5.破 戒
―――なぁ、一馬。お前さ、欲しいもんとかやりたいこととか、あるか。
何ですか先輩、不躾に。
―――なんだよ、夢を語るのに前触れが要るのか!?
……今日、やけに変ですよ、いつも変ですけど。
―――お前はさらっとシツレイだぞ、一馬。まぁ、百歩譲り、仏の心で許そう。何しろ今日の俺は機嫌がいい。
何かいいことあったんですか?
―――うむ、成瀬君。いい質問だ。……本が出るのだよ。
へぇー…………。えっ!?
―――なんだ、声が裏返ったぞ。
マジですか!? 本!?
―――そう。それで俺はこれから、悪魔に魂を売って、ヘイワとヘイオンな生活をなげうつのだ。
なんでそうなるんですか。
―――ゲイジュツカというものは総じてそういうものだからだ。
形から入りたがる人って、どこにでもいるんですよね。
―――いや、実際俺は、悪魔に魂を売ったような気分だ。日常生活の、一般的な自由を売り渡して、ようやくスタート地点に立った気分だ。何を犠牲にしたとして、公でものが書けるなら、倖せでなくてもいい。満たされなくてもいい。ずっとそう思ってきたんだ。そしてようやく、スタートラインに立った。あとは自由だ。走るだけだ。
でも、不幸でいいって言ってる割には、楽しそうじゃないですか。
―――愚か者。
何ですか、突然。先輩も大概シツレイですよ。
―――やっと欲しかったモンの尻尾を掴んだみたいなもんだ。楽しいに決まってんだろ。
はぁ。
―――お前も早く何かに"狂え"よ一馬。戒めを振り切って、自由という名の戦場へ飛び込むのだ。
俺は、吾妻先輩みたいな博打はいやですよ。
悪態をつきながら、本当は、どこか子供のように「狂って」いる先輩が、うらやましかった。
けれど、敢えてアウトロー的な場所へ飛び込む気持ちが、よく分からなかった。
あの頃は、望むならどんなところへでも手が届くと思っていた。
それは、大学を辞めることになる一ヶ月前の話。
無知で無邪気な、子供の頃の話。
1.
俺は倖せモンだ。
それは、神田勝利の自己評価だ。
幼い頃から思っていた。口には出さなかったけど。
小学校の頃、親のリコン問題で泥沼で、慰謝料や親権という類の言葉でぼろぼろに傷つけられていた友達がいた。
小学生に似合わない顔で俯いたままの彼に、勝利は何一つとして言葉をかけてあげられなかった。
(俺は、100メートル走で俺を負かした奴から、"惜しかったね"と清々しく言われる悔しさを知っていたから)
高いところからの慰めなんて、傷口に塗る塩にしかならないんだ。
彼の家のように神田家は金持ちじゃなかったし、母親は美人でもなければ口うるさくて、父親は商社マンなんて糞くらえの蕎麦屋の頑固親父だ。
上品でも上流でもなんでも無い家では、しょっちゅう言い争いや荒い言葉が飛び交ってはいても。あったかい家で。
だから。
俺は恵まれてると思う。口には出さないけど。
中学校に進んでもその自己評価は変わらなかった。
馬鹿をやりながら友達とふざけあう日々。成績は中の上。上には上がいても、別にそれでいい。
そんな穏やかな日々を3年も経た頃、彼が、やってきた。
台風、だった。静かだけど、勢力の強い、大型の。
―――うわぁ、お人形だ。
第一印象を今でもしつこく覚えている。転校生、と言われて担任に導かれて入ってきた少し幼い顔の男。
染めていないのに栗色の髪。おとなしそうな、―――男に使っていい言葉なのかは分からないけど―――美人。
黒板に、担任の少々クセのある字で、「英 要」。
苗字、なんて読むんだ? フリガナ振ってよ先生。
