6.光の行方
1.
氷のように怜悧な双眸で、少年が告げた。
「光」
「ヒカリ?」
一馬が訊き返した。
「それが、おれに与えられた名前だ」
少年の口元に一瞬だけ、笑みのようなものが揺らめいて消えた。嘲りのような。
「成瀬一馬、お前は……」
少年の体が、青白い光を帯び始めた。床に落ちていた本がひとりでにふわりと浮かび上がり、空中で上下に揺れる。
「この力が後々に植え付けられたものだと? 柴浦の催眠によって―――。そう思っているのか?」
呟きながらヒカリが目を細める。すると、空中で上下に揺れていた本が突然、一馬に向かって飛んだ。
左側の首のすぐ横をかすめ、後ろの壁にぶち当たり、本は床に落ちた。
先程頬に感じたものと同質の、鋭い痛みが走りぬけ、ぱらりと巻いていた包帯が落ちた。
首にはまだ、絞められたような鬱血の痕が残っている。
「この力は元々あったのさ。英要が持って生まれた力だ。ただ残念なことに、要の周りにはコントロールを教えてくれるものがいなかっただけ。強大な力は要の精神に比例して、暴発を繰り返す」
ヒカリは、白い腕を持ち上げ、自分の右掌を見つめた。暗闇の中で青白く弱い光を放っている。
「要はこの力を憎んだ。認めようとしなかった。だから要はこの力を使うことが出来なかった。この力が暴発するたびに耳を塞いで繰り返した。『僕じゃない』……。おれは、要がそうやって逃避する時のために、矢面に立つために作られた。この力を受け入れるものとして。だからおれはこの力を自在に扱える」
ヒカリの足元から、ざっと風が舞い上がった。渦巻きのように、辺りに落ちているものを巻き上げる。
その渦の中心にいて、ヒカリは、嬲るような風にその淡い栗色の髪を遊ばせて平然としている。
一馬は両腕で顔を庇った。吹き付ける風とともに、部屋に置かれていた本やら小物やらが飛び掛ってくる。
「秀一郎の主治医だった柴浦がおれに気づいた。眠っているおれを無理矢理起こして、引きずり出すのが得意だった。あいつはおれを使って金を儲ける方法を考え出したのさ。それに秀一郎が乗った」
「なんで、抵抗しなかったんだ。それこそ力があるなら言いなりになんてならなくても……」
「言いなり!? はっ、ふざけたこと言うなよ」
突然風が強さを増した。がしゃん、と天井から下がっていたシャンデリアが床に落ち、粉々に砕け散った。
反射的に目を閉じた一馬は、吹き付ける風が止んだのに気づいて、ゆっくりと目蓋を持ち上げた。
(……いない?)
視線の先に、ほんの一瞬前までそこにいたはずのヒカリの姿がなかった。
「おれは要に取って代わりたかったんだ」
真後ろから声がした。
振り向けなかった。
「ずっとその機会を狙っていた。だから本当は、あんたに礼を言わなければならないのかもしれないな。あんたは、ある意味安定していた要の生活を崩してくれた」
「違う、俺は……」
こんな結果を、望んでいたわけではない。
すぐ後ろで、ヒカリがくっと咽喉で笑った。
「"おいのり"の回数が増えるたび、表に出ている時間の比率が、要とおれの間とで徐々に逆になっていった。もうすぐだった。あんたが、決定打だったんだ。そんなつもりはなくても」
ヒカリの言葉は、謝辞というよりかは責め苦のように聞こえた。
「取って代わって、どうするんだよ」
一馬は俯いた。ぬるい風がずっと吹き付けていた。漆黒の髪が弄ばれるようにさわさわと揺れた。
もはや言葉はヒカリを責めるものではなくなっていた。ひとりごとのように力がなかった。
「どうする?」
すぐ後ろでヒカリが聞き返した。それは皮肉などではなく、本当に分からないというような響きを帯びていた。
「そうだよ、どうするっていうんだ。お前が取って代わったって、環境は変わらないだろう。それどころか、お前を崇めるものが増えて環境はますます悪くなる」
「それでも要はもう傷つかない」
「なんだって?」
声は聞こえていた。しかし、信じられないことを聞いたような気がして一馬は訊き返した。
肩越しに少しだけ振り返る。ぬるい風は止んでいた。
振り返った先には、年相応の、きょとんとした顔の少年がいた。
(俺は酷い、勘違いをしていたのか?)
その顔を見て、一馬は自問した。答えはでなかった。
ヒカリという人格は、そのくびきから放たれて、自由になるために、要の体を乗っ取ろうとしているのだと。
一馬はそう思っていた。
そのために要の周りのものを傷つけ、要を傷つけ、彼を心の中に閉じ込めてしまおうとしているのだと。
英要という人格を、消してしまおうとしているのだと……。
しかし彼は……。
「ヒカリ、君は……」
そこまで呟いて、一馬はその先を言うことが出来なかった。確かめるのが怖いような気がした。
相変わらず不思議そうな顔をしたまま、ヒカリが続けた。
「要がこの力を認めない限り、この力は要を傷つける。ここは……この家族と世界と環境とは要にやさしくない。要がこの体から消えれば、もう要は傷つかない。そのほうがいい」
君は、要を守るためにこの手段を使っているのか?
