9.現 夢
―――そんな夢や幻想は、棄ててしまえばいい。
1.
―――櫛引が、潰れた。
たった一言。その言葉がどれほど呉の家を掻きまわしたことだろう。
音のない衝撃が、一気に家の中を駆け抜け、吹き荒らした。
『潰れた……? どういうことだ!』
『当代の夢喰いが、殺されました』
『殺され……』
『片割れに、喰われました。そして、家のものを次々に……』
それらの大声を、私は奥まった和室で聞いていた。
体に力が入らない。いつもと同じ木目の天井を見上げたまま、ぼんやりと。
布団に、畳に、体中の力が吸い取られて行くような気がした。
どこか遠くで、どたばたと走り回る足音がする。その空間から切り取られたかのように、その部屋は静かだった。
不意に、その静寂を破る、かたり、小さな音。
それと共に、押し寄せた、瘴気。血の、においがした。
布団に縫いとめられたような体を、ようやく起こす。
すぐ傍に、障子をはめ込まれた窓があった。この部屋に移ってきてから、開けたことはない。
空など見えたところで。どこにも行けはしないのだから。
どん、と、その窓がある壁に何かがぶつかってきた。
かたかたと白い障子が揺れた。
途端。
今まで体を縛り付けていた力が、ふっと緩んだ。
この体を絡め取っていた無数の糸が、全て千切れ飛んだかのような。
先程までは、上体を起こすことすら精一杯だったのに。自分で驚きながら、立ち上がる。
古くならないように、定期的に張り替えられた、白い障子。その縁に、指をかける。
はじめはうすく。それから大きく。障子を開いた。
血の匂いが、強くなる。
壁にもたれかかって荒い呼吸を繰り返す何かがいた。
脇腹を押さえる手は、赤黒く濡れている。見下ろすと、見上げた相手と視線が合った。
(蒼―――)
その双眸は、深い蒼。人ならぬ生き物の、証。
『櫛引……充?』
訊いた。
荒い呼吸を繰り返しながら、相手は肯定も否定もしなかった。
何故ここに来たの。
殺されるわよ。
契約を破り、家を潰した夢喰いのなりそこない。殺されるわよ。
すると、男は口の端を持ち上げて、何とか笑おうとして、失敗していた。
困るな。
掠れた声で言う。
死にたくないんだ。
何かが、私の心臓を掴んだ。驚きよりも、恐怖に近い。
執着を見た。生きることへの、固執。
男は続けた。
病院なんかにいけば、すぐに身元は割れてしまうし、これは賭けだよ。君の力で、治して欲しい。この傷を。
私は、呉の人間なのよ。声をあげれば人が来るわ。
だから、賭けだといっただろう。生かされるのか、殺されるのか、それでも精一杯僕は足掻く。生き残るために、空を―――姉を喰った。
気の狂いそうな、あの狭い部屋でどのぐらい過ごしていたのか。
まるで人形か何かのように仕舞いこんで、消極的に息絶えるのを待つんだ。
窓の外の植物が花を咲かせ、そして散ることで季節の動きを知る。
まるで、生まれたことをなかったことにされたような気分だ。
世話に訪れる人間も、早く死なないかなという目でこちらを見る。
とうとうと、流れるように男の口から言葉が滑り落ちた。
この男が隔離されたその小さな部屋が、見えたような気がした。特殊な能力などでは決してない。
その部屋が容易に想像できたのは。
ここと同じだからだ。私と同じだからだ。
―――それでも、死にたくないんだ。
咳き込みながら、吐き出した。
それでも。死にたくはない。
―――手を、出して。
こちらから白い手を伸べて、言った。言葉は必要最低限にした。
そうしなければ、泣いてしまいそうな気がした。
男は、傷口を押さえているほうではない手を出したけれど、それも赤く濡れていた。ためらわず、握る。
―――傷を治してあげる。その代わり、私と、賭けをしましょう。
「お姉ちゃん」
目の前の、茶色の扉を、指の第二関節の骨で叩く。
コツコツと乾いた音が響いた。
「お姉ちゃん、お薬飲むの、忘れてるよ?」
叩きつけるような雨音に負けないように、少し大きな声で木葉は言った。
扉の僅かな隙間からは、少しも光が漏れてこない。電気はついていないようだ。
眠っているのだろうか?
木葉は、姉の―――奈津の病気が具体的にどんなものなのか、知らない。
繰り返す偏頭痛と、体も動かせないぐらいのだるさと、はげしい発作。
病名すらつけられないそれを、それでも病気だとずっと思ってきたけれど。
(嘘だよね)
昨日聞いた話。櫛引充が言ったこと。嘘だよね?
