1.嚆 矢




―――喰らいなさい。

 言葉が廻る。
 闇の中でちらちらと炎が揺れる。
 ぼんやりとして舌のように揺れる炎は恐らく蝋燭。

―――さだめ、だ。

 声が言う。
 お前が生まれ出ずるより前。私が生まれ出ずるより前。
 それよりも遥か昔から、既に決められていたこと。
 拒んでは生きられぬ。逆らうことは許されぬ。それが、さだめと呼ばれる。

 ぽう、ぽうと暗闇の中に赤い、たよりない炎がいくつも浮かんだ。
 右から、左から。そう思えば後ろから。
 声が四方から纏わりついた。

―――喰らうがいい。

 闇の中からぬっと白い腕が伸びた。人とは思えぬ力で右の腕を掴む。
―――喰らうがいい。喰らいなさい。喰らえ。
 絡み付く腕は痕を残し、傷をつけんばかりに激しく締め付けた。
 逃れようともがくのを、体の内側が拒んだ。
(食ませろ)
 内側から、声がする。喰えと繰り返す声に応じるように。
 やめろ。声の出そうとして、咽喉から音は出なかった。金縛りのようだ。

 さだめに逆らっては、生きられぬ。我々は、そういう生きものだ。
 拒むな。
 拒んでは生きられぬ。我々が、夢を喰らう生きものである限りは……。

―――喰らえ。
(食マセロ)
 やめろ、やめてくれ。

 拒むな、一馬―――。


 がばりと体を起こすと、荒い呼吸が耳についた。
 体の左側で、どくどくと鼓動がうるさい。
 額に滲み出した汗が伝い落ちて目に染みた。
「勘弁してくれ……」



1.

 校舎のあらゆるところから何かを打ち付けるようなカンカンという音と、ざわざわとしたざわめきが聞こえてくる。
 放課後特有の、少し異次元のような雰囲気が心地良いようで、時々不安になったりもする。
 9月も半ば。9月の終わりから10月のはじめにかけて、ここ私立修恵学園では中高大をひとまとめにした学園祭が行われる。
 現在はその準備の真っ最中というわけだった。
 要は、絵の具で薄汚れた水を湛えるバケツを抱えて、廊下の流しまでやってきた。
 窓から斜めに差し込む光は真っ赤。夕焼けだ。
「かぁなめくんっ」
 その後ろからやけに明るい声がついてきた。振り返らない。
 ぱたぱたと足音が近づいてきて、その声の主は要の前に回りこんだ。
「筆の洗浄を命じられましたゆえ、お供させていただきます、先輩っ!」
 筆を持ったまま茶化すように敬礼してみせる。クラスメートの神田勝利だ。
「……なにが先輩なの?」
「いや、だってお前、要のが先に歩いてたからでしょ」
「ふーん」
 適当に相槌を返して流しにバケツの水をあけた。
 ひとりぶん間を空けた勝利が、蛇口をひねって筆を洗いはじめた。
「そういえばさぁ」
 少し黙ってお互いの作業をしていると、勝利の方が口を開いた。
 要は目線だけを勝利の方へ向ける。
「都佳沙っち、なんか仕事でもしてんの?」
 黙々と作業をしながら、勝利が訊く。
「お前、社会の選択って世界史じゃん? 俺、日本史で都佳沙っちと一緒なんだけどさ、今日と一昨日、休みだったんだよね。都佳沙っち、結構仕事の都合で休んだりするから、仕事なのかなーって。要なら何か聞いてるかと思ったんだけど……」
 そこまで言って、勝利は顔をあげて伺うように要を見た。
「聞いてないけど……」
「ふーん、そっか。ならいいや」
 再び勝利は筆との格闘に没頭し始める。
 バケツの水を入れ替えた要は、それ以上することもなく、とりあえず教室に戻ることにした。
 歩くたびに右側に持ったバケツがちゃぷちゃぷと音を立てた。

