6.充 填
1.
小気味良い音で目が覚めた。
規則的な音が、徐々に大きく聞こえてきて、瞼を開く。
(あれ?)
ぼやけた視界に映る天井がいつもと違っている。何度かまばたきをした。
視界が鮮明になっても天井はそのままだった。規則的な、何かを軽く叩くような音は続いている。
(包丁の、音)
上半身だけを起こす。ぐるりと室内を見渡して、ようやく要は"起きた"。
6畳ほどの部屋の、床に直に敷かれた布団の上にいた。
ふと、隣を見る。並べて敷かれたもうひとつの布団は、もう畳まれていて、カーテンは半分だけ開かれている。
左右の壁には本棚が並んでいた。小説や評論が大部分を占めている。
元々人が寝る部屋じゃあないんだよ、とこの部屋の持ち主が苦笑していたのを思い出した。
暗いだろうけど我慢してね。大丈夫、本棚倒れないから。
布団から這い出して、とりあえず布団を畳むと、要は居間へ続いているドアを開けた。
「はよー」
左手。つくりつけのキッチンから声がした。それが朝の挨拶なのだと気づくまで、1秒。
「おはよう、勝利」
相変わらず小気味良い包丁の音は続いている。しかし、台所に立っているのはこの部屋の主ではなかった。
制服のワイシャツ姿のまま台所に立っているのは、神田勝利だったのだ。
「……あれ」
気の抜けた声と共に、隣のドアが開いた。顔を出したのはこの部屋の主である。どうやら着の身着のまま寝に入ったらしい。眠そうに目をこすっている。
「あ、アガツマさん、台所勝手に借りてますけど」
手元から顔をあげないまま、勝利が言った。
「そりゃ、別にいいけどさ」
寝癖のついたままの髪に右手を突っ込み、わしゃわしゃとかき回しながら、吾妻は壁の時計を見る。
「うわー!」
時計を見るなりいきなり叫ぶので、要は思わずびくっと反応してしまった。
「超早起きした、俺」
呆然と時計を見たまま、とても驚いたように言う。
"超早起き"? 釣られて時計を見た要は心の中で首をかしげた。7時45分。
普段要が起きている時間よりも、少し遅いぐらいなのだが。
「にしても、冷蔵庫ん中なんかあった? ビールぐらいしか入ってなかったんじゃない?」
長ネギを刻む勝利の後ろに回りこんで、吾妻はその手元を覗き込んだ。
「ネギとか、野菜だけ勝手に貰いましたけど。あとはコンビニとかで買ってきたんで」
「まじで。何時に起きたの、神田くん」
「7時頃ですけど」
うわー、と意味不明にうめいたあと、吾妻は「若いなー」と呟いた。
早起きは若さの問題じゃないんじゃ? と要は思ったが言わないでおいた。
「あ、でも」
長ネギを刻み終えた勝利が、後ろに立つ吾妻を振り返る。
「吾妻さん、蕎麦食えますよね」
「蕎麦!?」
「……やばいっすか?」
「いや、むしろ大好物だ」
「良かった。じゃあうち蕎麦屋なんで、店のほうもよろしく」
ちゃっかりと店の宣伝までしてから、勝利は包丁を置いた。
「勝利、料理うまいんだね」
「うむむ、蕎麦如きで褒められても複雑だな……」
「違うよ。ネギ切るときとかの、手際」
「ああ。アレは慣れというものでしょう。別に技術でもなんでも無いわ」
そんな会話をしながら、朝の通学路を並んで歩く。
住宅街の間を通る、細い道。時折ごみ出しのサラリーマンや犬の散歩と出会う。
「家でもよくやらされてるし。味付けもそう。うまくなんないと情けないじゃない」
苦笑交じりにそんなことを言うが、どうやら少し照れもあるらしい。
「勝利は家、継ぐの?」
気がついたら訊いていた。
すると、ふと真顔になった勝利が一度要のほうを見たあと、斜め上を仰ぐようにしてたっぷりと30秒ほど考え込んだ。
その間に小さな横断歩道で信号に引っかかる。車は来ない。信号無視しても良かったが、立ち止まった。そういう気分だった。
「分からんな」
それが勝利の答えだった。
「興味あるし、料理好きだし。でも、これが俺の夢だ! っつーのとは違う。親父も『お前なんかに店はやらねぇ』って言ってるしさ。まだ、どう転ぶかは分かんないな」
「じゃあ、進路は一応、進学?」
「とりあえずはね。本格受験、ってやつやってみたいし。俺、ずっと修恵学園だから。エスカレーターでここまできたわけだし。一応進級試験みたいなのはあったけど、それとはまた別でしょ、受験ってさ」