要を殺そうとした母親を殺し、神を装い心を侵食し、最後には父親と家にまでその力を使った。
全ては、要を守るためだったというのか?
もし、そうなのだとしたら―――。
「……ヒカリ、その手段は幼稚じゃないのか? 傷つけるもの全てを排除して、要を葬ってどうするんだ……。もっと、他に道が……」
「金儲けに夢中の柴浦と、その柴浦に従順な父親のもとで、他に何が出来る? この敷地の外に出て、世間も知らず、後ろ盾もないこどもが、どうやって生きていくことが出来る? 道はこれしかない。要が消えればいい。そうすればもう、要は傷つかないんだ」
ヒカリの論理は一馬にもよく分かった。そのとおりだ。外に出たところで暮らしては行けない。
それでも、一馬にはヒカリの機械のような従順さが癪に触った。
守る対象を消してしまうのは、本末転倒にはならないのか。たとえそれでもう、要の心が傷つかないとしても。
「それに、取って代わったあと、お前はどうするんだ……。一生、英要として生きていくのか? この環境で……」
「おれは、要を守るために生まれたんだ。当然だ」
「じゃあお前はそれで……」
振り返って、一馬は要の形をしたヒカリの両肩を掴んだ。かすかに眉をしかめて痛みを訴えるぐらい、強く握った。
「お前はそれで、傷ついたりしないのか」
悲痛な面持ちで自分を見下ろす家庭教師の顔を、ヒカリは何度か瞬きを繰り返して見つめ返した。
「わからない」
まるでカタコトのような回答だけが返ってきた。
「きずつく? なぜだ?」
一馬は呆然とその言葉を聞いた。掴んだ肩が、見た目以上に頼りないことにことにも。
「おれは、要を傷つけるものから守る。それだけだ」
一馬は、自分がまた大きな勘違いをしていたことに気がついた。
神と認識されてきたヒカリという意識のこと。
彼は要を庇護するために生まれた、"大人の"人格だとばかり思っていた。
しかしもしかしたら"彼"はひとつのことしか知らぬ、子供と同じなのではないのだろうか?
手段が思考が。幼稚なのではなく。
おさないのだ。ただそれだけ―――。
「ヒカリ。要と話をさせてくれないか」
肩を掴んだまま、その瞳を真っ直ぐに見据えて言った。ゆっくりと、そして強く。
すると、肩を掴んだ掌に内側に、感電した時のような痛みが走った。
これ以上ないというほどに、少年の瞳が見開かれていた。
「ひ―――」
ヒカリ。呼ぼうとして、一馬は失敗した。
なにか、そう、たとえばバスケットボールのようなものが、突然腹部をどんッと打った。勢いを受け止めきれずに、そのまま後ろに跳ね飛ばされる。
ベッドの横に置かれていた椅子にぶつかって、床に転がった。
激しく咳き込むと、口の中に鉄の味がした。口元を覆った掌に、赤い雫が幾つか落ちた。
「……もう誰も、起こすな」
ちりちり、と何かが燃えるような音を立てた。床に張り付いたような体を何とか持ち上げて辺りを見渡すと、青白い火花のようなものがここそこで揺れていた。
一度おさまったぬるい風は再び吹き荒れ、辺りに落ちているものを軽いものから順に吹き上げていった。
そして。
刹那の閃光。それはカメラのフラッシュにも似ていた。
一馬が目を庇うよりも先に、その光は一馬の視界を真っ白に灼いた。
ドンッとどこか鈍い音が響き、それに吊られるようにがしゃん、とガラスが割れる音がした。
どこか遠くで、きゃぁとも、わぁともつかない悲鳴が上がったような気がした。
「一馬!」
少しくぐもった声が聞こえて、一馬はそちらの方を見た。この部屋の扉だった。一馬がこの部屋に入ってきたはずのその扉はぴったりと閉ざされている。
どんどん、とその扉を叩き、叫んでいるのは雅なのだろうか。
腹に受けた衝撃が大きくて、まだ視界がぼんやりと焦点が定まらない。
「どうしたんだ! 今の音は!? くそっ……なんで……」
がちゃがちゃとノブを回しているらしいが、扉は頑として開かない。鍵などないはずなのに。
扉のすぐ傍で蹲っている秀一郎が、「うぅ……」と苦しそうにうめいた。
