2.盲 信



―――僕はわけもなく信じていた。



1.

 明るい。
 目蓋の裏に感じたその光に、うっすらと瞳を開く。瞬間、光の矢が真っ直ぐに目を刺して、慌てて再び目蓋を閉じた。
 痛い。目もそうだけど、なんだか肩とか、背中とか―――。
 もう一度、今度はそろそろと目蓋を押し上げ、辺りを見渡した。
 テーブルが見える。椅子が4脚と、その向こうに台所のカウンター……。
「えっ!?」
 がばりと体を起こした。ここは居間じゃないのか!?
 自分が今まで寝ていたところを見て、要は愕然とした。居間のソファーだ。
 ぺたぺた体に触れて見ると、制服とワイシャツのままだ。ソファーに投げ出しておいた鞄と荷物は無残に床に転がり落ち、プリント類が散乱している。
 少し離れた場所にあるテーブルの上には、買ってきたまま手もつけていないコンビニの袋が乗っていた。
 いつの間に眠ってしまったんだろう? まず思ったのはそれだった。
 それよりも、どうやって帰ってきたのか。要はそれすら、覚えていなかった。
 近くのコンビニに買い物に行って、それから……。
「あ……」
 思わず声が漏れた。体の内側から冷たいものが体中に一気に広がる。
 コンビニを出てそこで、人に会った。そう、人に会ったんだ。

『要くん、久しぶりだね。元気そうで何よりだ』

 人を安心させるような笑顔を浮かべて、相手は言った。
 櫛引充。
 頭の中でその名前がぐるぐると何度も回った。要はそこに立ち尽くしたまま、瞬きも忘れて目の前の男を見ていた。
 もう二度と会うことはないと、会いたくないと思っていたのに。
『どうして……』
 それ以上言葉が出てこなかった。
『ああ、もうこんな時間だね。葵ちゃん、送っていくよ。―――要くん。それじゃあまた』
 それじゃあまた。
 少女の肩を親しげに抱いて、傍の車に乗り込む。その車が見えなくなるまで、要はそこに立ち尽くしていた。棒の様に。
 足がすくんで、一歩も動けなかった。少しでも力が抜けたら、またそこにぺたりと座り込んでしまいそうだった。

 そして、気がついたら"こう"だ。おそらくぼんやりとしながらも家までは帰ってきて、そのままばたりとソファーに倒れこみ、力尽きたのだろう。
 櫛引充に会った。改めて心の中でそう呟いてみる。
 ざわっと体を寒気が通り抜けて、要は自分の腕をさすった。鳥肌が立っている。
 カーテンを引くことも忘れた窓から差し込んでくる朝の光は、今日も夏を引きずって暑くなることを予告するように眩しいのに。
("また"って、一体何)
 震えが止まらない。寒いわけでもないのに、歯の根が鳴った。
 なんで今更? なんで今? タイミングが良すぎる。

―――何言ってんの。僕もう16なんだけど。数日なんでしょ? 平気だよ、ひとりでも。

 嘘だ。嘘だった。ちっとも平気なんかじゃない。
 怖い。あの男は怖い。怖くてたまらない。
 温厚のようで、全てを見透かすようなあの瞳。見つめられた瞬間、石化したように動けなくなってしまった。息すら忘れた。
 体中が凍りになったように冷たくてたまらなくて……。
 一馬に平気だと言ったのは、半分意地だった。
 今回これで何事もなければ、きっともう少し、ひとりでも何かできるという自信になると、そんなことも思っていたのに。
 要は、自分を守るように自分を強く抱いた。
 まだ震えは止まらない。


