5.神のいる庭


 だから言ったんだ。何も信じてはいけないって―――。



1.

 久しぶりに、自分の家の自分のベッドの上で目が覚めた。
 しばらくのあいだ、自分が一体どこにいるのか分からなくなってしまうほど久しぶりの天井。
 ああ、家か。
 ベッドの上でむくりと上半身を起こす。
 家といっても、実家を飛び出した自分に与えられた一戸建てなのだけれど。実際は、まだ数ヶ月も住んでいない場所なのだけれど。
 のろのろとベッドから降りて、カーテンを開け放った。
 太陽の位置からして、もう午前中を大分回った頃だろう。体がまだ少し重い。

 昨日、夜のうちに英の家を出て、家に着いたのは深夜を回ってから。
 ベッドに入ってからもしばらく寝付けなかったから、眠ったのは明け方だろうか。
 枕元から煙草とライターを取ると、とりあえず寝室を出て階段を降りた。最後の一段を降りきったところで、煙草に火をつける。
 一度深く吸い込んでから辺りを見渡した。しんと静まり返った、自分しかいない広すぎる家。
 わざと意識して作ったかのように、和風の匂いが一切しない、新築の。
「……苦」
 久しぶりに吸い込んだ煙草が思った以上に苦く感じて、一馬は眉をひそめた。
 何しろ、英家にいた2週間は禁煙に努めていたから。
 そう言えばいつから、煙草を吸うようになった? 居間のドアを開けながらそんなことを思う。

―――お前、いい加減そんなことやめろよ。

 キッチンに置いてあるコーヒーメーカーに近づいた。蓋を開ける。フィルターを引きずり出す。俯くと煙が目に染みて痛い。
―――どうしようもなく後ろ向きになったときは、煙草一本分何も考えずにぼんやりしてろ。自分を傷つける痛みで逃げようと思うな。
 血が勿体ない。
 そうやって、合法ドラッグを勧めたのは二つ年上の霊媒一門の次男坊だった気がする。
 煮詰まると、気分が酷く後ろ向きになると、煙草に手が伸びる癖がついた。
 頭は妙に冴えるのに、他の感覚が麻痺したようになる。そうして、崖から落ちる一歩手前で踏み止まる。
 上手く逃げる方法。

 プル、プルルルルルル―――。
 コーヒーメーカーがこぽこぽと音を立て出した頃、居間に置いてある電話が鳴り出した。
 大げさにびくりと反応した一馬は、慌てて煙草をもみ消すと、隣り合わせの居間へ駆け込んだ。
「もしもし!?」
《よぉ》
 勢い良く受話器を取るなり叫ぶと、受話器の向こう側からは気の抜けたような男の声が聞こえた。
「……なんだ、雅か」
《"なんだ"とはご挨拶だな。そーかそーか。誰かから電話待ってるならもう切る》
「……。用事があるんじゃないのか?」
 銀一門の次男坊、銀雅は、一馬の対応に臍を曲げたらしい。
《俺的占いによると、今日のお前の運勢は大吉》
 思わず受話器から耳を離し、まじまじと凝視してしまう。電話の向こうの相手は大丈夫だろうか? 頭の辺りは。
《ラッキーパーソンは優しくてかっこいい年上の兄貴分。お酌をしてあげると良いでしょう》
「は?」
 我ながら、かなり冷たい反応だったとは思うのだが、それ以外に返しようがない。
 つまり、飲みに行くからついてこい、ということらしいのだが……。
 もっとストレートに声は掛けられないのだろうか?
《とりあえず、出かける用意をして家にいろ。適当に迎えに行くから》
「ちょっと待……!」
 ぶつっ。
 何かが切れるような音が耳元で聞こえ、その後はつーつーと、愛想のない音が続いた。
「………………」
 あまりのことに、一馬は無言で受話器を電話に戻した。彼の我儘ぶりはきっと一生治らないだろうと思った。
 気がつけば部屋中にコーヒーの匂いが満ちている。電話をしているうちに出来上がったのだろう。
 台所に戻り、黒い液体をカップに注ぐ。傍の灰皿を見ると、もみ消した煙草はまだ半分も減っていなかった。
 焦っていたのがよく分かる。苦笑した。

