2.侵略と陵辱



 何かが追いかけてくる。ずっとずっと後ろから。
 "助けて"。
 叫ぼうとして声にならない。
 一点の光もない、ただひたすらの闇の中を、無心で走る。

 にゅっ、と。
 背後から伸びてきた手が、後ろから口を塞いだ。
 二つ、四つ。掌は折り重なるようにこの口を塞ぎ、体を絡め取る。
 逃がさないように。
 息が出来ない。ふらふらする。
 もがきながら、必死に前に手を伸ばした。

―――助けて。



 ピピピピピピピピピピピ。
 枕元で鳴る目覚ましが煩い。
 しかし、止める気にもなれなかった。
 ベッドの上で上半身を起こしたまま、要は肩で息をした。
 目の前にゆっくりと両手を広げて、少し遅れてそれで顔を覆った。
 額と鼻の頭にうっすらとかいた脂汗。
 "助けて"。その言葉が嫌いになったのは、一体いつの頃からだろう。
 救いを求めて伸ばされる手は、酷く冷たく、酷く重くて。

 ピピピピピピピピピピ。
 鳴り続ける目覚ましがまるでノイズのように。脳の深いところ、どこか覚醒したままの場所に響く。
『これは、俺のエゴなんだ。君のためじゃない』
 顔を覆う両手に、熱く濡れた雫が落ちた。
 どうして今頃になって、こんなに苦しまなくてはいけないんだろう?

『君はここにいちゃいけないと思う。一緒に行こう』

 ねぇカズマ。
 カズマはエゴだって言った。
 でも、どうしてエゴなのか、理由は教えてくれなかった。
 あの時は、それで十分だったんだ。閉ざされた場所から外に出るなら、それでよかった。
 でも今は。
 なんだか酷く、欲張りになってしまった気がする。
 どうして連れてきてくれたの。

―――ここにいてもいいの。

 ピピピピピピピピピピ……。


            *


「殴るよ」
 刺が四方八方に生えている、至極不機嫌な言葉で、目が覚めた。
 体が危機を察知したのかもしれない。
 このまま微睡んでいたら、問答無用で撲殺される危険性があったからだ。
 むくりとベッドの上で体を起こすと、もう既に支度を済ませた要が、その端正な顔にたくさんの青筋を浮かべて立っていた。
「いい加減にしてよ。僕はカズマの目覚ましじゃないんだから」
「……おはよう」
 まだ半分寝惚けているのか、一馬はどこかズレた答えを返してくる。
 そのあまりに間の抜けた返答に、要は、怒気を削がれてしまった。
 溜息とともにがっくりと肩を落とす。
「ご飯の準備は出来てるから勝手に食べて。僕もう行くから」
「なんだ、もうそんな時間なのか……?」
「7時」
「7時!? まだ早いじゃないか……」
「……カズマ」
 ごそごそと二度寝に沈もうとする一馬に、上から降り注いだのは氷点下を思わせる静かな呟きだった。
 仕方なく体を起こし、壁の時計を確かめる。確かに7時。
 普段の要の登校時間より30分以上早い。
「今日なんかあるのか?」
「だから前々から言ってるじゃないか。文化祭の準備が忙しくなってきたって。本当に、昨日一昨日言ったことも覚えてないんだから。老化が始まったんじゃないの?」
 しっかりと一馬がベッドから離れたのを見届け、要は踵を返した。
 ドアのところまで来て。
「ベッドに戻ったら、成仏させるからね」
 振り返りもせずにそう告げ、出て行こうとする。
「要」
 その背中に呼びかけると、「なに」と、ドアに片手をかけて、肩越しに少しだけ振り返る。
「気をつけるんだぞ」
 ベッドの横に腰掛けたまま、言い聞かせるように言う一馬に、要が目を見張る。
「……もう子供じゃないよ」
 ぷいっと顔をそむけて、要は部屋を出て行ってしまった。
「……荒れてるなぁ」
 ドスドスと階段を降りる足音の荒々しさに、一馬は苦笑した。
 バタン、と玄関のドアが閉まる音がしてしばらくすると。