ノックの返事はない。
「お姉ちゃん、―――入るよ?」
胸騒ぎがして、木葉はドアノブを回した。向こう側へ、扉を押し開ける。
部屋は空だった。
*
傘も持たずに外へ飛び出すと、すぐにずぶ濡れになった。
顔にへばりつく前髪が邪魔で、乱暴に後ろに掻き上げる。
叩きつける雨がアスファルトに跳ね返り、白い煙のように見えた。
「動くな。成瀬一馬」
数メートルも歩かないうちに、後ろから呼び止められる。
一度だけぴたりと足を止めたが、すぐにまた歩き出す。
「貴様、動くなというのが―――」
「焦ってるのか? ここは住宅街だぞ。しかもまだ、夜もあまり遅くない。―――人を殺すには、まだ早い」
呟きながら、今度は完全に立ち止まった。それは、相手の命令に応じたからではなく、目の前にも人が立ちはだかったからだ。
前に、ふたり。後ろにひとり、か。
「何、この雨だ。人ひとりの断末魔、聞こえやしないさ」
後ろから、優越に満ちた声が言った。びちゃびちゃと雨音を響かせ、足音が近づいてくる。
「抵抗はするな。そうすれば、苦しませずに殺してやる」
「銀はいつから、ピストルなんて持つようになったんだ」
目の前の男たちふたりから、銃口を真っ直ぐに向けられていた。しかし不思議と、恐怖はない。
麻痺しているようだ。
「必要に迫られて、ということもある」
後ろからまた声が言った。後ろの男がリーダー格なのだろう。偉いものはいつも、演説が好きだ。
ちらりと肩越しに少し振り返ったが、大きな雨粒しか見えなかった。
「ひとりで出てきたということは、どうせ死にに来たんだろう?」
「たとえそうだとしても、あんたらに殺されてやるのはごめんだ。道を開けろよ、―――急いでるんだ」
自分の声が、想像以上に苛立っている。こんな声を出したのは久しぶりだ。
いつものらりくらりと穏やかにしていなければ。平静を保っていなければ。自分を押さえつけていられない。
手負いの獣を、飼っているようなものだ。一度感情が暴発すると、押さえる手段が分からない。
けれどもう、遅いような気がした。臨界を超えている。
「心配しなくても、すぐに急ぐ必要もなくなる」
蔑む笑いが、すぐ後ろまで迫っている。押さえ切れない苛立ちが、じりじりと込み上げた。残虐な気分になる。
「ああ、そう」
頷いて、軽く笑った。
あとは、一瞬だった。雨に濡れて重くなった体を翻し、後ろの男の、更に後ろに回りこむ。
片方の腕を捻り上げ、得意げにピストルを持っていた右手を掴み、男の顎の下に押し付けた。
ひ、とすぐ傍で男の咽喉が鳴った。ピストルを持っていて、安堵していたのだろう。こういうタイプは、弱いものいじめしか出来ない。
予想外の状況には、対応できないものだ。
残りのふたりも、呆然と動けない様子だ。人と対峙するのに、慣れていない。
「甘いな。撃ち殺すつもりだったんなら、外しておけよ、安全装置ぐらい」
完全に、悪役の言葉だ。しかし、徐々に徐々に冷静になってゆく自分に、一馬は気付いていた。
しずかになってゆく。
この血が、妖のものだからだろうか。魔物だからか。
これが本性か。
「道を、開けろよ。それとも、この"盾"ごと撃つか?」
立ちふさがるふたりを見据えて告げる。
滝のような雨に打たれたまま、男たちは石像のように固まっていた。もう既に、銃口は地面にだらりと落ちている。
かっと苛烈な熱が胸の内側から広がった。"鬱陶しい"。
ぎちりと強く、男の腕をひねり上げる自分の手に、力を込めた。情けない悲鳴がすぐ傍で起こる。
「そこを、退けッ!!」
絶叫が雨音を裂いた。
その声にまるで金縛りを解かれたかのように男たちが動いた。
その手に持つ、殺傷能力の高い武器のことなどまるで忘れたかのように、こちらに飛び掛ってくる。
「くそっ……!」
一馬は、捕らえていた男の額に右掌を当てた。次の瞬間、がくりとその体が力を失ってアスファルトに崩れ落ちる。
「勘弁してくれよ」
取り乱して、大雑把に振り下ろされる拳を避け、ひとりの男の懐に飛び込む。鳩尾に一撃、めり込ませた。
「ひとを殴るのは、嫌いなんだ……」
胃液を吐き出して、男は地面にうずくまって悶絶する。
残ったひとりは、言葉にならないうめき声を上げて、無防備に背中をさらして逃げ出した。
男が放り出したピストルが、雨の中をからからと一馬の足元まで転がってきて、止まった。
「本当に、いい加減に……」
額を伝い、雨粒が絶え間なく落ちてくる。
頬を伝って落ちるのが雨なのか、それとも他の何かなのか。疾うに分からなくなっていた。
2.
電話が鳴り出したのは、もうそろそろ日付が変わろうとしている頃だった。
胸に振動を感じて、目が覚める。
やけに後頭部が重い。しばらくどこにいるのか分からなかった。体が不自然に固まっている。
窓の外では、雨音がうるさい。
どうやら、横になっていたわけではないらしい。ゆるりと視線を廻らすと、暗闇の中にぼんやりと見覚えのある部屋が浮かび上がった。
(吾妻さんの……マンション?)
