4.捕食
―――先生、助けてよ。苦しいんだ。
病室の壁に背を預け、椅子に座ったまま。頭のどこかが冴えているまま夢を見ている。器用な奴だと自分で思う。
―――先生に話を聞いてもらうと楽になるんだ。なんていうか、スッとするんだ。忘れられるっていうか……。
色々な声が、笑顔で言う。"助けてくれてありがとう"。
その数ヵ月後には、廃人になる笑顔だ。
私の力が足りなくて。すみません。
ただの肉の塊と化した肉体の前。意識の永遠に失われた体の前で。
心にも思っていないことを、相手の親や家族に告げてみる。沈痛な面持ちで。
―――先生、いいんですよ。先生に話を聞いてもらって、少しは安らげたみたいですから。
ハンカチで目元を押さえながら、母親が言う。
こっちは、こみ上げる笑いをこらえるので必死だっていうのに。
忘れられる? 当然だろう。僕が食ったんだから。
安らげた? 笑わせないでくれ。
生き残るためだ。人々が生き物を殺して喰うのと何が違う。自分の生命のためだ。
沈痛な面持ちを顔に浮かべたまま、心の中の自分は高らかに笑っている。
狂ったように。呼吸が困難になるほど。笑って。感じるのだ。
生きていることを。
―――いいよ? 充。
突然。別の声が割り込んできた。それと同時に酷く残虐な自分がすうっと引いてゆく。
発作のような笑いが引いてゆく。
目蓋の裏に、狭い座敷が広がった。
畳に床の間、障子、襖。入り口にはいつも鍵をかけられていた離れ。
格子をはめられた窓から、伸べられた白い手。
―――おなか、空いてるんでしょう。食べてもいいよ。
窓から差し伸べられた白い指から腕へ。腕から体のほうへと視線を滑らせてみても、逆光で顔が見えない。
同じ日に、同じ胎から産まれたはずの彼女の顔を、僕は思い出せずにいる。
そもそも、はっきりと見たことはないのかもしれない。
僕はあまり、離れの外に出たことがない。
(でも姉さん、そうしたら姉さんが……)
―――どちらかが生きて、どちらかが土に還る定めなら。私は貴方を追い落として生きるよりも、安らかに灰になる方を選びたい。
(でも、"櫛引"の家はね、姉さんを後継に選んだでしょう)
―――家のことなんてどうでもいいのよ。私は貴方に生きて欲しいのよ。
さあと促す白い手。
じっと見つめるうちに、その白い腕の輪郭が、徐々に徐々にぼやけてゆく。
体の奥。鎖で繋いでいたはずの本能が、鎖を食い破ろうともがいた。何しろ空腹なのだ。
1日三食、しっかりと出される食事では、消して満たされない飢えが、この体の奥底でいつも鳴いていた。
血の流れによって、伝えられた力ゆえの。飢え。
本当は、伝えられるはずのなかった力の所為。
本当は、産まれてくるはずではなかった自分の……所為で。
(姉さん)
縋るように名前を呼ぶ。心とは裏腹に、手が伸びた。
差し出される白い肌に。
餌。
…………い、せんせい。
その白い肌に届く前に、ぶつりと夢は途切れた。
*
「せんせい、いつ帰ってきたの? さっき、いなかったよね?」
うっすらと目を開くと、こげ茶の髪を長く垂らした少女が、身をかがめて自分の顔を覗き込んでいた。
「……ああ、ちょっと出かけてたんだ。ごめんね」
この少女は、もう何人目かは忘れたが、新しい餌だった。
"夢喰い"の力を継いでいながら、夢に潜れるほど強くない己が選んだ、唯一の生き残る術。
ひとの心の闇の傍にいて、やさしい言葉をたくさん並べて。
餌を貰う。
「あかりちゃん、外に出たの? 看護婦さんが言ってたよ」
「せんせいを、探しに行こうと思って」
「……そうか、ごめんね」
ひとはどうしていつも。傍にいる自分よりかは大きなものにもたれかかろうとするのだろうか?
