2.閉ざされた部屋
今思い返してみると。
その頃の記憶は酷くおぼろげなんです。たった3年前の話なんですけど。
記憶力が悪いわけでもないんですけどね。別に。
ただ、ひとは自分の嫌な記憶はすぐに忘れてしまうって言うじゃないですか。
自己防衛本能、って言うんですか? そういうの。
毎日どういうことをしていたかとか、ぼんやり、霞みがかかったみたいで。
夢の中みたいで。
夢って言ってもいい夢じゃないですよ。覚めない悪夢みたいで。
だけど、不思議ですね。
今思い返してみると。……すっごく不本意で、すっごく悔しいんですけどね。
カズマといた時間って言うのは、結構覚えてるんですよ。
―――嫌なことはすぐに忘れるはずなのに、なんでかな……。
*
望まない。何も。
たとえ、この定められた敷地の外に、勝手に出ることは許されていなくても。
優しい言葉一つ、かけてもらえないとしても。
悲しいとは、思わないことにした。そう決めた。
この世の中は不条理と矛盾で満ち溢れているけれど。
こういう境遇にさらされる自分には、しっかりとその理由がある。だから理不尽じゃない。
与えられる孤独に見合う分の、原罪。
だからもう、何も望まない。
自分が不幸だとは、思わないことにした。そう決めた。
もうずっと昔に。
驚くほどざっくりと、綺麗に眠りと分断され、目が覚めた。
体に纏わりつくだるさも、残る眠気も何ひとつなく、見上げる天井だけがただただ白い。
そのあっけなさに驚いて、何度か瞬きを繰り返す。すっきりした目覚め、ともまた違った。
今まで自分が眠っていたのかどうかすら、分からなくて戸惑う。
取り敢えずむくりと上半身だけを起こしてみて、壁の時計に目をやった。
6時を少し回っただけ。
いつもより1時間以上早い。
規則正しい鼓動が、いつもよりも大きく脈打っているような気がする。左胸を内側から激しく打ち付けている。
(緊張、してるのかな)
その上に右手を重ねる。掌を叩くように、大きな鼓動。
(新しい家庭教師が、来るって)
昨日眠る前に高橋に言われて、なかなか寝付けなかった。頭の芯が冴えているのは多分、睡眠不足のせい。
人と接するのは苦手だ。特に初対面の人と接するのは。
露骨に顔をしかめられなくても、心の内側でどう思われているか分からない。
幼い頃から限られた空間だけで暮らしてきたから、ひととの接し方というものが上手くない。怖い。
自分の心の中に、領域に、何か新しいものが入ってくるのがまず、恐ろしくてたまらない。
ベッドから降りて、パジャマ姿のまま窓際へ寄る。
綺麗に整えられた庭園が見えた。ここだけ、中世のまま時間が止まっているかのよう。
少し遠くに見える塀の向こうには、車の流れも見えるのに。まるで塀で区切られた内側と外側は、別次元のようだ。
本当は、義務教育っていう制度もあるから、自分がこの中でこうして日々をすごしていることは、きっと不自然なことなのだろうと思うけど。
「何かの、役に立つ、なら」
まるで祈りの言葉のように繰り返す。自分の居場所を、この限られた世界の中に作る言葉。魔法の言葉。
「それでいい」
自分の力が、何かの役に立つなら、何か有益になるなら、それでいい。生きてていい。
こつりと窓ガラスに額をぶつけてみる。ひんやりと冷たい感触が心地いい。
だけど、本当に必要とされているのは「僕」じゃないんだって。知ってる。
英要という人間じゃない。その1個人の意識じゃない。その存在ではない。この心が思い、悩むことなど関係ない。
必要とされているのは、器。神と呼ばれる強い意識を、下ろすことが出来るこの体。
それなら、意識なんてなくていい。寂しいとか、思わないように。
器だけ残ればいい。
どうしようもないのにいつも、そんなことばかりを思ってしまう。
自分が何故、あんなふうに様付けで呼ばれ、一回りも二回りも違う大人たちに傅かれるのか、要には分からない。
自分には、「おいのり」をしている間の記憶がないから、どんな凄いことをしたと言われたところで実感がない。
(覚えてないなら、それは僕じゃない)
凄いことをしているのは、僕じゃない。あの人たちが"様付け"で呼んでいるのは、僕じゃない。
神様なら、この体を全部奪ってしまえばいいのに。
全部、塗りつぶして、早く取って代わってくれればいい。