ようやく一馬は立ち上がって辺りを見渡した。フラッシュを直接浴びた時のように視界には残像が残っていて、上手く見えない。
必死に目を凝らして部屋中を見渡した一馬は愕然とした。
中庭に面していた壁が全て綺麗さっぱり吹き飛んでいた。
そこからは中庭はおろか、門の外でくるくると回るパトカーと救急車のランプと、先程よりも確かに数を増している野次馬の海さえ見えた。
「ヒカリ……」
少し前まで壁があった方から少年に視線を戻す。呼んだ声は、部屋中を逆巻く風に掻き消されて届かなかった。
「もう誰も、要に触れるな」
少年の瞳には、もう何の感情も浮かんではいなかった。
人形や機械のようだと一馬は思った。
「要が……」
大きな声で言うと、衝撃を受けた腹部が痛んだ。
「要が消えたいって、お前にそう言ったのか!?」
ヒカリは、煙たそうに眉をひそめた。まるで頭の周りを飛んでいるハエにするような表情だった。
つい、とヒカリがその視線を壁のあった空洞へと映すので、一馬は、ヒカリのその煙たそうな表情は、自分以外の別のものに向けられたものだということに気づいた。
ざわざわとなにやら騒がしい。
先程の2度目の爆発に、とうとう警察が踏み込んできたようだった。
そちらの方を見て、もう一度ヒカリが不快そうに眉をひそめた。中庭をうごめく黒い影がこちらに向かってくる。
すぅっとヒカリがその猫のような瞳を細めるのが見えた。軽く、腕を払った。頭の上の蝿を払うような、ごく小さな動作だった。
「ヒカリっ―――」
一馬が声を出したときには既に遅かった。
どんっと音を立てて、中庭の中ほどに青白い火の壁が燃え上がった。館を囲むように。
その炎に阻まれて、警官たちがそこに立ち往生する。野次馬から悲鳴が上がった。
「もう誰にも、邪魔はさせない」
部屋の中を吹き荒れる風の渦に混じって、その声が一馬の耳に届いた。
「要……」
呼んだ声は少年の耳には届かなかった。しかし、一馬の口が作った形に、少年の体を掌握しているヒカリは怯えるほどに動揺した。
「呼ぶな」
その名を。
その名で。
途端、風が吹き付けた。立っていることすら困難なほどの風。
目を開いていると、何かが飛んできて危なかった。顔を庇う腕や体に容赦無く何かがぶつかって、鈍痛が絶え間ない。
「要ッ! 聞こえてるんだろう!?」
叫んだ。
「呼ぶなッ!」
ぶん、と風を切る音がして向こうから花瓶が飛んできた。目の辺りを庇った腕にぶつかり、粉々に砕けた。
ひとかけら、それとももっと? 腕に刺さったような気がした。
腕を強く払うと、刺さっていた破片が剥がれ落ちた。わずかに血の匂いがした。痛みはない。
サイレンの音、野次馬の悲鳴。どんどんと、扉を叩く雅の声。
逆巻く風。
どんな音も遠かった。どんな痛みも遠くにあった。
―――たすけて。
泣き声だけが、耳の傍にあった。
(お前の声で聞くまでは)
納得できない。
吹き付ける風の中、一馬は一歩踏み出した。目も開けていられないほどぬるい風が叩きつける。
「要が本当に、消えてしまいたいと望むんなら俺は、拒む気はない」
消えてしまいたいと願うことも、そう願わずにはいられない心情も、一馬は知っていた。
一馬が選んだ道筋が、「消えない」ことであっただけで、要にそれを強制する権利はなかった。
ただ。
それを本人の―――。
「俺は! 要の言葉で聞けなければ、納得できない!」
意地だ。それも、酷く聞き分けのない、こちらこそ子供の駄々のような。分かっている。
それでも、一馬の耳には残っていた。(たすけて)。他の誰にでもなく自分に向けられた声が。
ぐっと踏み出して、吹きすさぶ風の中、そんなに広くもない間合いを詰めた。とてつもなく長い距離に思えた。
驚きに目を見開いたままの少年の顔が迫った。
伸ばした手が白い腕を掴んだ。振り払おうとしたもがく手を左手で押さえ込んで……。
「ごめん」
右手で目と額を覆った。一瞬だけ、あたりが白く染まったような気がした。
一馬は初めて自分の意思で、自らの右手に宿った力を使った。
人を眠りに引きずり込む、夢魔の力を―――。
2.
