雑食動物は飽食の夢を見るか
5.
噎(む)せる。
吐き気がする。体がうまく動かない。
だるい。頭が痛い。
うまく、考えられない。
一体今は昼だろうか夜だろうか。この座敷は暗くて、時間の経過もわからない。
いや、それすら考えるのが億劫だ。
ただ、気分が悪い。
"腹が減っている"。
座敷の隅には膳が置かれている。米と味噌汁と煮物と。
這うように近づいて、膳に手を伸ばす。指先が震えた。
箸に触れようとした。
―――出来ない。
気付けば、膳をひっくり返していた。畳の上に食物が散乱する。
急激に動いたら、再び噎せた。
飢えている。
ずっと飢えている。
だから、何かを喰らう夢ばかりを見る。一体何を、食べているのだろう。
喰っても喰っても満たされぬのは、何故だ。
逆神だから、なのか。この体に脈々と流れる、血のせいなのだろうか。
もう考えたくはない。
「……小夜」
名を呼んだ。
お前がいなくなってから、全てがおかしくなってしまった。
*
昼も大分回った頃、要は庭に出た。朝からずっと、一馬の姿が見当たらない。
蔵の方へ行ってみれば、小久保は既に蔵の戸締りをしている。そこにも一馬の姿はなかった。
「あの、小久保さん……。カズマは……」
「ああ、英様! 成瀬様なら先程、山のあたりを歩き回ってみたいからと出かけられましたよ」
蔵の掃除かと思えば今度は山に散歩か! 一体何がどうなっているんだ。
何もかも訳が分からなくて、要は一瞬気が遠くなった。
「あ、ありがとうございました。じゃあ僕もちょっと、出かけてきます」
言葉も終わらぬうちに、要はもう駆け出していた。
絶対に捕まえて何もかも白状させてやる。意地になっていた。
ぴしりと閉ざされた巨大な門扉。そのすぐ傍に通用口と思われる小さな扉があった。
少しだけ、手前に開いている。
取っ手を引っつかんで、内側に引く。目の前に、田畑の緑が急に開けた。
坂上の屋敷から一歩出ると、突然、圧迫感が消えた、ような気がした。それは瞭かに錯覚なのだろうが、今まで重厚な日本屋敷に緊張していた自分に気付く。
見回せば、アスファルトの灰と土の茶。そして、周囲を囲む緑。それぐらいの色しか見当たらない。
門のすぐ傍らに停められている姫架のスポーツカーの青が、鮮やか過ぎて浮いているほどだ。
出かけてきます、と門を出たはいいものの、一体どこへ行けばいいのか分からない。とりあえず、目の前に一本伸びる、アスファルトを進む。
そもそも、一馬がどこに出かけたのかすら分かっていないのだ。
(それもこれも……)
戸惑いが、次第にふつふつと憤りに変化する。
山特有の冷たい空気も、起きたときから抱えたままの偏頭痛も、何もかも元はと言えば。
全て意味不明な暴走をする同居人のせいなのだ。
何故そんなにも固執する? その理由ぐらい。説明する時間ならあったはずだ。
気がつけば、道の突き当りまで来ていた。目の前でアスファルトが途切れている。少しの段差に足が落ちて、はたと我に返った。
振り返れば、坂上家の巨大な門が随分と遠くに見える。
アスファルトと地面の境目には少しばかりの砂利が敷き詰められていて、その先は森だ。
なだらかな上り坂。地元の人々が踏み固めたらしい、細い山道。
森への入り口の手前に、白い祠がひとつだけある。
一馬が見たと言う祠は、これか。
しかし、この山道はもしかしたら―――。
魅入られたように、要は目の前に伸びる細い山道を見上げていた。
その視界を。
ふと、横切ったものがある。
ちらりと。色が。そう、白だ。
見間違いかと思って目を凝らす。すると、先程まで何もいなかったはずの山道の途中に、白い衣を身に纏った人影がひとつだけ、在った。
長い黒髪が背に流れている。
こちらに背を向けた、その小柄な人影の、左腕。肘から下は、赤く濡れていた。
「……幾さん……?」
そんなはずはない。
彼女は先程しっかりと傷の手当てをして、少し休むと自室に戻ったはずだ。
しかし、目の前にいる少女の居住まいは、間違いなく坂上幾のものだ。
何故ここにいる?
届くはずのない呼びかけに、ゆるりと少女が肩越しに振り返る。
白の左袖を赤く染め、艶やかな黒髪を背に流したままで。青白い顔。
昨夜の夢と同じように、振り向いて、要を見た。
横から風が流れ、彼女の黒髪と白い着物の裾をはためかせた。
要は瞬きも出来ずに少女と視線を合わせる。
しばらく見詰め合ったあと、少女はまるで何事もなかったかのように首をもとに戻し、その山道を上り始めた。
「い、幾さん、ちょっと待ってください……!」
白い着物を汚す赤がやけに鮮やかで、思わず要はその背中を追った。
足元で土が、ぬるりと少し滑る。
何故か、小久保の言葉を思い出した。
―――坂上山には、鬼が棲んでいるんです。
*
「失礼してもいですか」
とある障子の前に立って、一馬はその奥に声をかけた。
少しの間を置いて、「どうぞ」と女の声が返った。
応えを受けて、一馬は障子を開く。
家具などが一切置かれていない座敷にひとり、障子に背を向けて幾が座っていた。
「全て、お分かりなのですね」
振り返らないまま、凛と伸ばした背中で幾は言った。
「おそらくは、分かっているつもりです」
言いながら、一馬は開いた障子を後ろ手で閉めた。
座敷は暗い。
「"夢喰い"の話を昇さんにしたのは、貴女ですよね」
しばらく黙ったあと、幾は「はい」と頷いた。
「人の眠り、夢を媒介にその意識に触れる。"人の心の内側に入り込む"。そういう人間がいるのだと、兄に話しました。最近の兄は、ずっと、同じ夢に悩まされているようでしたから。夢喰いについて調べるうちに、貴方のお名前も知りました。平安の頃から長く続く、旧家の名前。成瀬、と。まさか、このような形でお会いすることになるとは思ってもおりませんでしたが」
言葉の最後はどことなく自嘲が絡んだ響きがした。
一馬は幾の前に回りこむこともなく、障子の傍に腰を下ろした。
「人の意識を食い物にする、化け物ですよ、夢喰いなんて」
だらしなく胡座をかいて座ると、一馬も自嘲気味に返した。
「いつ、お気づきになりましたか」
少し間を置いて、幾が問うた。
「そうですね、結構早い段階で、予測はついていましたよ。坂上と言う名前と―――昇さんの、夢の断片が視えたあたりから。それから、この村について少し調べて、今朝山の奥まで入ってみて、ようやく納得しました」
「……坂上は本来、逆に神と書いて、"逆神"と読むのです。神に逆らうものの意、言霊の呪いです」
僅かに幾が俯くと、長い黒髪が肩から前へ流れた。白い項がやけに頼りなく露になる。
「そう呼ばれるようになったのは、この坂上村が、人喰い鬼の末裔の村だからです」