生殺しにしないで早く、僕のことも助けてよ。
神様なら。
*
成瀬ですけど。そう名乗るだけで門は開いた。
顔パスならぬ、名前パスらしい。
背中で大きな音を立てて閉まる鋼鉄の門。こちらの世界とあちらの世界を仕切る境界線のようだ。
がしゃん、と重い音。もう後戻りさせないと、言われたような気がした。
――― 一馬……。ここまで来たらもう、後戻りできないぞ。
不意に、数ヶ月前の雅の声が蘇ってきた。屋敷の傍まで来てぴたりと足が止まる。
―――このまま、飢え死ぬのを待つのか? 違うだろう。
夢喰いは、夢を喰わなければいつか死ぬ。喰うことを拒んでも、体の奥でずくずく、疼く飢え。
――― 一馬くん、君は"生きる"のか、"死ぬ"のか。
何も見たくなくて、蹲っていた時期があった。そのとき、始に突きつけられた二者択一。
部屋の隅に座り込む自分の前に、真っ直ぐに手を伸ばして。始は言う。
―――腹が減ってるんだろう。
その頃のことはもう、あまり覚えてないのだけれど。真っ白な光の中、伸ばされてきた掌。
ただ、飢えた獣のように気が立っていたのを覚えている。近づくもの全て、噛み付きかねないほどの。
拒みながら拒みながら。継いだ力の所為で、求める、求める。
夢を。
誰かの意識を。
―――喰えばいい。私は死なない。人は、そんなに弱くない。
伸ばされた手が額に触れたその瞬間に、何かが壊れたような気がした。
まず壊れたのが、涙腺で。もうずっと、泣けずにいたその分が、一気に溢れ出した気がした。
そうして、生きることを選んだ。
この力を手に入れたことによって、一体、自分に何が出来るのだろう。
一体何を手にしただろう。いまだ答えは出ない。その答えを探すために、生きることを選んだのかもしれない。
(まだこの力を使うことに躊躇いがあるんだな)
いつになく気弱な自分に自嘲が浮かんだ。だが、それでいいと思う。躊躇いがなくなる方が怖い。
その躊躇だけは、なくさずに行こうと思う。
もうどれくらいその場に立ち止まっていたのだろうか、ふと我に返って、一馬は足元に落としていた視点を持ち上げた。
そして。
目が合った。
城と呼ぶにふさわしい建物の、3階の、左から数えて3番目の窓。
少し怯えたような、泣きそうな顔がこちらを見ていた。
目が合った瞬間、さっとカーテンが下ろされ、その顔をはっきり確認することは出来なかったが、確実に英要だろう。
あの、縋るような目は一体、なんだったのだろう。
しばらく呆然と要のいた窓を見つめていると、巨大な門の傍についた、通用口が開いた。
そこから息を切らした小さな体が覗くまで、一瞬。
ここまで、出迎えに来てくれたのだろうか。
「要、くん?」
呼ぶと、彼ははたと我に返ったようだった。自分が何故、ここにこうしているのかも、分からない様子で。
「えっと……あの……」
しどろもどろに、言葉を何とか捜そうとする。間に横たわった沈黙の谷を、埋める言葉。
やっと、要が何か言葉を掴んだようで、口を開いたその次の一瞬に。
「要様!」
割り込んだ絶叫がひとつ。
声に引き寄せられるようにそちらを見ると、礼拝堂に集まってきていた人々が、色めきたってこちらを見ていた。
ざわざわと、ざわめきが伝染してゆく。
要様だ、神の子だ。口々に零れる言葉に、要の顔からみるみるうちに血の気が引いてゆく。
「要様、助けてください、うちの子、足が……」
その人波からこちらにふらふらと近寄ってきた初老の夫人が、要に向かって手を伸ばした。
私も、私も、波の中から伸ばされる手に、じりじりと要は後ずさりした。
助けて、助けてください。
そうやって伸ばされる何本もの手に、きゅっと要が口唇を噛んだのを、一馬は確かにその目で見た。
無意識のうちに要が後ろに出した足が、玄関との段差に引っかかって、がくりとその体がよろめいた。
倒れる。その一瞬前で一馬の手がそれを防ぐ。
その勢いで玄関の内側に入った一馬は、ドアの取っ手を掴み、人波に向き直った。
「すみません、後にしてもらえますか」
人が入ってこれないぐらいにドアを細くして、言う。
「疲れてるみたいなんで」
「あんたはっ……」
その細く開いた扉にさえ、指を挟んでくる。縋りつく手。
優しくその指を引き剥がしてやり、一馬は営業用の笑みを顔に張り付かせて見せた。
「"家庭教師"ですので。失礼します」
