4.契 約
生きるということ。
生き続けるということ。
生き残る、ということ。
それは―――。
1.
PM7:48
―――何も言っていなかったんですね、あの子に。
同じ音が。
耳元で繰り返し鳴っている。
ずっと。さっきから。
同じ声が。
つーつーと、右耳の奥に潜り込んでくる音が、何かのシグナルのようで。
何かの警戒信号にも聞こえた。
耳に押し付けたままの受話器をゆっくりとはずし、黒電話に戻した。ちん、と小さな音が大きく響く。
部屋が死んだように静かだから。
詰めた息を吐き出すと、ため息になった。
胸のすぐ下。胃よりも少し上。が、気持ち悪い。
空腹に似ていて、けれども空腹ではなかった。どろどろと、何か底なしの闇がそこにあるのだろうか。
正体不明のそれには、確かに「極度の焦燥感」が混ざっていた。
受話器の上に乗せたままの右手が、石のように固まっている。
動かなければ。動かなければならない。
分かっているはずなのに、体がうまく……動かない。
(帰らないと)
内側から急かす声がある。
早く帰らないと。戻れなくなる。そんな予感がする。
戻れなくなる? どこへ?
家? それとももっと別な―――。
―――何も言ってなかったんですね。
声が繰り返した。"あの子に"、"何も"。
「くそっ……」
悪態ついでに電話から手を離す。精神的な金縛りが解けた。
すっかりと日は落ちていて、照明を何一つつけていない部屋は闇に飲まれていた。
色の薄いものがぼんやりと浮かび上がるだけで、あとは何も見えない。
見慣れた事務所なのに、まったく別の場所に見えた。
とりあえず、家へ戻ろう。成瀬の本家ではなく。家へ。
ちらりと目線を移し黒電話を見る。連絡を入れたほうがいいだろうか?
―――え? 何で電話してきたの? これから帰るからって? 馬鹿じゃないの。
そうやって僕のこと、いつまでも子ども扱いするのやめてくれる?
時々ここから家に連絡を入れると、ほとほとあきれ返った声でそう返される。
そうだ。連絡している時間があるなら家へ向かったほうがいい。そのほうが早い。
そうと決まれば、と一馬は大股に事務所を横切った。
扉に手をかける。
(本当は、電話なんかで声を聞くのが、少し怖い)
手前にドアを開きながら、ちらりと電話を振り返る。
(要が一体、どんな反応を示すのか、予想もできない)
けれど話を、しなければいけないと思った。面と向かって。ちゃんと。
結末がどんなものであるにしろ。もう後戻りはできないんだから。
闇に包まれた階段を、慣れた感覚だけで降りる。
下には、外には、光があった。
街灯が照らすアスファルト。あと三段、降りきって、建物の隣にある駐車場に向かう。
冴え冴えとした白い街灯の光が、まぶしい。
足早に停めてある車に近づき、キーを差し込む。回すと、がちゃり、という音が聞こえた。
運転席のドアに手をかけて手前に引こうとしたそのとき―――。
急に背後で、何かが動いた。
咄嗟にドアから手を離して振り返った一馬の耳と視界に、ぶん、と何かが風を切る音と。
振り下ろされる"何か"が飛び込んだ。
視界の端で、街灯の白い光がぼやけた。
*
PM7:50
「急の訪問に、このような迅速な対応をいただきまして、ありがたく存じます」
そこは、縦に細長い、広い和室だった。
上座には、現当主銀斎(いつき)を中央に、嫡男の始、雅、都佳沙と並んで座っている。
スーツ姿の雅を除けば、全員が着物姿だった。
都佳沙は、少々窮屈な帯に内心うんざりしながら、まっすぐに前を見ていた。
畳にすれば30畳はあるだろう部屋の、上座とはいえ隅っこのほうに5人。それに向かい合わせるように少し間を置いて、ざっと数えて十ほどの着物姿の人間がこちらを向いて正座している。
皆一様に暗い色合いの着物を纏い、雰囲気は重い。ひしひしと伝わるのは、威圧感なのだろう。