きっぱりと言い切る幾に、一馬は全く動じず、「知っていました」と応じた。
「でも、本当に鬼が棲んでいたわけではないでしょう。昔は、得体の知れないものは全て化け物だった。普通と違っているものは皆、化け物とひとくくりにして忌避していた。そういう人々はこんなふうに、山奥に村を作った。隠れ里として。ここもそうだったんでしょう、違いますか」
「本当に何でもご存知ですね。その通りです。坂上村は、そのような人々の集まりでした。鬼の子孫と呼ばれてはいますが、その元はといえば精神を病んでいたり奇形であったり、渡来人であったり。とにかく、当時の一般常識からは少し外れた人々の集まりだっただけです。鬼など、存在しなかった。けれど時折―――」
言葉を切って、幾はゆっくりと障子の方へ向き直った。
膝に、白い手を重ねて置いて、強い瞳で一馬を見据えた。
「時折、"先祖還り"をしてしまう者がいる」
「先祖還り……」
「もちろん、鬼などいなかったのですから、先祖還りなどあるはずがございません。けれど、元々、坂上には精神的に不安定なものも多く、時折、『自分は本当に人喰い鬼の子孫なのだ』と思い込んでしまう者がいる。病は気からと申しますように、そうすると本当に、人を喰らわねば生きてゆけないと信じてしまうのです。そして事実、飢える。それを、私たちは先祖還りと呼んでいます」
「昇さんは、"先祖還り"をしたんですね」
幾は黙っていた。その沈黙は、肯定と同じだ。
「私には、姉がおりました。双子の姉です。数年前、兄と共に森に入り、湖で溺れて亡くなりました。私たちが発見したとき、兄は姉の、左腕を」
喰らっていました。
搾り出すように呟いて、幾はその双眸を閉ざした。きつく。
痛みを堪えるように。
「そうだったんですか。それで……」
腑に落ちた、とばかりに一馬は独白する。
幾は、きつく閉ざした双眸を開いて、小首を傾げて一馬を見る。
"そうだった"とは、一体何が。
「昇さんが倒れたとき、思わず触れたんですが、夢の断片が視えたんですよ。森と、湖と、血の気を失って倒れているずぶ濡れの貴女の姿と。―――あれは、貴女の双子の姉なのですか」
「はい。それはおそらく、姉の―――小夜です」
6.
血の臭いがする。
姫架は端正な顔をゆがめた。
さすがに血はふき取ったのだろうが。それでも、臭気は残る。
目の前の艶やかな床には、血だまりは見る影もなかった。
日の光を跳ね返し、なめらかに光っている。
姫架は、渡り廊下にいた。幾が蹲っていたあたりだ。
あと数歩踏み出せば、離れの障子がある。
まだ、少し開いている。誘うように。
先程、姫架が離れに向かって踏み出したのは、その障子の傍に女の姿が見えたからだ。
幾と、瓜二つの少女がそこにいたからだ。
しかし一歩踏み出したところで、幾の絶叫に阻まれてしまった。
覗いてはいけません。禁忌を作られるほど、欲望は増す。
閉ざされた扉は、開けたいと思う。
そういう衝動がないわけではない。けれど、それだけでもない。
僅かに開いた障子の向こうから、滲み出す闇が見える。
血の臭いもきっと、残り香だけではない。
更に濃密な澱みが、障子の向こうから。
障子の向こうに、一体何がある。
「ってか、迷ってるなんてらしくない、か」
独白する。
どうせはじめから、そのつもりできたのだ。
姫架は、視界に被さる髪を後ろにざっと掻きあげて、目の前の障子に手をかけた。
そして、ためらいを断ち切るように一気に、開け放った。
日の射さぬ場所だ。
そこには闇だけがある。和室特有の、濃い闇が。
障子が開いた形に、光が浸食する。しかしそれは、座敷の全てを照らすものではない。
生半可に光が入り込んだ分、残った闇は濃度を増したように思えた。
その奥に、襖に背を預け、まるで死体のようにうなだれている、一人の男がいた。
敷居を。彼方と此方の境界を、一歩で跨ぐ。敷居を踏んでは、境界を曖昧に混ぜてはいけない。瞭かに、空気が違っていた。
座敷に踏み込んですぐのところに、ひっくり返された膳と、ばらばらに散乱する食物があった。
漆塗りの箸の片方が、足のすぐ傍に転がっている。
その、箸のすぐ傍には。どす黒く乾いた、黒っぽい赤のあと。
血の臭いがする。
柳眉を寄せて、姫架はそこから視線を部屋の奥へと持ってゆく。
部屋の隅に寄せるようにして敷かれた布団は、乱れている。その上に両手と両足をだらしなく投げ出して座り、背を襖に預けている男がいた。
白い布団や、男のシャツにはところどころ、黒っぽい染みが散っていた。
「坂上、昇……?」
障子を閉めることは出来なかった。
誰か人がくれば、自分がここにいることなど簡単に知れてしまう。障子を閉めた方が潜入は完璧だ。
けれども。光がなくなってしまうのが怖かった。柄にもなく。闇が怖い。
ここにある闇は、とてつもなく凶暴に思えた。
何も聞こえていないかのような。まるで骸のような気迫のない体。
けれど、男は声に反応した。
がくりと力なくうなだれた首をひどく緩慢に、持ち上げる。
乱れた前髪が多い被さる、その血色の悪い顔。その奥にある落ち窪んだうつろな瞳で、真っ直ぐに姫架をとらえた。
口元に、赤のあと。
一瞬で肌が粟立った。それは、人が人を見る視線ではなかった。
例えるならばそれはそう、獣が―――。
獲物を見定める視線だった。
体をめぐる栄養素が足りていない、それゆえに著しく体力を消耗したあとの。
それでもまだ、生への強い執着を棄てていない。
貪欲な双眸。
*
すべりのいい障子が、勢い良く開かれる。
わっ、と。空間を裂くように、光がなだれ込んできた。けれどここまでは届かない。
届くようで届かない距離で、光の侵入は止まった。
それでも、閉ざした目蓋の上からでも、あかるさの変化は如実に知れる。
うっすらと目蓋を開くと、だらしなく座り込んだ自分の体が見えた。
両足を投げ出し、その足と足の間にだらりと垂らした腕の先。白いシャツの袖口や、むきだしの指先には、こびりついたどす黒い赤。
その何もかもが、焦点の定まらない視界の中でぼやけた。
「坂上、昇……?」
人の気配がした。
一歩で境界を踏み越えて、この座敷に入り込んできた。その気配が、呼んだ。
サカガミ。
鼓膜には、その響きが届いた。
朦朧とした意識の中で、その響きを繰り返す。
幼い頃から小さな事で不安になる。
眠れない日々が続く。
胸の内が、何をして満たされない。
穴が開いたままだ。
一体それはどうしてなのか。
"一体何に飢えていたのか"。
蔵の奥で、見つけた数代前の日記を手に取ったのが、もしかしたら始まりだったか。
これは病ではない。体に宿っていたことではないか?
