緋色の研究
<後編>
4.「大丈夫」
二度寝はしないようにしているのだけれど、その夜はほとんど眠れなくて。
早朝に目が覚めたけれど起き上がるのが嫌で、宛がわれたベッドの中でしばらくとろとろとまどろんでいた。
布団を顔のあたりまでかぶると息苦しいけれど、白い天井を見るのが嫌で。僕は息苦しい闇の方を選んだ。
それでも午前7時頃、どんなに頑張っても眠れなくなってしまって、白いシーツの上で上半身を起こした。
夢は見なかった、と思う。
けれど、脳のどこかがずっと緊張していて、覚醒していて、長く眠っていられなかった。
ぶつぶつと、細切れに目が覚めて、余計に疲れてしまった。
顔を洗って服を着替えて、階下に降りる。食堂のほうから、コーヒーの良い匂いが漂ってきていた。
誘われるように扉を開けると、食堂の隅で和美さんがコーヒーを淹れていた。ゆっくりと僕の方へ視線を向ける。
「おはよう。要くんだったよね」
相変わらず涼しげな笑顔でそう言った。けれど朝の光の下で見るその顔は、そんなに不気味ではなかった。
おはようございます、と返して頭を下げた。早起きだな、と和美さんが笑った。
「食事前でなんだけど、コーヒーは飲む?」
みんな起きてこないから、まだ食事には出来ないけれど。
誘われるままに、僕は頷いた。
「私が気持ち悪いと、君なら思うかな」
僕の前にマグカップを置いて、和美さんはそんなことを言った。
僕は驚いて、マグカップから顔をあげ、和美さんを凝視する。
精神的に不感症なのは、気持ち悪いと思うだろう。相変わらず無害な笑顔で微笑みながら、和美さんは言った。
「気持ち悪いなんて……」
「でも、理解は出来ないだろう?」
自分のマグカップを持って僕の向かい側に座りながら、相変わらず和美さんは笑っていた。僕の否定の言葉を、至極簡単に封じ込めた。
「昨日の晩、簡単に10年前の話をする私を、泣きそうな顔をして見ていたから。それが、普通の反応なのだろうね。私はやっぱり、どこか病んでいるんだろう」
「普通だなんて……!」
思わず僕は、声を荒げていた。手の中のマグカップからコーヒーが僅かにこぼれて、白すぎるテーブルクロスに茶色のしみを作る。
ごめんなさい、と蚊が泣くような声で呟いて、僕は座りなおした。
普通という言葉に、こんなに反応してしまう自分に改めて気がついた。
「僕はどんどん、忘れていくんです」
手の中で、まだ僅かに揺れる黒い液体を見つめたまま、言った。
「過ぎたことをどんどん、消していくんです。記憶の中から。それって、和美さんが"感じない"のと、何か違いますか」
辛いことを思い出さなくていいように、傷つかないように。
それは、精神的不感症と、違う原理で起きることなのか?
同一の、自己の精神を防衛するための手段なのではないのか。
「違うさ」
相変わらずやさしい声で、和美さんが言った。
僕は、黒い水面から顔をあげて、和美さんを見た。硝子のような、透明な瞳がこちらを見ていた。
「君はそんなふうに、流す涙をしっかり持っているから、大丈夫だよ。麻痺していないよ。ただ処理が少し、追いつかないだけだから」
気がつけば、視界が曇っていた。目頭がじわりと熱くて、僕はいつのまにか、目にいっぱいの涙を浮かべていたみたいだった。
「私はね」
白いマグカップから立ち上る白い湯気を、目を細めて見る。
「泣き喚いて、叫んだんだ。あの日。それから何故かは知らないけれど、泣けなくなってしまったんだ」
たとえば、この体の周囲にね、見えない膜があるみたいなんだ。
全ての衝撃を、その膜が吸収してしまうんだろうな。特に、こんなに回りが白い部屋では、その膜の吸収力は増すみたいなんだ。
私の、白に対するトラウマなのかもしれないね。
ひとには元々そうやって、他人から自分を守る防御壁のようなものがあるけれど、私の場合それが厚いんだろう。
決して短くない僕たちの会話の中で、和美さんが動かしたのは口元と瞼だけだった。
だから、ねえ、大丈夫だよ。
根拠のないことを、和美さんが言った。(大丈夫だよ、要なら)―――カズマと同じように。
大丈夫。君は大丈夫だよ。まだ。
僕は黙って頷いた。納得したのではなかった。
早くこの話題を終わらせてしまいたかった。何故だか泣きそうになっていた。
胃のあたりからこみ上げる、どうしようもない自己嫌悪をもてあました。
僕は、なぐさめられたかったのだ。
自虐的な台詞を吐くときはいつも、「そんなことはない」という言葉を待っていた。
そして、その通りに相手が「そんなことはない」と言うと、僕はますます落ち込んでしまう。
何にも知らないくせに簡単に、といじける。
最低で最悪で凶悪なわがままだった。
それじゃあ、一体何をして欲しいのだろう?