今までその心に触れてきた子達は皆、盲目的にもたれかかってきた。信じていると言った。
その信頼を、心のどこかでいつも鎖に繋いでいる本能の部分が、愚かだと笑う。のに。
彼女のことだけは、凶悪な本能が、笑うことはなかった。静かだった。
その代わり、彼女の傍にいてからは、ずっと空腹だ。
もっと一気に貪ってしまったなら、きっともう何ヶ月も前に彼女は、他の人々と同じように空っぽになっていたはずなのに。
何故か彼女には、躊躇いが生まれて。
「せんせいどうしたの? 元気ないみたい」
「……少しね、お腹が空いてるんだ」
思わず本音を零してしまった。飢えてるんだ。本当はとても。
けれど普通はこれだけで、自分の本意が伝わるはずはなかった。普通は皆、通常の意味での「空腹」を想像するだろうから。
だけど本当はどこかで。
醜い裏側を知って欲しいと。誰かに。見抜いて欲しいと。
思うのはただの我儘だろうか。
「わたしね、せんせいにすごく、すごく感謝してる」
突然、あかりが脈絡のないことを言い出した。
純粋に少し驚いて、何も言わずに彼女を見つめた。
「わたし、お母さんとずっと二人だったし、周りの人たちはわたしのこと見ないようにしてた。声も掛けてくれなかった。せんせいは、お母さんの他に、わたしにやさしくしてくれたはじめの人なんだ。『あかりちゃん、はじめまして』って。せんせいがわたしにそう言ってくれたの、今でもよく憶えてる。そのときわたし、はじめてこの世界にいるんだなぁって思った。お母さん以外の人にも、見えてるんだって思ったの。だから」
何故唐突にあかりがこんな話をし始めたのか、分からないまま。相槌すら返せずに聞いている。
わけは分からないが、心がざわついた。
久しぶりに昔の夢を見たからだろうか?
「いいよ?」
首を小さく傾げて、あかりが言った。
何が?
問い返せず。黙る。
だぶる。
―――いいよ? 充。
「あかりちゃん。どうしたの?」
ばくばくと、肉の内側で、血を生み出すポンプが激しく脈打った。
額に何故か、脂汗。
冷静を装って訊いてみるものの、体の内側はパニックだった。
そんな事情を知ってか知らずか、相変わらずあかりの表情は静かなままだった。
「わたし、難しいこととか、不思議なこととか、よく分からないけど、いいよ?」
「だから、"何が"?」
ようやく訊くことが出来た。一体何が「いい」の?
何を許してくれるの?
「食べてもいいよ」
え?
(いいよ充。食べなよ)
「ちょっと、あかりちゃん、何……」
慌てていた。今までこんなに焦ったことがないぐらいに。
取り繕うことさえ出来ず、声が上擦る。
(私のことはいいから。お腹が空いてるんでしょう?)
どくどくと、体中に血が巡り、かぁっと内側から熱くなった。
かちゃりとどこかで鎖のゆれる音が聞こえる。内側の、凶暴な自分が暴れ出しそうになっていた。空腹で。
何度も何度も懐かしい声が耳元で回った。
これは夢だろうか? 夢であって欲しい。
「せんせいがね、わたしに触れてくれたあと、凄く心が楽になった。だけど、何で悩んでたのか、分からなくなった。怖かったけど……。そのあとせんせい、少し楽そうになるから。多分そうだろうって思ったの。いいよ」
あの日のように、見つめているうち、あかりの輪郭がぼやけた。
食ませろと、体の奥で鳴き声。泣き声。
理性という名のたがが外れ、手が伸びた。
(いいよ、充)
(いいよ)
(食べなよ)
―――食べなよ。
「―――ッ……」
あかりの肩に手を乗せて。……押し返した。
「せんせい?」
がたりと音を立てて椅子から立ち上がる櫛引に、あかりは思わずあとずさった。
「ちょっと、ご飯食べにいってくるよ。術後の経過には気をつけたほうがいい、あかりちゃん、寝てて」
あかりを押しのけるようにして、櫛引は病室を出た。
ぱたりと閉まった扉を見つめて、しばらくあかりはそこに立ちつくた。