向かい合わせて居並んだ着物姿の人間たちは、ほぼ例外なく「銀」という苗字を持っている。
深々と畳に手をつき、上座側の人間に頭を下げた男が顔を上げる。口元に張り付いた少し卑屈そうな笑みに、都佳沙は嫌悪感もあらわに眉をひそめた。
銀分家のうちで一番力を持っているのが彼、銀康臣(こうじん)。それなりに実力のある男だ。しかし、都佳沙はこの男が嫌いだった。
露骨に本家に対する対抗意識をさらけ出す。けれども口には見え透いた"おべっか"を忘れない。
本人にその気もないのに軽々しく使われる謙譲語や敬語は時に何よりも手ひどい皮肉になる。それを相手もわかっている。
取って代われるものなら、すぐにでも。分家と本家の立場を、入れ替える。
五十代半ばと言ったぐらいの、異様に目元が落ち窪んだ不健康そうな痩躯の男は、その野望を隠そうとすらしない。
今回の一件に関して、都佳沙は彼を、一番警戒していた。
もしも櫛引や呉の動きを知れば、必ず動くだろう。何しろ、本家のやることなすことが気にいらない男だから。
「分家の方々がお揃いで訪ねてきたのだから。こちらも礼儀で返さなくては」
当主の斎―――都佳沙には祖父にあたる―――がぐるりと居並ぶ人々を見渡して言った。決して大きな声ではなかったが、よく通る。
並んだ人々よりも一人分前に座っていた康臣の顔が、一瞬だけぴくりとひくついたのを、都佳沙は見逃さなかった。
当主の威厳は、廃れてはいない。声ひとつで、人を圧することができるのだ。
自分よりも少し前に座る、凛と伸びた祖父の背中を見る。頭髪は白いが、眼光は強い。そこにいるだけで、不安はない。安心できる背中だった。
「そ、それはそれは。本家の皆様がお揃いになってくださるとは、正直思いませんで、少々驚いております。特に―――雅殿が」
まだ半分体を伏せたまま、康臣の目がゆっくりと、都佳沙の反対側の隅に座る雅のほうへ流れた。
ふ、と口元に笑みすら浮かべ、雅はその視線を受け止める。
「まさか。皆様を無視してどこかで遊んでいられるほど、厚顔無恥ではありませんよ。しかしまだまだ礼儀を知らぬのでしょう。康臣殿にご指導頂きたい」
外交用の笑みのすぐ下に、相手を牽制する空気がある。
こういう腹の探り合いは、嫌いだ、と都佳沙は心の中で独白する。
家が。一門が。血を分けた親戚というものが。こんな風な話し方しかできないとは。
「ところで、本日は?」
都佳沙の隣で、父の始が口を開いた。話を進めるのは、嫡男である彼の仕事だ。
本日は、と訊きながらも、都佳沙たちは大体の用件を察知していた。しかし、相手の出方がわからないので、とぼけておく。
「はい、実は」
体を斜めに保ったまま、康臣がなぜか声をひそめる。聞かれてはいけないものなど、この屋敷にはいないというのに。
「櫛引」
勿体つけるように、その苗字だけを告げて言葉を切る。
都佳沙は瞼を伏せた。
(来た)
「潰れたと聞き及んでおりましたが、どうもその生き残りがこの周囲をうろついている様子」
どこからこの話を「聞き及んで」きたのか。都佳沙が気になるのはそこだった。
情報が漏れるのが、早すぎた。
「聞けば、その"夢喰い"の力おぼつかなく、人の記憶を喰うているのだとか。人の記憶を喰うは夢喰いの禁忌」
ぴんと張り詰めた空気が肌で分かる。康臣だけでなく、居並ぶ人々の瞳がこちらに向いているのが分かる。
「その櫛引が、近頃、成瀬殿に接触を試みているのだとか―――」
さらされている。さまざまな目に。その視線がひどく不快だ。
「……危険、なのではありませんか?」
「危険、と申しますと」
始が受けた。
「夢喰いは、先代の夢を食ろうてその力を我が物とします。しかし、他の夢喰いの力も、喰えると言われております」