 居間で電話が鳴り始めた。


            *


―――気をつけるんだぞ。
(何さ、いつまでも子供扱いして)
 玄関のドアを勢いよく閉め、要は心の内で呟く。
(……子供だけど)
 家を出てしまうと急に、頭に上っていた血が下のほうへと急降下して、苛々していたのが馬鹿らしくなってきた。
 苛ついて、当たることが既に子供の証だから。

 早く大人になりたい。
 対等になりたい。
 先程の苛立ちもどこへやら、要はしゅん、と肩を落とした。

 どんなに頼りなく見えても、どんなにふざけていても、いつも風除けとして前に立ってくれているのを知っている。
 守られている。
(じゃあ僕は一体、何が出来ているんだろう?)
 家事その他を含めてみても、自分が貢献している部分は少ない。
 時々不安になる。
 そんなこと一馬はしないと分かっているけれど。
 怖い。

―――捨てられるんじゃないか。

 ちりん。
 小さな音に要は、アスファルトに落としていた視線を持ち上げた。
 塀の上を三毛の仔猫が歩いていた。
 生まれてまだ数ヶ月だろうか? しなやかな尾をピンと立てて、少しふらふらしながら歩いている。
 ちりん。
 先程の音は、その猫が首につけている、小さな鈴だと気付いた。
 要の視線に気付き、仔猫がくるりと振り向いた。
 丸っこい目で要を見つめ、にゃぁと小さく鳴いた。
 トッと軽やかに兵から飛び降り、要の足元に擦り寄る。
「迷子?」
 かがみこんで、要は訊いた。
 にゃぁ。
 甘い鳴き声が答える。
「誰にも見つけてもらえなくて、寂しかったんだね」
 温もりを求めようとしているのか、要の足に体を擦り付けようとする。
「ごめん」
 人懐こいその動作に、要は反射的に謝った。
「撫でてあげられないんだ。ごめんね」
 しなやかな尾をぱたぱたさせながら、子猫はきょとんとした目で要を見上げる。
「ちゃんと戻らないと、駄目だよ」
 その小さな頭の上に、掌をかざす。
「僕にはこのぐらいのことしかしてあげられないけど」
 かざした掌から、柔らかな乳白色の光が溢れ出す。

―――分かれた世界を繋ぐ力は、与えられていない。
 それはいきとしいけるものの理だ。決して侵してはいけない聖域。

 みぃ。
 尾を引く鳴き声が、次第に小さく。小さくなる。
 茶色い毛並みが次第に薄れてゆく。
 相変わらず丸い瞳はきょとんとしたまま。

 多分、突然訪れた決別に。世界が分かれてしまったこと、"違ってしまった"ことに気付かなかったのだろう。
 だから迷った。

 やがて、仔猫の姿は霧のようにふっと消えてしまった。
 掌から溢れていた光も、少しずつ薄れ収まってゆく。

 溜息と共に立ち上がると、まだ少しぬくもりの残る右掌をみつめた。
 一体いつの頃からか。この力に気付いたのは。
 普通では見えない「世界の境目」を見てしまう。
(この力で)
 一体自分は何の役に立てる?
 守られているだけではなく、一体。
 考えれば考えるほど、不安で仕方なくなる。押しつぶされそうになる。
 絡み付いてくる、見えない漠然とした恐怖を振り払うように、緩く頭を振った。
 今は考えたくない。今は。
 歩き出した要は、先日お隣のおばさんから聞いた話を思い出した。

