3.やがて失われる光


―――お前の空気なら、分かるんだ。成瀬と銀は、"表"と"裏"だから。
 電話を切ったあとも、尚も耳の中に残る雅の声。
―――それにお前、この病院じゃその"力"使ってないんだろ? それなのに、残り香がする。
 玄関を出て、車庫を見る。……ない。
 そう言えばこの間、事務所に置いて帰ったんだった。面倒くさいが、病院まではとても徒歩でいける距離ではない。
 まずは事務所に向かわなければならないだろう。
 他人には聞かせたことのない舌打ちが耳元に響く。
(なんでこんなに焦ってるんだ?)
 力いっぱい引き下ろしたシャッターが、がしゃんと耳障りな音を立てた。

―――この病院に、"夢喰い"がいるんじゃないか?

 "夢喰い"。
 自分を縛るその名前が。脳まで締め付ける。痛みを伴って。
 苦しみもがいて、喘いでみせるくせに。見限ることすら出来ない。あまりに中途半端で反吐が出る。
 己の弱さ。

 人は生き続けるために糧を必要とする。
 別なものの生命を取り込みつつ増殖する。強かに。そして猥雑に。強欲に。
 誰も誰も。自分も。

 早足が、次第に駆け足になる。急げと、シナプスを通じて脳から伝達。
 忠実な体が走りだす。心だけ置いて。
 心はひたすら退行した。遠く。昔まで。

『目ヲ逸らさズに。真ッ直ぐニこの眼だけを見テ。
 この色を覚ゑておゐで。やがてこの色ハお前のものにナる。
 全てノ光はやがて失われ、次ノ何かに継がれて逝クんだ。』

 ノイズ交じりの声。ところどころ奇妙に歪んで、脳髄まで響く。
 もう継がない。繋がない。精一杯の抵抗を心が叫んだ。こんな痛みは繋がない。
 それぐらいなら、ひとりでいくよ。全てを持って。抱いたまま。
 ひとりで逝く。

 だからお願いだからもう。出てこないで。

 狭い階段を駆け上がり、目の前に事務所の扉。そこまで来て一馬はようやく我に返った。
 いつの間にこんなところまできていたのか。肩が上下して、酸素不足の体が貪欲に空気を求める。
 ドアノブに伸ばした手が微かに震えていた。何を恐れているんだろう? それも分からない。
 掌に感じる鉄の温度。沁みて体中に巡った。寒気。
 回して押し開いた先に、日当たりが悪くて、ブラインドが降りたままの暗い室内が浮かび上がった。
 すぐ傍のスイッチをなぞるように押すと、これもまた不健康な蛍光灯が生活感のカケラもない室内を照らし出した。
 車のカギ。確かデスクの一番上の引き出しの中。
 一歩を踏み出して、足が止まる。
 数メートル先の床の上に、無造作に投げ出された黒い物体に、視線が吸い寄せられた。
 カバンだ。
 見慣れたカバンだ。毎朝悪態をつきながら玄関を出てゆく背中が、いつも持っているもの。
「……要?」
 呼びかけた声がやけに大きく聞こえた。ただ小さく、呟いただけのはずなのに。
「…………」
「え?」
 声にならない、微かな呻き声が聞こえた。目の前に背中を向けて横たわる、ソファーの方から。
「…………ま……」
 掠れた声が聞こえた。
 一度止まった足をなんとか動かして、ソファーまで辿り着いた一馬が見たものは、決して広いとは言えないソファーの上で、まるで胎児のように体を縮めてうずくまっている、要の姿だった。