他の力を喰って、自分の能力を強化することもできるのだと。それは都佳沙も知っていた。
しかしそれには、弊害がある。
「しかし、自らの血族以外の夢喰いの力を得ると、力が強まる代わりにその力は悪となります。ただ、人の夢に干渉するだけで、人の精神を壊してしまうような、凶暴な妖(あやかし)の力と成り果てると―――」
メカニズムは分かっていない。そもそも夢喰いそのものが妖なのだと言う説もある。
「契約では、"裏"は決してそのような力のやり取りを許してはいけない。"力の略奪"を画策し、試みた時点で、契約は執行されねばなりません。つまり、討ち取ると」
表の夢喰い、裏の霊媒。交わす契約のうちのもっとも重要な部分がそれだった。
力の略奪を画策した表を、裏が討つ。―――殺すのだ。
血を、泥をかぶることから、必然的に霊媒の家が「裏」と呼ばれるようになった。
「そして、狙われている側も然り」
予想通りの康臣の言葉に、うっすらと都佳沙は瞼を持ち上げた。
彼は、銀が成瀬と契約を結んでいることが、気に入らないらしい。そして、成瀬の先代宗吾から一馬に代変わりするときに起きた一連のトラブルも、彼は快く思っていないに違いなかった。
「裏の責務として、全力を持って力の略奪は防がなければなりません。ですから―――」
すっと、ようやく康臣が体を起こした。膝に両手を乗せ、凛と背を伸ばし。
「奪われる前に、成瀬に手を下したほうがよくはないかと」
はっ、と無意識のうちに息を呑んでいた。目が見開かれているのが分かる。
まさか、こうも真っ向から申し入れてくるとは思わなかった。―――殺せと。
ちらりと横を盗み見ると、父も雅も一様に言葉を失っているように見えた。祖父の表情は、伺えない。
「……待ってください。こちらが―――成瀬が"力の略奪"を画策しているのならばまだしも、彼は狙われている立場に過ぎない。まず保護という段階を踏んではいけないのですか」
始の言葉に、康臣はすぐには答えなかった。
手を、切りたがっている。
康臣の態度でそれが知れる。彼は銀に、夢喰いは必要ないと、そう言っているのだ。
「………………よろしいでしょう」
しかし、以外にも康臣は始の言葉にうなずいて見せた。確認するように何度も。
ぴり、と何か危険信号のようなものが頭の中を走りぬける。おかしい。これだけ分家の人間を集めてきて乗り込んでおきながら、簡単に引き下がりすぎだ。
しかも、康臣の口元にはなにやら笑みが浮かんでいる。気持ち悪い。
「ならばその保護、すべて分家に任せていただきたい」
「なっ……!」
声を出したのは、反対側の雅だった。しかし、康臣は薄笑いを浮かべたまま、まっすぐに当主である斎を見て、言う。
「その間、雅殿と都佳沙殿には、本家で待機をお願いしたい」
がたり、と音がする。立ち上がったのは雅だった。
「それはっ―――!」
「雅」
掴みかからん勢いの雅を、斎が声だけで制した。雅は何か言いかけたが、硬い父親の表情に口を閉ざし、また座りなおす。
(お祖父様―――)
都佳沙は、信じられない気持ちで祖父の背を斜め後ろから見つめた。
康臣の―――分家の言い分は、雅と都佳沙とをこの家に"謹慎処分"にして足止めし、自分たちに一馬に手を出させろ、と言っているのではないか。
一馬と付き合いの深い雅と都佳沙が出て行っては、彼らの思惑を邪魔しかねないからだ。
彼らは、保護と銘打って何をするかわからない。雅の激昂も当然のこと―――そう思うのに。
"力を奪われそうになったので仕方なく"、と言って、一馬に手をかけることだってありうるのだ。
(なぜ、止めてくださらないのか)
「それでは」
訪れた沈黙を切る、斜め前の祖父の声。
都佳沙は瞬きを忘れてその背を見た。
糸が張り詰めるように、ぴんと張った緊張は、今にも切れそうだ。
しかし、静かな声は迷わずに告げる。