*
「はい」
目の前に差し出された紙コップには、真っ黒な液体がなみなみと注がれていた。
病院の一階。食堂の長テーブルの端に座って、紙コップに液体を注ぐ形の自動販売機から、生み出されて間もない商品を受け取った。
「砂糖とミルクは、要らなかったよね?」
既に自分の分を口元に運びながら、雅が言った。促されるまま頷く。
どこかの誰かさんと違って、この舌は甘党仕様にはなっていないのだった。
「……すみません、立ち聞きするつもりじゃなかったんです」
両手で紙コップを包み込み、要はうな垂れた。揺らさないように持っているつもりでも、微妙な振動で揺れる黒い液体に目線を落とす。
「いや、別に聞かれて困る内容じゃないしね。要くんに隠したって、どうなることでもないさ」
要の向かい側に腰をかけ、雅が笑ってみせる。
「逆に、なんだか仲間はずれにされたような気分になったんなら、俺たちが悪いし」
「……仲間はずれなんて。だって聞いても僕には、何にも出来ないし……」
言っていて、なんだかだんだん惨めになった。
自分にはどうすることもできない。自分では何の助けにもなれない。
口にすることによって、痛烈に知らしめられて、沁みた。
「前に、俺は一度君に言ったよね? "成瀬一馬"について、教えてやろうか? って」
雅の言葉に、要は黙って頷く。
あれは、成瀬一馬という人間と、生活を共にし始めて、まだあまり経っていない頃だった。
雅と会うのも、まだ数えるほどだったはずだ。
だって、本人が話したがらないのに、他人から聞くのなんてなんだか悪いから。
だなんて。もっともらしすぎる正論を吐いて、要はその申し出を断ったのだった。
いつかは話してくれるだろうし、そのときを待てばいい。そんな気持ちだった。
だけど今は、知らないことを知らしめられるたび、苦しくなる。
血のつながりもなければ、確かな約束もなく。相手のことを何も知らないなら何故。
一緒にいるのだろう。
もしかして一馬の事を知っていたら。詳しくは知らないが、色々辛いことがあったらしい過去を知っていれば。
傍にいる理由になるかと思った。
醜い、自己中心的な自分がそう思った。
傷を分かるフリをして。
「どうする? 知りたいなら話すよ」
すぐ目の前。手の届くところにカギが放り出された。
開こうと思えば、今までびくともしなかった扉を開け放つことが出来る。知りたくて、でも聞けなかったこのもどかしさを消化できる。
のに。
いざとなって、要は怯んだ。
両手で紙コップを包み込んで、ぐっと口唇を噛む。まだ一口も口をつけていないコーヒーが、紙コップの中で温くなっていた。
「……じゃあ、要くんの質問にだけ、答えるよ」
目を伏せたままの要に、雅は、そう前置きして、始めた。
―――夢喰いって、夢を食べなきゃ、死ぬの?
先程自分が口にした質問が、頭の中で何度もぐるぐる回っている。
まるで死刑宣告を待つように、要は目を閉じた。
「結論から言うよ。夢喰いは、人の意識を糧にしなければ、いつか死ぬ」
先程雅に質問を浴びせたときの、沈黙と困ったような笑顔で。答えは既に分かっていたはずだったのに。
改めて言葉にされるとやはり違った。どん、と胸を大きなハンマーで潰されたように、息苦しくなる。
「だけどそれは、俺たちが1日三食のメシを食うような頻度じゃなくて、もっともっと、それに比べればそれこそ無いに等しいと言っていいほど少なくていいんだけど」
「……それでも、食べないわけには……」
いかないんでしょう?
うっすらと目を開けて、上目遣いに雅を見ると、雅はまた困ったように笑った。
「そうだね。一馬が自分の力を嫌っている原因のひとつが、それだね」
夢といわず、記憶といわず。ひとの意識に依存しなければ、生命をつなげないものなど。
人間としてどうかしている。そう言っていたのはいつだっただろうか?
