている目だった。こうなってしまっては止めようを要は知らない。
すごすごと引き下がった。
「すみません、お嬢様、そろそろお時間が……」
傍に控えていたあの男が、幾に声をかける。軽く頷いて、幾は。
「ではまた夕餉の時に。申し訳ございませんが、所用がございまして。失礼致します」
丁寧に断ってから、腰をあげた。
「あのー」
障子に向かう幾に、声をかけたのは姫架だった。
「はい?」
艶やかな黒髪を翻して、幾が姫架を振り返る。
「ちょっと、変なコト訊いてもいいですか?」
教師に質問するように小さく手を挙げて、姫架が口を開いた。なんでしょう、と幾が応じる。
「あの、幾、さん? お姉さんか妹さんって、います?」
脈絡も何もない、唐突な質問に、幾は少し困ったように眉根を寄せた。
「いいえ、姉も妹も、わたくしにはおりませんが……」
「あ。そうですか。ありがとうございます〜」
あははは、と笑って、姫架は質問の意図を煙に巻いてしまった。幾は少し怪訝そうな顔をしていたが、それ以上姫架が何も言おうとしないのを見て、それでは、と部屋を後にした。
開かれた障子の向こう、空は、もう暗かった。
「姫?」
幾の足音が聞こえなくなってから、一馬は姫架に向き直る。
「"何が見えた"?」
「うーん、ちょっとさっきから、女のひとが……」
姫架は、霊媒師だ。
それでか、と要は納得する。先程からきょろきょろと周囲を見回していたのは、何か見えていたからなのだろう。
姫架はしばらく周囲を見回していたが、やがて大きく溜息をついた。
「だめ。見えなくなっちゃった」
「そうか」
一馬は別に気にするふうもなく頷いてから、「女、か」と小さく呟いた。
4.
森。
木々の生い茂る森の中にいる。
ゆるい傾斜を、水分を含んだ土を踏んで登る。
足元で土が、ぬるりと少し滑る。
暗い。
まだ日は高いはずなのに、鬱蒼と枝々を伸ばす木々の、がむしゃらに生い茂った葉に、光は全て奪われてしまう。
光合成のおこぼれ程度では、この森は明るくはならない。
どこに向かって歩いているのか、分からなくなっていた。
見回しても、同じような木々ばかり。そしてひたすら静かだ。
ただ、足元には一本、踏み固められた山道がある。戻る気には、何故かなれない。
だからひたすら、登っている。
やがて、水の匂いがした。
木々が突然、ざっとひらける。
森の中に、青々とした水をたたえる、湖があった。
きれいな円を描いている。
そこだけぽっかりと空がひらけていて、光が葉に奪われることなく、水面に煌く。
水際に、人がうずくまっている。こちらに背を向けている。
だれだろう。男だろうか、女だろうか。
いや違う。
鬼だ。
額から二本、先端の鋭い"つの"が、天に向かって生えている。
浅黒い肌の鬼が、こちらに背を向けて、うずくまっている。
なにをしているのだろう? なにかを持っている。それを貪っているように見える。
けものだろうか?
白い、透きとおるような白い。
―――腕。
人の腕だ。
鬼は人の腕を喰っていた。
怯えてあとずさる自分の足が、小枝を踏みつけた。
ぱきり。
静かな森に乾いた音が響く。
鬼が、白い腕から口を離し、こちらを振り向いた。
*
声にならない悲鳴を上げて、跳ね起きる。
目が覚めた場所は、暗い和室だった。
呼吸は乱れ、鼓動は高鳴り、額から嫌な汗をかいていた。
(なんて夢……)
左胸に手を置いて、要は呼吸を整える。
森の奥にある湖。その傍で、鬼が人の腕を喰らっている。
なんて夢だ。