パタン。
扉が閉まった。
「…………ない」
震える口唇のせいで、上手く発音できない言葉。ぎゅっと、腕を握る力が強くて、服の下の皮膚にまで鈍い痛みが走った。
「……僕じゃ、ないんだ」
今まで、誰にも、それこそ親にさえ、言えなかったこと。だった。
「僕じゃないのに……」
ずるりと、一馬の腕を掴んだままで、要はそこにへたり込んだ。
「あの人たちが呼んでるのは、僕じゃないのに……」
窓から、ドアから、少し顔を出すだけで。あんなふうに。絡まりついてくる声と腕と。指先。
「何をしたかなんて、覚えてないのに」
怖い。
噛み殺しても、噛み殺してもこみ上げてくる嗚咽に、どうしようもなくて、要はぐっと腕で目元を拭った。
ぐっと、自分の腕に縋る要の腕を逆に掴んで、少し強い力で、一馬が引き上げた。
「大丈夫?」
同じ位置に視線を持ってきて、ゆっくりと聞いた。
すると要は、初めて会った時のように、びっくりしたように目を見開く。目尻に溜まっていた涙が一筋だけ、頬に落ちた。
(慣れてないのかな)
呆気にとられた表情の要を見て、直感的に一馬はそう思った。
別に、根拠もなくただ、そう思った。
優しくされることに。慣れてないのかな。
要のあからさまな戸惑いに、そう思った。
「ハイ。大丈夫、です」
我に返ったのか、要は、一馬から体を引き離し、ごしごしと涙を拭った。
「目、冷やした方がいいね」
「え?」
「赤いから」
苦笑すると、真似したように要も、少し苦々しく笑った。
*
部屋の置くから引っ張り出してきた、アイマスクを当てて、要は、椅子の背もたれに頭を預けた。
中にジェルが入っていて、冷凍庫で冷やして使うものだ。
その慣れた行動に、要が"こうして目を冷やす"のは、一度や二度のことではないのだなと一馬は思った。
「成瀬さん」
そのままの体勢で、要が呼んだ。
「一馬でいいよ。呼びにくいだろうから。それから、敬語も要らないし」
「え……?」
目からアイマスクを引き剥がして、要が体を起こした。大きな目が、零れそうなほどに見開かれている。
「どうかした?」
そのまま要が半ば固まってしまったので、一馬も対応に困ってしまう。
「変な人」
まだぼんやり感が抜けないらしい要の口から、ぽろりと失礼な言葉が零れ落ちた。しかし、それも事実なので一馬は正さずにおく。
「何が?」逆に問い掛けてやる。
「だって。今までの先生は皆、先生付けで呼ばなきゃいけなくて、敬語は当たり前だって」
「だって」
同じように切り返して、一馬は、要の向かい側に腰を下ろした。
「先生なんて年じゃないし。柄でもないし。堅苦しいの嫌いだし。嫌なら要くんの好きなようにしていいけど」
「いいよ」
的外れの答えが返ってきて、今度は一馬のほうが面食らった。
まだ少し、目尻の方が赤いままで、要が本当に、屈託のない笑みで笑って見せた。
"神の子"でも、奇跡を起こす少年でも無く、そこには13歳の少年がいるだけだった。
「"要"でいい」
その笑顔に自分が、つられて笑っていることに気付いた。
(寂しかったのかな)
ほんの少しの優しさに、こんなふうに笑顔を返してくれるほど。
優しくされることに飢えてたんだろうか。
"誰が"?
屈託のない笑顔を返してくれること。信頼を寄せてくれているらしいこと。それに安堵している自分の心に、一馬は気付いた。
寂しかったのかな。誰かの信頼を求めるほど。
"自分"が。
にこにこ笑った後、要はもう一度アイマスクを目に当てた。
「もう大分、いいと思うけど」
確実に元に戻ったわけではないが、もうずいぶん赤みは引けたと思うけど。
そう言うと、要はアイマスクを目に押し当てたまま、ゆるく首を横に振った。
「多分もうすぐ父さんがここに来るから」
「英さんが?」
「うん。嫌いなんだ、父さん、―――僕が泣くのが」
最後のほうだけ、トーンが酷く落ちたのは、一馬の聞き間違いではないはずだ。
しばらく、その場に沈黙が流れたが、それは決して居心地の悪いものではなかった。
沈黙を破ったのは要だった。先程のように背もたれに預けていた頭を突然起こし、目蓋からアイマスクを引き剥がす。
「要……」
どうしたんだ? 聞くより先に、部屋の扉がノックされた。
「要、入るぞ」
少し硬い声が、扉越しに聞こえてきた。
*
要は敏感にこの足音を聞き分けたのだろうか?