            *


「お前今日も学校休む気か」
「そんなことを言っている場合じゃないし」
 成瀬の家で一晩を明かし、銀の本宅へ戻る車内。もうとっくに登校時間は過ぎていた。そもそも都佳沙は制服ですらない。
 運転席の雅は、そっけない甥の言葉に深々と溜息をついた。
「お前なぁ……」
「昨日は本当に、悪かったと思ってる」
 俯いたまま、都佳沙がぽつりと言った。お小言を言ってやろうと思っていた雅は、その様子に出かけた文句を飲み込んだ。
「我儘を言って連れてきてもらった挙句にあの態度だからね。自分でも反省してるよ」
「……確かに、お前らしからぬ行動だったな」
 都佳沙は元々の性格もそうなのだが、銀の当主たるように教育を受けていているため、滅多に感情を表に出さない。
 雅に言わせれば、上手く感情を表現できずに、どう言ったものか考えているうちに面倒くさくなって黙ってしまう、ということらしいのだが。
「呉の態度が気に入らなくて」
 直球で都佳沙は本音を投げ出した。
 ほらな、本性が出た。と、煙草に火を点けながら雅は心の中で呟いた。
 感情を表に出さないからといって、その人間が温厚だとは限らないのである。
 大抵は外に感情を出さない分、内側では色々考えているもので、都佳沙もそのひとりに数えて良さそうだ。
 なまじ頭の回転が速い分、都佳沙の分析と評価は容赦がない。自分にも厳しいが、他人にもめっぽう厳しいのがこの甥だ。
 こいつを本気で敵には回したくない、と雅は時々思う。
 今のところ、向こうも容赦してくれるので、言い合いになってものらりくらりとふざけたことを言って逃れられるが、本気で恨まれたりしたら末代までたたられそうだ。それが出来る力を持っている分、たちも悪い。……口には出さないが。
「だって、ふざけていると思わない? 巧妙に姿を隠した、だなんて。ここ数年この近くの押切あかりさんの家に頻繁に出入りしていたんだよ、しかも本名で。それなのに見つからなかった、なんて、探そうとしなかった証拠じゃないか」
「都佳沙……」
「本当のことを言っているだけだよ。……そう言えば、ちょっと観察してみたけど、当主の泰久殿は、もう殆ど力が無いね。覇気も無い。よく当主をやってられるよ」
「今、呉の実権を握っているのは長男の覚殿だろう。一目瞭然だ」
 ああ、あのひと。と呟いて、都佳沙は少し黙った。今までの毒舌が嘘のように。
 車の窓を少し開けて、外を見る。無言で煙草がけむい、と言っているらしい。
「どうかしたか」
「あのひとには正直なところ、少し気圧された」
 言って、外を見る都佳沙は少し悔しそうにも見えた。
 当たり前だろう。相手はお前より一回りぐらい年上なんだ、と言ってやろうとしたが、やめた。
 プライドの高い彼は、年齢など関係ないとはねつけるんだろうから。
「力も強い。だけど酷く冷たい感じがする力だった。……僕も外から見れば、あんな感じかな」
―――都佳沙殿は融通が効かぬ。
 耳にタコが出来るほどに囁かれてきた言葉を思い出して、都佳沙は苦笑した。
 銀は大きな家だ。都佳沙や雅が属する宗家から始まって、たくさんの分家がある。
 何の因果か、宗家の跡取に生まれた都佳沙は、それに見合うようにと教育され、自らもそうなろうと努めてきた。
 毒舌は元々だが、それも極力外へは出さないように。力を高めることも忘れず、常に公正な判断を。
 繰り返すうちに囁かれるようになったのだ。都佳沙には融通が効かぬと。
 今では少しは温厚になったとは思っているが、まだ冷たい、だろうか?
 都佳沙は最近、殊にそれを気にしている。その様子には雅も気づいていた。
 ……変なことを言った、忘れて、と都佳沙は苦笑してその話を打ち切る。
「兄さんは、どう思うの」
 雅が煙草を吸い終えたせいか、都佳沙は窓を閉めた。どうやら本当に煙たかったらしい。
「どう?」
「"櫛引"の目的は、本当に一馬さんだと思う?」
 車の外から視線を雅に戻して、都佳沙はうかがうような目をする。それに雅は無言で応えた。……肯定を。
「……僕もそう思う。だから尚更、急ぎたいと思うの、分かってくれるだろう? 僕だって、学校をさぼりたくて我儘言ってるわけじゃないんだ」
「それはそうだけどな……」
「もしも櫛引の目的が僕たちが考えている通りなら、長引いて周囲に知れたら、分家が出てくるよ。"契約"について言い出す。それは嫌なんだ」
「都佳沙……。でもな、俺たちに出来ることなんて限られてるんだぞ」
「それでもっ……」
 やりきれないような表情で、都佳沙はその日初めて声を荒げた。
 諭すような雅の視線に耐えかねて、ふいっと窓の外に顔をそらす。
「じっとしてなんか、いられないじゃないか」


            *


「もうすぐ、紅葉が色着き始めますわ」
 中庭に降り、ぼんやりとしてたところで、屋敷のほうから声がかかった。
 振り向くと、縁側に根岸春子がいる。
「早うございますね。昔から朝は苦手でいらっしゃったのに」
「春子さん、俺ももう24になりますよ」
「そうですわね。もう坊ちゃまとはお呼び出来ませんわね」
 口元に苦笑を浮かべて春子が言った。
 老けたな。幼い頃から見知った家政婦を見て、一馬はそう思った。
「顔つきもすっかり大人になってしまわれて。春子は一瞬目を疑いましたよ」
 会話の端々に感じる空白。四年の歳月。決して埋まることはない。
 そのすきまを実感するたび、一馬は苦笑した。指先に電気を感じるほどのちいさな痛み。
「久しく坊ちゃまがお戻りになると聞いて、春子は柄にも無く緊張いたしましたよ。お恥ずかしい話ですが、昨日は良く眠れませんで……」
 春子は、着物の裾を目頭に当てた。すみませんつい、と断ってから、まだ泣きそうな顔で一馬を見る。
「嬉しゅうございます。……もう二度と、屋敷の敷居を跨いでは下さらないのではないかと思うておりました。春子は一馬様がお生まれになった時から世話をさせていただいております。もう二度とお会いできないのではと思うと切のうて、今でも一馬様が家を出た日の朝のことを忘れることが出来ずにおりました」
「春子さん……」
「分かっております。今回の滞在も一時ではございましょう。ですが良いのです、今までの四年間は一度も無かったことがこうして起こったのです。気が楽になりましたわ。どうぞ坊ちゃまはお好きなように。ただ、成瀬の家はいつでもお待ちしています。それを時折思い出してくだされば」
「ごめん、春子さん……」
 言いかけた一馬を、春子は小さく首を振ることで制した。
「では私は、朝餉の用意がございますので。少し庭で遊ばれたら、お戻りになってくださいまし」
 昔とちっとも変わらない明るい笑顔でそう言われては、一馬も黙るしかない。
 ぱたぱたと春子の足音が縁側から遠退く。
 成瀬の家は暖かい。そのやさしさに甘え、いつまでも逃げているのは自分だった。申し訳なくて自然と頭が下がる。

