5.咆哮
どうしたら君がもっと、もっと僕に依存してくれるようになるのか。
そんなことばかりをいつも考えていた。
*
「せんせい!」
病室のドアをあけると同時に、喜びに溢れた声が飛び込んできた。
掛け布団を跳ね除けるようにして、ベッドから駆け下りてくる少女が、どん、と腰にぶつかってくる。
全ての重みを預けて。
「あかりちゃん」
腰から背中に向けて回された白い腕に、自分の手を添えた。
なに? 不思議そうな二つの瞳が見上げてくる。
「あかりちゃんに、話があるんだ」
「なに?」
一度白い腕に重ねた掌を、少女の額に乗せた。ゆっくりと目蓋を閉ざす。
いつものように。まるで死人にそうするように。
暗示をかけるために、いつもこうしていた。しかし本当は、彼女の目を見て、話をすることが出来なかったのかもしれない。
「さよならを言いに来たんだよ」
*
どんどん。
叩く音。どんどん。がちゃがちゃと、内側から締めた蔵の鍵が鳴った。
―――出てきて。お願いだから出てきて。
閉ざした目をうっすらと開いても、見えるものは闇ばかり。しっかりと閉めた扉の隙間から、一筋だけ光が伸びていた。
泣き叫ぶ女の声が、その光と共に差し込んでくる。
―――ごめんなさい、黙っててごめんなさい。だけど、言えなかったの。言えなかったのよ……。
ぐるぐると、螺旋を描く渦巻きの中に、容赦無くもぐりこんでくるその叫びを聞きたくなくて。
耳を塞いだ。
けれど、引きずるような嗚咽と、謝り続けるその声が途切れることはなく。
―――お願い、出てきて。お願いよ。
尾を引く、細い鳴き声が絡まりついてくる。首を締めるように。
―――お願いよ。ごめんなさい、ごめんなさい……。一馬。……一馬……。
「……マ、カズマ」
どんどん。
底から徐々に意識が浮かび上がってくる。
うっすらと目を開くと、閉ざしたままのカーテンの隙間から、光が細い筋となって床に落ちている。
いつのまにか朝になっていたようだ。
いつもならば、部屋の中まで踏み込んできて、容赦無く布団を剥ぎ取るはずの被保護者が、今日に限って扉を開かないまま、遠慮がちにノックを繰り返す。
ああ、扉を叩く音か。
「起きてるよ、要」
ベッドの上で上半身だけ起こして、声を掛けてやるが、扉は開く気配も無い。
「……学校、行くね。文化祭の準備もあるから」
「分かった」
扉に声を投げかけると、しばらくして足音がとすとすと階段を降りていった。
ぱたりと玄関の扉が閉まる音を遠くに聞きながら、一馬はもう一度ベッドに転がる。
天井と自分の顔との間に、右手を割り込ませた。
掌に、丁寧に巻かれた白い包帯を見つめる。
あのあと家に戻ってくると、無言のまま家の奥へ入っていった要が、救急箱を持って帰ってきた。
要?
問い掛けても何も言わず、代わりに少し強引な力で手を掴まれた。
戸惑っていると、掌に刺すような痛みを感じた。
押し当てられた脱脂綿から、オキシドールの臭い。
あっという間に手当てを施され、包帯を巻かれた右手。
(うまく言えないけど)
目の前にかざした自傷した右手を見つめて、一馬は小さく溜息をついた。
(帰ってきたらお礼言わなきゃな……)
ありがとう、って。
誰も彼も自分も。自分の周りにいる人間達は少しばかり、人との付き合い方がうまくないから。
口にしなきゃ。
黙っていて、伝わるものはそう多くない。から。
「……でもな……」
近いうちに本家と連絡をとる必要がありそうだ。
昨日遅くまでベッドの中で考え込んで、達した答えがそれなのだが、未だに行動を起こせずにいる。
"櫛引"。
何度か口に出してみる。確かに聞き覚えがあった。
同業者とはいえ、夢喰いの家同士が親しくすることはない。別にいがみ合っているわけでもなく、しっかりとした理由があるのだ。
それなのに聞き覚えがあると言う事は、きっと何かしら問題のあった家だということだ。
成瀬の後継としてその力を継いだはいいものの、一馬は業界にあまり詳しくなかった。
今になって、もっと色々と知っておけばよかったと、思う。
ついつい、業界に詳しい"銀"に甘えてしまっているのは、本家とあまりコンタクトを取りたくないからに他ならない。
つまりは、自分のせいなのだ。
―――聞いたことがあるでしょう。
ぽすりと、かざした手を額に落として、目を覆った。
目蓋の裏に、闇。
もう長い間、付き合ってきた色だ。黒。
この手とも、随分長い付き合いになっている。
鏡を覗き込めば、濃紺の瞳と向かい合う。
(鳴き声)
空腹なんだと鳴き叫ぶ、荒ぶる内なる獣の咆哮を聞いたのは、あとにも先にも一度きりだ。
しかしその一度が、消せない烙印をこの体に押し付けた。
―――私がこうして、ひとの心を屠ることと、貴方が生き延びていることの何が違うんですか?
