4.秘 密


―――秘密だよ。



1.

「……どうしたのそれ」
 やっぱり言われた。要の部屋の扉を開けたところで、一馬はわずかに肩を落とした。
 この話題に触れないわけにはいかないのだろうと、首に巻きつけられた真っ白な包帯にわずかに触れた。
「寝違えたときにちょっと酷く、捻ったんだよね」
 大げさに巻きつけられた包帯。どこまで寝違えの言い訳が通じるかはわからなかったが、要はしばらく包帯をじっと見たあと「ふうん」とだけ返した。
 再び本に視線を戻す要の横を通り過ぎて、閉ざされた窓を開けに行く。
 視界の端に、青いシートをかぶせられた礼拝堂が映った。
 嘆息。窓際から離れる。要は相変わらず本に視線を落としたままだ。

 あれから既にもう、暦は一週間近く過ぎている。
 力の暴発による爆発。光が収まった礼拝堂は、屋根の一部が飛び、ステンドグラスが割れて飛び散り、一瞬で廃墟と化していた。
 その真ん中で、ガラスの破片に塗れて座り込んでいる要に、気がついたら駆け寄っていて。
 震える肩に触れていた。
 すると、要はそのままふっと力を失い倒れこんでしまったのだった。
 それから一週間、「おいのり」は中止されている。
 要は礼拝堂の惨状を見てから、自分がやったものと知って酷く落ち込んでしまっていて、あまり口も聞いてくれない始末だ。

 一馬は、部屋に備え付けられている簡易のキッチンに入った。
 お互いコーヒー愛飲者なので、それで少しは間を持たせられるだろうと思った。

 要の落ち込みようとは逆に、その日から夢遊病の方は頻繁に現れるようになった。
 それと共に一馬の体には色々な痣ができるようになってしまった。
 それのほとんどが服に隠れて見えないところであることは幸いだが、両手首の痣は一週間が経とうとしている今でも消えないし、なによりも……。
 コーヒーメーカーをいじりながら、片手で自分の首に巻きつけた包帯に触れた。
 今朝いつも通りに起床後、洗面所に立った一馬は、しばらくの間呆然としてしまった。
 ナンダコレは!? という自分の悲鳴を聞いたような気もする。
 体のあちこちに切り傷や紫色の内出血が点々とついているとはいえ、これは困る。これは酷い。
 鏡に指紋や手の型がつくのも構わずに、首の辺りに触れた。そこには、両手の指が絡まりついて絞め上げた痕が、くっきりと赤黒く残っていたのだった。
 流石に首を絞められた痕をさらして歩くわけにはいかない。要への影響以前の問題だ。人として。
 と、高橋が運んできてくれて以来大活躍の救急箱を引っ張り出して―――そろそろ包帯がなくなりそうだが―――首に巻いた。
 どんどんミイラに近づいていくな、というのが正直な感想だ。
 しかし今日は要に会わないわけにはいかない日だった。

 こぽこぽとコーヒーメーカーが音を立て始める。
 その漆黒の液体を見つめながら、一馬は昨日、英氏と会ったことを思い出した。

『最近、どうだね要の様子は』
 今まで一度も顔を出さずに何が「どうだね」だとは思ったが、とりあえず落ち込んでいる旨は伝えた。
 雇われた身で、しかも2週間ほど滞在していながら全く何も結果を出せていない自分も悪いのだ。
 何か分かったのか、という疑問を言葉の端々から感じ取って、一馬も非常に居心地が悪い。
『何でも言ってくれ、私が協力できることは何でもしよう』
 穏やかな笑みを浮かべて足を組み替える秀一郎に、一馬はふとよからぬことを思いついた。
 よからぬこと、というよりかは一馬にとっては大変にいい思い付きだったのだが。相手にとっては歓迎されないことだろう。
『それじゃあ、お言葉に甘えて秀一郎さん、ひとつお願いしてもよろしいですか?』