 一体何を待っているというのか。
 馬鹿らしい。


            *


「おはようございます要さま……。おや、もうご起床でいらっしゃいましたか」
 高橋が要の部屋の扉を軽くノックして開けたとき、要は窓際に立ってぼんやりと外を見ていた。
「あ、おはようございます、高橋さん」
 体半分で振り返って、要はとりあえず挨拶を交わした。
 もうすぐ"おはよう"の時間も終わってしまうような時刻だった。
「お体のほうはもう大丈夫ですか?」
 人好きのする顔に穏やかな笑みを浮かべて、高橋が訊いてくる。ハイ、大丈夫です。と簡潔に答えた。
「それはようございました。お食事はどうなさいますか?」
「……今は、いいです」
 起きたばかりなので、と言い訳してみる。まだ体が起きてないから。
 昨日倒れたこともあってか、高橋はそれ以上食い下がらずに部屋を辞した。
 起きたばかりだなんて嘘だった。鳥が鳴き出した頃にはもう目が覚めていた。
 しばらくはベッドの中で、太陽の光が差し込んできてからは窓際で、ぼんやりと過ごしていた。
 昨日の夜はしばらく屋上に座り込んだあと、この部屋に帰ってきて真っ直ぐベッドにもぐりこんで眠ってしまった。
 色々と考えるのが嫌だった。
 窓の外には、一週間前に自分が破壊したらしい礼拝堂が見えた。修理も大分進んでいる。もう少ししたらまた"おいのり"がはじまるのだろう。
 それからあとはきっと、今までどおりの生活に戻るだけだ。普通の生活に、戻るだけだ。
 この二週間が少し、イレギュラーだっただけなのだ。必死にそう言い聞かせようとする。
 窓辺から離れてベッドの方を振り返ると、先程自分が投げ出した一枚の紙が見えた。
 ふらふらと近寄って、持ち上げる。

『何かあったら。03-xxxx-xxxx』

 年の割に几帳面な字を書くんだな、と。初めて彼の字を見たときに思った。その字が白い紙の中央に控えめに並んでいた。
 何のつもりなんだと、破り捨てて投げてしまおうとして、出来なかった。
 相手は自分をだましていたはずなのに。
 またしばらくその白い紙を見つめてから、ベッドの上へ放った。ふわりふわりと、ゆっくりと弧を描くようにして、紙は再びベッドの上へ戻った。

 何をがっかりしているんだろう。
 自分の落胆ぶりが馬鹿らしくて、溜息をついた。
 何を期待していたんだろう。
 突然やってきた家庭教師という21歳の男に。あんなふうに縋るような真似をしたのは一体何故なのだろう?
(秘密だよ、なんて)
 事情を知っている人以外には絶対に、もう誰にも打ち明けない。この傷口はずっと隠したまま抱えていく。
 そうしなければ、この内側の罪悪感を中和するだけの犠牲にはならない。
 楽になってはいけない。
―――怖くないよ。
 その言葉は。
―――そんな悲しいこと言うなよ。
 この心の内側に踏み込んでくるための、甘い毒だったかもしれないのに。

(だから言ったのに)
 耳元で、囁くような声が聞こえた。突然。
 何だ?
(だから、おれはお前に言ったんだ。何も信じるなと。信じるだけ裏切られるのだと)
 優しく諭すような、それでいて何かを押し付けるような。
 "おいのり"の前に、柴浦に触れられる時のような、奇妙な浮遊感。
(何も信じるな。何も考えるな。そうすればおれが、お前を救ってやる)



2.