―――お父さん。
 ぐるりと辺りを見渡せば、少し離れた場所に池が見えた。
 ざっと土を踏んでそこへ近づけば、ぱしゃり、と池の鯉が音を立てる。
―――お父さん何してるの。
 餌をやるわけでも無いのに池の傍に佇む父の姿を良く覚えている。思い返せば、あれは仕事のあとだったのだろう。
―――何も。ただ、水面を見ていた。
 ゆっくりと振り返る父の瞳は、濃紺。夢を喰らう者の瞳。
――― 一馬。
 名を呼ばれ、水面から父の方へ顔を上げる。すると、手が下りてきて頭に乗った。
―――背が少し、伸びたようだな。
 その言葉を聞いて、無邪気に喜んだのを覚えている。
―――分かる!? 去年よりも5センチ伸びたんだ。
 ああ、と頷いたあと、父は少し寂しそうに目を伏せた。
―――あまり早く、大きくなってくれるな。
 独白のように吐き出す。溜息混じりに。
 え、と訊き返したが、父は一言。
―――泣くんではないよ。一馬。


 父は物静かな人だった。それでも自分は愛されていたと、一馬は思う。
 言葉の端々、態度の端々に、やさしさを感じた。成瀬の家全体に流れているような、穏やかで押し付けの無いやさしさ。
 木漏れ日のような。
 やさしすぎて。穏やかすぎて。気づかなかった。
 この家を取り巻く、どうしようもない哀しさ。寂しさ。暗さ。
 知らなかった。故に傷は大きかった。
 生きていくこと自体が苦痛で、どうしようもないほど。

 一馬は、左腕の内側を見た。
 手首にうっすらと、線のようなものが残っている。二十から二十一の一年間。銀本家にいたときに切った傷だった。
―――ふざけんなっ!!
 この傷を見るたびに、必ず一緒に思い出されるものがある。雅の怒鳴り声だ。
 銀本家の奥深く。鍵のついた特殊な和室。その畳に、思いっきり殴り倒された。
―――甘えるのもいい加減にしろよ!!
―――雅、やめろ。
―――兄貴は黙ってろ。俺はもうこいつに、はっきり言っておかなきゃ気が済まないんだ!
 後ろから始に羽交い絞めにされながらも、雅は叫んだ。畳に力なく蹲って起き上がれない一馬に向かって。
―――お前は教えられなかったって言うけどな、一馬! お前に夢喰いのことを教えないでくれって言ったのは、宗吾(シュウゴ)おじさんだぞ!?
 宗吾。父の名を聞いて、一馬は口唇を噛む。畳についた左手の下に、赤い池が出来た。
 自分で切った傷。
―――もしそれを教えれば、お前が気にして家を出るかもしれないから、黙っててくれって! 頭まで下げて!!
―――雅っ!
 始の腕を振り払って、雅は一馬の左手を掴んだ。ぐっと引きずり上げる。溢れ出した血が滴って、雅の手、服を汚した。
―――そうまでして、宗吾おじさんはお前を生かしてくれた。違うか!?
 一馬は力ない瞳で目の前に立つ雅を見上げた。雅が掴み上げた手から生暖かいものが腕を伝って落ちてくる。
 始はそれ以上制止しようとはせず、少し離れたところに立っていた。
―――お前が、今垂れ流してるこの血はな……。
 嗚咽を押し殺す声で雅が言った。日の差さない薄暗い部屋の中で、雅の目元がかすかに光った。
―――宗吾おじさんだけじゃない、たくさんの人間が守って、継いできた血なんだ。
 涙をいっぱいに湛えた瞳で一馬を見下ろし、雅は吐き出すように言う。
―――お前だけが辛い思いをしたんじゃない。成瀬に関わった全ての人の生命、背負って死ぬ覚悟があるんなら、さっさと死ね!! その覚悟も出来ねぇんなら、死のうなんて思うな!
 叫んで、雅は掴んだ腕を放り出した。ずるりとそのまま畳に崩れ落ちる一瞬、一馬は確かに見た。
 一筋だけ雅が落とした涙を。


「父さん」
 池の水面を見下ろして、一馬は呼んだ。
 ぱちゃりと水面を波立たせて、餌を求めるように鯉が寄ってくる。
「俺は我儘だ。まだ……」
 貪欲に口を開け、鯉が顔を出した。貪る何かを探すように。

 まだ痛む傷を抱えている。
 きっと癒されることはないだろう。
 周りがどんなにやさしくしてくれているのか。恵まれているのか。知っていても。
 たとえ、誰が。貴方が。許してくれたとしても。

「まだ俺は、自分を許せない―――」



2.