信号が変わる。
「でも、学部選択が困るよな。具体的にこれ、ってもんもないし」
歩き出す勝利の背に、少し遅れて要が続く。
「お前は?」
少しだけ要のほうを振り返って、今度は逆に勝利が訊いた。
訊き返されることは予想していなかった。思わず要は黙り込む。
進路。ゆくさき。未来。こことは、別の場所。そういうものを考えること。無意識に避けてきた。
答えられずにいると、勝利がなにやら納得したようにニ、三度頷いた。
「まだ先だもんな。先生たちは急かすけど。まず乗り越えるべきは文化祭だし」
「……迷ってるんだ」
そろそろ学校に近づいてきた。見慣れた景色に、同じ制服が増えてくる。
「進路もそうだけど。これから、高校を出て、具体的にどうすればいいのか分からなくて」
ここ数日、そんなことばかりを考えている。
少しでも厄介な場面に直面すると、自分ではどうしようもない。そんな自分の無力さに、改めて気づいた。
それなら、これから先どうすればいい。
「要がしたいことでいいと思うけど。基準は、楽しいかつまんないかでいいんじゃないかな。まだ」
なにやらまじめな顔で、勝利がそんなことを言う。
まだ、色々なことが自分の行動の責任だけで、済む年だし。
後何年かで、もっと責任はずっしりして来るんだし。今のうち。
「要はスタートラインが、ちょっと人とは違うしさ」
「でも、それに甘えたくないって、思うんだ。出来ることはしたいし」
そう。少し前までなら、納得していたのだ。スタートラインが違うという理由だけで。
"人とは違う"。だからいいんだ。そんな言い訳に甘えていた。
自分の境遇を自分で哀れんで、限界点を決めて。冒険はせずに。
安全圏内だけで生きて。
知りたくないことは、見ないフリをしてきた。そんな自分に気がついた。
「そっか。―――そうだな」
勝利が一度だけゆっくりと頷いた。
―――坊が言わなかったこと、あたしが説明するけど、坊のこと責めないでやってよ。
昨晩、吾妻のマンションまでついてきた銀姫架は、そう切り出した。
坊というのは都佳沙のことだ。姫架はそう呼ぶ。
『まず、単刀直入に言うと、一馬兄は生命を狙われてる。櫛引だけじゃなくて、銀の分家から』
言われて、心臓が止まるかと思った。
『銀って、都佳沙っちやあんたの家じゃん。なんで一馬さんを狙うわけ』
深刻な表情で腕組みをした勝利が代わりに聞いた。
『夢喰いは、人間と妖の間の生き物だって、ずっと言われてきたんだよ。人間には害を与えることがない。食べるのは夢だけ。だけどね、それは本当に、必要最低限の"食事"なんだって。なんていうのかな、夢は"うすい"んだよ。人の意識に比べたら。だから、力が強くなれば強くなるほど、夢よりも意識や記憶を喰うようになる。そのほうが、楽だっても聞くしね。それでも、まだ夢喰いは人として生きていける。そこまでだったら』
居間の中央に置かれたテーブルひとつ。それを3人で囲んでいた。吾妻は一人、窓の近くで煙草を吸っている。
姫架は両腕をテーブルに乗せて、正面に座った要をじっと見ながら続けた。
『夢喰い同士が会っちゃいけないっていうのは、どっかで聞いた?』
姫架の問いに、要は頷いた。
その力は弾き合うから、夢喰い同士は近づいてはいけないのだと。
『力を弾きあうだけじゃなくて、奪い取ることも出来る。―――つまり、相手の夢を喰うんだけど。そうすると、喰われた側は死ぬ。喰った側は力を増す。そこまで行くと、もう人間じゃない。"食事"をするたびに、人を狂わせるようになる。立派な妖に』
夢魔に。
堕ちる。
『そこで、契約の話が出て来るんだ。契約って言うのはそもそも、霊媒師の家と夢喰いが協力しましょうっていう約束みたいなもんなんだけど、随分古くからある決まりだから、変なものもあってね。夢喰い同士が力の奪い合いをするのを、力の略奪って言うんだけど、その略奪が起こりそうになったとき、裏―――霊媒師の家は、夢喰いを始末する。つまり―――殺すってことなんだ』
小さいはずの姫架の言葉に、がんと頭を殴られたような気がした。
なんだって? 始末するって、なんだ? 人を?