「いつまで黙ってるつもりなんだ。酒が不味くなる」
「だったらなんで俺を誘ったんだよ。もっと気楽に飲む相手ならいくらでもいるはずじゃないか」
 若手カメラマンとして、霊媒師として。二つの業界に知り合いが多いこの男が、酒を酌み交わす相手に困っているとは思えない。
 それに、そもそも男ふたりで酒を飲むなんて、不毛だ……。
 しかもよりによって場所が高級料亭なのは何でだ。必然的に酒が日本酒になってしまう。
「あーあ。つれないねぇ一馬ちゃんは。お兄さんは君のためを思って色々と情報を集めてきてあげたって言うのに」
「情報?」
「そう。お前さんが出入りしている、英っていう家のことだよ」
 英、という苗字を口に出した瞬間に、面白いほど一馬の顔色が変わったのを、勿論雅が見逃すはずはなかった。
「情報って……」
 動揺が滲む声で一馬が言った。言葉は途中で切れて、続かない。
「まぁ、俺も興味があったもんでな。調べてみたら結構……」
 そう言って、雅はごそごそと荷物の中からクリップで留めた紙の束を、テーブルの上に広げた。
 顎で促され、一馬はその資料を手に取った。
「……総合病院の、精神科の資料? それが一体何に関係してるって?」
「患者の名前を見てみなさい」
 綺麗に並んだ印刷された文字をざぁっと上から下へ。人の名前を探して行く。
 それが、中段ほどまで進んだところで、一馬は呼吸を忘れてその名前に見入った。
「そして、一番下の主治医の名前も見てみな」
「なッ―――……」
 今度は口に出してしまっていた。
 中途半端に回った酔いが、もうすっかり冷めてしまうほどの。
「これで少しは、絡まっていた糸も解けそうか?」
 雅は、机の端に寄せてあった灰皿を右手で引き寄せて、ボックスの中から一本煙草を銜えた。
「その主治医、催眠療法にこだわって、結構医者仲間から鼻つまみものだったらしいぜ」
 かちり。雅のジッポライターが音を立てた。
「雅……」
 しばらくその資料を捲っていた一馬がやがて、紙の束を机の上に投げ出して俯いた。
「わざわざ調べてくれて、ありがとう。でも、俺じゃ無理なんだ。俺は要を、裏切ったんだ」
「お前な。なんでもすぐに諦めようとするのはお前の悪い癖だぞ」
「俺には分かってたんだ」
 机についた両手で額の辺りを覆った。目を閉じると海が見えた。
 夕陽が落ちて、黄金に染まる海原が見えた。

 自分の力を呪い、それに怯え、それでも逃れられない。
 手を伸ばしても誰も掴んでくれない。
 寒さを。

「分かっていたんだ。だから、気を遣うべきだったのに……」
 温かい手を望んでいたのを知っていて、差し出された掌を掴んですぐに放り出した。
「雅たちが俺にしてくれたみたいには、出来なかったよ」
「一馬、お前な―――」
 深々と溜息をついて、雅はまだ中ほどまでしか減っていない煙草を灰皿に押し付けて消した。
「お前はもう忘れてるのかも知れんが、俺たちがお前の傷口に一度も触らなかったと思ってるのか?」
 右腕で頬杖をついて、雅は、問題を起こした生徒を諭す担任のような口調になった。
「…………」
「もう本当にあの頃のお前はな。暴れるわ物は壊すわ噛み付くわ手首は切るわで手もつけられなかったがな」
 やれやれ、と雅は今日何度目かの溜息をつく。こんな風に冗談交じりで口に出来るようになっただけでも大したもんだ。
「正直、お前はもう駄目だと思ったときも、一度ならずあるさ。俺の手には負えないってな。兄貴も同じだろうよ」
 で、今のお前はどうよ? というような余裕の笑みを、雅は口唇の端に浮かべてみせる。
「全ては諦めなかったかっこいい俺様の所為だとは思わないのかね、成瀬くん。君も後輩なら後輩らしく、一度転んだぐらいでもう立てないだなんて泣き言はよしてくれたまえ」
「だって、要は昨日までは本当に、本当に信じてくれていたんだ。それを俺は……」
「それお前がこので件から手を引いたら、それこそ裏切りは成立するんじゃないのか? "成瀬一馬と言う人間は僕に取り入るために僕を騙していた"という英要の推測を裏づけやしないか? たとえお前に騙すつもりがなかったとしてもだ」
 箸を手に取った雅は、卓上の刺身に箸をつけた。でも、と言ったきり言葉につまる一馬を見て、
「お前が手を引くことによって、英要は多分もう一度傷つく羽目になるだろうな」
 さらりと残酷な台詞を吐いてみせる。
「それにそいつがその精神科に厄介になってたのは」
 雅が持った箸の先が、一馬の前に置かれている資料を指した。
 旧家で育った割に、箸の作法がなってないと、同類の一馬は反射的に思ってしまった。
「ノイローゼと、"度重なる息子への虐待"だって言うじゃないか」
「は……?」
 今、恐ろしいことを聞いたような気がする。思わず、自分の耳を疑ってしまうほどの―――。
「近くにいると、自分にはその気がなくてもどうしようもなく傷つけたくなるんだと。それも、かなり酷く」
「虐待……」
「一度は、殺す一歩手前まで行ったらしいぜ」
 一馬は改めて、資料に記された名前を見た。

 患者名:英 秀一郎。
 主治医:柴浦 征一。



3.