(英要にこだわるのは)
(自分に似ていると思うからだ)
(かぶるところがあるからだ)
(彼を助けることで、さも自分の過去を救ったように錯覚したいんだ。楽になりたいんだ)
(そんなことをしても何も変わらないけど)
(結局、自分のためなんだろう)
これはエゴかもしれない。
ゆっくりと目を開くと、辺りは白い空間だった。
これが、要の夢の中か、と心の中で呟く。
夢に潜るのは初めてではないはずだった。けれど一馬はその時のことを全く覚えていなかった。自分の意思で潜ったのはこれが初めてでもあった。
だから、事実上は初めて、と言ってもいい。
足に確かに地の感触はあるのに、影はなく、ただひたすら白かった。遠くを見渡しても果てはなく、見上げても空はなかった。
酷く狭いようでもあり、果てなく広いようにも思えた。
これが、夢の中。
幼い頃、父に聞いたことがある。
夢には様々なかたちがあるのだと。
その頃は、自分の家が他の家とは少し違うことを知っていたが別に気にならなかった。
むしろ面白いとも思っていた。
父親の職業も名しか知らず、詳しいことは何ひとつ教えてもらえなかった。いや、伏せられていた、というべきなのだろうか。
とりあえず、父親の仕事のことを口外しない約束で―――その頃は親との共通の秘密を持てることが楽しかった―――色々と話を聞かせてもらっていた。
夢には、様々なかたちがある。それは、夢を見ている人間のこころのかたちに影響される。
人それぞれに顔や声があって、それがひとり一人で違うように、夢もまたそうであるのだと。
『色がない夢をみる人と、色がついている夢をみる人がいるって。音がない夢をみる人と、音がある夢をみる人がいるって。そういう違いなの?』
幼い一馬のその問いに、父親は困ったように笑ってそれ以上何も言わなかった。
まだ「夢喰い」というものを、知らない頃の話だ。
「何をしにきた」
突然後ろで声がした。振り返ると、自分の胸よりも少し下あたりの背の子供が立っていた。
要をそのまま8歳ぐらいにしたら、こんな顔をしているだろう。そう思える顔立ちだった。
「ヒカリ?」
呼ぶと、少年は首を前に倒した。
「変な力を使うんだな。咄嗟で庇えなかった」
「まあね」
一馬は少し肩を竦めて苦笑した。
「来ても無駄だよ」
そっけなくヒカリが言った。その顔には何の表情も浮かんでいなかった。責めるわけでもない。
「ここに来ても、要には会えない」
「なんでだ? 要がどこにいるのか、ヒカリは知ってるんじゃないのか?」
「場所なら知ってる。だけどおれは、要に会ったことはないから」
「……会ったことがない?」
「そうだろう? 要が表に出ているときはおれが隠れているんだし、おれが表に出ている時の記憶は要にはないんだ。だから要は、おれの存在に気づいてない。本当に、乗り移った神様だと思ってるんだ」
「要は、ヒカリを知らないのか……」
なんとなくそれは、不公平に思えた。
それが顔に出ていたのか、ヒカリは少しだけ怪訝そうな顔をした。
きっと、要を守ることだけを考えているヒカリには、この感情も理解しがたいものなのだろう。そう思って一馬は苦笑した。
「……要は、どこにいるんだ?」
会えない、と言っているにもかかわらず聞き分けのない一馬の様子に、ヒカリは今度こそ呆れた顔をした。
「見えないか?」
すっと伸ばしたヒカリの指先が、ぐるりと辺りを指差した。
何が、とそれを目で追って、一馬は新しい発見をした。
真っ白だと思っていた壁だった。所々、黒い点のようなものが見える。……シミのような。
それに吸い寄せられるように手を伸ばせば、果てないと思っていた場所にしっかりと涯はあった。ただ、辺りに影が映らないのでそう錯覚するだけで。
つめたい壁に指先が触れた。指の腹が触れた壁はざらざらとしていた。まるでペンキなどを乱暴に塗ったあとのように。
かり、と黒い"しみ"の上を爪で引っ掻くと、ぽろりと壁の一部が剥がれ落ちた。ゆで卵の殻のように。
指と爪との間の柔らかい部分に、剥げた"殻"が突き刺さって鋭い痛みを感じるが、どうでもいい。
憑かれたように一馬はその部分を剥がした。
目。
壁の中の何かと目が合ったような気がして、一馬は思わず息を呑んだ。見開かれた目がこちらを見ていた。
正確には、目の彫刻。しっかりと着色までしてあって、一瞬一馬は本気で、壁の中から人間の目が現れたと思った。
ぼろぼろとその周りの"殻"を剥いでゆくと、やがて壁から上半身だけ生えているような、人間の彫刻になった。
緩やかにうねりながら顔を覆う栗色の髪の毛まで、実にリアルだ。
眉は切なげにひそめられ、瞳からは涙が伝っているようにも見える。
面立ちが、要に似ていた。
母親、かもしれない。
次は斜め下の"シミ"の辺りをはがしにかかった。正確にはシミではなかった。壁の中から何かの先が飛び出している。
ぼろぼろと剥がすと、壁の中からうさぎのぬいぐるみが出てきた。
人の彫刻、写真、などなど。壁の中からたくさんのものが落ちてくる。
ヒカリは、壁から落ちてきたものを拾い集めていた。いつのまにか両手にいっぱいになっている。