―――こんな力、本当は要らないんだ。滅んでしまえばいい。そう思うよ。
人の心に依存しなければ生きていけないなんて、人間としてどうかしてるんだ。そんなの人間じゃない。
「だから君が、ああいうことがあって、一馬が君を引き取るっていったときにね、俺は本当は怯えてたんだよ。どっちにとっても、あんまりいい影響は与えないんじゃないか、って」
「傷の舐め合いってことですか」
「卑屈になっちゃだめだよ」
「……すみません」
優しい言葉でたしなめられたはずなのに、きつく怒鳴られるよりも何故か効いた。
しゅんとうな垂れると、雅の手が要の頭をくしゃりと撫でた。
「最近、疲れてるんじゃないの?」
「え?」
「疲れてるときは後ろ向きになるし、思い詰めもする」
要はされるままに頭を撫でられている。これが一馬なら「子ども扱いしないでよ」などとはねつけるはずなのに、何故か落ち着いた。
「……えっと、最近少し昔の夢を見るようになったから、不安定なんだと思います」
はねつけるどころか、ずっと黙っていたことまですんなりと口唇から零れ落ちる。
そこで要は、初めて、自分が一馬に対して意地を張っていたことに気付いた。
(いつも、足手まといにならないように。邪魔にならないように)
対等にいられるように、ずっと。
そんなことばかりを思っていた。
「最近力が増してるみたいだね。都佳沙が言ってたけど、確かにそうみたいだ」
「分かるんですか?」
「一応俺も、プロだから。そのぐらいは。―――都佳沙はその力が無いほうが、君のためなんじゃないかって、思ってるみたいだけど」
「……雅さんは、どう思いますか?」
「俺は別に構わないと思ってるよ。確かに力が強まれば弊害も多くなるけど、その力があるだけ、人には出来ないことも出来るわけだし。そのぐらいに開き直ってていいと思うよ。とりあえず悲観はよくない。俺の持論だけどね」
「ひとには出来ないこと……」
そんなふうに考えたことは無かった。この力があることが、プラスになるだなんて。
「あんまり深刻に考え込むと、都佳沙みたいに無表情になっちゃうから気をつけたほうがいいよ」
豆鉄砲を食らったかのようにきょとんとしている要に向かって、雅はわざと眉間に皺を寄せてみせる。
「……無表情で悪かったね」
突然会話に割り込んできた声に、今度は雅が硬直した。
「都佳沙」
雅の後ろに立つ、怒りのオーラを纏った少年を見上げて、要が少し驚いたようにその名を呼んだ。
どうしてここに?
制服のままの要と違い、しっかり私服姿の都佳沙が、硬直したままの雅の隣に腰掛け、その目の前にクリップで留められた紙の束を投げ出した。
「病室にいるって言うから獅遠さんの病室まで行ったのに。探したじゃないか。せっかく頼まれたものを持ってきたっていうのに」
「あんまり渋い顔をしてると顔に皺の形がつくから止めなさい」
すっかりと真面目モードに戻った雅が、目の前に投げ出された資料を持ち上げ、ぱらぱらと捲り始めている。
あるページで紙を繰る指を止め、隣に座る都佳沙の頭を乱暴に撫でた。
「ご苦労さん」
「どういたしまして。もう慣れてるよ。それで、役には立ったの?」
「十分ね」
雅が視線を滑らす紙面には、履歴書のような文面が並んでいた。右上に小さな顔写真も載っている。
わずかに外に跳ねた黒い髪と、意志の強そうな瞳に、精悍な顔立ち。
先程中庭で対峙した少年だった。
「『呉 仁』……ね」
一通りその紙面に目を通すと、雅は立ち上がった。
「戻ろうか。色々分かったこともあるから」
言うが早いか、雅はすたすたとエレベーターに向かって歩いていってしまう。
取り残された二人は顔を見合わせて、どちらともなく苦笑を漏らすと、席を立った。
呉 仁(Hitoshi Kure) 17歳。
私立聖城学園高等科在籍。
陰陽道の流れを汲む呉宗家の次男。
現在は3つ年上の姉、奈津(ナツ)と双子の妹、木葉(コノハ)と共に、本家の外で暮らしている。
現在姉、奈津が原因不明の病に臥せている。
*
あまり人気の寄り付かない、駐車場の端のほうが、少し騒がしかった。
「俺は聞いてない!!」
「仁、やめなよっ」
目の前の男に。掴みかかろうとする腕を、すぐ横にあったもう一本の腕が止めた。
「木葉は黙ってろよッ!」
まるで縋りつくように絡められた、自分よりも細いその腕を、思いっきり振り払う。
小さな悲鳴を上げて、血を分けた、同じ日に同じ胎から産まれた妹がよろめくが、構っている余裕が無かった。
「俺はッ! 同業者が絡んでるなんて、一度も、ほんっの一度も!! 聞かなかったぞ!? しかも、銀!!」
「銀……?」
二、三歩後ろに下がった木葉の口唇から、鸚鵡返しのようにその苗字が零れ落ちた。
霊媒関係の業界に生きるものとしては、知らないほうがおかしいという巨大な家だ。
「絶対バレた。バレたぞ! 呉なんて滅多に無い苗字だしっ! しかも俺が結界張ってたのだって知ってた!」