居間の、ソファーだ。
どうしてここにいるのだろう? 学校を出て、校門のあたりで怪しい二人連れに会って……。
そのあとから、記憶がない。
振動は、まだ続いている。なんだろう?
制服を着たままだった。胸のあたりに振動を感じてそこを弄ると、固い感触が指に触れて。
一気に目が覚めた。
震える指で、胸ポケットから携帯電話を引きずり出し、開く。
着信。"銀 雅"。
手の中でしつこく震え続ける携帯の、通話ボタンを押した。
「もしもし」
≪要くん!?≫
耳に、しばらく聞いていなかった懐かしい声が飛び込んできた瞬間。思わず泣きそうになって、必死に堪えた。視界が涙で歪む。
≪良かったよ、連絡がついて。ごめんな、巻き込んで≫
いいえ。それしか言えなかった。体中の力が抜けて、ぼすりとソファーに体重を預ける。ほっとした。凄く。
平気だと思っていたけれど、この数日間。辛かった。
≪もしもし≫
突然、受話器の向こう側の声が変わった。
淡々と落ち着いていてあまり抑揚のない、それでもよく覚えている声だ。
≪大丈夫? 要≫
抑揚のない中にも、気遣いがあった。うん、掠れた声で頷いた。向こうには見えないのに、何度も頷いた。
「……都佳沙は?」
≪僕は平気だよ。これから兄さんとそっちに合流するから。今どこにいるんだい。場所を教え―――≫
ピンポーン。
インターホンが鳴った。
「―――なんだよ全くもう。こんな時間に」
すぐに吾妻の部屋の扉が開いた。眼鏡を装着しているところを見ると、仕事中だったのだろう。
要に気を使って、居間の電気を消しておいてくれたらしい。
「あ。要くん。目が覚めたの?」
ピンポンピンポンピンポンピンポン―――。
「うるさいなーもう」
ぶちぶちと悪態をつきながら、吾妻は玄関へ出てゆく。
≪要? どうかした?≫
耳元で、都佳沙が繰り返している。
けたたましいインターホンの音で目を覚ましたのか、別のドアから勝利が顔を出した。
「うわ!」
玄関の扉が開かれた瞬間、雨音が一気に強くなる。それに負けないぐらいの声を吾妻が上げた。
≪要―――≫
玄関とこちらとを見比べる勝利に、携帯電話を押しつけた。一体何を押し付けられたのか分からない勝利が怪訝そうな顔をする。
要は、「都佳沙から」としか言えなかった。ハッと驚いて、勝利は慌ててその小さな機械を耳に押し当てた。
もしもし、都佳沙っち? え? ここ? ここの場所は―――。
「おい、大丈夫かよ、しっかりしろ!」
吾妻さんの慌てた声なんて、初めて聞く。
要は早足に、玄関まで向かった。玄関先に、吾妻が座り込んでいた。どうどうと、雨の音が耳につく。
吾妻の向こうに、震える影があった。髪から爪先まで、雨に打たれずぶ濡れだった。
吾妻に支えられるようにして、ゆっくりと重そうな頭を持ち上げる。
「ごめん……」
嗚咽に震える声で、彼女が言った。顔を持ち上げて、吾妻の向こうに立つ、要を見上げた。
「ごめんね……」
姫架が繰り返した。
無理に笑うと、瞳から涙が溢れた。
「嘘じゃなかったんだ」
玄関にぺたりと座り込んで、姫架はしおれたひまわりのように首を前に落とした。
長い髪の先から、セーラー服の裾から、スカーフから、顎から。絶え間なく雫が落ちる。
「嘘じゃ、なかったんだよ……。あたし、こんなつもりじゃ……なかったんだよ……」
声を詰まらせて、とうとう姫架が口元を覆った。
大声を上げて、泣き叫んだりはしなかった。悲劇のヒロインのようには、泣かなかった。
「出てっちゃった。一馬兄、ひとりで……櫛引から朝、電話があって、それで……」
「なんで……」
吾妻がうめいた。姫架はゆるく首を振るだけで、答えない。
「分かった。とにかく今は、体あっためないと……」
力なく座り込む姫架の腕を、吾妻が掴んで引きずり上げる。要はそこに立ち尽くしたまま、動けずにいた。
姫架をその場に立たせた吾妻が浴室の方へ消えると、要は玄関に姫架とふたりで残された。
絶え間ない雨音を遮るように、要は姫架の横を通り越し、開かれたままだった玄関を閉める。雨音が、怖かった。
「姫架さん、……大丈夫?」
寒さのせいか、小刻みに震える姫架の肩に、要は後ろから手を乗せた。
ふふ、と顔を俯かせたまま姫架が笑った。ありがとう、と小さく呟いて、ぐっと涙を拭った。
肩越しに振り返った彼女は、もう泣いていなかった。