『普通は、略奪を計画しているほうにのみ適応されるんだ。だから今回の場合は、櫛引充が呉に始末されることはあっても、一馬兄が狙われることはないはずなんだけど、ちょっと銀の中がゴタゴタしててね……』
そこまでよどみなく説明を続けていた姫架が、ふっと俯いた。
情けない話なんだけどさ、と前置きする。
『銀の家は、大きくなりすぎたんだよ、良くも悪くも。雅兄や坊は直系の宗家で。他の家は分家と呼ばれて格下になっちゃうんだ。あたしの家もそう。分家は宗家に比べて、色々と損が多くてね。今回のゴタゴタで、宗家を追い落とそうとしている奴らがいる。それに、分家の中には銀が夢喰いを持つのを気に入らない奴らもいて。そういう奴らのせいで、一馬兄は狙われてるんだ』
―――契約は実行されるだろう。銀は、大きな家だから。
櫛引が言っていたことを、思い出す。
『そういう分家の陰謀で、雅兄も坊も、今本家に軟禁状態なんだ。だから、あたしが連絡受けて。神田は坊から連絡が行ったと思うけど……。英要が盾に取られたりしたら、一馬兄逃げらんないからさ』
最後に溜息をひとつついて、姫架は黙り込んだ。
これから、どうなるのかな。
訊いていた。
『あたしはまず、一馬兄と会わないと』
『ちょっと待って』
口をはさんだのは、吾妻だった。換気用に薄く開けていた窓を閉めて、姫架を見る。
『君は分家だろう。どうして宗家の雅くんたちに協力する? 君の家は権力闘争に参加していないのか?』
『家のことなんてどうでもいいわよ。どうせ、どっちに転んだって構わないような、弱い家なんだから』
きっと灰色の瞳で吾妻を睨みつけて、姫架は言った。
『だって、おかしいでしょ。いつの時代の話よ、契約なんて。結局は自分たちの立場を向上させたいだけのエゴでしょ。殺させないわよ、そんなエゴで。ひとひとり、殺していいわけないじゃない。―――これじゃ、雅兄たちに協力する理由にならない?』
吾妻は、僅かに目を見開いて姫架を見た。意外そうに。
少しの沈黙の後、『いや、立派な理由だ』と言った。苦笑して付け加える。君はかっこいい女子高生だったんだな。
今ごろ気づいても遅いわよ、と呟いて姫架は勝ち誇ったように笑った。
僕はどうすればいい? 他に出来ることはないのかな。
吾妻のマンションをあとにしようとする姫架に、玄関先で訊いた。
今は無事でいて。と姫架は言った。
自分の身を自分で守ること。それを全力でやって。簡単なことみたいだけど、結構難しいよ。
頷く。すると向こうも笑って頷いた。
―――あとは、信じて。あたしのことだけじゃなくて、色々なこと。絶対に信じて。みんな絶対に、一馬兄のこともあんたのことも、裏切らないから。
言って、姫架は歩き出した。要はぼんやりとその背中を見送る。
しばらくエレベーターの方へ歩いてから、「あ!」と思い出したように戻ってくると、言った。
『さっきアガツマに説明した他にもうひとつ理由があるんだけど、英要だけに教えてあげるね。そうすればあたしのこともっと信用してくれると思うし』
声を落として、内緒話をするように、姫架は言った。
『一馬兄って、あたしの初恋のひとなんだ。内緒ね、特にアガツマには』
