3.いたずらなひかり


 床を弄る手が、一体何を探しているのかなんて、自分でもよく分からなかった。
 何か布のようなやわらかいものを、捜していた気がする。
 探り当てて、耳を塞ぐんだ。やわらかい布が音を吸収して、脳に情報を伝達しないように。
 聞こえないように。
 今は何も聞きたくない。
 僕のせいじゃない。
 僕じゃない。

 抱えた両膝に額を押し当てて、布も見つからずに両手で耳を塞いだ。
 これ以上ないぐらいに体を小さくして。
 流しすぎたのか、涙ももう出てこない。
 両耳を覆う両手だけが小刻みに少し震えていた。
 半壊した部屋の片隅で一人、膝を抱えて蹲る。
 今は何も聞かせないで。



1・

「え? じゃあユダヤ人って言う人種はいないんだ?」
「そうだね。日本人とか中国人とかアメリカ人とか、人種で分けるとしたら、"いない"ってことになるね。ユダヤ人って言うのは、ユダヤ人の母親から生まれた子供か、ユダヤ人の聖職者の下で改宗した人って言う定義なんだ。ユダヤっていう国はないからね。極端な話、ユダヤ聖職者の下で改宗すれば、日本人だってユダヤ人になるってことだよ」
「なんだ。日本人とか中国人とかと同じかと思ってた。人種だと思ってた」
「俺もそう思ってたけどね」
 感心、と顔に書いてある要に、一馬は苦笑して見せた。
 一応家庭教師ということで何か教えなければならないのだが、教えられる範囲に限りがある。
 ボロが出ないように、何とか知識を総動員してみる。
「へぇ。なんだか不思議だな。こうやって聞いてれば世界史も結構おもしろいや」
「苦手なんだっけ?」
「うん。長いカタカナの名前とか、同じような漢字の名前とか年号とか、覚えにくいし」
「ただ年号だけを羅列したり、出来事だけを並べても面白くないよ。やっぱり歴史はその後ろにある背景とか、人物の動きとか、教科書に書いてない雑学があったほうが面白いからね」
 コルセットの締め過ぎで、絶対王政期の貴婦人は内臓の位置が歪んでしまっていたとか、エリザベス女王はスペインとの争いの最中、海賊をサー(騎士)に叙したり。
「俺もね、全部高校の担任の受け売りだけどね。世界史の先生だったんだ」
「あ、そう言えば聞こうと思ってたんだ」
 歴史の参考書をぱさりと机の上に置いて、要がぱっと顔を上げて一馬を見た。
 咄嗟のことに、一馬は言葉もなく要を見つめ返した。
「カズマは、21歳なんだよね?」
 頷く。少なくとも年齢のサバは読んでない。
「大学生とかじゃ、ないの?」
「え……」
 予想外のところから攻撃を仕掛けられてクリーンヒット。一馬はしばらく言葉を返すことが出来なかった。
 いわゆる、イタイところ。
「……えーと、違うよ。大学生じゃない。今はね」
「今は?」
「辞めたんだ。1年と半分ぐらいで。色々あって」
 今となっては自分が大学生だったということ自体信じられないぐらい、遠いことのようだ。
 一応は経済学部の学生だったんだよなぁと、時間的には少し前で、記憶的にははるか昔のことを思い起こしてみる。
「そうなんだ」
 納得したように少し頷くと、要は再び参考書に視線を落とした。
 要は必要以上に詮索しようとはしない。そして自分の周りにもバリアを張る。必要以上に詮索させないために。
 それは一馬にとってはありがたいことだった。あまり聞かれたくない過去である。
 別に大学生活が嫌だったわけではないのだが、どういう経緯で辞めることになったのか、ということを考えてしまうのはいい気がしなかった。
 まるで、大学にいたこと自体が一夜の儚い夢のだったような気がする。
 ぬるく、やわらかい時間。

「あれ?」
 不思議そうな言葉と共に、右腕のシャツがくっと引かれた。
 どうやら要が掴んで引っ張ったらしい。そこで、一馬は我に返った。
 自分の片腕はもう既に要の勢力下にあった。
「どうしたの、これ」
 要の視線は、一馬の右手首に落ちていた。そこには、丁寧に巻かれた白い包帯があった。
 要は別にいぶかしんでいるふうはなかった。ただ、昨日はなかったはずの包帯が一馬の手に巻かれていることを妙だと思ったのだろう。
「あ、なんでもない。昨日捻ったんだ」
 不自然にならない程度に、一馬は要から腕を取り返した。
「……ふぅん」
 納得しているのかしていないのか、曖昧な返事をしたものの、要はそれ以上詮索する気はないようだった。
 一馬は、要に聞こえないように安堵の吐息を漏らすと、自分の手首に撒かれている白い布に視線を落とした。
 実は自分でも、これが一体なんなのか分からないというのが正直なところだ。