「要」
 淹れたてのコーヒーの入ったマグカップをふたつ持って、要の部屋に戻る。
 本から顔を上げた要に、手に持ったマグカップを少し上げて見せた。
 すると、要は何度か瞬きをした後、本を置いて立ち上がった。
 この、コーヒー牛乳も飲めなそうな愛らしい少年は、実はブラックコーヒー愛飲者なのである。
 丸テーブルに向かい合わせるように腰掛ると、要はそのままマグカップを持ち上げ口元に運んだ。
「要。今日これから、出かけないか」
 自分のマグカップに砂糖を落としながら―――悪いがこちらは角砂糖2つは基本だ―――言った。
 すると、向かいの要はマグカップを両手で持ったまま、固まった。
「え?」
 変に上擦ってひっくり返ったような声がしばらくして返った。大きな瞳をさらに見開いてそのまま。瞬きもしない。
「でかける?」
「そう。外に」
「むっ……!」
「"む"?」
 要はがたりと少し乱暴にマグカップをテーブルに置いた。波立った黒い液体がわずかに白いテーブルクロスにしみを作る。
 "む"と言ったきり、何かを言おうとして言葉を探しあぐねている要は、ぱくぱくと金魚のように口を開閉して。
 やがて。
「無理だよそんなのッ! 第一……」
「お父さんからは許可貰ってるよ」
 要の抵抗を封じ込める最大のカードを、さっさとしかもさりげなく投げ出した。
 今度はぽかんと口を開けたまま固まってしまう。
「本当に?」
 下から上目遣いに、少し怯えた様子で要が訊く。
「うん。俺が話してきた」
 笑顔で言ってやると、要は、心を落ち着かせようというのか、少し冷めたコーヒーを口に運んで黙った。
「どこに、いくの?」
 次に要が口を開いたのは、マグカップの中の液体を全て飲み干してからだった。
 表情に、隠しきれない喜びの疼きのようなものが混じっている。
「うーん、俺はどこでもいいんだけど。ただ」
「ただ?」
 要の顔から喜びがなりを潜め、代わりに不安のようなものが覗いた。
「運転にはあまり信頼をおかないように。まだ若葉マークが取れてないんだ」
 大真面目な顔で一馬が言った。視線を交わしたまま、要は何度か瞬いて、そのあと。
 吹きだした。



2.

 視線は常に窓の外に向けられている。
 そんなにじーっと近くの景色を見ていたら酔うんじゃないかと思ったが、どうやら集中しているらしく、気持ち悪くはなっていないようだ。
 じっとそんなに見つめるぐらい。珍しいものがそこにあるのかと。
 赤信号に塞き止められたのをいいことに窓の外を見た。
 そこには至って普通の風景しかなかった。美しい自然の風景があるわけでなし。
 普通の歩道。

 普通のものが珍しい?
 そうなのかな?

 バックミラー越しに、窓にへばりついている要を見ていると、視線を感じたのか、その鏡越しに目が合った。
 少しして、相手のほうから反らされる。
 信号が変わって緩々と車が動き出した頃。
「……ねぇ」
 相変わらず窓の外に視線を投げたままの要の口唇から声が漏れた。
 女の子のような高い声が、少し沈んでいる。
「なに」
 フロントガラスの向こうを見たまま、返した。
「……怖くない?」
 窓の外に向いている瞳。しかしそれは何かを見ているようで何も見ていないのかもしれない。
 要の問いに主語はなかった。
「……カズマは僕が、怖くないの?」
 間を置いて、丁寧に言い直した。
「みんな気味が悪いって言うよ。聞こえないように、だけど……。でも自分でも分かるんだ。普通の人には無い力、なんだよね? 使ってる間の記憶は、無いけど……。僕は……」
 窓ガラスに手を張り付かせたままで俯く。
「僕は怖い」