 ねぇ私、怖いの。怖いのよあなた。
 細く開いた扉の向こうに、二つの人影があった。
 あの子が怖いの。私。だけど、愛していると思うときも、確かにあるのよ。
 長い綺麗な髪が背に流れている。この自分と同じ、淡い栗色だ。
 このままではいつか私、あの子を殺してしまう。殺してしまうわ。ねぇ、どうしてあの子が。要があんな力を持っているの?
 かわいそう、かわいそうな要。
 繰り返しては泣いた。父は何も言わなかった。

 暗転。

 奥様、奥様―――。
 引き裂くような悲鳴のあとに続いた女の人の声。
 何で僕はこんなに、覚えているんだろう? 僕の初めての記憶は、お母さんの最期の―――。
 おやめください奥様、要様が死んでしまいます。
 自分の記憶のはずなのに、初めて見る情景だった。
 母に殺されかけたのは、一度ではないらしい。

(誰が一体、お前を守ってくれた?)
 頭の中で声がした。先程聞こえてきたのと同じ声。色々なものが混ざって、誰の声なのかは分からない。
 女のようでもあるし、男のようでもある。
(要。思い出せ。一体誰が、お前を助けてくれようとした?)

 お前が殺したんだ要。お前が母を殺したんだ。
 馬乗りになった人の影が見えた。逆光で相手の表情はよく見えない。
 伸びてきた手が、首に絡まりついた。しっかりと握り締める。
 体中が痛いような気がした。頬は多分腫れているだろう。右足も重くてよく動かない。
 助けて。
 叫んだ自分の声を遠く聞いた。
 助けてお父さん。
 お願い。お願いだから。

(誰もお前を助けてなどくれなかった)
 誰? 頭の中で直接聞こえる声に問うた。
(おれはお前を助けてやれる。救ってやれる、唯一の力。唯一のひかり―――)
 光?
(もう何にも頼るな。何も見るな。おれに全て、委ねてしまえ)


 どんどん、と荒っぽいノックで要は目を覚ました。
 いつのまにかベッドの上で眠ってしまっていたらしかった。
 体を起こす。開いたままのカーテンからは、月の光が差し込んできていた。もう夜だ。
 返事を待たず扉が開いた。
「要」
 低い声が聞こえて、反射的に身構える。別に叱られているわけでもないのだが、この声を聞くとどうしても体が怯えてしまう。
 本能レベルに、畏れが染み付いているのかもしれない。
「はい」
 返した言葉は震えていた。
 電気もつけない暗い部屋の中、こちらを見据える瞳の鋭さに、要はベッドから降りることも叶わなかった。
「要」
 扉から一歩踏み込んだところで、秀一郎はもう一度息子の名前を呼んだ。
「どうしてお前はこんなにも、私の思い通りにならん……」
 すっと細めた父の瞳が冷たくて、要はごくりと息を飲む。
「夜毎彷徨い出すお前を心配して、私はお前を助けてやろうと。お前はいつもそうだな。私のすることには絶対に従わん。それ程までに私が憎いか」
「お父さん、僕は、そんな……」
 取り繕おうと言葉を捜すが、そんなことが無意味なことを、要はどこかで気づいていた。
 最近はこの兆候は出ていなかったが、父の目があんなふうに冷たく、しかもどこか虚ろになってしまったならば、どんな言い訳も効かない。
 それは、要がこの数年で学んだことだった。
 消えることなくつけ続けられた青痣は、もうこの体にはないが。
 それでも与えられた痛みはずっと残っている。
(カズマを帰したことが気に入らないんだ)
(僕が追い出したと思ってるんだ)
 要はベッドの上から動けず、父親から視線を外すことが出来なかった。布団を握る指先が、カタカタと震え出す。