 昨日の夜いつのまにか寝入ってしまった一馬は、目が覚めてから三つのことに気がついた。
 一つ目は、どうやら自分が電気をつけたまま眠ってしまったらしいこと。起きたばかりの目に人工の光を食らって、かなり眩しかったのですぐ気付いた。
 次に、部屋の扉が開いていること。
 電気を消し忘れたことは自分の過失だと認めるが、成瀬一馬という人間は、極端に寝惚けたことはない。
 まぁ、寝起きが少々よくないのは認めるが、夜中に自分で起き上がって部屋のドアをあけ、それからさらにベッドに戻って眠るという芸当が出来るほど器用だとも思っていない。
 最初は少しぼやけていた頭も、以上のことを考えてゆくうちにいつも以上に冴えてしまい、一馬は、いつもの起床時間よりも1時間以上早いというのに、二度寝を諦めなければならなかった。
 ベッドの上で体を起こし、その脇に腰掛けたときに、一馬は三つ目に気付いた。
 バラバラになった前髪を掻き上げようと持ち上げたその右手の手首に、赤黒い痣を発見したのだった。
 自分の口から発せられた「げっ」というあまり美しくない言葉を、他人事のように一馬は聞いた。
 反射的に左手でその痣に触れて、もう一度驚いた。左腕の中ほどにも、同じような痣が残っている。
(冗談じゃないぞ、オイ)
 まさかと思い、一馬は早朝から自分の体の身体検査を始めた。
 すると、両足首にも同じような痣があり、しかもどの痣も、人の手が握ったような形になっているではないか。
 人が深夜にこの部屋に侵入し、この手足を痣が出来るほど掴んだというのなら、目が覚めるはずだ。
 それでは霊的なものだろうか? と考えて、すぐに打ち消した。
 夢喰いというのは、基本的に霊能力とは違う。しかし、ソチラ系の力も絶無ではないという曖昧なものだ。
 もしこれが霊的な作用なら、幾ら一馬とて、目が覚めただろう。
 どちらでもない? そんなことはありえないはずなのだが。考えてもどうも分かりそうにない。
 とりあえず、自分でも分からないものをさらしておくことも出来ず、隠せない右手首だけ包帯を巻くことにした。
 しかし、まさか要にこんなにも目ざとく見つけられるとは思っていなかった。
 要の勘を、少々過小評価しすぎたかもしれない。

「海……」
 歴史の資料集に視線を落としたまま、要が呟いた。自分の腕に気を取られていた一馬がその声に我に返る。
「え?」
「海、行ってみたいな」
 要の視線は資料集に落ちたままになっている。横から覗き込むと、地中海の鮮やかな青が目に飛び込んできた。
「ここまで真っ青じゃなくていい。だけど海……」
 ひとりごとのようだ。そこから先は、要は何も言わなかった。
「行く? 海」
「え!?」
 何気なしに問い掛けると、要は驚いたように顔を上げた。まさかそう聞かれるとは思っていなかったみたいに。
 はじめは驚きだけだった表情に、少しずつ喜びが混じり、けれどすぐに寂しそうな顔に戻した。
「行きたいけど、やっぱり駄目だ」
「駄目?」
「父さんは、僕が外に出るの嫌がるから。父さんが嫌がること、したくないんだ。許可してくれないと思うし……」
 自分で言って傷ついているようだった。俯いてきゅっと口唇を噛む。
 一体、英要は何を恐れているのだろう。父親? 父親の何を、だろう。
 叱られることだろうか、それとも嫌われることだろうか。
 とにかくこの少年は、自分の感情よりもまず、父親のことを第一に考えているようなのだ。
「頼んでみない?」
 どうしてそんなにお父さんに怯えているの? そう言う気持ちもこめて、少し突っついてみた。
 けれども要は頑なに首を横に振るだけだった。
「僕は、父さんに逆らいたくない……、逆らっちゃ、いけないんだ」
 一馬の顔を見ようともせずに、要はただ俯いている。
 逆らっちゃいけない。まるでそれが義務であるかのように繰り返す。
 一馬は今まで英要という少年に、特別な異変を見とめられずに来た。
 どこにでもいる、普通の少年じゃないか。そう思っていた。
 しかし、この頑なな態度は。一体何から生まれてきたものなのだろうか。
 もしかしたらそこに、今回の異変を解く鍵があるかもしれない。いや、きっとそうだ。

―――逆らうな。
 耳元に聞こえてきた声に、一馬は小さく息を呑んだ。
―――これが、この家に生まれたものの、定めだ。
(定めって、父さん、そんな言葉で……)