生まれたときから、決まっていたのではないか?
化け物だったのではないか?
逆神。
そうだ。鬼だ。
人の血肉で飢えを満たす、人喰い鬼だったのかもしれない。
だから何をしても満たされなかったのか。
認めてしまえば、楽に、なるのかもしれない。
"先達"のように。
そうだ。私は。
人を喰らわずには生きてゆけないのだ。
重たい首を持ち上げて、開かれた障子を見る。
女が立っていた。
濃紺の着物に朱の帯。金の蝶だ。
「小夜……」
震える咽喉で搾り出した。
その着物は、小夜が。
私は小夜の。
腕―――。
ああそうだ。湖だ。
夢の中で私は湖にいる。
何かを喰っている。
腕。
そうか、腕を―――。
私はもう、逆神になっていたのだ。
怯えたように女があとずさった。
ああ、餌(え)が逃げる。
7.
「しかし兄は完全に"先祖還り"をしたわけではありません。例えるならば夢と現でしょうか。食べられなくなる期間と、普通に生活できる期間がはっきりと分かれているのです。先祖還りをしているときのことを、兄は覚えていないようでした。けれど、近頃は、混ざり合っているようで……」
「混ざり合う……」
幾は、きちんと折った膝に白い両手を重ねていた。
まるで、宣託を待つ巫女のような佇まいで、双眸を閉ざしている。
「三日床に臥していたかと思うと、二日我に返る。そうしたかと思えば、今度は二日眠ったままだったりと不規則に。今まではこんなことは一度もありませんでした」
「二月ほど前、昇さんは蔵の掃除をなさったんじゃないですか」
唐突に、一馬は別の話を切り出した。
幾は、思わず閉ざした瞳を開いて、少し呆気に取られたように一馬を見た。
「はい。確かに二月程前も蔵の掃除をしましたけれど……。それが、なにか」
「悪いとは思いつつ、蔵の中で数代前と思われる方の日記を読ませていただきました。日記を収めている棚はきっちりと整頓されていたのに、それだけごくごく最近引きずり出して、無理矢理押し込んだように乱れていましたから。その日記の書き手もおそらく、先祖還りをしていたのでしょう。もしかしたら昇さんは、それを読んだのかもしれない」
―――これは、病などではない。
事務所で倒れた昇が、擦れた声で呟いた言葉。
それは、先程蔵で見た日記に書かれていた文句だ。
おそらく彼は、それを読んだ。
「湖に石を投げ込むと波紋になりますよね。引き金は、小さいことでもよかったんですよ」
自分の不安定な症状に、彼なりに回答を見つけたつもりになってしまったのだ。
きっかけは多分、そんな小さなことだ。
そんな、と呟いて、幾は着物の袖の上から自分の左腕をさすった。
白い袖から覗いた腕には、包帯が巻きついている。まっさらで、病的に白い。
「噛まれたんですか」
その病的な白に吸い寄せられるように視線を向けて、一馬は主語もなく聞いた。
ぴくりと、幾は左腕をさすっていた手を止める。
そしてしばらく、肘のあたりを掴んで黙ったあと、「はい」と力なく頷いた。
「先祖還りをしているあいだの兄には、ほとんど見境がありません。中でも私は、姉に―――小夜に瓜二つですから特に」
左腕からおびただしく出血して倒れたのだと聞いた。あの、離れに続く渡り廊下で。
それならばおそらく、結果はひとつだ。
"喰われかけた"。
「そろそろ色々と歯止めがかからなくなってきているみたいですね。不本意だが、仕方ない」
独白して、一馬は腰を上げた。
「何とか夢で歯止めをかけているみたいですから」
夢で食への欲望と執着を繋ぎとめ、現実では何も口にしない。それは、昇がまだ、人でいたいと願うからだ。
「悪夢は化け物に喰わせてしまったほうがいい」
「成瀬様……!」
片手で障子を開いた一馬の背に、幾が声をかけた。彼女には珍しく、少し取り乱したような声音だった。
「何故そんなに、親身になっていただけるのですか……。まだ何のお願いもしていないのに、わざわざこんな山奥まで……!」
「人助けじゃないですよ」
かすかに、笑う気配がした。こちらに背を向けたままなので、幾にはその笑いがどういう種類のものなのかは分からなかった。
「生き物は、糧を得ないと死ぬんです。夢喰いはその名の通り、人の、夢という意識の断片を定期的に喰わなければ、いつか死ぬんですよ。俺はただ少し、腹が減っていただけです。昇さんと同じように」
食事なんだ。
今度は明らかに自嘲を絡ませて、一馬は吐き捨てた。
「人の心の内側に土足で入り込んで、その意識をくすねて、喰らって命を繋ぐ。化け物ですよ、夢喰いなんて」
―――キャァァァァァッ!
劈く悲鳴が走ったのは、そのときだった。
*
尋常な力ではなかった。
相手の右手がこちらの左腕をがしりと掴んだ。まるで握りつぶすような力だ。
青白く、骨ばったその男の手は、つめたかった。
ぐっと強く手前に引きずられる。よろめいて、そのままどさりと、畳に膝をついた。
「ちょっ……! 冗談……」
そのままずるりと左腕を、敷かれた布団の方へと引きずられた。
白い華奢な腕から、姫架は男の腕の中へ倒れ込んだ。左手はもう解放されていたが、強い力で握られた感触だけは、まだなまなましく残っていた。
男の手が、がっしりと姫架の肩を両側から掴んだ。
尋常な、力ではなかった。"たが"が外れたあとの力だった。
火事場の力というように、人本来の枠から外れたぐらいの。
肩が潰される。
姫架はゆるゆると顔を持ち上げて、男を見上げた。
光の乏しい部屋の中で、見上げた男の顔は暗く。落ち窪んだ目はまばたきを忘れていた。
目線を逸らす事も出来ずに、姫架もまばたきをわすれた。
一瞬でも目を逸らしたら―――。狩る側と狩られる側のにらみ合いだった。
潤いが足りなくなって、瞳がちりちりと痛み出した。
鼓動が、うるさい。
詰めた息をふと、溜息のように漏らした。
刹那。
左の、首と肩の付け根に激痛が走って、姫架は思わず絶叫した。