『あのさ、要』
 今朝、家を出るところで一馬に呼び止められた。
『俺、今日から何日か、家空けるから』
『ふぅん、仕事?』
 何気なしに訊くと。
『いや、ちょっと本家に顔出してくる』
 予想だにしない答えが返ってきた。
『どうする、要。雅のマンションに行くか? それとも銀の本家に厄介に……』
『何言ってんの。僕もう16なんだけど。数日なんでしょ? 平気だよ、ひとりでも』
『そう、か。そうだよな。悪い』
『うん。行ってきます』
 何ともない顔をして家を出て、玄関のドアを閉めたところで大きく息をついてしまった。
 本家、という言葉に驚いた。
 今まで何度か聞いたことのある名前。成瀬本家。
 一馬が生まれた家。夢喰いの家系。
 しかし、自分が一馬と暮らすようになってから、一度も、たったの一度も一馬は本家に戻ったことがなかった。
 その一馬が本家に顔を出す、という。都佳沙も学校を休みがちだということだし……。
 何かが起こっているに違いないと思う。
 が、一体何が起こっているのか要にはわからなかった。
 自分だけが取り残され、周りが動いている。この間の一件―――櫛引充という男に会ったこと―――から、何かが慌しく動き出して、明らかに何かが変わり始めた。
 その変化が、要には怖かった。
 何かをなくしてしまうのではないか。それが何かは分からないけれど……。
「あ、おい、英要!」
 フルネームで呼び止められ、要は振り返った。相手は誰か分かっていた。少々げんなりする。
「……先生、苗字か名前かどっちかで呼んでくださいって、いつも言ってるんですけど」
 社会準備室の扉を開けて顔を出していたのは、担任の真堂だった。
「いやぁ、その、なんだ。苗字と名前と一組に呼んだほうがかっこいいかなと思って」
「それはどうも、ありがとうございます……」
「しかし、英って立派な名前だなぁ。何か由来あるのか?」
「先生、それ訊かれたの3回目ですけど……。僕、知らないって言ったじゃないですか」
 世界史担当の癖に人の苗字を気にしたがる。日本史も地理もついつい掘り下げて研究してしまう。
 しかし、興味のない事柄はどんどん忘れていくのだ。特に近代から現代は弱い。
 歴史ってモンは面白いものを覚えときゃいい、というのが彼の主張だ。よく教師をやっていられる。
 だから、自分が好きな時代はかなり熱弁、自分があまり興味がないのはおざなり。教科書をなぞる程度。という変な先生なのである。
「お前、例の件どうするんだ? 一馬に来てもらうのか?」
 銀のかなり遠縁に当たるらしい真堂には、要の事情を全て話してある。
 真堂があまりにその話に興味津々なので、下手に同情されたり慰められたりするより、何故かすっきりしたのを覚えている。
 銀と遠縁とはいうものの、真堂に霊的な力は一切ない。何か面白い話でも聞くように霊媒や夢喰いの話を聞く。勿論一馬とも、家庭訪問で対面済みだ。
「えっと……、文化祭が終わってからですよね……。もう少し、考えてみたいんです、自分で……」
「まぁ、まだ2年だからな。そんなに急ぐことはないとは思うけどな……親父さんには?」
「この間会ったときに少し話しました。文化祭終わってから、会って話してこようと思ってるんです」
「第二日曜?」
「いえ、ずっとそうしてきたから第二日曜に行ってるだけで、最近は暇が出来たら来ればいいって言ってくれるから……」
「そうか」
 くたびれたオヤジのような顔で笑って、真堂は掌をぼん、と要の頭に乗せてぐしゃぐしゃとかき乱した。
 この人も、本当に僕を子供扱いするし……。乱暴に猫を撫でるような真堂に要はされるがまま。
 現在39歳。江戸っ子を地で行く真堂迅(シンドウ ジン)。結局要はこの担任が―――好きである。
 自分は本当に、周りの大人に恵まれている、と思う。
「じゃあ僕、看板作りに戻りますから」
「おう。間に合うように適当に、怪我しないように頑張れって言っとけ」
「……それって、無責任ですよ、担任として」
「そうそう。差し入れぐらい入れてくれてもいいのに」
 と、後ろから勝利が声をかけた。奮闘の末、綺麗になった筆を持って。
「40人にジュースを買って4000円以上だぞ。それだけあれば酒が飲める」
 憮然として真堂が言い放つ。そう言うと思った、と勝利が苦笑した。
 教師から幾ら破天荒と疎まれようと、真堂は生徒に愛される教師に違いなかった。
「よしっ! 要、戻るぞ〜!」
 勝利は、要を引きずって教室まで歩き出した。その背中を、ばしりと真堂が叩いた。