ハナブサっていう転校生は何の因果か隣の席で。今となってはその因果に少し感謝している。
あまりにも毛色が違うから、隣の席じゃなかったらきっと話もしなかったかもしれないから。
人種が違うんだ、って思ってた。同じ人間のくせに。
周りよりも幼い顔つきに見えるのに、何か達観したような。でも当たり前のことを知らなかったり。とにかくアンバランスで異質で、異分子だった。
―――これさぁ、ハナブサくんのことなんだって。
そのうち、クラスの女子が、中学生が持っているのが不自然な類の週刊誌を持ち込んできた。
教室の中央あたりで、広げられたそのページには、宗教とか爆発とか神とか呪いとか。普通の生活には絡んでこない単語がたくさんちりばめられていた。
母親が変死して、父親が精神を病んでいて、本人にも変な力があって夢遊病の、子供。まるで漫画みたいな話だ。
何しろクラスメートたちは、異質な転校生ハナブサに戸惑っていたから―――俺もそのひとりで―――その記事に皆妙に納得してしまったのだ。
"ああ、やっぱり普通じゃなかったんだ。"
目立ったいじめなんぞは無かったけれど。あからさまに態度は変わった。なにか見てはならないもの、触れてはならないもの、そんなものがあるような。
よそよそしさ。
そのクラスの温度の変化に、要は従順に適応した。
慣れてるんだと言わんばかりの。
悟ったような、諦めたような、妙に納得したような様子が、なんとなく気持ち悪くて。
戸惑いやためらいや、少しの恐れや怯えが無かったといえば嘘になるけど。
挨拶を、してやることにした。
親切心じゃなかったと思う。その、あまりにも素直に受け入れすぎる態度が癪だったから。困らせてやりたくて。
案の定、びっくりした顔をした。そして、少し困ったように笑って。おはよう、神田くん。
問い質したわけではないけど、確信していることがひとつだけある。
お前嬉しかっただろ、要。絶対そうだろ。
それから。長くなるので割愛するが色々とあって。要ともこんな風に、2年が経った今でも仲良く出来ている。
運がいい。
別に要に、"そういう"過去や、"そういう"力があるからではなくて。特別だからじゃなく。
人のこころの波の揺れ幅がわかる、やさしくてブキヨウな友達を持てたということは、倖せだ。口には出さないけど。
平凡な幸せに恵まれるのは、結構難しいものなのだ。
―――英要って、知ってる?
レンタルビデオショップの前で出会った女子高生が、その友人の名前を口にした。
ものすごく、違和感。
知ってる名前が、知らない口から出るのは、なんだか不思議だ。
「……知ってますけど」
知っているも何も、これから様子を見にゆくところなのだ。なんだか都合が良すぎて、いやな感じだ。
「ほんとに!? じゃあ、連れてって、そいつのとこ」
「はぁ?」
「友達助けると思ってさぁ、ちょっと協力してよ。こっちだってあんまり時間ないんだから」
「ちょ、ちょ、っと待って。おたくさん、誰?」
全く情況が飲み込めない。
詰め寄る勢いの女子高生に、勝利は半歩あとずさった。
何故彼女は要に会いたがるんだ? 助けるって何だ? 誰を? 要?
すると彼女は、えーっと、と少し考え込んだあと、愛想笑いを浮かべてみせる。
「ちょっと事情があってうまく説明できないんだけど、まぁ、怪しいモンじゃないから」
「……」
自分で"怪しくない"と宣言する奴のほうが、実は怪しいという世間の常識を、勿論勝利も知っている。
「とりあえず連れてってよ。途中で説明する……」
「名前ぐらい言えないの。名乗れない奴は信用しないことにしてんだけど」