 賭けをしましょう。

 マンションの一室のベランダから外を眺めていると、ふっと女の声が耳元を擽って消えていった。
 その余韻を楽しむようにゆっくりと目を閉じる。頬を撫でる風がまだ少し生ぬるい。

―――食べてもいいわ。その代わり、約束して。
 白い手を伸べて、泣きながら貴女は言った。
―――生き延びて。必ず。
 頷いてその手を取った。悪魔に魂を売ると、知っていて、喰った。

 姉さん。成瀬一馬を見ていると、どうしても貴女を思い出します。
 貴女と同じ理由で自らを責めている。
 貴女が、私を生かすと同時に逃げたのだということに、私は気づいています。
 貴女の心に、その力は重すぎた。人を喰らって生きてゆけるほど、強くなかったのでしょう。
 私にその力を残して、逃げたかったことを、私は知っていた。それでも。
 苦しみや痛みを背負うことになろうとも、私は生きたかった。貴女を踏みつけても。
 空。
 貴女を屠ってでも。

「僕は生きてるよ姉さん。まだ―――」
 まだ。


「先生」
 声がして、充は部屋の方を振り返った。
 丁度扉を開けて、ショートカットの痩せた少女が入ってきたところだった。
「葵ちゃん」
「もう、だから違うって言ってるのに。僕は葵じゃないよ」
 憮然と少女は言った。少しぶっきらぼうな、男のような言い方で。
「ああそうだったね、ごめん。"匠くん"」
 そう呼び直すと、少女は満足したようにふっと笑った。

 少女は水ノ瀬葵(ミズノセ アオイ)。今年で14になる。
 3ヶ月ほど前、一緒に川に落ちた双子の弟、匠(タクミ)の死を認められず、自分を匠だと思い込んでいる。
 事故の遭った数日後、ショックで寝込んでいた葵が突然起きてきた。
 母親はその姿を見て、一瞬喜んだが、すぐに異変に気づいた。
 長く伸ばしていた髪を、自分でばっさりと切った後だったのだ。

「匠くん、今日のカウンセリング、早めに切り上げてもいいかな?」
「……いいけど。どうして?」
「ちょっと、用事があるんだ」
 微笑して、充は葵に座るように促した。


            *


 呉仁はひたすら不機嫌だった。
 何もかもが上手くゆかない。
 教室の、窓際後ろから2番目の机に頬杖をついて座り、いらいらと何度か足を揺らす。
 霊媒の一族である呉。その表であった夢喰いの家「櫛引」が崩れたのは、もう5年近く前になる。
 それ以前から病に臥せっていた姉奈津が、櫛引充を庇うように家を出たことが発端になる。
 はじめは、療養という名で奈津がひとり、呉の家を出た。
 仁と、双子の妹木葉は、高校に上がると同時にその姉を頼って家を出たのだ。そのとき初めて仁は、奈津が充と連絡を取っていたことを知った。
 仁と木葉にとって、奈津は唯一頼れる肉親だった。父親と、兄とは、昔から馬が合わない。
 特に長兄である覚とは母親が違うせいもあって、その溝は深い。

 奈津と仁、木葉は後妻の子である。母親は、呉の前妻が病死する前から泰久に囲われており、三人は母が日陰の身であるうちにこの世に生まれた。
 それから後、前妻が病死し、彼らの母親が後妻に迎えられた頃、既に奈津は高校生、仁と木葉は小学生だった。
 旧家の風当たりは思ったよりも強かった。かばってくれるはずの父親は見て見ぬふりをした。
 母はそれから五年で死んだ。
 父が母を呉に迎えたのは子供たちが例外なく「力」を持っていたからだと知った。

 それに元々仁は旧体制というものに我慢がならなかった。
 父親と長兄とが絶対の恐怖政治を敷く家。逆らったものは殴られて当たり前。
 なんだそりゃ、と仁は思う。
 欲しい奴がいるなら、苗字も自分の力も、くれてやる。持っていけばいい。
 ただ人並みの生活が欲しいと望むのは我儘か。生まれたくて生まれた家ではない。
 どうしてこんなに苦しまねばならないのか。
 望んだものはそんなにも高いところにあったものだったろうか?
 母と姉と妹と四人で、細々と暮らしていた頃。贅沢は出来なかったが幸せだった。
 それをぶち壊す原因となったのが、この力であり、この体に流れている血潮ならば、抜き取ってしまいたい。

 しかし、と仁はまた何度か足を揺すった。放課後の教室には、まだまばらに人が残っている。差し込む陽は赤い。
 しかし、家を飛び出してまで手に入れたかったものは、こんな生活ではなかった。
 姉と妹と3人で、大人しく暮らしていられたらと思っていたのだ。どうせ呉は兄が継ぐ。関係ない。
 ところが今の状況はどうだ。
 櫛引充に引っ張り出され、夢喰いの禁忌とされる意識への干渉へ加担し、呉は元より、その業界で名を轟かせる銀にまで名と顔が割れた。
 何もかもが、姉の病気を治す術があると言う、真偽の分からぬ充の言葉に縋っているからだ。
 思惑も、そもそも何を考えているのかも知れぬ男の言葉に、縋りつくより他に術が無い。それがまた悔しい。