僕は、漆黒の液体を咽喉の奥へ流し込んだ。
ブラックは慣れているはずなのに、やたらと苦かった。
砂糖が欲しい。
多分疲れているんだろう。
*
「凄いものだね」
2階の、一番端の扉を開けて、吾妻さんが言った。
今日は上から下まで黒ずくめの格好で、周囲の白からは明らかに浮いていた。たぶん、わざとなのだろう。白に侵食されまいと、自分を譲らない決意のあらわれだった。
午前9時を過ぎてようやく起き出したカズマがなにやら立木さんと話し始めてしまったので、僕はふらふら屋敷を探検し始めた。それに、まるで忠犬のように吾妻さんがついてきたのだった。
僕は昨日から、この威圧的な白い館に困っていたので、吾妻さんが近くにいると、なんだか落ち着いた。黒ずくめだからというだけではなくて、吾妻さんは自分から独特の「色」を発しているような人だからだ。
染まらない。
「見事だなぁ……」
心底感心したというふうに、吾妻さんが室内に一歩足を踏み入れた。
白い壁には時折、アクセントのように薬師寺亜津沙が描いた絵が飾られている。
その部屋の壁には、壁一面を覆うような大きな絵が飾られていた。
一瞬、僕はピカソの「ゲルニカ」を思い出した。タッチとか、そういうものが似ているわけではない。雰囲気だ。何か黒いものがたくさん混ざったような絵だった。
一面黒に、空から何か白い雫が降っていた。雪には見えなかった。
中央で、白い服を着た女性がその雨を受けるように両手を広げていた。
たくさんの動物が居た。犬、猫、牛、山羊、羊……。けれどやはり。
「赤がないなぁ」
その絵の真下で、しげしげと見上げていた吾妻さんが、僕の代わりに言った。
「野次馬だと言われてもしょうがないけどね、個人的にはとても興味があるよ。どうして赤を使わなくなったのか」
目を凝らし、黒い絵を見つめ、正直に吾妻さんが言った。
「本当は俺は、その理由が知りたかったのかな、ここに来たのは」
どんな理由があるのだろう。画家が赤を放棄するには。
あわよくば、自分の商売に何かの刺激にならないかとすら、思っていたのかもしれない。作品のネタに。
「だけど、昨日の薬師寺氏の様子を見ていたら、正直困ってね。そんな、簡単に口で説明できるようなことじゃないんだろうなって」
難しいもんだなぁ。俺はあんまり、山も谷もなく傲慢に生きてきた人間だから。自分が一番大事に生きてきた人間だから。
「踏み込めないところも、他人が入ってはいけないところも、絶対にあるんだな」
きっと、君にも俺にも、そうなんだろうな。そういうところが、あるのかもしれないな。
入るのが、怖くてはばかられるところだって、きっとあるんだろうな。
そう呟いて、しばらく吾妻さんは黙っていた。
「ああ、ここにいたのか」
聞き慣れた声に振り返ると、扉の入り口のあたりにカズマが立っていた。
「話、終わったの?」
なにやら真剣な顔で、立木さんと話していたけど。
そうしたら、カズマは少し苦々しく笑って、まぁね、と言った。
どうやら結論には至らなかったらしい。
「これから屋上を見せてもらうんだけど、お前も行く?」
カズマの指が上を差す。思わず僕も心なし上を見てしまった。
屋上って、和美さんのお父さんが……。
少し迷った末に、僕は頷いた。
5.緋色の研究
高いところに上ると、吹き付ける風は容赦がない。
頬を叩くような風は肌を切りそうなぐらいに冷たくて、僕は思わず目を細めた。
白と緑だけが、そこにある色彩の全てだった。
学校の屋上のようだな、とまず思った。
剥き出しのコンクリートが広がっているだけの屋上だった。鉄の柵がめぐらされているだけ。
僕は、その黒い柵にもたれかかって、地上を見下ろした。