「仁君、声が高いよ。少し下げたら?」
「うるさいッ! 俺は……、あんたが……、姉さんを治す方法を知ってるっていうから! だから……」
仁は、伸ばした手で、目の前の男の胸倉を掴んで引き寄せた。両手で。
ぐっと近づいた男の瞳は相変わらず涼しげで、それがさらに仁の感情を逆撫でした。
怯えた獣が必死に相手を威嚇するような、ギリギリの瞳が、男の瞳に映っていた。
深い蒼の双眸。
"夢を喰う力"を継いだもの。その証だ。
睨み合いに負けたのは、仁。
負けた腹いせに、せめてもの抵抗として、掴んだ襟首を思いっきり突き飛ばす。
「あんたが悪いんだぞ!? あんたのせいで"櫛引"が潰れたんじゃないか!! その所為で、"表"だった呉にまで影響が出たんだ!」
「潰したつもりはないよ」
「ふざけんなっ! あんたが"喰った"からじゃないか! あんたは元々隔離されたまま、死んでくはずだったんだろ!? 何で惨めに縋ってんだよ!? 他人を追い落としてまで……」
「仁、もうやめようよっ!!」
必死に食ってかかる仁の腕に。再び木葉が縋りついた。
「木葉ッ、離せ……」
振り払おうと木葉を振り返った仁が、固まる。
「もうやめようよこんなの、木葉、怖いよ……」
両腕で、仁の片腕にすがり付いて、木葉はずるずるとその場に崩れ落ちた。
「木葉……」
仁の片腕を掴んだまま、ぺたりと地面に座り込んで、木葉は子供のように泣きはじめた。
「やだよもう、仁ばっかり。仁ばっかり頑張って、お姉ちゃんや木葉の盾になって。それで最後にいつも、兄様にぶたれるの……」
地面に座り込んだまま、祈るように両手で仁の腕を抱いて、いやいやをするように首を横に振る。
「もういやだ……! 兄様も、本家も、嫌いだ……。霊媒師も、夢喰いも、大ッ嫌い!!」
「木葉ぁッ!!」
ぐっと。自分の腕に縋りつく木葉の体を引きずりおこし、喝を入れるように叫ぶ仁の声も、涙声。
「しょうがないじゃんか……。オレたち、そんな家に、生まれて。今まで生きて……これからも……」
そうしてゆくしかないのに。
この体に流れる血潮まで。抜き取ることなど出来はしないのに。
どうしようもないのに。
悲しくなるのは、一体何故。
空から、差し込む容赦の無い、残暑の熱。
家柄や、体裁を重んじる人々から、忠実に受け継がれた「黒」の髪が、他のどの色よりも熱を集めて、熱い。
綺麗な黒だと言われた。
だけど本当はこんな色、欲しくも何ともなかった。
呉という、名前なんて。
ざり、と近くで地面を踏みしめる音が聞こえて、仁は木葉から顔を上げ、音の方を見た。
「櫛引ッ!!」
嗚咽交じりの絶叫が、踵を返した男を呼び止めた。振り返らないまま、その声を背中で受け止める。
「なんなんだよお前。オレ、お前のこと、全然わかんねェし、分かりたくもねぇけど。何がしたいんだよ!?」
いくつも禁忌を犯して。色々なものを踏みにじって一体。
"何が"。
「……ここをもうすぐ引き払う。"銀"や、"成瀬"が傍にいては、やりにくい」
「そんなのっ……」
答えになってない。
けれど櫛引の背中は、徐々に遠退いていった。
酷い。
ぎりぎりと、肉が破れて血が溢れそうなぐらいに噛み締めた口唇の上を、一粒だけ涙が伝って落ちた。
酷い。
こんな扱い、酷い。
「わかんねぇよっ……!」
泣くな。泣いたら負けだ。
ぐっと、木葉に差し出しているのとは逆の腕で涙を乱暴に拭い、仁は口の中でもう一度繰り返した。
わかんねぇよ。
*
―――実家は、日本舞踊の家元です。お父さんはいません。その上私は目が見えないから、周りの大人は、私のことを無かったことにしたかったみたいです。
初めてのカウンセリングのとき、押切あかりはそうはじめた。
―――誰も私に話し掛けてこないし、話し掛けても無視されました。少しよろめいてぶつかってしまっただけで、払い除けられました。
それはかなしいね。なんて。物分かりのいい相槌を返しながら、妙な既視感が襲い掛かってくるのを確かに感じていた。
陰気な日本家屋の奥で、無かったことにされた子供。
どこかでそんな子供をみたことがあるような気がした。
―――そんなふうに無視され続けるうちに、だんだん不安になったんです、私本当に、この世界にいるのかな、って……。
それまでは、本家の外で暮らすことを余儀なくされてきた少年が、ある一時期から、隔離された。
家の建物からも、世間からも隔絶された場所。三度の食事を運んでくる人以外、誰も訪れることのない離れ。
目も合わさず、もちろん言葉など交わすこともない。そのうち。
相手に見えているのか、相手にこの声が聞こえているのか、分からなくなった。
―――お母さんだけにしか見えない、幻なんじゃないかって。
(はじめまして、私、空(アキ)っていうの)
(見えるの? 僕が……)
(なんで? 変なこと言うのね。でも、変ならお互い様だよね。私たち姉弟なのに、今日はじめましてなんだもん)
僕は空だけに見えているのだろうか?