「失礼します」
 軽いノックと共に扉が開かれた。
 反射的に構える要の震えが、視界の端にやけに鮮やかに見える。
 顔を出したのは、柴浦だった。いつも通りの無表情で。
「お時間です、要様」
「あ、はい」
 テーブルの上の世界史の資料集をぱたりと閉じて、要がゆっくりと立ち上がった。
 静まり返った部屋の中に、椅子を引く音がやけに大きく響いた。
「どうもありがとうございました」
 柴浦の前だからか、やけに丁寧に要が頭を下げた。
 ばさりと栗色の髪に隠れたその顔が、なんだか知らない子の様に見えた。
「じゃあ、また明日」
 口にしてしまってから、苦味を感じるような。こちらも実に他人行儀な挨拶を返す。
 俯いたまま、小さく「ハイ」と頷いて、要は柴浦の待つ扉のほうへ向かった。
 成す術もなく見送る一馬の方を、扉を出てゆく要が一瞬、ほんの一瞬だけ振り返った。
 寂しげな、ひかり。
 ぱたり。扉の閉まる音。
 ストロボを焚いたあと、目蓋の裏に焼きつく眩しすぎる光のように、その表情が残った。


            *


 声。たくさんの、声。
 耳元で、頭の中で、ぐるぐる。回る。
 首に、回る指。かかるちから。
 オマエガ。コロシタ。
 声が回る。
 タスケテクダサイ。アシヲ、テヲ、カラダノナカミヲ。
 声―――。
『行く? 海』
 オマエガ、コロシタ。ダカラオマエガ……。
 かき回さないで。もうこれ以上この心の中を。諦めたのに、もうとっくの昔に諦めたはずなのに。
 悪戯にひかりを、与えないで。

―――だったら私が、おまえを楽にしてあげるよ。

 視界が灼き切れる。神様が降りてくる、僕が僕でなくなるその一瞬―――。



2.

 寝苦しくて目が覚めた。
 金縛りというものに結構耐性はあると思うのだが。解く方法も学習済みだ。
 ほぼ一年、銀という家に"保護"されている間に学んだことだ。
 この屋敷には、一応聖なる力が働いている、と思う。仮にも教会だ。だから、無遠慮に悪霊などが彷徨って来れるはずはないのだが……。
 うっすらと目をあけて、眼球だけを動かして壁の時計を探す。
 闇に慣れてきた瞳に、時計が映った。午前3時過ぎ。丑三つ時。
 次に体の上に目線を移す。何もいない。ただ、体がシーツに縫いとめられたように、動かないのだ。
 体勢は、磔に近い形。両手をTの字に広げている。
 ギリギリと上から、押し付ける力。こんなに締めつけられたのでは、あんな痣がついても仕方がないか。
 それでは原因は一体、何?
 ギィ。
 目だけを動かして部屋中をくまなく探索しているうちに、足元の方にある扉がゆっくりと開いた。
 その向こうにはぽっかりと闇。照明の全て落とされた廊下。その闇の中にぼんやりと、白いものが浮かび上がった。
 目を細めて、凝らす。
 青白い肌に栗色の髪。白い寝巻き姿の、英要。
 これが夢遊病、なのだろうか?
 じっと見つめているうちに、その足取りがこちらの方へ近づいてきた。

「これ以上」
 足音を全く感じさせない足運びでベッドの横まで近づいてきたその人影は、上から一馬を見下ろして、その猫のような瞳をすぅっと細めた。
「この少年に構うな」
 要の口唇から、要の声で零れ落ちる言葉なのに、なぜか冷たかった。
「おたくさんは? どなた?」
 口唇はしっかり動くらしい。言ってから気がついた。普通の声だった。
「それはお前にはかかわりのないことだ」
「俺が英要に構うことも、おたくにはかかわりないことなんじゃ?」
 どっ、と。胸に上から大きな石を落とされたような衝撃が来た。そのままギリギリと、鈍い痛みが胸の内側に沈んでゆく。
(マジかよ、この力……半端じゃ……)
 げほっと咳き込んで、一馬は声を失う。息苦しくてもう、声にならない。
「この少年は周囲に望まれているわけではない。器があればいい。そのうち私が同化して、ひかりの方へと導いてやろう。それがこの子にとって一番幸せなことなのだ。お前がいたずらにこの少年に与える安らぎは、いずれ痛みになる。その前に、去れ」
 答えようにも声が出てこない。胸を重石で押さえつけられたような感覚が、ずっと残っている。
 何度も咳き込むが、一瞬たりとも楽にはならない。
「癒しなど、ありえないのだよ。無に帰さぬ限りは―――……」
 要の声であって要の声ではない冷たい響きを最後に、一馬の意識は闇に沈んだ。