目は赤く腫れていたけれど、凛と強い光が戻ってきていて、要は逆に泣きそうになった。
「大丈夫。場所は分かるから。あたしの"影"、つけといたから。すぐに探す……」
「馬鹿だなぁ!」
ばさりと姫架にバスタオルを投げながら、吾妻が言った。苛立ちのこもった、本気の声だった。
「君はどうしてそんな、お人好しなんだ。勝手に迷惑省みず出て行った馬鹿な男の心配するなんて!」
「だって一馬兄は死んじゃうかもしれなくて……!」
「そんなの知ってんだよ!」
吾妻が怒鳴った。目に見えるぐらい、姫架の体がびくりと震えた。
ぞくりとするぐらい、黙らせる力のある声だった。頭からタオルをかぶったままの体勢で、姫架が固まる。
「今が危険な状況で、一馬を心配するのは当然なんだよ。それは俺だってそうだし、要くんや神田くんや銀の中枢の人だってそうだろうさ。でも、あいつは自分でそれに飛び込んでいったんだ。君を! 裏切って、そんなふうに傷つけて!」
それなのに、と言って吾妻は声を詰まらせる。
荒くなった呼吸を整えるように一度深呼吸してから、姫架から視線を外す。
「なのに、何で恨み言のひとつも言わないで、責めもしないで……。そんなふうにすぐに、許すなよ。今は大変な状況だからって、君をそんなふうに泣かせて、良いわけがないじゃないか。泣くの我慢させて」
人を傷つけていい理由になんて、なるはずもないよ。
「そんなに君に強いふりされると、俺たちは困るよ。なんて声をかければ良いのか、分からなくて」
そう言ってから、吾妻はくそう、と悪態をつく。言いたいことが纏まらん、と髪をぐしゃぐしゃにかき回した。
「……強いふりでも、なんでもないよ。ただ単純に、心配なだけだもん。あたしの気持ちより、そっちのほうが重要なだけだよ」
首にタオルをかけたまま、姫架が笑った。仕方ないんだよ、と小さく呟いた。
「好きなんだから、仕方ないよ」
やさしい声で、姫架が言った。
吾妻は一瞬真顔になって、そのあとまた、「馬鹿だなぁ」と小さく呟いた。
「一馬に会ったら、悪いけど、一発殴るよ。―――風呂に入んなさい」
浴室の扉を開いて、吾妻が諦めたように言った。姫架がアガツマ格好いいね、見直した、とふざけたように言ってから。
「ありがとう」
泣きそうな顔で笑った。
「要くんも、目が覚めたなら良かった。とりあえず俺はこれからコーヒー淹れるけど、どうする? ゆっくり……というわけには行かないだろうけど、話しよう」
はい、と要は頷いた。姫架の肩に置いたほうの手が、冷たく濡れていた。
色々な感情が混ざり合って、今は混沌としている。怒ればいいのか、泣けばいいのか、どっちつかずで気持ち悪かった。
ほら、と手招きされるままに居間に戻ると、勝利が携帯電話を差し出して、言った。
「都佳沙っちと雅さん、今からここに来るって」
3.
お久しぶりです、と目の前の女が言った。
かぶっているのは、そこいらで買えるような透明なビニール傘だった。大粒の雨がそれにはじけて、ばたばたと音を立てる。
「来てくださると、思っていました」
こちらを見上げて、女は口元をほころばせて笑った。
透明なビニールの傘に、長い黒髪を背に流したまま。白いシャツに黒のロングスカートというモノトーンの色彩で。
スカートの裾などは、四方八方から降り注ぐ雨に濡れて重そうに色を変えていたけれど。
それでも尚、冒し難く、凛と彼女は立っていて、覚はまた恐怖を覚える。
彼女の放つ白い空気を恐ろしいと思うようになったのは、一体いつからだろう。もしかしたら、腹違いの妹と紹介されたその時からだったのかもしれない。
「奈津。このようなところへ呼び出して、何の用だ」
人目を忍んで逢瀬をする恋人のように、人気のない細い道にふたりは立っていた。
すぐ傍に、崩れかけた土塀がずっと続いていて、今は閉ざされているはずの木の門があった。
奈津はもう一度、口の端を緩めて笑う。白と黒の色彩の中で、口唇だけがやけに赤く、どうしようかと思う。
「終わりにしようと思ったんです」
やさしく、奈津が言った。
覚は眉根を寄せて、義妹を見下ろす。
終わりとは、何。
「義兄さん。もう、終わりにしませんか」
何を、と覚は訊いた。ふと、奈津が口元に浮かべていた笑みを消す。
「貴方の苦しみも、私の苦しみも、全てこれでかたがつきます。だから、見届けて欲しくて、呼び出したんです」