―――奈津の病は手の施しようがない。
 はじめにそう言ったのは兄だったろうか。いつも通りの、何ひとつ表情の変わらぬ顔で。
 手の施しようがない? 俺にはあんたがそもそも方法を探さなかったみたいに見えるんだけど。
 食ってかかって、殴られた。口の中が切れて鉄の味がした。その味を今も忘れていない。
(あんたは怖いんだ)
 仁は覚を兄とは呼ばない。名も呼ばない。あくまで他人でいるための、自分の中で決めた悪あがきのルールだった。
(姉さんの力が、本当は呉で一番強いから)
 奈津の力は、父親や一族が一目を置くほど強かった。本当は力など大がつくほど嫌いな仁だが、姉の清浄なオーラは好きだった。
(死ねばいいと思ってる。当主の座は決まっているくせに、余裕もなく焦ってる。姉さんが邪魔なんだ)
 だから、病の治療法を積極的に探さなかったのだと仁は信じている。
 原因不明の病、というのも胡散臭い。
 病状は時折発作のようなものが起こり、長い間の外出などが出来ない以外は落ち着いているが、徐々に発作の周期が短くなっているように思われた。
 屋敷の奥で苦しんでいるのに、父親と兄はひとりの世話役に姉を任せきりで見舞おうともしなかった。家族だというのに。
 だから仁は正直、姉が家を出ると決まったときほっとした。もうこの家であんなどうしようもない辛さを味わうことはない。
 そして、高校へ上がると同時に姉と暮らすことが決まって、涙が出るほど嬉しかった。
 もう二度とあの家へは戻るものか。

「仁〜。あ、いた」
 がらり、と教室の扉が開く音と同時に名前を呼ばれた。
 苛々とし表情を隠そうともせず、仁は頬杖から顔を持ち上げてそちらを見る。友人の声だ。
「なんだよ」
 机と机の間を縫って近づいてくる友人の方を見上げるようにして、仁は訊いた。
「仁、仁ってばっ!」
 それを追うようにして、セーラー服が教室に飛び込んできた。
 同じく知った声に、仁は自分の横に立った友人の横から顔を出し、駆け込んできた妹を見た。
「うるさいな、木葉。先客がいるんだよ」
「そ、それどころじゃないんだってば……」
「木葉はいつも大げさなんだよ。―――で、なんだよ?」
 息を切らして走ってきた妹を軽くあしらって、仁は友人の方へ目線を戻した。「もう、仁の馬鹿」と妹が吐き出すのが聞こえる。無視。
「ああ。帰るとこだったのに戻ってきてやったんだから感謝しろよな」
 見れば、友人は小脇に鞄を抱えている。一度帰ろうと教室を出たのだろう。しかし、彼が戻って来たことにどうして感謝しなければならないのか。
 元々不機嫌だった仁は眉根を寄せる。
「校門で、お前を呼んでる奴がいるんだ」
 なんてことのない友人の言葉に一瞬、鋭いものが体を走った。
 思わずもう一度友人の横から顔を出すと、木葉が落ち着かない様子でこちらを見ていた。
「どんな奴だ? 名前は言ってたか?」
「俺たちとタメぐらいだと思うけど、私服だったな。髪の毛真っ黒でさ、肌がめちゃ白い男。女みたいな顔だけど目が切れ長の……」
 がたん、と音を立てて仁は立ち上がった。勢い余って椅子が後ろに倒れる。一瞬、教室がしんと静まった。
 何事かと呆然とする友人を残して、教室を飛び出した。
 後ろで「仁〜!」と名を呼ぶ木葉の声がしたが、構っていられない。
 3階から階段を駆け下り、内履きのまま外へ出た。ざっと固められた土を蹴ると砂埃が舞う。目に飛び込んで痛い。
 どこか遠くで運動部の掛け声やボールが弾む音が聞こえる、放課後特有の空気を割って響く、自分の足音。
 近づいてくるその音に気づいたのか、校門の塀にもたれかかっていた人影が体を起こした。
 3メートルほど間を置いて、仁は立ち止まった。それ以上近づく気になれなかった。
 足を止めると一気に汗が噴き出した。自分の荒い息と弾んだ心臓の音だけが聞こえる。あたりは静かだ。
 遠くに聞こえる部活動のざわめきが、別の世界のように思える。
 向かい合った少年は酷く涼しげな顔をしてこちらを見ていた。仁は、二三度だけ顔をあわせたことのあるこの少年が、その涼しげな顔を大きく崩したのを見たことが無かった。
「仁ッ! 待ってよっ……」
 後ろから駆けてくる音が聞こえた。木葉の、妹の声だった。
 しかし仁は振り向かず、間を置いて向かい合った少年を見ていた。
 白いシャツに黒いズボン姿の少年は、近づいてくる少女の声に、仁の向こうを少しだけ見てまた目線を戻す。
 目が合った木葉は、一瞬びくりと足を止めた。直接会ったことはないが写真などで顔は見知っていた。
「……何しに来た」
 先に口を切ったのは仁だった。
 目の前の少年は、その端正な口元に少しだけ笑みを浮かべた。馬鹿にされたような気がして、カッと血がのぼるのが分かる。
 しかし、相手はその笑みをすぐに消して真顔になる。無表情になると、温度を感じない顔だった。

 霊媒を生業とする人間たちの間では、知らぬ者のいないほど巨大な一門の直系。いずれはその家を背負って立つ同じ年の男。
 銀都佳沙は、真っ直ぐに仁を見て言った。
「君と話がしたいと思って来た」



3.