            *


 次に目が覚めたのは、早朝だった。まず時計を見る。あれから3時間ぐらいしか経っていない。
 体中がギシギシと痛い。溜息交じりに体を起こし、髪の毛を掻き上げようと……。
 ぱたり。つぅっ……。
「は?」
 あの痣は覚悟していたのだが、それよりも今度は性質が悪かった。
 持ち上げた右手の内側に、かみそりで切ったような細かい傷が無数についており、そこから赤い流れが下の方へと伝っていたのだ。
 決して深くはない、掠っただけのような、小さな傷。致命傷にはならないような、たちの悪い、卑怯な傷口。
 唖然として腕を見つめていると、視界の下のほうにも赤い色が見えた。
 導かれるように視線を下ろしてゆくと、胸の辺り。が。
 赤い絵の具をこぼしたように所々汚れていた。
 朝から自らの身体検査をすることになろうとは思わなかったが、一馬はゆっくりと自分の寝巻きの前を開けてみる。
 そこには、腕にあったような傷が、無数に散らばっていた。最早傷口は閉じて、血も乾いていたが。
 昨日の朝に続き、じっくりと身体検査をすると、傷がついているのは腕と腹の辺りだけだということが分かった。
 それにしても、猫にがむしゃらに引っかかれたあとのようだ。それ相応の痛みもあっただろうに、目が覚めなかった。
 それ程までに、「彼」の力が大きかったということだ。
 半端じゃなかった。それだけは分かる。あれだけの力を持っているのはやはり、「神」なのだろうか。
 英要という少年の意識ではなかった。それだけは確かだ。
 しばらくベッドの上に座り込んだまま、一馬は考え込んでいたが、壁時計が六時半を告げる小さな音を立てたことで我に返った。
 とりあえずこのまま人前に出るわけには行かない。特に、要の前には。
 昨日高橋がもって来てくれた救急箱がそのまま、部屋の隅に置かれている机に乗ったままだ。
 それを視界に収めながらベッドを下り、部屋についている洗面所へ向かう。
 鏡越しに向かい合った自分の顔は、なかなかさっぱりとした顔をしている。
 それはそうだ。ここに来てからというもの、色々な理由でかなりの健康的生活を強いられているのだ。
 6時半。朝食の時間を考えてもあと30分は余裕で眠っていられたはずなのに。
 朝の30分は非常に貴重だ。そう、非常に。
 固まりつつある血液をざっと洗い流して部屋に戻ると、とりあえず消毒液で拭く。目立った傷口の上からはバンソウコウを貼った。
 ベッドに座りなおし、両手首を見て……、げんなりした。
 もう何日以上もきつく戒められ続け、拘束され続けていたように鬱血している。
 俺はマゾじゃないぞ、などと思いながら眉間に皺を刻んだ。今度は右手だけでなく、左手も包帯のお世話になりそうだ。
 捻った、という言い訳も、二度目ではもう使えないぞ、どうする。
 言い訳を考えながら、器用に両手首に包帯を巻いた。
 傷の手当てというものも、随分と上手くなったものだ。良い悪いは別としても。
 シャツを羽織り、着替えを終えたところでドアがノックされた。
「成瀬様。朝早く、申し訳ございません」
 高橋だった。
「起きてますよ、どうぞ」
 高橋の声には、焦りのようなものが滲んでいた。大方手当ても終わり、人様に見せてもいい姿になっていたので返事を返すと、直ぐ様扉が開かれた。
 いつもはおっとりと穏やかな高橋が、がちゃりと大きな音をたてて。
「おはようございます成瀬様。こちらに要様はいらっしゃいませんか?」
「……え?」
 高橋の目につかないように救急箱を足でベッドの下に追いやっていた一馬は、飛び込んできた声に固まってしまった。
「……いない、んですか? 要くん」
 思わず包帯を巻いたままの両手首を隠すのも忘れて、一馬は聞き返した。
 しかし、一馬の様子など構っている場合ではないらしい高橋が、二三度大きく頷いた。
「はい。お部屋の扉が開いておりましたので覗いてみましたところ、お部屋には……。それで、成瀬様と随分打ち解けていらっしゃったご様子でしたので、ここではと……」
「他に思い当たるところ―――……」
 キャァアアア―――!
 一馬の台詞を引き裂いたのは、甲高い女の悲鳴だった。続いて、「要様!」と、悲鳴になりそうな叫び声が上がる。
 一瞬、二人は一時停止をかけられたように固まった。飛び込んできた悲鳴が脳に伝わって、事情を理解するまでの間。
「くそっ……」
 美しくない悪態を吐き出して、先に動き出したのは一馬だった。
 何について悪態をついたのかは自分でもよく分からない。昨日の夜の出来事なのか、諦めなければいけなかった2度寝のことなのか、体中の傷のことなのか、今起こっている現象のことなのか、それとも。
 とりあえず、声のするほうへ駆け出した。
 いつもは静まり返っている屋敷の中だけに、ざわめきはすぐに伝わった。一馬の部屋がある2階から、更に階上。
(4階?)
 ざわめきを耳で追ううちに、その声の出所が最上階であることに気付いた。
 そして、直感のようにある予感が抜けて―――。まさかあの。
 階段を上りきったところで、一馬は自分の予感が的中していたことを知った。
 階段を上ったほうから見て、左側に伸びる廊下の突き当たりに、わずかながら人だかり。

―――何でもないんだ、あの部屋はいいんだ。もう使われてないからいいんだ。
 必死に、まるで自分に言い聞かせるようだった要の口調が蘇る。あの部屋のことに、触れて欲しくないというよりは、むしろ自分が、何も考えたくない。そう思っているようだった。
 怯えていた? そんな気もする。
―――亡くなられた、奥様のお部屋です。
 母親の部屋に、怯えていた? 何故?