針葉樹の、深い緑。地面の全てを覆い尽くす白い雪。
地上よりも少し強い風が僕の髪をなぶって過ぎてゆく。その茶色が時折、視界に混ざった。
具合が悪くなるかと思った。
ここで、和美さんのお父さんが生命を絶ったというのなら。
その残留思念に同調するようにして、また頭が痛くなるのかもしれないと、階段を上りながらずっと思っていた。
けれど、頬に受ける風の冷たさ以外、あまり感じるものはなかった。
「結構高いですね」
僕から少し離れたところで、カズマが同じように遠くを見ていた。彼は、高いところが結構好きだ。何とかと煙は高いところが……という言葉を思い出した。
そういえば昔、こうして並んで、屋上から地上を見たことがあったっけ。
それは、僕がまだ狭い箱庭の世界にいた頃のことだけど。
見上げた空はくすんだ灰色をしていた。白に、黒い絵の具を少しだけ混ぜたような。
―――要様。
耳元で、懐かしい声がした。まだ僕が、自分の家の中しか知らなかった頃に、世話をしてくれていた人の声だった。
僕の住んでいた家は砦のような形をしていて、屋上もあった。四角い石を重ねて凹凸の形に並べたような屋上だ。あの頃僕は特殊な理由があって―――この力のせいで―――様付けで呼ばれていた。
屋上にいるのが好きで、よく遠い空を見ていた。
部屋にいない僕を探しに来るのは、その世話役のひとの役目だった。
―――要様、凄いですね。
そのひとが、遠くの空を指差して、そう言った。
すごくきれいですよ。
けれど、僕の目に見えた空は、くすんだ灰色で、そのひとが一体なにを「きれい」だと言ったのか分からなかった。
高橋さん、なにがきれいなの。目を凝らして、指が指し示す遠くの空を見上げて、訊き返した。
そう。そのとき僕はとある一件のせいで色が―――。
「あ……!」
僕は、黒い鉄の柵を掴んだまま、思った以上に大きな声で叫んでいた。
その場にいた人々の視線が四方八方から僕を串刺しにするのを感じたけれど、僕は構っていられなかった。
「和美さん」
屋上の扉の近くに立っている和美さんを振り返った。別段驚いた様子もなく、穏やかな表情のままで和美さんは「はい?」と訊き返す。
「この屋敷、白に塗り替えたって、言ってましたよね」
薬師寺亜津沙さんが、あまりに白い部屋だと騒ぐから、屋敷を全て塗り替えてしまったのだと、言っていた。
ええ、そうですけど。簡単に和美さんは頷く。
「壁が、赤かった部屋って、ありましたか」
一瞬、和美さんはポーカーフェイスを崩して、軽く目を見開いた。何か驚いているような顔をした。
「いいえ」
否定が返ってきた。ゆるりと首を横に振って。
「いいえ。この家に赤い壁の部屋なんて……」
そこで、不自然に言葉が途切れてしまった。
和美さんの顔に張り付いていた温厚な笑顔の仮面が、ばらばらと音を立てて崩れたように見えた。
どんな表情も浮かんでいない、真顔がそこにあった。自失したように少しだけ、目が見開かれている。
「この家に、赤い壁の部屋なんて」
ようやく聞き取れるぐらいの声で和美さんが繰り返した。そんな部屋なんて。
「……いや、"あった"。赤い色の、壁の……」
自分自身の内側に確かめるように、和美さんが呟いた。
額に右手を当てて、頭が重いのかうなだれて、足元の自分の影を見て。
長距離走を終えた後のように深い呼吸を何度も繰り返した。風が揺らす木々の音だけが、周囲に響いていた。
「母が」
初めて和美さんは、言いにくそうに口を開いた。
「母が、画材を置いていた部屋の壁が、きつい赤でした」
酷くゆっくりと、一文字一文字を発音するのすら辛いというように、和美さんが言う。
「その部屋……どこにあるんですか?」
