1.あらかじめ失われた光景


 さぁ、この手を離すから。
 白い布をほどくから。
 開けた世界のその先に、一体何が。
 一体君に、何が見える?


            *


 あたり一面、真っ白だ。
 つんと、消毒液の臭いが鼻をつく。
 蛍光灯の光も青白い。あまり日の当たらない廊下は、生気を失っているように冷たい。
「ここだな」
 "匠堂(ショウドウ)"。
 少し癖のある文字で斜めに書かれた名前を確認する。
 ちらりと隣を見ると、要が借りてきた猫のように静かだ。
 あまり病院が得意では無いらしい。
 ドアを軽くノックして、「はーい」という間延びした声が返るのを確かめると、一馬はドアを開いた。
 開かれた先も、白い空間だった。
 白いカーテン、白いシーツ。唯一鉛色をしているのは、部屋に置かれているテレビぐらいか。
「獅遠(シオン)、具合は?」
 こちらに顔を向ける温厚そうな青年に、一馬は訊いた。
「あ、一馬くん。要くんも……。お見舞いに来てくれたんだね」
 ベッドの上で、匠堂獅遠はにっこりと微笑んだ。元々線の細い体が、今では可哀相なぐらい青白い。
 肩の辺りまで伸ばした淡い茶色の髪が揺れた。
「獅遠さん、こんにちは。これ、お見舞いなんですけど、花瓶ありますか?」
 一馬のあとをついておずおずと病室に入った要が、持って来た花束を見せる。
「あ、ちょっと待って、多分その近くに……」
「獅遠お前、今度の病名は胃潰瘍だって?」
 花瓶の場所を指差そうとした獅遠の体が、一馬の一言でぴしりと固まった。
「"三郎"」
「一馬くん! 本名で呼ばないでよ!!」
「このバカ!! 客に気を遣って悩んで、挙句の果てに胃潰瘍・腸ねん転その他諸々を繰り返して、占い師やっていけるのか!!」
 一馬の一喝に、匠堂獅遠(本名三郎)は、ぐっと黙り込んだ。瞳にうるうると涙を溜めている。
 実は、一馬がこの知り合いを見舞うのは、今年に入ってからもう3回目になる。
 彼もまた、雅系列の知り合いで、腕利きの星占術師だ。しかし、あまりにも気弱なため、職業的にはあまり上手くいっていない。
 毎回何かあるごとに自律神経系を崩し、入院してしまうのだ。
 今回こそは喝を入れてやろうと思って見舞いに来たのだが。
「あ、あった」
 眉間に皺を寄せて獅遠を見下ろす一馬と、一馬に睨まれて今にも泣きそうな獅遠。
 そのやり取りなどそ知らぬ顔で、要が花瓶を発見する。
「この花、花瓶に入れてきますね」
 花瓶と花束を持って、要は慌しく病室を出て行く。

 ぱたん。
 目の前で静かに閉まった、真っ白なドア。
 獅遠の視線が、吸い寄せられるようにそこに向かった。
「要くん、元気ない?」
 ぽつりと獅遠が言った。不安そうに一馬を見上げる。
「勘は超一級なのにな……」
 一馬は苦笑する。こいつはいつも、限られた情報の中から、正しいものを拾い上げる。
 何しろお前は性格がな。と付け加えて、来客用のパイプ椅子を運び出した。


             *


 蛇口をひねると、透明な水が溢れ出した。
 花瓶に水を注ぐでもなく、ぼんやりとその流れを見つめる。
 慌てて出てきたから、獅遠のいる病棟とは、少し離れてしまったようだ。
 じゃー、という音と共に止め処なく溢れる水を見つめながら、少し意識が遠退いた。

 病院自体が苦手なのではなくて。
 日常生活よりもほんの少し、生気の失われたこの空間と、それを助長するような消毒液の匂いがたまらない。
 息が詰まる。
 人々の視線がまるで、縋るように絡まりついてくるような気がして。
 それはまるで……。まるで。

 透明な流れに右手を差し入れる。そのひやりとした感覚に、ゆらゆらと揺らめいていた感覚がすっと冴えた。
「何やってるんだろ」
 苦笑して、青い花瓶に水を入れ、花束からリボンとフィルムを引き剥がす。
 ふわっとかすかに香る生花の、独特の香を感じながら、花瓶に花を生けてゆく。
 昔は、花の生けかたも、りんごの剥き方も、何ひとつ分からなかったのにな。
 この3年の間。随分とたくさんのことを学んだような気がする。
 外に出てからは。


「嘘!!」


 引き裂くような、まだ幼さの残る少女の叫びに、要はふと手を止める。
 病院特有の静寂を破ったその声は、あまりに大きく響いた。
 ちょうど背中を向けているほうの病室からのようだ。
 知らず知らずのうちに聞き耳を立てる。