「あの、すみません」
 人だかりを押しのけ、開かれたその、「閉ざされた部屋」の入り口に立った。
 入り口にたかるだけで中に踏み入れようとしない使用人たちが、突然現れた新米の家庭教師に、ざっと道を開ける。
 入り口に立ち、中を覗きこみ、一馬は息を止めた。
 そこは、美しい部屋だった。壁紙から床までが暖色系等の色でまとめられ、取り付けられた暖炉や家具も、丸みを帯びた女性らしいデザインで。
 部屋の隅にある巨大な鏡台は、美しい彫刻が掘り込まれていて、素人目にも高価なものであることが知れる。
 しかしそれら全ては決して押し付けがましいものではなかった。絶対王政期のヨーロッパを思わせるような天蓋つきのベッドすら。
 そして、そのベッドの上に。
 仰向けになる形で、少年が愛らしい顔で目を閉じていた。それだけを見ればただの微笑ましい状況のように見えるのだが。
 少年の纏っている白い寝巻きには、点々と赤黒い痕が散っていて、それは少年の頬や手にも飛び散っているようだった。
 寝顔は穏やかで、元々肌が白い。遠目で見て、一馬は一瞬、死んでいるのでは、と思った。
 無意識のうちに足が動いていた。ベッドに近づくにつれ、左胸が騒ぎ出した。鼓動が煩い。
 ベッドの横に立った一馬は、ほっと安堵の吐息を漏らした。微かにではあるが、規則的に要の胸が上下している。眠っているだけらしい。
 しかしそれだけに、要の状況は凄惨さをましていた。穏やかに眠っている少年の頬や手をはじめ、服のあちこちに飛び散っている、明らかに血痕と思われる赤。
 部屋には誰も入ってこようとしない。なんだよ、あんた達が仕えている家の息子じゃないのかよ、そう思いながら、一馬はベッドの脇にしゃがみこんだ。
「要」
 目蓋すら動かない。
 大体父親がこれだけの騒ぎになって知らん顔なのも気に入らない。
「要?」
 そっと肩の辺りに手を触れて、揺する。
 すると、要は、左側に傾けていた首を右側に倒し、わずかに眉をひそめた。
 人を眠らせるのは得意だが、起こすのはあまり得意ではないのに。
「要」
 何度か優しく揺すっているうちに、目蓋の裏側で眼球が動いたのが分かった。
 やがてうっすらと目蓋が持ち上げられ、色素のあまり濃くない茶色の瞳が開いた。
「あれ……?」
 まだ眠気が絡まったままの、どこか舌足らずな声で、要が言う。ベッドの上でゆっくりと体を起こした。
「カズマ? どうして……」
 まだ霞みがかかっているらしい瞳で回りや自分の着ている寝巻きに視線を落とし、大きな丸い瞳をこれ以上内ぐらいに見開いて固まった。
 白い寝巻きや手に点々とついた赤い色。自分の目の前に掌を広げて、要はしばらく動かなかった。半開きになった口唇が、わずかに震えている。
「ぁ―――」
 見開かれた瞳はすっかりと焦点を失っているようだった。やばい、と一馬が要に触れようとするよりも早く。
「ぅわぁあっっ!」
 小さな体から全ての力を放出するような声で要が叫んだ。がくがくと体を震わせて、吸い込んだ空気を全て絶叫に還元する。
 何かの発作のようなその様子に、一馬は、慌ててその肩に両手を置いた。
「要、落ち着け!」
「いやだ、いやだっ……」
 泣き喚いて、要は耳を塞いで蹲った。首を激しく左右に振る。
「この家に医者はいないんですか!」
 要の両肩に手を置いたまま、一馬は入り口の方を振り返った。相変わらず使用人たちが、怯えたような顔でこちらを見ていた。
 まるで、化け物を見るような目で。
(この家の子供だろう!)
 腸が煮えくり返るという気持ちを体験したのは、その時が初めてだったかもしれない。
 何でもいいから手近なものを掴んで、そっちに投げつけてやりたかった。
 小さな少年が、一応青年男子である一馬の腕でも押さえつけられないぐらいに激しくもがいているというのに。
 何でその場所に固まっていられるのだ、お前たちは!?
「成瀬様、要様はそちらに!?」
 ようやく人込みを掻き分けて辿り着いたのは高橋だった。その顔には、化け物を見るような怯えた色はなく、ただ心配があった。
 その顔を見た瞬間、一馬はなぜかほっとしてしまった。この人は大丈夫だ。そう思った。
「高橋さん。医者はいないんですか?」
 幾分か声のトーンを抑えて一馬は聞いた。
 只今! と身を翻す初老の使用人の背中を見送り、くそ、ともう一度悪態をついた。
 その間も一馬の耳には、同じ言葉がずっと聞こえていた。
 蹲りもがく少年の口から、壊れたレコードのように繰り返されるその―――。
「いやだ、この部屋はいやだ……、僕じゃない……僕はやってない……」