辛そうな和美さんにそんなことを訊くのははばかられたけれど、気がついたら僕は訊いていた。
周囲の空気は、吹き付ける風に負けないぐらい凍り付いていた。
一体僕が突然何を言い出したのか、分からないというふうに。どうして和美さんがそんなに辛そうにするのか、分からないというふうに。
戸惑いが雪のように舞っている。
けれど、なんだか僕は自分でも信じられないほど、確信を持っていた。
だから僕は「彼女」の意識にあんなにも同調したのだろう。
「『白い雨』という絵がある部屋です。今は箪笥の裏になっていますが……」
『白い雨』とは、先程僕が吾妻さんと一緒に見た絵だという。
あの、黒い人や動物に、白い雨が降り注ぐ絵だ。
僕は、薬師寺亜津沙の手紙を思い出した。
―――あの日は白い雨が降っていました。一面が真っ白で、目も眩むぐらいで。
白い部屋に、確かに隠したはずなのに。
どこにあるのかもう分かりません。―――
白い雨など、あるはずはないと思ったけれど、彼女は見たのだ。
天から降り注ぐ、白い雫を。
眉間に少し皺を寄せながら、質問の意図がわからないというように、和美さんは小さく首をかしげていた。顔色が悪かった。
僕は、上手く説明できるかわからなかったけれど、口を開いた。
「あの、その部屋だと思います。薬師寺亜津沙さんの『宝』―――」
*
光沢のあるうつくしい箪笥を退けたその先に、扉があった。
僕たちはひとつの部屋に居並んで、しばらくその扉を見ていた。
すっかり白に塗りつぶされたその扉で、ノブだけが金色に輝いていた。
その扉を見つめる和美さんの瞳が、心なしか強張っているように僕には見えた。
「ここは、調べなかったんですか?」
「母が生前『宝』と騒いだことはなかったんです。それに、母は元々仕事場に誰かが立ち入るのが嫌いで、あの一件からはしばらく仕事場にすら、近づこうとしませんでした」
和美さんは、扉を見ながら言った。視線が、そこに吸いつけられているようだった。
それになんだか、私はこの扉の存在を、忘れていたみたいだ。たったさっきまで、この部屋のことを。この扉のことを。
ひとりごとのように呟いた。
和美さんは、昨日の夕食の後、こう言っていた。
―――私は、酔っ払ったようにもつれる足で、玄関へ向かいました。食堂から出て、すぐのところに扉はあるはずなのにとてつもなく、遠く感じました。
靴も履かずに玄関の扉をくぐりぬけて、外に出ました。
目の前に広がったその、その色といったら。
まぶしい太陽の日差しに、周囲の木々の緑。―――そして、赤。
母の周りの雪が、鮮やかな赤で染まっていました。足元に転がっていた、姉の体から出たものだったのかもしれません。母の服や肌も、随分と血で汚れていました。
雪は、赤く濡れていた。そして。
―――手を伸ばせば母に触れられるぐらい、近づいたときでした。
天から雫が降ってきました。
激しい夕立のように、ばたばたと重い音を響かせて。
母は顔をあげて、天から降り注ぐその雫を、顔に受けました。白い肌に、鮮血がばたばたと落ちて、母の顔を伝って落ちてゆきました。父が自分の咽喉笛を切ったときに、あふれた血液だったのでしょう。
震える手で、和美さんがドアノブに触れた。
ひねっても、あまり回らない。やはり鍵がかかっているみたいだ。鍵を無くしてしまったというのはどうやら本当だったらしい。
どうやって鍵を外そう、そう思っていた瞬間だった。和美さんが、ドアノブを握ったまま、激しくドアを揺さぶり始めたのは。
がちゃがちゃと音を立てさせて、必死に。壁から扉を引き剥がそうとしているように見えた。