「あかり……、どうしたの? 見えるんでしょう?」
「やだ……、こんなの嘘よ、こんなの……。"見えるけど見えない"……」
「あかり貴方、なに言ってるの……あ、あかり!!」

 ばたん。
 扉が荒々しく開け放たれる音を、要は背中で聞いた。
 反射的にそちらに目をやると、ピンクのパジャマ姿の同年代ぐらいの少女が、スリッパのままぱたぱたと廊下を走ってゆくのが見えた。
「あかり!!」
 そのあとを追うように病室から顔を出したのは、少し小太りの、母親らしい女性だった。
「お母さん、大丈夫です」
 泣き声にも似た母親の声とは対照的な、静かな声が割って入った。
 状況とはまるでそぐわない冷静沈着なその声音に、要は思わず相手を見る。
 黒いタートルネックのセーターに、ジーンズ姿。ラフな格好ながら均等の取れた体は目立った。
 柔らかそうなこげ茶の髪に、薄い眼鏡をかけたその男が、母親を押しとどめた。
「僕が追いますね」
「せんせい……」
 母親の口から喘ぐような、縋るような言葉が漏れた。
 "せんせい"?
 あまりにもその人物に不似合いな単語だった。
 何故か分からない。そう"感じた"。
「大丈夫。僕に任せてください」
 柔らかい笑みを浮かべて、男は母親の肩を叩いた。
 無遠慮に見つめてしまった視線に気付いたのか、要のほうへ視線を寄越す。
 自分の瞳と絡んだ、青みがかったその双眸は……、誰かに似てる。
 男は、要に向かってふっと微笑むと、駆け出した。
 豹のようだと思った。


            *


 ひかり。
 一体どんな色で、一体どんな形なのだろう。
 形なんてないって、先生は言った。
 感じるんだって。
 私やっと、光を感じられると。
 自分を感じられると、信じていたのに。


(嘘だ)
 ぱたぱたと、足元で鳴る渇いたスリッパの音だけが響いている。
 かべ、とびら、ひと。
 今まで一切の闇に閉ざされていた視界に、光と共にそれらは在るのに。
 鏡の前を目を伏せて通り抜けた。
(嘘だ、こんなの)
 顔の周りで揺れる、二つに揺った髪の感触。
 なのに。

「獅遠、ちょっと俺は要を探してくるから」
 耳に飛び込んできた固有名詞に、足が止まった。
 少し前の扉が開き、黒いスーツの男の人が出てくるのが見える。
 彼が口にした固有名詞の中に……。

「獅遠さん!!」
 気がついたら、その男の人を押しのけて、病室に駆け込んでいた。
 体に絡まりついていた包帯が、ぱさりと床に落ちた。
 "初めて見る"匠堂獅遠は、想像とあまり変わらなかった。柔らかそうな髪に線の細いからだ。
 優しそうな空気もそのまま。
 何故か、今まで流れなかった涙が頬を伝って落ちた。
 足元に視線を移すと、その水滴が見えた。水滴は見えた。
 ベッドまで辿り着くと、へなへなと床に座りこんだ。
 ぺたりと、床が冷たい。
「あ、あかりちゃん!? 包帯が取れたの? じゃあ目…………」
「……獅遠さん、あたしが見える?」
「え? どうしたの? ちゃんと見えるよ。あかりちゃん、ここに一人で来れたってことは、見えるんだよね?」
「獅遠さん、占ってくれたよね? あたしの目、ちゃんと、ちゃんと見えるようになるって……」
 一馬は呆然と、ピンクのパジャマ姿の少女が獅遠と会話しているのを見ていた。
 勢いに押され、口すら挟めずに。
 そして何より、空気が淀んでいる気がした。
 ただの直感。
「見えるんだろ? あかりちゃんここまで、走ってきたんだから」
 その足取りに迷いはなかった。それで見えないはずがない。
「見えるの。ひとも、かべも、これが"点滴"っていうものでしょう?」
 あかりの手が、ベッドの傍らにある点滴のバーを握った。
「白衣を着ているのが看護婦さんでしょう? 全部見えるの。獅遠さんも見える」
 あかりの答えに獅遠がほっと胸をなでおろそうとしたのも束の間。
 あかりの瞳から、大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「見えないよ……」
 嗚咽で上擦った声が、上手く言葉にならない。
「見えないんだよ」
 白いシーツに突っ伏して、あかりが泣きじゃくった。