元々気の長いほうではない。ムッとして言い返した。
「俺も今から要のとこに行くところだけど、正直に言えば。こっちは俺も良く知ってる友達から頼まれてるんだ。よくは分かんないけど、素性分かんない奴のこと、連れて行けない。ちなみに俺は神田勝利17歳」
すると、自称"怪しくない"女子高生は、その細い腕を腰に当てて、深々と溜息をひとつ落とした。
あいつら本当に人と協力するってこと知らないんだから。忌々しいとばかりに吐き出す。
「あんたが頼まれた相手って、坊じゃないの?」
「坊?」
「都佳沙」
え、と思わず口からこぼれた。
また知った名前が知らない口から落ちた。勝利は何度かまばたきをした。
「あたしがさっき電話してたのはね、その叔父貴なわけよ。知ってる? 銀雅」
思わずかくん、と首を前に倒してしまった。会ったことはないが、名前は知っている。
「悪いようにはしないから、だまされたと思って連れてってよ。それとも、もしあたしと喧嘩になった場合、勝つ自信がないぐらいヤワなの?」
腰に片手を当てたまま。灰色のカラーコンタクトを装着した、フルメイクのつよい瞳で上目遣いにじっと見つめられた。
挑戦状、叩きつけられた気分だ。
ムッとする。挑発と分かっていた。分かっていてもムッとするのが挑発ってモンだ。
「何が起こってるのか、あたしなら教えてあげられるけど?」
勝ち誇ったように、女王様の笑みで彼女が言った。そういう笑顔が似合う女だった。
ぐっと言葉に詰まって、勝利は歩き出した。「ついてこいよ」。それは負けの宣言以外のなにものでもない。
「あたし、銀 姫架(ひめか)。よろしくね」
ようやく彼女はそう名乗った。
*
インターホンが鳴った。
反射的に立ち上がってしまってから、意識が戻ってくる。膝に乗せたままだった子機が、硬い音を立てて床に落ちた。
壁をさまよった視線が時計を捉える。9時47分。
(誰だろう)
インターホン用の受話器を見て、ぼんやりと思った。
この家のインターホンは滅多に鳴らない。ときたま訪れる勧誘も、まさかこんな時間にはこないだろう。
それ以外で訪れる人々は決まっているし、彼らはインターホンを押す前にドアを開ける習性がある。
家の主なら尚更、鳴らすはずなんてない。
(カズマじゃ、ないよね)
思いながらも、期待している自分を要は知っている。
インターホンの受話器を取った。
「どちら様、ですか。成瀬は今出かけてるんですけど……」
≪あ。要くん?≫
突然名前を呼ばれた。知らない声に。しかも随分なれなれしくて、舌ったらずで、柄が悪い。
「……どちら様ですか?」
繰り返す。自分でも分かるほど警戒している声音だった。
≪あ! ああ、ごめんごめん。ゴメンナサイ。いきなり不躾だったね。はじめまして夜分にすみません。アガツマと申しますが、お話しできませんかね≫
今度は急に胡散臭いセールスマンのような口調になった。
アガツマ? 記憶の箱をひっくり返してみる。が、聞き覚えはなかった。どういう字を書くんだろう?
≪一馬に頼まれたんだけど、ちょっと話が……≫
そこまでが耳に入った瞬間に、居間から玄関へと駆け出していた。
一馬の名前が出たから相手を全面的に信用した、なんてことはない。そんなに幼稚でも短絡的でも楽観的でもない。
ただ。一馬が今どうしているのか。それを知っているなら聞きたい。
チェーンをかけたまま、ドアを細く押し開く。
まず見えたのは、派手な柄シャツだった。黄色に近い茶色の髪が、夜の闇にぼんやりと浮かび上がる。20代後半ぐらいだろうか?