テーブルの下にアイマスクを隠すように投げた後、要が「はい」と返事を返した。
間をおかずに扉が開き、英秀一郎と柴浦が室内に入ってくる。
秀一郎はちらりと一馬を一瞥し、少し意外そうな顔を見せた。
「要、これは……」
「あ……」
「あー……えっと、すみません、英さん」
問い詰めるような強い口調で秀一郎が要のほうを見た。あからさまに怯えたような表情をする要に、ついつい一馬が口を挟んだ。
「僕が要くんを見つけて、少々強引に連れてきてもらったんですよ。そちらに顔を出さなくてすみませんでした」
ちゃんと口裏、合わせてくれよ? そう言う意味をこめた視線を少し要に向けた。
「本当か?」
一馬から要に視線を滑らせた秀一郎に、要はこくりと一回だけ頷いた。
「それならいいが」
言葉とは違って口調は納得していないような感じだった。本音と建前。
「要。この人が今日からお前の家庭教師をしてくださる成瀬一馬さんだ。粗相のないように。"祈り"の時間までまだ間があるから、家の中を案内して差し上げるといい」
「はい、分かりました」
「それでは私は人と会う約束がありますので、これで失礼します。なにか屋敷の中で分からないことがあれば、使用人たちにお尋ねください」
それだけを言い残すと踵を返し、秀一郎は部屋を後にした。柴浦も、主に倣うように軽く会釈をすると部屋を出た。
ぱたりと扉が閉まる音がやけに大きく聞こえる。
その音の大きさに、しばらく二人とも何も言えずにいた。
特に一馬は、昨日感じた違和感をさらに上から上塗りされたようで、落ち着かない。
(自分の子供なのに)
雅から提示された情報によると、血もしっかり繋がっているらしいのに。この冷え切った空気は一体なんなのだろう。
実の息子に対する威圧的な態度。実の父親のその態度に怯える息子。
おかしい。上手くかみ合ってない。ちぐはぐだ。
しゃがみこんでテーブルの下からアイマスクを引きずり出した要が、隣の部屋にある自分専用らしい冷蔵庫にそれをしまい込んだ。
この部屋には隣接して風呂場やキッチンまでついていて、13歳の少年が一人で使うには便利すぎる。
それがまた一馬の中の違和感を煽った。この部屋から必要以上に出さないようにしているのか?
本当なら13歳という年齢は、義務教育を受けなければいけない年齢なのに。
ちりも積もれば山となる、ではないが、小さな違和感や不快感が溜まり、徐々に徐々に増幅してゆくような感覚があった。
部屋の隅から隅まで視線を巡らせながら、一馬は知らないうちに眉間に深い皺を刻んでしまっていたようだった。
「カズマ……?」
隣の部屋から戻って来た要が、その渋い顔に怪訝そうな顔をする。
「ああ、なんでもない、ごめん」
気付かないうちに厳しい顔をしていたことに気が付いて、一馬は表情を緩めた。
すると、ほっとしたように要がひとつ大きな吐息を吐き出した。
(誰かに嫌われることを、拒まれることを、怖がってるのかな?)