「康臣殿に一任する」
「親父!!」
怒鳴り声を上げ、雅が立ち上がる。
しかし斎は、まるで雅のことなど視界に入らぬような様子で、まっすぐに康臣を見たまま動かなかった。
「お祖父さま……」
気づかぬうちに呼んでいた。信じられずに。
「有難う、ございます」
康臣は、口元にゆがんだ笑みを浮かべたまま、深々と頭を垂れた。
居並んだくらい色の着物姿の群も、何も言わずに倣う。
まるで葬式のようだと思った。
*
PM8:15
「親父! 見損なったぞ俺は!!」
母屋へ続く廊下を歩く斎を、足音荒く雅が追う。
「雅、やめないか」
「兄貴は黙っててくれ! 俺は親父と話を……」
「雅、都佳沙」
とある和室の横でぴたりと足を止め、斎がふたりを呼んだ。
通る声に、思わず雅は黙る。
「来なさい」
つぶやき、斎はそばの障子を開け、その和室に入った。
戸惑い気味に、都佳沙が傍の雅を見上げる。
雅は憮然としたまま甥を見返し、和室へと入っていった。
「康臣の野郎、ああだこうだ理由つけて結局は一馬に手をかける。他人事じゃないぜ、次は本家の危機管理がなってなかったとか言い出して、親父を引き摺り下ろそうとするに決まってる」
既に腰をおろしている斎とテーブルをはさんで向かい合わせに、だらしなく座り込んだ雅は、憤懣やるかたないといった風に吐き出した。
「そんなところだろうな」
淡々とした父親の返答に、雅は一瞬言葉を失う。雅の隣に座ろうとした都佳沙も、目を丸くして祖父を見た。
「……そんなところだろうな、って! 分かってて康臣の好きに……。なんだよ、ご当主は分家が雁首そろえてきたんで怖気づいたのかよ!!」
「雅!」
「兄さん……!」
あまりの言いように、始と都佳沙とが口をはさんだ。
が、斎は目線だけでふたりを制すと、雅に向き直った。
「分家の―――康臣の動き、早すぎたとは思わなんだか、雅」
「あれだけの分家を説き伏せてきたんだ。早過ぎなんてもんじゃない」
「どこから情報を掴んだのだろうな」
懐から煙草を掴み出したまま、雅は黙った。
確かに、情報源が知れない。
「始めに言っておこう。私は一馬を見捨てるつもりは毛頭ない」
煙草を口に銜えたままの雅と、その隣に座る都佳沙とを交互に見て、斎は言う。
「今回の一件、どうも櫛引と成瀬だけの問題とは思えん。情報を辿ってゆけば意外なところに通じるかもしれない。康臣には少々泳いで貰う。調査は始にさせる」
雅は、ちらりと当主の傍に控えた年の離れた兄を見やる。何の反応もないということは、もう二人の間では話は済んでいるようだ。
確かにあの席で自分や都佳沙が動揺して見せたほうが「らしい」のかもしれないが。敵をだますにはまず味方からとも言うし。しかし、気分がいいものではない。
「お前たち二人が自由でいると示しがつかん。なにか知れればすぐにでも謹慎は解く。少々じっとしていてくれ」
雅、都佳沙共に一馬とのつながりは深い。斎の言うことはもっともだと思う。思うのだが……。
「それでも、一馬が安全だってことには、ならないんだろうが」
ようやく煙草に火を点けながら、少し語調を緩めて雅が言う。
「調査は早急にさせる。その間は一馬を信じるよりないだろう」
「信じるって言ってもな……」
「あやつはひとつだけ、強力な護身術を持っているだろうが」
「護身術?」
紫煙を吐き出しながら、雅が父親を見る。斎は表情を少し緩めると。
「私は一馬に教えたことがある。危なくなったら"眠らせろ"とな。あの右手が呼び起こす睡魔に勝てるものはそうそうおるまい。逃げる時間ぐらいは稼げるだろう」
「それは……そうだけど」
それでもまだ納得いかないというように、雅の反応は鈍い。
「一馬は夢喰いとしては弱すぎる。それでも我々は四年前、一馬を助けた。何故だ?」
「何故?」
何故、助けた?