何が起きたのか、一瞬理解できなかった。じん、とした痛みが肩から全身へ孤を描くように広がってゆく。
じわじわと、侵食してゆく。
生ぬるいものがじわりと溢れ出した。どこか粘り気のある液体だ。
陰気な空気に、ふわりと鉄の臭いが広がった。
「や、やだッ……!」
"歯"だ。
男の歯が、やわらかな肌を食い破って、そこから血が―――。
首筋に噛み付かれた。
「やっ、馬鹿、離し……っ……!」
声が震える。体が。小刻みに。怖い。
男の体を両手で押し返そうとする。けれど、腕に力が入らなかった。
なんで、いつもならもっと。そう思うのに、指先まで小刻みに震えて、どうにもならない。
男は一度、顎から力を抜く。歯が肌から離れて、なまぬるい吐息が首筋にかかった。体が粟立つ。
ひ、と咽喉が鳴った。
たすけて。叫ぼうにも、もう声が出ない。開いた口からは、忙しない呼吸が漏れるばかりだ。
(やだ、こんな、こんなの―――誰か)
「か、一馬兄さッ―――!」
強い力で後ろに引っ張られたのは、次の瞬間だった。
訳も分からないうちに、左側の首筋からあの気色悪い感触が消え、一変して視界が暗くなった。
小刻みな震えが止まらない体を、片腕で強く抱き竦める感触。
我に返ると、目の前に黒いスーツの生地がある。視界が暗いと思ったのは、そのせいだ。
ぬくもりがすぐ傍にある。
左の額が、相手の服に触れていた。肩から背中に回った相手の腕に、少し力が籠もる。姫架の頭を自分の胸に押し付けるように。
「馬鹿だな、なにしてるんだ」
叱る声ではなかった。どこかいたわるような響きがした。すぐ傍で。
そのやわらかい声が、張り詰めた糸をぷつりと切ってしまった。
「ごめ……っ…」
ごめんなさいと、謝ろうとしたのだけれど。
せり上がった嗚咽に負けて、それ以上は声にならなかった。まだ震える指先で、相手の服を握る。縋るものが欲しかった。
「大丈夫……なわけでもなかったな。遅くなって悪かった」
一馬は、嗚咽を漏らす姫架の背を、彼女を抱き寄せた手で撫でた。血の臭いがする。
そして、姫架の向こう、咄嗟に突き飛ばした坂上昇を見る。
半ば破れてへこんだ襖にめり込むようにして、坂上昇は座っていた。
だらりと両手両足を投げ出し、がくりと首をもたげ、まるで死体のように。
「兄さんっ……!」
悲鳴のような叫び声と共に、座敷に着物姿の少女が飛び込んできた。
打ち捨てられた死体のようだった昇が、少女の叫びに僅かに指先を動かした。
「……幾?」
だらりと下を向いた顔から、かすかな声が漏れた。
「兄さん……」
傍に寄ろうと一歩を踏み出して、幾はためらった。左腕の、噛まれた傷口が不意に痛んだ。
怯えた。
「……一馬、兄……?」
ふと、傍にあったぬくもりが離れて、姫架は閉じていた瞳を開いた。
一馬は姫架から離れると、だらりと糸の切れた操り人形のような昇の前に立った。
「坂上昇さん」
ゆっくりと、一馬は男の名前を呼んだ。
まるで電気ショックを受けた体のように、昇の腕がひくりと動いた。
うなだれた首を、ゆるゆると、昇は持ち上げた。
落ち窪んだ目の奥で、眼球が億劫そうに動いて、目の前に立った男を見上げる。
「成瀬、さん。ここは……。私は……」
正常な眼だった。
弱ってはいても、今、ここにいて、この現実を見ている眼だ。一馬を見て、その後ぐるりと周囲を見回した。
その、正常な眼と、口元を汚す赤が不釣合いで、不気味だった。
口唇が異様に赤く濡れている。姫架の血だろうか。
昇は、見慣れた座敷とここにいるはずのない人物を見比べて、迷子の子どものように怯えた目をする。
迷い子を安心させるように微笑んで、一馬は視点を合わせるようにその場に屈み込んだ。
「事務所で倒れられたんですよ、覚えていませんか。奇妙な夢の相談にいらして」
「奇妙な、夢……」
うわごとのように、昇は繰り返した。
「何かを食べている夢を見る。そのあとは、現実では何も口に出来ないんだと。相談にいらっしゃいましたよね」
突如として、脳裏に細かい光の点滅が起きた。フラッシュ。
いくつもの情景が点滅しては消えてゆく。残像が重なり合って、奇妙な模様を描いた。
土、樹木、湖、陽光。着物だ。混ざり合い、どろどろと溶けてゆく。
着物だ。
呼吸が乱れてくる。
「何を食べていたか、思い出せましたか?」
昇は、目の前に屈みこんだ男の瞳を見た。黒だと思っていた男の瞳は、夜の海のような、濃紺の色をたたえていた。
呑まれそうになる。
「……」
何かを言いかけて、昇はそのまま言葉を探しあぐねる。
何を言おうとしたのか、忘れてしまった。確か先程は、思い出したと思ったのに。
何かが足りない。欠けている。これは、飢えかもしれない。
ざわりと、体の内側が波立った。何かが欲しい。なまなましい臭いがこの部屋には強く薫っている。
衝動的に、叫びだしたくなった。何か手近なものに噛み付きたくなった。
舌が無意識に口唇を舐めると、血の味がした。かすかに甘い。
がっと突き上げた衝動に、昇は一馬の左腕を鷲掴みにした。容赦なく立てられた爪の痛みに、一馬は顔を僅かにしかめた。
「俺は、あなたの"夢"を、喰いますよ」
握りつぶすような感触に眉をひそめたまま、一馬は静かに告げた。
「俺は、あなたを助けるためにここまで来たんじゃない。あなたの悪夢を、餌にしにきたんです。それでもいいですか」
昇は今にも飛び掛りそうだった勢いを削がれて、呆然と一馬を見返した。
まるで、異界の言語を耳にしたように、呆けた顔をする。
やがて、見開かれたその憔悴した瞳から一筋だけ、涙が落ちた。
「苦しいんだ……」
縋りつくように若い男の腕を強く握って、昇はうめいた。
すると、一馬は何かを諦めたように一度、目蓋を閉ざした。そして、右手を持ち上げると、その掌で昇の額と目蓋をぐっと押さえ込んだ。
死人の、見開かれた瞳を閉じるようなその行為に、抗わずに昇は目を閉じた。
それは一瞬。
目蓋の奥に閃光が走り、全てが白く塗りつぶされた。
8.