美しい景色と、その人喰い鬼のグロテスクな様がアンバランスで、気味の悪さに拍車をかけていた。
額から落ちてきた汗が、目に染みた。慌てて手の甲で拭う。
呼吸が落ち着いてきたら、急に寒くなった。夜はもう、随分冷える。
唐突な訪問者に宛がわれた和室はふたつ。姫架には別の部屋―――と言っても隣だが―――が用意された。
すぐ右側に障子があり、そこからは月明かりがほのかに零れてきている。
左隣を見れば、こちらに背を向けて一馬が眠っていた。
和室の夜は暗い。
天井の、部屋の、全ての四隅にどんよりと、闇が溜まっているような気がする。
そのまますぐに寝直すことが出来なくて、要は布団を出た。
さらりと障子を開けて、縁側に出た。内庭が広がっている。
整えられた植木と、池と、頑丈な塀と、その遥か上空に、僅かに欠けた月。静かだった。
要は、縁側に腰掛けた。床が冷えていて、つめたい。
あんな夢をみたのは、おそらく夕食のときに小久保―――あの、カエルのような男―――に聞いた、この村の伝説のせいだ。
発端は、一馬が、道中で見たという祠の話を始めたことからだった。
要や姫架はそんなものを見た覚えはなかったのだが。
すると小久保は、親切にこと細かに、その祠が奉っているのがこの「山」であることを教えてくれた。
―――この地域では、この村と同じ名前の坂上山が民間信仰の対象なのです。山というよりも、その山にまつわる伝説……と言ったほうがいいのかもしれません。
坂上山には、鬼の伝承がある。
その昔、坂上山には鬼が棲んでいた。それは恐ろしい鬼で、人里を襲い、田畑を潰し、やりたい放題に振舞った。
しかし、鬼はあるとき、人里の娘に心奪われてしまった。鬼は人を襲うのを止め、心やさしいその娘と山で暮らし始める。
しかしその倖せも、長くは続かなかった。
鬼への恐怖を消しきれぬ村人たちが、娘を連れ戻してしまう。
村に近づくな。近づけば、娘がどうなるか。
鬼は泣く泣く山へ戻り、以後遠くから村を守り続けた。
そのお陰でこの村は、大きな災害も厄災もなく、今まで続いているのだという。
その鬼を、ひいてはその鬼の棲む山を、奉っているのだという。
だから多分、あんな夢を見たのだ。
鬼の―――。
ふと、その時視界をよぎる影があった。
右手側、随分と遠くにだけれど、白い影が。
要が座っている廊下は、右手側に真っ直ぐ突き当たると、直角に左右に折れる。
右に曲がれば、玄関や坂上家の生活スペース。左には、屋根つきの渡り廊下がある。渡り廊下の先には、こぢんまりとした、離れ。茶室よりは少し大きいほどの。
夕食が終わってから、宛がわれた客間に案内される道すがら、その渡り廊下の手前まで来て、小久保は言った。
―――屋敷の中はご自由に歩き回って頂いて結構です。どうぞおくつろぎください。
しかし、その次の瞬間、小久保はその人の良さそうな顔を翳らせて。申し訳ございませんが。屋敷の中はご自由に歩き回って頂いて結構なんですが。
歯切れも悪く、先程と同じことを繰り返した。
そして、渡り廊下の先の離れを指差して。
―――あの離れにだけは、どうぞお立ち入りにならないで下さい。
彼特有の、少し暢気な声を精一杯困らせて、そう忠告した。悪くもないのに、すみませんすみません、と何度か謝った。
その渡り廊下を。
白い影がゆっくりと、離れに向かって歩いていた。
目を凝らす。どうやらその人物は小柄で着物を着ているようだ。白の、闇の中でもはっきりと浮かび上がるぐらいの。
肩から背にかけて、黒髪が艶やかに流れ落ちていた。
(幾……さん?)