少し照れたように笑った顔は、女豹でも女王様でもなかった。しー、と口唇の前に人差し指を押し当てて見せる様は、なんとなく可愛らしい。
『じゃ! 健闘を祈る!』
次の瞬間には、すっかり元の姫架に戻っている。颯爽と踵を返すと、長いベージュ色の髪が翻った。
ここ数日、気分は沈みっぱなしだった。
思いながら、要は校門をくぐる。
全てから置き去りにされたような不安、何が起こっているのかわからない恐怖、自分への情けなさ。
そんなもの全てに押しつぶされそうで、寒くてただ、怖かった。
なんでなんだろう、今は違う。
状況は何一つ好転なんてしていないはずなのに。
大丈夫だと思える。
ひとりではないと、思えるのだ。
「あ。要、勝利おはよー!」
昇降口から階段に向かう途中で、クラスの女子に会った。
おはよう、と返す。たったそれだけのやりとりも、自信になる気がする。
急ぎなよ、もうすぐチャイム鳴るよ。
いいだろ、真堂来るの遅いじゃん。
遅くて悪かったな、神田。
うわ、真堂センセイいつからそこに。
職員室の前で教師を呼び捨てにするな、馬鹿者。
思わず要は吹き出した。
他愛ない一日がまた今日も始まる。
大丈夫。ここからなのだ。
2.
閉ざしたはずのブラインドの隙間から、それでも入り込んでくる朝特有の光。
しっかりと閉ざしたはずの瞼の奥へ強引に潜り込もうとする強い光。
革張りの、きゅうきゅうと音がするソファーの上で、上半身を起こした。
口をついて、「いてて……」という情けないぼやきが落ちる。
首から右肩にかけて走る鈍痛。思わず右肩に手を遣った。
指先が触れるだけで痛む。相当強く殴られたからだろう。当たったのが肩でよかったと、今更ながらに思う。
昨晩、駐車場で殴りかかられたときに負った傷だった。
凶器はおそらく棒状の金属。鉄パイプなら笑えない話だ。
ほぼ反射的に相手を"眠らせて"、とりあえず逃げた。相手は黒いスーツを身に纏っていたが、十中八九、銀の家のものだろう。
どこへ行こうかとうろうろして、結局この事務所に戻ってきたときには、誰もいなかった。
―――契約が動きますよ。
そう告げたのは、櫛引充だった。が、銀だと直感したのは別にその言葉を鵜呑みにしたからではない。
なんとなく、分かったのだ。長き昔からの、表と裏とのつながりのようなものを。
雅や始は決して口にはしなかったが、自分が分家からよく思われていなかったことを、一馬は知っていた。
夢喰いとして生きてゆくには、自分があまりにも弱い生き物だったからだ。
契約という名は与えられているものの、その特性によって時には通常の生活すら困難になる「夢喰い」という生き物を、結局は霊媒の家が飼っているに過ぎない。
生きてゆくための後ろ盾、それが契約だ。庇護される代わりに夢喰いは、己の特殊な能力を提供する。夢を媒介に、意識に潜る力。そして―――呪いを打ち消す力。
何故か夢食いにはどんな呪いも効かないのだという。それは、契約を交わした家の人々にも効力を現すらしく、呪術と向き合うことの多い霊媒の家にとっては、一種の魔よけのようなものだ。
しかし今、消滅したわけではないにしろ、呪術は確実に廃れつつある。魔よけとしての必要性は、少しずつ失われつつあるのだ。
(それじゃなくても俺は元々問題児だし)