            *


 結局事態が収まるまで英秀一郎は顔を見せなかった。
 父親だろうがッ、という一馬の至極当たり前な不満は収まるはずもなく、その苛々を引きずったまま、ようやく再び眠りに付いた要の枕元にいて本を読んでいる。
 読んでいる、というよりかは見ているといったほうが正確かもしれない。
 集中力が続かなくて、要がわずかに身じろいだりするたびに過敏反応する上、視線は何度も同じ行を辿って、本を読み始めてから数ページも進んでいないという体たらくだ。
 とうとう一馬は読書を諦めて、栞をはさみこんで本を閉じた。傍にある、いつも勉強に使っているテーブルの上に本を置き、閉め切った窓を開け放った。
 白いレースのカーテンが、吹き込んだ風に棚引く。まだ午前10時を少し回った辺りなのだが、今日という日がやけに長く感じられる。
 早起きをすると、時間の流れが妙にゆっくりに感じるから不思議だ。得をした気分になる。
 ぐるりと屋敷の敷地内を見渡し、一馬は今日何度目かのげんなりに襲われた。
 この部屋から、正門はもちろん、礼拝堂までしっかり見えるではないか。
 要はこの窓からよく外を見ているようだった。この窓から見える景色が、彼の心を慰めてくれるとは、とても思えなかった。

―――この部屋はいやだ。僕はやってない。

 医者が手馴れた手つきで鎮静剤を打つまで、要はずっとその言葉を繰り返していた。
 一馬には、その言葉が何を表すのか、全く分からない。とにもかくにも情報が少なすぎる。
 かといって、しつこく煩く嗅ぎまわりたくはなかった。なにしろ、あの部屋にいたというだけであれだけの取り乱しようだ。まぁ、血痕ということもあったが。
 あれだけの拒絶反応を示すのだ。要が自分であの部屋に入ったとは考えられない。
(とすると、要に"降りる"っていう、"神様"ってやつか?)
 一馬は、数日前に目撃した「おいのり」を思い出した。
 足元から噴出すようなオーラ。気圧されるような白いひかり。そして、鋭く冴えた双眸。
 確かに、要ではなかった。存在感が違った。
 しかしその神様とやらは、どうして要をこんな目に遭わせるのだろうか?
 そして、一体自分の何が「邪魔」なのだろうか?
 昨日の晩、その神様とやらは、何かを自分に言っていなかったか。あまりの胸の痛みで意識が朦朧としていて、よく覚えていないのだ。
(思い出せ)

―――お前がいたずらにこの少年に与える安らぎは、いずれ痛みになる。その前に、去れ。

 それから、自分が要を救う、とも言っていなかったか? そんな気がする。
「……ず……」
 一馬の思考を分断するように、掠れた声が後ろから上がった。
 振り返ると、ベッドの上の体がもぞもぞと動いている。
「要?」
「……み、ず」
 弱々しい声だった。掠れているのは目が覚めただけではなく、先程大声で喚き、叫び続けた結果声が嗄れたのではないかと思った。
 一馬はベッドの傍のテーブルから水差しを持ち上げ、コップに注ぐと、自力で何とか上半身を起こした要に手渡した。
 受け取るなり、要はぐっとそれを一気に半分以上飲み干した。
 そして、しばらくコップを両手で持ったまま俯いた。
「覚えてない」
 ようやく開いた口は、それだけを言った。
 どうして自分があそこにいたのか、覚えていないという意味なのだろう。
「うん」
 他に返しようもなくて、一馬は相槌だけを打った。
「とにかく今日は、ゆっくりと休んだ方がいい。水はもういい?」
 ゆるく首を横に振る要の手からコップを受け取ると、一馬は、元のように水差しと一緒にそれを置いた。
「だけど今日は、午後から"おいのり"があるんだ」
「馬鹿!」
 苛々を引きずったままの一馬は、少々本気で怒鳴った。ベッドの中で要が、その小さい肩を怯えたように竦める。
「具合の悪いときまでそうする必要がどうしてある? 君は人を助けているんであって、彼らの奴隷じゃない。具合の悪いときぐらい、休んだって文句なんて言えないはずだ」
「だけど今日は、もう1ヶ月も前から約束している人なんだ。教会のほうにたくさん寄付をくれている社長さんだからって……」
 そこからあとの言葉は尻つぼみになって聞こえなくなってしまった。
 どうやら今日やってくるのは、この教会のスポンサーらしい。
「だからってなぁ……」
 たった13歳の子供を酷使しなければ続けてゆけない新興教団に、存続させてゆくほどの力があるとも思えない。
 この間雅と話したとおり、信仰は自由だし、救われている人がいる以上、それは宗教として成り立つ。そう思って宗教や教団については別に考えもしなかった一馬だが、ここに来て、この教団のアンチ派に回ってしまいそうだった。
 何しろ英秀一郎の態度が良くない。宗教以前の問題で、何かおかしくはないか。
「だってそうしないとっ……!」
 叫んだのは要のほうだった。予想外のカウンターに、豆鉄砲を食らった一馬はぽかんとしてしまう。
「そうしないと僕はここに、ここにいる意味がっ……、なくなっちゃうじゃないか……!」
 ぐっと布団を握り締めて吐き出す。指に力が入っているのかかたかたと震えていた。
「意味?」
 訊きかえしてしまう。
「ここは、君の、英要の家だろう?」
 意味なんてなくても、存在することが許されている場所。それが家というものではないのだろうか。
 意地悪でも何でもなく、そう思ったから、そう訊いた。
 すると要は、先程の発作が起こったように激しく首を横に振った。絡まりつく全てを振り払うように。
「僕は何かの役に、立たないと……」
 そのまま要はまた口を噤んでしまった。元々白い肌が、白いを通り越して青くなっているのは一馬の気のせいではないだろう。