坂上幾に見えた。
すると、離れの入り口に立ったその人影が、視線に気付いたように、要の方を振り返った。
まるで、夢の中と同じように。
要は、悲鳴を上げそうになって、思わず口を覆った。
恐怖に瞬きも忘れる要を一瞥して、その和服姿の女は、音も立てずに障子を開き、離れの中へと消えた。
*
山の朝は冷える。
低く立ち込めた朝霧が、太陽の光に消される頃になっても、芯から凍るような寒さは残った。
動き辛いからとスーツの上着を置いて庭に出たことを、一馬は少し後悔した。
ワイシャツ一枚では、寒い。
いつもは緩めた襟元のネクタイを、その場凌ぎと分かりながら、しっかりと締める。
屋敷から玄関の門へと続く道を、飛び石を踏みながら歩いていると、なにやらがたがたと音が聞こえてきた。
音の方へ目をやると、少し離れたところに大きな蔵が建っている。その入り口が今は開かれていて、その傍にたくさんの荷物が運び出されていた。
しばらくそこを見ていると、蔵の中からちょこちょこと、小久保がその体に似合わない大きな箱を抱えて出てくるところだった。
重そうだな、落としでもしなければいいが。暢気にそう思っていると、案の定小久保はその箱を取り落とした。
ああっ、すみません! と誰もいないのに謝っている。どうやら彼の口癖のようだ。
一馬は飛び石の並ぶ道から外れて、蔵の方へ近づいた。
大きな箱から飛び出した額縁を拾い上げて、小久保に手渡してやる。
「朝からご精が出ますね。蔵の片付けですか」
「ああっ、成瀬様、すみません。ありがとうございます」
まるで生命の危険を助けてもらったかのように、小久保は恐縮してその額縁を受け取る。
「手当たり次第色々と入れてしまうもので。時々はこうして整理しなければならないのですよ」
額縁を先程の箱の中に戻して、小久保はそう説明した。
一馬は、外側に開かれた観音開きの扉から、蔵の中を覗きこんでいる。
薄暗い蔵の中は、決して一杯になっているというわけではないが、そこそこ荷物が積み上げられている。
二階もあるようで、目の前に階段が見えた。
「おひとりでですか? 大変でしょう」
「いやはや、大きな屋敷ですが、それほどに使用人がいるわけでもないので。仕方がないことです」
別段、小久保には堪えていない様子だ。慣れているのだろう。
一馬はぐるりと蔵の中をもう一度見回して、少し考えてから、小久保を振り返った。
「よろしければお手伝いしますよ。ひとりでは運び辛い荷物もあるでしょうし」
すると、小久保は化け物でも見たかのように目を見開いた。
「ととと、とんでもない! お客様にそ、そんなことはさせられません、わたくしがひとりでやりますので……!」
ものすごい怯えようだ。何もそこまで、と思うが、彼にとっては一大事なのだろう。
「いや、客と言っても突然押しかけてきたわけですし、一晩泊めてもらって夕食も朝食もご馳走になりましたし。構いませんよ。それに、失礼ですが、小久保さんでは運び出すのに苦労しそうな荷物もあることですし……」
「いえ、しかし……」
それは事実だった。小柄な小久保にとって、手の届かぬ場所に置かれている荷物もある。
普段は脚立を使うのだが、それも不安定で、重い荷物を下ろすのは心許ない。
しかし、そんな苦労など、客に手伝わせるのに比べれば小さいものだ。小久保はまだしぶっている。
「めずらしいんです。蔵なんて」
営業用の笑みを作って、一馬は言った。
「これだけ立派な日本屋敷も初めてですし、こんなに大きな蔵も初めてで。めずらしいんですよ。見学も兼ねて、です」
真っ赤な嘘である。
一馬が生まれた家もそれなりに大きな日本屋敷で、庭にはこれと同じような蔵があった。だから、見慣れているどころの話ではない。
「部外者が見て困るものがあるなら引き下がりますけど、昨日小久保さんは屋敷の中は歩き回っていいと言って下さったことですし。見せていただけませんかね」
が、嘘も方便、だ。
目の前の青年がたたえている笑みに、ぐらりと心が揺らいだ。
「そ、そういうことでしたら……。お願いします」
ぺこぺこと、小久保は必要以上に頭を下げて、助力を申し出た。
「本なんかもあるんですね」
高いところにある窓から日が落ちてくる。蔵の中は思ったよりも明るかった。
隅に寄せられている、古ぼけた本棚の前に一馬は立っていた。
「おそらく、この家の方々の日記がほとんどでしょう。随分と古いものもあります」
少し離れたところで、こちらに背を向けて、小久保は箱を開けたり閉めたりしながら中身をあらためている。
「へぇ。全て手書きですね。毎日つけるのが日記とは言うけど、几帳面だなぁ。私は怠惰なんで、続かないでしょうね」
声には愛想を絡ませておいて、一馬はその棚の中から一冊、古ぼけた日記を取り出した。
原稿用紙に手書きをし、そのあと穴をあけて綴り紐を通し、表紙をつけ、まとめただけのものだ。
四月九日。
毎日厭な夢ばかり見る。
だうにかならないものだらうか。
私は決して、サカガミの末裔などではない。
断じて違ふ。
はらりと開いた場所には几帳面な文字で、そう綴られている。
年度の記しはないが、まだ旧仮名遣いをしているところを見ると、随分と昔だ。
更にぱらぱらと頁を繰る。
―――八月二十八日。
生まれ乍らに其れは、課せられた宿痾である。
生き抜く為に殺し合ふ事を、予め、決められて居る。
この世に生まれる事の、何と血生臭く、酷たらしい事か。
喰らふ事は、穢れ行く事である。
あゝ、だうすれば良い。
私は、喰らはずには生きては行けないのか。
私は矢張り、サカガミなのか。
―――拾月拾六日。
宿つては永く治らぬ病を、宿痾と呼ぶ。
ならば、この身に宿るものは宿痾ではないだらうか。
否、病などでは無い。後から喰らひついたものでは無い。
生まれたときから、引きずつて来た、其れは本能なのだ。
この体に宿るその力は、持って生まれた、持ち物なのだ。
そんなことを、いつも思ふ。
其れならば私は、人では無いのかも知れぬ。
この体は、人の体では無いのかも知れぬ。
怖ひ。私は何者なのだらう。
聞いたことも無い声が、耳元で語りかける事も有る。
おまへはサカガミなのだ。この村の、末裔なのだ。
あゝ、腹が減ってゐる。こんな日は、意識が無くなつてしまふ。
―――十弐月五日。
きつと是は呪いなのだ。
否、違ふ。
生まれたときからさうだつたのか?