「こんなところでか」
覚は、自分の左側にずっと続く、色褪せた土塀をちらりと眺めて、言った。
すると奈津はまた、微笑んで頷いた。「ええ。ここで、です」
長いスカートの裾を重そうに翻して、奈津が歩き出した。少し先にある門の前で立ち止まり、覚を振り返る。
「どうぞ」
覚を待たずに、奈津はその門をくぐって中に入った。
しばらく、その場で立ち尽くす。雨音だけが続いて、時間の感覚を狂わせた。
やがて、水が跳ねるアスファルトに足を踏み出した。数歩あるけばすぐ、門に辿り着く。
見上げると、斜めに傾いた表札が今も尚、惨めに門にぶら下がっていた。
『櫛引』。
*
話をしようと言われたくせに、結局自分からは何も言うことも出来ず。
手の中のコーヒーが徐々にぬるくなってゆく温度だけを感じていた。
勝利と吾妻から説明を受け、どうして校門のあたりで意識が途切れ、気がついたらこのマンションのソファーで寝ていたのかということは理解が出来た。
ヒカリ。自分の中にいるという別人格。彼が現れたらしい。
(彼がまた僕を、助けてくれた)
ヒカリは常に、要を守る立場にあるという。しかし、全く実感がないのは、彼が表に現れている間は意識もなく記憶にも残らないからだろう。
本当にいるのか、分からない。自分のことなのに。
「具合でも悪いのか」
吾妻が、ソファーに沈んだきり黙りこんでいる姫架に言った。
柄の悪いシャツと大きめな黒のパンツ姿の姫架は、急に我に返ったように顔を上げて、大げさに首を横に振って見せた。
平気。そう言って笑った。
顔色は、良くなかった。
口唇を真一文字に結んで、姫架は、見えない何かと我慢比べをしているかのように黙っている。目が乾いているのか、まばたきが多い。
「要くんも、夕方からずっと何も口にしてないけど、腹減らないの」
急に話を振られて、驚いて吾妻を見た。
吾妻は、口唇の端に点火していない煙草を銜えたまま、こちらを見ていた。
「あ。大丈夫、です」
腹が減っていないということは、ないだろう。事実、空腹感はあるのだ。
体のためを考えるなら、カロリーは摂取しておいたほうが賢いのだろう。
けれど、食べ物のことを思い描くと途端に食欲がなくなってしまう。
「今はあんまり、食べたい気分じゃないです」
素直に言うと、まぁそうだろうね、と吾妻も苦笑した。
先程からこんな、他愛もない会話と沈黙との繰り返し。
それを終わらせてくれたのは、インターホンの音だった。
誰も口には出さなかったけれど、誰もがそれを待っていたのは一目瞭然だった。
何も言わず、吾妻が立った。足音が玄関の方へ遠ざかってゆくのを、耳だけで追う。
がちゃり。ああいらっしゃい、はじめまして。吾妻の声がやけによく響いた。
居間に戻って来たのは、複数の足音。直にフローリングに座っていた要は、立ち上がって"彼ら"を迎えた。
「お疲れさん」
黒いスーツの内側に、赤いシャツを着た男が言った。本人のほうが疲れたような顔をしている。
いつもは立てている茶色の短髪が、今日は下りたままになっていて、なんだか雰囲気そのものがおとなしかった。
「雅さん」
要は、呼びなれた名前を呼ぶ。そして、雅の後ろから現れた、もうひとりの影に視線を向けた。
「都佳沙……」
叔父を押しのけるようにして、都佳沙は真っ直ぐに要の傍まで来た。戸惑う要のすぐ目の前に立ち、ごめん、と小さく言った。
「ごめん。こんな状況にするつもりは無かったんだ。要を、裏切らないって言ったのに。信じろなんて、偉そうに言ったくせにね……」
苦笑して、都佳沙は要から視線を外す。困った顔をしていた。
自分のした悪戯を告白して、怒鳴られるのを待っている子どものようだ。
「都佳沙のせいじゃないよ……」
都佳沙が必死に動いてくれたことぐらい、見ていなくても詳しく話を聞かなくても分かる。
回りが、それを超えるぐらいの不可抗力で動いたのだ。
君のせいじゃない。
否定をすると、都佳沙は目を閉じて困ったように笑いながら、ありがとう、と言った。
「馬鹿野郎っ」
罵声が飛んだ。一瞬どこからその声が飛んできたのか分からず、声の出所を探す。
「影を切り離すなんて、何考えてるんだ。どこまで行くか分からんだろう!」
雅だった。目の前で怒鳴られた姫架は、うな垂れて座ったまま動かない。