チンピラのようなその男を、チェーンの限界まで開いた扉の隙間から、伺うように見上げた。
「英要くん? はじめまして。アガツマケースケと申します。はい、これ」
15センチほど開いた扉の隙間から、何か長方形のものが差し込まれて、要は素直に受け取ってしまう。
文庫本、だった。
『メトロノーム』。著者、吾妻珪丞。
アガツマケイスケ。
その名前と、目の前にいる人物とを、不思議そうに見比べる要に、吾妻は苦笑した。
「名刺がね、ないんで。名刺代わりに」
表紙は、灰暗い湖と月と振り子の写真。白抜きされた名前だけがぼんやりと浮かび上がってくるように見えた。
結構名の知れた出版社だ。
「作家さん、なんですか」
「一応、ね」
少し照れたように笑ったあと、吾妻は要の手の中にあるその本の表紙を一枚めくった。
作者紹介。著者近影。
「これで俺が吾妻珪丞という人間だという証明にはなるんじゃないかな。人間性はともかくとして」
示されるままに視点を落とす。少々髪型などが違っているが、確かに目の前の男だ。
「26歳、男。独身。身長は176。スリーサイズは……」
「あの……」
そんなことを知りたいわけではない。けれど吾妻は結構まじめな顔で指折り数えて見せた。
苦手だな、この人。掴み所がなくて。
「大学で、成瀬一馬の先輩やってました」
「え?」
そうやって。
不意打ちで大事なことを言うから。瞬きも忘れて相手の顔を凝視してしまった。
「先輩って言っても、一年半ぐらいだけどね。―――さっき、一馬が俺のマンションに来てさ」
「カズマが!?」
「そう。肩のあたり、怪我してたみたいだけど、大したことはなかったよ」
「それで、カズマは……」
何も言わず吾妻は、三つ折にされた一枚の白い紙を要に差し出した。
ドアチェーンを外して、扉を大きく開け放った。
差し出された紙を受け取る。吾妻が、開いた扉に片足をかけて、ドアが閉まるのを防いだ。
白い紙には、黒いペンで。年の割に几帳面な文字が並んでいた。
―――要。
少し厄介なことになったので、家には戻れない。
お前を巻き込みたくないので、しばらく先輩の世話になってもらいたい。
子ども扱いしているわけじゃないから、分かって欲しい。安全でいてくれたほうが、俺も楽だ。
署名はなかった。けれどこの字を見間違うことはない。
厄介なことって、一体なんだろう? もう一度はじめから短い文面を読み直して、思った。
吾妻に聞こうとしたが、思いとどまる。一馬が吾妻を択んだのは、彼が部外者だからだ。きっと何も知らない。
「あと、これ」
ごそごそとズボンのポケットのあたりをまさぐって、吾妻はもうひとつ、何かを差し出した。
受け取ったのは、掌に収まるぐらいの硬いもの。
「何かあれば、これで君に直接、連絡するって」
掌に、僅かな重み。硬くて冷たい感触。携帯電話。
直接、直通で。つながるもの。
「それで、どうする?」
ぼんやりと掌の中のものを見つめている要に、上から吾妻が穏やかな声で訊いた。
どうする? 見上げると、悪戯を考え付いた子供のような顔と目が合った。なんだか人懐こい。
「俺と来るかい? 君が決めて」
開いた扉に背を預け、吾妻が言った。ポケットから煙草を取り出す。
「俺は君を、無理に連れにきたわけじゃない。君の自由意志は尊重する」
視界の端で、一瞬だけオレンジと青の炎が耀いて、消えた。あとには赤い蛍のような煙草の先の点滅だけが残った。
要は、目の前に広がる見慣れた道路をぼんやりと見つめた。
闇をところどころ侵す街灯と、人家の明かり。門の前の、あまり広いとはいえない道路には、青い乗用車がエンジンをかけたままで停まっていた。
視界に時々、白い煙が混ざった。目に染みる煙だ。
(僕は、どうするべきなんだろう)
思っていたほど大人ではなかった。知っていることも多くはなかった。
一人でもなんでもできるはずが、出来ないことも多くあった。
(僕は今よりもっと、強く、なりたい)
腕っ節ではなく、中身。肉の内の、もろい心。
そのためには。自分の力の限界を、知っておくこと。出来ることと出来ないことを理解すること。
まずはそこからかもしれない。
「あの、吾妻さん……」
「要!!」
近所迷惑なほど大きな声が割って入った。足音が近づいてくる。
「勝利!? どうしたのさ、こんな時間に?」
ここまでたどり着いて、力つきたらしい勝利が、ぐったりと門に体重を預けた。
「どうしたって、お前……」
2段ほどの段差を降りて近づいてくる要が、あまりにもきょとんとしているので、勝利のほうが面食らった。
「お前、危機なんじゃないの?」
門をはさんで要と向かい合った勝利が、そんなことを言う。額には汗が浮かんでいる。
「"キキ"?」
「だってさぁ、都佳沙っちが……」
「ちょっとー! 何考えてんのよ、最悪! 女の子がいるときって、ペースあわせるもんじゃないわけ、フツー!?」