もう全て決まつて居たのか?
さう認めたら、少しばかり樂になつた。
さうか。
生まれたときから、他の有り様も無く決まつて居たのだ。
空が空であるやうに。
化け物だつたのだ。
始めから。
さうか。
私はサカガミだつたのだ。
だから、私は喰らふのだ。仕様の無い事だ。
日記は、そこで終わっていた。
静かに日記を閉じ、何事も無かったかのように棚に戻した。
「サカガミ……か」
独白した。
「はい? どうかなさいましたか?」
独り言を聞きとがめて、小久保が振り返った。
「いえ、なんでも。あ、その荷物大丈夫ですか、一緒に運びますよ」
再び顔に笑顔を貼り付けて、一馬は小久保を振り返った。何事もなかったかのように、大きな箱を運搬している小久保に加勢する。
思ったとおりだ。
やっぱりここは―――。
荷物を抱え上げながら、一馬は心中で呟いた。
やっと納得がいった。
*
目を覚ますと、既に隣の布団は空だった。
寝起きの滅法悪いはずの一馬が、自分より先に起きていることに軽く驚いて、要はうつぶせた体を持ち上げた。
頭が痛い。
昨晩、離れに入ってゆく坂上幾らしき女を見たあと、床に戻った要は、それでもなかなか寝付けなかった。
今朝の寝坊はそのせいなのだろう。
「いつまで寝てるの〜!? って、アレ? おはよう」
すぱん、と小気味いい音を立てて障子が開き、寝起きにはうるさいぐらいの声が飛び込んできた。
後頭部に鈍痛を抱えたまま、要は声の主を見上げる。もう少し静かにして、と言おうとした言葉を飲み込んだ。
「姫架さん、それ、どうしたの?」
姫架は、濃紺に蝶が乱舞する柄の、着物を着ていた。
「え? だって、あたしシャツ一枚だったじゃん。寒いって言ってたら貸してくれた」
姫架は両手を広げて見せる。
確かに寒い。高度がある分、平地よりも余計に、だ。
だから服を貸してもらったのは分かるが、それが着物とは。一昔前に迷い込んだような錯覚を覚える。
しかし、さすが古くから続く霊媒の家の生まれであるからか、金に近い髪の色や灰色のカラーコンタクトでも、それなりに様になっていた。着慣れてはいるのだろう。
「カズマは?」
着物についてそれ以上の言及は避け、要は布団から立ち上がる。手早くそれを、簡単にたたむ。隣に置き去りにされた布団も、同じようにした。
「一馬兄さんなら、もうとっくに起きて、小久保さんと一緒に蔵の片づけしてる」
「は? 蔵の片付け? どうしたのあのひと!?」
気味の悪さも限界にまで達し、要はとうとう叫んだ。
不精、という二文字を生活の基準に据えているような男がだ。普段なら二、三度起こさなければベッドから出てこないような男が。
自ら早くから起きだし、人様の蔵の片付けを手伝っている? 自分の家の片付けも滅多にやらないというのに?
これは、一体何がどうなったのだろう? 要は混乱した。
気味が悪い。何故空から槍が降ってこないのだろう?