誰だって嫌われたり拒まれたりはしたくないが、要はその部分においてかなり過敏になっているように思えた。
人の一挙一動。それにすら怯えるように。
先程だってそうだ。自分は殆ど感知できなかった父秀一郎の足音を過敏に聞き分けた。
「屋敷の中、案内してくれる?」
訪れた沈黙をその言葉で破ると、要は大きく頷いて見せた。
*
一体いつの頃だっただろうか、と考えてみる。
自分が少し人と違うんだということに気付いたのは。
多分、そんなに昔じゃないはずだった。それまで自分は、周りの人間と同じ生き物なのだと信じて、疑ってもいなかった。
本当に幸せ者だと思う。そして愚かだった。
「―――ここが屋上」
軋む木の扉を要の手が押し開けた。
書庫、資料室、イギリスの古城を思わせる建物をぐるりと一周した二人が到達した場所だった。
同じ大きさの石を積み上げて出来ているその場所は、まるで砦のようで、石垣は凹凸の形になっていた。
無言のまま要はその石垣に寄ると、屋敷の敷地を見渡した。広大な土地は緑で埋め尽くされている。芝生の黄緑と森の深緑と。
ひとつの色で統一されたかのようなその敷地の中にぽつんと、"白"があった。
礼拝堂。
まだ"おいのり"の時間でもないのに、その入り口には人が群がっていた。どこか憂えた顔がここからでも見える。
「昨日、見せてもらったけど……」
沈黙を埋めようとして一馬が言った。が、次の瞬間後悔した。
肩越しに少し振り返った要の顔が寂しそうに歪んでいたからだ。
思えば初めて会ったときも、要は"おいのり"の時間から逃げていたのではなかったか。
慌てて口にしたとはいえ、配慮に欠けていた。後悔してももう遅いが。
「僕じゃない」
口元に寂しそうな笑みを浮かべたまま、要が言った。先程も聞いた言葉を。
その言葉の意味を掴みかねて一馬が不思議そうな顔をしていると、要は一馬に背を向けた。胸よりも少し高い位置にある石垣に両腕を乗せて、少し目を細めるようにして礼拝堂を見下ろす。
「覚えて、ないから。"おいのり"の間のことは何も……。僕がどんなことをしたって言われても実感全然ないから」
覚えてないなら、それは自分ではないのではないだろうか?
人々は、神がこの体に降りるという。この体を借りて、神が奇跡を起こすという。
その間は、ぽっかりと記憶に空白が出来るのだ。
「怖いんだ。あんなふうに縋りつかれてもどうにも出来ないし。"おいのり"の時間は、……好きじゃない」
吹き付けてくる風に、要の栗色の髪が揺れた。少しくすぐったそうに目を閉じる。
「好きじゃなくても僕は……」
「要様。こちらにいらっしゃったのですか。そろそろお時間です」
要の言葉を遮るように、扉がギィと開いた。顔を出したのは秀一郎の秘書を務めているらしい柴浦という男だった。
陰鬱そうな顔つきで、初対面の時一馬が抱いた印象は、好印象とは程遠いものだった。その意識は今も変わらずにいる。
「……分かりました。今行きます」
石垣から振り返った要が短く告げた。ドアに向かって歩きだす。
「それじゃあ、今日からよろしくお願いします」
一馬の傍まで来ると、そう言って丁寧に頭を下げた。柴浦の手前だからだろうか。
一馬は呆気に取られて、ただ「はぁ」としか返すことが出来ない自分を恨めしく思ったが、時既に遅く。
ぱたりと音を立てて扉を閉め、要は去ってしまった。
ぼんやりと閉まったままの木の扉を見つめたまま、一時停止している自分に一馬が気づいたのは、それから1分ほど経ったあとだった。
―――好きじゃなくても僕は続けないと。
ふわりと耳に届いたその言葉は、一馬の空耳だったのだろうか。それとも……。
*
屋上から石造りの螺旋階段を降りてきた一馬は、自分の左右に伸びる一本の長い廊下を見渡した。
目の前の大きな扉は書庫、だったと思う。所狭しと並べられた棚にぎっしりと本が詰め込まれていた。
その隣が英秀一郎氏の私室。そして、右側の突き当たりに、扉がひとつ。
ここは館の最上階、四階である。この階に上ってきたとき、要はしばらく立ち止まって、じっとその扉を見ていた。
―――あの部屋に何かあるの?