―――近所の仔猫が車に轢かれたらしいのよ。可哀相にね。


            *


「はい。成瀬ですが」
 居留守を決め込もうと思ったのに。呼び続けるコール音はしつこくて。
 しょうがなく階下に降りた一馬が、受話器を取る。
《おはようございます一馬様。お目覚めでございましたか》
 予想していたどれとも違う声が、鼓膜を震わせた。
《三石でございます。お久しぶりです》
 中年を幾分か超えただろう、柔らかな男の声。意識の片隅に蘇る、切なさを伴う懐かしさに呑まれそうになる。
「三石さんも、お元気ですか」
《なんとか元気にやっておりますよ。一馬様もお変わり無いようで安心致しました》
「どうかしたんですか。"本家の方"に何かあったんですか」
 子機を持ったまま、居間のソファーに体を沈める。
 幼い頃からの教育係であった三石からの連絡。それが"成瀬本家"に絡まないことは無いだろう。
 当代一人限りの「夢喰い」が家を出る。前代未聞の自身の行動が、本家にかけている迷惑と影響は大きいはずなのだ。
《いえ、大したことでは無いのですが。奥様が一馬様のことを大層気に掛けていらっしゃいまして》
「母が……」
 ある一件以来、めっきり気弱になってしまった母の顔を思い出そうとして、あまり上手くいかない。
 家族だろうと心の中で自分を叱咤しても。あまり意味がない。
《……少しでいいのです。たまには成瀬の家に顔を出してくださいませんか。三石のお願いでございます》
 耳の渦巻きを通って。鼓膜を振るわせたその言葉を、しばしの沈黙と共に飲み込む。
 ちりちりと、胸が灼けるように痛んだ。
「三石さん……俺にはまだ」
 暗い座敷。襖。真っ白な、不健康なほど真っ白な障子を思い出し、口唇を噛む。
「……すみません」
 苦笑しながら、少し伸びた前髪を掻きあげた。
 父譲りの、漆黒の髪。譲られた力を表す、濃紺の瞳に映る光景。
《年寄りの戯言と思ってお忘れください。一馬様のお心も考えず、我儘でございました》
「俺が、弱いだけです」
 我儘なのは。弱いのは。
 まだ、超えられない痛みがある。閉じきらない傷口がある。
《それでは、要様にもよろしくお伝えください。一馬様、お体もお心も、ご自愛ください》
 失礼します。優しくて柔らかくて、痛みを伴う言葉を残し、会話は途絶えた。

――― 一馬。泣いてはいけない。これは定めだ。

 子機を目の前のテーブルに投げ出す。がたんと硬い音がどこか遠くに聞こえた。
 頭の中で繰り返す懐かしい声に目を閉じる。

―――お前が生まれる前。私が生まれる前から全て決まっていたことだ。
   泣くんではないよ。

 あの日から、一度も泣いたことなんてないよ。
 ソファーの背もたれに頭を乗せて、天井を仰ぐ。
 白い天井。この天井を見上げるたび、「あの頃とは違う」ということが分かる。
 昔見上げた天井は、暗い色をしていた。重苦しくのしかかってくるような。
 それが本当に暗かったのか、自分の気持ちがそう見せていたのか。
 それともそのどちらもだったのか。
 それは分からないけれど。
 出たかった。

(血を繋ぐことが"かなしみ"を産むなら、繋がない方がいい)
 それが、繋ぐたびに膿んでゆくなら。
 泣くのは自分だ。
 かなしくなるのは。

 白い色を目蓋に焼き付け、再び目を閉じる。
 投げ出した子機が再び鳴り出すまで、あと1時間ほど。


            *


 鏡を覗き込む。
 見えるのは、自分の少し後ろに立っている、頭の良さそうな男の人だけ。
「せんせい」
 鏡に手を当てる。当てているつもりなのに、何も見えないよ。
 鏡越しに、視線を合わせる。でも、合わせようとしている自分の顔すら、見えない。
 こちらを見ている彼の視線だけが、鏡の中から伝わってくる。
「私本当に、"いる"のかなぁ?」
「どうして?」
「だって見えないよ」
 手も足も、顔も体も。
 私を創るものは何ひとつ、見えないんだもん。
「ここにちゃんと、いるよ?」
 せんせいはそうやって、その大きな掌を私の頭に乗せた。
 くしゃくしゃと小さく撫でる。
 掌の感触は、しっかりと伝わるのに。目の前の鏡には、空中でゆらゆらするせんせいの手しか見えなかった。
 ここに"いる"ことを。存在することを伝えようとするその行為が、何故か、寂しさを引き立てているような気がして涙ぐんだ。
「大丈夫、あかりちゃん。僕がちゃんと傍にいるから」
 そう言ってせんせいは、この肩を両手で包み込んだ。
 両手から、温かい何かが入り込んでくる気がした。
 その熱は、次第にこの体を侵食して、溶かしてしまう気がした。
 ぼおっとする。