「あたし、自分が見えないよぉ……」

 体の横で跳ねているはずの、みつあみにした長い髪も。
 足元に落とした視点で見えるはずの下半身も。
 こうやって、目の下に当てている両の手すら。
 何ひとつ。

 自分を形作るものの形が見えない。

「あ、あかりちゃん…………」
「ここにいたんだね」
 獅遠が、どう声をかけようか躊躇っていると、新たな人影が病室に入り込んできた。
「櫛引(クシビキ)……さん」
 顔を上げて、来訪者を見た獅遠の口から、相手の名前が漏れた。
「せんせい……」
 突っ伏した顔を持ち上げ、ドアの方を見つめたあかりの口唇から、縋るような声が漏れる。
「急に飛び出したりして、びっくりさせないで」
 心底ほっとしたように溜息をついて、櫛引と呼ばれた男はゆっくりとあかりの傍へ近づいた。
「さぁ、戻ろう。僕が話を聞くから」
「せんせぃ……」
 櫛引の手があかりを引き上げた。あかりは両の手を伸ばして、櫛引の腰に縋りついた。
 その背中をいとおしそうに撫でてやりながら櫛引は、獅遠と一馬に丁寧に頭を下げた。

「カズマ、何かあったの……」
 青い花瓶に色とりどりの花を生け、それを両手で抱えるようにして戻ってきた要が、扉のところで立ち尽くしている一馬に訊いた。
 が、開いた扉から室内を見て、黙った。
「ごめんね、騒がしくしてしまって」
 先程見た男だ。花瓶を抱えたまま、要はそう思うのが精一杯だった。
 櫛引は、要のほうを向いて苦笑してみせる。
 何処までも温和で、何処までも優しそうな。
「戻ろう」
 泣きじゃくるあかりを宥めながら、櫛引は獅遠の病室を後にした。


            *


「押切(オシギリ)あかりちゃん、15歳。生まれつき目に障害があって、暗闇の中で生きてきたんだ。網膜提供者が見つかって、手術のために入院してたんだ。占いが珍しいらしくて、いろいろ話をしてたんだけど……。手術自体は何も心配のない簡単なものだったらしいんだけど……」
 憂鬱そうに話す獅遠は、きりきりと胃が痛むのか、腹部を押さえている。
 こういうとき、一馬は、この男は実は内気なのではなくて、人の感情に敏感なだけなのでは無いかと思う。
 そう。この隣に座る少年のように。
 他人と自分との境界が、普通の人よりも曖昧。
 他人の感情の本流を、直接受け入れる。
 その心は脆くて、綺麗。
 ……かといって、毎回毎回胃を壊していいというわけでは無いが。
「"自分が見えない"って、どういうことなんだろう……」
 視覚は回復している。それはまごう事のない事実だろう。
 ここまで一人で辿り着いた。それだけで証拠は十分だ。手術は成功している。
「彼女を連れ戻しに来た人は?」
「櫛引さんっていう、カウンセラーだよ。心理学の方の。数年前から彼女の話し相手になっているみたい。僕はあんまり、得意じゃないけど」
「なんでだ?」
「物凄く頭がいいんだって、雰囲気からしてにじみ出てる。だからちょっと……」
 僕は専門的な知識以外、あんまり頭はよくないからね。へら、と獅遠が情けないように苦笑する。

 こんこん。指の骨の尖ったところで軽く何度か叩かれた扉。
 獅遠が返事を返すと、中年の看護婦が体温計を片手に入ってきた。
「匠堂さん、検温の時間です。……それと申し訳ないんですが、そろそろ面会時間が終りますので」
「そうですか、ご心配なく。今引き上げますから」
 温和でも有無を言わせない看護婦の口調に、一馬は立ち上がり、パイプ椅子を片付けた。
「じゃあ、獅遠。またそのうち来る」
「お大事に」
「うん、今日はありがとう」
 にっこりと笑う獅遠に、こちらも笑顔を返して、二人は病室を出た。
 憎めない奴だな。いつもそう思う。


「ねぇカズマ」
 一階へ向かうエレベーターの中で、要が話し掛けてきた。
 視線を向けると、いつもより数段元気のない瞳が見上げてくる。
「自分が見えないのって、やっぱり精神の方なのかな」
「多分ね」
「カズマの領域じゃないの?」
「いや」
「どうして?」
「夢喰いの力を使わないことが、人にとっては一番いいんだよ。俺の力は、結局荒療治だから」
 自然治癒を超えて、特殊な力を用いて。その分の副作用も確実に存在する。
 いい方法では無い。
 出来ることなら、この力を全く使わずに生きていきたいのだ。
 自分の才能として、能力として、愛しく思えるものでは無い。