都佳沙が? と聞き返そうとした要の声は、割り込んだ高い声に簡単に引き裂かれた。
思わず要は声の聞こえたほうを見て。(セーラー服だ……)。思った。
両手を腰に当てた仁王立ち。少々キツイ大きな猫目で勝利を睨んでいたのは、スタイルのいい、長い髪の女子高生、だった。
彼女はぎっとにくしみを込めたように勝利を睨み、その隣にいる要を確認して、そして最後に玄関のほうを見て―――。
「誰、あんた」
一層顔つきをけわしくして、言った。
「……はい? 俺?」
あたりを一度見回してから、吾妻は気の抜けた声をあげた。
「他に誰がいるっていうのよ」
玄関のドアにもたれかかったままの吾妻に、女子高生は氷の視線をぶつけた。
カラーコンタクトの入っているらしい灰色のその瞳は、野生のけだもののように鋭い。
「ええと、僕は吾妻と申すしがないモノカキですけども」
気圧されたのか、吾妻のほうが低姿勢で応じる。
「モノカキぃ?」
上から下まで柄の悪い吾妻のいでたちを、訝しげに何度も舐めるように見たあと。
「何でここにいんの?」
至極偉そうな態度で言い放った。
すると、吾妻は女子高生ににっこりと笑って見せてから。
「お互い様。匿名の女子高生」
カウンター。
あたりにはやけに張り詰めた空気が流れる。
この家の住人である要は、勝利と共に、来訪者同士の冷戦をなす術もなく見守った。
「あたしは"銀"よっ! 銀姫架。公立橘高の3年。親戚の兄貴の頼みで英要の様子を見にきたのよッ!」
「銀?」
聞き慣れたその苗字を、思わず要はくりかえした。姫架が、ぱっと吾妻から要に視点を移す。突然見つめられて無意識に身構えてしまう、それぐらいの気迫が彼女にはあった。他を圧倒する、雰囲気。
「そ。ちょっと訳アリで雅兄に頼まれてさ。何ともなくてよかったよ」
「雅さんが?」
ふっと微笑んで、姫架が頷いた。笑うと華やかだった。
「あれ。じゃあ目的は一緒じゃないの」
緊張感のカケラも感じられない声で、突然吾妻がそんなことを言った。
「はぁ?」
不機嫌丸出しの、斜め上がりの声を出して、姫架が吾妻を睨んだ。
「ほらワタシ、可愛い後輩の一馬から頼まれてきたわけだし」
「一馬兄? 本当に?」
「まぁね。信じる信じないはアナタの勝手だけど」
なんでそんな、相手を挑発するようなことを言うんだろう。と要は冷静に考えた。
案の定、姫架は露骨にむっとした顔をした。
「ま、いいわよ。あんたのことなんて。―――で、神田は都佳沙に頼まれたって言ったっけ?」
勝利を指差し、姫架は確認の独白。
そして、なにやら疲れたように溜息をついた。ぱさりと顔にかかった長い髪を、赤いネイルの指で掻き上げる。
「全く、考えることは一緒のくせに相談なんてしないんだからあいつら。三人が三人、別の人間に頼まなくてもいいじゃんか」
どうやら、ここに集まった3人の目的は、同じらしいのだ。
何か複雑な事情が発生しているらしい。それがなにやら、自分にまで影響するかもしれないらしい。
要が今、分かっているのはそれだけだ。
……しかし、姫架の言うとおりだ。三者三様、一気に自分のことを考えたのだろう。
なんだか、かなり甘やかされて、過保護にされているみたいだ。ちょっと恥ずかしい。
「英要」
フルネームで名前を呼ばれて、要は姫架を見た。
呆れられてるんじゃないのかな。もう16の男に3人もの人間が過保護にしている様なんて。格好のいいものじゃない。
「あんた、大事にされてんだね」
少し困ったような顔をして、けれど穏やかな声で姫架が言った。
過保護とか、甘やかされているとか。そういう言葉で言えることを。大事だって。
その言葉を聞いた瞬間、心の中にわだかまった負い目のようなものが、一気に溶けるのを要は感じた。
恥ずかしいと思ったことすら、綺麗に消える。
"大事に"。温かい言葉だ。
姫架の言葉に、要は素直に頷いた。
「とりあえず、ここじゃなんだから俺のマンションにでも引き上げる? 銀サンは事情知ってるみたいだから、教えてもらえたら嬉しいし」
吾妻が、寄りかかっていた扉から体を起こした。支えを失った玄関の扉が、パタン、としずかに閉まる。
「ときに、要くん」
今までの吾妻らしくない、ぴんとした声が聞こえた。思わず背筋が伸びるような声だ。
人懐こい笑みはもう消えていた。
「そこのお友達はともかくとして、俺や銀サンは本当に君の味方かどうかは分からない。証明するものは何もないからね。もしかしたら嘘八百で君を騙してるのかも。―――どうする」
ちょっと、あたしまで一緒にしないでくれる、と姫架が抗議の声を上げた。
その声も、どこかぼんやりと遠い。
大事にされてんだね、と言った姫架の言葉の温度。
"先輩の世話になって欲しい"と書かれた見慣れた文字の手紙。
確証にはならない。それでも自分の直感は信じたかった。
今僕のできることは、自分の身を自分で安全な場所に、置くこと。
「―――信じます」
真っ直ぐに吾妻を見て、要は言った。
2.