 家。
 頭の中でその単語を繰り返してみた。
 成瀬一馬と言う人間も、もともと一般のごく普通な家庭というものからはかけ離れた家で育った。
 苗字とともに伝えられてきた家業があり、それゆえ近代化が進む世間から半ば取り残されたような、あの陰鬱な日本屋敷の中。
 けれど、「成瀬」という表札がかかった家の内側に、存在するための理由を探したことなど一度もなかった。
 ごくごく普通の、温かな家庭ではなかったにしても。
 そこに自分の居場所は確かに、在ったのだ。探さなくても。
 見返りにするものなど、何もなくても。

「じゃあ、俺も今日の"おいのり"に同席するよ。何か不調があったらすぐに止めること。それぐらいは条件として出しても差し支えないだろう?」
 一馬にとって、最大限の譲歩と言ってもいい。そもそも「おいのり」という行為自体にあまり好感を持っていない一馬だ。
 要の必死な態度がなければ、無理を言ってでも止めただろう。
 止めてあげなくてはならないと、思ってしまう何かが要にはあった。
「分かった」
 俯いたまま要はしっかりと頷いた。



3.

 一体どうしてなのか、一馬には分からない。
 何がというに、一体何故自分がこんなに「英要」という13歳の少年に肩入れするのか、だ。
 初仕事からこれでは、ともう何度も思うのだが。
 そもそも「夢喰い」というものが仕事として成り立つ方がおかしいし、クライアントとの距離というものも難しいことこの上ない。
 入れ込みすぎでも良くないし、他人でいるわけにもいかない。微妙で曖昧。
 その距離感を初仕事である一馬が熟知しているはずもなく、不慣れであることを除いても……。
 それにしても、熱くなりすぎ、のような気がする。まるで血の繋がった弟に対するように、だ。
(父親、かな)
 礼拝堂の扉を開けると、目の前に真っ白な空間が広がった。
 白い床、白い壁、天井。
 その空間の中に、茶色い椅子が綺麗に並んでいた。天窓から差し込んだ光で床はきらきらと輝き、左右の壁と一番奥の祭壇の向こうには極彩色のステンドグラスがはめ込まれていた。
 いかにもな、礼拝堂。
(父親)
 その一番後ろの椅子に腰掛けて、もう一度心の中で繰り返す。
 不意に自分と要とを繋ぐキィワードを、拾ってしまった。

 父親の影に怯え、それでも何とか縋りつこうとする。
 捨てられないように、見捨てられないように。
 だから、言われたことに従う。
 それだけのことと言ってしまえば簡単だが、それが全てな時もある。自分も、そうだったように。
 要に、昔の自分を重ねてしまっているのかもしれない。自分は逃れ切れなかったしがらみから、逃がしてやろうと思っているのか?
(そんなの俺のエゴだ)
 他人に昇華させて、満足したいだけなんじゃないのか?
(立ち直ったわけじゃ、ないんだな)
 口元に苦笑を刻んでしまう。今も尚、縛られ続けているのは自分なんだ。あれからもう、一年以上も経っているのに。
 それともまだ、"まだ"一年、だろうか。