 手負いの獣、というほど大げさなものではなかった。
 けれど、手負いの猫、ぐらいの状態にはなっていたと思う。
 深夜に悪夢に魘されて目が覚めることがある。心配して見に来てくれた一馬が声をかける。
 その声すら鬱陶しくてつい怒鳴る。
 "僕は本当は、消えたほうが良かった"。
 言ってからハッと口を塞ぐ。それは言ってはいけないことだった。
 一馬は何も言わずに、肩をひとつ叩く。
 そこでいつも涙腺が壊れてしまった。謝ろうとする言葉が一つも出てこなくて、口を開けば嗚咽が落ちた。
 酷い言葉を言いたいわけではなかった。傷つけたいわけではなかった。
 けれど、これからどうすればいいのか、自分はどうなっていくのか、何も分からず。
 こころにわだかまるものをぶつける場所が必要だった。
 あの家を出てからも、楽になったわけではなかった。特に学校に行くまでの一年。
 要の精神と、何よりも―――報道が、落ち着くまでの間。

 英の家を中心に起こった爆発騒ぎは、大きなニュースになった。
 表向きはガス爆発ということで処理された―――させた、のだが――― 一件。しかし、その不自然さや鍵も無いのに開かなくなった扉、庭に立ち上った青白い炎の壁。などなど説明の出来ないことが多すぎた。
 それに、野次馬も多かった。
 銀が上から少々圧力はかけたものの、一般市民の口の前には戸は立てられず、噂は日増しに大きくなっていった。
 ……のろい、と。
 次第に噂は、爆発騒ぎのあった一夜のことからその数週間前に起こった礼拝堂の爆発、神の子と崇められた少年とその夢遊病、数年前に起こった要の母の変死にまで遡った。
 説明やいいわけをすべき要の父、秀一郎が怪我と精神不安定によって入院していることも手伝って、噂の火は瞬く間に燃え広がった。
 要が一馬に引き取られたことは厳重に隠されていたが、それでもその少年の下に家庭教師として赴いていた一馬にも火の粉はかかった。
 引き取られてからしばらくはそんな事情も手伝って家の外には殆ど出られなかった。
 宛がわれた部屋の隅で、頭から毛布を被って膝を抱えていることが多く、少しの音にも過敏になった。
 一馬が報道陣をあしらって家の中に入ってくる音に、訳もなく涙が溢れて止まらなかった。
 そう言うときは、一馬はしばらく部屋に来なかった。しばらくしてからコーヒーを淹れて持ってきてくれる。
 受け取って、小さく「ありがとう」。それが精一杯だった。


「全くもう、アルミとスチールは分けろって言ってるのにっ!」
 がしゃがしゃと、ゴミ箱から空き缶を仕分けしながら勝利がうなった。
 主婦みたいだ、と共にゴミ捨てに来た要は、憤る勝利の背中を見て思った。
 文化祭の準備もあらかた片付き始め、今日はこれで帰れるという段階になったところで、ここ数日恒例になりつつある「ゴミ捨て役決定戦」が行われた。
 平たい話が、じゃんけん。
 それに見事に敗北した勝利が、要の首根っこを捕まえてゴミ捨て場まで強制連行した。
 要はじゃんけんの2回目で「ぐー」で勝利に勝っている。それなのに何故、と思いながら燃えるゴミのゴミ袋を持って勝利に続いた。
 中3からのなじみだろう? と訳の分からない理屈でつれてこられたと言っても、過言ではない。

 中3からのなじみ。
 そう、勝利は要がはじめて学校というものに通い始めた時の同級生で、隣の席だった。
 一馬に引き取られてから1年の間を置いて、周囲の勉強などをして、ようやく要は中3から学校に通い始めた。
 事情を解する都佳沙が通う修恵学園中等部。
 勝利はそこで、都佳沙以外に出来た初めての友達だった。
 はじめのうちは普通の転校生として扱われていたものの、そのうち一年前に噂になった"例の"子供だということが知れた。
 覚悟はしていたものの、周囲の態度が一気に変わるのは辛かった。
 勝利も、戸惑ってはいたのだ。それでも勝利は必死に接してくれた。戸惑いを、時に怯えを滲ませながらも。
 偽善と同情とを背負って近づいてきた人もいなかったことはないが、要には勝利の態度のほうが好ましかった。
 そんな矢先、勝利が倒れた。
 持病でも病気でもなく、昏々と眠り続ける。はじめにおかしい、と言い出したのは都佳沙だったか。
 病気でもない、霊的なものでもない。多分精神的なものだと思うよ。
 その言葉を聞いて、要は散々迷った末に言った。
―――カズマ、お願いがあるんだけど、聞いてくれる?
 勿論一馬は少し渋ったけれども。結果として勝利に潜ってくれた。まぁそれは別の話だ。
 そのあと要は勝利に色々な話をして―――昔のことも―――現在に至る。
 ありがたいなと、素直に思う。が、ついつい照れが入ってそっけない態度を取ることが多い。
 これは自分の悪い癖だ。分かっている。分かってはいるのだが……。
「はい。ここまで運んだから僕はもう帰る」
「待って、ワタシをひとりにしないでっ!」
 どさり、とゴミ袋を置いた要に、勝利が気色悪い声で振り返った。
「酷いわ、ワタシとのことは遊びだったのね、飽きたから捨てるんだわっ……」
「…………」
 両手で顔を覆ってさめざめと泣き真似をする勝利に、要はかける言葉がない。呆れればいいやら笑えばいいやら。
「悪いんだけど勝利、ちょっと、具合が悪いんだ」
 別に捨てるわけじゃないし、ととりあえず付け足す。
「へぇ? 風邪?」
 あっさりと泣き真似をやめ、けろりとした顔で勝利がゴミの分別を再開した。……あまりに細かく分別するから時間がかかるんだと思うけど。
「じゃなくて、なんていうか、昨日あんまり良く寝てなくて、それで……」
 寝てはいたのかもしれない。しかし場所が場所で、体中が痛い。それになんだか疲れが全く取れていない気がするのだ。
 何しろソファーの上で一晩。
「まぁ、それはしょうがないな。ごみ捨ては免除しよう」
 そもそも勝利が無理矢理引きずってきたんじゃないか、と思ったが口には出さなかった。
「あ、でもそう言えば昨日から一馬さんいないんだっけ? 夕飯はどうすんの? うちに食いに来る?」
 真顔で勝利が聞いてくるので、要は呆れた。半分哀しくもある。そんなに何も出来ないように見えるのか……。
「……そのくらい、なんとかするよ」
「ちっ、勧誘失敗」
 ごめんな親父、おふくろ、と勝利が仏を拝むように手を合わせた。生きている人間にそれはないだろう。
 早い話、勝利の家は蕎麦屋で、跡取息子らしい勝利は、同級生を客引きしようとしたわけである。
「ま、じゃあ気ィつけて帰れよ。明日も一応準備あるし」
「うん。休んだら委員長が怒りそうだしね」
「全く」
 笑い合って別れた。
 ゴミを捨てたら真っ直ぐ帰ろうと鞄を持ってきていたので、要は真っ直ぐに校門に向かう。
 勝利の家の蕎麦、美味しいんだよね。今度食べに行こうっと。
 そんなことを思いながら。


