緋色の研究
<前編>





 あたり一面が、白に染まっている。
 地面も、空も、何もかも。
 天から降ってきたのは、白い雨。
 この頬を流れ落ち、顎から咽喉へ落ち。やがて消えた。
 私の宝を見つけてください。



プロローグ

―――鋭い悲鳴が広い屋敷中に響き渡ったそのとき、私は食堂にいた。
 前日から屋敷の空気は重苦しく、せっかく別荘にやってきたというのに、私はほとんど自分に宛がわれた部屋にこもっていた。
 別荘とは言っても雪深い山奥で、周囲には何もなく、別段何をすることもなかったのだが。
 前日の夜から自室に引きこもってそろそろ半日が経とうとしていて、いい加減胃がぐるぐると言い出したので何か口に出来るものを探しにきたのだ。
 食堂のテーブルの上には酒のビンがいくつも転がっていて、そのどれもが空だった。
 空気に溶け込んだアルコールの匂いに顔をしかめていると、この屋敷に来るときにはいつも世話をしてくれる山内という人の良さそうな婦人が顔を出して、にっこりと笑った。孫を見るような目で、私を見た。
 何かおつくりしますね。昨日から何も食べていらっしゃらないでしょう。
 まるで、この屋敷の重い空気を少しも感じさせない様子でそんなことを言うから、このひとは凄い人だなと思った。
 この忌々しい、どろどろとした雰囲気に気づいていてもそんなふうに笑えるのは、凄いことだ。
 いつものほほんとしているようで、人に騙されやすそうだなと思ったこともあるけれど、考えを改めなければならないかもしれない。
 そんなことを思っているときだった。

 悲鳴が空気を引き裂いた。
 一瞬私はその悲鳴がどこから発せられたものなのか分からなかった。
 長い、獣の咆哮のようなその絶叫が、やがて屋敷の外から響いてきたものだと知ったときにはもう、山内さんは食堂を飛び出していた。
 奥様、奥様と山内さんの口からこぼれて落ちる。呆然と立ち尽くしたまま、私はようやくその悲鳴が母のものなのだと知った。
 途端に足が震え出した。膝からまるで、地面に力が吸い取られてゆくような気がした。
 ばしゃりと上から氷水をひっくり返されたように体が急に冷えていった。
 酔っ払ったようにもつれる足で、私は玄関へ向かった。食堂から出て、すぐのところに扉はあるはずなのにとてつもなく遠く感じた。
 ドアは開け放たれたままになっていた。山内さんがその向こうで何か喚いている声が聞こえるけれど、私の耳にはことばとして届かなかった。
 ただ、どうしようもなく嫌な予感が胸の内側でぐるぐると回り続け、急に頭が痛くなる。
 靴も履かずに扉をくぐりぬけた向こう。

 その色といったら。

 ほぼ南中した太陽から落ちる光が、一面を覆い尽くす雪に反射して、視界が灼けてしまうほどまぶしい。
 その中にぽつんとひとり、母は立っていた。
 足元に転がった何か、大きな重そうなものを見下ろしたまま。
 瞬きはしているのだろうか? まるで彫刻のように動かない。
 その肩に縋りつくようにして、山内さんが何かを言っていた。励ましているのかもしれないけれど、私の耳には意味が通じなかった。山内さんが悪いのではなくて、多分私が混乱していたからだろう。
 何事かを言い残して、山内さんは屋敷の中に駆け込んだ。母は相変わらず立ち尽くしていた。
―――母さん。
 私は呼んだ。
 剥き出しの足の裏に、ジンと刺すような痛みがきた。踏みつけるたび、硬い雪が足の下でさくりと鳴った。
―――母さん大丈夫。
 呟いた私の声の方が大丈夫ではなかった。鼓膜にうまく届かなくて、変な音がした。ふるえていた。
 体の左側が、激しく脈動していた。その音を感じて、私は自分が生きているのだということを確認した。
 私は、意識的に母の足元に転がっているものを見ないようにした。母はそれを凝視していた。
 ざくざくと、針のムシロのように冷たくて痛い雪の上を歩きながら、不思議なほど肌に寒さは感じずに。母に近づいた。
 瞬きをしない瞳は硝子のようで、涙がなくなって痛くならないのかなと思った。足元に転がっているものは見ないようにした。
―――ねえ母さん。
 伸ばせば手が触れるところまできたとき。天から雫が降ってきた。
 激しい夕立のように、ばたばたと重い音を響かせて。水が。
 私は、びくりと足を止めた。母は顔をあげた。天から降り注ぐその雫を、顔に受けた。
 ゆっくりと瞬きをすると、目の上に落ちたその雫が、まるで涙のように頬を伝って落ちた。

 奇妙にひっくり返った絶叫が出た。自分の口からだった。
 そのとき初めて私は、我に返ったのだ。母がこちらに顔を向けたから。天から零れ落ちてきたその雫を受けた顔をこちらに向けたから。
 今、呼んでくるから、人を。
 奇妙にぶつぶつと切れた言葉でそんなことを言いながら、本当はそこから逃げたかっただけなのかもしれない。
 身を翻した私に吹きつけた風があまりにも冷たく、突然体中ががたがたと震え出した。
 寒かった。寒さを感じなかったのは、今まで感覚が麻痺していただけだったのだ。微かに細かい雪を孕んだ風が肌を針のように刺す。
 私は踵を返して屋敷に転がり込んだ。とにかく、電話のところまで行かなければ、と思った。
 濡れた足が滑る。転びそうになりながらリビングの扉を開けた。
 目的の黒電話の前には、もう山内さんが陣取っていた。そうだ、山内さんは外へ連絡するために、家に戻ったに違いなかった。
 小さな背中は、それでもぴんと伸びていて、私は山内さんを尊敬した。

―――ええ、ひとが死んでるんです。早く来てください。
 私はその言葉を聞きながら、ずるずるとその場に座り込んだ。そこでぷつりと、記憶は途切れている。

 気を失っていたのは、ほんのすこしの間だったらしい。
 気がつけば、リビングの入り口ではなく、ソファーに沈んでいた。
 目の前には少し冷めかけた紅茶が置かれている。多分私は山内さんに引きずられてソファーに座ったのだろう。
 紅茶もきっと彼女が出してくれたに違いない。