「要が」
腕の中から落ちた一枚の写真を拾い上げ、ヒカリが口を開いた。親子3人の写真だった。
「要が、自分の見たくないものの上から白を塗るんだ」
ヒカリの言葉を一馬は背中で聞いた。白かった壁には至るところに陥没が出来て要が封じ込めたものが飛び出してきていた。
決して広くはなかったその空間の隅で、一馬は、今掘り起こしたものを目の前に、声もなく立っていた。
目の前に自分の顔があった。
「最初はこの部屋は、全然白くなんてなかった」
胸にじわじわと広がりつつあった寒さが、ヒカリの一言で全身にまわった。毒のように。
「……要は?」
「諦めるんだな。無理だよ」
「なんで……」
食い下がる一馬に、ヒカリは一箇所を指差した。
一馬を模した彫刻が現れた、それはすぐ右側の壁だった。
そこにもひとつ、黒い"しみ"が見えた。
近づいて、その場所を少し爪でかく。すると冷たいものが指先に触れた。鋼鉄のようだった。チャリ、と音を立てる。
しばらく辺りを引っ掻いて"殻"を落とすと、太い鎖のようなものが現れた。
指先を絡め、鎖を手前に引いた。ぱりぱりと周囲が音を立てた。
少し力を込めると、周囲の殻が自身が起きた時のようにばらばらと落ちてきた。
さらに力を込めて引いた。
まるで除幕式のように、その壁の"殻"がざらりと全て崩れ落ちた。
じゃりじゃり、と握った鎖が耳障りな音を立てる。
一馬は、"殻"を全てはがされて、剥き出しになったその壁の前に、鎖を握り締めたまま立っていた。
一枚の、大きな扉がそこにはあった。
一馬が握り締めている鎖は一本ではなく、途中で太さも長さもばらばらの他の鎖と絡まりあいながら、ドアノブに蛇のように絡まりつき、びっしりと覆い尽くしていた。
「はいれるか?」
後ろでヒカリの声がした。
「これは……?」
「要が出たくないと願えば、鎖がひとつ増える」
一馬の横に来たヒカリが、鎖のうちのひとつを握って手前に引いた。チャリ、と音をさせただけで鎖はそれ以上動かなかった。
「夢に潜れる不思議な力を持った生きもの」
その鎖の端を握ったまま、ヒカリが一馬に向き直った。
まるで、神が言うような、大げさな口調だった。しかし彼にはそれが似合った。
「お前の精神力が続くうちに、この扉、開けるか?」
要の意識に宿ったもうひとりの人格は、他人が他人の意識に干渉するために酷く精神力を使うことを知っていた。
まして、自分の意思で潜るのは初めてという「夢喰い」に、それが叶うかどうか、一馬にも分からなかった。力の配分が測れない。
ふう、とひとつ大きな溜息をついて、一馬はどかりとそこに座り込んだ。
視界の端で、驚きに目を見開くヒカリの顔が見えた。
「俺には」
自分が握った鎖に絡みつく一本を見つけ、それから解きにかかる。
「戻れなくなって後悔するほど、執着するものがない」
言ってから、酷い裏切りだと思った。
父母、成瀬という家に関係する人々。それに銀……。大切だと思うものなら、あるはずなのに。
どうしても帰りたい、戻りたいと足を引きずるものを、一馬は感じなかった。
「今するべきことはこれだ、と思う」
じゃり、と掌の中で鎖が音を立てた。冷たかったはずの鎖がやがて、体温を奪いとって温まりはじめる。
ヒカリは何も言わず、首をゆるく横に振った。「分からない」とでも言うように。
そうして、一馬の傍に腰を下ろすと、一馬の指が動くのをぼんやりと眺めた。
鎖を解きながら、一馬はヒカリの方を盗み見た。視線は相変わらず鎖に注がれている。
随分な違いだなと、心の中で独白する。
あれほど苛烈に、要を傷つけるもの全てを排除した人格だというのに。
それともここが、夢とはいえ要の意識野だからなのだろうか。
「ヒカリ」
呼ぶと、返事はないものの視線がこっちを向いたのが分かった。手元の鎖に視線を落としたまま、一馬は言った。
「俺は夢を喰う。追い出さなくてもいいのか?」
一瞬ヒカリの顔に緊張が走ったのが、そちらを見なくても分かった。
「要の意識の一端の、この夢を喰ってこの体から抜ける。いいのか?」
それは要に、害を及ぼすことになるのではないだろうか?
言ったところで、夢に潜った以上は喰らうことをやめることは出来ないのだが……。
「おまえが入った形跡を消して帰るなら、おれは構わない」
ヒカリは、抱いた膝に顎を乗せて、また鎖を眺めた。そして視線を外したまま訊いた。
「おまえは、ひとじゃないのか?」
鎖を手繰る一馬の指がびくりと止まった。
作業が中断したのに気づいて、ヒカリが顔を上げてこちらを見た。
「ひとじゃない……かもしれないな」
苦笑して作業を再開させた。
しかし今度は、ヒカリの瞳がこちらを向いたままだということに気づく。
「俺が生まれた家は……」
するりと言葉が滑り落ちた。
「『成瀬』といって、広くてとても暗い日本屋敷で、使用人もいる。要とは少し違うけど、様付けで呼ばれるんだ」
ヒカリが聞いていようといまいと、構わないと思った。
懺悔を。聞いて欲しい。
誰か。
「俺みたいな能力を持った人間……いや、"生き物"を『夢喰い』と呼ぶんだそうだ―――」
3.