 ねぇせんせい。
 私時々、分からなくなっちゃうの。
 本当に私、あなたのことを信じているのかなぁ?
 私本当に、"いる"のかなぁ?
 分からないの。

「ひとはね」
 頭からわずかに指を滑らして、せんせいは、私の目を片手で覆った。
「何かを食べて生きてゆくんだよ。糧にするために。生命を食べて、生きてゆくんだよ」
 きみも、僕も。
 掌から、温かい温度。目の周りを溶かして、持ってゆくみたい。
 目蓋の奥に広がる闇。ついこの間まで世界の全てだった黒。
 落ち着くのはどうして?
「ただ僕は少し、君たちとは違うんだ」
 こえがとおい。
 そして聞こえなくなる。
 眠りに落ちた。

 泣きたい。不意にそう思ったのはどうしてだろう。


            *


 未だ夏の名残を含んだ風は、生温い。
 デザインスーツの襟元をだらしなく開き、申し訳程度の花束を抱え、銀 雅は病院の自動ドアをくぐった。
 一歩目。
(?)
 外と内の境目を踏み越えたところで、雅は違和感に眉をひそめた。
 何かが違った。
 上手く口では言い表せない、あえて言葉を探すとしたら、空気が。
(まァ病院なんて、総じてそんなところだけどな)
 濁っている。淀んでいる。
 空気の乱れを感じて、しかし雅は、すぐに考え直す。
 ここは、生と死が入り混じっている場所。普通の人間の"生き場"とは、元々違った流れをしているところなのだ。
 マイナスの空気の流れが多いのも、特有のこと。
(未練って、怖いんだネ)
 ここそこに。普通の人間達に混じって半透明の陽炎のような人影が、ゆらゆらと揺れていた。
 パジャマ姿。検査服。ぼろぼろの私服で血塗れなのもいる。事故だろうか。
 雅の空気に導かれて、ゆらゆらと近づいてくる。
(ゴメン、無理。そこまで余裕ナシ)
 軽く片手を挙げ、立ち止まらずに通り過ぎる。
(君たちの一人を助けてやるほど、俺は選民思想じゃないし)
「スミマセン綺麗なお姉さん」
(全部を助けてやれるほど、慈悲深くもない)
「匠堂三郎の病室って、どこですかね?」
「え? えっとぉ……」
 突然上から覗き込まれた受付嬢が、顔を真っ赤にして端末に名前を入力する。
「8階の15号室になりますけどぉ……」
「ありがとう、美人のお姉さん」
 言葉一つで人間関係が円滑に進むなら、ケチるだけバカらしい。
 言葉は言霊になるから。そう言って出し惜しみする奴も知ってるが、それはそれで構わない。
 ただ、たくさん口に出したほうが、心は伝わりやすいんじゃないかと思う。
 出し惜しみして得られるものなんて、そうそう多くないのだ。
 言葉だって、力だって、努力だって。

 エレベーターの「↑」を押す。しばらくして、手術用に患者を運搬できる広さの、比較的大き目の「箱」が開いた。
 中からパジャマ姿の小さい子供たちが、わらわらと出てきて、売店の方へ走ってゆく。
 乗り込んで、「開」のボタンを押して子供たちを送り出し、彼らが売店の中へ消えてゆくまでを見守った。
 元気そうに見えてその内に、病巣を抱え。消毒液くさい白い壁の中での生活を余儀なくされ。
 それも一つの、ひとの形と言ってしまうのなら、それはそれでも構わないが。
 閉まる鋼鉄のドアに、ロビーが消えてゆく。
 同じエレベーターの中に、点滴を持った、中学校ぐらいの少女の"影"がいた。
 見上げる顔は青白く。口唇が渇いているように見える。
(ああ、サングラス忘れた)
 少女と視線を交わし、改めてそのことに気付く。
 完璧とまでは行かないが、人工のフィルターを通すことによって、少しはこの「見えすぎる」力を押さえることが出来るのだ。
 多分、車の中だろう。思い出してげんなりする。どうりででたくさん見えるわけだ。