            *


 校門を出て少し歩いた頃、後ろから車のクラクションが鳴って、要は顔を上げた。
 見知った道だ。少しぼんやりとして歩いていたので、必要以上に驚いて立ちすくむ。
 突然のことにくらりと眩暈がした。立ちくらみ。
 するりと横に車が滑り込んでくる。窓が開いた。
 そちらの方を見て、要はどさりと鞄を取り落とした。瞬きも呼吸もし忘れる。
 住宅地の真ん中の通学路。家の塀や電柱が並び、夕方になると人の気配も少ない。
 こんな場所で会うはずはなかった。会うとしたなら、向こうが「会おうとして」接触して来たに違いなかった。
「少し君と話したいんだ。駄目かな?」
 運転席から、櫛引充はそう声をかけた。
 逃げたほうがいい、と体中が主張したが、どうにもならなかった。体が動かない。櫛引に見据えられると、凍りついたように動けなくなってしまう。
 顔をこわばらせている要を見て、櫛引はふっと笑った。
「そんなに怯えなくても、取って食ったりしないから」
「……どうだか」
 嫌味のつもりで要は言ったが、櫛引はもう一度口の端に笑みを浮かべただけだった。何より、要の声が震えていたから、迫力は無かったろう。
「君は一体どのぐらいのことを知っている?」
「え?」
 こちらをじっと見る双眸は青。濃紺。夜の海の色。
「夢を喰らう生き物のことを」
 夢を喰らうものの瞳。真っ直ぐに貫かれたようにそこに立ちすくむ。
 体の内側から冷えたものが広がってゆく。まだ風は生ぬるいはずなのに、感じなかった。
 感覚が麻痺したように。
「知らないの?」
 口の端を歪めて櫛引がまた笑った。しかしその笑いは先程と違い、明らかな嘲笑だった。
 カッと、熱いものが冷たい体を遡って脳まで達した。
 挑発だ。体の内側の、冷静な部分がそう言って警鐘を鳴らした。分かっている。
 分かっていても。
 何かがこみ上げるのを止められない。
「夢喰いが夢を食べるのは、生きるためだって……」
 ようやくそれとだけ言った。けれどそれも最近知ったことだった。
 3年。この環境の中にいて、それだけ。
「そうだね。個人差はあるけれど、定期的に意識を摂取しないといつかは死ぬね」
「意識じゃないっ……」
「夢も意識の一部だよ。知らない?」
 まるで知らないことが罪であるかのように、充は続けた。
 無知がまるで、恥ずべきことのように。
 しょうがないじゃないか、教えてくれなかった。
 体の内側がかぁっと熱くなり始めた。
「でも、貴方とカズマとはっ、違う……」
「違う? 何が?」
 聞き返されて言葉に詰まった。くっと要は口唇を噛む。
 何が違うと問われても、それを判別できるだけの知識が要には無かった。ただ直感的に一馬と充は違う、と思ったのだ。
 違っていて欲しいと、思ったのだ。
 鈍い頭痛がし始めていた。この人に会うと、なんだか苦しい。息苦しい。
 呼吸が少し荒くなる。
「人の意識の一部をくすねて生き延びる。同じ生き物だと思うけど」
「違うッ!」
 これでは駄々をこねる子供のようではないか、と要は思った。
「カズマはそれが当然だなんて、思ってない……」
 声は次第に細くなって消えた。
 だってカズマは、夢喰いの仕事が来るたびに苦しそうだった……。
「それでも生きている限り食べ続けるよ。本当に嫌なら死を選ぶんじゃないのかな? それでも尚生き続けているっていうことは、心のどこかでは、喰らって当然と思っているんだよ」
「そんなのっ……絶対、ちが……」
 否定の声も途中で途切れた。何か重いものが胸にのしかかってきた。
 頭痛が大きくなる。頭の中に心臓があるかと思うほど、鼓動と共にがんがんと打ちつけた。
「夢喰いは人殺しだよ」
 目元を少し細めて、充が言った。
 知らない? そう言うように少し首を傾ける。
「人なんか殺すはずっ……」