それとも、空こそが、寂しさのあまり自分が作り出した幻影だったのだろうか。
―――せんせいが話し掛けてくれて、本当に嬉しかった。
空が、人目を忍んで時折離れを訪れてくれるのが、とても嬉しかった。
声を掛けてくれるのが、本当に。
嬉しかった。
なのに……。
櫛引充と押切あかりは。どこかが似ていたのかもしれない。
境遇や、心のかたちや。
近づくべきではないのかもしれない。そんなことを何度か思った。
気持ちが重なれば、重なるほどに。貪ることが出来なくなる。
けれど、離れられなかったのは……。
依存されているようでもしかしたら、依存していたのかもしれない。
ひととはどうしていつも、舐め合いを必要としてしまうのだろう?
病院の入り口近くまで帰ってきたところで、いかにも胡散臭い一団と鉢合わせた。
何が胡散臭いと言えば、取り合わせがおかしいのだ。
スーツ姿の男が二人と、制服姿の少年と私服姿の少年とが、一人ずつの。
統一性のないグループだった。
私服姿の少年のほうが先にこちらに気付いてその涼しげな黒い瞳を向けてくる。
連鎖するように、残り6つの瞳もこちらを見た。
その中の二つに、自分と同じ深い蒼の双眸を見つけ、櫛引は口元に、わずかに笑みを浮かべた。
*
今日も上から下まで黒ずくめの、豹を思わせる男は、目が合うとぴたりと一度足を止めた。
けれどすぐに何事も無かったかのようにこちらに近づいてくる。
「櫛引さん」
擦れ違う刹那、呼び止めたのは一馬だった。
すぐ隣にいた要は、一体何をするつもりなのかと、年若い保護者を見上げる。
「……"成瀬"です。"櫛引"という名前には覚えがあります。夢喰い、ですね」
「それが何か?」
首だけを一馬のほうへ向け、櫛引は涼しげに肯定した。
「随分と色々食い物にしてるらしいじゃないか。その点、申し開きは?」
火の点いていない煙草を口の端に挟んだまま、雅がサングラスをずらし鋭い眼差しで櫛引を射る。
「食い物だから、仕方ないです」
「てめっ……」
逆上した雅の前に、一本の腕が差し出された。制止。
「一馬……」
その腕を順繰りに辿り、相手を確かめた雅の口から、零れ落ちたのは驚きの声。
しかし一馬は、その言葉に構わずに続ける。
「記憶を食うのは、禁止行為のはずだ」
「それこそ人が決めた理でしょう。人間は生きるために糧を必要とする。そのために多くの生命を体内に取り込んでいる。そういうふうに出来ているんです。それを拒むなら、その生命自体を繋ぐべきではない」
多くの生命を屠り、血と肉と変え。
生きるということは。
殺しあうこと。
「カウンセラーという職業は、本業ですよ。詐称ではないです」
涼しげな表情を崩した櫛引が、何故か柔らかく微笑んだ。
―――獅遠さん。
そのとき一馬は、ほんの少し前のことを思い出した。
少し怯えたように、遠慮気味に。震える声で扉を開いた少女のことを。
『あかりちゃん!? どうしたの?』
『せんせい、知らない?』
病室に入ってこようとはせずに、ドアを半分開いたまま、顔を覗かせている。
『え……? 櫛引さん? 知らないけど』
『うん、わかった、ごめんね。どこ行ったのかな……』
ぱたりと、扉が閉まった。
それこそ盲目というほどの。信頼を寄せられていながら見えない牙を剥く。
これほど手ひどい裏切りなど。
「なんで、カウンセラーなんか……」
喘ぎが漏れた。何でそんな中途半端な、救ってみせながら足元に穴を掘るような真似を。
苦虫を噛み潰すような一馬の表情に、櫛引は心底おかしそうにくすりと笑う。
「糧を得るためですよ。心の闇に近いから」
冴えた蒼の双眸が、同じ色の瞳を射る。櫛引の口元が、歪む。