 この部屋へ訪ねてきたのは、昨日取り乱したという要の様子を見る、それだけのはずだった。
『私は、息子を傷つけたいと思ったことは一度もない』
 唐突に秀一郎は、カウンセリングのときに医者に告げた言葉を思い出した。
 ただ、要を見ていると、無性に頭に血が上る。頭が白くなって何も考えられなくなる。
 気がつくと人に止められている。すぐ傍で、要は蹲って泣きながら震えている。あたりが赤く染まっていることもしばしばある。
 それでも、傷つけたいと思ってやったことはない。信じてもらえないかもしれないが……。
―――あなた、私怖いのよ。いつか私は狂ってしまうんじゃないかって、あの子を手にかけてしまうのではないかって……。
 私はもう、狂ってしまったのかもしれないよ、栞。
―――貴方の息子さんもまた、精神を病んでいるのかもしれませんね。一度、会わせていただけませんか。
 そう申し出た主治医だった柴浦の手に、要を委ねた時から。

「要」
 名前を呼んで一歩踏み出すと、面白いぐらいにびくりと怯えてみせる。
 体の内側の温度が、一度上がったような気がする。
 そんな風に、目に見えて怯えないでくれないか。たがが外れる。
 脳裏に、ふと見かけた情景が蘇る。成瀬一馬という青年と一緒にいた時の要の顔。
 あんな無邪気な笑みを私は、見たことがなかった。
 その笑顔と、今の怯えた顔が重なる。面白いぐらい、違う顔だ。
―――貴方のお子さんには、特別な力があるようです。
「力など、無ければ良かったな」
 それは要に向けた言葉だっただろうか。それとも自分へ?
「そのような力など、持って生まれなければ良かったな」
 外へ出せば傷つくだろうと囲った。(しかしそれは自分がこの子を外に見せたくなかっただけではないのか)
 力に押しつぶされないように、その使い道を探した。(けれどそれも、結局はその力を正当化しようとしただけなのではないか)
「もう疲れただろう?」
 疲れたのは、"どっち"だ?

 ベッドの傍まで寄り、硬直している要へ手を伸ばした。
 その手が、あの日と同じように首に触れた瞬間、要の口から絶叫が迸った。

(その器をおれに渡せ)


             *


 結局一馬が家に戻って来たのは10時を回った頃だった。
 今から車もないのに銀の本家に帰るのは面倒だ、と文句を言う雅を連れて、だ。
 まぁいい。部屋はあるのだ。後は勝手にしてもらおう、などと思いながら鍵を開け、ドアノブに手をかけた。

 プル―――。
 扉をわずかに手前に開けた瞬間だった。聞きなれた音が鳴り出した。
(え……?)
 一瞬、それが何の音だかわからず、一馬はドアを中途半端に開いたままの体勢で固まってしまった。
 プルルルルルル。
「おい、電話鳴ってんじゃねぇのか?」
 固まっている一馬の後ろで雅が促す。その声に我に返り、一馬は慌てて家の中に駆け込んだ。
 その慌しさに、玄関先に取り残された雅は首をかしげる。

 電気もつけないまま、居間のテーブルやソファーにぶつかりながら、一馬は電話機まで辿り着いた。
「要ッ!」
 間違っていたらどうするつもりだ。冷静な自分がどこかで囁く。
 しかし確信があった。
 受話器を当てた耳に入り込んでくるのは、ちりちりとした雑音と、時々尾を引く嗚咽だった。
「要、要だろ? どうしたんだ……?」
《カズマ……》
 嗚咽で途切れ途切れになった声がようやく耳に届いたのは、どのぐらい沈黙が続いた頃だっただろうか?
《もういやだ、これ以上、誰も傷つけたくないよ。傷つけたくないのに……》
「要……」
《たすけて―――……》
 要の言葉の最後を割くように、受話器の向こう側の後方でどぉん、という音が聞こえた。
 ざーっ。
「要!!」
 波音のような雑音だけが耳に残り、要の声はもう聞こえなかった。
「くそっ!」
 受話器を本体に投げつけるように戻して振り返ると、すぐ後ろに雅が立っていた。
「英要か?」
 両手をポケットに突っ込んだままの緊張感のない姿だったが、暗闇の中でもわかるぐらいに目つきが鋭い。
「これから行く」
 電話機の横に置いてあった車の鍵を鷲掴みにして、一馬は玄関に向かう―――ところで雅に腕を掴まれた。
「若葉マークが飲酒運転か?」
「そんなこと言ってる場合じゃ……!」
「俺も行く。嫌な予感がする」
 雅の声は、拒めないほど強いものだった。呆気に取られた一馬はしばらく黙ったあと、しっかりと頷いた。