―――奥様!
 山内さんの切羽詰った声が聞こえてきた。私はのろのろとソファーから立ち上がる。
 リビングを出たところで、幽霊と鉢合わせた。幽霊のように存在感のない、白い服を着た母だった。
 先程までは別のワンピースを着ていたはずなのに。たった数分でどうしたのだろう。良く見ると、髪がしっとりと濡れていた。
 ああそうか、シャワーを浴びたんだな。それはそうだろう。私は納得した。
 ところで山内さん、どうしてそんなに慌てているの。
 私はやけにぼんやりしたふうに、山内さんに問うた。
 どこにもいないんです、と山内さんは言った。
 急に私は目が覚めたような気がした。麻痺していた感覚が全て戻ってきたような。
 再び靴も履かずに玄関を飛び出す。瞼に灼きつくばかりの白い世界は、先程から何も変わっていなかった。ただひとつを除いて。
 玄関を振り返ると、不思議そうな顔で母が立っていた。小さく首を傾げてみせる。
 私は訊いた。母さんなの?
 母はまるでみみずくのようにもっと首を傾けた。ことばが通じていないように。
 どこへやったの。
 私は訊いた。


―――姉さんを、どこへやったの。



1.「宝探しに行かないか」

 それはまだ、僕が受験真っ只中の、寒い日に起こった。
 12月。大学受験を間近に控えていて、一日の大半は机にかじりついていて、精神的にもぴんと糸を張ったように緊張していた。
 その日も、冬休みなんて余裕で返上して図書館に赴き、帰ってきてからも居間でテーブルに向かっていた。
 ぴんと張り詰めた緊張感は嫌いではなかったし、勉強もはまれば結構楽しかったりする。
 僕はそのとき、物凄く一般的な受験生のひとりだった。
 そんな僕の心地よい緊張感をぷつんと切ってくれたのは、仮保護者のこんなひとことだった。
「宝探しに行かないか」
「…………大丈夫?」
 僕は、心の底から心配になって訊いた。前々からおかしかったけれど、とうとう本格的に「可哀相」なことになってしまったのだろうか?
 大体、なんだよその頭悪そうな言い方。『宝探し』? 帰宅するなりそんなことを言い出したので、僕は半ばあきれて半ば怯えた。
 狂ったものを見るような僕の視線に、仮保護者は心底心外だとでも言うふうに、盛大に眉をひそめて見せたので、僕は公民のテキストの上にシャープペンシルを置いた。
「体温計? 救急車?」
「要、俺は大真面目だぞ」
 これは本格的に救急車を呼んだほうがいいかもしれない。
 一瞬、最近少しぎすぎすしている僕の心を和ませるためのジョークなのかもしれないと思ったけれど、どうやら違うみたいだ。(それに、ジョークだとしたらセンスがない)
「吾妻先輩の代理なんだ」
 と、僕に一度あしらわれたぐらいではめげない成瀬一馬(職業探偵、26歳)は、ネクタイを緩めながら共通の知人の名前を出した。
「吾妻さん?」
 吾妻というのは、カズマの大学時代の先輩で、作家だ。僕も以前に面識を得てからよくしてもらっている。
「そう。先輩の知り合いの編集者さんの……」
 と、得意げにカズマは話して見せるけれど、やけに"の"が多くて、いっぺんに話が胡散臭くなってきた。
 その気持ちがどうやらそのまま顔に出ていたようで。
「……なんだ、その疑わしいと言わんばかりの眼差しは」
「だって、話が吾妻さんからどんどん離れていってる気がするんだけど……」
「正確に言うと、先輩の担当の平内さんの先輩の立木さんって人の話なんだけど」
「……」
 なんだかますます"の"が増えた気がするのは僕の気のせいなんだろうか? 正確に言ってくれても、何一つわかりやすくなっていないのが、逆に凄い。
「薬師寺亜津沙(ヤクシジ アヅサ)」
 上着を脱いでソファーに沈み、カズマは不意にそんな名前を口にした。
 薬師寺亜津沙? どこかで聞いたことがある名前だ。
「『血液のない画家』」
 続けてカズマが口にしたその通称でピンときて、僕は思わず「ああ」と頷いた。
 『血液のない画家』、薬師寺亜津沙。数ヶ月に亡くなった画家だ。
 『血液のない画家』と言っても、別に本人が冷酷で冷淡だったとか、そういう意味ではなくて。その呼び名は彼女の作風からきているらしい。僕も新聞を読んだ程度だから、詳しく知っているわけではないけれど。
 彼女の絵には、赤がない。
 ある一時期から彼女の絵から赤という色彩が一切消えた。
 だから彼女は、血液のない画家と呼ばれるのだ。
 誰だったかは忘れたけれど、著名な作家が何かのエッセイで彼女をそう評してから広まった呼び名らしいけれど、僕はあんまり好きではない。血液がないなんて、なんだか冷たい響きがするからだ。
「立木さんが、その薬師寺亜津沙と遠縁で。先輩は取材も兼ねて薬師寺家の別荘兼アトリエに行くつもりだったらしいんだけど、今日までに上がってるはずの原稿が、3分の1も残ってるんだってさ」
「それで、何でカズマが代わりをするわけ?」
「どうしても資料に使いたいから、俺に見てこいってさ。おかしいと思ったんだよな、締め切りの近い先輩が焼肉奢ってくれるなんて……」
 ひとりで納得したように頷きながらそんなことを言っている。なんだよ、結局焼肉奢ってもらってるんじゃないか。
 だけど、資料にするなら作家本人が見に行かないといけないんじゃないのかな? 吾妻さんはそういうところが結構まじめなひとで、作品に関しては妥協しないひとだと思うのだけど。
「ということで。明日出かけるから」
「……。行ってらっしゃい」
 明るく宣言するカズマを一度じぃっと見てから、僕はシャープペンシルを握りなおして、再び公民のテキストに向かった。
「なんだよ、要も行くんだろ?」
「はぁ?」
 テキストを数行も読み進めないうちに、阿呆のようにあっけらかんとした声が降ってきた。
 思わず顔を上げると、これまたあっけらかんとした顔のカズマがミネラルウォーターのペットボトル(1.5リットル)を片手に立っていた。
「ちょっと……!」
 凄みを利かせて僕が睨みつけると。
「あ。あぁ悪い」
 カズマは急にはっと何かに気づいたように、戸棚からグラスを取り出した。
「ラッパ飲みはやめろっていうんだろ」
「あ、うん」
 ペットボトルからグラスに水を注ぐ背中を見てから、僕は再び参考書に―――。
「ちょっと待った!」
 僕は、テーブルを叩いて立ち上がった。何か、ごまかされはしなかったか、今?
「なんだよ、まだ何かあるのか?」
 不服そうに僕の方を振り返りながら、ペットボトルの蓋をしめる。
 何かってねぇ……。
「だから、僕が言いたいのは、何で僕も行くことになってるのかっていうことなんだけど……」
「だって、楽しそうじゃないか」
 カズマは、冷蔵庫にペットボトルをしまいながら、至極あっけらかんと言った。
「楽しそうって……」
 それはカズマの主観じゃないわけ?
 僕はなんだか、怒りを通り越して悲しくなってきた。
「大丈夫。旅費は先輩持ちだから」
 まさに神経を逆なでするようなその一言が、僕の堪忍袋の尾をぶちっと盛大に切ってくれた。
「違う! 僕が言いたいのはそういうことじゃなくて! 今何月だか分かってる!?」
「12月?」
「そうだよ。僕が今一番しなきゃいけないことぐらい、分かってるんでしょ!?」
 なにしろ高校3年の12月。目の前には模試で弱かった公民のテキストが広げてある。
 僕はぎりっとカズマをにらみつけた。
「落ちたらどうしてくれるの」
 僕としては、とどめの一言。のはずだったのに。
 カズマは冷蔵庫の扉を半分開けたまま、数秒固まって。それから。
 笑い出した。
 僕はもうかれこれ5年一緒に暮らしてきたこの男に、もう何度目かは分からないけれど、とにかく覚えた。殺意というものを。
 僕がふつふつと体の奥底からこみ上げてくる怒りを必死に押し殺していると、ばたんと冷蔵庫の扉を締めたカズマがとっても明るい声で。
「大丈夫だろ、要なら」
 と、物凄く前向きなことを言った。
 その、根拠のない自信はどこからやってくるのか本当に教えてもらいたい。
 カズマは僕でもないくせによくもそんな簡単に言えるもんだよ。
「最近は勉強ばかりだし、息抜きもたまにいいんじゃないのか? 模試の成績も合格圏内だし。一日二日で何が変わるわけでもないだろ。要は頭良いし」
 ……あれ?
 今までこみ上げていた怒りが、なんだか急にしぼんでしまった。風船から空気が抜けるような勢いだった。
 今度は僕のほうが固まって、何度か意味もなく瞬きを繰り返す。
 結局、これは、なんだ。
 気を遣われたってこと、なのかな?
 最近は本当に勉強漬けで―――何しろ塾にすら通い始めたし―――僕自身あまり余裕もなくて。でも、僕の周囲も結構みんなそんなものだったから、格別自分が気を張っているとか、思わなかったけれど。
 やっぱり視野が狭くなっていたのかな。
 なんだか突然、神妙な気分になってしまった。