そんなこと一度も考えもしなかった。
助けることが、当然だと思っていたからだ。
疑問など、抱くまでもなく。それが―――。
「身内のようなものだ。一馬は。身内をむざむざ、殺させはせんさ」
穏やかに笑みを浮かべ、斎が立ち上がる。そのまま和室を出て行った。
「……俺は親父に言いくるめられたような気がする」
ぴしゃりと小気味よい音を立てて閉まった障子をしばらく見つめ、雅が短くなった煙草をもみ消す。
「でも今は、おとなしくしておいたほうがいいみたいだね。父さんに任せて」
都佳沙は、向かいに座ったままの始を見る。
そのプレッシャーをかけるような真っ直ぐな息子の視線に、少々困ったように笑い、始も立ち上がる。
「できるだけ早くお前たちを解放するよ」
障子のところまで行き、「ああ」と振り返る。
「家の中では自由にしていてもらってかまわない。ただ、電話は無理だな。"15分後"に、携帯電話を預かりにくる」
「15分後?」
これから軟禁される二人の言葉が重なった。
今ではなくて?
「履歴も見るぞ」
含むように笑って見せ、始は和室を出て行った。
取り残された叔父と甥は顔を見合わせ。
やがてお互いに携帯電話を取り出した。
2.
PM8:20
―――僕を信じてくれないか。
たった今。
目が醒めたような気分だ。
もしかしたら、今の今まで眠っていたのかもしれない。
頭の中でわだかまっていた"もや"が全て吹き払われたようで。
意識がしっかりとしたら、なんだか顔が突っ張っていることに気づいた。
(泣いたままなんだ)
涙の乾いた頬が、なんだか気持ち悪い。
(顔、洗おう)
立ち上がると、周囲は真っ暗だった。電気のひとつもつけずにいた。
ぐるりと居間を見渡すと、ぼんやりと家具が浮かび上がる。
今ならさっきよりももっと、色々なものが見える、気がした。
見ようとしていなかったものも。
すぐ傍に落ちているカバンを拾って、ソファーに乗せる。
襟元のネクタイを引き抜いて、カバンの上に乗せた。
居間の闇をそのままにして、洗面所へ歩き出した。
周囲が暗くても、躓いて転んだりしない。
3年。暮らしてきた場所だから。
(3年は短くない)
見ようとはしなくても、変わりたくないと願っても。
確かに少しずつ、何かは変わっていた。
(ここにいてもいいのかなって、思うようになった)
(僕はここにいる資格があるのかなって)
理由なしで。100%甘やかされているだけでは。足りない。
(僕にも何か、できることが)
与えてもらう代償に、与えるものが。ないと。
ギブアンドテイク、成立しないから。
負い目になる。苦しくなる。
僕はまだ子供だけど。13歳のままじゃなくて。
何かの役に立ちたいと思うのは。
重みを分けてほしいと思うのは。
驕り、なんだろうか?
洗面台の前に立って、青の蛇口をひねる。少しぬるい水。
手ですくって、顔に浴びせる。顔に触れたら、案外冷たかった。
指先が少し、ふるえる。
―――要。私は、とても怖いのだよ。
声にふと、顔を洗う手を止める。少しふるえた声。
『お前に触れるのが、本当はまだ、まだとても怖いのだよ』
水が流れる音が続いている。耳鳴りのように。
『お前をまた傷つけるんじゃないかと。そう思うと、息が詰まるほど怖いんだ。要』
(それでも)
まだ濡れた手で自分の右腕に触れて、思う。思い出す。
ぬくもりを。
(触れてくれる手が、ある)
この手に、腕に。戸惑いながら。震える、父親の手。
昔は、暖かいなんて、思わなかったのに。触れてほしいなんて、思わなかったのに。
目をそらしていても。
変わりたくないと思っていても。確実に。
全ては変わり続けていた。