 酔いはすっかり冷めていた。しかし、それとは別の熱が体を内側から灼いている。
 急げと。促す。焦りだろうか。
 ハンドルを握りながら、一馬は助手席の雅をありがたいと思った。
 多分、彼がいなければ焦りで我を忘れていただろう。先程から何度も、スピードの出しすぎをたしなめられている。
「一馬、お前は今回の一件、どう見る」
 赤信号で止まったところで、雅が口を開いた。銜え煙草のまま、車通りが耐えた車道を見据えている。
「"どう"?」
「"神様"なんかの仕業だと思うか? 俺には客観的に見たところの仮説がひとつある」
 備え付けの灰皿に灰を落とし、雅が横目で一馬を見た。
「俺が考えているのも多分、雅とそう変わらないと思う。それも多分、今日雅が情報を提供してくれたからだけど」
 パッとグリーンの光が視界に入った。信号。
「神様なんかじゃ、ないはずだ」
 アクセルを踏み込んで、一馬は呟いた。



4.

 目的地にもう少しというところで、ふたりはほぼ同時に異変に気がついた。
 ざわめきと、人の気配。目を凝らして前を見ると、英の門の前に人だかりがあった。
 その上、暗い闇の中で鮮やかにくるくると回る、赤いランプが見えたのだ。
 救急車? と思ってすぐに訂正する。車体が小さすぎる。
 となると、答えはひとつだ。
 英の敷地に入ることを諦め、一馬は門から少し離れたところに車を停めた。
 雅は、一馬が車に鍵をかけているうちに、さっさと人だかりとくるくる回る赤いランプに向かって歩き出してしまっていた。
 人だかりを押しのけて、門のすぐ傍に横付けされたパトカーの方へと近づいてゆく。
 門の前で野次馬を抑えている警官に声をかける前に、雅は門の奥を覗きこんだ。
 暗いのでよく分からないが、館の向かって左側の壁が一部、吹き飛んでいた。ぽっかりと穴が開いている。
「何か異変でも?」
 もっとよく中を見ようと押し寄せてくる野次馬たちを押し返しながら、警官は不機嫌そうに声の方を振り返った。
 そこには20代前半と思われる、軽そうな男がひとり立っていたので、余計に機嫌が悪くなる。
「ああ、爆発だ。多分ガス爆発だろうがな。突然あの屋敷の一部が光って、どかぁんと壁が吹っ飛んだらしい」
 眉をひそめながらもなかなか丁寧に説明してくれる。雅は、追いついてきた一馬に向かって「だとよ」とだけ言った。
「ほら、帰った帰った。ただでさえここは扱いにくい場所なのに……」
「あの、お兄さん」
 再び声をかけられ、警官は嫌悪感を露にしながら振り返った。一体なんだ。
 すると、先程の軽そうな男が、なにやらごそごそとポケットの辺りを探っている。
「俺ら、用事があってここに来たんですけど、入れてもらえませんか」
 あまりにストレートな物言いに、その警官どころか一馬まで呆気に取られた。
「おい、何言ってるんだ。そんなこと出来る訳ないだろう。まだ原因もわかっていないんだぞ。爆発物があったらどうするつもりだ。せめて中に入っていった警官が戻ってくるのを待ってだな……」
「そうか、もう中に警官が入ってるのか……」
 日本の警官は勤勉だな、などと言いながら、雅はポケットから取り出した名刺を一枚、警官に差し出した。
 引っ手繰るようにそれを受け取った警官は、その小さな紙切れを見つめてしばらく黙った。
「そのテの件でこちらに来たんですけど」
 極めつけに、雅は彼に向かってにっこりと笑って見せた。
「……そのテってことは、"出る"んですか、ここ」
 名刺をじっと見たまま、警官がぼそりと言った。
「ええ、まあ」
「さっきの爆発ももしかして?」
「そうなりますね。じゃあ、失礼しますよ」
 警官はそれ以上止めなかった。
 それにしたがって門をくぐった一馬は、キツネにつままれたような表情で雅を見た。
「お前一体、何を……」
「何をって、銀の名刺を渡しただけ。俺もこんなに効力があるとは思ってなかったけどな。まぁ、この間兄貴が警察に協力したって言ってたからもしかして、と思ってな」
 実は本人が一番その効果に驚いているようだった。