           *


 世界は真っ暗だった。
 目蓋の上には布の感触。包帯だろうか。
 手術はうまくいったよ。これできっと見えるようになるはずだ。
 後ろから声が聞こえた。主治医の先生の声? ぐにゃぐにゃしていてよく分からない。
 誰かの手が、頭の後ろ側に触れた。包帯の結び目を解いてゆく。
 ぱらり。
 結び目が解かれ、幾重にもまかれた包帯が次第にこの体から離れてゆく。
 産まれてから一度も、見たことのない世界。
 言葉でしか聞いたことのない世界がもうすぐ……。
 最後の一巻きを巻き取ると、目を圧迫するものは何ひとつなくなった。
 相変わらず目蓋の裏には闇。
 しかし昔と違っているのは、その目蓋に仄かな"光"を感じるということ。
 さぁ、ゆっくり開いてごらん。
 声に導かれるようにうっすらと目蓋を持ち上げた。
 瞬間飛び込んでくる光の眩しさに、もう一度きつくつぶってしまう。
 世界は眩しい。
 恐る恐る右目を持ち上げた。刺すような痛みと共に眩しさ。次は左目。
 一面真っ白で(この辺りを包み込む色を"白"と呼ぶことを後で教えてもらった)、ベッドにカーテン。今まで自分が生活してきた場所の映像と、名前とをひとつひとつ当てはめた。
 さぁ、見てごらん。これが君だよ。
 差し出された手鏡を受け取る。膝の上に置いて、上から恐る恐る覗き込むようにゆっくりとそれに顔を映して……。
 びちゃ。
 自分の顔を映し出そうと持った手鏡の上に、何かが落ちた。肌色の何か。
 なんだろうと思っている瞬間にもまた。水音を立てて鏡の表面に落ちた。
 "私の顔から"?
 空いているほうの手で、鏡の上に落ちたそれに触れてみる。ぬるりとした感触。
 それを退けて、鏡を覗き込んだ。

 そこには。
 肌がドロドロと崩れ落ちて、目が半ば顔から飛び出しかけている、腐敗した顔があった。
 ひっ、と咽喉が鳴った。悲鳴をあげようとして声が出ない。噛み合せた歯がカチカチと煩いほど鳴った。
 視界の端に、鏡の上に落ちた肌色の物体が映った。あれは私の肌? 崩れ落ちた?
 腹の下のほうからこみ上げた嘔吐感を押さえるために、片手で口元を覆った。頬の辺りがぬるりと滑る。
 溶けた肌。
 これが君だよ。
 後ろから肩に手を置いた誰かが言う。男なのか女なのかも分からない。一人なのか二人なのかも分からない。
 奇妙に重なり合って、歪んだ声が言う。
 "これが君だよ。"
 繰り返す。何度も。目をそらせなくなるまで。
 嫌だ。
 必死に首を横に振っても、何故か鏡から目を逸らすことが出来なかった。
 そうしているうちにもどんどん皮膚はドロドロと崩れ落ちて、骨が見え始めた。
 "これが君だよ。"
 壊れたレコードのように声が繰り返す。
 いやだいやだいやだ。
 見たくない。こんなの、見たくない。

―――見たくない。

「いやぁあああぁっ!!」
 絶叫で。目が覚めた。
 がばりと体を起こすと、見慣れた病室の、自分のベッドの上だった。
 口唇から漏れてゆく、ひたすら荒い呼吸。こめかみの辺りを伝って落ちる汗。
 ぎゅっと目蓋を閉じて、その上に手を乗せた。じわりと涙腺が熱くなる。
(まただ)
 何度も何度も同じ夢を見ているのに、ショックはいつでも同じだ。心臓を刺し貫かれるようにひたすら鮮烈で。
 息すら出来なくなる。
 せんせいは、「今まで見えなかったものが見えるようになるわけだから、不安になっているんだろう」といっていたけど。
 目が見えるようになってからも、繰り返すこの悪夢から逃れられない。
 目蓋を押さえていた掌を退け、目の前にかざして見せた。
 けれど。
 何も見えなかった。