木々の生い茂る森の中にいる。
ゆるい傾斜を、水分を含んだ土を踏んで登る。
足元で土が、ぬるりと少し滑る。
暗い。
まだ日は高いはずなのに、鬱蒼と枝々を伸ばす木々の、がむしゃらに生い茂った葉に、光は全て奪われてしまう。
どこに向かって歩いているのか、分からなくなっていた。
見回しても、同じような木々ばかり。そしてひたすら静かだ。
(同じだ)
ぬめる苔やシダに足を取られそうになりながら、要は心中で呟いた。
これは夢と同じだ。
昨晩見た夢と同じ場所を、同じように歩いている。現地の人間が踏み固めたと思われる、道とも呼べない道を、周囲から手を差し伸べているような枝を掴みながら登る。
見た目よりも厳しい傾斜を見上げれば、白い衣が揺れる。
何に縋るわけでなく、捕まるわけでなく、その白い背中は山道を登って行く。
こちらは必死に追っているはずなのに、距離が縮まらない。悪夢のようだ。走っても走っても前に進めないような。
それともこれは夢の続きなのだろうか? もう何もわからなくなってしまっていた。
空気がしっとりと濡れてくる。
水の匂いがした。
要は思わず、山道を登る足を止めた。
夢の続きを思い出した。
このまま登ってゆけば、開けた場所に出るのだ。
そこだけぽっかりと木々が生えていない場所。円形に空が繰り抜かれている。
なぜならそこに、青々とした水をたたえる、湖があるからだ。
木々に阻まれずに、光は水面に落ちてきて、煌く。
夢の中ではその湖のほとりに―――。
蹲ってこちらに背を向けた、
鬼が。
そう、鬼がいた。
(まさか、あれは夢だ)
自分に言い聞かせて、要は竦む足を前に出す。やわらかい土を踏みしめる感触が、足の裏から伝わってくる。
鬼が人の腕を喰っていたなんて、ただの夢だ。
目蓋の裏にまとわりつく夢の残像を振り払うように、要は足元から視点を持ち上げる。
前を登っているはずの、白い背中を捜した。
「え……?」
思わず足を止めて、要は二三度まばたいた。
先程まで。本当につい先程までそこにあった背中が、今は見えない。
「ちょっと、幾さんっ!」
幾かどうかもわからない背中をそう呼んで、要は足を速めた。
足を取られそうになるのを、近くの枝を掴んで勢いをつける。
次第に、木々がまばらになって、そして―――。
青い水面が見えた。
ざっと木々が左右に割れて、傾斜がゆるくなる。
夢に見たままの湖が、そこにはあった。
やわらかい草が足元を覆い、かすかな水音だけが鳴っている。
まるで遠慮するかのように、木々の枝すら伸びていない。鏡のような水面。
その傍に、鬼はいなかった。その事実に、何故か安堵している自分に気付く。馬鹿らしいとは思いつつも。
ちゃぱり、と水が音を立てた。音に引っ張られるように、要はそこを見た。
白い着物姿を発見する。こちらに背を向けていた。
長い黒髪が、白に良く映えていた。
湖の中心あたりに、着物の裾と透けるほどに白い脛を濡らして、立っている。
季節は冬で、山の中だ。吐き出す息が時折白い霧になるほどなのに。
少女の姿はあまりに寒々しかった。襦袢に近い白の着物に、素足。
そうだ、素足だった。素足を青々とした水に濡らして、か細い体が立っている。
「……幾、さん?」
思ったほど、湖は深くないのだろうか? 小柄な少女が、脛を濡らすぐらいで底に足がつくぐらいなのか?
要はやわらかい草を踏んで、湖に近づいた。
呼びかけても、少女は応えない。更に一歩を踏み出す。
水際のすぐ傍までくると、かすかな波がひたひたと寄せては返していた。
水の気配と、目の前の少女のか弱さが、寒さとなって襲ってきた。思わず要はシャツの上から腕をさする。
しかしこれは、山に漂う冬の冷気なのか? それとも。別な―――。
「どうして」
静寂を切って、女の声が聞こえた。
熱の感じられない、冷たい響きがした。
「どうして兄さんは、迎えに来てくれないの?」
憂えるように、少女は俯いた。黒髪がさらりと流れて、少女の顔にかかる。
「私ずっと、ここで、待っているのに……」
華奢な背中が今にも崩れ落ちてしまいそうに錯覚して、要は一歩を踏み出していた。
水際の境界を踏み越えて、爪先が水に触れた。
大丈夫。そんなに深くはない―――。
しかし、足が水底を捉えることはなかった。ずるりと、足から体全体が水の中に引き込まれた。
(なんで、こんなに深い……!)
考えているうちに、首のあたりまで水に飲まれてしまった。
指先から全身に、痛みが走った。水が"痛い"。
鼓動が急に忙しなくなって、呼吸が出来なくなった。
"それでは彼女は水面に浮いているのか"!?
既に冷静に考える事も出来なくなっていた。咳き込みながら、要は陸を掴む。何とか、この水から出なければならない。
丘に両腕を乗せて、水の中から体を引きずり出そうと力を込める。既に髪の毛から全身ずぶ濡れになっている。
上半身を引きずり上げた瞬間、右足に何かが絡まりついて、ずるりと水の中に引き戻された。
「うわぁっ!」
何とか陸を掴んで、頭まで飲み込まれることは防いだ。
空気に触れている部分が余計に冷たくて、歯の根が鳴りはじめた。
肩越しに振り返ると、白い着物の少女が、半ば振り返っていた。
血の気のない顔は、幾と瓜二つだ。
僅かに飲み込んだ水にむせ返りながら、要は少女を凝視した。
白い着物の左袖が、赤い。
不意に、水に引き込もうとする右足に絡まりついた"何か"の、力が増した。
「あなたも、私を置いてゆくの……?」
小首を傾げて、まだあどけなさを残す少女は、要に訊いた。
*
人と、化物の混血であると言う。
異種間の交わりは、その血に呪いを残してゆく。
人の意識に、夢を媒介に潜り込み、その一部を「喰らう」。そうしなければ、いずれ弱って死ぬのだと。
人間に寄生するようにしてしか、生きてゆけぬ生き物。
人間の意識をくすねることで、永らえる生き物。
それが、夢喰いと呼ばれる生き物だ。
原因不明で眠りから目覚めない人間などと直接コンタクトが取れるということもあって、眠りに関する悩み相談を受けることもある。それが成瀬一馬の「副業」だ。
悩み相談や、人助けなんて。馬鹿らしい言い訳だと思う。
結局は、人の意識に土足で上がり込んで、あまつさえその媒介である「夢」を喰らってしまう。結局は意識への不法侵入者だ。
だから、この力を使うことは、あまり好きではない。
けれども嫌だ嫌だと駄々をこねたところで、いつかはこうして夢に潜らなければ、弱って死んでしまうのだ。
馬鹿らしい生き物だな。
一馬は嘆息した。
気がつけば、白い霧の中にいた。
濃密な水分が空気中に漂っている。そこに立っているだけで、しっとりと、服や髪が濡れてくる。
前髪に右手を突っ込んで、少しばかり水気を含んだ髪の毛を後ろに掻きやった。
先程からずっと、水の音がしていた。
海ほど大きな潮騒の音ではない。けれど確かに、小さく揺れる水音だ。
大量の水が、すぐ傍にある。
目を凝らせば、うっすらと水面が揺れているのが見えた。湖の傍だ。