 立ち止まって館を見上げる。闇夜に浮かび上がる西洋風の館は不気味だった。
 向かって左側の壁の一部が吹き飛んでいる。あそこは要の部屋、じゃなかったか?
 目を凝らして見つめていると、穴が開いた壁からちり、と白い光が点滅したように見えた。
 まるで一瞬の稲光。間をおかずに、どんっとまた小さな爆発音が上がった。
「一馬……」
 それを目にした雅が呼びかけたときには、もう一馬は駆け出していた。
―――もうこれ以上誰も傷つけたくないよ。傷つけたくないのに。
 夜の冷えた空気が顔にあたる。耳元では先程聞いた電話の声がぐるぐると続いていた。

―――たすけて。


           *


 扉を押し開くと、バタンという音が静まり返った広間に響き渡った。
 元々静かな場所だったが、こんなに静まり返っていただろうか、と感じたところで一馬は思い出した。
 最近は夜になると使用人を家に帰しているのだった。
 それが今夜は幸運だったのか不幸だったのかは、まだ分からない。
 とりあえず要の部屋がある3階まで上がろうと、階段を目指した。後ろから足音がついてくるのは雅だろう。
 大きな階段の下まで辿り着いたところで、一馬は人の気配を感じ取って立ち止まった。
 闇に慣れてきた目で階上を見ると、よろよろと手すりに縋ってこちらに降りてくる人影がある。
 赤い色が見えた。男の額から顔の左半分が血に染まっていた。
「柴浦さん……」
 呟きながら階段を上り、覚束ない足取りの柴浦に近づいた。
 手すりにうな垂れてぐったりとしていた柴浦は、声に驚いたように顔を上げた。血に濡れた側の瞳は閉じたままだ。
「成瀬さん、あなた……」
「要はどこですか。また、貴方がやったんですか?」
 一馬の口調に柴浦は目を見開いて息を呑んだ。しかしすぐに頭を左右に振る。
「私じゃない。もう私の手には負えない……。彼の力が自然に爆発したんだ」
 呟いて、柴浦はがくりと手すりにうな垂れ、そのままそこに座り込んだ。
「……行ってどうする」
 自分の横を通り過ぎて階上へと向かう一馬に、柴浦が問い掛けた。気が抜けたように階段に座り込んだまま。
「行って何が出来る。もう遅い」
 一馬は足を止めて肩越しに振り返り柴浦を見た。
「英要は戻らないさ。取って代わられただろうよ」
 諦めたように口元に笑みさえ浮かべる柴浦の表情に、一馬は口唇を噛んだ。
 元はといえばお前が、と怒鳴りたい気持ちを押さえ込む。
「元々の原因は、貴方が"彼"を目覚めさせたからじゃないんですか?」
「…………」
「俺は、あんたのしたことを許すつもりはない。俺は要に、"たすけて"と言われたから行く。それだけだ」
 柴浦はもう何も言わなかった。一馬は手すりに手をかけると、一気に階段を駆け上った。

―――柴浦という男、催眠療法に傾倒してかなり鼻つまみものにされててな。
 料亭で受けた説明を思い出す。
―――英要にも随分前から会っているらしい。だからもしかしたら……。

 一気に3階まで駆け上がると、流石に心臓が煩く鳴り始めた。
 要の部屋がある方を見ると、生ぬるい風が吹き付けてくるのを感じた。
 強い、威圧感のようなものも。
「酷いな」
 追いついてきた雅がぽつりと呟いた。眉をひそめ、こめかみの辺りを押さえている。
「酷い?」
「お前はそんなに感じないのか? かなり霊気が強い。ここまで強いとは、正直思わなかった。これが持って生まれたものだとしたら、恐ろしいな……」
 口に出しての弱音はないが、暗闇の中でも分かるぐらい雅の顔色が悪い。こめかみの辺りを押さえているのは、多分頭痛がするせいだろう。
「雅……」
 何とか頭痛を追い払おうと頭をゆるく振る雅に声をかけようとして……。
 突然、カメラのフラッシュのような眩い光が、要の部屋のほうから溢れ出してきた。
 暗闇に慣れた瞳に、その光は眩しすぎて、痛すぎる。
 その光が収まるか収まらないかのうちに、強い風が吹き付けてきた。先程の生暖かいものではなく、真冬に吹き付けるような冷たくしんとした冷気……。
 無言の拒絶を感じる。これ以上は踏み込むなと。
 けれど、吹き付けるその無言の重圧に、一馬は一歩踏み出した。