            *


「その子が、一昨日のことも忘れてるって訳か」
 床に散らばったタロットを掻き集めながら、雅が独り言のように呟く。
「ますます俺の持論が濃厚だな」
 正位置・逆位置。その他並び順さえも無視して掻き集めたカードを獅遠に手渡し、引っ張り出したパイプ椅子に腰掛ける。
「この病院に"夢喰い"がいるってこと? でもそれじゃぁおかしいよ。夢喰いは、夢を食べるから"夢喰い"なんでしょう?」
 律儀にそのカードを並べかえながら、獅遠が眉をひそめる。
「獅遠。あんまり知られてないことだけど」
 当然ながら禁煙の病院内では、酷く雅は落ち着きがない。先程から手元でライターをカチカチいわせている。
「夢喰いは、記憶だって喰える。だけどそれは、業界内のタブーになってるんだ。最低限の、ルールとして」
「え?」
 ざぁ。折角集めたカードが、獅遠の手から流れ落ち、布団の上に広がった。
「だから多分、その子は喰われたんだと思う。夢喰いにね」
「喰われ……」
 喰われた。その言葉を最後まで発音することすら、苦痛だった。
 こみ上げる嘔吐感に思わず口元を覆った。
「……何処の誰かは分からないけど、一馬じゃないことだけは確かだな。あいつの空気とは違う」
「一馬くんの空気……? どうして分かるの?」
「成瀬と銀は、"表と裏"だからさ」
「表と、裏?」
「……夢喰いの家と、霊媒師の家とで結ばれる、契約みたいなもんさ。生者も死者も、抱えるは心の闇、ってね。生きてる人間は夢喰いが。死んだ人間は霊媒師が。それぞれ担当するって決まってるんだ。銀はもう随分前から、成瀬の家と契約を交わしてる。だからその間柄は少し特殊なんだ。夫婦関係ってカンジ? 相方の空気ぐらい分かる。ひっくり返せば、相方のことしか分からないんだけどな。他の夢喰いのことなんざ、分からないさ」
 けれどこの空気のよどみが、病院特有の負のオーラではなく"夢喰い"特有のものだということだけは、分かる。
 彼らには独特な歪みがあるのだ。

 人の心の、精神的なバリアを振り切って、心の中。一番無防備な"夢"に潜るその行為自体。どれほど精神力をすり減らすことか。
 心の闇を消化しながら、消化し切れなかった感情の残りカスが、体の中に次第にたまり行く。
 その苦しみゆえのよどみ。
 だから夢喰いの空気は、すぐに分かる。

―――こんな力、本当は要らないんだ。滅んでしまえばいい。そう思うよ。
   人の心に依存しなければ生きていけないなんて、人間としてどうかしてるんだ。そんなの人間じゃない。

 数年前の夏。揺らぐ陽炎の中。
 自らの掌を見つめたまま、自分に言い聞かせるような一馬の言葉。

―――だけど、預かってしまった重みが、俺の中にあるんだ。だから、俺は生きるけど。

「雅さん」
「あ? 何?」
 突然名前を呼ばれて、ぼやけていた視点が焦点を結ぶ。耳元にまとわりついていた過去の残骸が、遠退く。
 顔をあげて獅遠を見ると、深刻そうな顔をして、自分の上に落ちたカードを一枚、拾い上げた。
「どうして、記憶を食べるんですか」
 自分の周りに散ったタロットカードを一枚一枚。酷くゆっくりとした動作で拾い集めながら、獅遠が訊いた。
 その問いに、雅は少し驚いたように目を見開いた。が。すぐあとに。
「変なこと訊くなよ」
 心底呆れたように溜息交じりに吐き出した。
「変じゃないですよ、だって……」
「俺たちと一緒だろ」
 獅遠の言葉を途中で遮った。そのまま奇襲攻撃をかける。
「俺たちがモノを喰うのと一緒だろ」
 きょとんとした獅遠の顔。そうだろう、すぐに焦点は結ばないだろう。分かりにくいだろう。それなら。
 かちりとライターを掌の中で弄びながら、雅は決定打を打った。
「生き残るためだろう」

―――成瀬の血は、俺で終わらせるつもりでいるんだ。

 ばたばたと廊下が騒がしくなった。扉一枚隔てた内側は、こんなにも冷え切った空気が充満しているのに。
 手の中のカードを見つめて黙り込む獅遠と、相変わらずライターを弄ぶ雅と。
 渇いた沈黙を破ったのは、荒々しく扉を開け放った看護婦の声だった。
 しかし、彼女が吐き出した言葉は「検温」ではなく……。