全てを話し終える頃には鎖が大分ほどけていた。
話し終わった少しの沈黙の後、一馬は大きな溜息をひとつついた。途端、強い眩暈。
長く、潜りすぎているのかもしれない。……力配分をどうすればいいかわからない。どう振り分ければ楽か、なんて。
何しろ、先達は何も教えてくれなかった。いや、教えられなかったのだから仕方がない。
ヒカリからは何の反応もなかった。今もまだ、膝を抱えて一馬のすることを見ている。
「要」
ドアノブにかかった最後の鎖を取り払って、呼びかけた。
反応はないが、鎖を解くほどに感じていた。その先に気配がある。
どさりとその場に座り込んだ。腰が抜けるというのなら、多分こんな感覚なんだろう。
鈍い金に光るドアノブを見つめた。鍵穴はなかった。
「要」
もう一度呼んだ。
扉の向こうで息を殺すような気配。
そこにいる。
一馬は、もう自分が何をしているのかよく分からなくなっていた。
雅の兄、始から夢喰いの話を請けた。そして、英要の夢遊病を調べるためにこの門をくぐった。
仕事だった。
これが仕事か、と今の自分に問うてみれば、きっと否という答えが返る。仕事の範疇を超えている。
勝手に、思ったのだ。そこから全てが狂った。
あとは、坂道を転がるように―――。
「どうして」
扉の向こうから声がした。分厚い壁を隔てたようにその声は遠くかすかだった。
「もう少し。その白い壁から全部、見えなくなってしまえば、そのうち壁に融けて、いなくなれたのに」
寝起きの声に似ていた。もしかしたら、今まで眠っていたのかもしれない。
声はぶっきらぼうで、酷く投げやりだった。
「それが、要の本音か?」
扉を見上げて訊いた。
要が本当にそうしたいのなら、そうしてもいいと思った。
要を見たとき、一馬は何故か懐かしいような気がした。同じものだ、と思った。
全てではなくても、共有できる部分がある。
だから、要が望むことは叶えてやりたいと思った。
「……本音だよ」
声が返った。
「もう何も、見るのはいやだ。きずつくのは、いたいのはもう……」
枕か何かに顔を伏せた時のような、くぐもった声がした。
「消えたいのか?」
「……消えたい」
そうか、と一馬は一言だけ漏らした。
持て余す力を持って生まれ、母に死なれ、父に虐げられ、一切の権利を奪われ閉じ込められ縛られ。
もういいと、聞こえるような気がした。
幾ら同じものだと思ったとはいえ、彼の本音を邪魔する権利は、一馬にはなかった。
「それじゃあ……」
一馬はドアノブに手をかけた。まわして引いてみても、開かなかった。それが拒絶だと思った。
ノブから手を離す。苦笑が口元に浮かんだ。
これほど必死に、何をしている。
ヒカリは先程から黙ってじっと、自分の爪先を見ていた。が。
「待てよ夢喰い」
突然顔を上げて、ヒカリが一馬を見た。
その場から立ち去ろうとしていた一馬が、一瞬呆気に取られたような顔をしてヒカリを見た。
「消してやれよ」
「え?」
訊き返した。ヒカリが口にした言葉が、何を意味するものなのか。すぐにはわからなかった。
「意識に干渉する『夢喰い』だ。そのぐらい、出来るんだろう。お前は、要が絡めた鎖を外した。また鎖がドアに絡みついて、この部屋を全て白が埋め尽くすまでには時間がかかる。お前が剥いだんだ。要を消してから行け」
ヒカリの言っていることの筋は理解できた。自分は要の邪魔をしたのだ。勝手に夢にまで潜ってきて。
酷く頭が痛かった。左側の後頭部。潜りすぎなのだろう。
「お前には、義務がある」
凛とした瞳でヒカリに言われれば、そうだと思った。勝手な真似を、散々しすぎた。
返しかけた踵を元に戻して、扉に右手を当てた。やり方など分からなかったが、どうにかなるような気がした。
実際に一馬に出来ることは、祈ることでしかないけれども。
どうか、どうかこれ以上、なにひとつとして要を煩わせるものがないようにと。
扉に当てた掌から、淡い、乳白色の光が溢れ出た。
どうやっているのか一馬には分からなかった。どう念じればこの光が出るのか、やり方など何も分かっていない。
―――夢喰いは、夢の中ではある程度自分の思った通りに出来る。夢の中だけでは……。
父の言葉を思い出した。
最後の言葉に含みがあったことなど、知らずにいた。夢の中だけでは。
乳白色の光が辺りを包み込み、まずは鎖が消えた。次に、一馬が掘り出したものをヒカリが一箇所に集めたぬいぐるみやら写真やらがひとつずつ、淡い光に飲まれるようにして姿を消した。