 自分が。
 この力が。
 何かをきずつける。そのことが。
 それによって、自分がきずつく。そのことが。
 怖い。

「俺はそんなに、怖くないな」
 バックミラーに、ハッとこちらを見る要の顔が映った。
 どうして、と目が訊く。
 十字路を左に折れる。次第に街並みを離れるように、郊外へ。
 猫のような丸い瞳がこちらを凝視したまま、息を殺しているように見える。
「俺にも、変な力がある。要とは質が違うものだけど……。普通の人間には無い力があって」
 車内に微妙な空気が流れた。いぶかしんでいるような気配。
 慰めるために口からでまかせを言っているんじゃ? そう身構えているみたい。
 当たり前か。にわかに信じろというほうが難しい。
「それで、人を傷つけたことがある。もう1年以上前のことになるけど……」
 口元が笑みを刻んでいることに気がついた。苦笑? それとも自嘲だろうか?
 心の底から笑って思い出話にするにはまだ早い傷口であることをここ数日で自覚した。
 もう、癒えたものかと思っていた。そのつもりになっていた。
「塞がらない溝をまだ、作ったままなんだよね。もしかしたら……」
 その先を言うのは避けた。
 言霊というものを素直に信じているわけでもないが、口に出したら、本当になるような気がした。
「要だけに教えるから、秘密にして」
 懺悔かもしれないと、ぼんやりと思った。
 13歳の少年に。初めての仕事の相手に。一体何を話すのかと。
 しかし口唇の制御は外れていた。脳と体と心が全部、ばらばらの方向に引っ張られているように。

「俺はね―――」

 やっと聞こえるような小さな声で、ぽつりと呟くと。
 猫のように丸い瞳をさらに大きく見開いて、要が声をなくした。
「……怖いだろう?」
(俺はいつもそうだ)
 バックミラー越しに視線を交わす。要は答えなかった。
(こうやって、相手との間に境界線を引く)
(近づかれないように)
(傷つけずにすむように)

 そう思いながら自分が一番傷つきたくないことも、本当はよく知っている。


            *


 繰り返す。寄せて返す。
 音がずっと。少し遠くで、耳元で。
 距離の分からない場所で鳴っている。
 それはもしかしたら、この体の中なのかもしれない。

 ざん……。ざ……ん。

 3時ごろに英の屋敷を出て、この場所についた頃にはもう、西の空が茜色に染まっていた。
 途中、渋滞に阻まれたりもしたせいなのだが。正直なところ、少しでも英の家から遠いところに連れてきたかったのだ。
 車内では殆ど会話も無かった。さっきの話以外。
 お互いが何か話題を探して、探しあぐねて結局何も口に出来なかったのだ。

 しかし今、隣に立った要が黙っているのは、本当に言葉を無くして目の前に広がる景色を見ているからだ。
 ただ広がる青い布のような水の上に、赤い帯がこちらまで伸びてきていた。
 夕陽。

 季節は秋。
 けれど、日中の熱を集めた砂は足の裏に多分、まだ温かい。
 裸足のまま、要が躊躇いがちに一歩を踏み出した。さくりと、足元で小さな音が鳴る。
 ゆっくり、確実に。足元の砂を踏みしめて。
 足の指の間に、ひたりと寄ってきた水が絡まりついた。
 擽るように遊んで、また引いてゆく。
 きらめきの粒子を孕んで、赤いひかりを含んで。足元で踊る。
 今日の太陽がもうすぐ死ぬ。
 明日に備えるために。

 足元の砂は、濡れて黒くなっていた。断続的に水で浸される場所まで来た。
 もう追っていかなくても、一定期間でまた、戻ってくる。波が。

 この目で海をまだ、見たことがない。
 そう告げたのは一週間ぐらい前だろうか。もっと? もう時間の感覚もよく分からなかった。
 単調な毎日が訪れては終わる、あの限られた空間では。
 いつも同じ朝が来る。

 素足を撫でてゆく波は赤とも橙ともつかない色を湛えて揺れていた。
 俯いて足元を見ていると、急に視界がぼやけた。
 ぱたっと小さな雫が重力に導かれて下に落ちて、視界が透き通る。
 胸の辺りからこみ上げてきた嗚咽を、何とか噛み殺す。泣く理由なんてない。
 どこにもない。

 顔をあげて前を見た。見渡す限りに広がる海原の涯に、徐々に静かに飲み込まれてゆく茜色に燃える太陽。
 瞬きも忘れて、じっとそれを見つめた。
 目が潤んでいるからなのか、瞬きしなくてもそんなに痛くない。
 痛いのは、左胸のほうだ。左胸の奥にあるという、心のほうだ。
(僕はそんなに、気が狂うほど、海を見たかったわけじゃない)
 波を、砂浜を、切望していたわけではない。
 それなのにこんなにも胸が締め付けられるのは多分。
 ここに。自分が、この足で立っているから。
(僕はずっと抱えていくって決めていたんだ)
 だから敢えて、あの空間の中に自分を置くことを選んだ。自由の効かない場所を選んだ。
 縛られる鎖に、両手を束ねて差し出した。拘束して。だってそれが。