―――要らない。

「カズマ?」
 不意に蘇った、あの頃の自分の声。泣き声と叫びの混じった、悲鳴。
 不安そうに呼びかける要の声で、現実に引き戻された。
「……なんでもない。それより要、やけに彼女のことを気にするんだな? 一目惚れか?」
「違うよっ!!」
 重苦しい雰囲気を振り払おうと、わざとおどけて見せると、要がムキになって否定した。
 作戦は成功。のはずだった。
「カズマこそ、寂しくないの? もういい年なんだし。彼女の一人もいないじゃないか」
 予想だにしない切り返しに、一馬は呆気に取られて黙ってしまった。
 要は要で、痛いところを突いてしまったのかと、少し後悔する。
 口には出さないが、要はこの保護者をそれなりに美丈夫だと思っている。
 黒い髪に少し青みがかった漆黒の瞳も。均等の取れた体躯も。
 それなのに、彼は全く異性に興味を示すそぶりもない。
「いいんだよ」
 ちーん、と音を立てて、エレベーターが一階に辿り着いた。
 ドアが開くと、外来特有のある種のざわめきが押し寄せてきて、静かな一馬の言葉を拾うのには一苦労だった。
「俺は別に、結婚するつもりは無いし。何より……」
 要を先にエレベーターから出した一馬は、ポケットの中の車のキーを確かめながら、一度切った言葉を繋げた。

「成瀬の血を伝えるつもりは無い」

(え……)
 冷たく重いその言葉に、要の足は根が生えたようにそこに止まってしまった。
 言葉とは、たった一言で人を震え上がらせることが出来るものなのか。
 ぞくりと背筋を這い上がった悪寒に、要は身震いをした。
「どうした、行くぞ」
 少し先で、要がついてこないことに気付いた一馬が、肩越しに振り返って促す。
「あ、うん」
 凍りついた足を無理矢理に動かして、要は一馬の後を追った。

 追いついてくる要の足音を背中で感じながら、一馬は口元に自嘲を浮かべた。
 どうしてあんなことを、要に告げたのだろう。
 彼の心が感じやすいことぐらい、自分が一番知っているはずなのに。
 わざわざ抉るようなことを。

 羨ましい。
 先程、獅遠に感じた感情は、要にも共通する。
 人の心を敏感に感じ取り同調し、その痛みを知ることが出来る。
(俺は……)
 隣に並んだ要が、怯えたように見上げてくる。
 くしゃりと、栗色の猫毛を乱暴に撫でてやると、要は泣きそうな顔を歪めて、笑った。

―――俺は卑怯者だ。


            *


「せんせい、あたし、"居る"の?」
 中庭に出たところで、耳に飛び込んできた聞き覚えのある声に、要はふと、足を止めた。
 その様子に、一馬も立ち止まる。
 近くのベンチに、見覚えのあるピンクのパジャマに白いカーディガンを羽織って座っているのは、間違いなく押切あかりだった。
 その傍に立ち、あかりを見下ろしているのが、例の「せんせい」。確か櫛引と言ったか。
 ぼんやりと二人を見つめていると、また、櫛引のほうが視線に気付いた。
 あ、と小さく呟き、近づいてくる。
「先程はお騒がせしました」
 二人の前まで来ると、櫛引は丁寧に頭を下げてそう言った。
 人当たりのよさそうな笑顔だ。
「もう、落ち着いたんですか?」
 訊いたのは一馬だった。
 何故か、要が構えてしまって、硬くなっているのが見て取れたからだった。
「ええ。一時的なものだと思います。これから彼女の話を色々聞くつもりです。申し遅れました。私は心理カウンセラーの櫛引充と言います。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「せんせい」
 後ろから、不安そうなあかりの声が櫛引を呼ぶ。
「あ、それでは失礼します」
 再び丁寧に頭を下げ、櫛引は踵を返した。
 つられるように会釈を返し、一馬は、嵐が過ぎ去ったような気分になっていた。
「ねぇカズマ」
 あかりの元に戻る櫛引の背中を見つめたまま、要は硬い表情を崩さない。
「あの人、今、僕たちに名前を名乗る必要なんて、あったのかな」
「そう言えば」
 言われてみれば不自然だ。自己紹介をしあったところで、これから再び会う機会があるかも分からないのに。
 謝罪だけにしては、いささかおかしいと言っても過言ではなかった。
 しかし、一馬が気になったのは、むしろ要のほうだった。
 まるで毛を逆立てて相手を威嚇する猫のように、まとう雰囲気が刺々しい。
「ほら、気にするな。帰るぞ」
 立ち止まったままの要の肩を軽く叩いて、一馬は歩き出した。
 足取りは重いものの、要もなんとかついてくる。

(しかし……)
 一馬は一馬で、引っかかるものがないわけではなかった。
 しかしそれは要とは別な事柄で。
("櫛引"……、どこかで…………)
 聞いた覚えがあるような。
 妙な既視感に首をひねる。しかし、元々は楽観主義の一馬だ。少し悩んだあと、気のせいだろうと片付けた。

 あまり気にしてもしょうがない。
 同じ苗字など、巷に溢れ返っているものなのだ。



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