暗闇も怖くなくなった。(前は電気なしでは眠れなかったのに)
意味もなく泣いたりしなくなった。(暴れることはしょっちゅうだったのに)
もう、闇の中に放り出されても、あの頃のように取り乱したりしない。
呪文のように、繰り返したりしない。
そう。闇に出会うたび、呪文のように繰り返した。溶けてゆかないように。自分がなくならないように。
―――死にたくない。
いつだったのか、覚えていないけれど。その言葉は。
―――やっぱり死にたくないよ。
その言葉だけは覚えている。おぼろげな、3年前の記憶の中で。その言葉だけは。
まだ水に濡れた顔を鏡に映す。薄闇の中、ぼんやりと浮かび上がる、少しは大人になった顔。
死にたくないと、繰り返して。
"生きたい"と、願って。
年月を重ねてきた。
生きてゆくということは、変わってゆくということ。
年齢、姿かたち、こころ。変化し続けてゆくということ。
「僕は何も、知らなくなんか、ないよ」
鏡の中の自分に言い聞かせるように。つぶやく。
タオルで顔を拭いて、踵を返した。居間へ。
確かに知らないことは多くて。
本当に理解なんて出来ていないのかもしれない。
だけど、もう闇は怖くなくて。その先に朝がやってくるのを知っていて。
3年は、無駄なんかじゃないから。
―――僕を信じてくれないか。
都佳沙の言葉で目が醒めた。
そうなんだ。簡単なことなんだ。
僕は知ってるんだ。
信じることを。
それは簡単で、とても難しいことだけど。
理解なら、この先いつだって出来るんだ。でも。
信じることをやめたら、終わりだ。
嫌いになんて、ならないよ。
なれないよ。そうでなきゃ、3年も、一緒になんて暮らさないよ。
居間に入り、電気を点けた。刺すような光が天井から降ってくる。まぶしさに一瞬だけ、目を細めた。
真っ直ぐに居間を横切って、電話の前に立つ。子機を手にとって、慣れた携帯電話の番号を押した。
今すぐ、話がしたいと思った。
耳元で呼び出し音が鳴っている。心臓がすごくうるさい。子機を持つ手が震える―――。
しかし、何コール待っても、相手は出なかった。
一度切り、何秒間か考える。
普段ならあきらめるところなのに。
今。
どうしても今、話したかった。
どんな話でもいい。
こんなに話をしないのは、もしかしたら初めてかもしれない。妙な焦りがわだかまっている。胸の奥で。
握った子機に、登録してある番号を探し始める。
あって欲しい。でもなければいい。震える指と、正反対の方向にゆれる心と。
『成瀬・本宅』
探り当てた番号に、ごくりと息を呑む。
かけたことなんて、一度もない。それどころか3年間この家にいながら、成瀬の本家のことは何一つ知らない。
落ち着きなく、時計なんかを確かめる。8時30分。まだ、まだ大丈夫だ。
どっどっと、左胸の奥で心臓が煩く鳴り出した。
知らない相手に電話をかけるのはすごく苦手だし……。でも。だけど……。
通話ボタンを押した。
押し当てた右耳の鼓膜に響くように、一回、二回、呼び出し音が鳴る。
切ってしまいたいような緊張。出て欲しくて、出て欲しくない……。
三回、四回……。十回で誰も出なかったら切ろう。
五回。ぷつり。
≪はい。成瀬でございます≫
耳元に知らない男のひとの声。咄嗟に声が出ない。
切ってしまおうかと思う。
鼓動、煩い。
「あ、あの……」
何とか声を絞り出した。ここまで来たら、もう戻らない。
「英といいます。カズマは―――」
深呼吸をひとつ。左胸に手を当てて、ゆっくりと。
「いえ、"一馬さん"は、いらっしゃいますか」
確実に。
全ては変わり続けていたんだ。
――― 一緒にいこう。
あの日から。
3.