何も違わない。何ひとつ食い違うものはない。
等価値で、イコール。
生き残ったということは、食い殺したということ。
「人を救える力だなんて……」
目蓋の上に掌を乗せたまま、呟いた。
カーテンを開けもしない、薄暗い室内はまるで、閉じこもった蔵の内側のよう。
「嘘だよなぁ」
差し込んでくる一筋の光が、まるで蔵の入り口から降り注いできたあの筋のようで。
泣き声すら聞こえてくる気がした。
―――ごめんね。一馬、ごめんなさい。
*
それは、文化祭の模擬店の、看板作りに必要なベニヤ板運搬中の出来事だった。
「かぁ、なめくんっ!」
語尾にハートマークを乱舞させ、気持ち悪い猫なで声を出したのは、クラスメートの神田勝利(カンダ ショウリ)で。
「気持ち悪い」
機嫌があまりいいとは言えない要は、一言で切って捨てた。
男の猫なで声など、あんまり聞きたくないものだ。
「まぁっ! "気持ち悪い"ですって。ちょっと聞いた? 奥さん」
奥さんはどこにいるんだ。
というありふれたツッコミを飲み込む。構うと図に乗るだけだ。
「何の用?」
機嫌が悪いんだから放っておいてオーラを要は体中から振りまいていた。勝利も、鈍い人間ではない。伝わるはずなのだが。
強気のクラスメートは、怯むどころか押してきた。
「都佳沙っちから伝言を預かってまいりました〜。『話したいことがあるから教室にいてくれ』ってさ。俺が睨むに、愛の告白だと思うな」
「ありがとう勝利。伝言がそれだけなら、僕はもう模擬店の看板作りに戻りたいんだけど」
「悩み事、俺でよければ相談に乗りますが?」
要が抱えていたベニヤ板を半分、半ば奪い取るようにして預かると、勝利は教室へ向かって歩き出した。
どうしてこう、自分の周りにいる人間どもは、勘がいいのだろう。
あまりにも勘がいい人間が揃いすぎて、まるで自分が思ったことがそのまま顔にでているみたいではないか。
「別に、文化祭の出し物について考えて……」
「悩むほどのものでもないと思うけどねぇ。むしろ俺は一馬さんに是非見に来てもらうべきだと密かに思って、恋文でもしたためようかと思ってるんだが」
「……カズマに言ったら殺す」
冗談ではなく、本当に殺意を孕んだその口調に、勝利の足元から脳天まで、寒気が駆け抜けていった。
「い、いいじゃないの別に。何もお前一人ってわけじゃないでしょ。野郎が可愛いメイド服着るぐらいさ。それにお前、似合うと思うぞ〜」
「だから嫌なんだよっ!」
廊下の途中で立ち止まる勝利を追い越して、要はさっさと2−Bへと向かって歩き出した。
追い抜いてしばらくして、立ち止まる。
わぁわぁと、どこのクラスも文化祭の準備中らしく、放課後だというのに騒がしい。
その喧騒が、黙り込んだ二人の間を通り抜けていった。
「勝利」
「はい?」
「勝利は、幽霊とか、そういう超常現象みたいなものは、信じる?」
「……そういうものがあるから、都佳沙っちのおうちの商売が成り立ったり、一馬さんの仕事が成り立ったりするんじゃないの?」
「"そういう事実"じゃなくて、勝利が、だよ」
「俺はどうでもいいよ、そんなの。いるかいないかなんて」
「え?」
「ほぉら、要っち。夕焼けが綺麗だよ〜?」
校舎の窓から見える西の空に、真っ赤な太陽が落ちてゆくところだった。
ベニヤ板を小脇に挟んだまま、勝利がその夕陽に目を細める。
「いいじゃん。信じるとか、信じないとか」
夕焼けを見つめたまま、勝利が口を開いた。
倣ったわけでもなく夕焼けに目を奪われていた要が、勝利のほうへ視線を戻す。
「信じるとか信じないとか、関係なくても事実そういうことで悩む人はいるし、それを救ってあげられる人が、都佳沙っちなり、一馬さんなり、いるってことは、それって、すげーじゃん」
「…………」
「そりゃ、胡散臭いとかさ、思う人はいるかもしんないよ。見えない人は見えないんだし。だけどさ、人の心の重みを取り除けるなんて、難しいことが出来てるならさ、いいんじゃねーの? 俺は素直に凄いって思うぜ? 要っちは?」
「それは……、そうだけど……」
「なら、なんか問題アリ? ないっしょ。よし、ナシの方向でこの話は決定。じゃあ、この大きなお客様を2−Bまで運びましょーね〜」
「あ、勝利……」