 手術室のある階で少女が降り、あとは8階まで直通運転だった。
 がくんと少し揺れて止まる。時間差で扉が開く。
 目の前にナースステーションが現れた。
 看護婦達と話をしていたのだろうか、ピンクのパジャマを着た髪の長い少女が出てくるところだった。
 一瞬、"死人"かと思った。
 彼女の影が、希薄に見えたから。
 病院とは、案外そんなところなのだ。先程思ったことを繰り返してみる。
 生と死が同時に起こる場所。一番境界が曖昧な……。
 階下へ降りるつもりなのか、少女がこちらに向かって歩いてきた。
 病室へ続く廊下へ歩き出した雅と、何気なしに擦れ違った。

(……?)

 違和感に、雅の足がわずかに止まる。
 今までの、"死人"たちとは明らかに違う。けれど健全な人間では決してない。
 何かの"臭い"が漂ってくるようだ。どこかで感じたことのあるような。
(腐臭?)
 慌てて振り返ると、少女はもう、エレベーターの中だった。

 人の心の闇を引き受け、心の中でどうにか消化する。
 しかし完全に穢れを落とすことなど出来ないもの。そんな臭い。
(まさか……)

 雅はしばらく、少女の消えていったエレベーターを見つめていた。

 ひとの心の闇を引き受け、消化する。昇華する。
 けれどやがて溜まってゆく心の澱に少しずつ歪んでゆくその気配はまるで。

 夢を喰うものの気配。


           *


「要」
 廊下で突然、聞き覚えのある声に呼び止められ、要は振り返る。
 予想通り、移動教室から戻ってきたらしい都佳沙が地学の教科書を抱えてそこに立っていた。
「あ、都佳沙……って! ちょっと!!」
 都佳沙は突然要の腕を掴んだかと思うと、近くにあった、普段は使われていない書道準備室に引き込んだ。
 いつもは大人しく温和のはずの、都佳沙の腕の力が強い。捕まれた手首が、わずかに痛みを感じて軋んだ。
 がらりと扉を閉めると、大きな本棚が所狭しと立ち並び、少しかび臭い暗い室内に静寂が戻る。
 扉一枚を隔てただけで、ざわざわとした雑踏が遠退いた。
「都佳沙、あの……」
「黙って」
 どこかの教室で余ったのだろうか、無造作に積み重ねられてある机の上に教科書を置き、都佳沙は要の額に掌を当てた。
 促されたわけでもないのに、要はゆっくりと目蓋を閉じた。
 掌から伝わる熱。次第に弧を描くように体中に広がってゆく、清浄な温度。
「……また悩み事?」
 柔らかい熱を送り込みながら、都佳沙が呟く。
「空気が淀んで、色々ついてきてる。君にだって分かるだろう」
「……体は重いって、思ってたけど」
「君は感受性が強いから、色々なのが頼って、ついてきちゃうんだよ」
「……感受性が強い?」
「やさしいってこと。……どうだい?」
 額から掌を離し、都佳沙が訊く。
「……あ、楽になった」
 朝からずっと気になっていたある種の重みが、すっかりと取れていることに気付いた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
 都佳沙がその漆黒の瞳を少し揺らして微笑んでみせる。ちょうどチャイムが鳴った。
「あ、次移動だ、ごめん都佳沙!」
 頭の中で時間割を展開させて、要は慌てて書道準備室から飛び出そうとする。
「要」
 静かな声がそれを呼び止めた。
「え?」
「君のその……なんていうのかな、"力"みたいなもの、はね」
 とつとつと。本当に芯から言葉を選ぶようにして都佳沙が言う。傍に置いた教科書を持ち上げながら。
「普通に生まれついた人にとっては、とても強くて、強すぎるんだよね」
 僕たちみたいな、血筋で伝えれたものではない力は。
「子供には、結構多いんだ。そんなふうに見えたり、聞こえたりしちゃうのは。でもね、普通は、涸れるんだ。年を重ねると。だけど」
 二転三転。逆接の接続詞を使い分けながら、都佳沙は続ける。
 その場に氷付けになったかのように、要は動けなかった。
「ずっと、言おうかどうか迷ってたんだけど」
 何かを躊躇うような口調で。一歩一歩、傍まで来て。
 鼓動が次第に速まるのを感じた。どんどん。
「君のその力はね、僕たちが初めて会ったときから、だんだん、だんだん強くなってる。このまま要が、押さえ方とか流し方とか、簡単に言えば制御の仕方みたいなのが分からなければ、きっと要を潰すと思うんだ」
 都佳沙の端正な顔が、形の良い眉が少し歪んだ。苦しそうだと、まるで他人事のように要は思った。
 他人事のように思わなければ、傷つくと思ったのかもしれない。知らないうちに心の目の前に、一枚フィルターがかかったみたいで。
「消すことも、出来ないわけじゃないんだよ。最もこれは、最終手段だけど。でもこのままじゃ、今日みたいに要の心が少し弱るたびに、色々なしがらみが絡み付いてくるだろうし。そんな時いつでも僕が、祓ってあげられるわけでもないし」
 いつのまにか、廊下の雑踏は途絶えていた。授業が始まったんだろうということを頭のどこかが思う。
 都佳沙の並べる言葉が、日本語には聞こえなかった。映画の字幕みたいだ。丁寧になぞって、何度も読んで、そうして飲みくださなければ、意味さえ理解できない。そんな少しとおくの言葉。
 分かりたくないと。思っていたのかもしれない。
「それとも、要が本当にその"力"と共生したいって思うなら、もしかしたら種類は違うかもしれないけど、僕たちで力になれるかもしれないから」
 考えておいて。
 そう呟いて、都佳沙は書道準備室から出て行った。