「あかりちゃんがどこに行ったか知りませんか!?」


             *


 まだ夏の名残が消えない9月。
 しかし車内は何故か冷えていた。気候柄、肌に張り付くような湿気はあるものの。
 空気が。
 プライドが高くて意地っ張りで頑固なうちの"猫"が。
 指定席のはずの助手席ではなく後部座席にいることがまずおかしい。

―――カズマ。

 事務所のソファーの上で蹲り、小刻みに震えていた要が。縋るような瞳で見上げてきた。

―――助けて。

 あの日と同じようだった。まだ要と出会って、あまり月日が経っていないころ。
 涙声の混じった電話の声。
 この耳元にまだ残っている。
 "あの日以来"、要がその言葉を口に出したことがない。

 バックミラー越しに後部座席を見やると、シートの右端に埋まったまま、要は窓の外をぼんやりと眺めている。
 焦点が定まっていないから、特に何を見ているわけでもないのだろう。
 ハンドルを持つ手に視線を移すと、腕のあたりのワイシャツが酷く皺になっていた。
 震える手が、掴んだ痕。まるで掴んでいないと死んでしまうかのような、あまりに強い力。
 こんなふうに掴むほど、追い詰められるようなことが?
「……要」
「平気」
 まだ何も聞かないうちに、まるで手を差し伸べることすら拒むように言葉が返る。
 構わないで。まるでそう言っているようだった。
「……それならいいけど」
 負けたのは一馬のほうだった。切り出しかけた話を飲み込む。
 一体何があったのか。問い掛けようにも、こうもあからさまに壁を一枚隔てられてしまったからには、無理矢理踏み込むわけにもいかなかった。
 信号が青に変わる。ゆるゆると動き出した車の列に連なりながら、一馬は思った。
 なんて、不確かなんだろう。
 血のつながりもなく、確かな保証もなく。家族でもないから。
 お互いの領域に踏み込んでゆくことも出来ずに。
 お互いの傷口を隠したままで。どうして一緒にいるんだろう。
(俺の我儘かもな)
 3年前。
 泣きながら蹲る要に手を伸ばして、言ったのは自分だ。(一緒に行こう)
 それは一体何のためだっただろう。(君はここにいちゃいけないと思う)
 一体、誰のためだったろう?
 分からないし、今は分かりたくなかった。
 考えたくなかった。

「うわっ……!」
 病院の駐車場へ続く道を曲がった瞬間、一馬は素っ頓狂な声を上げてブレーキを踏んだ。
 今まで無事故無違反で頑張ってきた一馬の車の目の前に、ふらふらと人影が彷徨いだしたからだった。
 体が前にのけぞるぐらいの急停車。ごん、という音が後ろから聞こえた。どうやら要が前の座席に頭をぶつけたらしい。
「カズマ、運転乱暴……」
 額を押さえた要が、久しぶりに口をついた悪態を言い終わる前に、一馬は車の外へ飛び出していた。
(え、まさか……)
 さっきまでの落胆も、血の気の引く音と共に心の奥に引きずり込まれた。焦りのほうが勝ってしまう。
 もしかして、人を轢いた?
「ちょっ、カズマ……」
 慌てて要もドアを開いた。
 車の前方に回りこむと、見慣れた一馬の姿と、パジャマの上にガウンを羽織った少女の姿が見えた。
 みつあみに結っていたはずの髪の毛は背中に流したまま。アスファルトに座り込んでいる。
 押切あかり。
「どうしたのあかりちゃん、こんなところで……」
 立てる? とあかりの背中に手を回し、一馬が促す。
 しかしあかりは、何かに怯えるように震えており、ゆるゆると首を横に振るばかりだ。
「せんせい……」
「あかりちゃん?」
「せんせいは……?」
 震える声が零れ落ちた。その瞬間、背中に当てた掌に電流が走ったような気がして、一馬は慌てて手を離した。
(あ……)
 あかりから離した掌をしばらく見つめてみて、一馬は我に返った。こんなことをしている場合ではない。
「あかりちゃん、ここでこうしてもいられないから、病院に戻ろう?」
 あかりの小さな肩に手を置くと、再び、びりと刺すような痛み。相変わらずあかりは首を横に振るばかりだ。
「……カズマ、どうするの?」
 一馬の傍に立ち、二人を見下ろしながら要が問う。幾らあまり人気のない道とはいえ、このままここにいるわけにもいかない。
 当の一馬も随分と困り果てている様子だ。
「俺らは彼女と全然関係ないから、どこかに連れて行くと誘拐になっちゃうし……。う〜ん、ごめん!」
 何の脈絡もなく突然何かに謝ったかと思うと、一馬は、あかりの額に手を当てた。
 何が起こったのかわからないというようにあかりが目を見開いて、そしてそのまま。
 くたりと倒れた。
「……眠らせたの?」
 あかりを抱え上げる一馬を見上げ、訊く。一馬はそれに、頷くことで答えた。
「とりあえずこのままここにいても仕方がないし。病院に戻らないと。雅と話したいことも……色々出来たから」
 一馬は、すぐ傍にそびえたつ病院の、白い壁を見上げた。
「?」
 その一馬の様子に要は首をかしげた。が、一馬はそれに構うことなくあかりの体を後部座席に横たえた。
「"櫛引"……どこかで聞いた名前だと思った」
 仕方がないので助手席に乗り込んだ要の耳に、一馬の小さな独白が溶けて、消えた。