「じゃあ、明日は9時にここを出るから、あまり夜更かしはしないように」
「あ、うん。おやすみ」
 欠伸を噛み殺して居間を出てゆくカズマを反射的に見送って、僕ははたと我に返った。
 ……今、流されなかったか。流されて、うんと頷かなかったか、僕。
 行くつもりなんて、小指の爪の先ほどもなかったのに。
 それに、僕はひとつ重要なことを忘れていなかったか?
 吾妻さんの取材とか何とか言う前に、カズマは言っていなかったか、『宝探し』と。
「……宝探しって、なにさ」
 ひとり取り残された居間で、僕はぼそりと呟いた。
 当たり前だけど、返事はない。
 僕はやっぱり、騙されたのかもしれない。
 半分以上諦めの気持ちを抱いて時計を見ると、もう12時を大きく回っていた。
 僕は溜息をついて、公民のテキストを閉じた。



2.「……出たら困ると思って」

「寒い」
 車を降りるなり、僕は襟元を掻き合せてぼそりと呟いた。それが精一杯の抵抗のつもりだった。
 僕は、こんなに北上するなんて、聞いてない。
 朝の弱いカズマにしては珍しく、予告どおり午前9時に家を出て、車で数時間。建物は消えて、視界が真っ白になって。
 山奥に到着した。

 見渡す限り、針葉樹。ふかい緑に細かい雪が積もっていて、昼の太陽を反射して透明な光を放っている。
 寒いのはあまり好きではないけれど、こういう冬のしんと冷えた空気や、目に痛いほどの白いひかりは嫌いじゃない。ついつい時間を忘れて魅入ってしまうぐらいうつくしい。
「あの、目の前に見えるのが薬師寺亜津沙の別荘兼アトリエだ」
 カズマが指差した先。そこには白しか見当たらなかった。
 学校のグラウンドぐらいはありそうな雪原と、そこに建つ巨大な、白い家。
 壁も屋根も全て白で、はめ込まれた硝子窓が太陽の光を跳ね返していなかったら、きっとすぐには分からなかっただろう。
 本当に、白い館なんだ。

「結局、仕事だってことを僕に黙ってたのは、全っ然気にしてないからね」
 冷たく言い放って、僕は屋敷の方へ向かって歩き出した。背中で、カズマが固まっているのを気配で感じる。
 そうなのだ。カズマが薬師寺亜津沙の別荘兼アトリエに来たのは、吾妻さんの代理の取材などではなく。
 立木さんという雑誌編集者から請けた依頼、なのだ。
 吾妻さんを経由しているというのは、別に間違いではないけれど。
 この館に到着するまでの数時間、「宝探し」という単語について散々問い詰めた結果、成瀬一馬は白状した。

 吾妻さんが例の立木さんと仕事の打ち合わせをしていたときの話。ある程度打ち合わせが済んで、話題は世間話に移行した。
―――最近ちょっと、気になってることがあるんだ。
 切り出したのは立木さんだった。
 なんでも、遠縁の親戚から死の直前に手紙が届いたという。その手紙がなんとも不可解で。
 生前親しくしていたひとだから、何とかしたいとは思うのだけれど。
 そこで、吾妻さんはポロリと言ってしまったそうだ。俺の知り合いに探偵がいますけど。
 ……そして、今に至る。

 ここで僕が声を大にして言っておきたいのは、探偵にも色々とレベルがあるということ。
 もうひとつ言っておきたいのは、探偵というものは、小説やドラマで誤解されがちだけれど、とても地味な仕事しかしていないということ。
 最後にもうひとつ。カズマに探偵的能力を求めてはいけません。これが重要。
 偉そうに探偵事務所なんて構えているけれど、別に適正があるわけじゃなくて。ぶっちゃけたところ、悩み相談所と同じレベルだし。もうひとつカズマには副業があるのだけれど、それについてはまた機会があれば説明するとして今回は割愛する。