階段を上りきって後ろから訪ねると、要は必要以上に驚いた顔で、弾かれたように振り返った。
水を浴びせられた犬のようにぶるぶると首を振る。
―――何でもない。あの部屋はいいんだ。
必要以上の音量で要が言った。
―――今は使われてないから、いいんだ。
それ以上の詮索を振り切る勢いで吐き出して、要は先に立ち、屋上へ続く階段へと歩き出した。
それが少し前のこと。
一馬はしばらくその突き当りの扉を見つめ、じっとしていた。
閉ざされた部屋。まるで閉鎖されたこの空間を象徴しているような気がした。
「成瀬様、こちらへおいででしたか」
声を掛けられて我に返る。先程要と一緒に上がってきた階段から、優しそうな顔の初老の紳士が現れた。
先程紹介されたはずだ。思い出せ。何とか記憶の箱をひっくり返して、一馬はその男が高橋と言う名前だということをようやく思い出した。
「旦那様より、お部屋へご案内するように仰せつかっておりますので、どうぞ」
「あの、高橋さん」
「はい?」
Uターンして階段を降りようとしていた高橋を呼びとめた。
これはもしかしたら、事件解決の糸口を探すという名目の、好奇心かもしれない。
思わないわけでもなかった。しかしこういう場合いつも、好奇心が勝ってしまう。
不自然に鼓動が高まるのを感じながら、一馬は奥の扉を指差した。
「あの部屋は?」
すると高橋は、一瞬何を聞かれたのか分からないような顔をした後、少し困ったような顔をして口を開いた。
「お亡くなりになられた奥様のお部屋です」
今度は、一馬がぽかんとする番だった。
「お亡くなりになってるんですか」
それは、ひとりごとに近い言葉だった。小さくうめくように声を漏らした一馬に、高橋が頷いて見せた。
「はい。まだ要様がお小さい時分に」
苦々しさと哀れみとを足して割ったような曖昧な表情で高橋は少し俯き、そしてすぐに元の優しい顔に戻した。
「それではどうぞ、お部屋にご案内いたします」
*
白装束に袖を通した。
いつものように。
小さな小ビンが掲げられ、反射的に目を閉じると、上から冷たい雫が降ってきた。
掌が近づいてきて、ゆっくりと額と瞳を一緒に押さえつけようと―――。
その直前で、掌がぴたりと止まった。
いつもと違うその動作に、戸惑った要が目の前に立つ男を見上げる。
「要様、ここに傷みたいなものが……」
その掌が、要の首筋の辺りにさっと触れた。
「―――ッ!」
頭の中が一瞬にして、フラッシュを焚いたように真っ白になって、要は無意識のうちにその手を払い除けていた。
ぱしりと、頬を平手で殴った時のような渇いた音が響いた。
その音で、一瞬にして周囲の音が死んだ。
沈黙。
少しの間を置いた後、自分が息さえも殺していたことに気がついて、要がゆっくりと深い息を吐き出した。
「ごめんなさい、首、苦手で……」
払い除けた方が怯えた顔をして取り繕った。
要の額には、細かな汗すらにじみ出ていた。
「すみません、続けてください」
少し荒い呼吸を繰り返しながら、要はもう一度目を閉じた。
今度は目蓋を覆うように、闇が降りてきた。
*
まだ夜中には程遠い時刻。一馬はあてがわれた部屋のベッドに仰向けに寝転んでいた。
なにやら、このような巨大な屋敷は、自分の気力をじりじりと吸い取られてゆくような気がする。
屋敷自体に何か、力が宿っているような。
個人としては、あまり長居したくない、が。無理矢理にでも眠らせない限り、人が眠る時間は夜なのだ。
要の"夢遊病"とやらを一度ならず見てみないことには、対策も練ることが出来ない。つまりは必然的に泊り込みなのだ。
(洋館、苦手なんだよなぁ……)
落ち着かない。
簡素という言葉とは程遠い洋館は、どうしても肌に合わない。
長い間畳と襖と障子に囲まれて生きてきたから、慣れていないのだろうが。
そもそも、このような洋館に住もうとすること自体、一馬には理解不能なことなのだ。
移動も面倒だし、何より維持費がかかる。そんな小さなことを考えるのは、やはり自分がコモノだからだろうか?
しょうがない。とりあえず眠っておこうかな。
そう思って、一馬は、壁と向き合うように体を横にすると、目を閉じた。
しかし頭の芯はどこか冴えていて、すぐに眠れそうにはない。
こういうとき、自分が他者に対して使える、強制的な催眠を自分にも使えればいいのに、と思ってしまう。
しかし夢喰いは夢喰いの夢に干渉してはならないというのは、昔からの仕来りだ。
それがたとえ、自分の夢であろうとも。
(まぁ、しばらく目を閉じてれば眠れるだろう)
それでなくても今日は随分と色々なことがありすぎたから、きっと疲れているはずなのだ。
目を閉じてじっとしていると、少しずつ少しずつ、睡魔が擦り寄ってくるのを一馬は感じた。
既に時計の針は深夜を回っていた。
絨毯が敷き詰められた廊下は、真夜中の訪問者の足音をすっかりと吸収してしまう。
照明が一切落とされた廊下を、ゆらりゆらりと揺れるように、人影がひとつ動いていた。
目指すのは、電気をつけたまま寝入ってしまったらしい成瀬一馬という男の部屋。
暗闇の中に、ドアの隙間から漏れた光が長方形を作っていた。
ゆっくり、ゆっくりと近づき。
ドアノブに手をかけて静かに―――。
回した。
to be contenued……