            *


 一馬が自分の一軒家から車で15分ほどの「成瀬」という表札のかかった大きな門に辿り着いたのは、午後3時を回った頃だった。
 車を車庫におさめ、細かい砂利が敷き詰められた庭を飛び石をたどるように玄関まで歩いた。
 そんなに離れているわけではないのに―――何しろ車で15分だ―――4年もの長い間一度も帰ってこなかった家だ。
《一馬様、三石でございます》
 玄関の前まで辿り着いたところで、一馬は今朝の電話を思い出した。朝6時、要が学校へ行く準備をしに起きてくる時間だ。
 何故か寝起きの悪いはずの一馬が、その日に限っては起きていた。夢見が悪くて。
 もしかしたら予兆があったのかもしれない。
《どうしても本日、本家へ来て頂けないでしょうか》
 一馬が何かを言い出す前に三石は続けた。
《"呉"より連絡が入っております。なにとぞ、ご当主としてご同席を》
 逃れられないな、と一馬は思った。つまらない意地でこれ以上拒めはしないと。
―――拒むな。
 それが定めなのだと言ったのは、夢の言葉。父の……。
 逃れられは、しないのかもしれない。

 がらり、と横開きの扉を開けた。一瞬一馬は、どう挨拶したものか迷ってしまった。
 数秒考えた末に、「ただいま」とだけ言った。
 その言葉に違和感を感じたのが、本家との自分との距離、なのだ。
「一馬ッ……!」
 屋敷の奥から女の声が聞こえた。一馬は思わず靴を脱ぐ手を止める。
「一馬……」
 すぐに足音がやってきた。濃紺の着物が視界に入った。
 紺の着物の女性は、玄関の段差まで来て一馬を見た。小柄な女性だった。段差があっても一馬のほうがまだ背が高い。
 口元を覆って、必死に涙をこらえる。黒髪には、所々白髪が混ざる。
 こんなに、頼りない人だったろうかと、一馬はぼんやりと思った。
「一馬、4年ぶりになるかしら……、もっとよく、よく顔を良く見せて頂戴」
 伸ばしかけた手を途中で止める。4年、一度も会わず声も交わさなかった親子の、距離。
 駆け出してきた小さな人は、成瀬匡子。一馬の実母である。



 白い菊の花に線香の匂い。
 細く昇るけむりを目蓋の裏に焼き付けるように目を閉じて手を合わせた。
 折った膝に、久しぶりに畳の感触。
 瞳を開けて、仏壇の上を仰ぐと、並んだ遺影。いずれも壮年。ぐるりと見渡すと、端に父親の顔があった。
 こちらを見ているような気がして、目をそらす。
 と、そのとき障子の向こうに人の影が映った。
「奥様」
 一馬が幼い頃からいる、家政婦の根岸春子だった。
「どうしたの」
 匡子の声が返ってから、春子は障子越しに言った。
「銀の方がお見えです。本日の席に是非とも同席をしたいと」
「お通しして」
「かしこまりました」
 春子の足音が聞こえなくなってから、匡子が立ち上がった。視線で一馬を促す。
 仏壇の前から立ち上がり、一馬は、
「母さん」
 匡子を呼んだ。
 障子に手をかけていた匡子は、その言葉に少しだけ驚いたように震えると、振り返らずに言った。
「ごめんなさいね、一馬。私は……」
 一馬は、昔よりも小さく見えるようになった母の背中を見つめる。濃紺の着物、彼女は四年前からそれ以外の色を纏わないのだという。
 喪に服すためだろうか。それとも、夢を喰らうものの瞳の色だからだろうか……。
「私は、お前にずっと逢いたいと思っていたのよ。声でもいいからと……。けれどいざお前を前にすると……」
 どうすればいいかわからない。
 一馬もそうだった。先程、母のことをなんと呼べばいいのか、一瞬迷ってしまった。
 力を継ぎ当主となったからには「母上」と呼ぶべきか。それとも昔のように「母さん」と。
 日頃呼び慣れていれば迷うはずもないその選択肢に、痛みすら覚える。
「お前は悪くないわ、一馬。二十歳になるまで真実を隠してきたのは私。お前を謀ってきたのは私です。お前が家を出ると言ったときも、お前の自由にさせてやろうと引き止めなかった。この家はお前にとってまだ、辛い場所でしょう。だけど……」
「……母さん」
「とても言えなかったわ……」
 目元に着物の袖を持ってゆく母の背中。
 自分にとっては四年は恐ろしいほど早く過ぎた。
 けれど、四年は。決して短くはない。
 結い上げた黒髪に混じる白に、こみ上げるものがある。
「母さん、もういいよ。ごめん」
 肩に手を乗せた。女の肩のはずなのに、固い骨が当たる。ああ、痩せたのか。
「ごめん」
 繰り返すと、目頭を押さえたまま母が頷いた。
「先に行って頂戴」
 涙声のまま、この顔ではとても、という母を残して、一馬は客間に向かった。