勝手に結論を出した勝利が、ベニヤ板を抱えなおして教室のほうへと歩き出した。
なんだかうまく言いくるめられたような気がする。しかし、後味は、悪くなかった。
「俺、霊感とか全然ないし、何があったのかとか、イマイチ覚えてないんだけど。一馬さんに助けてもらって、本当によかったって。思ってるよ」
勝利は呟いて、教室の扉を開けた。
押し寄せてくる、授業中とは打って変わった熱気に、要は、言い出すはずの言葉を忘れてしまった。
「要」
ぼけぇっとしていると、後ろから声を掛けられた。振り向くと、いつもどおり涼しげな顔の都佳沙が立っていた。
「ちょっと、いいかな?」
*
《はい。成瀬でございます》
「あ、お久しぶりです。――― 一馬です」
電話の向こうで、一瞬の空白。息を飲むような声が聞こえた。
《か、一馬様でございますか? お久しゅうございます。只今奥様に……》
「あ、いえ、用事があるのは母ではないんですよ。三石を呼んで貰えますか」
《……あ、はぁ。少々お待ちくださいませ》
保留音も何もついていない電話が、ことりと台に置かれた音。
それを最後に、受話器の向こうは沈黙した。
こちらも時代遅れの黒電話を耳に押し当てたまま、一馬はぐるぐる回る事務用の椅子の、不安定な背もたれに体重を預けた。
いつまでもベッドの中にいるわけにもいかず、だるだると溶けそうな体に鞭打って、ようやく事務所まで来たはいいものの。
電話の前で躊躇すること数時間。ようやくダイヤルを回した次第だ。
《もしもし。お電話代わりました》
「ああ、三石さん。急にすみません」
《いいえ、とんでもございません。一馬様こそ急にどうなされたのですか?》
「ちょっと、調べてもらいたいものが、あって。いつも不義理をしている割に、こういうことばっかりを頼むのはなんだか、悪いんですけど……」
《滅相もございません! 私は嬉しいのですよ。一馬様がこうして、成瀬の家に連絡を下さるだけで……》
「三石さん……」
《申し訳ございません。辛気臭い話を致しまして。ご用件を伺います》
「……"櫛引"という家について、調べて欲しいんですけど」
受話器の向こう側で、意味ありげな沈黙が少しの間続いた。
《何か、あったのですか?》
「少し」
《お気をつけ下さいませ。"櫛引"といえば……》
「三石さん、何か知ってるんですか?」
《"櫛引"という家は、もうございません》
*
ぎぃ。やけに軋む鉄の扉を押し開けて、屋上に出る。
今日は風が強く、非常階段から一歩外に踏み出したその瞬間に、横殴りの風が伸びかけた前髪を嬲った。
夕陽はほぼ沈んでしまっていた。
西の空の、本当に下のほうだけに残った赤に、紫色が覆い被さる、逢魔が時。
「あれからあと、雅兄さんが"櫛引"について、調べたんだ」
艶のある黒髪を風に遊ばせたまま、さっさと都佳沙はフェンスのほうへと歩いてゆく。
残暑の熱も少し和らぎ、吹きつける風は涼しいとすら感じられるようになっていた。
「変なことになったんだ」
「変……?」
「確かに、夢喰いの家に"櫛引"という家はあったし、随分名の知れた家みたいだった」
『だった。』過去形。
一体それが何を意味するのか。要が首をかしげていると。
「数年前に、潰れたらしいんだ」
「……潰れた?」
「しかも、櫛引家最後の夢喰いの名前は、『充』じゃなくて、『空』っていう、女の人だったって」
「え、待ってよ。話が全然……」
分からない。
櫛引という家はもう存在しなくて。一代一人きりのはずの夢喰いが、『充』ではなく『空』という女の人で。
では、櫛引充とは?
「僕にもまだ、はっきりとは分からないんだ。だけど、父さんと雅兄さんが、やけに深刻そうな顔で話をしていたから、いい話じゃないと思う。雅兄さんは特に過敏になってて、なんだからしくない。だから、要にも気をつけて欲しいんだ」
「気をつけるって、何を?」
ざぁっと吹きつけた風が、ざらざらと髪の毛を荒々しく撫で回した。視界が悪くなる。
「夢喰い同士の接触は、本来ならば、絶対に避けなければいけないものなんだ」
―――夢喰い同士の力は弾きあうから。
この間病院で聞いた一馬の言葉を思い出す。
一子一伝。同じ家に二人と、存在を許されない。他家の者とも、接触を慎まなければいけない。
弾きあう。相反する。力。
一体、『夢喰い』とは?