―――俺は人を殺したんだ。

 ここ数日間、何故か耳元を離れなかった声が聞こえてきて、要は小さく息を呑んだ。
 否定が出来ない。
 要は思わず右手をこめかみに当てた。痛い。
 考えたくない。そんなこと。

「じゃあ君は、何も聞いていないんだね」
 納得したように充は何度か頷いた。その姿が少しぼやけて見えるのは、意識を繋ぐことすら難しくなるほど、頭が痛いからか。
 僕が何も聞いていないって、何。
 言葉すら、一度噛み砕かなければ上手く理解できない。
「"夢喰い"という生き物は、必ず一度、人を殺す」
 地震が起きているようだ。ぐにゃぐにゃ柔らかいものの上に立っているようにも思える。
「そんなのっ……」
 もはや意固地になっているとしか思えなかった。否定したい。しなければならない。
 しないと怖い。
「それじゃあ君は、何を知ってるの」
 ぼやけた意識に、その声がやけに鮮やかに刺さってきた。
 どん、と何かにぶつかって要はハッと我に返る。いつの間にかじりじりとあとずさって、後ろの塀にぶつかっていた。もう、その支えがなければ立っていられる気がしない。
 気を張っていないと、枯れかけのひまわりのようにもたれてくる重い頭を必死に持ち上げて、要は充を見た。
 相変わらず穏やかな蒼い瞳がこちらを見ていた。
「なに、を……?」
 質問の意図すらもはや分からなくて、聞き返した。
「成瀬一馬の、何を知ってるの?」
 ざぁっと頭の上から冷水をかけられたように、意識が冴えた。体中に渦巻いていた熱が一気に冷える。
(今まで僕が、考えなかったこと―――)
 充の一言が、"そこ"を真っ直ぐに指し示した。
 考えなかったこと。そこに、強引に顔を向けさせられた。
 カチカチという音が聞こえてくる。それが自分の歯が立てている音だと、一瞬遅れて要は気づいた。

 考えなかったのではない。考えないようにしていた。
 教えてくれなかったんじゃない。知ろうとしなかった。
 無知を責められていたんじゃない。知らない自分が恥ずかしかった。

(だって、怖かった……)
 要は、充の一言で唐突に自分の本音に気がついた。気がついたらもう、目が逸らせなかった。
 どっと、無理に塞き止めていたなにかが溢れ出し、胸があっという間にいっぱいになる。
 色々な感情がない交ぜになって涙腺が熱くなった。
「僕は、カズマと三年……」
 何か言わないと、言わないといけない。けれど言葉がそれ以上出てこなかった。
 三年、一体何をしていた? 何を知った?
 何をしようとした?

 成瀬一馬。24歳。
 寝起きが悪くて、甘党で、変なところが子供っぽくて。
(夢喰いって、何)
 ひとりごとが多くて、情けなくて。厭味ったらしいし。
(人を殺したって、どういうこと)
 いつも子供扱いして、頭に来る。
(カズマのエゴって何。僕を助けたの―――)

 一体何があったの。知りたいと思ったことは何度もある。
「僕は」
 何か言おうとして口を開くが、また閉じてしまう。何も出てこない。
 真っ直ぐに射るような充の視線が痛い。口唇が小刻みに震えた。
「僕は……」
 視界がぼやけて、歪んだ。
 つっと何かが頬を伝って落ちた。熱い雫だった。

 考えようとしなかった、知ろうとしなかった。
 だって怖かった。
 変わってしまうのが。
 ようやく手に入れた穏やかな空間が、脆く崩れてしまうのが。
 進路なんて考えたくなかった。未来のことなんて。
 今と違うことなんて。ここから離れるなんて。
 いつかは道は別れてゆく。一馬とも雅とも都佳沙とも、いつまでも一緒にいられるわけじゃない。
 分かっていた。だけど認めたくなかった。
 ここにいたかった。ここに。

 僕は確かに、成瀬一馬のことを知っている。
 3年間、同じ屋根の下で暮らしてきた。
 生活パターン、性格、悪い癖、そういうものなら幾らでも思い出せる。
 かさねてきた時間のうちにあった出来事なら、幾らでも列挙できる。
 でも。
「僕は、カズマのことっ……」
 頬を伝って落ちた雫が顎から下に落ちる。声が震えて上手くいえなかった。
 上手く息が出来ない。

 信じていたんだ。
 ここにあるもの全てが、一生変わらないと。
 わけもなく信じていた。
 それはただの願いだった。祈りだった。卑怯な逃避だった。


 僕は何も、見ていなかった。


 口唇を強く噛む。嗚咽を漏らすのが悔しかった。
 それでも殺しきれないうめきが口唇から零れて落ちる。

「夢喰いは親を殺すんだよ」



 僕は成瀬一馬と言う人間のことを、何ひとつ知らなかった。





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