やがて、扉の輪郭が歪み始めた。これも多分、今にぬいぐるみと同じように消えうせる。それと共に要の意識も……。
ふと横を見ると、ヒカリが祈るような思いで扉を見上げていた。表情を見せることが少なかったヒカリの、一番情のこもった顔だった。
ああ、そうだな。と心で呟く。
安らかであればいいな。こころが。
要のこころが。きずつかなければ。
いいな。
体中の力が、扉に当てた掌から抜けてゆくのを感じていた。自分もゆっくりと死に向かっているのかもしれないと思った。
頭痛が酷くなっている。左胸の内側で鼓動が煩い。精神のみが夢にいるので、錯覚には違いないのだが。
明らかに、消耗していた。
この意識を支えているのは、もはや執念だけだろう。そう思った。
途端。
どん、と何かが胸を打った。強い衝撃に、遠退きかけていた意識が連れ戻される。
我に返って見渡すと、扉に当てていたはずの手が、力を失ってからだの横に落ちていた。
腹部に鈍い痛みを感じてそこに視線を落とすと、ぶつかっていた。鈍い金の色をしたドアノブが―――。
よろめいて、半歩あとずさると、半分開いていた扉が完全に開け放たれた。
今度は扉の内側から、何か別なものが飛び出してきて腹にぶつかった。受け止めきれず、そのまま後ろに尻餅をついた。
苦しくなって初めて、一馬は自分が息を忘れていたことに気がついた。ゆっくりと息を吐き出すと、腰の辺りに絡まりつく腕の温度を改めて感じた。
ぺたりと体の後ろについた腕が、がくがくと震えていた。何とか持ち上げて、腰に縋る腕に寄せた。
その腕に触れた瞬間、小さな体が、こちらが驚くほどに震えた。
「……たくない」
一馬の腹の辺りに顔を埋めて、上擦った声で小さな体が言った。嗚咽交じりの声で。
「死にたくない」
栗色の頭を上げて、要が言った。
縋るように一馬を見上げる大きな瞳には溢れるほどの涙が湛えられていた。瞬きするたびに、頬を伝ってぱらぱらと落ちた。
それからまたすぐ、一馬の服を強く掴んで、胸の辺りに額を擦りつけた。
「やっぱり、死にたくないよ……」
言ったきり激しく肩を震わせて泣きじゃくる要の背中に、おかしいほど震える自分の手を沿え、撫でた。
あたたかかった。
要の背を撫で続ける自分の手に、雫が落ちた。
そうして初めて一馬は、自分が涙を流していることを知った。
小さな影が動いたのはそのときだった。
開け放たれた扉のすぐ傍に立っていたはずの8つぐらいの少年が、その扉に駆け込んだのだった。
「ヒカリ―――!!」
一馬の声は、扉が閉まる音と重なった。
要をゆっくりと引き剥がし、一馬は扉のドアノブを握った。
鎖もない、鍵穴もないのに、扉は開かなかった。
二度と―――。
4.
白い空間だった。
夢の中ではないのだな、と何度も一馬は自分自身に確かめた。
消毒液の匂いが鼻をつく。壁という壁は白かった。
ひと。
そう、人もいる。ここは夢の中ではないのだ。
「お前、本当に大丈夫か?」
何度もそう言って食い下がる雅を、病院の食堂に置いてきた。
俺は反対だぞ。お前にも、あの子にも、いいとは思えないんだ。
本当にどうしようもなくなったときにはお前の叱りを受けるから。
そう説得して同行を拒んだ。今頃は多分、喫煙所で怒りに任せて煙草を吸っているところだろうか。
我儘、だった。
それは重々承知している。我儘以外のなにものでもない。
一馬は、目の前のドアに手をかけた。
あの夜。
目が覚めると、体が酷く重かった。自分が力を使いすぎたのだということに気づいた。
腕の中に、ぐったりとした小さな体があった。息と鼓動とを確かめて、ホッと安堵の吐息を漏らしたのと同じぐらいに、部屋の扉が開いた。
突然開いた扉の向こうに、呆気に取られた雅が立っていた。
中庭で燃え盛っていた青白い火の壁もいつのまにか消えていた。
しばらくそのままぼんやりしていると、警察官と救急隊員が立ち尽くす雅を押しのけて部屋に踏み込んできた。
ぶつりとそこで意識は途切れている。
次に目を覚ましたのは3日後だった。起きてしばらくは思考が働かない。
見上げた天井が日本屋敷のものであることに気がついて慌てて飛び起きると、がんと頭を殴られたような痛みがあって、ぱたりと布団に沈んでしまった。
おい馬鹿、起きるんじゃねぇっ! と一喝されてそちらを見ると、ちょうど障子を開けて雅が入ってくるところだった。