「あんまり遠くに離していいもんじゃないってことは、お前が一番知ってるだろう。あいつを追う方法ならまだある。早く呼び戻せ」
姫架の肩に手を乗せて、視線を合わせるように雅はそこにしゃがみこんだ。
あたしは、百年に一度生まれるか生まれないかの、"影使い"だから。
大丈夫。さっき一馬兄にあたしの影つけておいたから。場所なら分かるよ。
冷えた体を温め終えた姫架がそう説明したときには、要も勝利も吾妻も、一体それがどういうことなのか、どれだけ大変なことなのか、気にもしなかった。
姫架は雅の視線から逃げるように俯いて、首を横に振った。「あたしの、影を辿ったほうが、早いでしょ」
言葉を途切れ途切れにさせているのは、いつのまにか荒くなっていた呼吸だった。
「姫架」
上から押さえつけるような声で、雅が呼んだ。
「意識を保つのもやっとのくせに、強がるんじゃない。早く解け」
「いや……」
「これ以上体から離していてみろ、ぶっ壊れるぞ! お前がそこまでする必要ないんだよ!」
「知ってたくせに!」
金切り声で、姫架が叫んだ。姫架のそんな声を、初めて要は聞いた。
どんな状況下でも、取り乱さずに気高く在り続けた姫架のその叫びは、何よりも強く刺さった。
「ずるいよ……!」
握り締めた震える拳を、すぐ傍の雅の胸に叩きつける。
「そんなふうに……叱るなんて、雅兄、ずるいよ……。知ってたくせに」
叩きつけた手で、縋るように雅の上着を掴んだ。
「あたしが……一馬兄のことを、まだしつこく好きで……。危険な状況になれば、こういうことぐらい平気でするって、分かってたでしょ。こんなふうに、なりふり構わず何とかしようとするから……。それを知ってて、あたしに連絡つけたくせに……!」
確信があった。
姫なら、絶対に大丈夫だ。妙な確信があった。
"絶対裏切れない"。それを知っていたからこそ、姫架に連絡をつけた。
そんな姫架の真摯さを、利用していたのだ。気付かぬうちに。
「それなのに、大人みたいに、冷静なひとみたいに叱るなんて……ずるいよ……」
そうだ。知っていた。
姫架なら、なりふり構わずどんなこともするだろうと。だから安堵していたのかもしれない。
ぞっとした。
気付かぬうちに計算を廻らせていた自分の内側の、醜さに。
彼女は、それを知っていて尚ここまで、必死なのだ。
(姫は、強いと思っていた)
自らの内側から光を放つような、鮮やかで生命力のあるいきもの。一本の芯をしっかりと持って、折れたりしない、枯れない。
だから大丈夫だと。けれど本当は。
(まだ18の……)
脆いところのある、ただの女、だったのに。
胸に縋りつくような指先の力は、強くもないし、頼りなく細い。
「ごめん」
もろいところや弱いところを見ないふりをして、恋情に付け入った。一番、醜い手段だった。
「ごめんな」
まだ少し水気を含んだベージュ色の頭を、きつく胸元に抱き寄せた。
胸に押し当てられた額から伝わる、細かな震えと嗚咽と。
「まだ、大丈夫か」
頭を撫でてやりながら、雅は訊いた。顔を埋めたまま、姫架がかすかに頷くのを体で感じる。
「都佳沙」
姫架の頭を抱えたまま、雅は都佳沙を振り返った。
驚きと緊張とがない交ぜになったまま、取り残された人々は皆、その場で棒立ちになっている。
都佳沙は、何も言われないうちに服の内側から白い札のようなものを取り出して、雅と姫架に近づいた。
要はただ呆然と、自分の傍を通り過ぎる都佳沙の背中を見た。
「姫。これを握ってくれるかな。姫の影を、追うよ」
差し出された白い札を、雅の胸から顔をあげた姫架が握った。
祈るように額にそれを押し付けて、目を閉じた。瞳は涙で濡れていた。
姫架の手の中で、その白い紙が青白い光を放ち始めた。
ぐにゃりと溶けるように、その紙が手の中で形を変えた。白い、小さな鳥。目が赤く、尾が長い。
姫架の掌からもがくようにして離れると、まるで捕われた籠から出ようとするかのように、ばたばたと窓に体当たりをはじめた。
都佳沙が窓まで近づいて、細く開けた瞬間、その白い影は降りしきる雨の中、闇に飛び込んでいった。
白い尾が、煙のように闇に吸い込まれてゆく、その瞬間だった。
わけの分からない焦燥感が足元から突然わきあがって、どうしようもなくなって。
要は身を翻した。
「要―――!」
制止の声をかけたのは都佳沙だろうか、それとも勝利だったろうか?