和美さんの顔は、仮面のように凍りついてはいなかった。眉間に皺を寄せて、何か痛みを堪えるような顔をしていた。
―――10年前からあまり、物事をリアルに感じないんですよ。
不思議ですけど。
そう言っていた和美さんの顔は、今はどこにもなかった。穏やかに張り付いた笑顔はなかった。
僕は何故か、胸の下からこみ上げてくるものを押さえられなくて、口元を押さえた。
泣きそうだった。
和美さん、ねぇ。貴方だって大丈夫なんじゃないんですか。
ただ、我慢していただけなんじゃないですか。
感じないわけないでしょう。
「気を失ってなんて、いなかった」
ドアノブを揺さぶる和美さんの口から、言葉が落ちてきた。無意識だったのかもしれない。
「あの時本当は、気を失ってなんていなかったんだ」
私は、見ていたんだ。見ていた。
母が足元にうずくまるその重そうな"もの"を、酷くいとおしそうに抱き上げるのを。
そして、母の腕が、服が、顔が、赤い色に濡れてゆくのを。
見ていたんだ。
そうして、山内さんが電話で応対しているうちに、室内に戻ってくるのを。階段を上ってゆくのを。
私はリビングの入り口にずるずるとへたり込んだまま、全部見ていたのだ。その背中を。
まるで堰を切ったかのように、和美さんの口から言葉がぼろぼろと落ちた。
見ていたのに、忘れていたんだ。
あまり上等な鍵ではないらしいその扉は、やがてがちゃん、という音を立てて壊れた。
こんなに簡単に壊れるのに、どうして今まで誰も入らなかったのだろう。
―――踏み込めないところも、他人が入ってはいけないところも、絶対にあるんだな。
吾妻さんの言葉を思い出した。
きっと和美さんは、どこに『宝』が隠されているのか、それが一体なんなのか、気がついていたのだ。
それを、確かめないために「鍵がかかっている」と、言う理由でこの部屋から遠ざかったんだ。
気づかないふりを、ずっとしていたんだ。そのうち、この扉の存在すら、忘れてしまっていたのだろう。
鍵の壊れたノブを握って、しばらく和美さんは荒い息を繰り返していた。
金のノブを握る指先が微かに震えて、かちゃかちゃと鳴っていた。
やがてその掌が、ゆっくりとノブを回す。扉を、押し開いた。
黴の匂い、なのだろうか。こもった空気が溢れ出してきた。
もつれたような足取りで、和美さんは部屋の中へ入ってゆく。覗き込んだその部屋の壁は、毒々しい赤だった。
石が剥き出しの床、小さな窓。隠し部屋のように見える。アンネがナチスから隠れていた部屋は、こんな感じに暗かったのだろうか、と不意に思った。
よろよろと、和美さんは壁際に寄せてある革張りのソファーまで近づいていって、そのままそこに膝から崩れ落ちた。
だらりと両腕を力なく、体の脇に垂らして、うなだれて、そのソファーを見ていた。
僕たちは何故か、扉から先に入り込めずに、四角い入り口から中をのぞきこんでいた。見えない境界線がそこに、張られているような気がした。
拒絶を感じた。僕たちは、入ってはいけないところのような気がした。
じっと、ソファーを見つめる和美さんの肩が、震えていたように見えたのは、絶対に間違いじゃない。
だらりと体の横に垂れていた右手が、和美さんの顔から眼鏡を抜き取った。かちゃん、と音を立てて石畳にそれが置かれる。
「なんだ……」
石の壁に反響した声は、震えていた。
口元を、眼鏡を外したほうの手で覆って、和美さんは細かく笑い出した。
おかしくて仕方がないというように、堪えてもどうしようもないというふうに、笑い出した。
「ずっと、ここにいたんじゃないか」
笑い声が、少しずつ嗚咽に変わった。
僅かに、白い光が落ちた。和美さんの瞳から。
10年分の、涙が。
「姉さん、ずっと、ここにいたんだね」