するとここは、銀の屋敷らしいと見当をつける。
英家から運び出される途中でお前もぶっ倒れたんだ、と説明される。
どうりで、ぽっかりとそこから記憶がない。
余程もの欲しそうな顔をしていたのだろうか。大げさすぎる溜息を一度ついたあと、雅がその後のことを説明してくれた。
柴浦の姿は消えていたこと。
秀一郎は強く壁に叩きつけられたせいで肋骨を2本骨折。その上精神的な治療も必要で入院したこと。
新興宗教は解体されたこと。
事件は表向きではガス爆発ということで片付けられたが、あまりに不可解なことをあまりに多くの人々が見てしまったせいで、面白く書きたてた週刊誌や新聞も多々あること。
なにより、保護者を一時的であれ失った英要は、親戚の引き取り手もなく、施設送りに決まりそうだということ。
それを聞いた瞬間、一馬はもう一度体を布団から起こしかけて「馬鹿野郎ッ」と怒鳴られた。
いいな、変な気は起こすなよ。散々雅は釘を指したが、もうそのとき既に一馬はその「変な気」を固めていたのである。
始が手を回してくれたことを、一馬は知っている。雅も散々「兄貴は一馬に甘い」とぼやいていた。そうだと思う。
普通ならば、血縁関係も何もない人間が、踏み込める領域ではなかった。
しかも、たかだか21になるだけの若者が。過ぎた我儘だ。
それでも、一馬は勝手に思ってしまったのだ。似ていると。
彼と自分は似ていると。放っておけなかった。
ドアノブをゆっくりと回して手前に引いた。夢の中と違って、そのドアは酷く呆気なく開いて一馬を迎え入れた。
白で統一された病室。
一見誰もいないように見えた。
ぐるりと室内を見渡すと、窓が開いていて白いカーテンが内側に棚引いていた。窓の向こうの青空がきれいだった。
その窓の下に、パイプ椅子が置かれていた。病院や学校には幾らでもある類のそのパイプ椅子にちょこんと腰掛けて、この病室の一時的な住人は窓の外を見ていた。
窓の外を見ているのか、それとももっと他のどこかを見ているのか。
ぼんやりと、時々瞬きをするだけで何を見ているのかは分からなかった。
見舞いも何も、なかったと聞いた。
ここに来る途中、看護婦に、あの子本当におとなしくて、殆ど喋ってくれないんですよ、と苦笑された。
仕方ないのではないだろうか。彼は病院は初めてだった。きっと緊張している。
彼は来訪者に気づかない様子でまだ、窓の外を見ていた。
さわり、と風が吹いて柔らかそうな栗色の髪を撫でていった。
「要」
一馬は呼んだ。
窓際に座った英要は、ゆっくり二度瞬きしてから、こちらを向いた。
その瞳が、驚きにわずかに見開かれる。
「カズマ……」
言ったきり、要は声をなくして一馬を見ていた。
膝の上に両手を置いたまま、ぼんやりと一馬を見上げている。
「怪我の方はもういいみたいだな。主治医さんから聞いた」
一歩一歩、獣を手懐けようとでもしているようにゆっくり近づいてくる一馬をただ要は見ていた。
ちいさく、うん、とだけ頷いた。
「お父さんのことは……」
「聞いた」
「他のことも?」
こくり、と要は首を前に倒した。全部受け止めた、少し寂しげな顔で、笑った。
おそらく、これから先自分がどうなるのかもきっと、知っているのだろう。
一馬は、握手をするように、右手を要に差し出した。
先程まで全てを悟りきったような穏やかな表情をしていた要が、怪訝そうに眉をひそめて一馬の掌と顔とを見比べた。
「行こう」
怪訝そうにしかめられていた眉の下で、細められていた瞳が次第に、
「これは俺の、エゴだけど。君はここに、いちゃいけないと思う」
驚きと他の何かがない交ぜになって見開かれてゆくのを、
「一緒に、行かないか」
一馬は見た。
詳しい話は一切あとだ。
どういう風にして要を迎えに来る権利を得たのかなんて、それはあとでいい。
そんなもの、後回しでいい。
今は。
今は、この手を他の温度が握り返してくれるか否か。ただそれだけが真実。
要は、膝の上に乗せた右の掌を、ゆるゆると持ち上げた。少しだけ震えていた。
差し出した右手の上に、別の温度が触れた。少し冷たかった。
握手をするようにしっかりと、偽家庭教師の手を握り締めて、こくりと首を前に倒した要は、ようやっとのことで「うん」と小さく頷いた。
俯いた要の瞳から、光るものが膝に落ちた。
綺麗なひかりだった。