不自然に固まった首をほぐすように回しながら立ち上がる。自然と欠伸が漏れた。
代替わり。つまり父から力を受け継いだとき。平静を保つことが出来ず、欝のような状態に陥った。ほぼ一年間だ。
その間、自傷行為から自殺未遂にまで至り、銀の家に保護されていた。あからさまに聞こえるような陰口も、たくさん聞いたものだ。
名高い銀の血を引く人々は、"飼い犬"のこのような醜態を決して望みはしなかっただろう。
だから、この機会に乗じて向こうがどのような手を打ってきても意外だとは思わなかった。
ただ気になるのは、銀の内部の状況だ。雅や都佳沙がどのような状況に置かれているのか、予測が出来ない。
「ま、今ここで考えたところで、何も分からないんだけどな」
嘆息交じりに呟いた。ソファーから立ち上がり、作り付けの簡易キッチンに踏み入れる。やけに咽喉が渇く。
とりあえず要のことは大学時代の先輩に頼んだし、今は自分自身のことに集中していられるはずだ。
蛇口をひねろうと伸ばした手を、途中で止めた。
かつ、かつという音が近づいてくる。この事務所への階段を一段ずつ、上がってくる音だった。
流しから扉の方へ向き直り、息を殺すようにして、待った。誰がやってきたのだとしても、驚かないだろうと思った。
やがて足音が途切れ、銀色の安っぽいドアノブが回った。
勢いよく扉が手前に開き、ベージュ色の頭がぴょこりと侵入してきた。大きな瞳がきょろきょろと事務所内を彷徨い、流しの前にいる一馬を捉えた。
「やっぱり」
侵入者が得意げに言った。完全に室内に入りこんでから、パタンと扉を閉める。
誰がきても驚かないはずだったのに、一馬は予想だにしなかった相手に呆気に取られて固まる。
「一馬兄のことだから、色々迷った挙句結局どこにも行かないんじゃないかと思ったんだよね」
背中の真ん中あたりまであるベージュ色の髪を掻きあげて、彼女は言った。身に纏っているセーラー服のスカートは、膝よりも随分と上だ。
「……姫?」
通称で呼んだ。彼女は周囲からそう呼ばれている。
「結構久しぶり」
挨拶なのかなんなのかよく分からないことばを発して、銀姫架はにっこりと笑った。
銀の分家の娘で、都佳沙と年が近いということもあって、よく本家に出入りしていた。そういう関係で昔から面識がある。
ここ数年はあまり顔を合わせることもなかったのだが……。
「あ! 先にお断りしておくけど、あたしは別に一馬兄を拉致して痛めつけようとか思ってきたわけじゃないから」
あっけらかんと物騒なことを言う。
「ということは、やっぱり銀が動いているってことなんだな」
溜息混じりに確認をとると、姫架ははじめてなにやら渋い顔をして「そんなとこ」と言った。
「あたしは、雅兄から電話貰って知ったんだけどね」
「雅……。そうだ、銀の内部は今どうなってるんだ?」
「ちょっと待った」
矢継ぎ早に質問を浴びせようとする一馬を手で制して、姫架は扉を指差した。
「?」
「あたし、起きてからまだ何も食べてないんだな」
言われて時計を見ると、もう既に午前9時を回っている。
「とりあえずここにいてもどうしようもないから、お兄さんあたしとモーニングコーヒー飲みに行かない?」
説明してあげるからオゴってよ。と姫架はにんまりと笑った。
3.