それも分からなくなっていた。止まることなど、出来ずにいた。
玄関のドアを開け放つと、雨音が急に迫ってきた。
エレベーターの前まで来て、その小さな箱が1階に止まっていることを確認して、階段に向かった。
一瞬たりとも、黙っていられない。ここで、ゆっくりとエレベーターが7階まで上ってくるのなんて、待てない。
「要っ! 馬鹿、待て!」
足音が追いついてきた。5階と6階の間の踊り場で、後ろから腕を掴まれた。
勢いでそのまま、転びそうになりながら、肩越しに振り返る。
「ひとりでっ……どうすんだよ!?」
勝利だった。
「おまっ……ひとりでどうにかなんて、ならないだろ」
必死の顔の勝利が、正論を言った。そうだ。この場合、勝利が正しいのだ。
自分ひとりで走ったところで、きっと何の解決にもならないのだろうけど。
「ごめん、勝利。離して」
握りつぶすように掴まれた腕が、痛い。
「都佳沙が、あの鳥の後、しっかり追ってくれるって……! 今からじゃもう、追いつけないだろ!」
そう。それが理屈だ。説得力がある。
だけど。
「行きたいんだ!」
非常階段に、雷のように声が響いた。
大きな声を出したことによって、突然涙腺が壊れた。
「もう黙って待ってるの嫌なんだよ!」
力いっぱい腕を振り払うと、あんなに強く掴んでいた勝利の手が、何故か簡単に離れた。
もう、一瞬でも。少しでも。じっとしていたくない。
手すりを掴んで、階段を駆け下りた。もう、足音は追ってこなかった。
エントランスホールを抜けて、自動ドアをくぐると、途端に痛みが体を襲った。叩きつける雨の痛みだ。
先程、あの白い影が消えた方向を探す。そしてふと、気付いた。
激しく叩きつける雨で白く煙るアスファルトに、白い焔。小さな鬼火のようなものが一本の線になって続いている。
反射的に、今出てきたばかりのマンションを仰いだ。吾妻の部屋の、窓があるあたり。その窓際に人影があった。
都佳沙が、その焔の伸びる方向を、指し示した。
せり上がった嗚咽を噛み殺して、要は駆け出した。
白い焔が導くその先へ。
4.
父の享年は、四十四だった。
しかし、対面した遺体は六十にも、七十にも見えた。
生気という生気が全て失われた、干からびたような体だ。
それを目の当たりにした瞬間、自分の中で何かが切れてしまった。
―――喰ったから、だ。
横たわる遺体の傍に立ったまま、知らぬうちに声が落ちた。
傍に座っていた母が、ハッと顔をあげてこちらを見る。
―――俺が、喰ったからだね。
一馬、と母が何かを祈る文句のように呼んだ。
俺が殺したんだ、そうだろう?
生き残るために。
―――拒むのなら生命を捨てればいい。生き残ることを選んだ時点でそれは既に。
ばけものだ。
そう。もっと早く、きづけばよかった。
*
夏が終わったばかりで、まだ空気が生ぬるいのに。
降りしきる雨に濡れ続ければ、凍死しそうにつめたい。
(もう冷たいともあまり思わなくなったから)
危ないかな。
麻痺してしまったら、きっと痛かったり冷たかったりするよりも、危険なはずだ。
ただ、肩に何かが乗っているかのように重い。水を吸った、服の重みだ。
―――櫛引の、家の跡です。門を入って、少し歩いたところに、蔵のような建物があるんですよ。
そこで、待ってます。
終わりにしましょう、もう。
額から、こめかみから、髪を伝って流れる雫が、体温を吸い取って生ぬるくなって、やがて顎から落ちた。
どんどん、温度が奪われていた。
敷地の内部に足を踏み入れると、ばたばたという音がうるさい。
アスファルトとは違って、伸び放題に伸びた草木の葉に、大きな雨粒がはじけてゆく音だった。
打ち捨てられた庭で、そこに植えられた木々が自由奔放に枝や蔓を伸ばしていた。縛られず、捕われず、手をかけられず。それはとても自由で、けれど貪欲で、気持ち悪ささえ覚えた。
ひとの、入り込む余地の無い空間だった。
足元に草が、まるで野生の獣を捕らえる罠のように絡まりつく。滑る。
つかまったら、喰われてしまうような錯覚を覚えた。
そんな、野生の罠の先に、ぼんやりと白い壁が浮かび上がった。
そのまた奥に見える日本家屋とは、全く違うつくりの。蔵、と呼べばいいのだろうか。
閉ざされて、閂もかけられていたはずの黒い扉は、手前に開かれていた。両手を広げて、待っている形に似ていた。
その向こうには、闇。
―――家を、出たいんだ。
ようやく、まともな精神が戻ってきた頃。少なくとも自傷をやめた頃だった。
休学にしておいた大学も辞め、久しぶりに自宅に戻って。
告げた要件がそれ。
この家を出たい。
いやがおうにも思い出してしまうから。この家にある思い出が多すぎる。
逃げ出したのだ。自分の置かれている状況から。
そうして今の、ぬるま湯のような、生活に身を置いた。
その"つけ"を、払うときがきているのだ。
その蔵のような建物の軒下に入って初めて、自分の体がどれほど冷えているのか気付いた。
絶え間なく体を打っていた雨粒が消えて、はじめて。
背後では今も尚、どうどうと落ちる雫はある。左手の甲で顎から落ちる雫を拭った。
闇の向こうにふたつ、光るものがあった。
まばたきもせずにこちらを見つめている、蒼の双眸。