             *


「……いないなぁ、どこにいったんだろ、あかりちゃん」
「お前、寝ててもよかったんだぞ。お前だって病人だろうが」
 中庭まで出てきたところで、突然雅がそんなことを言い出した。あからさまな嫌がらせだ。
 本当についてきてほしくなければ、病室を出る時点で置いてきている。
 たじろぐ獅遠の反応をどうも楽しんでしまう癖があるのだ。自分でそれを分かっているだけに、性質が悪い、と思う。
「だっ、て、心配じゃ、ないですか」
 びくりとしたあと、何とか詰まりながらも言葉を返す。獅遠の反応は予想通りだ。これがまた楽しくて仕方がないのだ。
 昔一馬に、"根っからのいじめっ子気質"といわれたことも、あながち外れていないらしい。
「……にしてもなァ。空気がよくないな、ここ」
 まだ昼のはずなのに、誰もいない中庭を見渡して、ぽつりと雅が呟いた。
「寒く、ないですか?」
 9月とはいえ、まだ時折汗ばむような日が続く中、今日だってそんなに涼しくはないはずなのに。
 獅遠が自分の腕の辺りを擦った。
 ちらりと後ろをついてくる獅遠の方を振り返り、その顔をまじまじと眺めた。
「雅さん?」
 その不躾な視線に獅遠がきょとんとしていると。雅はその硬い表情を少し崩して。
「お前相変わらず、勘だけは一級品みたいだな」
 と笑って見せた。
「?」
 一体何のことやら、と獅遠が首をかしげる。お前はそのままがいいのかもな、などと言いながら、雅はさらに中庭の中心へと歩いていく。
「いい加減出てきたらどうなの? その程度で隠れてるとか、言わないでちょうだいね」
 ある一点を見つめて、雅は煙草に火を点けた。
 その視線の先にある草むらが、一瞬がさりと揺れたと思った、次の瞬間。
 何が飛び出してきたのか、獅遠には見えなかった。黒い影は真っ直ぐに雅のほうへ向かい。
 ぱしり。という渇いた音が響いた。
「筋は、悪くないみたいだね」
 自分に向けられた拳を片方の掌だけで受け止め、冷ややかな言葉で雅が言う。
 そこで改めて獅遠は、何が飛び出してきたのかを知った。
 要と同じぐらいの少年がそこにいた。どこかの制服らしい、白いワイシャツに黒のズボン姿だった。
 美少年というよりも、精悍という表現が似合うような、少しきつい顔をした少年。
 自分の拳を受け止められたことに一瞬驚いたように目を見開いたものの、すぐにきつい瞳で雅を睨みつける。
「一応基本は出来てるみたいだけど、この程度で俺を足止めできるとでも?」
「っ、いてぇっ!!」
 拳を掴んでいた手で、雅はやすやすと、少年の腕を後ろに捻り上げてしまう。
「坊や、お名前は?」
 捻り上げる腕の力を全く緩めないまま、優しい口調で雅が問い掛ける。銜えたままの煙草が煙いのか、眉をこれ以上ないというほどにしかめ、ぷい、と顔を逸らす。