*
―――それでは、調査結果がまとまり次第、もう一度ご連絡いたしますので。
失礼します、と丁寧な挨拶を最後に、通話は途切れた。
しばらくの間、耳元で繰り返す通話音を渦巻きの中に流し込んでいた一馬は、ゆっくりと、受話器を電話機に戻した。
ちん、と小さな音。
そして次の瞬間。
ジリリリリリリリリ。
再び電話が鳴り始めた。置いた直後に。
すっかりと気が抜けた一馬は、大げさにびくりと反応してしまった。
(なにか言い忘れたことでもあったのかな、三石さん)
そう思って、一馬は受話器をとった。
「はい」
《一馬くん?》
しかし、受話器の向こうから聞こえてきた声は、予想していたどれとも違っていた。
「獅遠、お前、どうしたんだ?」
《今、事務所の近くまで来てるんだ。これから、行ってもいいかな?》
「それは……構わないけど。お前、体のほうは?」
《会って欲しい人がいるんだ》
「は? ちょっと、獅遠……」
ぷつり。
問いただす前に通話が途切れた。
一体なんなんだ。
溜息をついて、前髪をかき乱す。そうして、事務所内を見渡した。
ブラインドは下がったままだし、電気もついていない。もうそろそろ夕暮れ時だというのに、これでは暗すぎる。
まるで今の自分の気持ちを象徴しているようで、気分が悪かった。
(駄目だ。気分を変えないと、気分を)
病は気から、だ。などとわけの分からないことを心の中で繰り返し、一馬は椅子から立ち上がった。
まず手始めにブラインドを上げ、電気を点ける。
薄暗い室内にうまく適応していた瞳孔がきゅっと縮むのが、よく分かった。
刺すような痛み。
トントン。
事務所の扉が軽くノックされた。小さく返事を返すと扉が開く。
「獅遠、やけに早かったな」
机の上に投げ出したままの新聞を畳みながら、そちらの方を向かずに声を掛ける。
しかし、相手は黙ったままだ。
「獅遠?」
振り返った先。確かにそこには、匠堂獅遠がいた。なにやら複雑な面持ちで。
しかし、予想外だったのは、獅遠の前に一人の少女が立っていることだった。
「私が無理言って、連れてきてもらったんです。お話したいって」
押切あかりだった。
*
向かい合わせに座る。あかりの瞳はやけに強い光を湛えていた。まるで睨まれているような気分になる。
「あかりちゃん、目は……?」
「もういいんです。もう"見えますから"」
「……え?」
淡々としすぎていて、何を言われたのか理解するまで数秒。
もう見える? "自分のこと"が?
「催眠暗示がね、かかってたみたいなんだ」
あかりの隣に腰掛けた獅遠が、横から補足した。
「『どうしたら君がもっと、もっと僕に依存してくれるようになるのか。そんなことばかりをいつも考えていた』って。暗示を解きながら、せんせいが言ってました」
―――君が、自分は本当は存在していないんじゃないかって、不安に思っていたから。
その不安を掻き立てるような真似をしたんだ。本当は、君はこの世界にちゃんと存在しているんだよ。
僕が、卑怯な手を使って見えなくしていただけ。
その方が、僕が君の、傍にいる理由になるからね。
「成瀬さん、教えてください。夢喰いって、一体なんなんですか?」
―――ごめんね。僕は君の傍にいて。君を慰めるように見せかけて。
自分の空腹を満たしていた。記憶を喰っていたんだよ。
突然ぶつけられたその問いに、一馬はハッと息を飲んだ。
夢喰いとは一体何。それは、色々な人から問い掛けられてきた疑問であり、自分自身にずっと問い続けてきた疑問だったから。
「せんせい、わたしの暗示を解いて、どこかへ行っちゃいました。連絡もつかないんです。多分もう、帰ってこないと思います。『僕は夢喰いにもなりきれない、半端ものだから、こうして生きていくしかないんだ』って、言い残していなくなりました。夢喰いって一体なんなんですか」
人の意識に依存をし、その断片を食ませて貰わなければ。
生命の維持すら覚束ない。
そんな生き物が何故、この世界に残っているのだろうか。
夢喰いとは一体何。
その疑問は、他人から問われるまでもなく、何度も何度も、自分自身に問い続けてきたことだった。
一体何のために自分は存在しているのだろう、こんな力を持って?