「おはよう」
和室だらけの家の中の、数少ない洋間はリビングだ。
そのリビングで起きぬけの煙草をくゆらせていると、扉が開いた。
挨拶されたので顔をあげてそちらを見ると甥がいて、雅は軽く手を上げて応じた。
「あんまり寝てない面だな」
いつもに増して青白い甥の顔を雅がからかうと、「お互い様だろう」とカウンターを食らった。その通りで、自分もあまり眠っていない。
「久しぶりの布団と枕とが、繊細な俺に合わなかったんだ」
あからさまなヘリクツを口にして、メンソールの煙草をもみ消すと、都佳沙が少し笑った。
つられて雅も口元だけ笑う。
まだ笑えるだけ平気だろう。
「それで、今日はお前、どうするんだ?」
雅が訊いた。都佳沙は自分で緑茶を淹れながら、顔だけをそちらへ向けて「どう?」と端正な眉をひそめる。何を聞かれたのか、分からなかった。
「今日の予定だよ」
もっと丁寧に雅が質問を説明すると、都佳沙は憐れみを込めた視線を向けてきた。
「現実逃避? 僕たちは軟禁されているんだよ。しかも自分の家に。ただでさえ出席日数が足りないのに学校にも行けないし、そもそも家から出られないのに予定も何もないだろう?」
「分かってるけど訊いてみたんだよ。俺だって仕事だったさ。―――軟禁されてると自覚するもんだな。自分の無趣味ってやつを」
「結局、何が言いたいのかよく分からないけど」
「つまり暇だってことだ」
正直に白状すると、都佳沙が困った顔から真顔になった。ああそうか、と納得する。
そうだね。僕もすごく暇だな。
「だけど、雅兄さんはなんで姫に連絡を入れたの」
どうやら雅の分も淹れてくれたらしい緑茶を差し出しながら、都佳沙が訊いた。
「姫なら絶対に大丈夫だっていう確信が、俺にはあるからさ」
―――やめたほうがいいよ。
受け取った緑茶を口に含みながら、雅は昔姫架に言った言葉を思い出す。止めておいたほうがいい。
―――だけどね、雅兄。あたしは、それでもいいよ。
「あら、起きたのね。おはよう」
ドアが開き、あたたかい声が入ってきた。柔らかな笑みをたたえた小柄な女性だ。
おはよう母さん、と都佳沙が言った。
銀渚。至極一般の家庭から銀宗家の跡取に嫁いだ、おっとりしていて肝の据わった都佳沙の母だ。雅には、義理の姉に当たる。
「義姉さん、兄貴は?」
「始さんなら、部屋にいるわ。さっき"黒い人"が訪ねてきたから」
雅の問いに、渚は何かを含むように笑って告げた。
ああそう、と雅も納得したように笑った。
*
洋間から少し離れた和室から、声がする。
「呉、覚……か」
始は、今しがた聞いたばかりの名を口の中で繰り返した。
「朝早くからやってきた私に感謝してくださいね」
始と向かい合わせるように座った黒ずくめの若い男が、恩着せがましく言った。
「元々お前は早起きだろうに」
「そんなことはありませんよ。私を他のやつらと一緒にしないで下さい。私はあんなふうに朝早くから意地汚く地面を這いまわったりしません」
どこか浮世離れしたその男は、始の言葉に心外とばかりに眉をひそめた。
「分かっているよ、叶(カノウ)。お前はとても優秀で賢い。ところで今日のゴミは……」
「燃やせるゴミです」
叶は即答して、はっと始から目を逸らした。はめられたことに気づいたからだ。
始はにっこりと笑って、詳しいね叶、とだけ言った。
「ああ、どうして銀の直系は皆根性悪なんだ」
この世の終わりとでも言うように、叶は頭を抱えた。
「私の息子はもっと手ごわいから、覚悟しておきなさい」
くすくすと笑って、始は忠告してから。
「……確かなんだね、叶。康臣は呉の嫡男と会っていたんだな」
「はい。互いにしきりに周囲を気にしていたようでしたが、私には気づかなかった様子です。康臣は礼を言っていたようです」
「そうか。ではそれを中心に証拠を探そう。叶ももう少し、康臣を張ってくれるか」
「ご命令なら従いましょう」
その言葉を最後に、始の目の前から若い男の姿が消えた。代わりに何か黒い小さなものが、よちよちと縁側に面した障子へ近づいてゆく。
障子の前でぴたりと立ち止まると、心持ち始のほうを振り返って。