「オニーサン、素直じゃない子は嫌いだなァ。せっかく、"結界の作り方"の筋はいいって、褒めてやろうと思ったんだけど」
「いてててててっ!!」
 ぎりぎりと、腕に軽く力を込めた。少年が腕の中でもがく。
「だけど一応オニーサン、銀の次男坊だから、簡単に破れちゃったりするんだけど」
「しろがっ……」
 驚きのあまり声を上げてしまった直後、少年は焦ったように、空いていた片手で己の手を塞いだ。
「あれ〜? 銀のことは一応知ってるんだ? 同業者?」
「………………」
「強情だな、腕の一本ぐらいイっとく?」
 きしり、と骨が軋みそうなぐらいに、雅は捻り上げる腕に力を込める。恐らくもう少し力を込めたら、簡単に腕が折れるだろう。
「………………呉(クレ)」
 降参の証に、少年が呟いた。本当に聞こえるか聞こえないかの声のボリュームは、精一杯の抵抗の証だろう。
「はいどーも」
 少年の言葉を聞くや否や、雅はぱっとその手を離した。
 解放されたことに一瞬遅れて気付き、呉少年は慌てて雅と間合いを取った。
「もういいよ。帰りなよオウチにさ。呉の坊ちゃん」
 相変わらず毛を逆立てた猫のように威嚇体勢を解かない相手に対し、雅はひらひらと手を振って見せた。
「な、なんだと!? バカにしてんのかよ!?」
「バカにされてもしょうがないでしょ。威勢だけで勝てると思ってるなら尚更性質が悪いけど」
 噛み付くように呉少年は叫んで見せるが、雅の一言でぐっと詰まってしまった。
「……ひとつ聞きたいのはね、呉の坊ちゃん」
 長くなった灰を地面に落として、雅は少年に向き直った。
「どうして"呉みたいな家"が、こんな陳腐なことに加担してるの。もしもそれが君の一存なんだとしたら、手を引いたほうがいい。家の名前を貶めるだけだよ」
「う、うるせぇなっ! お前なんかに分かるかよっ!!」
 捨て台詞を残して、呉少年は駆け出した。門を出ずに、わざわざ塀を乗り越えて行く彼を見つめて、「若いなァ」と雅はわけの分からない感想を漏らす。
 そこでようやく、自分の傍で固まっている獅遠へと視線を向けた。
「……もしも〜し」
 彫刻のように固まっている獅遠の前でひらひらと手を振って見せると、一拍置いて獅遠が気付いた。
「獅遠君、終わりましたんで、あかりちゃん探し、続けます?」
「え、と。今、何が、あった、の?」
 本格的に思考回路がショートしたらしい。獅遠の口調といい動きといい、どことなく機械ちっくだ。
 これはしばらくの間再起不能かもな、などと思っていると。
「こんなところにいたんですか?」
 病院のほうから声と共に近づいてくる人影が見えた。
「ちょっと人探しと散歩をね。で、情けない保護者を連れてきてくれた? 要くん」