 言葉を投げ出して、あとは全てを託すように。押し付けるように。不安にさせておいて。
 恨むわけじゃない。都佳沙が悪いわけじゃない。誰も悪くない。だけど。
 突然知らない場所に連れて行かれて、そのまま置き去りにされたみたいで。投げ捨てられたみたいで。
 寂しい。
 とおいとおいばしょに、訳の分からない言葉と一緒に。

 赤か青か。コードを選んで切らなければいけない時限爆弾と一緒に。
 今までその場所だけを見ないように、目を逸らし続けてきたのに。
 選べと。
 生か死か。生かすか殺すかを。

 要が、保健室に寄ってきたと言い訳をして授業に戻ったのは、それから15分以上あとのことだった。


            *


 床に突き刺さった一枚のカードを呆然と眺めて、何分ぐらい経っただろう?
 原因は少し前に遡る。
 あかりが以前から興味を示していた本を、貸してあげると告げたときだ。
 きょとんと首をかしげて。
『何の話?』
 あまりに不思議そうにあかりがいうものだから。
 ほらこの間、あかりちゃんがこの本を読みたいって。
 普通なら忘れていても、それだけ言ったら思い出すだろう。
『?』
 あかりは、首をかしげたままで。
 母親に呼ばれて、またね、という挨拶を残して自分の病室へと戻っていってしまった。
 自分の勘違いだっただろうか。そう思って獅遠は記憶を手繰る。けれど一昨日。そう、たった一昨日だ。
 絵本収集や童話研究が趣味である獅遠の病室には、たくさんのその手の本が持ち込まれていた。
 ついこの間まで世界が闇に包まれていて、もちろん字など読めないあかりは。
 字の勉強をしたいから、色々と簡単な本から読んでいるのだと言った。
 それを聞いて、病室に持ち込んだはいいものの、しまいこんでいた他の作品までひっくり返して。
 その山が、病室の端に築かれているから、夢や幻ではないはずだ。