両手で顔を覆って、和美さんはそこにうずくまった。
うずくまった和美さんのその向こう側に、革張りのソファーが見えた。
そこには、ぼろぼろのワンピースを茶色に染めて、静かに横たわっている、女性の白骨死体があった。
エピローグ
車は山道を順調に下っている。
僕は助手席に座ったまま、ぼんやりと窓の外を流れる雪景色を見ていた。
あのあと、和美さんはしばらくお姉さんの遺体の前で泣いていて、そのあと倒れてしまった。
心配だったけれど、明日からまた学校が始まるので、僕とカズマはしぶしぶ薬師寺亜津沙の別荘を辞した。
立木さんと吾妻さんが、もう一日泊まってゆくと言っていた。
「和美さん、きっと辛かったんだよね。だから、あの部屋のことも忘れちゃってたんだよね」
精神的不感症などでは、決してなかったのだ。
感じないフリをするために、忘れていただけで。
苦しかったのは、薬師寺亜津沙さんだけではなかったんだろう。
「要」
ハンドルを握るカズマが、真っ直ぐに前を向いたまま僕を呼んだ。
僕も、窓の外を眺めたまま、生返事をした。
「どうして分かったのか、聞いてもいいか」
真面目な声音で言われたので、僕も窓の外から視線を戻す。前を向いた。
フロントガラスの向こう側は、奇妙に蛇行した道。すれ違う車はほとんどない。
「どうして、薬師寺亜津沙さんが、赤い色が見えなくなってたって、気がついたんだ? 意識が同調したからか?」
「うん、それもあるんだけど―――」
あくまでこれは、僕の予測でしかないのだけれど、『血液のない画家』薬師寺亜津沙は、娘の死と夫の自殺とを目の前で見たショックで、赤い色が見えなくなってしまったのだと思う。
それは、身体的な疾患ではなくて、精神的なものだったのだろう。
僕が、あの別荘に入る前に降って来たと思った白い雨も、薬師寺亜津沙が浴びた、夫の血液で。
僕が浴室で体験したあの白い液体は、彼女が浴びた血液を落とそうとしていたときの情景なのだと思う。
赤い色が見えなくなっていたから、娘を運び込んだ部屋も分からなくなってしまったし、赤い絵の具も使えなくなってしまったのだ。
まるで世界から、赤という色が全て消えうせてしまったかのように。
「僕も、そうだったことがあるんだ。言わなかったけど」
車内の空気が、少し固まった。予想外だった、とでも言うようにカズマの目が僅かに見開かれたのが見えた。
そう。僕も、そうだった時期がある。それは薬師寺さんとは違って本当に一時的なものだったのだけれど。
あまりにも昔のことで、お得意の忘却術で忘れていたけれど。
僕がまだ、10歳にもならない頃だったと思う。
僕もやっぱり、人の死を目の当たりにして、その血液を、目の当たりにしたことが原因なんだろう。
「突然、お母さんが死んだときのことを思い出したんだ。フラッシュバックみたいに。そのあと、1ヶ月ぐらい、赤い色が見えなかった」
その異変に、僕は全く気づいていなかった。
赤い色が自分の世界から消えたことが、違和感にもならなかった。
そこがまず、病んでいたのだろうと思う。存在するものを、意識から消去してしまえる人の脳の、不可思議なからくり。
「屋上で、ぼんやりと空を見ていたんだ。ちょうど、今ぐらいの時間なのかな。空の色はくすんだ灰色で、青空はどこにも見えなくて。ああ、今日はずっと曇ってるんだなぁって、思っていたんだ」
―――要様、要様、見てください。凄いですね。
「高橋さんがね、僕を探して屋上に来たんだ。そのとき高橋さんは笑って、空を指差して、言ったんだ。『きれいですよ、西の空が』って」
もう70近い、温厚そうな世話役が、やさしそうな微笑を顔中にたたえて言うのだ。