 ツミホロボシ。

 だけど、外がいいのかな? 外を望んでしまうのかな? まだ。
 優しい光が、降ってくるから。暖めてくれると思ってしまうから。
 すぐ傍で。

 ざ……ん。

 ざっと、すぐ後ろで砂を踏む音が聞こえた。確かめなくても誰なのか分かった。
 太陽はすっかりもう沈んでしまっていた。紫色に染まった空。濃紺の海原。
「そろそろ戻ろうか。風も冷たくなってきた」
「ねぇ」
 そう言って踵を返そうとする一馬を呼び止めた。真っ直ぐに、太陽の沈んだ方を見たまま。
 ざっと砂を踏む足音が不自然に止まった。立ち止まった音。

 僕はまだ。
 信じたがっているんだろう。
 自分を許せないままで。
 それでも、誰か―――。

「カズマだけに、教えるから、秘密だよ」
 声が震える。
 怖かった。反応は? 突き放されるだろうか。
 俯いて、波に浸されたつま先を見た。鼓動が少しずつ大きくなる。
 僕はまだ信たがっているんだろう。誰かがここにやってきて、手を差し出して。
 自由になってもいい。そう言ってくれるのを。


「僕、殺したんだ。お母さんのこと―――」



3.

 秘密だよ。
 嗚咽の混じった笑い声でもう一度付け加えて、そのまま要は黙った。
 薄暗い夕闇に包まれた中でもその小さな肩が震えているのが分かるのに。
 何も言えなかった。

「僕の一番最初の記憶なんだ。よく覚えていないけど、お母さんが死んだ年と照らし合わせると、僕が5歳のとき……」
 繰り返す波音に掻き消されそうになる声。一馬は必死に耳を澄ました。聞き逃さないように。
「ちょうど、僕の変な力が出始めたときで、お母さんはすごく、不安定になってたみたい。僕はちっちゃかったから細かいことまで覚えてないけど……」
 母親の部屋にいた。その頃母親の綺麗な鏡台の前には、見慣れない薬瓶が増えていた。
 母親の態度は日によって、気分によって違っていた。触れる小さな手に怯えて振り払う日もあれば、必死に甘やかそうとする日もあった。

―――要、ねぇ要……。
 一番初めの記憶。部屋の電気を反射する、鋭いひかり。
 空いている手で、温かい手で頬を撫でて、涙を流しながら美しく笑っていた。
―――ごめんね。
 カッターを持った手で、綺麗に笑う顔。それがはじめの記憶。

「『貴方を産んだりしてごめんね』って、言われた。左手で頭を撫でながら、右手にカッターを持ってた」
―――大好きよ、要。大好きだから。
 繰り返す波音と重なって打ち寄せる声。大好きだから、この手で。
「耳の下に傷があるんだ。目立たないところだけど……。その時の傷で、消えない」
 鋭い痛みのあと、首を伝って落ちた生ぬるい液体の感触を、今も覚えている。
 瞬きも出来ずに真っ直ぐ母親を見ていた。母親が持っているカッターが電気を跳ね返す。赤く光る。
 おかあさん、いたいよ。
 大丈夫よ。可哀想に。大丈夫よ。
 仰向けに転がった体の上に、母親が覆い被さってきた。長い髪が頬を擽るように垂れてくる。光が遮られて、暗い。
 ぽたりと頬の辺りに生暖かい雫が落ちた。
 涙。
 頬を撫でていた手を小さい胸の辺りに置いて、血のついたままのカッターナイフを振り上げた。
 じんじん、血を流す首が痛い。

 ぼくは、
 まだ、
 しにたくない。

 振り下ろされる刃のひかり。スローモーションのように灼きついて、次の瞬間。
 真っ白な閃光で視界は灼ききれた。どん、と見えない何かが体の奥底から爆発的に溢れ出した感覚だけが残った。

「悲鳴で、目が覚めた。それだけはしっかり覚えてるんだ。おんなのひとの悲鳴……」
 母親のものではなく、多分当時雇われていた家政婦さんのものだと思う。
 その人は扉のところで立ち尽くして入ってこない。小さな体を何とか起こすと、すごく重くてめまいがした。
 首から血が出てることなんて忘れていた。