(ということは、この傍に……)
水際を視界におさめながら少し歩くと、霧が次第に薄れてきた。
そして急激に、鉄のなまなましい香りが立ち込めた。ぼんやりと霧の中に浮かび上がった黒い影に、歩む足を止める。
ひとが、そこに蹲っていた。
「昇さん」
蹲る男の背後に立って、一馬は呼んだ。この、夢の世界の主の名を。
呼びかけに、昇はひくりと体を戦慄かせて、ゆっくりと肩越しに振り返った。
青白い顔の、口元がやけに赤い。それは、あまりに濃い紅の色だった。
愕然とした表情で、昇は一馬を見上げた。
昇の目の前には、白い襦袢姿の少女がずぶ濡れで横たわっている。肌には血の気がない。長い黒髪が、水気を含んで、地面に蜘蛛の巣のように広がっていた。
その少女の左袖は、肩のあたりまで捲り上げられ、肘の内側が赤く濡れていた。
「何をしていたんですか」
穏やかに、一馬は問うた。
「食事を……」
どこかぼんやりとしたまま、昇が応える。
「私は逆神なので、人を食べなければ生きてゆけないのです」
「へぇ? 本当に?」
少し小馬鹿にするように、一馬は口元を緩めて言った。昇が、少し不快そうに眉をひそめる。
「あなたは死にませんよ、例えこのまま、一生人を喰らわずに過ごしたとしても」
昇の瞳が、徐々に見開かれてゆく。
「でも、私は……」
「あなたは一度も人なんて食べてはいない」
昇の言葉にかぶせるように、一馬は強く言った。
「人の腕を噛んだり、それで少しの血を飲んだところで、それが日々の糧になりますか。あなたが本当に人喰い鬼だと言うのなら、今まで生き延びるのに何十人と食い殺していなければおかしい」
詐欺師のように、相手に口を挟ませる間も与えず、とうとうと言葉を並べる。
なぜ、こんなにも必死に昇を説得しているのだろうか。頭の中で、別の自分が首をかしげた。一体何故だ。
「あなたは今まで生き延びてきたのに、誰一人として食い殺してはいない。今も生きているじゃないですか」
どうしてだろう。自問は続く。
どうしてこんな山奥まで自ら出向いてきたのか。正直なところ、一馬自身にもよく分からずにいたのだった。
ただ衝動的に体が動いた。
「あなたは逆神なんかじゃない。ただの勘違いだ。あなたは―――化物なんかじゃない」
(ああ、そうだったのか……)
一息で言い切ってから、ようやく一馬は、自分を突き動かしていた衝動の出所を知った。あまりにも近くにあった。
ぱちりと、パズルの最後のひとつが嵌ったような、そんな気がした。
すとんと納得したと同時に、言いようのない自己嫌悪が込み上げた。
「あなたは小夜さんを、食い殺してなんかいませんよ」
それでも口は、主の制御を離れて続けていた。
昇は呆けたように、そこに座り込んでいる。一馬も、もう言うことがなくなって黙った。
「小夜……」
しばらくして、昇が口を開いた。うわごとのように、妹の名前を呼ぶ。
まるでたった今、目が覚めたばかりのように、うつろな瞳に光が射した。
「小夜だ……」
くりかえす。
「小夜を、置いてきたままなんです」
いつの間にか、昇の傍らから、着物姿の少女の亡骸は消えていた。
そこの緑がしっとりと水に濡れているだけだ。
「奥に入ってはいけないと言われていたのに、小夜を湖に置いて森の奥に入ったんですよ。迎えに行くといって。でもまだ、迎えに行っていないんです」
昇の瞳は一馬を見てはいなかった。慌しく立ち上がると、ぐるりと周囲を見回す。
「昇さん、小夜さんは湖で溺れて亡くなっているんですよ」
「"着物"が」
「―――は?」
「小夜の着物がまだ、あそこに……」
ぐにゃりと周囲の風景が歪んだ。木々が、湖が、霧の中に溶けてゆく。
"夢が終わる"。
強力な引力で、現世に引きずり戻される。景色の全てが融解して、どろどろと崩れ落ち始めた。
世界は再び、白で塗りつぶされた。
*
姫架は、幾に巻いてもらった首の包帯を撫でた。
左の首筋に触れると、ちくりと鋭い痛みが走る。噛まれた痕だ。
一体、どのぐらいの時間が経ったのだろう。
一馬が夢喰いの力を使ってから、もう随分経っているような気がするし、かと思えば5分と経っていない気もした。
この部屋には時計がないし、それ以前に時間の感覚がすっかりと狂ってしまっていた。
昇は、ひしゃげた襖に背を預けたままだらりと体を投げ出しているし、一馬はと言うとその昇の額に右手を当てたまま、動かない。
このままもし、目が覚めなければ。
動かない空気にそんな不安さえ抱く。
立ち上がり、ふと、ふたりに近づいたときだった。
がばりと、昇が一馬の手を払いのけて急に起き上がった。姫架は思わずその場に立ち竦む。
昇は周囲など見えていない様子で、座敷を飛び出していった。
「兄さんっ!」
幾の哀切な叫びも、その背中には届かない。
「くそっ……」
思わず昇の姿を目で追った姫架の耳に、悪態が届いた。
そちらを見れば、一馬が髪を乱暴に掻きやりながら立ち上がったところだった。
「一馬兄、どうなってんの……?」
「坂上山の、湖だ」
窮屈そうにネクタイを乱暴に緩めて、一馬は大股に座敷を横切った。
「昇さんは、小夜さんを探してる」
「小夜、って……。だけど、死んだんでしょ、その子……!」
小走りにその背中に付き従って、姫架も座敷を出た。
「"着物が上がってない"。それがどういうことか、姫架には分かるだろ」
早口に告げて、一馬の足は玄関を目指している。
着物、と姫架は口の中で繰り返した。
この世にまだ、執着が残っているしるしだ。
「昨日と今日あたしが見てたのって、その、小夜ってこと……?」
この屋敷に漂う、少女の気配。それが坂上小夜ということか。
「坂上小夜は坂上山の湖で溺れて死んだ。多分昇さんもそこに……」
「ああ、成瀬様、屋敷の中にいらっしゃったんですか」
廊下の角を折れたところで、小久保とばったり顔を合わせた。
小久保は何故か、一馬を見て必要以上に驚いた顔をしている。
「どうか、しましたか?」
「いえ、先程英様が、成瀬様を探してらっしゃったので、山のほうに出かけられたとお教えしてしまって……」
「何だって!?」
「ひぃ、すみません!」
突然声を荒げた一馬に、小久保は情けない悲鳴を上げて必死に頭を下げた。
「……いや、小久保さんが悪いわけじゃ、ないんですけど……」
すっかりと萎縮してしまった小久保を前に、一馬は我に返る。
しかし相変らず小久保は萎縮したまま深々と頭を下げている。
「本当に、気にしないで下さい。それより、ちょっと出かけてきます」
これ以上お互いに謝り続けても時間の無駄だ。
一馬はそれだけを言って小久保の横を通り過ぎた。
「まさか、要……」
一馬の隣に並んだ姫架が、不安に眉根を寄せる。
「ああ、多分姫架の考えている通りだろう。十中八九―――湖にいるはずだ」
9.
酸素が足りない。
咳き込みすぎて後頭部から頭痛が押し寄せてきた。
陸(おか)を掴む指先が白くなり、爪が紫色に変色してきた。
もうどのぐらいこの水の中に浸されているのだろう?