PM8:35
ぽつん、ぽつんと。
決して馴れ合えない間隔で。闇を侵す街灯が、ほんのりとした光を放ちながら頼りなさげに立っている。
寂しそう、と思ってみたところで、街灯に感情なんかあるわけなくて。ものを擬人化する人間様お得意の癖がなせる技なんだけど。
(……やけに文学的な今日の俺)
いつもとは違う道のりをテクテク歩きながら、神田勝利は思う。国語、べつに好きなわけじゃないけど。
日はとっぷりと暮れて、もうずいぶん経っている。結局勝利が学校を出たのは8時過ぎだ。隣のクラスの看板のペンキ塗りを手伝わされていたのだ。
任せていいのか、他クラスの生徒に。
そうは思いつつもしっかりと手抜きなしで塗ってしまう自分のお人好し加減に、ちょっと呆れる。……でもそんな自分もちょっと好きだ。
そんなお人好し勝利がいつもとは別の道を歩いているのには、少しばかり事情というか、理由がある。
5分前のことだ。ケータイが鳴った。道端でルパンのテーマが煩く鳴り出す。
慌てて、相手が誰かも確認せずに出てしまった。
≪もしもし、突然ごめん≫
ええっ、嘘!? 思ってしまった。友達は友達だけど、電話を掛け合うような仲でもない。
『つ、都佳沙っち、どういう風の吹き回し?』
≪ちょっと勝利にね、お願いがあって≫
道端でボーゼンと立ち尽くして聞き入ってしまう。何しろレアな電話だから。
銀都佳沙の携帯電話というものは、一般高校生のソレとは用途が違う。彼には立派な副業があって、その連絡用だから。電話やらメールやらを頻繁にやるクチではない。(もしそうだとしたらちょっと怖いし)
その彼が、その携帯電話で、電話をかけてきた。ちょっと普通じゃない。
ピンとくる。
≪勝利今、どこにいる?≫
『今? 学校出て少し。外にいる』
≪じゃあ、ちょうど良かった。これから一馬さんの―――要の家まで行ける?≫
『要の?』
≪そう。時間がなくて、説明していられないんだけど。要のこと、お願いしたいんだ。もしよければ勝利の家に泊めてもらえれば有難いんだけど……≫
説明なしなので、勝利には何がなんだかまったくわからない。伸びた黒い前髪をくっと引っ張る。
『……何か、あるんだ?』
携帯電話の向こうで、頷く気配。
『一馬さんが今いないことにも、関係あるんだ?』
≪うん。片がついたら説明するけど、要がひとりでいると、ちょっと―――危ないんだ≫
という経緯で、勝利は慣れぬ夜道をテクテク歩いているのだが。
(何せ、数えるほどしか行ったことないからなぁ……)
実は迷っていた。
「もう一本、向こうだったかなぁ……」
立ち止まって、ひとりごちる。あたりを見回しても、見覚えがあるような、ないような……。
「とりあえず、大通りに出てみよう」
何か思い出すかもしれないし。
右手の方から車の音がひっきりなしに聞こえてくる。そちらにおそらく大通りがあるのだろう。
ほの暗い道に足を踏み入れる。都佳沙のいったことを思い出す。何が起こってるのか……わからないけど。
「ちょっと、それ、マジで言ってんの!?」
大通りに出た瞬間、突然怒鳴り声のようなものが聞こえてきて、思わず勝利は立ち止まった。
右手側に、おぼろげにだが見覚えのあるレンタルビデオショップが見える。そこだけが異様に明るかった。ああ、ここからだったら道、分かるかも……。
「はぁ? 何ソレ。バッカじゃないの? 信じらんない」
とげとげしい声は、その光のあたりから聞こえてくる。
ビデオ店の前に座り込んで、セーラー服に長い茶髪の、いわゆる"女子高生"という人種が、携帯電話に向かって怒鳴りつけている。
パッと見た感じ、かなり美人さんのようにも見える。
「そりゃ……そうだけどさ。うん……。えぇ!? ここで好きにしていいって、言うかなぁ普通!? 決まってるじゃんか。……でも、今度買い物に付き合って貰うからねっ!!」
ぶちっ、と音がするような荒々しさで通話を切り、勢いよく"女子高生"が立ち上がった。
くるり、と彼女がこちらを向いて初めて、自分が知らぬ間に彼女を凝視していたことに気づいた。細い眉が不快そうにひそめられている。
やばい。
ぱこん、と携帯電話を折りたたんで、勝利のほうへ一歩踏み出す。
「ちょっと、あんたさ」
「わ、ごめんなさい! 別に悪気があって見てたわけじゃ……」
「その制服、修恵の高等部でしょ」
「は?」
すらりと華奢で背が高い女が、肩にカバンを引っ掛けたまま目の前に立っていた。
「何年?」
はげかけたマニキュアを気にするように、右手の爪を見ながら、その女子高生が言う。
「はぁ?」
先程からまるで言葉を忘れてしまったみたいだ。……そもそもなんで彼女と話をしているんだ?