 とりあえず、吾妻さんの言葉をそのまま鵜呑みにしてしまった立木さんは、吾妻さんを経由してカズマに仕事を依頼したというわけだ。

「なんで黙ってたのさ? 素直に仕事で行くって言えばよかったんじゃないの?」
 さくさくと雪を踏みながら玄関の方へ近づくと、後ろから足音がついてきた。
「仕事で行くって言ったら、絶対ついてきてくれなかっただろ?」
「当たり前じゃないか、そんなの。仕事なんだから」
「……出たら困ると思って」
「出る?」
「そう。だから、その……」
 立ち止まって振り向くと、何故かしどろもどろになっているカズマがいた。繰り返すけれど、カズマは26歳です。
「だから"出た"場合、要がいてくれたほうが安心かなぁと……」
 僕から目を逸らすようにして斜め上を見て、そんなことを言う。
 付き合ってられない。しどろもどろのままのカズマをそこに置き去りにして、僕は玄関に向かって歩き出した。

 近づけば近づくほど、その屋敷は目を刺すほどに白く、痛い。
 すぐ傍まで立って見上げると、屋根の一部が平らになっていた。黒い鉄の柵が張り巡らされているのが見える。どうやら屋上があるようだ。
 見上げた空はくすんだ灰色。今にもまた、雪が降り出しそうなほど重い。先程まで照っていた太陽は、どうやら雲に覆われてしまったようだ。
 そのときだった。
 ぱつ、と頬に一滴。空から水滴のようなものが落ちてきた。
 少し大粒な、あまり冷たくない水滴。頬をすべり、耳の方へ落ちていった。
 雨?
 びっくりして、その水滴が落ちたあたりを拭って見たけれど、どこも濡れてなんかいなかった。
「要?」
 追いついてきたカズマが、僕のその奇行に怪訝そうな声を出した。
 気のせい、だったんだろうか。それにしてはやけに生々しかった。
 しかも、雨というには少しなまあたたかくて……。そして、一瞬目に飛び込んだその色は、白、だった。
 白い雨なんてあるはず―――……。
「っ……」
 突然腹の下のほうから突き上げてきた嘔吐感に、思わず口元を覆った。
 膝から力が抜けてしまうほど、体が急に重くなって。
 僕は、真っ白な雪に膝をついた。
「要!?」
 肩にカズマの手がかかったのすら、おぼろげにしか分からない。
 急に横から鈍器で殴られたような頭痛がきた。雪に両の掌をついて、しばらく荒い呼吸を繰り返す。
 しばらくそうしていると、やがてだるさも嘔吐感も鈍痛も、嘘のように引いていった。
 時間にしてみれば、30秒もたったのだろうか。1時間にも感じられた。
「大丈夫」
 カズマに引きずり上げられるようにして立ち上がって、言った。
 そのとき唐突に僕は、カズマが先程しどろもどろした理由を悟った。稲妻が落ちたように、直感で。
 雪についていた掌が、つめたさでじんじんと火照り、痛み出すのを感じながら、僕はもう一度屋敷を見上げた。

―――"出た" 場合、要がいてくれたほうが安心かなぁと……。

「あのさ、ひとつ訊いてもいい?」
 膝についた雪を払いながら、僕はカズマを振り返る。
「ここで、ひとが死んでるの?」


            *


 こう言って、信じてもらえるかどうかは分からないんだけど、僕―――英 要、18歳―――には、昔からふしぎな力がある。
 俗に言う、霊能力ってやつとは少し違うらしい。よくは分からないんだけれど。
 超能力というやつともまた少し違うようで。その中間ぐらい、というやけにあいまいな説明をされたことがある。
 けれど、とりあえず霊の姿は見えるし、会話も可能。僕はその名前のつけようのない力をどう使って行くのか、現在検討中というのが正直なところ。
 だから先程のように、屋敷を前にして急に具合が悪くなることもある。―――まぁ、滅多にないんだけど。

 屋敷に入る前に、僕はほとんど度の入っていないフレーム無しの眼鏡をかけた。
 一枚目の前にフィルターをかけることによって、感覚を鈍らせることが出来るんだと、僕に力の制御の仕方を教えてくれたひとが言っていたので、持ち歩くようにしている。

「悪かった」
 まさか僕が急に倒れそうになるとは思っていなかったらしいカズマは、屋敷に入ってからも反省しきりで。
 部屋に通されたところでぱちん、と顔の前で両手を合わせて謝罪した。
「……帰ったら、覚えといてよ」
 かくいう僕は、屋敷に入ってからも偏頭痛に悩まされ続けている。こめかみを押さえながら低い声で脅した。

 白い館は、内装もまた白かった。
 調度品から柱、扉に至るまで。白。
 通された客室の壁も、寒さすら感じるぐらいに。
 唯一壁にひとつだけかけられている青い魚の絵が、救いのように浮いていた。薬師寺亜津沙の作品だろうか?
「はい」
 ベッドの横に座っている僕の目の前に、カズマは白い封筒を差し出した。
 縦長の、どこにでもあるような普通の封筒だ。
 それには流麗な文字で住所と、「立木隆行様」という宛名が綴られている。
 これが問題の手紙―――薬師寺亜津沙が立木氏に送ったもの―――なのだろう。
 差し出されるままに受け取って、中から白い便箋を引きずり出し、広げた。
 封筒の表と同じ、几帳面そうな文字が並ぶ。

―――前略 立木 隆行様

 突然このようなお手紙を差し上げて申し訳ありません。
 しかし、どうしてもお願いしたいことがあり失礼を承知でこうして筆を執りました。
 お願いします。私の宝を探してください。
 10年前、私がなくしてしまったものを。
 あの日は白い雨が降っていました。一面が真っ白で、目も眩むぐらいで。
 白い部屋に、確かに隠したはずなのに。
 どこにあるのかもう分かりません。
 どうか見つけてください。
 見つけてください。