時間の感覚も、触覚さえも少しずつうしなわれてゆくような気がする。
大分前から、寒さは感じなくなっていた。
意識が遠退きかけて、ずるりと肘が水の中に落ちて慌てて我に返る。先程からずっと、そればかりを繰り返していた。
別に、水の中に引き込もうとする力はそんなに強くはない。ただ、鎖でつながれているかのように、水から外に出ることが出来ない。
朦朧とした意識の中で、要はただ荒い息を繰り返す。
徐々に体の力が奪われてゆく。温度が、感覚が、意識までもが。
「なんで、こんな……こと……」
絞り出した声は擦れていた。
「ひとりはもう、寂しいから嫌なの。あなた、私が"見えるんでしょう"?」
陸に両手をかけて、要は後ろを振り返った。
相変らず、湖の中央あたりに少女が浮いている。
風もないのに、まるで下からあおられるかのように、少女の衣と髪がはためいていた。湖上を、白い霧が舐めるように風に吹かれてゆく。
憂えるような表情でこちらを見ている。
「だって、君はもう、死んでるんだろ……!?」
かすれた声を絞り出して声を荒げても、少女は顔色ひとつ変えなかった。
「だって兄さんは私にここで、待ってろって言ったのよ」
痛そうな顔をした。何かの苦痛に耐えるような顔だ。
「迎えに来るからって、私に……」
だからって、そんなこと僕には関係ないじゃないか。
叫ぼうとしたが、声が出なかった。ずるりと下に引き込まれそうになって、口唇のあたりまで水に沈んだ。
口内に飛び込んできた水を思わず飲み込んでしまって、激しく咳き込む。
徐々に、体と水の境目が分からなくなる。どろどろと溶けてゆく錯覚に襲われた。
目蓋が重い。
木々の緑も目に痛い。このまま、抗わずに瞳を閉じれば、それで全て楽になってしまう気がした。
陸(おか)に上がろうにも、腕に力が入らない。
「みんなもう、私がここにいることなんて忘れてしまっているのよ。兄さんも……」
もうずっとひとりで、ここにいるの。
少女の声が耳元で、そして限りなく遠くで聞こえる。波打って、近づいては遠退いて、気持ち悪い。
言葉の意味も、徐々に分からなくなってきた。
「小夜―――!」
ぷつりと途切れかけた意識を何とか繋ぎとめたのは、突然割って入ってきた男の絶叫だった。
要は、閉じかけた瞳を何とか持ち上げて、声の方を見る。
坂上昇が、姿を現したところだった。
*
足に絡まりついていた紐のような感触が、ふっと消えた。急に、陸に置いた腕に体重がかかって、ずるりと水の中に沈みそうになった。
その腕を別の何かが強く掴んで、ずるりと上に引きずりあげた。
「要……!」
意識の片隅で呼ばれていることに気がついて、かすむ視界で周囲を探る。
肌に触れた他人の手がやけに熱くて、自分の体がどれだけ冷えているのかが分かった。
引きずり上げられ、どさりと地面に転がる。土の匂いがする。
濡れた服が体に張り付いて、気色悪い。
「遅、い……」
搾り出した自分の声が、想像以上に擦れていて、要は自分で驚いた。
「助けにくるならもっと早く、来てよ。……風邪ひいたらどうしてくれるのさ」
「風邪がどうこう言ってる場合じゃないだろう!」
びしょ濡れの姿で尚も減らず口を叩いていると、真剣な声で怒鳴り返される。
ばさりと上から上着をかけられた。
「ごめん、カズマ」
元はといえば、自分が勝手に山道をふらふらと登ってきたからだ。
何とか傍らの木に背を預けて座り込み、殊勝に謝った。
一馬は溜息混じりに、無事ならそれでいい、と告げる。
「ちょっと、早い……って、要!? 大丈夫!?」
山道を着物姿で登ってきた姫架が、木の根元に蹲る要を発見して声を荒げた。陶器のように青白い顔の、要の傍らに跪いた。
「あんまり大丈夫じゃ、ないかも……」
無理に笑おうとしても顔の筋肉が引きつっただけで終わる。
まばたきや指を一本動かす動作すら、億劫だ。
小刻みに震える体を、更に縮めた。
「昇さん……」
すぐ傍にある一馬の気配が、坂上昇の名前を呼ぶ。
重たい首を持ち上げて、目蓋を開き、要は湖を見た。
霧が、水面から煙のように、ゆらゆらと立ち上っていた。
*
ぬめる土を踏み、気侭に伸びる枝を掻き分けて、何年ぶりかにこの湖に来た。
そうだ。どうしてここに来ることを忘れていたのだろう。
約束があったのに。
どうしてそれを、ずっと忘れていた。
木々の密集度や枝の数がまばらになり、視界が開けると、青々とした水面が見えた。
白い霧が、ゆらりゆらりと立ち上っている。その水面の中央に。
白い襦袢をまとった艶やかな黒髪の少女が立っている。
「小夜」
呼びかければ、その少女はゆっくりと首をこちらに向けてきた。
大きな瞳が、零れんばかりに見開かれる。
にいさん。口唇が確かに、その形に動いた。
周囲がなにやら騒がしくなって、けれどもその音はどこか境界を隔てた異界のもののよう。
気にはならなかった。
躊躇いなく足を進め、湖に足を踏み入れた。
刺すような冷たさも、気になどならない。一歩踏み込むごとに深さは増し、少女の傍にたどり着く頃には、鎖骨のあたりまで水に浸っていた。
脛のあたりまでを濡らしただけで、少女は湖面に浮いていた。
その足元までたどり着いて、水面に垂れ下がった白い袖口の、その先から覗いている白い指を、両側からしっかりと握った。
愕然と、少女はこちらを見下ろしている。
ああ、あの日のままだ。
「遅くなって、済まなかった」
視線を絡ませるように、その小柄な体を見上げて呟けば、零れんばかりに見開かれたその瞳から、透明な雫が陶器のような頬を流れた。
込み上げた嗚咽を噛み殺すように、少し苦しげに眉根を寄せて、小夜は呟いた。
寂しかった。
刹那。
ざぁっと小夜の姿が、崩れ落ちた。
水面に激しい波紋を描いて、まるで体の全てが水であったかのように、そのまま。
消えた。
湖にほぼ全身を浸し、ひとり残された昇の腕には、美しい胡蝶の柄の黒の振袖が一枚。
しっかりと抱かれていた。
10.