すると、姫架も腕を組んで、うーん、と考え込んだ。
「確かに昨日から変だしね。でも……」
姫架はその端正な顔を難しそうに歪めてしばらく考えたあと。
「恰好いいからいいや」
簡単に結論を出した。
「……姫架さん、それって……」
「だって、昨日からなんとなく"素"っぽいじゃん? 昼行灯モードはわざとああしてるんだって、要も知ってるでしょ」
「それはそうだけど……。突然理由も分からずに素に戻られても、こっちは困るよ。どうしていいか分からなくて」
のほほんと穏やかで、駄目な大人をやっている一馬の中に、こんなふうに一度決めてしまったら譲らない頑固さや、そうと決まれば手段を選ばないある種の冷たさが棲んでいることを、もちろん一緒に暮らしている要は知っている。
普段は様々なしがらみや波風が面倒くさくて、敢えて駄目な大人をしているだけなのだろうということも。
時々本当にこいつは馬鹿なんじゃないかと思ってしまうことがあるが、それは違う話だ。
「何にこだわってるのか、分からないから困るよ」
この一件の、どこにそれだけ執着することがあるのか。
一体、どんな夢を見たというのだ。
坂上昇の夢の中に、一体、何が見えた。
「少しぐらい説明があっても、いいと思うよ」
姫架の横を通り過ぎ、要は廊下に出た。身支度を整えたら蔵へ行こうと思った。
今日という今日は、包み隠さず白状させてやる。
「ちょ、っと。待ってよ」
姫架の足音が追ってくる。すぐに追いついて、隣に並んだ。
「要、あんた、怒ってんの?」
横から灰色の瞳が覗き込んできた。要は少し黙ってから、「そんなことないけど」と呟く。
何がしたいのか分からない。
だから要は、困っていた。怒っているのではない、ただ困っているのだ。
突き当りまで来て、要はふと、左手側を見た。
立ち入りの禁じられた離れ。そこに続く渡り廊下だ。昨日の夜、幾らしい女を見たのは現実だったのだろうか。
それとも、あの悪夢の延長上の、ただの夢―――。
「……い、くさん?」
思わず呼びかけた。いや、呼ぶ、というには声が小さすぎた。
渡り廊下の方を向いたまま、硬直する。
離れの入り口の傍に、白いものが蹲っていた。
白い着物。あれは。
「あれ、幾さんじゃないの!?」
声に緊張を走らせて、姫架が躊躇わずに渡り廊下に踏み入れた。
「ちょっと、姫架さん……!」
そっちは立ち入り禁止だ。
「馬鹿! こんなときに何言ってんの、持病の発作とかだったらどうすんのよ!」
ばっさりと斬り捨てて、姫架は足早にその白い影に近づいた。
濃紺の着物と朱の帯。金の蝶がどんどん遠ざかるのを見て、要もそれを追った。
追いついた頃には、既に姫架はその白い影を抱き起こしていた。坂上幾だった。
意識はあるようだ。長い黒髪が俯かせた顔に覆い被さって表情は見えない。が、のぞく肌は青白かった。
「大丈夫?」
座り込む幾の肩を抱き、姫架は軽くゆすった。
か細い声で、「はい、すみません」と呟くのが、ようやく耳に届いた。
要は、幾の左腕を見た。白い着物の、左袖。
そこに、不自然な模様がある。何か、液体がにじんで広がったような。
赤の―――。
「幾さん、怪我してるんですか!?」
左袖の肘から下が赤く濡れていた。要の声に、驚いたように幾は左腕を引いた。
「いえ、これは……」
庇っているように見えた。
しかしそれは、瞭かに血液。艶やかな床張りの廊下を良く見ると、点々と血痕が続いていた。
それは離れの、わずかばかりに開いた障子の向こうに消えている。
その血の後に気付いたのか、姫架も視線でそれを辿る。離れの障子を見ていた。
まるで誘うかのように少しだけ、開いている。
無言で立ち上がった姫架が、一歩、離れに踏み出す。同時に。
「駄目ェェッ―――!」
引き裂くように幾が叫んだ。反射的に叫んだのだろう。声を発した本人の方が怯えた顔をした。
祈るような縋るような、それでもどこか芯を持った、色々なものがない交ぜになった瞳で姫架を見据える。
その睨みあいに根負けしたのは、姫架のほうだった。
再び幾の傍に膝を折る。
「立てる? 随分出血してるから、手当てしたほうがいい」
「……はい、すみません……」
「ほら、要! あんたも男なんだから、手伝いなさいよっ!」
一喝されて、要はようやく金縛りから開放された。幾の左右に回り込んで、その体を支える。
軽かった。