                  草々 薬師寺 亜津沙


「……なに、これ?」
 二度、丁寧に読み直してから訊いた。
 実に不可解な手紙だ。
 脈絡がなくて、一体、何を探して欲しいのか全く分からない。
 カズマの話によると、薬師寺さんはとある一件から精神的に不安定なときが多かったらしい。
 元々メディアの露出が極端になかった人だから、そういうことは報道されなかったけれど。
 だから、立木さんの周囲の人々は、「その手紙に深い意味はきっとないのだろう」とまともに取り合わなかった。
 けれど立木さんは、彼女が何の意味もなくこんな手紙を送ってくるとはとても思えないという。
 取り乱すことはあっても、普段はとてもしっかりした人だったというから。
「でも……。この屋敷白ばっかりじゃない。白い部屋って言われても……」
 便箋を元通り三つ折にして封筒に戻す。ぐるりと室内を見回した。
 壁にかかっている絵以外、白い色しか見当たらなかった。
「噂には聞いていたけど、ここまでとはね」
 溜息混じりにカズマも同じように視線をめぐらす。
 扉、壁、カーテン、ベッドのシーツに至るまで。
 瞼を閉ざしても残像がちらつくような、灼きつく白。乳白色などではなくて、青みを帯びた陰気な白だった。

「それで、立木さんは、"宝"は何だと思ってるの?」
 こつんこつんと頭の内側を圧迫する鈍い痛みは続いている。
 封筒を膝の上に置いて、僕は訊いた。
「絵だよ」
 カズマは純白の壁に漆黒のスーツでもたれかかって、言った。
「絵?」
「薬師寺さんがまだ赤を使っていた頃の絵。数枚、どこに行ったか分からないものがあるらしいんだ。立木さんはそれだろうって」

―――10年前、私がなくしてしまったもの。
 それは、『血液のない画家』が描いた、赤い絵?

「……薬師寺さんはどうして"赤"を使わなくなったのかな」
「この屋敷で、夫が死んで娘が消えてからだよ」
 ただの独り言だった。答えなんて期待していなかったのに、あっけなくそれは返ってきた。
 僕は、不健康なほどに白いカーテンから、カズマに視点を戻した。
「要が言ったとおり、この屋敷でひとが死んでるんだ」


            *


 薬物依存症の夫がこの屋敷の屋上で自殺した。
 巻き添えを食って重症を負ったはずの娘が忽然と姿を消した。
 それから薬師寺亜津沙の絵から赤い色が消えた。
 10年前の話。


 僕は、真っ白なシーツの海に沈んでいた。
 後頭部が重くて仕方がない。全く役に立たなくなってしまった眼鏡は既に外してベッドサイドに置いてある。
 夕食で、薬師寺亜津沙の息子、薬師寺和美に会うことになっているのだけれど、まだ3時過ぎで。
 カズマはその辺をうろうろしてくると言って出て行ってしまったから、僕は少し眠らせてもらうことにした。
 ベッドがゼリーのようにぐにゃりと僕の体を飲み込んでゆく。
 ただの錯覚なのだけれど、やけにリアルで、きもちよかった。それが睡魔の手だと知りながら、僕は抗わずに瞼を閉じた。
 瞼の裏に、白い残像がちらちらと揺れた。


 夢を見た。
 酷くリアルでなまなましくて、自分が夢の中にいるという意識まである、変な夢だ。
 僕は、誰かの視点で廊下をゆっくりと歩いていた。
 いや、それともスローモーションなのだろうか? やけに遅い。
 左右をせわしなく見回して、手当たり次第の扉を開ける。
 何を探しているのだろう?
 そしてここはどこだろう。
 薬師寺亜津沙の別荘兼アトリエに酷似しているけれど、何か違う。違和感がある。
 なんだろう?

―――白。

 急に、くぐもった声が響いてきた。頭の中に直接。
―――白い部屋。
(あ……)
 突然僕は、違和感の正体に気がついた。
 この屋敷は、"白くない"。壁も、柱も、調度も。白くないのだ。
―――どこなの。
 女の声だった。僕が今見ているのは、女性の視点らしい。
 白く細い腕が、あるドアのノブを握って押し開いた。
 開いた扉の向こう側。その壁の色は。
 白、だった。


「っ……!」
 声のない悲鳴をあげて、僕はベッドから跳ね起きた。
 額から汗が頬へ落ちてくる。
 壁の時計を見ると、もう既に5時を回っていた。たったさっき寝たばかりだったのに。
 重い頭を支えるように額に手を当てると、ずるりと滑った。それほど汗をかいていたようだ。
 体の左側がやけにうるさい。心臓の音だ。口唇から絶え間なく、荒い呼吸がこぼれて落ちる。
「なんだったんだろう、今の……」
 呟いた声がかすれていた。
 汗が冷えて、急に寒くなった。寒く感じてしまうのはもしかしたら、あたりを塗りつぶす白い色のせいかもしれなかった。

 なんなんだ、この屋敷は―――。



3.「10年前のことをお話しましょうか」

 誰かの意識に同調しているのだろう、と思う。
 汗が冷え始めてべたべたと気持ち悪い体を引きずって、部屋のひとつひとつに当たり前のように備え付けてある浴室に入った。
 元々ペンションだったものを買い取ったのがこの屋敷だというから、そう考えてみれば当然といえば当然なのかもしれない。
 のろのろと服を脱いでコックを回した。勢い良くシャワーからお湯が飛び出してくる。


 強い思念。そういうものに、僕は影響を受けやすい。
 先程のように夢として現れるときもあれば、屋敷に到着したときのように具合が悪くなることもある。白昼夢、幻覚、幻聴。時と場合でそれは異なるのだけれど、唯一はっきりしているのは、同調する思念は全て、死んだ生き物のものだ、ということ。
 生きている人間の思念は、全く伝わってこない。それはたぶん、しあわせなことなんだろう。
(困るな……。もっと制御の方法をちゃんと教えてもらわないと……)
 熱いシャワーを頭からかぶって、溜息をついた。
 こんなにも時も場所も選ばずに影響を受けていては、日常生活に差し障るじゃないか。……別にそれは今に始まったことじゃないけれど。
 このような思念を上手に受け流す方法を、僕はまだ習っていなかった。最近は本当に、受験勉強にどっぷり漬かっているから、この力の使い方を教えてもらっている家に行く回数は激減した。まだ基本すらちゃんと出来ていないのだ。
(だって、しょうがないじゃないか)
 タイルの壁に手をついて、だらりとうなだれると、強い水の雫が髪の毛から頬を伝って顎から絶え間なく落ちてゆく。
 項に当たる水圧が、また眠気を呼び起こすような気がした。2時間眠ったとはいえ、結果的には疲れていたのだから、意味がない。
(受験初めてなんだし。緊張するよ)