すごくきれいですよ。
けれど彼の、生きてきた年輪を刻み込んだ指が示す空は重苦しい灰色で。きれいなものなど、どこにもなかった。
「でも、僕には灰色にしか見えなくて、何がきれいなのって、聞き返したんだ」
そうしたら、世話役の高橋さんは、驚いたように目を丸くした。
そのとき初めて僕は、自分の体に起きた異変を知った。僕がおかしいのだ。
自分の世界から、欠けているものを知った。それは、とてつもない恐怖だった。
「赤い色、全部が駄目だったのか?」
「よくは覚えていないんだけど、自分の意識が赤だって認識しているものは、何も見えないんだ。そこに"ない"んだ。たとえば、リンゴなんだけど、テーブルの上に置かれても見えないんだけど、皮を剥かれたらしっかり見えたんだ。それは覚えてる。自分の意識が赤だと思えば、全部シャットダウンしちゃうんじゃないのかな。亜津沙さんは、周囲が全部真っ白なところに立っていたから、もしかしたら赤をずぅっと、白に置き換えてみていたのかもしれないし……」
ひとの脳という機関は、主の精神を守るために、全力を尽くすものだから。
絶望的に壊れる前に、防御壁を作ってしまうのかもしれない。
記憶も、時には目に見えているものにすら、細工を加えてしまえるものなのだ。
平気だと思っていても僕もまだ、何かに捕われ続けているのかもしれない。気がつかないだけで。
だって、僕があんなにも薬師寺亜津沙の感情に同調したのは、きっと僕が昔、同じ痛みを感じる傷を負ったことがあるからだもの。
同じ類の生き物だった時期が、あったからだもの。
「要」
俯いてシートにうずまっている僕を、しばらくしてカズマが呼んだ。
「なに」
顔を上げた僕の視界いっぱいに、まぶしい光が広がった。
カズマは黙ってフロントガラスの向こう側を指差している。
そこには、雪に白く塗りつぶされた山脈があった。
連なるその峰へ、楕円に溶けた太陽が落ちてゆくところだった。
僕は、瞬きを忘れて、そのどろりと溶けたような太陽を見た。
―――要様、見てください。
そうやって、やさしい笑顔が指差すのが、見えるような気がした。
西の空が。
きれいですよ。
すごく。
燃えているみたいに。
視界の中で、太陽が更に歪んだ。僕は瞬きをしないように必死に目を開く。瞬きをしたら多分、涙が落ちてしまうだろうから。
凝視するとまぶしいのに、目がそらせなかった。
あぁ、そうか。僕はもう、13歳の頃の僕じゃないんだな。
今はもう、昔とは違うのだ。
目を閉じても瞼の裏に残る、その太陽の残像。ストロボを焚かれた後のような。
限られた、箱庭の中にいるのではないんだ。
もう、悲しいことばかりではないんだ。決して、楽しいことばかりでもないけれど。
記憶をそんなに早く、押し流してしまわなくても。
大丈夫。
ねえ、君は大丈夫だよ。
山道の途中で、唐突にカズマが車を停めた。
僕の仮保護者は、突然物事を決めて、実行するのが結構好きだ。ひとを喜ばせるのが好きだ。
口に出しては言わないけれど、僕は、13歳のときに出会ったこの成瀬一馬という人間の、そういうところがとても好きだ。
シートベルトを外して、僕は車から降りた。
カズマも車から降りて、何も言わずに煙草に火をつけた。
「すごいね」
知らず知らずのうちに、呟いていた。吐息が白い霧になって消えていった。
忘れてしまわないように、何度も。瞬きを繰り返す。シャッターを切るように。焼き付けるように。
祈るような気持ちで、西の空を見た。
どうか、今日のこの空の色だけは、忘れずにいられますように。
緋色に燃えさかる、その太陽の鮮やかな色。
「すごいきれいな夕焼けだね―――」
<了>