 客間の障子を開けると、置かれたテーブルの向こう側で座布団の上に胡座をかいていた雅が軽く手を挙げた。
「親父も兄貴も外せん用事でな。鼻つまみものの次男で悪いが……。さらに悪いことにちょっと我儘ものを連れてきた」
「すみません。雅兄さんにどうしてもと、お願いしました」
 雅の隣に座っていた少年が、そう言って深々と頭を下げた。顔をあげ、凛とした目で一馬を見た。
「都佳沙くん……」
 一馬がその名を呼ぶと、もう一度小さく頭を下げた。
「呉に関して知りたいことがあります。お願いします」



2.

 角を曲がって灯りひとつついていない家が見えたところで要は思い出した。
 ああそうか、カズマ、いないんだっけ?
 カバンから鍵を出して、玄関を開けて、玄関の電気をつける。それだけのことも、いつもはしていない。
 大体7時を過ぎたら一馬は家にいるから。
 早上がりすぎ。ナマケモノ、怠惰。そう言いながら、要は知っている。
 一馬が帰る家を用意していること。擬似であっても、家族をしてくれていること。
 知っていても、ついつい照れくさくなって文句を並べてしまうのだ。もう13歳の頃のように素直には甘えられない。
(本家って、どんなとこなんだろ……)
 玄関からすぐ傍にある居間に入り、電気もつけないまま、ソファーにカバンを投げ出し、制服のネクタイを外した。
(やっぱり、銀の家みたいに日本屋敷なのかな)
 冷蔵庫を開けて中を覗きこむ。オレンジ色の光が闇の中に溢れ出した。とりあえず、何か作れそうなぐらいは食材がある。が、とても作る気にはなれなかった。
(本当は僕はカズマのこと何も……)
 近くのコンビニまで出かけようと、要は自分のカバンを開けて財布を探った。
 どうやら奥に入ってしまっているらしく、とりあえず中の荷物をソファーの上に出してゆく。
 はらり、とカバンの中からプリントが落ちた。
 居間は闇に包まれているので、一体何か分からず、それを拾い上げて顔の近くまで持っていって、要は一瞬固まってしまった。

『三者面談のお知らせ』

 お前どうするんだ、一馬に来てもらうのか。
 学校での真堂の言葉を思い出す。彼が言っていたのはこのことだ。
 文化祭のあと、進路相談のために三者面談をする。それだけのことを、まだ要は一馬に言い出せずにいた。
 タイミング、というものもあるのだろう。プリントが配布されたのは丁度、櫛引の一件があった直後ぐらいだ。
 しかしその一件がなくても簡単には言い出せなかっただろう、と要は思う。
 進路。その言葉を出されるたびに、要は困ってしまう。
 自分がどうすればいいのか、どうするのが一番いいのか、どうしたいのか。
 まだ分からないのだ。
 真堂は、「まだ外に出て間がないんだし、大学でも行ってゆっくり周りに慣れたらどうなんだ」と言ってくれているし、多分それが一番いいんだと思う。
 けれど、周りに対応するだけのために大学に行ってもいいんだろうか。したいことを探すためだけに?
 いつも憂鬱になって途中で考えるのを止めてしまう。
 考えたくないと、思ってしまう。
 進路。進む先。未来。
 過去からようやく自分を切り離して、今は現在の生活で精一杯で……。
(今は止めよう)
 考えたくない。
 要はプリントをソファーの上に置いて、財布を持って家を出た。