夜の闇が、ここでは"うすい"。
ファーストフード店の自動ドアをくぐりぬけて、空を仰いでふと、そう思った。
地上から放たれる、膨大な量の人工の光が、闇を浸食してしまっているのだ。
(気持ち悪いな)
空を見上げ、仁は思った。
あまりにも、自然からかけ離れすぎていて。
本能的な恐怖を呼び起こす闇すら、侵食してしまう。食べてしまえるのだ、人は。
空だろうが、夢だろうが、人の意識だろうが。
雑食過ぎて、気持ち悪い。
「ねぇ仁、帰ろうよ」
空を見上げる背中に、強請るような弱々しい声がして、仁はげんなりと振り返った。
「だから、帰れって言ってんだろ」
振り返った先には、双子の妹が胸にカバンを抱いて、不安そうに仁を見上げている。
「……さっきの電話、誰?」
歩き出そうとした足を止める声。木葉に背を向けたまま、仁はぶっきらぼうに言う。
「帰れって言ってんじゃん」
「じゃあ一緒に帰ろうよ」
聞き分けのない子供のように、木葉がくりかえす。
「用事があるって、言ってるだろ」
「櫛引さんでしょ」
仁の語尾にかぶせるような勢いで、木葉が言った。妙に確信している口調で。
振り切って行こうと踏み出した一歩で、仁はまた立ち止まった。
「櫛引さんだったんでしょ」
少し責めるような口調で、もう一度木葉が言った。
違う、と言おうとした。いくら木葉が食い下がってきても、違う、と言い張ればよかった。
否定し続けて、歩き出してしまえばいいのに。
口も足も、動かなかった。長すぎる沈黙は、肯定と一緒だ。もう遅い。
「なんで仁、全部一人でしようとするの? 私だって、何も出来ないわけじゃないんだもん。お姉ちゃんのこと心配してんの、仁だけじゃないんだから。私だって……」
「俺はお前も心配なんだよ!」
「私だって仁が心配だよ!」
驚いて振り返った。予想だにしない切り返しだった。
同じ日に生まれた妹は、その漆黒の瞳にうっすらと涙を溜めて、睨むように強く、仁を見ていた。
「最近の仁、怖いよ。目つき悪いよ。なんだか、いごこち悪いし、もうやめようよ」
「姉さんの病気が治るまで、やめないって言っただろ」
「じゃあ仁は、お姉ちゃん治すためなら、成瀬って人が死んでも構わないの?」
「木葉……」
がん、と横殴りされたような衝撃に、めまいがした。
分かっていたはずのこと。改めて口で言われると、別だ。
「そういうことでしょ、櫛引さんに協力するって……」
―――僕は、成瀬の夢喰いを、この手にかけたくは、ない。これは僕のエゴだ。
夕方の、銀都佳沙の声が聞こえた。そんなもの、俺だって。
そんなエゴなら、俺にだってある。
「俺には……姉さんのほうが、大事だ」
何を犠牲にしても。
―――奈津の病は、もう手の施しようがない。
(あんたの言ったことなんて、信じるもんか)
胸の内で、腹違いの兄に叫ぶ。何度も。
あんたに、何が分かるっていうんだ。
長く妾の立場のままでい続けた母の気持ち。妾腹と罵られる自分たちの、盾になった姉の気持ちが。
嫡男として育てられたあんたに、分かるもんか。
自分たちにとって、どれほど姉が支えなのか。
三人でなければいけないのだ。幸せになるなら。
姉と木葉と三人でなければ。
意味なんてない。
「他にひとつも、たったひとつも方法、ないのかな」
「問い質す」
「え?」
「俺は今日、絶対にあいつを問い質す。だから会うって、言ったんだ」
櫛引充という男が持っている情報を。
姉を治す方法を。
それさえこの手の内に入れば、もはや彼に協力する義理もない。