「壁紙、あの部屋、元は薄い緑、だったんだけど……。一面赤くなってて……」
 何かが激しくぶつかったみたい。絵の具を投げつけたみたいに広がった場所から、ずるずる何かが滑り落ちたみたいに小さな赤い滝が出来ていて。
 その下に、蹲るようにして動かないものが。
「脇腹にカッター、刺さってた」

 ざ……ん。

「僕のせいだ……」
 一馬は、両手で顔を覆ってしまう要の背中を見つめた。
 しょうがないよ、事故だったんだ。
 何も知らないままならきっとそう言えた。
 仕方ないよ。仕方ないよ。
 しかし、そんな言葉で癒されない痛みを、困ったことに一馬は知っていた。
 どんなにその言葉で慰められても、納得できない"自分"がいることを。
 他にもっと、もっと。あったはずの道を探そうとするから。

 もうすっかり辺りは真っ暗になっていた。半分ほど欠けた月が、今度は濃紺の海原に金の光を落としていた。
 後ろからそっと近づいて、震える肩に手を置いてみた。激しく、怯えるように震える肩。
「もう、帰ろう。体が冷える」
「カズマ……」
 縋るような瞳で、要は肩越しに振り返った。何かを求めるような眼差しで。
「俺も同じだから……」
 ようやく見つけた言葉がそれだった。
 その言葉が慰めになるのかなんて、分からない。ただ、知ったような言葉を与え合うのは嫌だった。
「カズマ、僕は……」
 振り返った要の額が、こつんと胸の辺りにぶつかってきた。縋るように伸ばされた手が服を掴む。
「僕は……生まれてきちゃいけなかったのかな……?」

―――貴方を産んで、ごめんね、要。

「僕が生まれてこなかったら、お母さんも死なずに済んだんだよね? お父さんも…………」
「……要」
「もう、苦しいんだ、本当は……」
 呪縛のように残っている。"産んでごめんね"。
 後悔してるの? 産まなきゃ良かったって?
 ここにいちゃいけないのかな、僕は……。
「要!」
 何かの発作が起きたようにがくがくと震える要の背中をさすってやりながら、少し大きな声を出した。
 弾かれたように要が顔を上げてこちらを見た。
「生まれてきていいのか悪いのかなんて、誰が決めるんだよ」
 それはもしかしたら、自分のための言葉なのかもしれないと、ぼんやりと一馬は思った。
「そんな悲しいこと、言うなよ」
 皿のように見開かれた丸い瞳が歪んだ。服を握り締めていた指に力が入る。
 何かを言おうとして口を開き、そしてもう一度閉じた。最後に小さく「うん」とだけ頷く。
「じゃあ、もう帰ろう。随分遅くなったし……」
 ゆっくりと服から手を離した要を促す。潮が満ちてきていたらしく、いつのまにか膝の中ほどまで濡れていた。
 車へと砂浜を歩いていると、後ろからさくさくと足音がついてくる。一定の距離を保ったままで。
 ここから帰ると、大分遅くなってしまうだろうか……。そんな不安がよぎったが、まぁ何とかなるだろう。
 こう言うところは楽天家の一馬である。
「カズマ」
 車の傍まで来たところで、呼び止められた。
 半分だけ振り返ると、すっかり普段どおりの顔になった要が、不思議そうに首の辺りを見ていた。
「首の包帯、取れかかってる」
 先程海で半分揉みあいになったときに緩んだのだろう。何気なしに要が包帯に手を伸ばした。
 途端、ぱらりと白い包帯が首から外れて、落ちた。
(やばい……)
 焦って首に片手を当てたが、時既に遅く、首に手を伸ばした体勢のまま、要はびしりと固まってしまっていた。

 首に残っていたのは、紫色に残る、首を締められた痕―――。

「あの、要、これは……」
 何とか取り繕おうと一馬が言葉を捜すよりも先に、要の体がぐらりと揺らいで、そのままそこに崩れ落ちた。



4.