 忘れてる? こんな短期間に?
 そんなのおかしい。
 何かしていないと落ち着かなくなって、とりあえずテーブルの中にしまってあったタロットカードを引っ張り出した。
 占うわけでもない。ただカードが手の中にあれば、少し落ち着くのだ。ある意味職業病かもしれない。
 かさかさとトランプを切るようにカードを切っていたときだった。手元が狂い、ざっとカードが床に落ちた。
 やっちゃった。口の中で小さく呟く。
 どうして僕はいつもこう、要領が悪いんだろう。
 あーあ。どうしようもない。
 ぶつぶつ言いながら、カードが散らばった床を覗き込んだ。

 そして現在に至る。
 刺さるなんて。そんなのおかしい。
 しかし刺さったカードが絵柄がこちらを向いていて、息を呑んだ。

『the Tower』

―――破滅。

 ぽとんと落ちてきた、そのカードの意味に。背筋から脳天まで駆け上った寒気。
 こういうときに。当たって欲しくない勘ほど。当たってしまうものなのだ。

 しばし呆然としていると、ノックもなしに扉が開いた。
「睨むなよ」
 反射的に顔を上げそちらを見ると、ホストのような立ち方で、花束を抱えた雅が立っていた。
 ぐるりと病室を見回し、もちろん床に突き刺さったタロットも見た上で。
 雅は後ろ手にドアを閉めると、花束をぽんと獅遠の上に投げて、窓際へと行く。
「え? 雅さん……」
「獅遠お前、ペースメーカーとか、つけてないよね。いくらガラスの心臓でも」
 カーテンをまくり、その内側に入り込んでしまう雅を、呆然と見つめ、ただ獅遠はうんと頷くことしか出来なかった。
「あっ! 駄目だよ雅さん、もうすぐ検温の時間なんだから!」
 カーテンのわずかな隙間。雅が内ポケットから折りたたみ式の携帯電話を取り出すのを見咎めて、獅遠が声をひそめて警告する。
 が。
「1分で終わる。それにこの病室の外だと、どこにお前よかガラスの心臓の奴がいるか、わからないじゃん」
 勢いよく携帯を開き、もう既にダイヤル済み。携帯電話を耳に当て、雅は、子供がカーテンで遊ぶようにくるりと包まってしまった。


            *


 投げ出した子機が再び鳴り出した。
 ソファーの上で微睡んでいた一馬は、もぞもぞと動き回った末に、鳴り止まない子機を持ち上げた。
 どうしてこう、この家に電話をかけてくる相手は諦めが悪いんだ。
「成瀬ですけど」
《お前、今どこだ?》
「…………家の電話にかけておいて、どこだはないだろう」
 まだ少し眠気の取れない頭が、不満そうな声を出すよう、連絡を出した。
《あ、そうか。悪いな》
 さして悪いとも思っていないくせに。眠いとどんどん考えが卑屈になる。
《まぁいいや。これからお前、獅遠の病院まで来い》
「は?」
《この前獅遠の見舞いに来たんだろ。道は分かるな?》
「そうじゃなくて!」
 とにかく強引に話を進める。ちょっと待て。
 思わず少し大きな声を、名前も名乗らない―――声で誰かは予想はつくが―――男にぶつけてやる。
「何の用なんだよ」
《何も感じなかったのか? 獅遠を見舞いに来て》
「え?」
 寝転んでいた体を起こしてソファーに座り直す。
 受話器の向こう。雅の声が、いつもと少し違う響きをしていた。滅多に聞けない、真面目な響き。
《元々病院は重い空気を持ってるもんだけどな。何か違う。お前と同じ感じだけど、お前とは違う。もっと何か、歪んでる》
「だから何が……」
 まどろっこしい会話に苛立ちが頂点に達しそうになった瞬間。
 耳元で聞こえた言葉に、一馬は息を止めた。

―――この病院に、"夢喰い"がいるんじゃないか?