俯く仁の、握り締められた右の拳に、不意にぬくもりが触れた。
その温度差に、驚く。触れた他人の指は、熱く感じるほどあたたかかった。
自分の指は、おそろしく冷えていた。
木葉が触れさせた左手が、しっかりと仁の右手を握る。
それは、鋭くとがった何かを、ぎすぎすとしたものを、ゆっくりと溶かしてゆく温度だった。
呆然と、その手を見ている仁に、木葉が言った。
「木葉も行く」
「お前……!」
「行く! それで、櫛引さんと会って、話を聞いて、そしたら……」
驚く仁の右の拳を今度は両手で強く握って、しずかな優しい声で言った。
「一緒に帰ろう」
*
寒い。
どうして、吐き出す息が白くないんだろう? そう思うぐらい。
ベッドの中でこどもみたいに体を丸めているのに。
寒かった。
ざあざあと耳元で水の流れる音がする。
目を閉じると、つめたさが叩きつけるように襲い掛かってくる錯覚。
―――助けて。
空から叩きつけてくる大きな雨粒。雨なのか、氷なのか分からないほど、痛い。
―――葵、助けて。
うねる濁流の間から、白い指が伸ばされる。浮き、沈み、遠ざかる。流される。
目を逸らせずに、遠ざかるその指先を見た。助けて、と伸ばす手に、身動きひとつ取れなかった。
(だってこの岩、滑るんだもん)
苔でぬめる大きな岩に、指先が白くなるほど力を込めてしがみつく。
押し流そうとぶつかってくる荒れ狂った流れに、さらわれないようにするのが精一杯で。
少しでも指を動かしたら、私だって流されてしまう。
―――葵。
途切れ途切れの声が、言った。まるで、責めるみたいに。
無理だよ。私は自分のことだけでいっぱいで。
だって、死にたくないもの。
―――あおい。
茶色の水に、飲まれ、白い指先が、ぽこりと。
水面の下に沈んだ。
『……匠?』
そう言ったつもりだった。名前を呼んだつもりだった。
けれど、寒さと恐怖でふるえて、うまく言葉にならなかった。
葵。
あの日から。耳元で繰り返す匠の声。どうして、見殺しにしたの。
どうして助けてくれなかったの。
「わるくない」
ベッドの中で、胎児のように体を丸めて耳を塞いで。呟く。
私は悪くない。だって、匠を助けようとしていたら、私だって死んでた。
死にたくなかったもの。
「私は、悪くない」
―――悪くないよ。
なだめるように、応じる声があった。バリトンの。
耳を塞いだ指と指の隙間から、もぐりこんでくるような声。
―――それは君の、自己防衛本能だから。人間は咄嗟に、生き残ることを選ぶんだから。それは、罪ではないよ。
先生。せんせい。うわごとのように呼んだ。先生助けて。
匠が毎晩、私の耳元で私を呼ぶの。
がたがた、耳を塞ぐ指が震えた。せわしない呼吸に、嗚咽が混ざる。
―――人間は、生きるために色々なものを犠牲にしている。悪くないよ。君は匠くんに責められるのがつらくて、時々、彼になりきってしまう。大事な弟を犠牲にしたことを、目の当たりにしたから。
先生は私を何度もやさしくなだめてから、頭を撫でる。
―――落ち着いて。
そう言われると、なんだか頭がぼぉっとしてくるの、先生。
―――目を閉じて。楽になるから。
何かの儀式のように私の額に触れる先生の掌は。
やさしくて残酷で、あたたかくて冷たい。
ここちよくて、気持ち悪い。
ぬるま湯につかっているような。
どろどろ、溶けてゆくような。
このまま意識を手放したら、もう何も考えなくてもいいかな。
そんなことを思いながら身をゆだねると、いつも闇がやってくる。
呑まれてしまえば楽だ。
もう何も考えなくてもいい。
3.