 僕は、生まれてから13歳まで、ほとんど家の敷地の外へ出たことがなかった。
 理由は―――まぁ、ひとつふたつではないのだけれど、もっとも大きな理由はこの不思議な力だった。
 まるで中世ヨーロッパの砦のような屋敷と、庭とは呼べないほど広大な敷地の中だけが僕の世界の全てで、普通に育った人ならば当然知っているようなこと―――いわゆる常識―――さえ、時々分からなかったりしたぐらい。僕の世界は箱庭のように閉ざされていた。
 そこから外の世界へ連れ出してくれたのが、今の仮保護者である成瀬一馬なのだけれど、それはまた別の話になってしまうので、詳しくは説明しない。
 そんなこんなで、13歳から外の世界に対応するのは、それなりに大変だった、らしい。
 他人事のように言うのは、僕自身がその当時のことをあまりよく覚えていないからだ。
 人間の脳というものは主の精神を守るために全力を尽くす機関で、そのためなら記憶なんて簡単に早送りしたり消したり、書き換えたりしてしまえるものらしい。
 つまり僕はその当時のことをあまり覚えていたくなかったのだ。
 だから、学校の場所や先生友人の名前と顔、勉強して詰め込んだ知識なんてものは、たやすく思い浮かべることが出来るのだけれど、その当時、どうやって毎日を過ごしていたか、生活していたのか、全くといって良いほど覚えていない。
 知り合いは、僕が中学の修学旅行のことをほとんど覚えていないというと、ほぼ例外なくびっくりする。
 たった3年前のことだろう、というのだけれど。それは僕が自分に言いたい。3年前だろう?
 修学旅行で訪れた沖縄。初めて乗った飛行機に、抜けるほどに青い空。肌を焼く太陽の熱。南国めいた木々。
 そんなものは、覚えているのだけれど。
 どんなふうにすごしただろう。何を見て、何を思ったのだろう。もう覚えていない。
 そんな、記憶のうすさがここ数年で少し緩和されてきたと、自分では思っている。少なくとも、修学旅行のようなことはないから。
 僕はつい最近、本当の意味で「生きはじめた」のかもしれないと、ふと思ってしまうときがあるぐらいだ。
 僕は箱庭の外に出て、そのとき初めて生まれたのだろう。

 あまり大きな声では言わないけれど、僕は自分を変えたいとずっと思っていた。
 生まれ持った力のせいで外界から隔離されて育った僕は、自分だけが可哀相な人間だと思っていた。
 世界の全ての不幸を凝縮して飲み下したと思っていた。
 まわりがやさしかったから。更にそう勘違いした。
 でも今は違う。
 なければいいと思ってきたこの力とも、なんとか共生したいと思うし、自分の過去に甘えて、自分を甘やかしたくないと思う。
 受験は、そんな自分に課したワンステップだった。誰にも言っていないけど。
 中高一貫の私立の学校に通っていたので、高校はエスカレーターでそのまま上がった。受験は初めてだ。12月に入ってから、とにかくやたらと緊張し始めた。
 ただのテストだと、思うのだけど。
 自分で決めたことだから、貫きたいと思うのだ。

(こんなこと、誰にも言えないじゃないか……)
 なんとなく、気恥ずかしいじゃないか。
 大分体が温まってきた。水を止めようとコックに手を伸ばしたときだった。
 急に、お湯の温度が下がった。熱く火照り出した体を撫でるその液体は、なまぬるい。
 顔にシャワーがかかるのも構わずに、顔をあげた。
 落ちてくる水の色が、白い。
 途端に、頭を横殴りにするような痛みがやってきた。まただ。
 降り注ぐ豪雨のような白いシャワーを浴びながら、僕は必死にコックを閉めようと手を伸ばした。
 その、伸ばした腕を見て、愕然とした。
 べったりと、白い色が腕に絡まりついていたからだった。
 濃厚なペンキをかけたように、シャワーの水を浴びた部分が見る見るうちに白く染まる。
 ただの水のはずなのに、肌に落ちるとどろりとすべる。慌ててそれを、反対の手で擦った。
 洗い流さなきゃ。強迫観念のように、そう思った。

―――落ちない。

 声がした。すぐ近くで。
 おんなのひとの。

―――どうして?
 おんなのひとの白い腕が、僕の手に重なった。
 肌をどろりと滑り落ちる白い水を、必死に擦った。
 その指は、家庭の仕事をほとんどしたことがないような、細くきれいな指だった。
―――どうして落ちないの。
 嗚咽交じりの声で言う。どうして、どうして。
 ぐるぐると声が前や後ろや左右で響いた。三半規管を狂わせてゆくのが分かる。
 視界がぼやけ始めた。意識が、すっと遠くなる。

―――どうして。
 ああ、このまま沈んでしまったほうが、きっと楽だ。


「要?」
 絶対に握った拳の小指の横で叩いたような、鈍いノックが聞こえた。
 けれどその不躾なノックが、今にもぷつんと切れそうだった意識の糸を、しっかりと結びなおしてくれる。
 はたと我に返ると、浴室にはシャワーの音だけが響いていた。僕は壁に両手をついてぐったりとうなだれたまま、少し熱めのシャワーに打たれ続けていた。
 恐る恐る自分の腕から体を見ると、あの白い色はどこにもついていなかった。
 肌を流れ落ちる水は、濁りもない無色の、無害の。ただの水。
「要? 大丈夫か?」
 ドアの向こうで聞きなれた声がする。不躾なノックは繰り返されていた。
「大丈夫。もう出るよ」
 今度こそ、コックを閉めた。きゅぃ、と変な音を立てて水が止まる。
 浴室の端にある鏡が、蒸気で真っ白に曇っていた。
「そろそろ夕食になるみたいだから、髪とか乾かしたら下に降りておいで。リビングで待っていればいいっていう話だから」
 そう言い残したカズマの足音が遠ざかって、やがて部屋の外に消えた。
 濡れた体が冷える前に、浴槽から出る。けれど、シャワーに当たっていなかった部分は、もうすっかり冷えていた。
 どのぐらい打たれていたのだろう?
 バスタオルで髪を乱暴に拭きながら曇ったガラスをわけもなく手で拭いてみた。
 掌についた水滴が、つめたい。