人を救う、なんていう大義名分が、もう自分自身に通用しないことも、よく分かっていた。
完全なる善意で人を救うことなんて、出来やしないのだ。潜るたびに意識の断片をくすねている。
ハイエナのような生き物。
巡り巡って結局は、自分のためなのだから。
「私は、幼い頃からずっと、この目のせいで周りの人々に無視され続けて生きてきました。誰も声なんて、掛けてくれなかった。自分が本当に生きているのかとか、わからなくなってしまった。そんなときに、せんせいが色々話し掛けてくれて、私の話を聞いてくれて、本当に……、嬉しかったんです」
あかりは、自分の膝の上に置いた手で、自分のスカートをぎゅっと握った。
「"夢喰い"っていうのはね、あかりちゃん。―――バケモノだよ」
「一馬くん?」
「……ばけもの?」
「人の夢や、記憶を食べさせて貰わなければ、生きていけないバケモノだよ。人の夢に潜って、人の意識をくすねてくる」
「夢……、記憶……」
―――生き延びようって、決めていたんだ。空が、死んだときから。
どんなことがあっても、生き延びようと思った。そのために、人の記憶を食い続けてきた。
本来なら、情を持っちゃいけないんだけどね。君の境遇があんまり、色々だぶるところがあったから。
空って誰だろう? せんせいと私、似ていた?
そう考えてから思った。私はせんせいのこと、何も知らない。
だけど、傍にいてくれて、話を聞いてくれて。癒えた心。
「……いけないことですか?」
無意識のうちに、零れ落ちていた言葉。隣と向かい側から、息を呑む音が聞こえてきた。
「何も与えずに、救ってもらうなんて、それこそ虫のいい話じゃないんですか? 人を殺すわけでもないのに、夢や記憶を食べることがそんなに悪いことですか!?」
―――仕方がないんだよ、一馬。"夢喰い"は、人の心を癒す力があるから。仕方がないんだよ。
「私は、目が見えなかった頃の嫌な記憶なんてなくてもいいから、せんせいに傍にいて欲しかったのに……!」
あかりの頬を零れ落ちる涙を、一馬は半ば呆然と見ていた。
目の前に広がる光景が、いつかの何かに似ている。
「生き残るために、仕方ないことじゃないんですか?」
(ごめんね。一馬ごめんね)
(だって、仕方ないのよ。私怖かったんだもの)
(私だって、苦しかったんだもの)
(しょうがないじゃない。夢喰いって、そういうものなのよ)
「仕方ないなんて!」
思わず上げてしまった大声に、びくりとあかりが震えた。
一馬自身、出してしまった大声に、鼓動がどんどん加速してゆくのを感じていた。
どこか、制御装置が外れてしまったみたいに、感情が高まってゆくのを止められない。
「……ごめん」
左胸の内側で激しく脈打つ鼓動を持て余して、一馬は何とか呟いた。
あかりの目はまだ怯えている。
ごめん、ともう一度繰り返した。
あかりのせいではない。あかりのせいではないのだ。
心の中に植え付けられた"もの"が、ずくずくと疼く。
(仕方ないなんて、そんな言葉で片付けないでよ、お母さん)
どれだけ年月を重ねてきても、どこか幼いままで止まっている部分が、泣き始めた。
ずっと前から、取り残されたまま泣き続けてきたところだ。
「俺は、こうやって生き残ってる立場だから、何も言えない、けど。だけど駄目だよ、人の、心の奥とかは、簡単に人に、さらしたりとか、あげたりとか、しちゃいけないと思う」
仕方ない。そんな言葉で誤魔化し続けてきても。そんなのおかしいじゃないか。
人は人として、守っていかなければいけない部分があって。
そんな柔らかい部分に縋り付いてしか、生きていくことすら出来ないなんて。
「ごめんね、そんな偉そうなこと、俺は何も言えないけど。駄目だよ。俺は、仕方ないなんて思ってない。そんなふうに諦めることなんて、出来ないよ」
それじゃあ何で、生き残ってるの?
心のどこかで問い続ける声が聞こえる。
何で生き残っているの。人の意識に依存しながら、どうして生き残っているの?