            *


 英語の教科書がない。
 明日単語のテストがあると言われて、机やカバンの中を漁ってみて。
 この間事務所に持っていったままだということに気付いた。
 少々遠回りになるが、事務所に寄って教科書を持って帰らなければ。
 要は、家とは少し離れたところにある成瀬一馬の事務所へと向かっていた。

 足取りが酷く重い。
 考えないように考えないように。そう思いながらも、頭の中で繰り返す都佳沙の言葉。

―――消すことも、出来ないわけじゃないんだよ。
―――それとも、要が本当にその"力"と共生したいって思うなら……。

 どっち? どっちだろう?
 足元のアスファルトに視線を落とし、一歩一歩踏み出すつま先を見つめては、思う。
 あっても、得だと思ったことなど一度もない。
 苦しんだことの方が多い。
 だから消そうか。

 だけどもしかしたら。この力をもっと使えるようになったら。
 何かの役に立てるかもしれない。
 カズマの役に、立てるかもしれない。
 だから……。

 先程から同じところの堂堂巡り。裏返って裏返って、結局元へ戻ってきてしまう。
 ぼんやりとしている内に、足元の視界に人の影が伸びた、と思ったら既に遅かった。
 顔をあげるまでもなくぼすりと。ものの見事に。
 要は目の前に立っていた人物にぶつかってしまった。
「あ、すみませ……」
 ん。
 が飲み込まれた。
「ああ、君」
 目の前にいた人物が、あまりに予想外だったから。見ず知らずの他人や、芸能人だったほうがまだ、自然だったかもしれない。
 どうしてこんなタイミングで、しかもこんな場所で。この人に出会うのだろう。
「高校生だったんだ? 学校の帰り?」
 まるで知り合いのように親しげに話す。眼鏡の奥の瞳が、わずかに笑みを含んでいる。
 その笑みが表す感情を、要は上手く言葉に還元することが出来なかった。
 純粋な、"好意"では決して、決してない。
 なにか、心の表面に引っかかって取れないような。表すとしたら。
 悪意だ。

「顔色が悪いけど、大丈夫?」
 心理学の"せんせい"は、馴れ馴れしくも要の肩に両手を置いて、体をかがめて顔を覗き込んだ。
 眼鏡の奥の瞳が、濃紺であることに、そのとき初めて要は気付いた。
 誰かと同じ……。その冷たい双眸。

(だけど違う)
 瞳の湛える光の、"乱暴さ"に、要は息を止めた。
 バリアを全部突き破って。強引に引き千切って。心の内側へ乱入してくる。そんな暴力。
 侵略と陵辱。
(あの時と一緒だ)
 夢か現か分からなくなる、この暴力には覚えがあった。
 "催眠"。
 視線を逸らせない。瞬きを忘れた瞳を潤そうと滲み出した涙で視界が歪んだ。目の前が、濃紺の瞳の色でいっぱいになる。
 押し寄せてくる細切れの記憶の断片が、脳裏を掠めては消えた。

―――助けて。

 尾を引いては消えてゆく悲鳴。縋るような涙。
「君は本当に、色々なものに"守られて"いるんだね。幸せだね」
「……だ」
 守られていることを強烈に知らしめるように。柔らかい言葉の中に含められた刺が容赦無く心を刺した。
 守られているばかりは嫌なのに。
 そんなの幸せじゃないのに。

「いやだ」
 口からその言葉が無造作に転がり落ちた瞬間に、タガが外れた。
 ぱらりと右目から。少し遅れて左目から頬に伝った雫が、やけに熱い。
「こんなの、嫌だ……」

 もたれかかるばかりなら。隠れているばかりなら。
 守られてるばかりなら。

 いつ棄てられたっておかしくないよ。
 もう一人は嫌なんだ。

 肩からゆっくりと外される櫛引充の両手。なくなる重み。
 失う熱。
 "いやだ"。
 足音が遠ざかる。去ってゆくのが分かる。
 片手で両目を覆って、口唇を必死に噛んで。こみ上げる嗚咽を噛み殺した。
 掌の裏に感じる涙の熱さしか、今は分からない。


 置いていかないで。


                           to be contenued……



夢喰い

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