漆黒に、やがて、ぼんやりと白い肌が浮かび上がった。
「ずぶ濡れじゃないですか」
いたわりが籠もったような声で、蒼の双眼を持つ男が言った。
「風邪をひきますよ」
首をちいさくかしげるようにして、櫛引充は言った。
そんな話、今は関係のないことなのに。風邪なんて。そんな話ではない。
「ああでも、約束どおり来てくれると思っていました。お久しぶりですね、成瀬さん」
充は、その狭い蔵の中で、窓を背に立っていた。格子のはまった、正方形ぐらいの窓にもたれるように。
一馬は一歩踏み出し、蔵と外とを区切る敷居を跨いだ。
「狭い場所でしょう? 懐かしいな」
土間から畳へ、土足のまま上がりこんだ。十畳も無い。
「ここが、私がずっと閉じ込められていた場所なんですよ」
窓枠にはまった格子を撫でさするようにしながら、充が言う。
「その」
ついと、充の指が一馬の肩越し、向こうを指差した。
「その扉はいつも閉まっていて、閂もかけられていましたよ。私が、逃げ出さないようにね。この窓から見える正方形の風景だけが、私の世界のすべてだったんです。―――ねぇ」
ねぇ、と親しげに充が呼んだ。ねぇ成瀬さん。
同じ色の、深い藍の瞳を、合わせてくる。
「目は、覚めましたか?」
充の口元から、笑みが消えた。
一馬は眉根を寄せて、視力の弱い人間のように充を見据えた。じっと、焦点をあわせるように。
「いつまでも、甘美な夢を見ているから、苦しいんですよ」
訝しげな一馬に、充は笑った。瞳は残虐に、細めたまま。口元だけをゆがめた。
「諦めて、そんな夢や幻想は棄ててしまえばいい。現実を受け入れれば、楽になれますよ」
「……夢や、幻想?」
言っている意味が分からない。たつりたつりと髪の先から雫が落ちる。
一体何の夢を見ている。
「いつまで、ヒトと同じでいようとするんです」
ざっくりと、見えない矢が胸に刺さった。そのまま、左胸の肉をすべてこそぎとって穴を空けた。
痛みは無かった。ただ愕然とした。
「ひとでなしと、自分を責める必要はないんだ。貴方がどれだけヒトと同じでいたいと願ったところで、私たちはヒトではないのだから」
夢を見るのは、もう諦めたほうがいいよ。
「姿かたちが似ているから、私たちはよく錯覚する。人間が人間を喰うと思うから苦しむ。人と牛や馬は別の生き物だ。人と夢喰いも別なんですよ。種別が違えば、食べるものも違うのは当然じゃないですか。人が獣を喰うのに違和感を覚えないように、当然なんですよ。私たちが、人の意識を喰らうのは」
「……そんな」
いい加減、目を覚ましたらどうですか、成瀬さん。
私たちは珍しくも人の胎から生まれてくる、ばけものなんですよ。
貴方だって、分かっていたはずでしょう。もう、随分前から。
それを、認めなかっただけで。
―――人の心に依存しなければ生きていけないなんて、人間としてどうかしてるんだ。そんなの人間じゃない。
それは、昔自分が雅に言った言葉だった。
けれど。
指先が震え始めて、咄嗟に拳を握り締めた。寒さではなかった。恐怖、かもしれない。
「私はもう随分前にそれを認めてしまったので、今更餌をとることに何の罪悪感も無いんです」
ちらりと、充の視線が床に落ちた。自分の傍らを見下ろす。導かれるように一馬の視線も、それを追った。
「貴様っ……!」
「ああ、駄目ですよ」
そこには華奢な少女が、まるで胎児のように体を縮めて横たわっていた。
いきり立つ一馬に、充はひどく穏やかに言った。「これは、私のです。貴方にあげるわけにはいきません」
「いい加減にしろ!!」
手が伸びた。乱暴に、充の胸倉を掴んで引き寄せる。
間近に迫った充の蒼の双眸は、湖面のように静かだった。その瞳が急に、憐れむような色をたたえた。
「かわいそうに」
すぐ傍で、充が小さく呟いた。かわいそうに。
「知っていますよ成瀬さん。貴方がどれだけ、人でいたいのか―――」
そのつめたい微笑みに、気を取られているうちに。
突然、右手の甲がかぁっと熱くなった。その次に、痛み。灼ける。
一馬は呆然と、櫛引の胸倉を掴んだままの右手を見た。斜めになった腕を、だらだらと流れて肘の方へ落ちてくる赤いものが見えた。
「―――うぁあっ!」
どす黒い液体を見てはじめて、全身に痛みが走った。手の甲に、突きたてられていたのはナイフだった。サバイバル用の。
途端に右手が力を失って、櫛引の胸倉から剥がれた。
「ああ、抜かないほうが良いですよ。出血が増えますから」
充は、白いシャツについた赤黒い血液のことなど全く頓着するふうもなく、襟を正した。
「私は半端者なので、貴方にその右手を使われると困ります」
肘から下がじん、と火照り出した。
ぱたぱたっと音を立てて、雫が畳みに赤い水溜りを作る。その雫から逃げるように、数歩、あとずさった。
「苦しいなら、終わりにしませんか。貴方を苦しめるその力、私に下さい」
同族の蒼い瞳が、真っ直ぐにこちらを見据える。だらりと右腕をぶら下げたまま、一馬は凪のような感情のない、その男の顔を見た。
傷口から確実に失われてゆく、温度。
「貴方の夢を、私が喰らいます」
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