 自分の未来はまだ、見当もつかない。


            *


「今回の一件、呉は預かり知らぬこと」
 10畳ほどの和室に、物々しい雰囲気が流れていた。
 上座に座った一馬に、着物姿の男がふたり、深々と手をついて頭を下げていた。
 呉泰久(クレ ヤスヒサ)とその長男呉覚(クレ サトシ)だった。
 一馬の隣には匡子。一馬を囲むような形で雅と都佳沙が並んでいる。
 その部屋には来客をもてなすようなものは何もなかった。テーブルさえない。
「預かり知らぬとは、大した言い訳。私と甥、共にそちらの御次男と顔を合わせておりますが、それでも呉は知らぬと?」
 口を挟んだのは雅だった。泰久は顔を上げぬまま、横目で「銀の若造」をわずかに見た。
「勘当した者とはいえ息子は息子。その点は申し訳なく思っている」
「勘当?」
 一馬が訊き返したので、泰久は顔を上げて一馬を見た。
「お恥ずかしいことだが、長女の奈津、次男の仁、次女の木葉とは、一昨年以来一緒には暮らしておらぬ」
「そうとは言っても、我が血族、私にとっては弟に当たるもの。責任は免れないかと」
 平伏していた覚が顔をあげ、真っ直ぐに一馬を見た。涼しげな、少し冷たさすら感じさせる冴えた容貌に青みがかった黒髪。年の頃は28、9。
 よく通る声だった。
 眼光は鋭く、威圧的ですらある。威厳というものだろうか、彼が纏っているのは?
「しかしそれが呉の総意であると誤解されては困ります。身内の不手際の後始末は必ず呉でいたします。しかし呉全体が櫛引に加担しているとは思わないで頂きたい」
「……なにゆえ、放っておかれました」
 若い声が割り込んできた。まだ高い少年の声だった。
 はっとして、泰久も覚もそちらを見る。声の主は覚を見ていた。漆黒の濡れたような大きな瞳で。
「櫛引と呉。表と裏。対を為すもの。契約をお忘れか」
「都佳沙」
 たしなめるように雅が名を呼んだが、都佳沙は聞く耳を持たない。
「夢を喰らうものがひとたび道を外れたとき、裏の人間が取るべき行動が、あったはずです」
「櫛引充は巧妙に姿を隠してしまったのだ!」
 泰久が怒鳴り返すが、都佳沙は怯む様子も見せない。
「本名を名乗り、数年もこの付近で心理カウンセラーをしていた者が、巧妙に姿を隠していたと申されるのですか。いかに私が年端のゆかない小童でも、とてもそうとは思えません。呉は彼を見逃してしまわれた。それで今、彼が現れたとなると預かり知らぬと申される。見逃さずに対処していれば、今回の一件はなかったのではないでしょうか」
「都佳沙、お前いい加減に……」
「銀が嫡男、始殿の長子、都佳沙殿、でよろしいか」
 わがままを聞き届けて連れてきた上に暴言か、と雅は都佳沙を連れて席を立とうとする。が、それを声で制したのは覚だった。
 一瞬驚いたように目を見開いたが、都佳沙はすぐに「はい」と返した。
「都佳沙殿が申されたことは正しい。我々は確かに櫛引を見逃した、というよりも目を瞑ったというべきか」
「覚……」
「今更、隠し立てして何になります。我々は彼の力を侮ったのですよ。姿をくらましても長くは生きられまいと。それがひいては見逃したことになる」
「ちょっと、待ってください」
 上座に座りながら完全に取り残されていた一馬が口を挟んだ。
 場の視線が一斉に自分に集まったのに少し居心地悪そうにしながら。
「私は詳しい事情を知りません。とにかく、櫛引充のこと、櫛引という家のことを教えてもらえませんか」
 一馬が知っているのは、櫛引という夢喰いの家が潰れたこと。そのぐらいだ。
 都佳沙の方へ向けていた体を元に戻し、口を切ったのは覚だった。
「ご説明いたしましょう」
 正座した膝の上に手を乗せ、背筋を凛と伸ばし、通る声で覚が言う。思わず一馬も姿勢を正した。
「櫛引充は、夢喰いではない」
「夢喰いではない?」
「正確には夢喰いとして欠陥がある、と申し上げればよろしいかと。夢に潜ることは出来ないが、意識を糧にせねば生き延びられない。だから我々は長くは生きられまいと思って捨て置いた。それがあのように意識を食むようになるとは……」
「……欠陥は、生まれつきの?」
 時折、力の弱いものが生まれてくることがあるが、夢に潜れぬほどではない。が、もしかしたらそういうものもいるかもしれない。
 問う都佳沙に目線だけを向けて、静かに覚は言った。
「櫛引充は双子なのです」
 一瞬にして場が凍りついた。息を呑む音のあと、しばらく沈黙が部屋を満たす。
「双子……だったのか」
 なにやら納得した様子の雅を軽く見たあと、覚は一馬に視線を戻した。
「櫛引の家が選んだ後継は姉の空(アキ)。充は本家から遠ざけられ、やがては飢え死にさせられるさだめでした。しかし」
 今まで表情を浮かべなかった顔に一瞬だけ翳りを浮かべ、覚は少し俯いた。
「充は空を屠り、姿を消しました」
 覚の言葉に一馬は口唇を噛んだ。どういうことが起こったのかを悟る。
 やりきれない溜息が、いくつも場に落ちた。