            *


 病室に着くなり雅は、一馬を連れて喫煙所のほうへ行ってしまった。
 もう我慢の限界なんだ、などと雅は言っていたが、要にはそうは思えなかった。
(僕が子供なのは、分かってるけどさ……)
 話を聞いたところで、何の手助けが出来るわけもない。そんなことは、自分が一番知っているのだ。だけど。
 仲間はずれにされているみたいで、寂しい。
 ともすればどんどん沈んでいってしまう思考回路を一時止めて、トイレに行ってくると獅遠に言い訳をして病室を出た。
 しばらくそこら辺をうろうろすればもしかしたら、気分も晴れるかもしれない。
 そう思って、すぐ傍にある角を曲がりかけたところで。
 要は慌てて足を止めた。
(雅さんの嘘つき)
 まるで壁に張り付くような、他人が見たらあまりにも怪しい格好で、要は心の中で雅に悪態をついた。
 1階まで行くって言ったくせに。
 当の二人は角を曲がった先の窓際で、なにやら話しこんでいるのだ。
(立ち聞きはよくない、立ち聞きは……)
 そうは思うものの、要の足は、根が生えたように少しも動かなかった。
 動けないのではなくて、自分の意志で動かないのだ。
 頭の中の、酷く冷静な自分が分析した。しかしそんなことが、一体何の助けになるだろう。
 左胸の奥で、どくどくと鼓動が高まってゆく。
「彼女の体に触ったとき、静電気みたいなものが走った。夢喰い同士の力は弾きあうから、多分お前が言ってることは正しいんだろう」
 要の葛藤を知ってか知らずか、一馬の声がやけにクリアに聞こえた。
 "夢喰い"? "同士"?
 今まで「夢喰い」といえばイコールで一馬に直結していた要の思考回路には、複数形である「同士」という表現はなじまないものだった。
 そんな、混乱状態の要などお構いなしで、一馬は続ける。
「それに、以前どこかで「櫛引」という苗字を聞いたことがある。おそらく、本家のほうで。だから、お前が言ってることは大体当たってる、と思う」
「記憶を喰う方が、力は使わないって、前に言ってたよな? 俺が思うに、故意に記憶を喰ってるんじゃなくて、"記憶しか喰えないほどに"弱ってるんじゃないかと思ってるんだ。もう、記憶を喰う以外に、"自分の生命を維持する"ことが、不可能になってるんじゃないかってね」
「……そうかもな」
 "生命を維持"……?
 要は、突然後ろから鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
 生命を維持、ってなんのことだ?
 夢喰いが夢を食むのは、人間が食物を飲み下すように、生命を繋ぐため? そんなの、聞いたことない。
(一馬も……?)
 無意識のうちに浮かんだ疑問符に、要のほうが驚愕した。
 今までそんなこと一度も考えたことがなかった。そして、今までの自分を悔いた。
 聞いておくべきだったのかもしれない。一馬に。
 彼の力が一体どういうものなのか。はっきりと知っておいたほうがよかったのかもしれない。
 何かひとつ新しいことを知るたびに、こんなふうに傷つくのなら。

 話はまだ続いていたが、これ以上聞く気にはなれなかった。
 さっきまで、話して欲しいなどと思っていたくせに、何と言う我儘だろう。傷つきそうなものには近づかない、臆病な自分が情けなかった。
 ふらつき、もつれる足を何とか動かして、その角から離れた。

「要くん」
 少し歩いたところで、突然背中に声が刺さった。聞きなれたその声にも、びくりと肩を震わせて、あからさまに怯えてしまう。
「煙草の自販機は、さすがに病院にはないよな……」
 ゆっくりと振り返った先。空になってしまったらしい煙草のパッケージを握り潰して、雅がこちらへ近づいてくる。
 立ち聞きしてたの知ってた? 聞いてみようかと思ったが、怖かったので止めた。
 雅はとても勘がいいから、気付いているんだと思った。
「……雅さん」
 傍まで来た雅を呼び止める。思った以上に声がかすれていて、自分がびっくりした。
「ん?」
 瞳に優しい光を湛えて、雅が見下ろしてくる。
 どうしてこの人たちの瞳は、こんなに優しいんだろう。
 涙腺が訳もなく熱くなるのを感じながら、要は一度深呼吸した。

「夢喰いって、夢を食べなきゃ、―――死ぬの?」

 縋るような、少し怯えた瞳で要が言った。声が震えている。
 まさかそう聞かれるとは思っていなかったらしい雅は、少し驚いたように目を見開く。
 そのあと小さく溜息をついて、困ったように笑って見せた。

 何も答えなかった。

 しかし、その沈黙が要にとっては、何よりも重い肯定に感じられたのだった。



                             to be contenued……



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