 どうしてこんなにも同調するのだろう。
 今まではこんなこと、なかったのに。


            *


「やぁ。久しぶり」
 リビングのドアを開いたところで、何故か見覚えのある、ここにいるはずのない顔がお出迎えしてくれた。
「……吾妻さん?」
 僕は随分と間の抜けた声で相手の名前を呼んでいた。何でここにいるんだろう?
 カズマはいないし。
 部屋の中央に据えられた白いソファーの端に座っていたその人物は、ひらひらとこちらに向かって手を振って見せた。会うたびに色の違う髪の毛は、今回は暗い茶色だった。
 気だるげに足を組んで座っているだけなのに、何故だかとても柄が悪く見えてしまうのはどうしてなのだろう。本人はいたって普通の人間なのに。おそらく着ているシャツの柄の悪さが原因なんだろう。
「……原稿残ってたんじゃないんですか?」
 彼が吾妻珪丞(アガツマ ケイスケ)。カズマの大学での先輩であり、作家だ。そして、こうして山奥にやってこなければならない原因を作ってくれた相手でもある。
 確か聞いた話によると、昨日まで上がっているはずの原稿がまだ3分の1も残っていたとかいないとか……。
「いやぁ、創作の神様って、いるものだね」
 何故かどこか遠くを見るようにしながら吾妻さんは言った。「あのスピードは、何かが乗り移っていたとしか思えないよ」
 ……どうやら、昨日のうちに片付けてしまったらしい。
「立木さんが」
 吾妻さんは、テーブルの上に置かれていたセブンスターの箱から一本抜き取って口に銜える。
「ちょうど今、車がないというものだから。僭越ながら俺が運転手を買って出たんだけれども」
 そういわれてはじめて僕は、吾妻さんの隣に座っていた人を見た。
 40がらみ。短髪の、やさしそうできびしそうな人だった。あまり大きくない瞳がこちらを向いて、少し笑った。
 このひとが、立木隆行さん。薬師寺亜津沙の最後の手紙を受け取ったひと。
 僕が立木さんに向かってぺこりと小さく頭を下げたところで、視界の端で何かが動いた。
 煙草を銜えたままで吾妻さんが立ち上がっていた。ゆっくりと僕の前まで近づいてくる。
 なんだろう、と思っているうちに、吾妻さんの掌が僕の額に触れた。
「顔色が悪いな」
 忘れていた。このひとは鈍いようで、とても勘が鋭い人なのだ。「大丈夫? 熱はないみたいだけども」
 銜え煙草のままで発音される言葉がやさしく耳に届いた。

 僕の周りには同世代の友達よりも年上の人々のほうが多かった。
 だから随分と甘やかされてきたし、今もそうなんだろうと思う。
 また今も、甘やかされている気がする……。僕ももう18なんだけど。

「大丈夫です。ちょっと、寒いだけ」
 こんなに雪の深いところに、長い時間いたことがなかったから。
 暖房は効いているはずなのに少し寒いと思うんです。
 そういうと、吾妻さんは僕の額から手を離して、すっかりと暗くなってしまった窓の外を見た。
 そうだねぇ。降ってくる雪は良く見ても、地面を覆い尽くす雪にはなかなか出会わないねぇ。
「それは、雪国の人間が聞いたら怒る発言だな」
 少し間の抜けた僕と吾妻さんの会話に、立木さんが笑った。
「いや、雪国のひとはたくましいと思いますよ、本当に」
 テーブルの上から灰皿を持ち上げて、今にも落ちそうだった灰を落とす。
 僕は吾妻さんにつられるように、窓の外を見た。春とも夏とも秋とも違う。しんと冷えた、刺すような空気。
 ほのかに光る雪。庭を全て埋め尽くす白。窓はしっかり閉まっているのに、そんなものが見えるような気がした。
「俺の母親の実家が東北なんだけどね。小さな頃良く遊んでいたんだけども」
 再びソファーに座りなおした吾妻さんに向かって、立木さんが口を開いた。
「久しぶりに行くと恐怖するね。何で子供の頃は走り回っていられたんだろうと思うよ。あの路面は凶器だし、降ってから固まった雪は痛いし。車のハンドルは取られるし。寿命がすぐに縮んでしまう」

 そんな会話を聞きながら、僕も吾妻さんの向かいに座った。
 そうか、顔色が悪く見えるのか。なんとなく気になって、何気なく額に触れてみた。別に普通だった。
 だるさも大分抜けたし、頭痛も治まってはいたけれど。なんだかざわざわと落ち着かない。
 視界に入るもの全てが同じ色だからなのかもしれない。
 あまりに白すぎて、息が詰まる。病院みたいだ。
 肌寒く感じるのも、もしかしたら精神的なものかもしれない。


「先輩?」
 扉が開いて、なにやら間の抜けた声が聞こえた。どうやら心底驚いているらしい。僕はちょうどその扉に背中を向けるようにして座っていたけれど、声で誰かはすぐに分かった。
「久しぶりだな、後輩よ」
 向かいに座った吾妻さんは、大げさに両手を広げて見せた。
「なんでいるんですか」
 つれないその一言に吾妻さんはげんなりと、扉のあたりで固まっているらしいカズマをみやる。
「なんだ、久しぶりに会った先輩に対する態度かそれが」
「だって、なんでいるんですかここに」
 カズマは繰り返した。どうやらカズマも吾妻さんが来ることは知らなかったらしい。
 吾妻さんはウエイトレスのように掌を隣の立木さんに向けて、僕は運転手なのだ、と言った。
 なんですかそれ、とカズマが言う。僕は背中を向けていたけれど、カズマが凄く胡散臭そうに眉間を寄せた顔がありありと目に浮かんだ。
「なんだ、その野次馬を見るようなまなざしは」
 吾妻さんはそのまなざしにいたくご立腹したらしく、わざとらしく腕を組んでみせた。
「だって、そうじゃないんですか」
 いつもは温厚なカズマも、何故かこの先輩には容赦がない。気を遣わないってことさ、と吾妻さんは平然そうな顔をしてみせる。そういうところを考えると、やっぱり吾妻さんは大人なのだなと思ってしまう。
 僕の隣にカズマが座った。
「シツレイだなぁ君は。わたしは先輩として悲しい。どうして君はそんなに、歪んで育ってしまったのだろうね」
 嘆かわしいねぇ、と吾妻さんは口元をゆがめて笑いながら言った。冗談だとすぐに伝わる言い方が、この人のやさしさだなと思った。
「原稿はどうしたんですか? 50枚」
 カズマの口から具体的な数字が出て初めて、僕は吾妻さんが抱えていたノルマが150枚程度だったことを知った。
「50枚? さて何のことだか俺にはさっぱり」
「吾妻くんは、乗り始めたら早いからね」
 先輩後輩のやりとりを、立木さんは面白そうに眺めながら言った。
 この分だと本当に昨晩のうちに50枚上げてしまったらしい。
「なんだよ一馬、ひとをただのデバガメみたいに」
「だって、先輩ですよ、『宝探し』なんて言ったの」
 お前、宝探しにゆく気はないか。カズマにそう切り出したのは、他でもない吾妻さんだったのだ。
 それに乗せられているカズマもどうかと思うけどね、と僕は思ったけど口には出さなかった。