「心の闇により近いほうが食みやすいだけです」
「この野郎……ッ!」
ぶちっと。堪忍袋の尾が切れる音を、雅は聞いた。言わせておけば。
しかし、雅が掴みかかるよりも早く、ばきりという鈍い音がして。
櫛引の体がアスファルトに倒れていた。
「そんなふうにひとの心に付け込んで……」
一馬。
自分の口唇から零れ落ちた名前を、一枚膜を隔てた向こうのことのように、雅は聞いた。
今は、幼い頃から多くの時間を共にしてきたその男の、背中しか見えないが。
後ろから見ても分かるぐらいに、握り締めた一馬のその拳が、わなわなと震えていた。
「はははッ―――!」
地面に座りこんだままの櫛引の口唇から、放たれたのは笑いだった。心の底から。おかしくてたまらないような。
哄笑。
まだ、残暑の熱を含んだ風。とろかすような熱い日差しが、一瞬で。
氷結したような。
一瞬でぐっと下がった温度。
殴られたときに切ったらしい、口唇の端から流れ落ちる血液を拭いながら。櫛引は立ち上がった。
「笑わせないで下さいよ、成瀬さん」
服についた埃を払いながら、切れた口の端を軽く舌で舐める。
「私と貴方と、何が違うっていうんですか」
笑みの消えた口元。つめたい声。
氷の双眸。
「貴方だって、糧を得ているからこうして、生きているんじゃないんですか。私がこうして、ひとの心を屠ることと、貴方が生き延びていることの何が」
一体何が。
「違うんですか?」
―――泣いてはいけないよ、一馬。
「私はさっき言いましたよね。拒むのなら生命を捨てればいい。生き残ることを選んだ時点でそれは既に、私と同じ生き物ですよ」
綺麗事を散々並べても。
「聞いたことがあるでしょう。自分の鳴き声を」
(食マセロ)
突然視界が真っ白になった。
フラッシュバック。
遠くで、蝉が鳴いている。それは近くもなく、かといって遠くもない過去の話。
あの日もただひたすら、蒸し焼きにするかのように暑かった。
いつもは饒舌なはずの、二つ年上の幼なじみが、掛ける声すらなく少し間を置いて立ち尽くしている。
継いでしまったんだ。
自らの右掌に視線を落とし、ぽつりと呟く声。笑っているみたいな。
こんな力、本当は要らないのに。
ぱたり、と掌に、額から滲み出した汗が落ちた。
中に入れよ。日射病になって倒れたって、知らないぞ。
雅こそ、中に入ればいいのに。何時間もこんな日差しの下に立ち尽くしている"バカ"に付き合ってくれる君も、相当バカだよ。
成瀬の血は、ここで終わりだから。
呟くと、ぱたり、ともう一粒雫が落ちた。
ぐっと伸ばされてきた雅の掌が乱暴に頬をこすって、初めて落ちた雫が涙であることを知った。
お前がそうしたいなら、そうすればいいから。今は中に入れよ。そして何か喰えよ。
もう終わりにするから。
譫言のように繰り返した。
「ご心配なく」
その声と、ざりとアスファルトを踏みしめる音で一馬は我に返った。
「私はもう、ここから消えますから。機会があったらまたお会いしましょう」
櫛引の姿が病院へと近づいてゆく。一馬はどうすることも出来ないまま、その背中を目で追った。
「成瀬さん、私たちは」
自動ドアの少し前で立ち止まり、肩越しにわずかに振り返る。
「私たちはもう、こんなふうに寄生して生きてゆくしか」
がーっと自動ドアが開いた。
櫛引の言葉の続きは、閉まるドアに遮られて、消えた。
「一馬」
横から伸びた雅の手が、きつく握り締めた拳を開かせた。
その一部始終をじっと見据えた要の目に、鮮烈に焼きついた痕。
掌に4つ。爪の形に出来た傷。
血が滲んでいた。
to be contenued……