食い続けているからでしょう。
殺し続けているから。
「……せんせい最後に、私に言ったんです」
涙を拭いながら、あかりが顔をあげた。
真っ直ぐに一馬の瞳を見る。濃紺の、夜の海の色の瞳を。
*
勝利が要を呼びに来てから少し経つ。
都佳沙は相変わらず屋上の真ん中辺りに立っていた。
ひとり。
「いい加減、出てきたらどうでしょうか?」
吹きすさぶ風に負けないよう、いつもよりも少し強い声で、都佳沙が呟いた。
「僕の監視をしても、何も得られないと思いますけど」
「あんた、いつもそういう口調なワケ? すっげぇ癇に触る」
浄水器の影から、嫌悪感を露にした表情で同い年ぐらいの少年が顔を出した。
「仲良くお話するつもりは、別にないですから。友好的になろうと思えば、口調も変わってきますけど。僕と友達になりたいですか? 呉 仁さん」
「ふざけんな。何で俺が"銀"と仲良くしなきゃいけないんだよ?」
「こっちだって願い下げですよ。"呉"だって、かなりな家でしょうに。自覚ないんですか?」
「何がだよ!?」
仁は、風に嬲られる前髪を必死に押さえ、らん、とした瞳で都佳沙を睨みつけた。
「"呉"は、一体何をしてるんですか。潰れたとはいえ、"櫛引"とは表と裏。止める義務があるはずだ」
その瞳を見つめ返す都佳沙の瞳は、氷のように冷たかった。
いつも一馬や要に見せているような、柔らかさは欠片もない。
「表とか裏とか、しっかりした説明をあのお人形みたいな子にしてんの? そういう、裏側のことをさ」
揶揄するような口ぶりで、仁は都佳沙に近づいてきた。都佳沙は黙ったまま、からかうような仁の視線を受け止める。
「表の夢喰い、裏の霊媒師の契約。もしも夢喰いがトチ狂ったときは、裏が全力を持ってそれを防ぐ。それこそ、あんた達が数年前"成瀬"に使ったような、監禁という術を使っても、だ」
「監禁? 人聞きの悪いことを言わないでくれないか。保護だ」
「言葉って色々なふうに使えるから、便利だ……」
「泥を被るのは、裏側でいい」
仁の口元で、嘲笑が凍りつく。生まれてくる言葉が、口唇を経由する前に、死んだ。嘲笑や、罵倒や、蔑みなどの言葉が。
見据えてくる都佳沙の、黒の双眸が孕む光が、痛い。
冷たくて。冷たすぎて、まるでしもやけでも出来そうなほど。切れそうなほど。痛い。
「そういう覚悟で、結んでいるんだ。"契約"というものを」
「さすが、ご立派だな。名家『銀』の跡取殿は」
ようやく見つけた嫌味も、声が震えていては効力を持たない。
仁は、同い年のこの少年に、完全に気圧されていた。
「僕は、責められたり憎まれたりする役目なら、甘んじて受け入れるつもりだ。もしも『櫛引』の狙いが『成瀬』で、君がその片棒を担ぐつもりなら、こちらも『銀』として、容赦するつもりはない」
「お、俺の行動は、『呉』とは関係ない!」
「そんな言い訳が通じるとでも? だから自覚が無いと言ってるんだ。直系の血を継ぐものの行動はそのまま家の評価に繋がるということを、よく覚えておくといい」
「……分かったよ、今回は退く」
聞こえるように舌打ちをし、仁は踵を返した。
「あんたさ」
扉のところまで来て、仁は都佳沙を肩越しに振り返る。
「外面と内側、ギャップ激しすぎ。ある意味それって、詐欺じゃねぇ?」
言い残し、必要以上の勢いで仁は扉を閉めた。
がちゃん、と金属特有の冷たい音が響いて、あとは風の音だけが残った。
―――幾ら跡取として教育されているとはいえ、都佳沙殿には融通が効かぬ。
風に運ばれてきたのは、忘れていたはずの囁き声だった。
声をひそめているくせに、聞こえるように喋っている、矛盾した小声。
構うものか。
吠えたい奴らには吠えさせておけばいい。
頑なに、己の道を貫いてきた。
生まれたときより、名家『銀』の跡取として教育を施されてきた都佳沙にとって、周りのやっかみや陰口など、とるに足らぬものだったからだ。
自らが価値を見出せぬものには、興味すら抱かない。
否、抱けずにきたのだ。
―――お前さ、もう少し肩の力抜きな。視野ががちがちに狭くて、それじゃ、見えるもんも見えなくなっちまうぞ。
まるで、右も左も分からない幼子を諭すような穏やかな言葉が、逆に癇に触ったあの頃。
実力は家中の誰よりもずば抜けて強いくせに、家を出て飄々とカメラマンなんぞをしている年若い叔父。
しかし彼に諭されてから、初めて回りを見渡すことが出来た。
そして初めて悟った。一人だということ。
「カオスが、お前の周りでぐるぐるしてるけど、どうかした?」
ぎぃ、とゆっくりと軋みながら扉が開いた。
都佳沙は、足元に落としていた視点を持ち上げ、音のしたほうへと向ける。