聞いているだけでこちらまで息苦しくなってしまうような咳が、先程から断続的に続いている。
自宅の居間でソファーに沈み、新聞を広げていた一馬は、その咳が徐々に近づいてくる気配に新聞から顔を上げる。
やがて、リビングのドアをゆっくりと押し開いて、だるそうに体を引きずった少年が顔を出した。
「寝てなさい」
「水……」
言葉を発するのも億劫そうに、要はそれだけを言った。
その声すら、普段からは考えられないほどがらがらに擦れている。
まるで結核病患者のような咳を繰り返しながら、リビングと隣り合わせのキッチンにずるずると体を引きずってゆく。
あのあと、当たり前のように要は熱を出して寝込んだ。
ベッドから自力で起きて、階下に降りてこれるだけ、これでもよくなったほうだ。
坂上山から帰ってきた夜などは、40度近い熱を出し、ベッドから起き上がる事もできなかった。
キッチンから、水をなみなみと湛えた透明なグラスを片手に、要が戻ってくる。
そのままよろよろと2階の自室へと引き上げようとする足を、一馬が呼び止めた。
ドアを開きかけていた要は、億劫そうに、何? と右手側にあるソファーを振り向いた。
「さっき、幾さんから電話があった」
「え?」
「昇さんの摂食障害は、治ったってさ」
たたんだ新聞を傍らに置きながら一馬が報告すると、要は少し考えてから、「そっか、よかったね」とかすれた声で呟いた。
「あのさ、カズマ」
しばらくドアの前で立ち止まっていた要が、何かを決意したかのように切り出した。
少し首をかしげるようにして、一馬は要を見遣る。
「僕はまだ、聞いてないよ。カズマがそんなに、坂上さんの一件にのめり込んだ、理由とか」
要の瞳は真摯な光を湛えていた。なぁなぁの言い訳やごまかしは、許されない色だ。
参ったな、と一馬は苦笑した。
今回の一件にのめり込んだ理由は、あまりに我侭で自分勝手で、褒められたものでは決してない。
「物凄く、雑食極まりないと思わないか。人間って」
要は怪訝そうに眉根を寄せた。話をはぐらかされたような気がした。
構わずに一馬は続ける。
「その気になればなんだって喰ってしまえるんだ。でも、時々我に返る。生き残ることが何かの生命を喰い散らかしてる事だって気付くときもある」
それが、動物や植物なら。もう馴れてしまって、人々はあまり疑問に思わないけれど。
それでも殺して生きていることには変わりはない。
「坂上さんは、食に関して悩んでいた。他の人間と違って、もしかしたら人を喰わなきゃ生きていけないんじゃないかって、自分はもしかしたら、化物なのかもしれない。そう思っていたのが分かったからさ」
要は、眉間の皺を更に深めた。それは、不快なのではなく。
一馬がこの一件にのめり込んだ理由の、輪郭が見えてきたからだ。
"食"は、成瀬一馬にとっても、未だ膿んだ傷口であるのだ。
一馬は、視点を床に落として、自嘲気味に口元を持ち上げる。
「なんだかそうしたら、いても立ってもいられなくなったんだ。昇さんの苦しみは勘違いだって分かってたから、何とかできないかって、勝手にね。自己満足さ」
昇の夢に激しく同調したのも、坂上村の由来を詳しく調べたのも。
重い腰を上げて坂上村まで出向いたのも。
全ては、人を餌に生きる傷みに、自分も覚えがあったからだ。
自分は、人の夢を喰わずには生きてゆけない化物だから。
夢を食まずには生きてゆけない自分を厭っているからこそ、昇の錯覚を解きたいと願った。
せめて彼だけは。自分では叶わぬ願いゆえに。
化物ではないのだと、言ってやりたかったのだ。
ああ、なんだ。結局は自己満足じゃないか。どこまでエゴイズムを極めれば気が済むのだろう。
何もかも、結局は自分のためだったのか。
昇を助けることで結局は自分が、救われたと錯覚したかったのか。
情けない話だ。
部屋に満ちた重みのある沈黙に、どちらも口を挟めずに黙った。
締めが甘かったのか、キッチンの蛇口から、ぱたりぱたりと水の落ちる音が聞こえた。
ピンポーン。
沈黙を裂いたのは、軽快なインターホンだった。
半ば開いた扉から顔を出して、要が玄関の方を覗き込む。
「こんにちはー。あ! 要! 具合は!?」
セーラー服の襟元にカシミアのマフラーを巻いただけの姫架が、玄関の扉を開いて顔を出した。両手にスーパーのものらしいビニール袋を下げている。
「姫架さん、どうしたの」
思わず問えば、姫架は要の声の具合に顔をしかめる。
「まだまだ完治には程遠いね。お邪魔してもいい?」
了解を取るまでもなく、姫架はもう靴を脱いでいる。
「要がまだ風邪ひいてるっていうから、ここはあたしが一肌脱ごうと思ってさー」
「一肌……?」
「何か美味しいもの作ってあげるから、キッチン貸してねー」
「え!?」
思わず大声で聞き返して、反動で激しく噎せかえった。
「あ、ほら。ちょっと起き上がれるようになったからって、起きてちゃだめ!」
まるで母親のようにびしりと要に指先を突きつけ、姫架は眉尻を吊り上げる。
「寝にいきなよ、早く!」
「でも……」
「でも、じゃない! 聞き分けのないこと言わないでよ!」
いまだ見たことのない姫架の料理の腕が不安だとは、とても命が惜しくて言えない。
背中を押されるまま、要は玄関のすぐ傍にある階段へと押しやられた。
「なんだ、姫か」
玄関が俄かに騒がしくなったので気になったらしい。家の主が居間から顔を出した。
「あ、一馬兄!」
ぱぁっと顔をかがやかせて、姫架がそちらを振り返る。
「台所貸してね!」
買い込んできたらしいビニール袋を誇らしげに掲げ、姫架は居間の中へとするりと消えた。
玄関近くの廊下に取り残されたふたりは、どちらともなしに顔を見合わせた。
陰鬱な空気は、もうどこにもなかった。
「寝に行くね」
階段の手すりに手をかけて、要が言った。ああ、と一馬が頷く。
そのままとすとすと数段上って、ふと、階下を振り返る。
「あのさ」
居間に引き上げかけていた一馬が、要の声に立ち止まった。
片や階段の半ば、片や居間の扉の前。中途半端な位置で、視線を交わした。
「カズマだってもしかしたら、勘違いかもしれないよ」
ひとことだけを残して、要はそのまま階段を上っていってしまった。
もう振り返らなかった。
一馬はしばらく呆然と、今はもう誰もいない階段のあたりを見つめていた。
ふと、笑いが込み上げてきて、小さく吹き出した。
なんだ、病人に励まされてしまったのか。
踵を返し、居間へと戻る。居間から続きのキッチンでは、セーラー服姿の女子高生が真剣に食材と向き合っているのが見えた。
ああ見えて姫架は指先も器用だし家庭的なところがあるから、大丈夫だろう。
ソファーへ戻って沈み込んで、再び新聞を手に取った。
勘違いかもしれないよ。
ああ、本当にそうだったなら、良かったな。
しばらく灰色の紙面におざなりに目を走らせていると、包丁の音が聞こえ始めた。
食事は日々のいとなみだ。生命を取り込むことが、あまりに当たり前になってしまって考えもしないけれど。
食べ物の匂いが漂いはじめると、食欲は目覚めるものなのだ。
喰ってもまた飢える。
こんなにも雑食な生きものはいつ、飽食へたどり着くのだろう。
<了>