「どこへお出かけだったんです」
夜の闇の中から、充は言った。
まるで人目をはばかるかのように巨大な屋敷の裏口へと近づいていた人影は、その声にぴたりと足を止める。
長く続く塀に背を預けていた充は、ゆらりと体を起こし、その相手を見た。
刻は既に夜半過ぎ。人がふらりと出歩くには、少々遅い時間だ。
充と向かい合った相手は、眉間に皺を寄せ、予期せぬ訪問者を見据えた。
「―――汚れたな、櫛引」
その瞳は、醜いものを見下すように細められた。「腐臭がする」
他人の意識に依存しすぎた夢喰いは、堕ちる。
妖(あやかし)に似て、人に害を成すいきものになる。その気配に妖気が混ざるのだ。
嫌悪を如実に語る眼差しを、充は微笑みさえ浮かべて受け止めた。
「それは、貴方もではないのですか」
まるで子供が無邪気に質問するように首をかしげ、充は言った。
「銀の方とお会いだったんですよね? このような刻限まで、一体どのようなお話を?」
それは、問いかけではなかった。確信した上での確認だった。
「銀の分家がもう動きましたね。何故ああも動きが早かったのか。誰かが情報を提供したからだ。―――貴方ですね」
"彼"は黙っていた。その沈黙を肯定と取った充が、薄く笑う。嘲るように。
「大した方だ。この機に乗じて銀の内紛すら手の内で操ろうというのですか。嫡男として本当に申し分ない方ですよ、覚殿」
「何が言いたい」
呉 覚は、目の前に立つ、夢喰いのなりそこないを睨めつけた。
「狂っているなら、あなただ」
口元にだけ、酷薄な笑みを貼り付けて、充は吐き捨てた。
「禁を犯してまで、守りたいのですね。既に約束されているはずの跡取の座を」
「貴様―――」
「まだ安心できませんか、あなたは。義妹(いもうと)をこの屋敷から追い出しても尚」
は、と覚の瞳が見開かれ、充はまた、笑った。
「かわいそうなひとだ」
哀れむように、充はその深い蒼の双眸を閉ざした。
「戯言を! 狂っているのは貴様だ。私の前へ姿を現すなど。私は契約上、お前を殺す権利と義務があるのだぞ!」
すると充は困ったように少し笑ってから、相手を迎えるように両腕を広げて見せた。
「どうぞ」
刹那、覚の背を、何か得体の知れぬつめたいものが這い上がった。
何故この男は笑っているのだろう。穏やかに。
「去れ、目障りだ」
押し殺した声で言い捨て、覚は裏口から屋敷の中へと滑り込んだ。
ばたり、と木戸が大きな音を立てて閉まる。
「……どういうことだよ」
苦笑を漏らす充の背に、動揺を滲ませた声が刺さった。
「どういうことかって、聞いてんだよ櫛引!」
荒々しい足音が近づいてきた。乱暴に右の肩を掴まれ、振り向かされる。
爛、と敵意と憤りに燃えた漆黒の瞳と目が合った。猪突猛進のけもののような、その双眸。
「君が見聞きしたとおり。そして、君の考えたとおりだよ、仁くん」
穏やかに宣告してやると、仁がふと、表情をなくす。
いつも生き生きとしているその顔には、何の感情も浮かんではいなかった。
怒りも、かなしみも。
「嘘……」
仁の心情を代弁するように、少し後ろにぽつりと立ち尽くした木葉がうめいた。何かに縋る代わりに、胸のカバンを強く抱いている。
「追い出したって、なに……?」
セーラー服の肩が、小刻みにふるえていた。
仁の指は、櫛引の肩にかかったまま固まっていた。貼りついたように。
「狂ってる……」
掴んだ肩に爪の痕が残るほどに強く、ぎり、と手に力を込めて、仁が唸った。
「お前も、あいつも……。何もかも、狂ってる」
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