「いい加減、勝手に入ってくるのはやめたほうがいいよ」
「なんだよ、大層な言い草だな。どうやらあの坊と接触したみたいだから飛んできてやったのに」
「……可愛げのない答えしか出来ないことぐらい、兄さんだって分かってるはずじゃないのかな」
肩を竦めて、少し自嘲気味な笑いを口元に浮かべる。
10しか離れていない叔父は、つかつかと近づいてくると、都佳沙の肩に片手を乗せた。
何も言わず。
掌から、じんわりと広がってゆくような暖かな力に、都佳沙は黙り込んだ。
「さっき呉の坊を見たけど、接触したのか?」
雅の問いに、都佳沙はこくりとただ頷く。
「また、可愛げが無いって、言われちゃったよ。―――兄さん、僕って、やっぱり冷徹だと思う?」
「可愛くないっていう点では、俺も呉の坊やに同感だけど。冷徹かどうかは知らんよ。俺の感覚としては、人間には割り振りできる感情の、限界領域みたいなものが多分あると思うんだよな」
「……限界、領域?」
「器用な奴は、好きなものとか嫌いなものとか、大事なものとかそうでないものとか。器用に感情を振り分けられるんだろ。お前はその点頑固だからな。好きなものだけに感情が傾いて、あんまり重要じゃないものにかける分が足りなくなっちまうだけなんじゃないのか」
分かるようで、あまりよく分からない説明だな、と都佳沙は思った。とりあえず、慰めてくれているらしいことは分かる。
「雅兄さんは器用なんだね」
頑固者で頑なな甥っ子を、諭してあげられるほど。
色々なものに配る心を持っているんだね。
「まさか。俺もお前と同類さ。"大事なもの"以外はどうなったって構うか」
な? 乱暴に言い捨てたまま、雅は都佳沙の頭を乱暴に撫でた。
"大事なもの"。
ぐしゃぐしゃとかき乱された前髪で、視界が効かない。
今はそれで、良かったと思う。こっちから向こうが見えないし。
あっちからもこっちの顔が見えないだろうから。
泣きそうな顔、見られなくてもすむと思えばそれでいい。
「僕は、我儘かもしれない」
「何が?」
「表ばかり、いいところばかり見せて、人の心を繋いでおこうとするのは……、卑怯だよね」
「そんなもんじゃないのか? みんな」
「わっ……」
雅はさらに力を込めて、ぐしゃぐしゃと都佳沙の髪をかき回す。
「誰しもそんなもんだろうに。進んで嫌われたい奴なんていないだろう。ドロドロと汚れた部分とか、突付かれたら痛いところとか。無意識に庇うのが」
人間ってやつだろう。
馴れ合いたくて時々、内側を垣間見せて、同族のフリをして近づいて。
そうして暖めあうのも。
「……だって僕は、要に言ってない」
大事なことを。
「"言う必要が無いように"俺たちが取り計らうだけの話だ。櫛引がこれから一馬に狙いを定めてくるとしたら、俺たちはそれを、全力で阻止する必要がある。表には何も見せず、裏側だけで全て引き受ければいい。泥を被る覚悟は出来てるんだろう?」
「……聞いてたんじゃないか」
さっきの会話を。
頭の上に置かれた雅の手を退けながら、都佳沙が嘆息する。
「物凄い勢いであのお坊ちゃんが駆け抜けてっちゃったんで。お前とは違う意味で視野が狭いみたいだな、彼は」
「……殴られるぐらいの覚悟なら、あるよ」
全てが終わったあと、全てを明かしたあと。
この頬を差し出すぐらいの覚悟なら、あるよ。
「それで上等だよ」
*
「じゃあ、僕があかりちゃんを病院まで送っていくよ」
「お邪魔しました」
あかりが深々と頭を下げると、降ろしたままのこげ茶の髪がさらりと揺れた。
それに隠されて、あかりの表情が見えない。
「うん、じゃあ、気をつけてね」
何に。自分の返答が、やけに的外れに思えて、一馬は苦笑した。
ぱたりと、目の前で閉まった扉。
まるで拒絶されたように、沈黙する板。
―――せんせい、最後に私に言ったんです。
とんとんと、次第に降りてゆく足音を耳で拾う。やがて聞こえなくなった。
それでもまだ、一馬は扉を見据えたまま。
―――生まれてきたから、生命を背負っているから、絶対に生き延びるんだって。
ぱたぱたと頬を伝っては落ちた涙が、スカートを握り締めた手の甲に池を作った。
「生まれてきたから、か……」
人を眠りへといざなうことが出来る右手を見つめ、嘆息。
丁寧に巻かれた、白い包帯の内側には、己の無力さを恥じた爪の痕。
背負う重みなら、この体にもある。たとえそれが不本意であったとしても、背負ってしまった生命がある。
その生命のために、自ら生命を絶つことだけはやめようと、誓った昔。
その誓いすら今は、脆く弱い気がする。
―――成瀬さん。バケモノならどうして、生まれてくるんですか? 生まれてきたのに、生き残るのはいけないことですか?