―――俺たちがお前の傷口に一度も触らなかったと思ってるのか?
 この気配には覚えがある。他者を受け付けないための威圧。
 周りを凍らせるつもりで、踏み込ませないつもりで、一番寒いのは誰だったか?
―――お前がこので件から手を引いたら、それこそ裏切りは成立するんじゃないのか?
 そうだ。裏切りはしない。
 これがたとえ、エゴにしかならなくても。

 半分開いたままの扉を手前に引いた。途端、冷たい風が一段と強さを増した。
 ぐるりと部屋の中に視線をめぐらすと、ベッドの傍に、ぼんやりと光る人影があった。
 また、自分が立っている場所のすぐ右側の壁に、ぐったりと力を失った秀一郎がもたれかかっているのも見えた。
 ベッドの向こう側の壁―――いつも要が立って外を眺めていた場所―――は、何か爆発物で吹っ飛ばしたように穴が開いていた。

 ベッドの傍に立っていた人影が、ゆっくりと振り返る。
 女と見紛うほどに整った愛らしい顔立ちは今や、氷のような冷たさを湛えていた。
 "神が降りている"ときと同じ空気が、少年の足元からドライアイスのようにひたひたと湧き上がってきていた。
「何をしに来た」
 要の姿をした何かが言う。
 同じ声のはずなのに、何故か全く別の声に聞こえた。
 硬く、冷たく、張りのある声―――。
「言っただろう。もう関わるなと。お前がどう頑張ったところで、要を取り巻く環境など変わろうはずもない」
 一定の距離を保ったまま、一馬は少年の姿を見つめた。足がそこから一歩も動かない。何か見えない壁に阻まれでもしているかのように。
 つぅ、と何かが顎の方へ伝い落ちてきた。それが冷や汗だと気付くまで少し時間がかかった。
 圧されている。
「君の、名前は?」
 やっとそれだけを呟いた。ともすれば後ずさりをしてしまいそうな足を必死に踏ん張って、逸らしそうになる目を真っ直ぐに向けて。
 緊張のせいなのか、鼓動がやけに煩い。それに伴って呼吸まで荒くなっているような気がする。
「名前?」
 完全に見下した体で、少年が目を細めた。嘲る眼差しで。
「何を言ってるんだ?」
 口元が笑うように歪んだ。裸足の足元から、白い煙のようなものが湧きあがった。威嚇するように。
「君は神様なんかじゃない」
 刺すような視線に負けぬよう、ぎり、と目に力を込めた。宣言のように強く言った。
 少年の顔から、表情が消えた。蔑む瞳の冷たさも、見下す口元の笑みも。
「君にも、君を判別する名前があるはずだ。教えてくれ」
 不愉快そうに眉をひそめ、それでも少年は何も言わなかった。ひゅ、と耳元で笛のような音が鳴る。
 一瞬遅れて、紙で指を切った時のような鋭い痛みが頬に走り、生温いものが溢れ出た。
「次は首をへし折るぞ」
「君には出来ない」
 頬の血を拭いながら、一馬が言った。鉄の匂いがした。
「出来ないはずだ。君が、要を守るために生まれた人格である限りは―――」
 もう誰も傷つけたくない。
 その要の願いがストッパーになっているはずだった。
 それゆえに彼は、今までの2週間、一馬をいくら邪魔者扱いしても殺そうとはしなかった。
 いや、殺すことが出来なかった。

 彼は、口唇を噛んできつく一馬を睨んだ。
 催眠療法によってその存在が明らかになった、要の底に眠る潜在能力を自在に操ることのできるもうひとつの人格。
 神と呼ばれ、また自らも神を演じてきた、要の別人格だった。

「名前は?」
 もう一度一馬は訊いた。
「聞いてどうするっていうんだ」
 先程とは違う、明らかに動揺が滲んだ声が返った。
「もう要は眠った。多分もう目覚めない。おれがこれからは成り代わって生きる。もうこれ以上要は傷つかない。もうすぐ"要"になるおれに、それ以外の名前なんて関係ない」
「名前は?」
 一馬は繰り返した。
 要の姿をした少年は、その瞳を真っ直ぐに見て、一度だけ言った。



「光」



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