「あの、障子、開けてもらえますか」
黒い塊が言った。
「いつも思うんだけれど、お前の後姿は妙に可愛らしいな」
苦笑しながら始が障子を開けると、叶はふん、と言ったきり部屋を飛び出していった。
部屋には、黒い鴉の羽が一枚、残った。
*
「それで、今の銀の状況なんだけど」
駅前方面に向かって歩きながら、姫架が口を開いた。
「宗家と分家で勢力が二分してるんだよね。一馬兄を狙ってるのは、分家側。筆頭は康臣」
やっぱりそうか。姫架が口にした名前に、妙に納得した自分がいる。
銀康臣。分家で最も力を持っている人物だ。
そして、銀に保護されていた昔、目の前でこう言った男でもある。
―――役に立たぬ夢食いなど、切り捨ててしまえばよろしい。
眉ひとつ動かさずに、言い放った男だ。
銀という家に対するプライドや誇りを人一倍に持ち、伝統を重んじ、自らの力を信じて疑わない。そんな男。
「表向きは、分家が一馬兄の保護に回るってことになってるけど、宗家に手出しさせないあたり、保護で済むとは思えないよね。雅兄と坊は本家に待機っていう名目の軟禁状態。で、あたしのところに雅兄から連絡が入ったんだ」
「姫」
交差点で信号に引っかかった。
「姫の家は大丈夫なのか?」
姫架は、銀の勢力が宗家側と分家側に分かれていると言っていた。すると、姫架の家はどちら側についているのだろう。
「あたしの家は中立。どうせ誰が上に立ってもあんまり変わらない弱小な家だから。親父は……好きにしろって言ってた」
信号が変わり、流れ出すひとに押し出されるようにして、姫架が歩き出した。
「あ。勘違いしないでよね」
一足先に横断歩道を渡り終えた姫架が、肩越しにくるりと振り返った。
「別に、一馬兄のために危険な橋を渡ってるんじゃないの。これは、あたしのためなんだから」
自分のため、と言い張る姫架の言い分がわからず、一馬は眉をひそめた。
「前に、遊びにつれて行ってくれるって約束、まだ守ってもらってない」
さもそれが大事であるかのように、深刻な声音で姫架が言う。
「それに、色々なもの買ってもらいたいし、それに……」
「姫……」
「それにあたし、一馬兄が好きだし」
少し早足に、姫架は喫茶店やファーストフード店の建ち並ぶ界隈に歩いていった。
「雅兄も、坊も、一馬兄のこと好きだし。だから死んで欲しくないの。だからこれはあたしのためで、あたしの我儘。一馬兄がもし……」
もし。
それ以上、姫架は言わなかった。
歩く速度を落とし、視線も足元に落とす。
「姫……?」
俯き加減の姫架に追いついた一馬が声をかけると。
「あ! そういえば一馬兄、もっとマトモな先輩いないわけ!?」
がばっと顔をあげ、姫架が問い詰める口調になった。思い出した、とばかりに。
急な話題転換に一馬が取り残されていると。
「なんなのよ、あのアガツマ!? すっごいむかつくんだけど!」
アガツマ。
姫架の口から出た固有名詞に、一馬はますます眉をひそめた。
「姫、なんで先輩のことを……」
「雅兄に頼まれて、英要の様子を見に行ったところで出くわしたの! ……あ。英要に会ったよ」
憤りはどこへやら、姫架はすぐに新しい話題に飛びついた。
先程からそのテンポに振り回されっぱなしの一馬も、姫架の口から再びよく知った固有名詞が出たのに気づく。
「ええと、それで……」
と言ったきり、何も言えずに黙る一馬を、面白そうに見て。
「元気だったよ。いい子だね、素直で」
語尾にハートマークをつけて、姫架は言った。にんまりと笑う。心配している一馬が面白いのだろう。
カラーコンタクトをはめ込んだ灰色の瞳が、楽しそうに細められた。
一馬はしばらくバツの悪そうな顔をしていたが、やがて深々と溜息を吐き出して、言った。
「そうか。……ありがとう、姫」
その表情がなにやらほっとしているようなので、姫架はきれいに笑って、どういたしまして、と言った。
「ねぇ一馬兄、キャラメルマキアートが飲みたい。―――あ、そういえばさっきの電話、誰からだったの?」
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