この世界に意味を持たないものなら。何ら成さないものなら。どうして生を受けるんですか。
ぎゅっと掌を握り締めると、包帯の下の傷がちくちくと痛んだ。
(泣くんではないよ)
(ごめんなさい)
(仕方がないことなのよ)
(お前の好きにすればいいよ)
(カズマ、助けて)
頭の内側で、たくさんの言葉が入り乱れては、消えた。
どうして。
どうして生まれてくるの。どうして生まれてきたの。
ぐっと強く握り締めると、びり、と強い痛みが突き抜けた。
ゆっくりと掌を開くと、白い包帯に4つ、開いた傷口から溢れ出した血が、爪の痕を残していた。
どうして。
「そんなの俺が……」
その掌を額に押し当て、一馬は口唇を噛んだ。
俺が聞きたいよ。
*
街はすっかり夕闇に包まれていた。
夕方ともなれば残暑も緩み、頬を撫でてゆく風は涼しかった。
見慣れた道を通り、見慣れた場所へ還る。
還る場所があるということ。
ごくごく当たり前のことが、自分にとって、「英 要」という人間にとって、ほんの少し前まで当たり前ではなかった。
(甘えてる)
事務所へ向かう足取りが少し重い。
無意識のうちに、近所の商店街のおばさんたちに挨拶をしている自分がいた。
内側で、色々と考えながらも世間話ぐらいはできるのだ。
(僕は、色々なものに甘えてる)
ほんの少し前まで何も知らなかったんだから。いつも自分に言い訳して、そんな自分に甘えている。
構わないでよ、と言いながら本当は構って欲しくてずくずくしてる。
(このままじゃだめだ)
いつもそう思うのに、具体的な解決策を探そうとはしない。ぬるま湯に浸ったままのような今の状況を、手放すのが惜しくて。
臆病者。
事務所の傍まで来たところで、要は、今からまさに赴かんとする目的地の階段から降りてくる、二つの人影を見た。
まだ病院にいるはずの、二つの影。
要に気付くことなく二つの影はこちらに背を向けて歩き出した。
少し歩いて、タクシーを拾う。
その車が走り去り、角を曲がって見えなくなってしまうまで、要はその場に立ち尽くしてしまった。
見つめたどちらの背中にも、元気や張りのようなものが無かった。まるで落ち込んでいるような。
一体何があったのだろう?
首をかしげながら、事務所へと続く階段を上る。とんとんと、足が聞きなれた音を奏でた。
少しガタが来ている扉を開けると、普段は嗅ぎ慣れない匂いが鼻をついた。
煙い。
整った眉をしかめて、要は事務所の中を見渡した。
すると、窓際のソファーに腰掛けた一馬が、ぼんやりと煙草を吸っているのが目に入った。
一馬が煙草を吸うことは滅多にない。
仕事が煮詰まっていたり、少し苛ついていたり。
とにかく精神的に少し余裕の無いとき限定なのだ。
ソファーの前に置かれているテーブルに、投げ出されている黒に金字のパッケージに視線を落としたあと、要はさらに中へと踏み込んだ。
「ただいま」
呟いて、カバンをデスクの上に置く。と、一馬は煙草を灰皿に押し付け、もみ消した。
「いいよ、別に吸ってても」
「いや、いいんだ」
テーブルの上からパッケージを拾い上げ、内ポケットにしまいなおす。
「獅遠さんとあかりちゃんが来てたの?」
「え? ああ。さっきね。見たのか?」
「うん」
首を締め上げるような制服のネクタイを引き抜き、台所へ向かう。
ここに来るとまるで習性のように台所へ入り、コーヒーメーカーをいじってしまう。
それだけ、かさねてきた年月が多いことを、自分で悟る。
「あかりちゃん、どうしたの?」
「それがね、櫛引さんが催眠をかけていたみたいで、もう見えるんだって。櫛引さんはそのまま、いなくなっちゃったみたいで。……俺の分も」
「分かってるよ」
フィルターに、挽いたコーヒー豆を乗せ、あくまで悪態をつくような返事を返しておきながら。
要は、一馬が口にした内容を頭の中で繰り返した。
催眠暗示。
水を入れ、スイッチを入れると、しばらくしてこぽこぽと音を立て始める。
マグカップを2つ用意する。片方の傍には砂糖を少し多めに準備した。
このまま、流れてなくなってしまえばいい。
何事も無かったかのように。
しばらくすれば、遠い思い出になればいい。
今は、色々な傷痕に、触れると痛い。
まだ痛い。
このまま、風化してゆけばいい。
要は、徐々に溜まりゆく黒い液体を見つめたまま、何かに祈った。
どうかこれ以上、傷口を抉らないで下さいと。
ちらりと一馬の方を見ると、一馬はソファーに座ったままぼんやりと窓の外を見つめている。
最近少し噛みあわない保護者と被保護者との間も、少しずつ治っていけばいい。
そう、切に祈った。
しかし、この出来事が全てを掻き回すようになることを、要はまだ知らなかった。
今はただ、嵐の前の静けさ。
<了>
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