 オマエガ。
(ガンガンと耳元で繰り返す声)
 コロシタ。
(まだ細い首に、絡まりつくゆびさき)
 ごめんなさい。
(謝ろうとして声が出ない)
 誰か助けて、助けてください。


 ベッドの上で跳ね起きた。
 体の内側から噴きだす、あまり心地の良くない汗。
 ばくばくと左胸の内側で心臓がものすごく煩くて、思わず手を当てた。
 口から荒い息だけが落ちていく。
 きもちわるい。
 胸に当てていた掌を引き剥がして、首へ持ってゆく。嫌な汗をかいていた。べとべとする。
 息苦しいのは、多分錯覚。フラッシュバック……。

 灯かりの一切ない部屋の中を見回す。いつもはベッドの傍に置いてあるはずの水差しがない。
(咽喉渇いた……)
 咽喉に手を当てたまま、ベッドを下りる。隣り合わせになっている部屋の、簡易のキッチンに向かった。
―――そんな悲しいこと言うなよ。
 蘇る言葉とともに感じる痛みは、絶望だけではなかった。
 何か違うものが混ざっている気がする。それが一体なんなのかは分からないけれど。

 電気をつけないまま傍にあるグラスに水を注いで、飲み干した。
 咽喉の辺りから体中に、冷たいものが広がってゆく。冴えてゆく感じ。
「…………でした」
 突然耳に声が飛び込んできて、身構えた。手を離れたグラスがからり、とシンクの上で倒れる。
 声のした方を見ると、廊下に繋がっている扉があった。声はその向こうから聞こえてきている。
 静まり返った屋敷に、よく響いていた。
 誘われるように、要は廊下に出た―――。


            *


「すみませんでした。私の不注意でした」
 宛がわれた部屋に突然、英秀一郎が尋ねてきたときは、流石の一馬も「やばい」と身構えた。
 神妙な顔つきで頭を下げた。
「いや。"あれ"が倒れるのは良くあることだ。―――ところで、どうだその後」
 あれ、という指示語が耳に絡まりつく。自分の息子を指すのに、なんと寂しい言葉だろうか。
 倒れるのが良くあること? 顔色も変えずに言える言葉なのか。
「最近、夢遊病の症状が顕著になってきました。多分心に負担がかかっているんだと思います。でも、何が直接の原因かは……。もう少し彼と話をしてみないことにはなんとも……」
 荒療治の方法はないわけではない。催眠に近い形で眠らせて、そのまま強引に潜ることも出来るが、それは相手の負担になる。
 何より、初仕事ということで、自分がちゃんとできるのかどうか不安でもある。
 潜るのは、夢という形をした"心"なのだ。乱暴にすると傷つく。酷いときは壊れる。
「2、3思い当たることがないわけじゃないんですけど……。デリケートな問題ですから、慎重になります」
「もう2週間ほどになるのか。あれもよく君に懐いているようだ」
 ふっと、秀一郎が口元に苦笑のようなものを浮かべた。そんな彼の表情を見たのは初めてだった。
 少しだけ、親らしい顔に見えた。
「仕事、なんですよね……」
 吊られて苦笑してしまった。仕事の癖に、俺は彼を必死に、救いたいと思っている。
 ビジネスとしてこの力を使ってゆくつもりなら、客との距離はしっかり保っておかなければならないはずなのに。
 その距離が分からない。

 お前は優しすぎるんだよ。
 呆れ声が聞こえる気がした。ほとほと、呆れ返った声。
 自分の立っている位置ぐらい、いつも見とけ。周りぐらい。
 自分が崖っぷちにいるのに、誰かを助けてやろうなんて。結局両方落ちて終わりなんだ。
(でも、雅。俺には少しだけどわかるんだ)
 英要という少年が抱いている闇の、ほんの少しかもしれないけれど、自分の心と重なるものを感じるんだ。
 だから、彼がもしこの手を掴むなら、救ってあげたいと思うんだ。これがただの、エゴだとしても。

「まぁ、急かすつもりはないが、このまま不安定な状態が続くと困る」
 結局は、遠回しに急かしているような口調で、秀一郎が踵を返した。
「はい。なるべく早く俺も―――……」