 ぼんやりと考え事に耽っている間に人が増えてきた。年齢も性別もばらばらの人々が茶色の椅子を埋めてゆく。共通しているのは、人々の顔が皆一様に暗いというところだろうか。
「成瀬さん、今日はどうなさったんです?」
 焦点も定まらないままにぼんやりとしていると、いきなり目の前に人影が現れた。
 ただ単にその人物が近づいてきたことに気付かなかっただけなのだが。
 見上げると、天窓からの逆光で顔が見えない変わりに、口元に刻まれた卑しい笑みが見えた。
 それだけで一馬は相手が誰であるのか分かってしまった。第一印象からして、この卑しい笑みがしっかりと刻み込まれてしまっているのだ。
「お隣、よろしいですか?」
 相手にそう言われて、まさか「いやだ」とは言えない。こちらもとりあえず成人したオトナなのだ。
 はぁ、と頷いてわずかに体をずらし、ひとり分の隙間を空けてやる。
 スーツ姿の柴浦は、申し訳程度に頭を下げると、ひとり分空いた隙間に体を静めた。
「柴浦さんは」
 黙ったままでいるのも居心地が悪いので、一馬はずっと疑問に思っていることを口に出した。
「秀一郎氏のお仕事のお手伝いでもなさっているんですか?」
 常に秀一郎に付き従っている柴浦というこの男は、この屋敷の使用人というわけでもないらしい。
 ということは、教祖である秀一郎の傍で、事務の仕事をしているのか。と思えば、「おいのり」の時間だけは必ずこの礼拝堂に顔を出す。秀一郎が不在でも、だ。
 秘書かと思えば違う、使用人かと思えば違う。するりとすり抜けられる、奇妙な男だ。
「ええまあ」
 決して人好きはしないものの、さらりと流すには十分な笑みで、柴浦は返答を避けた。
「もっと詳しく……」
 教えてくださいよ、とねだろうとしたところで、周囲の空気が一瞬にして変わった。
 祭壇の横に取り付けられた扉が開き、純白の聖服に身を包んだ小さな体が控え室から出てきたからだった。
 目が、自然とそちらに吸い寄せられる。強い力があった。
 俯かせた白い顔に、淡い栗色の髪が被さっている。伏せられた長い睫毛が、顔に影を落としていた。
 その瞳は一体何を見ているのか、白い床に鮮やかに浮かび上がった、ステンドグラスの影だろうか。
 ゆっくりと一度瞬いて、目蓋とともに顔を持ち上げた。

 刺さる。
 皮膚に、容赦無くざくざくと、やわらかいはずの茶色の瞳が孕む力が強い。
 存在感が違う。見えない力が風となって肌を嬲るような気がした。わずかに髪がゆれる。
 祭壇の前におかれた巨大な椅子の前に立ち、倒れこむように進み出た人の手を取る。
「目を閉じて」
 少女のような高い声が、今はぐっと低く聞こえた。
 肥えた体で白い床に跪いた男は、肌の色が悪い。どこか内臓が冒されていそうな顔だ。
 彼が要が言っていたスポンサーなのだろうか。
「助けて下さい要様。私は今死ぬわけにはいかんのです。どうか……」
 男は差し出された白い腕に両手で縋って、額を押し付けていた。小刻みに震えながら小さな体に縋るその巨体の姿に、一馬は思わず恐怖のようなものを覚えてしまった。
 なにか、違ってる。この空間は怖い。
「祈りなさい」
 要の姿をした何かは言った。
 片腕を男に預けたまま、その頭の上に空いたほうの手を掲げて。
「無心に祈りなさい。届きます」
 頭の上にかざした掌から、光が溢れるのを一馬は見た。あたたかいもの。
 それが、男の体にしみこんでゆくのも。
 男は震えながら脂汗を流していたが、やがてゆっくりと顔を持ち上げ、目の前に立つ少年の姿をした何かを見上げた。
 その顔には、畏れ。
 いつのまにか、体の震えは止まっていた。
「ありがとうございます」
 前へ進み出るときは歩いているのすらやっとだった男が、自分の両足でしっかり立ち上がり、深々と要に頭を下げた。
 その行動に、要は口元にうっすらと笑みを浮かべて見せた。上に立つものが見せるような、慈愛の。
 あれは、誰だ?
 穴が空くほど、「神」の降りた要をじっと見つめていた一馬の、その視線に気付いたのか、要の視線が礼拝堂の隅のほうを泳いだ。
 ゆったりと空中を舞うようにした視線が、一馬のところで止まる。
 視線が合った。
 そのとき。
 少年の瞳に宿っていた強い何かが、ぐらりと揺らいだ。言葉でいうとするなら、自信というようなものが。
 その膜が崩れ落ちて、内側から、怯えた少年の瞳が見えた。縋るものを探すような瞳。
(要だ)
 足元からざぁっと風が舞い上がり、聖服の裾を、やわらかい茶色の髪を、容赦無く跳ね上げた。
 それとともに、今までドライアイスのようににじみ出てきていた光が、急に柱のように上へ抜ける。
 がしゃん、と天窓のガラスが激しく割れる音が響いた。
 ぱらぱらと、まるで光の粒のように落ちてくるのがガラスの破片だと気付いた頃、礼拝堂内で悲鳴が上がった。
 悲鳴は連鎖して増殖して、パニックを生んだ。我先にと礼拝堂の入り口へと人々が殺到する。

―――ヤサシクシナイデ。

 礼拝堂の中心で、要は目を見開いたまま一馬の方を見ている。

―――アキラメタノニ、スクワレテモイイノカト、オモッテシマウ。コノヒトナラト。

 ぴしり。ぴし。
 何かにひびが入るような音を聞いたような気がするが、渦巻くオーラが耳元で風のようになり続け、煩くてたまらない。
「いかん、"催眠"が……」
 横で棒のように立ち尽くす柴浦の口から、予想しなかった言葉が零れ落ち、一馬は一瞬息を忘れた。
 "催眠"―――?
 瞬間、視界が白に焼き尽くされ、がしゃん、と激しく何かが砕け散る音が聞こえ、何か見えない力が。

 爆発した。



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