 夢喰いを失い、櫛引は滅んだ。
 夢喰いは一代にひとり。夢喰いを失うことは、家の終わりを意味する。
 ただでさえ、現在、夢喰いは数が少ない。
(……それでもいつか俺は、この家をきっと、ほろぼす)
 成瀬は俺で終わりだ。

 食み続け、屠り続け、生き長らえる生命など。
 意味はない。

「今回のことは平にご容赦願いたい。しかし、櫛引と呉の契約はまだ生きておりますれば」
 一馬は、覚の言葉を少し遠くに聞いた。
「呉は櫛引の裏として、全力を持って、櫛引充を討ちます」


            *


 決まりきった文句。アリガトウゴザイマシタに送られて、要はコンビニを出た。
 帰ったら小テストの勉強をしなければならない。漢字検定も近い。
 けれど今日は早く寝たい。なんだか疲れていた。
 そんなに重労働をした覚えもないのにな。女子に圧されて縫い物なんてしたからだろうか、目の奥がなんだか重い。
 思わず目頭を押さえた。
 吹き付ける夜風はまだ少し生ぬるい。酷暑の名残をまだ引きずっているようだ。
 季節はもう秋なのに。

(丸三年……)
 秋頃になると良く考えてしまう。昔の夢も良く見る。まだ平気になったわけではない。
 正直なところ、要は自分がどういう状況に陥っていたのか、いまいち理解していなかったのだった。
『お前の中にはもうひとりの人格がいて、それが神様のフリをして……』
 説明されても、実感がない。
 もうひとりの人格、「ヒカリ」のことも知らないし、何しろ一馬が夢に潜っていた時のことは、一馬が「喰って」しまって、覚えていない。
 残ったのは、破壊し尽くされた自分の部屋と心身ともに傷ついた父親。罪の意識。自らの力への恐れ。
 駐車場のあたりで立ち止まって、要は自分の右掌を見た。
 何の変哲もない掌。昨日、ダンボールを切っている間にカッターで切ってしまった傷もある。
 この手にどうして力が宿ったのか。
 まだ、どんな力でどんな使い方をすればいいのか、何も分からないけれども。
(僕はこれからどうしたら……)

「あっ……」
 左側から声が聞こえて、反射的にそちらの方を向くと、何かがぶつかってきた。
「わっ……」
 咄嗟のことに、受け止めきれずに一緒に地面に倒れこんでしまう。
「ごめんなさい」
 ぶつかってきた人がそう言った。が、どうやら立ち上がれないらしい。体が触れ合っている部分から、細かい震えが伝わった。
 ようやく冷静になった要が見たのは、同じくらいの少年がふらついて自分にぶつかってきたのだ、ということだった。
「えーと、僕も突っ立ってたから別に……」
 要は自分の荷物を集めて立ち上がり、相手に手を伸ばした。引きずり上げてやる。思いのほか軽かった。
「ごめんなさい。時々、こんなふうに発作みたいになって、上手く歩けなくなったりして……」
「病気ですか?」
 相手は苦笑しただけで答えなかった。よく見ると、要と同じぐらいの髪をした、少女であることに気がついた。
 同い年ぐらいなのだろうが、髪が短いせいか、それとも痩せているせいか、女っぽくはなかった。
「葵ちゃん、大丈夫?」
「あ……」
 少女が声の方へ嬉しそうに振り返る。その動作を要は信じられない思いで見つめた。
 この声……。
 すぐ傍に停められていた車から降りてきたすらりとした人影がこちらへ近づいてくる。
「やっぱりついていけばよかったね。ごめん」
「……またふらついちゃいました……」
 さりげなく少女の傍に立ち、その肩に手を乗せた。呆然としている要を見て、さも驚いたように目を見開いてみせる。
「あれ、奇遇だね」
 顔なじみが偶然コンビニの駐車場で出会ったような、そんな笑顔を浮かべてみせる。
 要は凍りついて何も言えなかった。
「"櫛引先生"、知り合い?」
 葵と呼ばれた少女が傍に立つ男を見上げて聞いた。
 葵の問いに小さく頷き、口元を綻ばせて、櫛引という姓を持つ男は言った。

「要くん、久しぶりだね。元気そうで何よりだ」





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