「何年生かって、聞いてんの」
「2年……だけど」
「マジで!? ラッキー」
「え……?」
「あんたさ」
吹く風になぶられる髪を押さえながら、彼女が言った。
「英要って、知ってる?」
*
諸行無常。諸法無我。一切皆苦。
「あかりもつけずに、暗いじゃないか」
扉が開く音に、出窓に腰掛けていて空を見ていた女がゆるく振り向く。
ちょうど扉を閉めたその人影は、黒をその身に纏い、周囲の闇と同化して見えた。
ただ、冴え冴えと蒼の双眸だけが、こちらを見ていることが分かる。
「……何をしに来たの?」
その蒼から目を逸らすように、再び窓の外へ視線を移す。
「何を? つれない訊き方だな。君と僕は、まだ賭けの途中じゃないか」
櫛引充は、部屋の中央にぽつんとあるベッドを横切り、扉と向かい合わせる位置の出窓へ寄った。
「具合はどうだい?」
「……何も、変わらないわ」
充の方を見ようともせずに、呉奈津は短く答える。
「変わるはずがないってことを、貴方が一番知っているんじゃないの? 私は止まったままよ。ずっと……」
良くもならなければ、悪くもならない。
安定? 永遠? 単調な、平坦な。変わらない、道。
「仁と木葉に、何を言ったの」
「ここへは帰ってきていないのか」
「もう二日目になるわ。心配させないつもりなんでしょうけど、電話しかよこさないから……」
背の真ん中あたりまである黒髪を流したまま、奈津は硝子に触れる。
掌の内側に、冷たさ。
ちいさな月が見えた。
「君は、僕の傍にいれば死ぬことはない」
背に流れる黒髪に指をからませ、充が言う。
「……生き残りたいと、思ったことは本当なの。あのときは、死にたくないと、思った」
髪をからめとる指など構いもせず、奈津は目を細める。
視界の中でちいさな月が歪んだ。
「でも今、私は自分が生きているのか、分からない」
変化のない日々。ただ繰り返される朝と夜。
時間は果たして、流れているのか?
「だんだんと、色々なことが分からなくなってきた。貴方のことも……」
「"賭け"の終わりが、見えたかい?」
―――賭けをしましょう。私と。
言い出したのは、ほかでもない彼女だった。
賭けるものは互いにひとつ。ひとつだけ。
笑うように呟く充に奈津は答えず、ただゆるりと首を横に振る。
充の手から黒の髪が逃げた。
「僕は、生き残るつもりでいる。何を犠牲にしたとしても」
髪の逃れていった右手を見つめ、まるで独白のように。
「それを赦すのか拒むのか、それが、君の出すべき答えだ」
それがすなわち、賭けの答えにもなるのだろう。
生き残ったほうが勝ちだ。
*
―――PM9:18
子機をまだ、握り締めたままでいる。
電話はもうとっくに終わっていた。
握り締めすぎて、プラスチックがぬるい。
―――英……。ああ、要様ですか。
穏やかな男の声が、知らない声が、自分の名前を呼んだ。
―――ああ、申し訳ございません。なれなれしくお呼びしてしまって。私は三石と申します。
三石……さん。
―――成瀬の家にもうずっと厄介になっております。一馬様がお生まれになる前から。要様のことも色々伺っておりましたので、つい知った気になって……。
生まれる前。口の中で繰り返した。なんだか不思議な気分だ。
21歳からしか知らないから。
カズマの子供の頃なんて、想像できない。
―――ですが……。
受話器の向こう側で三石が言いよどんだ。
今までの親しみやすい声が、また知らない声に戻った。
何だろう、この、背筋にくる悪寒……。
両手で、子機を握り締めたまま。
ソファーに座っている。
どうすればいいか、分からない。
エレベーターでずっと下降を続けているような、きもちわるい感覚。
不安。ざわざわする。吐きそう……。
携帯電話は、つながらない。
何度かけても―――留守番電話サービスセンターです―――食い違った場所に通じる。
―――まだ、お戻りになられていませんか、一馬様は。
一体、何が起こっているのだろう……?
―――お帰りになると、夕方に本家を出られたのですが―――……。
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