 がたん。
 物音が、一馬の台詞を裂いた。
 音がしたのは扉のほう。(まさか)。最悪の状況が脳裏を掠めて、一馬は扉を見た。
 わずかに、扉が開いていた。そこから覗く、驚きに見開かれた目と、視線が絡まった。
「要!」
 一馬と目が合った瞬間、要は弾かれたようにそこから駆け出した。
 立ち尽くす秀一郎を押しのけて、一馬は部屋から飛び出した。ばたん、と後ろの方で激しく扉が音を立てたが、そんなものはどうでも良かった。
 頭の中で鳴り響いた、何かが崩れる音のほうが大きかった。

―――カズマは僕のこと、怖くないの?
 必死に勇気を振り絞った声だった。拒絶されることに怯えながら。

 闇の中にぼんやりと浮かび上がる白い人影が、階段を駆け上がるのが見えて、必死にそのあとを追った。
 思ったように足が動かないのはどうしてだろう? 震えているような気がする。
 取り返しのつかないことをしてしまった。そう思った。
 1年前。自分が要のように怯えて蹲っていたとき、一番欲しかったのはなんだったか?
 変わらないもの、なくならないもの、裏切らないもの。
 確かな、揺るぎない、そんな優しさじゃなかったのか。
 それを、こんなかたちで……。

―――カズマだけに教えるから、秘密だよ。

 これは裏切りだ。

 小さな背中が屋上への階段を上ってゆく。手を伸ばせば届きそうで、届かない距離だった。
 暗い石段をつまづきそうになりながら必死に登って、開け放たれたままの屋上への扉を抜けた。
「要……」
「来ないで」
 小さくてそれでも鋭い拒絶が、屋上に出た一馬の足を止めた。
 要は屋上の一番端に立って、真っ直ぐにこちらを見据えていた。
「嘘だったんだ」
 目の前に見えない壁があるように、一馬はそこから一歩も先には進めなかった。
 踏み込む資格などないように思えた。
「家庭教師なんて……。全部嘘だったんだ。知ってるよ、最近僕が寝ながらふらふらしてるの……。それでみんなが気味悪がってるの知ってる。そのために雇われたんだ。その原因を探るために色々……」
「要……」
 名前を呼ぶことしか出来なかった。弁解できる言葉など何ひとつ持っていない。
「だからやさしくしたんだ。……馬鹿みたい、馬鹿みたいだっ、喜んだりしてっ!」
 片手で目の辺りを覆って、要が叫んだ。
 声はしゃくりあげるたびに途切れた。
「優しい顔して結局……、僕を騙してたんじゃないかっ……」
 キッと要が顔を上げてこちらを睨んだ。夜の闇にきらめくのは涙だった。
「要、黙ってたのは悪いと思ってる。だけど……」
「聞きたくない!!」
 片方の耳を抑えて、要は首を振った。
「もう聞きたくない。何も聞きたくないよ……。顔も見たくない……」
 石を積み上げて作った、古城のような壁に背中を預けて視線を足元に落としたまま。
「もう僕に、構わないでよ……」
 要が言った。

 もはや埋めようのない溝がそこに。
 目の前に開いたのを一馬は見たような気がした。
 何も見たくない、聞きたくない。温度なんか要らない。触られたくない。
 どんな言葉も嘘に聞こえる。どんな温度も、心に不法侵入してくるように思える。
 そんな気持ちを、困ったことに、一馬はとてもよく知っていた。
 簡単な言葉で、一、二分で癒えるような傷口ではなかった。溝ではなかった。
 一年かけてもまだ、塞がらない傷口と同じ痛みだった。

「……馬鹿だな」
 要に聞こえないぐらいの小さな声で一馬は呟いた。
 冷たい夜風がその声を攫って、自分の耳にすら上手く聞こえなかった。

 俺は馬鹿だ。
 優しくされたあと捨てられる。その痛みを、誰よりも知っていたはずなのに。

「要、ごめん。謝って済むことじゃないけど……。俺はもう戻るから、風邪引くといけないから、部屋に戻ったほうがいい」
 果たしてこの声がどれぐらいの効力を持っているのかは分からないけれど。
 言って、一馬は踵を返した。
 後ろ手で、屋上の扉を閉める。がしゃん、という冷たい音が、互いの間を決定的に隔てる音に聞こえた。

 一馬が立ち去った屋上で、要は、石の壁に背中を預けたまま、そこにずるずるとへたりこんだ。




to be contenued...


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