 背後でまた、扉が開く音がした。
 開いたその扉からさぁっと冷気が流れ込んできたように感じた。一瞬だけ。
 その冷気に背筋をなで上げられたようで、思わず肩が震えた。
「ああ、お待たせしました」
 そう呟く声は、まるで機械が発した音のように、単調だった。
 思わず振り返る。
 そこには、白いシャツに黒いズボン姿の、線の細いおとこのひとが立っていた。年の頃は20代後半ぐらいだろうか。
 穏やかな笑みを口元に浮かべている。やわらかそうな茶色の髪。眼鏡をかけていた。インテリって、きっとこういう感じを言うのだ。
 立木さんが立ち上がって、その人を僕たちに紹介する。
 薬師寺和美。現在この館の所有者で、10年前に事件が起こったそのときにこの館にいた唯一の生存者だ。
 生存者というのも何かおかしいけれど、父親も母親も、当時この別荘で世話をしてくれていたという女性も、もう既に他界していた。
 紹介されて、僕はぺこりと頭を下げた。和美さんは、にっこりと笑って「よろしく」と言った。けれど、僕は何故か落ち着かない。和美さんは常に穏やかな笑みを口元にたたえているけれど、それが少しも動かない仮面のように見えたからだ。
 張り付いた笑顔。そんなふうに。

 その笑顔のまま、和美さんは言った。
「食事の用意が出来たので、どうぞ食堂に」


            *


「10年前のことをお話しましょうか」
 食事が滞りなく済んだあたりで、そんなふうに唐突に口を開いたのは、薬師寺和美その人だった。
 僕たちは別に、10年前の事件の話を聞きにきたわけではないし、吾妻さんの言うところの『宝探し』にそれが直接関わっているというわけでもないので、その話題に触れるのをなんとなく避けていた。
 だって、決して面白い話ではないじゃないか。僕だったら嫌だ。
 けれど、薬師寺和美は、白いテーブルクロスに頬杖をついたまま、あの張り付いたような笑顔で凍りつく一堂を見回して、言う。
「いいんですよ。隆行おじさんに説明してもらうより、きっと詳しいだろうから」
 なにせ僕は、実際に見ていますからね。そう言って、和美さんは小さく笑った。
 なんで笑っているんだろう、と僕は思った。
 辛い思いでも、過ぎ去れば笑い話になるというけれど、父親の自殺は時間を重ねたところで笑い話になるものだろうか? その死を、間近で見て。
「そんな泣きそうな顔をしなくても大丈夫ですよ」
 不意に和美さんが僕を見て言った。僕はどうやら、泣きそうな顔をしていたみたいだった。
「不思議なんですけど」
 ぼんやりと、空中を見ながら和美さんが言う。口調も、表情も、あまり乱れない。一本の線のようだ。
「10年前からあまり、物事をリアルに感じないんですよ。これも多分、後遺症なのかもしれません。だから話しても、他人事のようにしか感じられなくて、辛くはないです」
 だから大丈夫ですよ、と和美さんは言った。

 そう前置きして、和美さんは国語の時間に本を音読するときのような淡々とした声ではじめた。
「あの日は数日前からこの別荘に家族で泊まりに来ていました。母はここを仕事場にすることが多かったので、それよりも前からこもっていましたけど。その頃は、もう家族の間が―――というか、父と母の間が随分こじれていましてね。この別荘に来てからも口論が絶えなくて、屋敷の空気はとても重苦しかったのを覚えています」
 食堂は、ときおり風が揺らす窓の硝子の音すら聞こえるほど、静まり返っていた。
「悲鳴が、聞こえてきたんです。引き裂くような。一瞬、男かも女かも分からなかった。その悲鳴が響き渡ったとき、私はちょうどここに―――この食堂にいたんです」


 悲鳴が聞こえて外に飛び出すと、雪原の中に母が棒のように立っていた。
 その足元には何か黒い塊がうずくまっていて、今思い返せば多分それが姉なのだろうと思う。
 母は瞬きもせずに呆然と姉を見下ろしていて、私は姉を見ないようにしていた。
 屋上からは喚き声が聞こえていた。獣のようなその声は、父の声だったかもしれない。
 しばらく私は呆然としていて、突然我に返っておそろしくなった。
 そして、警察に連絡するという名目で屋敷に逃げ帰った。
 どのぐらい、現場を離れていたのだろう。おそらく20分は経っていなかったと思う。
 その少しの間のうちに、いつのまにか母はシャワーを浴びてしまっていた。
 その少しの間のうちに、雪原にうずくまっていたはずの姉の体が、どこにもなくなってしまったのだ。


 大まかにまとめると、そんな内容のことを和美さんは一貫して淡々と語り終えた。
 口を動かすのとまばたきをする以外はほとんど顔を動かさなかった。
 和美さんの言葉が途切れてからしばらく、食堂の中には沈黙が降った。誰も、口を開かなかった。
 開けなかった。

「しかし、この屋敷は随分と白に染まってしまったね」
 その沈黙を埋めるように、立木さんが言った。
 白いテーブルクロスをじっと眺めてから、同じ色の天井を仰ぐ。
 それは母が、と和美さんが言った。
「あの一件以来、母は精神的に不安定になってしまいました。元々この屋敷に白い部屋なんてひとつもなかったんですよ。けれど、母はやけに白い色に固執して、ありもしない白い部屋を探すようになったので、全て白にしてしまったんです。そうしたら少し、落ち着きました」
 自分の母親の精神が不安定だったと口にするときすら、和美さんは無表情のままだった。





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